鉄で船を造ることは、技術的には、ヘンリー・コートが鉄板製造法を発明したことで(十八世紀末)可能になった。だがその後も長いあいだ、水に沈む代物で船が造れるもんかという意見が支配していた。いまだからこそ一口噺ひとくちばなしにでもありそうな気がするのだが、十九世紀十年代のはなしとして、英国王室造船所の技師長が、有名な造船業者スコット・ラッセルにむけて、
「鉄造船のはなしは聞きたくもない、だいいち、自然に反している!」
といった。
 八トンほどの河船で、船名をトライアルとつけられた最初の鉄造船(一七八七年)が英国でできてから、二番目の鉄造船ができるまでに二十年も間があった。ナポレオン戦争も済んで貿易と船舶業が恐しい繁栄時代にはいって、何よりも船材(英国産樫材)が暴騰した。利潤のためには鉄の意志をもつ船舶業者は本気で鉄造船の試図トライアルをやりはじめた。
 自然に反するどころではなかった。鉄造船は同じ図体の木造船にくらべてかえって総重量は軽いことがわかった。
 当時の技術をもってして鉄造船の場合船体および艤装ぎそうを合わせて重量は排水トン数の三十パーセントで済んだが、木造船の場合は四十パーセントだった。
 鉄造船は同一トン数の木造船より四分の一だけ軽く済んだ、したがってそれだけ貨物積載量がえた。
 耐久力の上ではいうまでもないが、一八三四年に鉄造船ガリイ・オーエン号が処女航海で暴風を喰った。ほかの木造船は完全に難破したがこの船だけは無傷だった。
 それでもまだ諸国逓信ていしん省は郵便物の托送を頑として鉄造船にたいしては拒みつづけた。「自然に反する――浮ぶはずがない」という以前のいわくの代りに「自然に反する――コンパスを狂わせる」という信条だった。一八五四年にメルボルン行の鉄造帆船テイラアがラムベイ・アイランドで霧のため難破して三百三十四人死んだ。もってコンパスにたいする憂いの実証とされた。
 世界に君臨する大英国海軍ですら、鉄造戦艦をはじめて持ったのが一八六〇年である。
 ところで木造船では三百フィートというのが構造上の極限だった。大西洋に就航した木造(汽)船では長さ二百八十二フィート三千トン(一八五〇年)というのが最大である。汽船帆船を問わず激化する競争は否応なしに大船を要求した。
 テイラア号の難破に遅れることわずか四年、一八五八年に英国で起工した長さ六百八十フィート、幅八十二フィート、一万八千九百十四トンという巨大船「レヴィアザン」こそ、鉄造船にたいする半世紀にわたる頑強な杞憂きゆうを永遠に吹飛ばした、「自然にたいする闘争」のこの方面における決定的勝利のシンボルだった。ところが経済的に落第してしまった。
 というのも――

