グレレゴリイ夫人の伝説によると、むかしゲエル人の先住民ダナ人らがアイルランドに渡つて来た時には、大ぞらの空気の中を通つて霧に乗つて来たさうである。ダナ人は北の方から来たと書いてあるが、その北の方に四つの都市があつた。まづ大きな市ファリアス、それから光りかがやくゴリアスとフィニアス、ずうつと南の方にムリアスがあつた。ダナ人はその四つの市から四つの宝を持つて来た。まづファリアスからはリア・フエールと名づけられた「運命の石」。ゴリアスからは一本の剣。フィニアスからは「勝利の槍」。ムリアスからは大きな鍋、その鍋があれば、いかほど大勢の人数にも充分たべさせ得られた。さう書いてあつても、そのふるさとの市は北の方にあるとだけしか分らない。
 その四つの市についてフィオナ・マクラオドの随筆では、むかし、イデンの園の四方にゴリアス、ファリアス、フィニアス、ムリアスの市があつた。そのころイデンは天使らと地の娘たちとの子孫で繁昌してゐた。あの美と悲しみの女イヴがまだ生まれてはゐない時分で、霊をもたないリリスの娘らはみる目美しく花のやうであつたが、花のやうに枯れて死んでしまへば、それきりであつた。その時アダムはまだイデンの園から起き出してはゐなかつた。
 フィニアスの市はイデンの南の方の門で、ムリアスは西の門であつた。北にはファリアスが一つの大きな星を冠つて立つてゐた。東の方に宝石の市ゴリアスが日の出の如き光を輝かせてゐた。その光の市では死を知らない天の人たちがリリスの子供である地上の女たちと愛し合つてゐた。アダムが神の御名を呼んで世界の王となつたその日、西と東と北と南のその市々に大きな溜息がきこえて、朝が来ても地の娘たちは天上の恋人たちの朝日にひかる翼のうごきにももう目を覚さなかつた。天住民はそれきりイデンに来なくなつた。アダムの側にイヴが目をさまして、とこしへの不思議を湛へた眼でアダムを見た時、黄昏たそがれの嘆きと告別の声が市々にきこえてゐた、海ぎしのムリアスに、高山の嶺に立つゴリアスに、ひそかな静かな園のファリアスに、月光が槍のやうに射す平野のフィニアスに。かうしてリリスの娘らは塵のやうに、露のやうに、影のやうに、枯葉のやうに過ぎ去つて、四つの無人の市々ができたのである。
 アダムは立ち上がり、イヴに住む人のないその四つの市々を見て歩き、世界の四つの古い秘密を探して持つて来るやうにと言つた。イヴは先づゴリアスに行つてみたが、そこには何もなくただ火が燃えてゐた。イヴはその火焔を採つて自分の心に隠した。昼ごろイヴはフィニアスに来た。そこには白く光る槍があつた。彼女はそれを自分の頭脳あたまに隠した。夕がた彼女はファリアスに来たが、暗黒くらやみの中に輝く一つの星が見えただけだつた。イヴはその暗黒くらやみ暗黒くらやみの中の星を自分の腹に隠した。月ののぼる頃イヴは大洋の岸のムリアスに来た。そこには何もなく、ただ波の上にさまよふ光が見えた。イヴは屈んで海の波をすくつて自分の血の中に隠して、アダムの所に帰つて来た。彼女はゴリアスで見つけた火焔とフィニアスで見つけた白い光の槍をアダムにやつた。「ファリアスでは、あなたに上げられないものを取つて来たのですが、私が隠して持つて来た暗黒くらやみはあなたの暗黒くらやみで、私の星はあなたの星になるのでせう」とイヴが言つた。「海のそばのムリアスでは何を見つけた?」「なにもありませんでした」とイヴは言つたが、彼女が嘘を言つてることがアダムには分つた。「私はさまよふ光を見ましたけれど」と彼女がつけ加へた。アダムは溜息して、それを信じた。イヴは海の波を自分の血の中に隠したきりで、それは出さなかつた。それからの世界の女たちが、無数の女たちが、家もなく波のやうにたよりなく生きてゐるのである。女が代々よよに受け嗣ぐものは海の波のやうに塩からい。あるものは血の中に海の塩を交ぜてしづめがたい煩悶もだえをもち、或るものの心にはたえず波が立ち、また或るものは家を捨ててさまよひ、さまよひ、一生を終る。世界の母イヴから世界の女といふ女に永久に伝へられた遺産である。
 かういふ伝説をまるのみにして書いて見たところで、その大古の四つの市々はいまの私たちにはひどく遠い無縁のものである。しかし、無縁といふ言葉が当てはまるのかしら? 何かの好奇心か興味が私にこの四つの市の伝説を思ひ出させたのかもしれない。

底本:「燈火節」月曜社
   2004(平成16)年11月30日第1刷発行
底本の親本:「燈火節」暮しの手帖社
   1953(昭和28)年6月
入力:竹内美佐子
校正:伊藤時也
2010年10月14日作成
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