黒田清隆くろだきよたかの伝記があれば、だれか教えていただきたい。東大史料編纂所では、みつからない。北海道には手がかりがあろうかとおもって、この小文を思いたったしだいである。
 北海道開拓次官となって樺太からふとつのが明治三年七月二十七日(『大久保利通日記』)、井上清氏の労作『日本の軍国主義』につぎの記載がある。
「政府は七〇年二月樺太開拓使を置いた。ついで五月に黒田清隆を開拓使次官に任じ樺太政務を兼摂、七月樺太に出張して露国士官と協議させた。そのさい黒田は、係争事件はことごとく無雑作に譲歩してしまい、九月帰京するや“樺太ノ経略、断然これヲ棄テテ魯西亜ロシアニ附シ、力ヲ無用地ニ労セズ、これヲ上策トス。タトヒ一歩ヲ譲ルトいえどモ経略ヲ画定ス、これヲ中策トス。雑居ノ旧ニ依リ機ヲ待テ断然これヲ棄ルヲ下策トス”と建議した。おどろくばかりの屈服である。岡本や丸山のような攘夷家が、かかる長官をいただけば憤然辞退するのは当然だ(森谷秀亮氏『明治時代』)」(第二巻、三四頁)。
 黒田が八月久春古丹くしゅんこたんから大久保利通としみちに出した書簡は『北海道史』(第三巻)にある。九月には函泊はこどまり遠淵とおふちの首長と会ったりしているから、帰京は十月中のことだろう。その十月二十八日付で、大蔵少輔伊藤博文ひろぶみが幣制調査のため渡米したいという建白を出し、同十月三日許可され、十一月二日横浜を出帆してアメリカにわたる。黒田開拓使次官が北海道開拓計画をアメリカに学ぶため伊藤のあとを追って渡米するのは、翌明治四年一月のことである。
 伊藤はずっとアメリカに滞在してこの年五月九日帰国している。黒田のほうは、農務長官ホーレス・ケプロンの召聘しょうへいに成功して、その足でヨーロッパを一まわりして四年六月に帰国している。『大久保利通日記』七月五日には黒田の名が出ているから、廃藩置県(七月十四日)直前に帰っているのである。ついでながら西園寺公望さいおんじきんもちが渡仏のコースをアメリカ経由にして、横浜を発つのが伊藤より一月おそい明治三年十二月三日で、四年一月十四日大統領グラントに謁見している。
 当年の日本外交は、一〇〇パーセント親米――いまどきの文字をつかえば、向米一辺倒であった。
「わが当局もまた英公使パークスの高圧的な態度に不快を感じていたので、討伐闘争いらいの英国依存をアメリカに乗換えたのであった。」(井上氏前掲、四〇頁)。
 問題はいつから乗換えたか、ということである。
 討幕薩長同盟いらいの向英一辺倒が鋭角的に突如向米一辺倒に転換するのは、私の考えでは、明治三年五月下旬のことである。
 アメリカの内乱が終って五年めに、日本の内乱が終った。その明治二年正月とともに、日本の鉄道利権をめぐって、猛烈な米英抗争の幕がきっておとされる。
 アメリカ領事館書記官A・ボルトメンが倒壊寸前の徳川幕府当局から江戸横浜間の鉄道利権を取った日付は慶応三年丁卯ていう十二月二十三日、一八六七年十月十七日となっている(この詳細については井上清『明治維新』三四六―三四八頁参照)。その再確認を、ボルトメンから新政府に請求したのが明治二年一月十二日いらいのことで、一月二十九日には書面として提出された。追いかけるように二月九日付で、神戸アメリカ領事ロビネットの名で神戸大阪間鉄道布設願書を大阪府知事五代才助ごだいさいすけあてに提出したのは、新政府が向英一辺倒で、そのイギリスがアメリカの日本利権をじゃまするに違いないことを、見こしたうえでの一書だったとおもわれる。在東京アメリカ公使(当時代理公使)はデ・ロング。イギリス公使はハリー・パークス。
