史記が出來てから、その次の代に、史記の後を繼いで出來たものは漢書であるが、この兩者の間に出來た差異の一つは、史記が通史であるのに對して漢書が斷代史であるといふことである。その後の歴史を作る人、殊に支那で正史として取扱はれた歴史を作る人は、編纂の便利であるといふ點から、皆な漢書に倣つて斷代史を作り、史記に倣ふものはしばらくなかつた。これは後に問題になり、歴史は通史に書くべきものであつて、斷代史は眞の歴史の體でないといふ論が出たが、それは南宋の時のことであつて、それまでは史論家も斷代史に贊成するといふ風であつた。
 次に史記漢書以後、漸次歴史の種類も増加して來た。史記が出來て間もない時代に、劉向・劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)が、あらゆる書籍の目録を作つた。この目録は、今日では漢書の藝文志に載つてゐるが、それを見ても、この頃にはまだ書籍目録の中に史部といふ部はなかつた位であるが、その後、唐の初めに隋書の經籍志を作つた時までに歴史の種類が増加し、史部といふ部類も出來、隋書經籍志は史部を正史・古史・雜史・覇史・起居注・舊事・職官・儀注・刑法・雜傳・地理・譜系・簿録に分つてゐる。經籍志は全體の書籍を經・史・子・集の四部に分けてゐるが、史部はその中の大きな一部を占めてゐるのである。この後今日に至るまで、書目の分類は大體これが手本になつてゐる。右の中の正史は斷代に一朝一朝のことを記した歴史。古史は編年史。雜史は正史にも古史にも入らぬ特別の事柄につき勝手に記したもの。覇史は南北朝の頃色々の國があつて、各※(二の字点、1-2-22)歴史があり、正統の朝と認めないもの故かくいふ。起居注は天子の側近の日記。舊事は儀注に似てゐるが、儀式に關する古よりのしきたりを記したもの。職官は官制に關するもの。儀注は現在行はれてゐる儀式の次第書き。之に對して舊事は、儀注の來歴を記したもの。刑法は法律。雜傳は傳記又は特別の事柄の記録。簿録は目録の學問である。かかる區別の立つ程に、漢より唐までの間に、歴史の體裁は複雜に發達したのである。これに從つてその内容や編纂方法にも變化があつた。
 初め史記・漢書・三國志の間は、歴史を書く方法として、材料の取扱ひ方に一定の主義があつた。それは多く材料をそのまま歴史に書き込む方法である。もつとも材料をそのまま取り入れると云つても、皆な當時としては正確と思はれるものを取るのである。その中で、史記の如きは、今日から見れば傳説が大部分を占めて居つて、正確と云はれぬこともある。しかしその正確でないといふことは、今日の材料の取扱ひ方からして、それを史實として取扱はうといふ考から云ふことである。中古に文書が完全になつてからは、史實の取扱ひ方は易いことであるが、全く文書のない時代、口説で傳へられてゐた時代のことは、その口説を全く棄ててしまふと、史實が失はれるから、口説の中より正しいと思はれるものを取るより外はない。故に史記はそれを取るについて、雅馴といふことを主として取つた。これは傳説時代の歴史の取扱ひ方としては已むを得ぬ所である。ともかく史記はかくして出來たが、史記以外の漢書・三國志は、材料を取るのに、なるだけ原文をその儘存した。原文をいくらか書き改めるやり方は、范曄の後漢書から始まる。これは一つは材料が時代とともに増加するに拘らず、それを歴史に編纂する時に、從前の歴史と大差のない分量にしようとする爲めに、自然に簡單に省略する必要を生じた點もあり、一つは范曄の如き人は自分が名文家であるところから、なるべく己れの歴史を名文に仕上げようとする所から書き改めたといふこともある。今一つは范曄の頃には、その前に已に幾つかの編纂された歴史があつて、直ちに根本史料から編せずして、一度編纂されたものを再編した爲めに、段々文章を書き改めたといふこともある。當時でも根本史料から書いた沈約の宋書などは、割合に原文を書き改めずに書いてゐる。ともかくこの原文を書き改めるといふことが、已に歴史の編纂法に生じた一つの變化であるが、それが最も甚だしく現はれたのは、唐の初めに、唐の太宗の命によつて晉書を作つた時である。この時には、その前に已に十八家の晉書があり、それを寄せ集めて編纂したので、ますます原文とは遠いものとなつた。それと殆ど同時代に、李延壽の南北史が出來たが、これは南北朝の間に出來た多くの歴史を、益※(二の字点、1-2-22)簡略にせんとした爲め、益※(二の字点、1-2-22)原文から遠ざかつた。かかることで段々と原文を守らぬ風に變化したが、殊に南北朝では、あらゆる文章は皆な駢體であつたのを、南北史の頃からは、この原文の駢體を直して古文に近からしめた。しかしそれでもなほ唐代は駢文の時代であり、五代に出來た舊唐書などは、まだよほどこの體を守つて書いてゐるが、宋代になつて宋祁・歐陽修の二人が新唐書を書いた時になると、非常に原文を改めた。宋祁は自分が古文が好きで駢體文を嫌つたので、唐代の文章を取り入れるのに、駢文を散文に改めた。かくてあまりに原文より遠ざかり、殆ど讀めない處までも生ずるに至つた。これが當時の歴史の風となり、新唐書の後に間もなく司馬光が資治通鑑を作つたが、これは歴史の材料としては、新唐書から取ることを嫌ひ、舊唐書の方を取つたが、歴史の書き方は新唐書の體裁に近いものにするの外はなかつた。これは一つは支那人が簡潔に文章を書くのが文章上手だと考へる風からも來て居つて、原文に遠いものを歴史に書いて滿足することになつたのである。
