聖書の中にあるイエス・キリストやお弟子たちの話が、人の口から耳へ、思ひもかけない遠くの国に伝へられて、その国のキリストやペテロの話になつてゐることもある。これはアイルランドの民話で、ユダヤ、サマリヤ、ガリラヤの国々がすぐ彼等の村々に続いてゐるやうにも聞える話である。
 イエス・キリストがガリラヤのうみのほとりや野はらや町を歩かれた時、いつも十二人の弟子がみんなで従いて歩いたわけではなかつた。さてこれはイエスがペテロ一人だけ連れてゆかれた時の話。
 或る日イエスはペテロをつれてガリラヤの湖のそばの山路をゆかれた。日のしづみかけてゐる路傍に老人の乞食がゐた。やぶれた帽子、よごれた服、ひもじさうな眼つきで、通りすぎる二人に恵みをもとめたのである。ペテロはその時ぽつちりばかりの小銭こぜにしか持つてゐなかつたが、イエスがどうなさるかと思つてそちらを見ると、イエスはたいそう真面目な顔をして何もやらずに通りすぎてしまつた。かはいさうに、乞食はひもじさうに震へてゐるのにと思つたが、イエスのなさる事だからペテロも黙つてとほり過ぎた。
 その翌日おなじ道を帰つてくると、こんどは山賊に出会つた。山賊は瘠せて物すごい顔をして、腰には抜身の剣をさしてゐた。彼はひどく空腹だから何かたべる物を下さいと言つた。ばかな山賊だな、われわれは何も持つてゐやしないのにとペテロが思つてゐると、ふしぎにもイエスはこの男に金を恵んでやつた。「先生、きのふの年寄の乞食には何もやりなさらないのに、なぜあの山賊に金をおやりになつたのです? こちらは二人ですから恐れることはないのです、私は剣を持つてゐますし、あの男は私よりも背がひくかつたです」ペテロはさう言つて抗議した。
「ペテロよ、お前はそとに見えてゐるものだけを見る、しかし内なるものを見、物の裏面を見なければいけない。きのふと今日の私のやり方も遠からずわかる時が来る」とイエスが言はれた。
 その後しばらく日かずが経つて、イエスとペテロは山みちを歩いて道に迷つてしまつた。どちらを見ても荒つぽい岩山ばかりで何もない。二人はあるいて歩いてひどくひもじくなり、水が飲みたくてたまらなくなつた。そのうち、雨が降り出し稲妻はぴかぴか光るし、ペテロは動けなくなつた。すると向うのまがりかどから一人の男が歩いて来た。いつぞやの山賊だつた。彼は二人を見て「これは、これは、お二人ともお困りでございませう」と言つて自分の住家としてゐる洞穴ほらあなに案内してくれた。
 山賊は火をたき、酒を出しパンを出し、自分の持つてゐる物は惜しげもなくみんな出して二人をもてなし、新しい藁を出して寝床に敷き、きれいに洗つてある自分の着物を二人に着せて、そのあひだに二人のぬれた着物を火で乾かしたりした。その翌日は途中で二人のたべる弁当も持たせて、道に迷はないやうに中途まで送つて来てくれたのである。ペテロはすつかり感心して、この山賊は世間の善人よりはずつとずつと善人だと思つて別れた。
 山賊と別れて一時間ばかり歩いてゐると、一人の男が道に倒れて死んでゐた。なんとそれは、あの年寄の乞食であつた。「かはいさうに、先だつて何か食ふものをやればよかつた。寒いのとひもじいので死んだのでせう」とペテロがいふと、「その男が何を持つてゐるか懐中をさがしてみろ」とイエスが言つた。乞食の懐中奥ふかく銀の小銭こぜにがたくさんあり、金貨が二十枚あつた。
「なるほど、こいつは嘘つきですね、もうこれから先生のなさることを疑ひません」とペテロはすつかり驚いてしまつた。「ペテロよ、その金貨をもつて行つて向うの湖水に捨ててしまひなさい。人が拾ふことが出来ないやうにするのだ。かねといふものはとかく災のもとだから」
 ペテロはイエスの言葉どほり乞食の金銀をまとめて、そこの草原を越して湖水に捨てに行つたが、ゆきながら考へた、こんな立派な金貨を水の中に捨てるなんて罪だ。われわれはひもじいこともあるし、寒いこともある。何といつてもかねかねだ。金貨だけしまつて置いて先生のために使ふことにしよう。先生は御自分のことはまるつきり構はない方なのだから。ペテロは銀貨だけしやぶじやぶと湖水に投げこんで罪のない顔をしてもどつて来た。
 そのあひだイエスは四方よもの景色を見てぼんやりしてゐたが、ペテロを見ると「みんな捨てたか?」ときいた。「捨てました。ただ金貨を二三枚だけ残しました。われわれの懐中ふところももう殆ど空つぽですから、何かのやくに立つかと思ひます。しかし、それもみんな捨てると仰しやるなら、もちろん、みんな捨てて来ます」
「ああ、ペテロよ、ペテロよ、お前は私の言葉に従ふべきだつた。お前は欲が深いな。おそらく一生がい貪欲で終るのだらう」
 イエスのその言葉のごとくペテロは貪欲で、ペテロの宗派をつぐ代々よよのひじりたちの中にも、ペテロの如くきんを愛する人が多いといはれてゐる。

底本:「燈火節」月曜社
   2004(平成16)年11月30日第1刷発行
底本の親本:「燈火節」暮しの手帖社
   1953(昭和28)年6月
入力:竹内美佐子
校正:伊藤時也
2010年10月14日作成
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