日は照れど、日は照れど
君を見る日の來なければ
わたしの心はいつも夜
日は照れど、日は照れど
わたしは目盲ひ、耳聾ひ、唖者
君を見もせず、聞きも得ず
「日が照つてゐる……。」
さう呟きながら、私は部屋の隅から枕を巡らして、明るい障子の方にその面を向けた。南向きといふ事は何といふ幸福な事であらう、それは冬の滋養を大半領有する。日の光は今頑固な朝の心を解いて、その晴やかな笑顏のうちに何物をも引きずり込まないでは置かないやうに、こゝを開けよとばかり閉ぢられた障子の外を輝きをもつて打つてゐる。
私はそれに從はないではゐられなかつた。手をのべて、しかしなか/\屆きさうもなかつたので半身を乘り出して、それでも駄目だつたのでたうとう起き上つてまで、障子を左右に開いた。日光は柔かに導かれ、流れた。その光が漸く蒲團の端だけに觸れるのを見ると、私は跼んでその寢床を日光の眞中に置くやうに引いた。それだけの運動で、私の息ははづみ、頬に血がのぼつた。そして暫く枕についてからも皷動が納らなかつた。
「日が照つてゐる……。」
それはほんたうに幸福な事である。けれども……皷動が全く靜まつて、血の流れがもとのゆるやかさにかへつた頃、極めて靜かに歩み寄つて來るもの侘びしさを、私は心に迎へなければならなかつた……それは力の弱い冬の日だからだらうか? 否! どうして彼女の力を侮る事が出來よう。お聞きでないかあのもの靜かな筧の音を。見る通りに雪は眞白く山に積つてゐる。そして日蔭はあらゆるものの休止の姿で靜かに寒く默りかへつてゐる。それだのに同じ雪を戴いたこゝの庇は、彼女にその冷え切つた心を温められて、今は惜しげもなく愛の雫を滴らしてゐるのだ。
タツ! タツ! タツ! あゝあの音を形容するのはむづかしい、何といふ文字の貧しい事であらう、あれあんなに優しい微妙な音をたてゝゐるのに……。それは如何にも、あの綺麗な雪が溶けて、露の玉になつて樋の中へ轉び込むのにふさはしい音である……轉び込んだ露はとろ/\と響に誘はれて流れ、流れる水はとろ/\と響を導いて行く。
何といふ靜かさだらう!絶え間もなく庇から露が散る。水晶が碎けて落ちるやうに、否、光そのものが散つ來る[#「散つ來る」はママ]やうに……。
日は照れど、日は照れど
日の照る間は短いに
いつまでわたしが待つたなら
凝乎と、冬の日の中に横へられた私の體の中で、柔かな暖かさに包まれながら、何といふもの寂しい聲をたてゝ私のこゝろの唄ふ事だらう!一寸でも身動きをしたらその聲はすぐに消えよう、瞬きをしてさえもその聲は絶える。
馬の背中に鞍おいて
淺間の煙仰ぎつゝ
麓をめぐり來ますらむ……
古い名を持つ草津に隱れて、冬籠る身にも、遙々と高原の雪を分けて、うらゝかな日は照つてゐる。
「日が照つてゐる……。」
さうしみ/″\思つた時に、涙らしいものが暖かく私の瞳をうるほしてゐた。
○
短い命ではあつた。それは冬の日の定められた運命である。内端な女心の泣くにも泣かれず凍つてしまつた檐の雫は、日光を宿したまゝに小さな氷柱[#ルビの「つらゝ」は底本では「つゝらい」]となつて、暖かな言葉さへかけられたら今にもこぼれ落ちさうに、筧の中を凝視めてゐる。
夕暮と共に寒さは急いで歸つて來た。雨戸をさす間もなく、今まで遠くの林の中に聞えてゐた風の音は、巨人の手の一煽りのやうに吾にもない疾さで驅て來て、その勢ひの中に山の雪を一掃き捲き込んでしまつた。その音づれにすつかり目を覺した地上の雪は、煽られ/\て來る風の中にさら/\と舞ひ上り、くる/\と卷かれてはさあつと人の家の雨戸や屋根を打つ事に身を委してゐる。その風雪の一握りのつぶては、時々毛のやうな欄間の隙や戸障子の仲を盜み入つて、目に見えぬ冷たいものをハラ/\と私の寢顏にふりかけてゆく。寢息もやがて夜着の襟に白く花咲くであらう、これが草津の常の夜なのである。けれども馴れては何物も懷しい、吹雪よ、遠慮なく私の顏を撫でゝゆけ!