 その他でなほ著しい變化の起つたことは、唐までは歴史の著述は大體私の著で、一家の學として出來たものであつたのが、唐の時からそれが多數の人を集めて編纂することになつたことである。史記を書いた時は、司馬談・司馬遷父子二代つづいて史官の職にあり、史記は史官の家の著述として出來た。漢書は班固の父彪が史記に續けて書かうとの考があつて、段々書いて來たことを、班固が續けて書き、更にその足らぬ處を妹の班昭が補つた。それで家に口傳の如きものがあつて、當時の人は、漢書の分らぬ處を班昭に就いて聞いたと云ふ。その後六朝までの史家は、多く父子相續して史學をやつた。梁書・陳書を作つたのは姚察・姚思廉の父子であり、北齊書を作つたのは李徳林・李百藥父子、南北史は李大師・李延壽父子で作つた如きがさうである。かくの如く二代續かぬ家でも、皆一家の著述であつた。故に歴史を書くに皆己れの考があつて、その主張によつて書くので、歴史の論斷に骨を折つた。史記や漢書の如く、編纂者の自敍があつて、著述の趣旨を述べたのは勿論、自敍のないものでも、皆己れ一家の見識があつて書いたのである。それが全く頽れたのは唐の太宗の時の晉書からである。晉書には何の主張もなく、專門の史家のみを集めて作つたのでもなく、多くの學者文人を集めて、歴史を分纂法でやつた。當時出來た隋書も同じ方法で出來、當時より分纂法が行はれた。故にそれを統一させる爲めには序例を作ることが必要となり、編纂者の中の主もな人が序例を作り、之によつて各自が分纂するのである。さうなると、各自がただ序例に機械的に從つて書くので、一代の歴史について特別に自分が感じた所を書くのでもなく、編纂者が特別に能力を發揮するのでもなく、歴史編纂の精神を失つた。
 一方では歴史の編纂が役所の仕事となつた爲め、名義上の監修國史が出來た。これは大體唐あたりでは、歴史を作る職としては、祕書省に著作の官があつたが、その職も段々後になつて天子に直接した役所に引きつけられ、史家が勝手に褒貶をすることが出來なくなり、その上に監修國史といふものが出來、これは實際の歴史編纂には無關係な大官が名のみを列することになり、著述の責任なき人が主もな處に名を出したのであつて、益※(二の字点、1-2-22)歴史がただの役所の仕事となり、史官の精神が入らなくなつた。このやうな點が唐までの主もな變化である。
 歴史編纂の方法が變るとともに、その意味も變化した。司馬遷の時は、歴史の編纂は、之によつて一家言を立て、自分の創作とするつもりがあつたのが、後にはその意味が變つて、人のものを編纂することになつた。殊に史記には八書があり、これは後の志に當るが、この史記の八書を作る意味と、漢書以後の志を作る意味とは異なつてゐる。八書は禮樂制度等を書くにしても、その儀式とか典禮とか定まつた事實に關することは書かない。それは役所に記録があるからそれに任せ、その定まつた制度典禮等が、實際如何に行はれたかといふ精神を書かうとした。漢書は漢の制度を書くにも、漢以前の起源にまで遡つて書いたが、その變遷の精神を書くことが出來なかつた。その後の志は勿論漢書以上に出ることも出來ず、史記の八書の精神は失はれ、單に役所の記録を寫したやうなものになつた。又史記は列傳といふものを書き、後世皆之に倣つたが、史記の列傳は單に一個人の爲めにその事蹟を傳へるのみのものではなく、その中には、その時代の事情を明かにすることを得るやうな書き方をしてゐる。貨殖傳とか儒林傳・游侠傳等を見ても、金持個人、學者個人の爲めに傳を書くのでなくして、それが社會に如何なる關係があつたかを示す主意である。漢書以後は漸次その主意が失はれ、單に個人のためにその事蹟を傳へるに過ぎぬことになつた。かくて、歴史の體裁は段々整つたが、歴史を書く精神は衰へる一方であつた。ともかく、しかし唐初までは、昔からの歴史編纂の方法がいくらかそのまま傳はり、歴史を家學とする風も多少遺つてゐた。
