静かな深い憂愁ゆうしゅうが、ロシア十九世紀文学の特質を成していることは、今さら言うまでもなく周知の事実です。しかしその憂愁のあらわれは、それぞれの作家において、本質的にも色合いの上からも、微妙びみょうな差異を示しています。デンマークの文芸批評家ゲオルグ・ブランデスは、その点にれて、次のような簡明ではあるが味わいの深い評語を、のこしています。――「ツルゲーネフの悲哀ひあいは、そのやわらかみと悲劇性のすがたにおいて、本質的にスラヴ民族の憂愁であり、スラヴ民謡みんようのあの憂愁に、じかにつながっている。……ゴーゴリの憂愁は、絶望に根ざしている。ドストエーフスキイが同じ感情を表白するのは、しいたげられた人々、とりわけ大いなる罪びとに対する同情の念が、かれの胸にみなぎる時である。トルストイの憂愁は、宗教的な宿命観にもとづいている。そのなかにあって、ツルゲーネフのみが哲人てつじんである。……彼は人間を愛する。よしんばそれが、あまり感服できぬ人間で、たいして信用のおけぬ場合でも、やはり彼は人間を愛するのだ」
 つまり、ツルゲーネフの憂愁は、「哲人的な」憂愁であったということで、そこから、彼の一見ひややかにさえ見える詩的なリアリズムも、ほろ交替こうたいしゆく者にたいする抒情的じょじょうてきな愛も、おのずから説明がつくわけです。そういう点から言うと、ツルゲーネフに最も近いロシア作家は、十九世紀末に現われたチェーホフであると言えるのですが、この比較ひかくは一応それとして、彼らの憂愁が一体どこに根ざし、どういうところから特異な形成をげたかが、ここでは問題になるでしょう。
 チェーホフの場合は、一口に言って、その深い信条であった生物進化論に、説明の第一だいいち根拠こんきょが見いだせるように私は思うのですが、ツルゲーネフの場合はどうでしょう。彼はもちろん医者でもなく、自然科学者でもなかったが、その思想的な立場から言えば、青年時代から晩年に至るまで、終始かわらぬ西ヨーロッパ的知性の確固たる信奉者しんぽうしゃ――いわゆる西欧派せいおうはであったのです。彼はこの西欧派的な開かれたをもって、ロシアの現実の蒙昧もうまい暗愚あんぐと暴圧とを、残るくまなく見きわめ見通し、そこに絶望と期待とが微妙に混り合った彼独特の詩的リアリズムの世界が展開されたのでした。
 こういうふうにながめてくると、ツルゲーネフの憂愁なるものの性質も、またその憂愁にもかかわらず彼が終生変らぬ毅然きぜんたる進歩的信念の持主であった所以ゆえんも、ほぼうなずかれるはずですが、なおその上にもう一つ、彼の詩的人生観に一層の深まりや柔軟じゅうなん屈折くっせつあたえたものとして、彼の生れや育ちの事情も忘れてはなりますまい。イヴァン・セルゲーヴィチ・ツルゲーネフ(I. S. Turgenev)は、一八一八年の秋、モスクワ南方の母方の領地で生れました。つまりロシア社会史の推移の上から見ると、あたかも地主貴族文化がようやく崩壊ほうかいし始めた時期に、彼は最も大切な精神の形成期を、ほかならぬ貴族の子弟として迎えたことになります。その運命的な契合けいごうは、ツルゲーネフの人生観の上にも作風の上にも、消しがたい烙印らくいんしています。彼が、くずれゆく、荘園しょうえん貴族文化の最後の典型的な歌い手と呼ばれる所以は、じつにそこにあります。このことは、『猟人日記りょうじんにっき』(一八四七―五二)に始まって、『ルージン』(一八五五)、『貴族の』(一八五八)、『その前夜』(一八五九)、『父と子』(一八六一)、『けむり』(一八六七)、『処女地』(一八七一)と続く彼の代表作の系列の中にも、もちろんその時代々々のニュアンスによる心境の推移からくる種々転調はあるものの、一貫いっかんして感じとられる重要な一筋の脈を成しています。
 しかも、さらに立ち入って眺めると、一口に没落期ぼつらくきの貴族文化の最後の歌い手とは言っても、ツルゲーネフ個人にとっての生家の事情は、すこぶる特異でもあり奇怪きかいでもあるものでした。母親ヴァルヴァーラは三十五さいで初めて結婚けっこんした、気丈きじょうでヒステリックで野性的な、いわば典型的なロシアの女地主でした。これに反して父セルゲイ・ツルゲーネフは、貴族とは名ばかりの、ほとんど破産にひんしたいち騎兵大佐きへいたいさにすぎず、母よりも六つも年下であるばかりか、その性格も冷やかで、弱気で優柔ゆうじゅうで、おまけにすこぶる女好きな伊達者だてしゃであったと伝えられています。この女暴君と伊達者との間に生れたのが、イヴァン・ツルゲーネフだったのです。
 そうした血統上の痕跡こんせきは、何よりも雄弁ゆうべんにツルゲーネフの生活(彼は一生涯いっしょうがい独身で押し通しました)が物語っているのですが、文芸作品の面から言うと、ここに訳出した短編『はつ恋』に、最もあざやかに現われていると言えます。これは一八六〇年の作で、すなわち『その前夜』と『父と子』の間に位し、ツルゲーネフ中期の円熟した筆で書かれた作品ですが、そこにあざやかにえがき出された一少年の不思議な「はつ恋」の体験のいきさつは、その底に作者自身の一生を支配した宿命的なのろいの裏づけがあることを知るにおよんで、一層不気味な迫力はくりょくを帯びてくるのを感じずにはいられません。いわばそこには、不気味な美があります。「男は弱く、女は強い。そして偶然ぐうぜんが、全能の力をもっている」とは、晩年近い作『けむり』の中に見える言葉ですが、このような苦渋くじゅうな哲学が早くも少年時代の彼の中に芽ばえなければならなかったことを、『はつ恋』一編はありありと示しています。そこにこの作品の最も大きな特色があると言えましょう。
 ツルゲーネフは一八八三年の夏、パリの郊外こうがいくなりました。その死後やがて七十周年になるわけです。
(一九五二年晩秋)

底本:「はつ恋」新潮文庫、新潮社
   1952(昭和27)年12月25日発行
   1986(昭和62)年1月30日73刷改版
   1988(昭和63)年5月20日79刷
入力:蒋龍
校正:noriko saito
2010年1月20日作成
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