桜井家の媒酌としてその村に行ってからことし九年ぶりになる。
 村は加波山事件の加波山の東麓にあたり、親鸞しんらん聖人の旧蹟として名高い板敷いたじき山のいただきは北方の村境であり、郡境ともなっている。
 九年まえに行ったときは東京で式を済ませて式服のまま自動車を牛久うしく土浦つちうら石岡いしおか柿岡かきおかと、秋晴の野を丘を走らせたから板敷山は越えない。かっきり暮れてから着いた。そしてもいちど村での式を挙げたのである。
 仲人なこうどの私のまえに五人の老人が、先頭は手ぶらで次は一升徳利を三人めはこいのいきづくりの鉢を四人めは鶴亀の島台を捧げて、つぎつぎとあらわれては禿げた頭を物堅くさげ、みるみる品物と人々の位置が定まると、手ぶらと思った先頭の老人はいつのまにか二個の丹塗にぬりの大椀を手にしており、一つを膝そばに置き一つを捧げて私に差す。この地方の作法について新郎はなにひとつあらかじめ教えてくれてはいなかった。この五人の老人が徳川時代以来の五人組の遺風であるということもあとから教えてくれたのである。
 酒は一升徳利からその丹塗の大椀の底にちょっぴり注がれて、五人組総代と私の間の献酬けんしゅうである。やれやれと安心したら今度はもひとつの大椀を取って差出す。そしてなみなみと、両手が重く感じるまでに注ぎきった。
 二番目の老人が平鉢を前にすすめて、生作りの鯉の眼に醤油しょうゆを注ぐ。鯉が正気をとり戻して平鉢の中で一はねすると、背中の割目から一寸大のさしみがこぼれ出るという仕組である。それを幾切れか小皿に盛って出す。満座無言のなかで、注ぎきられたのと差出されたのとどちらが先だったかいまは忘れたが、いきづくりをさかなに飲み回しの儀式であるとかろうじて私は了解した。新郎も私も当時『歴史科学』という雑誌の同人だったのだが、この村に五人組とともに残っている有職料理の作法などもとより知るべくもなかった。
 このたびは自動車どころではない。稲田いなだの隣り福原という駅で汽車を棄て板敷山を南に越えて村に出る。自由大学の会員である二人の青年が出迎えてくれて、二台の自転車に私を挾むようにして暮れ方の坂道を登る。私の講座は明朝九時からで、会場は峠を下りきった所にある板敷山の大覚寺の本堂。今夜は桜井君を中心に座談会開催中で、その寺までゆくのだという。宵闇が道に垂れこめたところで、自転車にくくりつけた私の荷物が失われているのに気がついた。二人の青年はそれを探しに引きかえし、ゆくりなくも私は板敷山の宵道をただ一人で降り坂にとりかかった。
 もっともこれは本来ならばバスも通う道路であって、親鸞が稲田から鹿島かしま行方に往返のたび越えたのは東寄りの山路であるそうな。本願寺の開基覚如かくにょの作になる『本願寺聖人親鸞伝絵でんえ』第三段には次のようにある。
「聖人常陸国ひたちのくににして、専修念仏の義をひろめたまふに、おほよそ疑謗の輩はすくなく、信順の族はおほし。しかるに、一人の僧(山臥云々)ありて、ややもすれば仏法に怨をなしつつ、結局害心をさしはさんで、聖人を時々うかがひたてまつる。聖人板敷山という深山を、つねに往返したまひけるに、かの山にして度々相待つといへども、更にその節をとげず、つらつらことの参差しんしを案ずるに、すこぶる奇特のおもひあり。よって聖人に謁せんと思ふこころつきて、禅室に行て尋申すに、上人左右そうなくいであひたまひけり。すなはち尊顔にむかひたてまつるに、害心たちまちに消滅してあまつさえ後悔の涙禁じがたし。ややしばらくありて有のままに日来の宿欝を述すといへども、聖人又をどろけるいろなし。たちどころに弓箭きゅうせんをきり、刀杖をすて、頭巾をとり、柿衣かきのころもをあらためて、念仏に帰しつつ、素懐をとげき。不思議なりし事なり。すなわち明法房これなり。上人これをつけたまひき。」
 御正忌しょうきの夜、第一段から、ふしをつけて読むので、きき覚えている。伝説では山伏やまぶしの名はべんねんといって、板敷山の山路で聖人に切りかかると、そのつど聖人の姿はかき消えたということになっており、そんな絵を見たこともある。そして、九年まえの桜井家の結婚式の晩につぎのような話を、親戚の人たちから聞かされたのを思い出す。
 この恋瀬こいせ村の桜井家に親鸞がよく泊ったというのである。その頃、桜井家の一人娘で小町とうたわれたのがあって聖人に帰依きえして、親鸞常陸を去るにのぞんで召連れられんことを懇願したがゆるされない。そこで板敷山の麓の池に身を投げて死んだ。池は田となったが、小さなほこらはいまでも残っていて命日には桜井家の当主が代々まつりを断やさないというのである。
 そればかりではない。じらい桜井家には代々女児しか生まれない。桜井君の厳父にも女兄弟は一人しかいない。桜井君自身にも当時十八歳の妹さんが一人いるだけである。
 端厳で無口な厳父も時々語を発してうなずいておられた。真宗の寺に生まれた私が、マルクス学の因縁からその夜の仲人となってこの家にきただけに、ちょっと消化しきれぬほどの馳走であった。そこで腹ごなしのために私は郷里で寺を継いでいる舎弟に時候見舞の手紙を書いて、ひょっとしたらべんねんは恋の遺恨で親鸞をねらったのかもしれないぞと書き加えた。篤信の弟はそれについては何の返事もよこさなかった。それはさておき桜井夫妻にはすでに八歳になる長男と六歳になる長女がおり、青年たちの話によると夫人は三人目のお産を今明日に控えているという。こんど生まれるのが女の児だったらことである。