 唐初に歴史の評論が起つた。勿論史學に關する評論は、史記以來多少それに關する評論があり、中には後漢書の著者范曄の如く、自分の著書に自ら評論する人すらあつたが、一般に歴史を通論することは、梁の劉※(「協のつくり+思」、第3水準1-14-73)の文心雕龍より始まる。唐初に至り劉知幾の史通が出來て、その時までに出來たあらゆる歴史を評論するに至つた。この史通の評論は、當時並びに後世に影響を及ぼし、古來歴史を評論したものとしては、これが一番有力なものとせられる。この書は單に前代の歴史を評論したばかりでなく、後世の歴史に對し、如何なることを注意して書くべきかを示した處があり、この點が卓見であると云つてよい。殊に志を論ずるにつき、從來の志の外に、都邑志・氏族志・方物志を新たに作るべきことを論じてゐる。都邑は國の盛衰に關係があり、氏族は六朝より唐にかけて氏族の盛であつた時であるから注意したのである。方物は各地の物産等のことである。近代になつて史通を批評し、その餘計な處を削つた紀※(「日+(勹<二)」、第3水準1-85-12)の史通削繁は、この三志を作るべしといふ劉知幾の議論を削つたが、實際は史通以後歴史を作る人がかかる點に注意した證據がある。新唐書の中に宰相世系表があるが、これは氏族志の論から出たものである。又宋代の鄭樵の通志の中に二十略があり、これは各時代の歴史の志に當るものであるが、その中に都邑略・氏族略があり、方物志の代りに昆蟲草木略がある。かくの如く、劉知幾の説は後まで影響があつた。彼はよく人を罵倒する風があり、その批評は酷に過ぎると云はれるが、古來の歴史を通論し、將來の道をも示したのは、よほどの傑作と云はねばならぬ。この史通が出來て、史記以來唐迄の歴史の總論が出來た。この以後歴史は別の時代に入るが、その間に隋書經籍志や史通などにも注意せぬことで、史學史上注意すべきことがある。
 一つは歴史の事實を紀傳とか編年とかの體裁で取扱はずに、類書の體裁で取扱ふことである。これは漢以來この傾向があり、多くは帝王が歴史事實を知るための備忘録として作られた。例へば劉向の説苑・新序・烈女傳等がそれである。この方法が便利であるために段々行はれるやうになり、六朝時代にもこの種のものが色々あつたやうである。中には、その材料が歴史のみに限らず、あらゆるものの記憶のために作られたものがある。それが後になつて、帝王の備忘録としての外に、歴代の詞臣が四六文を書き、文章を美しくする爲めの材料を提供する爲めに類書が出來、その中には主として歴史の材料を取り入れるものが出來た。これが歴史の志類と關係をもつて出來た書があり、その中で傑作と云はれるのは杜佑の通典である。勿論これらも備忘録の目的で出來たものであるが、その中で、歴史の考へのある人が作ると、非常に立派なものが出來、通典の如きは、一面は類書であるけれども、一面には事柄を類別して書く間に、その沿革を認め、事柄の原因結果を知り、それが如何に進むかといふことをも呑み込んで書いてゐる。支那の歴史家は、多くは標準を古代に置き、復古思想であるが、通典はそれと異り、古代よりも現代の方が進歩してゐるといふことを認めた考へで書いてゐる。これら類書の體裁で書かれた歴史は、時としては史家よりは見逃されて居り、或種のものは全く類書として取扱はれ、又歴史として取扱つても、多くは政書として政治に關するものとするが、實は政治に限つたものではなく、その價値を最も低く見ても、歴史の備忘録と見るべく、最上のものは通典の如くあらゆる事柄の沿革を認め、しかもその進歩を認めて書いてゐるのである。
 今一つには史注がある。古書に注釋を書くことは、古く漢から盛に行はれてゐるが、歴史に對して注を書くことは漢書が最も早く、漢書は編纂の當時より編纂した本人でなければ分らぬことありとして、その意味を書き込んだのが注となつた。後に或る歴史が出來ると、それと異つた材料を集めて、その歴史の參考として書く風が起つた。宋の裴松之の三國志の注の如きがそれである。これは三國志を書いた人は、色々の材料があつても、本文に取り入れた材料は、その正確と思つたものを取つたのであるが、後人からは、之と異つた材料を參考することは興味あることであるので、かかるものが出來たのである。三國志の注は、材料の豐富な點に於て後世の參考になる。その後になつて、この體裁で注を書いたものは、正史には餘りないが、有名なのは世説の注である。又文選の李善注などは、本書は文學であるが、その注は多くは歴史の材料を集めて出來たものである。かかる種類の注には、唐初に顏師古の漢書の注、章懷太子の後漢書の注などがあり、これは三國志の注ほどは異説を集める考へはなく、本文の解釋が主であるが、中には異つた言ひ傳へをも取入れてあつて、後の研究に役立つものもある。かかる風の注は、唐初までで終り、その後にはない。
 その次の時代には、歴史の體裁が全く新しくなるが、それは宋代に新唐書並びに新五代史が出來たことから始まる。唐の歴史は、五代の時に出來た舊唐書があり、この舊唐書の時までは、唐までの歴史編纂法により、もとからある材料をなるべくその儘用ひた。然るに新唐書は最初から一つの主義があり、文は前のものよりも簡略にし、事柄は前より増すのが一つの目的である。前述のやうに、歴史を簡單に書くことは南北史より已に行はれたが、それを更に極端にした。それで殆どもとの文章をその儘用ひた處はなくなつた。唐代三百年の各代の本紀を書くのに、一つの詔勅をも記さない。殊に詔勅の中には、一つの詔勅で當時の人心を動かし、形勢に關係のあつたといふもの、即ち徳宗が都を逃げた時、陸贄が帝に代つて書いた自ら罪する詔の如き、當時の軍民を動かし、恢復を速かにしたといふ有名なものがあるが、それさへ全然書かぬ。