 米英国交関係は、南北戦争いらいひきつづいて悪化している。戦争経営のための高度の保護関税を武器とする通商上の米英抗争はいうまでもないが、一八六七(慶応三)年アラスカをロシアから買収したような膨脹政策が、特にイギリスを刺激するのは、カナダにたいする合衆国の食指のうごきが、周知のこととなっているせいでもある。大統領グラントの対外政策は、対英強硬対外膨脹の線で貫かれており、サン・ドミンゴ島の合併条約も、ハワイとの関税協定もその線上にあった。国会はこの二条約を否決し、アラスカの買収も今後はもう領土買収をしないという条件付で承認したが、このような国会の動きを過大に評価して、当年のアメリカ合衆国の対外政策を「平和的」と規定し去ることは誤っているだろう。とりわけていわゆる「アラバマ号」問題は、しばしば英米国交の危機をもたらした。
「アラバマ号事件」というのは、こうである。一八六一年四月南北戦争が勃発するや、リンカーン大統領は、ただちに南部諸港の封鎖を宣言した(四月十九日)、これにたいし南部政府は、英国に設けた代表部で購入した武器をバハマスまで普通の商船で運び、そこから武器運送専用の高速蒸汽船に積みかえ、つよくなかった北軍封鎖線を突破してもちこんだばかりでなく、やがて北軍船舶を拿捕だほするための巡洋艦の建造を英国商社に発注した。アラバマ号はその一隻で、「二九〇号」とよばれていた。
 一八六二年六月、英国のバークンヘッドのレイヤード造船所で建造中のアラバマ号は完成にちかづいており、それが軍艦であることも明白になったので、米国公使アダムスは英外相ラッセル伯にたいして、アラバマ号の用途を公文書をもって指摘し、建艦の中止を要求した。さらに七月二十一日、二十三日には明確な証拠を付加したので、英国法官もこの通告が事実であるならば同艦は差押えらるべきであると政府に勧告したが、その任にあたるべき関税委員会はなぜか動かず、右勧告書類も女王の法律顧問官ジョン・ハーディングの手もとに「ある不明確な理由」で七月二十九日まで放置されているあいだに、七月二十八日午後同艦は港を出てしまい、拘束命令書が発せられたときには姿を消していたのである。
 同艦はその後アゾレスに回航し、そこでリバプールから来航した二隻の英船によって武器を供給された。同艦の乗組員は大部分イギリス水兵から成り、セムス艦長は南部連合政府の命令で同艦を指揮した。
 英国製軍艦によって沈められた北部の船舶は、拿捕を含めて二〇〇隻をこえるが、アラバマ号は一八六四年六月十九日に沈められるまでの二二カ月間に六〇隻を犠牲にして、最大の損害を与えた。南北戦争の結果の一つであるアメリカ商船業の絶望的な後退は、大半アラバマ号の大あばれのせいとされた。一八六三年九月にはなお二隻の装甲艦が英国で建造中であったが、米国が戦意をあらわにして激しく抗議したことと、英国ももはや南部の勝利に望みを失ったことで、その建造がついに中止された。
 内乱終了後アメリカは、アラバマ、フロリダ、シュナンドーなど諸艦を建造した英国の中立侵犯に関して、その他の抗議に合せて損害賠償を要求した。この交渉はその後数年にわたって米英両国政府のあいだでつづけられたあげく、一八六九年一月十四日、ジョンソン=クラレンドン条約の調印を見るにいたったが、この条約がかんじんのアラバマ号問題をまったく無視していることが判明するや、がぜん米国の輿論よろんは沸騰し、四月十四日上院で圧倒的多数をもって否決された。その日の上院外交委員長チャールス・サムナーの演説は、賠償さるべき米国の被害をつぎのごとき数字をもって示していた。
米国の商船に対する直接の損害 一、五〇〇万ドル
米国貿易のうけた打撃による損害 一一、〇〇〇万ドル
戦争を二年間延長させたための失費 二〇〇、〇〇〇万ドル
 サムナーは上記被害総額の賠償方法についてはなんら言及したわけではなかったが、この巨大な被害の代償としてカナダの割譲をもとめるという考え方は、民心に浸透していたものであった。そのために、サムナー演説はおそろしく英国人を憤激させ、『ロンドン・スペクテーター』は「サムナー氏の演説のごときものはわれわれに戦争を挑むものにほかならぬ」と書き、ニューヨーク・トリビューン在英特派員も、「英国はこのような前提にたって討議するくらいなら、むしろ戦争をえらぶであろう」と報道した。英国人のこの憤激は、サムナーの代弁者たる新任駐英公使モットレイが、国務長官フイシュの訓令を無視して英政府に間接賠償(カナダ割譲)の要求を提議するに及んで絶頂にたっした。