クリスマスの裝飾に用ゐた寄生木の大きなくす玉のやうな枝が、ランプの光に枝葉の影を見せて天井に吊されてゐる。夜の色にその葉の緑は黒ずみ、可愛らしい珊瑚珠のやうな赤い實も眠たげではあるけれど、荒涼たる冬に於ける唯一の彩りが、自然の野からこの部屋に移されて、毎日どれだけ私の眼を慰める事であらう。しかしあの赤い水々した實は、長い/\野山の雪が消えるまでの間を、神が小鳥達の糧食にと備へられたものではないかと思ふと、痛々しく鉈を入れた人の罪が恐ろしい。その時あの赤い小さな實がどんなにほろ/\と雪の上にこぼれた事であつたらう!
病んでゐる胸には、どんな些細な慄えも傳はり響く。そして死を凝視れば凝視る程、何といふすべてが私に慕はしく懷しまれる事であらう。火鉢の火が赤いのも、鐵瓶が優しい響きに湯氣を立てゝゐるのも、ふと擡げてみた夜着の裏が甚しく色褪せてゐるのも、すべてが皆私に向つて生きてゐる――この年、この月この夜――すべてが私にそれでいゝ!おゝ、外にはますます吹雪の暴れる事よ。
「あれが人世なのだ!」
「そして室内は?」
「これもやつぱり!」
私は戸外に耳を聳て、それから少し首をもたげて靜かな部屋の中を見廻しながら、自問自答をした。
○
ぽかりと目を開いたら、朝が待ち構へたやうに硝子の外から私を覗いてゐた。夢と現の境ごろに、近くで一發の獵銃の音が響いたやうだつけ、その響で一層あたりが靜かにされたやうな朝である。
山を切り崩して、それに引添ふやうに建てられたこの家の二階からは、丁度迫らぬ程度にその斜面と空の一部とが、仰臥してゐる私の目に入つて來る。雪に覆はれたその切り崩しの斜面に、獸の足跡が、二筋についてゐるのは、犬か何かゞ驅け下りたのであらう、それとも、雪崩になつて轉げ下りて來た塊りの走つた跡でもあらうかと、そんな事を私は思ふともなく思つてゐた。
空は蒼かつた。それは必と風雪に暴れた翌朝がいつもさうであるやうに、何も彼も拭はれて清く青かつた。混沌として降り狂つた雪のあとの晴た空位又なく麗はしいものはない。地には光があり反射があり、空には色と霑ひとがある。空氣は澄んで/\澄み切つて、どんな科學者にもそれが其處にあるといふ事を一時忘れさせるであらう。
その美しい空に奪はれてゐた眼を、ふと一本の小松の上に落すと、私は不思議なものでも見付けたやうに、暫くそれに目を凝らした。その小松は、何處からか光を受けてるらしく、丁度銀モールで飾られたクリスマスツリーのやうに、枝々が光榮にみちてぐるりに輝いてゐた。
「朝日が出て來たのらしい。」
さう思つて私はまだ自分の眼には隱されてゐる太陽の笑顏を想像の中に探し求めた。けれども私はそれをさう長く待つには及ばなかつた。小松は刻々に輝きを増して行つた。そして、今までその背景をなしてゐた空は、その青さは、刻々に光の海と化しつゝあつた。
眩しいものが一閃、硝子を透して私の眼を射つた。そして一瞬の後、小松の枝はもう無かつた。それは光の中に光り輝く斑點であつた。太陽が、朝日が、彼自らが、山と空とを劃つた雪の線に、その輝く面を表はしかけてゐた。光は直線をなしてその半圓の周圍に散つた。彼を見ようと思へば私は眼をつぶらなければならなかつた。そのために幾度か瞼を閉ぢ/\した。涙が徐にあふれ出でゝもう直視しようとはしない眼瞼に光を宿して止まつてゐた。
それは太陽の強烈な光線が私の瞳を射つたからではなかつた。反對に、光は柔かに私の胸に滲み入つたのである……。
「……いゝ、それでいゝのだ、たとひ私が明日死ぬとしても!一生をかけて目指して來た私の仕事に少しもまだ手がつけられなかつたとて、たとひ手紙が書きかけてあつたとて、糸を通した針がまだ半襟から拔かれないであつたとて、それで死んだとて、それでいゝのだ! いつ私がこの世から消されたつて、あの光は少しも變りなく照る。それと同樣に、いつまで私がこの世に役に立たなく生きてゐても、やつぱり變りなくあの光は照る!」
あゝ、おてんとうさま!
私は起き上つて、折から運ばれて來た金盥のあたゝな湯氣の中に、草の葉から搖ぎ落ちたやうな涙を靜かに落したのであつた。
(一九一九、一月)
底本:「讀賣新聞」讀賣新聞社
1919(大正8)年2月6日、7日、9日
※底本で「…」は3点ではなく4点になっています。
※「得ず」「襟」「枝」「枝葉」「枝々」「光榮」「枝」「半襟」のルビに使われていた、「江」を字母とする変体仮名は、普通仮名にあらためました。
入力:林 幸雄
校正:小林 徹
2011年1月23日作成
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