しかし新唐書を辯護する人もあつて、時代が降るとともに事實が繁雜になる、それを古來からの歴史と同じ位の分量に書かうとすれば、どうしても簡單に書かねばならぬ。すべて簡單に書くことは後代の歴史には必要のことであるといふ人もある。しかし後代の繁雜な事實を強ひて古代と同一分量で書かうとするのが間違ひであるかも知れぬ。ともかく幾らか事柄を簡單に書く爲めに、材料の原文を書き改めることは、非難があるにも拘らず、新唐書が手本となつて、後の歴史は皆これに依つた。これは一つは時代が後になるほど、公文の體が變つて來て、昔のやうに雅でなくなるが、それを昔と同じやうな雅な文にしようとするのが支那の史家の目的であるので、自然書き改める必要がある。殊に新唐書を編した宋祁・歐陽修の二人は古文を好み、古文の中でも韓柳の文を好み、あらゆる材料を皆書きかへて原形をとどめぬやうに書くかと思ふと、韓柳の文であるとなるべくその儘に入れた。この古文を好むことは、韓退之などからしてさうであるやうに、史記・漢書を學ぶことになり、その書き方は、事實を目前に活動させるやうに書くことを主とし、後世の小説の如くする。その爲めには、四六文で形式的に出來た材料は、書きかへぬと活動せぬ。殊に役所の文章は四六文であるから、之を材料に用ひては活動せぬ。それよりも野史・小説の類で傳聞の類を材料に取り入れることを考へた。これは今日で云へば、一方は官報、一方は新聞記事を材料とするやうなものである。これが歴史を書く意味の一大變化である。舊唐書までは官府の記録を材料としたが、新唐書からは野史・小説を材料に入れた。
 それと同時に、新唐書・新五代史は春秋の筆法を用ひた。新唐書はまだそれ程でもなく、直筆によつて春秋の意を取る位であるが、新五代史になると、一字一字にも意味をもたせて、やかましく區別し、春秋に似た方法を取ることになつた。そのために、新五代史には、その當時に已に注が出來たが、その注は多くはその筆法を解するために出來たものである。とにかく新唐書が出來て以後、大體その方法は、近代に明史が出來るまで、ずつとそのまま行はれて來たと云つてよい。
 その他一方に於て、歴史の材料の變形されることの已むを得ないこともある。支那の歴史は、天子を中心として、その周圍のことを書くのが主なる仕事であるが、このことが唐以後非常に不完全になつた。支那には起居注の官があるが、これは何時頃から出來たか分らぬけれども、司馬晉の時には既にある。これは三代以來の史官の法が遺つてゐるのであると稱し、天子の言行を直ちに記録する官で、低い官であるが、天子の座席の下に立つて天子の言行を見聞のままに記す。而して天子から拘束されぬことが古くよりの慣例になつてゐる。元來はその官職は天子の言行でも自由に批判する役に居る人が兼ねて居つたのである。これは六朝より唐までの貴族政治のおかげで、當時は天子でも必ずしも萬能でなく、天子の言行でも自由に批評するを得たことからも多少來てゐる。唐になると、これは天子に不利であると考へるに至り、唐の太宗は起居注を見たいと云つたが、諫議大夫朱子奢は、天子は起居注を見る必要はない、これを見る風が生ずると、凡庸な君主は細工をするやうになり、史官の直筆が出來なくなると云つた。太宗は※(「ころもへん+睹のつくり」、第3水準1-91-82)遂良が諫議大夫で起居注を司つて居つた時にも、起居注を見ることが出來るかと問うたが、やはり見るものでないといふ答であつた。後に唐の文宗はこれを見たといふ説がある。それが宋になると、大いに變つて、起居注の記事を編した上、天子に一度見せてから著作の官に※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)すことになつた。その爲めに起居注の書いたものが直筆でなくなる傾きとなつた。その結果却つて野史・小説の方に信用を置かねばならぬ傾向を生じた。この起居注の官の方法は、朝鮮では稍や正確に殘つたが、二百年程前に、黨派の爭の爲めに從來の歴史を全部書きかへたから、今日殘つてゐるものは信用が出來ぬ。とにかく宋以後、君主專制となるとともに、歴史の書き方が變つたのである。
 新唐書は史體に變化を與へたが、更に又一つ大變化を與へたのは司馬光の資治通鑑である。元來この書は、天子が世を治める參考の爲めに書いたもので、この時、天子の爲めに書く歴史が、從來のそれと一變した。宋代には、眞宗の時に歴史に關する大きな類書册府元龜が出來た。これは勿論天子が歴史の事實を知る爲めに書いたもので、あらゆる史實を類別して書いた。これは事實を見るには便利であるが、事實を並べただけで、著述者の精神は入つて居らぬ。今日では史料を見る上で非常に有益なものとなつてゐるが、當時は全く天子の備忘録のために出來たものである。通鑑は單なる備忘録ではなく、一面より云へば通史の復興である。從來史記が出來てからは、編年體の歴史は流行せず、隋書經籍志に之を古史と稱してゐるのは、史記以前の左傳の體裁であるといふ意である。もつともその間にも通史はない譯ではなく、現存しないけれども梁の武帝は通史を作らせたと云ふ。紀傳體の歴史でも、志の類には往々にして通史の體を遺してゐるものがある。例へば沈約の宋書の志は後漢以後のことを通じて書いてゐる。又隋書の志は元來は五代史志と云つたもので、北朝では北齊・北周・隋、南朝では梁・陳に亙り、それらを通じて編したので、通史の體に出來てゐるが、歴史全體を通史の體で書くことは絶えてゐた。これを通鑑が復興し、上は戰國より五代までを編年體で編し、その間に時勢の沿革、君主の心得べきことを書いた。單に事柄を知る爲めではなく、歴史上の治亂興亡を知らせる爲めで、帝王學の變化である。帝王は事柄を知るよりも、治亂興亡の状態を知るべきであるとするのである。つまり君主專制時代になると、なるべく君主が偉大なる聖賢に近い人たることを要求するところより、かかるものが出て來たのである。