 一八六九年一月―四月、太陰暦では明治元年十一月―明治二年二月はまさにこのような、「アラバマ号問題」をめぐる米英危機の第一波の時期にぞくしていた。この緊張は、後述するように、いくつかの波を経ながら一八七二年九月までつづくのである。
 駐日アメリカ公使デ・ロングの指揮でポートメン利権(江戸横浜鉄道)問題が先手先手と切出されたのは、さきにも書いたように明治二年正月(一八六九年二、三月)いらいのことであるが、そもそもこの利権をアメリカ領事館員ボルトメン個人の資格でとったのが慶応三年十二月二十三日といえば、十二月九日の討幕派クーデター(徳川家の領地を天皇に納めることを命じた小御所会議)から半月のち、薩摩屋敷を焼打して内戦の決意を示す二日まえのことだから、いずれ相当な金額でとったものに違いないが、米公使デ・ロングのはらとしては、薩長をバックする英公使パークスの鼻をあかすつもりだったには違いない。
 さて二月十日(明治二年)に日本政府は米公使デ・ロングにたいして、新政府は鉄道を日本人民に経営させる方針だからボルトメン利権は認めないといって断るが、この口実は英公使パークスの入知恵いれぢえによるものだった。デ・ロングはむろんひきさがらない。この問題をめぐる両国公使のさやあてはいろいろとあるが、終始一貫パークスの勝利で、日本国有鉄道建設をうたったロンドン公債の秘密契約が調印されたのが明治二年十一月十二日、ボルトメン利権を強引に否定する回答をデ・ロングがうけとったのが明治三年一月六日、これにたいして本国政府に照会したうえで厳重な警告を日本政府に通告するのが四月十二日、以上明治二年十一月から三年四月にいたる日本鉄道をめぐる英国の勝利の時期は太陽暦一八六九年十二月下旬から七〇年五月上旬にいたる期間である。
 その期間、「アラバマ問題」の米英緊張はすこしもよくなっていない。国務長官フイシュはその間一八六九年六月と、十二月と一八七〇年一月の三度にわたって、アラバマ号問題解決のため英国にカナダ割譲の意志があるかどうか、きわめて外交的な仕方ではあるが打診をくりかえしている。ワシントン駐在の英国要人は「もしカナダが自ら合衆国に併合されることを望むならば、英国は特に妨げないけれども、しかしそれが奪いとられるのであれば一戦をも辞さないであろう」と言明している。
 東京外交界における英公使パークスの敗退は、きわめて妙なことから、へきれきのごとく降っていた。いわゆるロンドン公債――正式には「日本帝国政府英貨百万ポンド海関税公債」――が、ロンドンで発表されたのは一八七〇年四月二十三日(明治三年三月二十三日)の新聞紙上であった。この公債のための日本帝国政府代理人は、英国最高バス勲位ホレーシォ・ネルソン・レーという、清国総税務司をつとめあげた紳士で、駐日公使ハリー・パークスの親友であった。この親友が、日本政府との契約書では年一割二分の利子をとる。しかるに、発表されたロンドン公債は年九分の利子でしかない――つまり、日本政府に無断で三分の利子さやを稼ぐこんたんであることが、この日はじめて明瞭になったのである。
 このニュースがかっきり何月何日にヨコハマにとどいたか、そのせんさくはできないが、五月二十三日と二十五日の日付をもつ伊藤民部兼大蔵少輔しょうふから大隈民部兼大蔵大輔にあてた書簡(『伊藤博文伝』上巻所収)で、この二人がいかにこのスキャンダルで仰天したか、あきらかになる。大隈、伊藤こそは鉄道問題の全責任者であった。後世の政治家のごとく外国のコンミッションをとっていなかっただけに、ただちにレーとの契約を解除するための対策をたて、六月一日にいたって廟議びょうぎはそれに決するが、政府内部での彼ら両人の立場が、そのためおそろしく不利になる。
 ここまで書かないと「黒田清隆の方針」が出てこないのである。