 やがて荷物をひろって追いついてきた青年たちにそれをいうと、彼らはこのたびの講習会の第一日に桜井君から「加波山事件の話」を聞いたけれども、桜井家にそんな伝説があることは、彼ら青年はもちろん、すでに「村」としても忘れられているらしかった。界隈かいわい数カ村の青年たちを会員とするこの自由大学は第一回をこの春友部で開き、伊豆公夫、平貞蔵、小林高四郎、中村浩、山田武の諸氏が講師だった。桜井君は一年余の未決刑務所の生活から終戦後解放されるや村居して病を養い、この春から五、六反歩を自作しながら、青年たちのために自由大学を世話して、このたびは第二回目であった。坂本徳松、土方定一、三宅鹿之助の諸氏ともこのたび逢うことができるのである。

 大覚寺では八間四面のりっぱな本堂に八十人ほど、女性もこめた青年たちがいつまでも熱心な質問を続けていた。日程にのぼされつつある敗戦日本の農業革命の形態と本質を彼らは凝視しているのであり、それをめぐってあらゆる「問題」がおどろくばかり旺盛な知識欲を刺激しつつこみあがってくるのが聞こえる。私は一隅に座って凝っとそれに聞きいり、それから二日間、この雰囲気の一片となってすごした。

 自由さきがけ・圧制政府顛覆・一死報国のスローガンをかざして、明治十七年九月二十三日加波山に旗上げして一敗した自由党左派の加波山事件は、この村からいって山の反対側にあたる下館しもだてを基地として起こった。この村人ではたまたま山仕事に行っていた某々が人夫に徴発されただけであるが、総じて耕作農民はこの事件にまだ参加していない。加波山事件までの左派自由党の社会的地盤は地方における「由緒ある門閥の家柄」――桜井君にきけば、当時の記録にそのようにあるよし――徳川時代から氏を称した郷士富農であって、幕府封建制に代った明治絶対主義政府との妥協を拒否しつつ、翌明治十八年の秩父ちちぶ事件ではついに働く農民貧民の大衆を動員するにいたった。
 由緒ある門閥の郷士たちは、親鸞の時代から加波山事件までのながい日本の社会史を通じて、日本封建制のいわばアトムを構成してきた。加波山事件の直接の前件となった福島事件の領袖河野広中こうのひろなかが晩年(彼の伝記のなかで)つぎのようにいっているのは面白い。「東北は往昔化外の地を以て遇せられたけれども、その民は質実、剛健で、しかも地方の豪族を頂いて自治し、実に自主独立の精神に富んでいた……」。
 河野家じたいがこの「豪族」の一つで、伊予いよの名族河野氏のすえ加藤嘉明かとうよしあきに仕え、嘉明が伊予松山から会津に転封され、嘉明の子明成が徳川からつぶされるや、土着して「東北の豪族」となった。日本封建制の最下部を支える農奴主の小天地――領主が幾人変ろうと、豊臣が徳川に変り徳川が明治になろうと、それじたいビクともしない「自主独立」の封建制のアトム、それがこの豪族であった。親鸞の関東における門徒もまたこの範疇はんちゅうを出ないとみられる。
 しからばかかる封建制のアトムから、いかにして自由之魁磐州河野広中を、そして福島事件・加波山事件・秩父騒動を、生みだすことができたのであろうか? 一言にしていえばそれはこのアトムからではなくその対立物から、換言すればこのアトムの崩壊過程から、生みだされてきたものであった。それを河野磐州自身のファミリーヒストリーについてみるなら、純封建的「豪族」河野氏の世系は、磐州の祖父の代にいたって、地主であり郷士であり、名目上の禄百石と五人口を給さるる藩士でさえあって、しかも呉服太物業・魚問屋・酒屋を経営していた。一介の郷士にしてたとい名目上とはいえ(「新地」すなわち未開墾地を給された)百石の高禄に擬せられた栄誉の根源は、ほかならぬそのブルジョア的な側面による致富にあった。その時代は、この祖父の室リキ子が白河楽翁しらかわらくおう侯の養母清照院せいしょういんの侍女であったことを挙げればわかる。幕末の諸小国家を純封建的搾取体制のはてしなき窮乏からたて直おすための「殖産興業」が、この「賢侯」によって東北諸藩の日程にのぼされたその時代である。