 これは時の歴史學に大影響を與へ、この後に通鑑の體によつて書かれた歴史が甚だ多い。勿論この外にも通鑑の影響はある。それは一つは通鑑の編纂方法が與へた影響であり、その外、通鑑の編纂の出來上つた上に、それに附屬の著述の出來たことである。第一に通鑑の編纂方法が手本となつたことは、長編を作ることである。歴史を編纂する前に先づ長編を作るのはよい方法である。これはあらゆる材料を年代を逐うて書き拔き、一年毎に總括して列べる。それを凡そ目的の長さに書き約める。これは今日の大日本史料もこの長編の方法を取つてゐる。支那にも、これ以後、長編だけを作つて纏めぬ書も澤山出來た。その他に材料取捨の方針は、通鑑はやはり新唐書と同じく小説を取つた處があり、その爲めに結果として失敗した處などもあるが、これは當時の一般の風で、史記を手本とした古文がはやるところから、通鑑も小説を材料に取つたのである。それから通鑑の附屬の書として作られたものに目録・考異などがある。通鑑は長い年數に亙る歴史であるから、索引がなければ見出しに困難である。目録は大體、年表であるが、索引の用をするやうに出來てゐる。考異といふのは、通鑑は多くの材料を取つた故、材料の取捨を明かにせぬと疑を生ずるので、その取捨の理由を書いた。かかることは、自分の歴史を書くと共に、材料の取扱ひを重んじたのであつて、眞に學問として歴史を取扱ふ上の大進歩である。單に帝王のために歴史を書くのならばこんな必要はないが、編纂に關係した人が立派な學者であつた爲め、後世の手本となるやうなことを殘したのである。
 通鑑が出來てより、通鑑に書かれてゐる時代より以前の事を記した書、以後の事を記した書や、通鑑又は長編の體裁で書いた書等、通鑑の影響で出來た書が多く、宋代の史學を進歩せしめた。中でも南宋の袁樞の通鑑紀事本末は著しいものである。通鑑は編年であるから、何年も繼續することを別々に切つて書いてあつて不便であるので、事件の連續を主として書いたのがこの通鑑紀事本末であつて、通鑑の中の記事を拔き取つて事件により纏めた。これが後に支那では歴史の體として大切なものになり、從來は紀傳と編年の二體であつたが、紀事本末を加へて三體となつた。袁樞は單に拔き書きをして便利にする爲めにしたので、大した考があつたのではないが、その結果は大きく、歴史の中で最も便利な最も進歩した體裁が出來たのであると支那の史論家は評してゐる。
 通鑑が編年體で通史を書いた影響とも見られるものとして、南宋時代に通史を紀傳體で書いたものが出來た。鄭樵の通志がそれである。鄭樵は大史論家であつて、歴史は通史でなければならぬ、班固が斷代史を作つたのは歴史の墮落であると云つて之を書いた。紀傳の外に二十略を書き、その中に志の如きものを纏め、年表をも譜と名づけて作つた。彼は史論家としては偉大であるが、通志の出來榮は荷が勝つたと見えて十分でなく、その史論には及ばぬ。通志で最も大切なのは、その序論である。
 かくの如く通史が重んぜられたのは、宋代に於ける史學の復活から來たものと云つてよいが、この時に著しいのは、正統論が新たに盛になつたことである。支那は革命の國であつて、色々天子の姓が易るが、時には一統が出來ずに國が分裂することがあり、又一統しても、秦の始皇とか隋の如く、あまりに年數が短く、その制度文物が支那全體に及ばぬ中に亡びたものがある。かかる朝代をも正統と認むべきか否かといふ論である。これには色々の議論があり、正統は必ずしも續かぬでもよく、正統が斷絶する時代があつてもよいとする論があり、又それでは統にならぬから、どれかを正統にすべきであるとし、例へば三國では何れを正統とすべきかといふ論がやかましい。とにかく前後を通じて一つの通史を考へるときには、かかる論は自然に起る。この正統論に春秋の法を用ひて通鑑に應用したのは朱子の通鑑綱目である。春秋の義法を歴史に應用したのは新五代史が著しいが、これは正統論とは無關係で、部分的に褒貶をしたが、朱子の通鑑綱目は、春秋の眼目たる大一統主義を根本に置いて歴史を書き出さうとした。勿論一字一字の褒貶もあるが、それは大一統主義から出てゐるので、之を通鑑の事實に應用した。司馬光は通鑑を書くのに、褒貶をせずに事實を書けば自然にそれが表はれるとして、左傳の體で書いたが、朱子はそれで滿足せずに、春秋の本文に倣ふまで復古した。これは宋代に於ける歴史の主義の著しい發展である。