 そもそもロンドン公債のための契約書が、前年十一月十二日レーとのあいだで調印されたのち、政府部内でおそろしい反対がおきた。反対の火の手はこの年十二月、弾正台だんじょうだいというおそるべき役所からおこり、翌三年二月になると、兵部大丞ひょうぶたいじょう黒田清隆の名において、反対の建白書が提出された。検察庁と軍部からのこの攻撃は大隈、伊藤に不正があるというのであり、鉄道のごとき不急のものを棄てて軍備をさきにせよというのであったが、弾正台も兵部省も(山県有朋やまがたありともは外遊中)薩派の手中にあったことから、このあらそいをもって単純に政府内部の薩長抗争とかたづけ去ってはあやまちであろう(それについてはいま詳述の余地がない)。それにもかかわらず、米公使デ・ロングの手が、薩州系にのびていたということだけはたしかである。
 まえに記した明治二年二月七日付の神戸米領事ロビネットの鉄道願書は、大阪府知事五代友厚ともあつに提出されている。五代と黒田の間柄はここに書くまでもなかろう。すると、翌明治三年三月一日付で、北海道開拓長官にあてて米仏両国人連名の、こんな願書が出されている。
「……蝦夷えぞ地はロシアにちかく国防上肝要の場所たるばかりでなく、鉱山物産の見込みこみゆたかな土地であるから、地質測量や沿岸測量の仕事を、拙者ども――在東京メリケン合衆国海軍士官測量方ワルトン・ギリンネル、同鉱山技師リウルモウル、フランス国大砲方士官陸軍建築方アントアン――の見込を聞いていただきたい。拙者どもの才能の儀については、米仏両国公使に御問合せ下されたい」(『外務省日誌』)。
 三月末から四月にかけて弾正台の人事更迭こうてつが行われ、五月九日付で兵部大丞黒田清隆が北海道開拓使次官に転任するのは、大久保利通の善後処置であったが、「民蔵分離問題」という名で知られている当年の大問題は、今日まで何人からも解かれていない。その問題はけっきょくのところ、内政のうえでは大久保支配権の確立、外交のうえでは向英一辺倒から向米一辺倒への急転回、と関連しているものであるが、くわしくは他の場所で扱いたい。
 黒田新開拓使次官が樺太に出発するのは、まえに記したように明治三年七月二十七日のことである。そのとき彼の方針に、ロシアにたいする融和政策とアメリカに拠る北海道開発という構想がもたれていたことはたしかだろうと私は推定する。
「アラバマ号問題」は、一八七〇(明治三)年十二月五日のグラント大統領の例年教書で、がぜん再度の英米緊張をもたらす。この「脅迫的教書」は、「ことのなりゆきでは、アメリカ大陸とヨーロッパ列強との紐帯ちゅうたいが、断ち切られるのは遠くない」と言明している。そのような空気のアメリカへ、伊藤がまずわたり、西園寺がわたり、黒田開拓使次官がわたってゆくのである。
 明治四年十一月十二日、こんどは日本政府そのものが、わたってゆく。大使岩倉いわくら右大臣、副使木戸きど参議、大久保内務卿、伊藤工部大輔以下七十名。開拓使女子留学生たちもまじっている。駐日公使デ・ロング夫妻が、晴れの嚮導きょうどう役となって、同船している。
 十二月六日サンフランシスコに安着。大々的歓迎ののち横断鉄道の客となるが、大雪のためサルトレーキに途中下車して十余日滞在する。
 そのサルトレーキから、伊藤が東京留守政府の井上大蔵大輔、山県兵部大輔の両名あてに発送した手紙は、日本暦で明治五年正月十日頃にあたるが、おりしも――一八七一年十二月十五日からスイスで開かれているアラバマ号問題仲裁裁判が大暗礁にのりあげて、この問題にかんする最大の英米危機が到来していた。
 その伊藤の書簡(『伝記』上巻六三二頁以下)に、つぎのように書かれている。
「太平鉄路積雪の為に、既に十有余日山中なる塩湖と云へる市府に淹留えんりゅう、空しく曠日こうじついま華盛頓ワシントン府に達するあたはず……現今英米両国の間に起りたる“アラバマ”一条すこぶる困難の事情に至り、或は争端を起すも不可測との新聞を屡々しばしば検せり。欧州よりの新聞にて明瞭なるべし。