 磐州の家はその後、父、兄の二代――文政天保度からぎりぎりの幕末にかけて、そのブルジョア的経営面において栄枯があり、磐州自身の年譜の上でも、十二歳から十四歳まで(万延元年―文久二年)二本松にほんまつの商家に見習にやられ、逃げ帰って志を治乱に立て、水戸天狗てんぐ党(元治元年十六歳)に際しては「同志」とともに応じて危うく一命を保ち、戊辰ぼしん内乱(二十歳)に当っては民兵を組織して三春みはる藩論を「帰順」に導き、暗転して維新となるや、若松県ついで三春藩の微官(準捕亡・捕亡取締役)にされ、副区長に転じ、「常盤副区長に就任してから初めて三春支庁に出頭した時のことである。三春町の川又貞蔵からジョン・スチュアルト・ミルの著書で、中村敬宇けいうの飜訳した『自由の理』といえる書を購い、帰途馬上ながらこれを読むに及んで、これまで漢学国学にて養われ、ややもすれば攘夷をも唱えた従来の思想が一朝にして大革命を起し、忠孝の道くらいを除いただけで、従来もっていた思想がこっぱみじんのごとく打くだかるると同時に、人の自由人の権利の重んずべきこと、また広く民意に基いて政治を行わねばならぬことを自らさとり、心に深き感銘を覚え、胸中深く自由民権の信条を書き、全く予の生涯に至重至大の一転機を画したものである。しかもその変化が不思議と思わるる程の力を奮い起したことは、今更ながら、一大進境の種たりしを思わざるを得ない。自由の理を読んで心の革命を起せしはその年(明治六年)三月の事だ……」。
 このような河野磐州の不羈奔放ふきほんぽうと思想的発展転化の基底にいきづくものは、はたして俗論史家の論断のごとき河野氏累世の尊王精神であったか。磐州みずからいうごとく豪族をいただく自由独立精神であったか。それとも経済史家の定説のごとき封建的宇宙の窮乏化であったか。それとも磐州祖父の世代から緊密につながったところのブルジョア的生産関係と交通関係に――関東においては坂下門事件・天狗党の幕末から福島・加波山・秩父・静岡の明治十年代自由党左派の決起に及ぶ一連の「事件」が士農工商の別なき人的構成の各末端において示し、また生糸絹織物綿糸綿布蚕桑に茶という指標的産業の全構造と範囲とが示すところのそれに――帰着せしめることはできないか。要言すれば資本のマニュファクチュア段階が幕末から明治にかけて、鎖国から開国にかけて、遭遇した運命のインデッキスとして、それをみることはできないか。……そうした提題が、十年といえば一むかしまえ、われわれの間で上下された論議の出発であった。敗戦のおかげで、現実の歴史としてはそれは決着をみているはずだが、歴史の理論としてはまだ決着をみていない。

 理論のこの領野における九年まえと同じ頭を、桜井家の離れの二晩目の枕にならべて、私どもは夜ふけるまでいつまでもいつまでも何かしら話した。話そのものよりもここにこうして話していることじたいが、私には感懐ふかく、眠いくせに眠りあたわぬよろこびであった。
 この家は十余年前村の大火で焼けて、村の大工が村の型通りに新築したおもやの木の香が、九年前には新しかった。いまはどことなくおちついて、奥の一間が産室にあてられているらしい。今度気づいたことは、私が鎌倉山に疎開していらいその谷々の古い農家に見ている構造と、この桜井家の構造と、手法のはしにいたるまで寸分たがわぬ点であった。おそらく親鸞の時代からこれら郷士の家々は同じ形に再生されているに違いない。しかも磐州の時代と違って、二十年前この家の嫡子および彼とともにここに枕をつらねているわれらの、「生涯に至重至大の転機を画」せしむるためには、すでに何らのブルジョア的契機も必要とはしなかったのである。

 おもやの方向からうぶ声が、遠く、たしかに、きこえた。
 われわれに促がされて、立っていった桜井君が、まもなく帰ってきた。
「どちらだった」
「女だ」
 それでよし、と思ったとたんに、私は熟睡に身をまかせていた。

底本:「黒船前後・志士と経済他十六篇」岩波文庫、岩波書店
   1981(昭和56)年7月16日第1刷発行
底本の親本:「服部之総全集」福村出版
   1973(昭和48)〜1975(昭和50)年
初出:「総合文化」
   1947(昭和22)年1月号
入力:ゆうき
校正:小林繁雄
2010年9月13日作成
2011年4月4日修正
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