 宋代には史學の補助學で發達したものがある。即ち金石學である。金石を歴史の考證に應用することは前からあり、秦權を以て史記の中の文字の誤を考證したことが顏氏家訓に見えてゐる。引きつづいて唐から五代にも漸次かかる傾向があつて、郭忠恕が汗簡を作つた時、金石中の古文を引用したことがある。しかし多くの金石を集めて、それを史料としたのは、宋の歐陽修の集古録に始まると云つてよい。金文の方では、次で考古圖・博古圖などが出來、金石殊に碑文に重きを置いたものには趙明誠の金石録が出來た。南宋になつても金文の方の考證の書は澤山出來た。かかることは經學並びに史學に役立つた。後に清朝に起つた金石學の基礎は、大體ここに開けた。
 その他、史學の進歩に功のあつたのは目録學である。これを學問として取扱つたのは鄭樵である。彼は通志の中に校讐略を書いたが、これは全く目録を學問として扱つたものである。彼の書いた藝文略は、校讐略の原則によつて書いた。目録學は當時直ちに史學に役立つたのではないが、鄭樵がかかる學を起したことが、後になつて目録學を史學に役立たせるに至つた元である。
 これらは宋代の史學の大體であるが、宋末より元初にかけて注目すべきものは王應麟の玉海と馬端臨の文獻通考とである。これらのものは、初めから史學の爲めに書いたものではないが、その結果が史學のために役立つに至つた。元來唐から宋にかけて、天子の爲めに詔勅を書く官があり、内制・外制といふ。これを書く官は多く故事を知る必要がある。それで唐代から多くそれに對する類書が出來てゐる。宋になると之を辭學又は詞學と稱した。玉海は大體この辭學のために出來たのである。王應麟の學問は色々の點で後の清朝の學問の本になつたが、この人は辭學をやるに就て、それが色々の點に及び、目録學に於ても一つの特別な方法を考へた。即ち昔の目録に載つてゐて現存せぬ本に就て、或る點までその本を復活して、その本の大體が分るやうにする方法を考へた。それは多くの古書の中よりその本に關する事柄を抽出し、それによつてその原本の大體を知り得るやうにするものであるが、この方法は清朝の學問に大いなる關係がある。又單に本の内容を窺ふのみならず、その本の出來た由來又はその本に關する昔の批評等を集めることもした。元來の目的は辭學の爲めであつたが、その結果は史學のためになるやうに出來上つたのである。
 文獻通考は王應麟の玉海が詞學のために作られたのに對して、當時の策學のために出來た。策學といふのは、王安石が科擧の法を一變して、試驗の中に論策を書かせることにしてより、古今の政治その他の沿革を知る必要があり、馬端臨の前にも既に策學の爲めに書いた本があり、馬氏のも大體通典を學んでそれが策學に役立つやうに書いたものであるが、その出來榮はやはり單に策學の爲めの目的より遙かによく出來て、通典と共に後の史學に役立ち、一種の文化史のやうなものになつた。この二つは目的は必ずしも史學の爲めでなかつたが、史學にとつては重要な著述となつた。
 宋より元にかけて、一種特別のものが出來た。それはこの時代が支那に於ける地理發見時代とも云ふべき時であつたため、南洋交通に關する本が色々出來た。南宋頃から南洋との貿易が盛んになり、その爲め南洋の風土産物に關する單行の本が澤山出來た。近年有名になつたのは趙汝※(「二点しんにょう+舌」、第4水準2-89-87)の諸蕃志である。尤もかくの如く南洋に注意するに至つたのは、唐代のアラブ貿易の發達に基く。かくて元の末年には汪大淵の島夷志略があるが、それまでにも色々の著述がある。これは又最近に西洋學者がアラビア貿易のことなどを研究したり、印度洋方面に關する研究の史料として用ひることになり、殊にこれらの著述が目立つて來たのである。
 元代は史學の上に格別著しい變化はない。しかし元代はその領土が大であつたのと同時に、朝廷に於ける編纂にも大部のものが企てられ、その中で經世大典などは八百餘卷に上るものであるが、今日は纏まつて殘つてゐない。制度文物に關する元代のあらゆることを網羅したものであるが、その制度を書くのに、その由來を記し、それに關係した事實までも記してゐる所から、今日僅かに殘存する殘缺でも史料として役立つことが多い。殊に今日の元史も大部分は經世大典によつたらしく思はれる。恐らく元代のことは大體經世大典によつて、今日我々が見ることの出來るやうになつたのであらう。清朝に至つて、元代の古い著述を搜索した時に、現存の經世大典の一部を書き拔いて特別な著述のやうにして世間に出したものが色々あつた位である。その他民間の編纂のものでも、この頃より叢書が盛になつた。これは昔の本をその儘集めて、それを一つの纏まつたものとする方法で、今日存するものでは、宋代の百川學海が最も古いものである。その中に入つてゐるものは各種のものに亙り、必ずしも歴史ばかりではないが、史料となるべきものが多い。宋代の役所の故事などは、百川學海に收められてゐるものからして知り得ることが多い。これは南宋の左圭の作つたものである。元末に至り陶宗儀が輟耕録を書き、元代の故事雜説を集めたが、彼は又説郛といふ大叢書を作つた。現存の説郛はその原本でないといはれ、彼の原本の體裁は之によつては知ることが出來ぬが、ともかく非常に澤山の書を集めて作つたには違ひなく、その中に多くの史料を含むことは、原本でない説郛でさへ、いくらかその中に史料としての著述を見ることを得ることによつても知られる。