 朝鮮一条(一八七一年米国艦隊の江華こうか島事件)の関係をひそかに探索するに、此国(アメリカ)の政府あえて再びこれを討伐するの論なし。……唐太からふと島の事につき魯国との関係をすみやかに処分し、両国の境界を判然各国に知らしむる事、実に今日の急務と臆想せり。……このし英米両国争端を開くの形勢に至れば、魯国もとより傍観坐視するの理なかるべし。現今世界中海軍の勢威を輝かす英米両国互に兵端を開けば、必ず南仏陸地に於て勝負を決したる覆轍ふくてつ(普仏戦争一八七〇年七月宣戦――九月セダン大敗)に出でざる事知るべし。この争闘両三年の久を経る時は、東洋の諸国之が為に利害をこうむらざるを得ず。……
 米人の説に、今若し英米戦争を開かば、魯兵直ちにインドを掠奪すること疑なしと。魯威インドにふるふ時は、東洋の諸国自から漸々その害を蒙らざるを得ず。此時に至らば米国は直に“カナダ”を奪ひ、海軍を以て英の“アイルランド”をつきて之を取るべし。これ此島の住民等英政府をいとひ、その政府に服従せざるを以てなり。
 しかれども就中なかんずく英は海軍の全備せるを以て、直に米国の大西洋に対したる海岸の諸港を襲はるる事疑なしと云へり。此両国の訴訟未だ決定に至らざるを以て、ついに争端を起すに至る、平和に事を鎮する乎、両国の人民といえども之をぼくとする事能はず。然れどもこれ等の事理を推し我国の事情に基き熟考する時は、実に背汗を濡らさざるを得ざるなり、諸君幸に同志と謀り、深思熟慮くその良策を得て、以て時機を誤るなかれ。頓首百拝。」
 この手紙に気がついた時から、わたしは一つの発想を得て、維新外交史でこれまで見落していた方面を、しらべなおすことをはじめたのであるが、その途上の文章に、去年『キング』九月号にのせた「日本の鉄道はなぜ狭軌になったか」がある。大衆雑誌だからむずかしいことははぶいたが、ロンドン公債と贋貨処分問題の内面的関連をのべたものである。井上清氏『日本の軍国主義』第二巻に贋貨問題の記述があるので、あわせて見ていただきたい。また法政大学社会学部学会機関誌『社会労働研究』創刊号にのせた随筆「明治の五十銭銀貨」がある。贋貨処分問題とからむ伊藤の幣制改革案が、アメリカ幣制とリンクしなければならなかった事情を書いたものである。一方はあまりに大衆的にすぎ、他方は閉鎖的にすぎて、ともに『歴史家』の読者から無縁なことをおそれるが、去冬「ケプロンとクラーク」について書き出した原稿をやめてこんなものを書きあげたのは、東京大学大学院学生宇野重昭君にかねて依頼しておいた「アラバマ号問題」にかんするリポートが、非常にすぐれたかたちで数日まえにとどいたためである。本文中「アラバマ号問題」にかんする記述はすべて宇野君のリポートによったことを記して、同君の御協力にたいする私の謝意を表したい。
 なぜ一八七二年六月にいたって英米両国民とも開戦の熱狂からさめたか? そのときまで日本大使一行はなおワシントンにいたのであるが、そして日米単独条約改正の拳を思いとまってイギリスにむけて発つのであるが、そのへんの事情については、だんだんあきらかにできるであろう。
 以上私としては、伝記のない黒田清隆や、まだ研究が総じて十分でないケプロンたちに、ふかい関心をもたれているにちがいない北海道の近代史家諸兄の御協力を得たいとねがっていることがらを主題にとって、『歴史家』創刊号いらい御約束してはたせなかった寄稿の責めを、ここにふさぐこととする。

底本:「黒船前後・志士と経済他十六篇」岩波文庫、岩波書店
   1981(昭和56)年7月16日第1刷発行
底本の親本:「服部之総全集」福村出版
   1973(昭和48)〜1975(昭和50)年
初出:「歴史家 三号」
   1954(昭和29)年5月
入力:ゆうき
校正:小林繁雄
2010年9月13日作成
2011年4月4日修正
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