 この時、地理に關することでは、南洋に關する外に蒙古並びに西域に關する紀行類が多い。これは勿論元が歐亞にかけて大版圖を有した爲めで、創業の際の征伐に關し、儒者・道士が時の天子に召されて行つた紀行とか色々あつて、それは今日でも蒙古・中央亞細亞に關する有力な史料となつてゐる。
 明になつて元史が出來たが、元史は歴代の正史の中でも最も評判の惡い歴史である。それは餘りに短日月に編纂された爲め、同一人の傳を二度書きなどして粗雜の點があり、又最も體をなさぬのは、文牘をそのまま修正せずに載せたので、文章が惡く、歴史の體をなさぬといふにある。元代は詔勅を蒙古語で出し、それを譯するには、古文を以てせずして、當時の俗語のままに譯するが、これをそのまま歴史に載せてゐることがある。かかることが攻撃されてゐるが、これはこの一代だけで、後にはかかることはなくなつたが、史料をその儘使ふといふことは、却つて唐以前の歴史編纂の原則であつて、偶然にもその原則が復活したと見ればよい。尤も六朝のは四六文であつて、それをその儘歴史に入れても、文は美し過ぎるが粗雜には見えぬ。元代のは史料が俗語である爲めかかる攻撃を受けたのである。大體元史は纏まつた歴史としては體裁をなさぬが、史料として取扱ふには面白い處がある。
 元史は明の初めに出來たが、大體明初には元の風を承けて大部の編纂が流行した。朝廷の編纂として大きなものは永樂大典であつて、これは古今の書籍を網羅した類書であるが、後になつてその中より多くの史料を見出した。清朝になつて學問が盛になり、勅命で作つた四庫全書には、永樂大典より數百部の書を抽出して入れたが、この中には多數の史料を含んでゐる。永樂大典は當時の史學には役立たなかつたが、後世の史學を益することが多かつた。その他にも歴史に關するものでは、歴代名臣奏議の編纂があり、これは非常に大仕掛なもので、當時のみならず、今日でも史料として有益である。
 又明初には宋元以來續いた南洋貿易を更に擴張してアフリカ沿岸まで及ぼしたので、この地方を西洋と云つた。當時の東洋・西洋とは、今の南洋の中を二つに分けた名稱である。この西洋に關する紀行その他の記事の書が大部出來て、それが今日その地方の事實を知る上に役立つ。その記事は明代又は清代では荒唐不稽のやうに考へられてゐた。永樂の時に太監(宦官)の鄭和がその地方へ派遣されたが、そのことが、三保太監下西洋として芝居の題目になり、小説にもなつたが、それを見ると、まるで西遊記などの如く荒唐のことがあるが、その實際の事實は確實なことで、今から十四五年前にセイロン島で鄭和の碑が發見され、それには鄭和が佛堂に金を寄附したことが、漢文とタミール語とアラビア語とで記されて居つて、立派な證據を提供してゐる。
 大體明代の史學は、一つは宋元以來の由來もあるが、明の中頃以前は野史時代と云つてもよく、民間の野史が大いに流行した。その中には眞僞混淆したものがある。明初には色々朝廷に祕密のことがあつた。永樂帝が甥の建文帝に代つて位を簒つたが、建文帝が行方不明であつた爲め、之に關する野史が多く出來た。その外にも、宋以來の官吏の風で、己れの見聞を記録するものが多く、それを材料とした野史がある。それが中葉以後には、野史と朝廷の記録と何れを主として取るかといふ議論が起り、これが支那近代に於ける史學の變化のもととなつた。その頃、王世貞・焦※(「立+肱のつくり」、第4水準2-83-25)などは野史を信ぜず、朝廷の掌故に重きを置く學風を始めた。勿論野史にも掌故はあるが、それは正確なことよりも面白い話を殘さうとするものであり、掌故は面白くなくても正確なものを殘さうとするのである。この一つの移り變りが支那史學に影響した。新唐書や通鑑が歴史事實を活動させるために材料を野史に取り、それが當時の歴史の編纂の標準となつて以來、その風が盛で、明代の野史はその末流であつて、歴史が多少新聞の如くに流れた傾きがあり、それを王世貞・焦※(「立+肱のつくり」、第4水準2-83-25)等が一變せしめたのである。これはその後、清朝に及んで明史を編纂する時に、之に關する議論があり、明史は掌故の學を基礎として書いたが、その時の議論は明史稿の凡例の中に出てゐる。殊に建文帝のことが議論の中心となり、明史では建文帝のことについて野史を承認しない。これが已に宋以來の史學に對する一つの變化であるが、その時又特別の事情から、歴史が正確な史料によるべきであるとの議論が出で、史料をその儘載せるべきであるとの説が出た。これは新唐書・舊唐書を中心としてかかる議論が起つた。明の中頃に楊愼がこの二書を比較して、舊唐書の正確なことを指摘した。その後、明末清初の顧炎武は尤も舊唐書を信用した人である。これは單に新唐書と舊唐書との問題に止まらず、歴史はなるべく史料をその儘書いた方がよいかどうかといふ議論になり、ともかく史料をその儘書いた方がよいといふのが明史の出來る頃までの論である。
 明末に不思議な人が出た。それは李贄(卓吾)である。王陽明の派の人であるが、當時その學風や行ひが普通と變つてゐた爲め、信者もあるが、反對者も多く、終りをよくしなかつた。大體は禪學のやうで、史學のみならず、支那歴代の風俗習慣を破壞する議論を考へた。則ち昔から孔子を道徳の標準とする理由に對して疑問を出し、いつまでも孔子を標準とする理なしとし、その考へで歴史を書いた。その書を藏書といふ。この書は事實の穿鑿には役に立たぬが、ただ總論だけを讀めばよい。それによると、從來は春秋が史法の根本となつてゐるが、それは孔子が作つたからである。しかしそれがいつまでも理想である譯はないとて、之を根本より覆し、人物の評などにも新しい見方をした。支那人にとつては過激な議論で、人を驚かした。焦※(「立+肱のつくり」、第4水準2-83-25)は彼の味方をした。當時焦※(「立+肱のつくり」、第4水準2-83-25)は博學な人で、世人の信用があつた爲め、それが李贄が世の信用を得るに力があつた。しかし李贄の説も、當時には殆んど大きな影響を及ぼすには至らなかつた。顧炎武などは彼に大反對であつた。かくて彼の著述は一時世から葬られたが、最近民國になつて、彼の信者が出來て來た。
 焦※(「立+肱のつくり」、第4水準2-83-25)のしたことには、後世の手本となつたことがある。彼は目録學にも一見識をもち、國史經籍志を書き、これは古く日本でも飜刻せられた。又掌故の學に關しても、彼は王世貞と多少方法を異にし、王世貞のは制度文物に關するが、彼は傳記に關した事實を集めた。清朝になつてその眞似をした著述が多く出た。
 なほ明末で注意すべきは、沿革地理の學が出たことであり、學問として名著がある譯ではないが、地圖の作り方に、古代と現代とを對照し、朱と墨とで分けて作ることを考へた。王光魯の閲史約書がそれである。清朝になつて、その風の沿革地圖が多く出來た。
 清朝の初めの史學は、全く明末遺老の學問である。康熙帝が三藩を平げて支那を支配する形勢が定まつてより、明史編纂の爲め多くの學者を北京に集めた。これが清朝史學の隆盛になる根本である。當時學者として認められたのは、黄宗羲(浙江餘姚)と顧炎武(江蘇昆山)とであつて、前者は浙東學派の祖とされ、後者は浙西學派の祖とされる。清朝の史學はこの二人を中心として起つた。しかし二人は明の遺老である爲め、表面には出ず、この人等に關係ある主な人が中心になつた。即ち黄宗羲の弟子の萬斯同が明史編纂の第一の中心となつた。明史は成立までに六十年を費やし、多くの人が編纂に與つたが、事實は萬斯同が中心であつて、彼が北京にあつて、多くの學者の中心をなしてゐたのである。顧炎武の方は、彼の甥に徐乾學があり、康熙帝の氣に入りで、晩年南方に歸つて太湖の洞庭山に學者を集めて清一統志を編纂することを許され、ここに又多くの學者が集まつた。彼は直接に顧炎武の學を傳へては居らぬが、徐乾學と顧炎武との關係より、この地に集まつた人は浙西派の人たちで、これは多く經學となつたが、しかし目的が地理の編纂であつたので、中には顧祖禹などがあり、讀史方輿紀要を作つた。ともかくこの二つの學者の集團が清朝のあらゆる學者に關係し、又清朝前半期の學派をも生じた。萬斯同は記憶がよく、如何なる事實が何の書の何枚目にあるといふことまで覺えてゐて、非常に博學であつた爲め、明史を編纂する傍ら、一般史學に關して有名な歴代史表を遺した。大體この人のやり方は、古來ある歴史の缺を補ふもので、舊史を修補する學問とも云ふべきものである。徐乾學の方に集まつた中には、閻若※(「王+據のつくり」、第3水準1-88-32)の如きは、古書の校訂を好んだ。從つてこの一派よりは舊史を考訂する學問といふべきものが出た。尤もこの考訂は、古く王應麟がその根本をなし、楊愼などもその風があり、顧炎武に至つてその方法が定まり、一派の人が之を受けついだのである。この舊史修補と舊史考訂との二つが、乾隆以前の清朝の史學の全體を總括すると云つてよい。その間には、沿革地理學があり、又金石で歴史を考證することなどは、顧炎武がその基礎をなしたことであるが、ともかくこの二つが主目的であつたのである。後に乾隆以後に章學誠の如き史論家が出て、清朝初期の史學は史學でないと云つた位である。歴史全體の主義としては、明史の如く史料を重んずる風で新唐書以來の學風を一變したのは、明の中葉以後に起つた主義であるが、明末遺老の起したのは、この舊史の修補と考訂との二つの傾向である。

底本:「内藤湖南全集 第十一卷」筑摩書房
   1969(昭和44)年11月30日初版発行
   1976(昭和51)年10月10日初版第2刷発行
入力:はまなかひとし
校正:小林繁雄
2009年7月16日作成
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