 船材としての木と鉄の競争は、帆船と汽船の闘争とはまた別のことがらであった。強いていえば帆船は鉄造船時代に入るとともに最後の発展段階に到達して、なお初期の発達段階にあった汽船にたいする競争力を一時増したのである。
 それにたいする汽船の究極の勝利は、エンジンの発達によって購われた。単式低圧機関から複式高圧機関へ、三段膨脹トリプル・エキスパンションないし四段膨脹カドラブル・エキスパンション機関へ、タービンおよびギア・タービン機関へ、内燃機関へ――ここで現在の時点が争われている。
 複式機関の発明からタービン機関船までの発展はわずか三十年で行われたが、汽船史上の最も興味のある時代はむしろ、フルトンのクレルモント号の進水(一八〇七年)から数えて六十年間にわたる単式機関船時代にある。あらゆる技術上の驚異的成果にもかかわらず、単式機関船時代には、経済的に、帆船にたいする勝利はついに不可能に終ったのである。
 これは汽車のはなしだが、スティーヴンソンの最初の試験的な機関車がキリングウォース炭坑で一年間石炭を運搬したときの算盤そろばんは、馬にかせる場合の費用とまさに同じだった。技術的には進歩だが経営経済の上では何の足しにもならなかった。機関車の食糧節限――一馬力当りの石炭消費率の減少を可能にしたスチーム・ブラストの発明(スティーヴンソン、一八一五年)がはじめてストックトン=グーリントン鉄道(一八二五年)を旅客用にも貨物用にもひとしく「経済的」に完成させたのである。
 陸のスチーム・ブラストに対応する海の技術的転回は同じく高圧蒸気と容積縮小を実現した複式エンジンの発明(一八五六年)で、石炭消費量はおよそ半減した。
 それまでは――低圧単気筒の時代には――石炭消費量は一馬力一時間当り平均六ポンド。そこへもってきて後年のように石炭供給所が到るところにあったわけでないから、いよいよもって尨大ぼうだいな炭庫を必要とした。それだけ貨物ないし旅客のための比例容積は狭められたのである。
 まさか諸国逓信省が鉄造船を頑強に嫌ったからという理由だけでもあるまいが、五十年代までの汽船は、一方帆船がしきりに鉄造化されるにもかかわらず、木造だった。一八三三―一八五〇年の間に建造された大西洋ライナーのうちで鉄造汽船は一八四三年建造のグレート・ブリテン号くらいなものだ。貨物はいっさい算盤に合わぬから帆船に任され、帆船が技術上の最後の発展形態にまで完成されるための経済的根拠となった。相当に高価な旅客運賃だったが、それでも、それだけでは、なお当時の汽船の経済は不可能だった。政府の補助金が加わってはじめて算盤が合ったのである。政府の補助金は郵便物托送を名として客船会社に与えられた。
 エンジンの技術的制約を究極の原因とするこうした経済的依存状態から、エンジンの改良なしに脱却するための方法はないか? 実は問題は一八五一年に次のような形で提起されたのである――政府補助金なしに英濠間の汽船航路をいかにして実現せしむべきか?
 この年濠洲のヴィクトリアで金鉱が発見された。もっぱら農業植民地としてのそれまでの濠洲の欧洲にたいする意義が一変した。定期的な連絡が要求された。海底電信はまだだった。金色の植民者団はそれで英濠間の最速汽船にたいする賞金を発表した。
 そこでE・S・N――東方汽船会社というのが英国で設立されて、翌一八五二年に千三百五十トンの汽船を二隻つくって、賞金は見事貰ったが算盤が合わぬことになった。英国政府が郵便補助金をどうしてもくれない。
 株主会議。補助金なしでいかにして経営すべきか? 技師ブランネル氏の最も理論的なプランが株主たちになるべく解りやすい言葉で説明された。エンジンの改良はまだどこでも実現されていない。とすればエンジン以外での技術的改良によって、補助金がなくてももうかるように工夫するほかはない。それにはべらぼうもなくおおきな船を造るというのがブランネル氏のプランである。

 従来の汽船の少くとも五、六倍の大きさ――約二万トンの巨船を造って、相当馬力の――もちろん単式低圧――機関を装備すると、二、三千トン級の船に比して沢山の有利な条件がえられる。こんな巨大船はいったん動き出したらあとは楽に推進できる。したがって同一式の機関でも小汽船に比して速力にたいする石炭消費率は減少する。つぎに濠洲までの所要石炭をたっぷり積込むことができ、速力は約十五ノット出せる予定だが(この時までの汽船の最大速力は大西洋ライン「エシア」木造二千三百トンの十二ノット半)、何よりの強味は船体が巨きいため所要炭庫(および機関部)容積が比較的に最小で済むこと、したがって貨物および船客の収容力が比例的に激増することである。これらの点からして国庫補助金によらざる経営が充分可能になるばかりでなく、厳密な計算に基づいて、年四割の配当を予言することができるのである――。
 株主会議は可決した。はじめふさわしくも「レヴィアザン」と呼ばれたこの巨大船は、まもなく「グレート・イースタアン」と改名されて一八五四年五月一日にロンドン・ミルオール造船所で起工、満三カ年と九カ月を費して、めでたく進水の運びがついた。
 トン数一八、九一四(それまでの最大鉄造船は三、三〇〇トン)、排水トン数にして二七、〇〇〇トン、長さ六八〇フィート、幅八二・五フィート。一万トンの石炭と六千トンの貨物を積み、四千人の船客を収容し、軍隊なら一万人を輸送することができるはずである。
「「グレート・イースタアン」横断面」のキャプション付きの図
「グレート・イースタアン」横断面

 たんに大きい、だからまた補助金なしで算盤がとれる、というだけでなく「グレート・イースタアン」は鉄造船技術史上の一つの画期的存在でもあった。なぜならこの船ではじめて理想的な「沈まない船」ができた――いわゆる「ダブル・スキン」がはじめて応用されたのである。
 吃水線きっすいせん以下と上甲板とが密房組織の二重張になった。何でもない工夫のようだが、技師ブランネルが、有名なメネー管橋の橋梁工事の経験から案出したものである。外壁が万一破れても、けっして船内には浸水しない。だが万々一内壁まで破れるような椿事ちんじが起った場合には?――というので、さらに、セカンド・デッキ以下を、船長六十フィートごとに完全に遮断する横隔壁を設け、船首と船尾にはもうひとつ特別な隔壁を作った。
 鉄の船は沈む――という臆断は、これで完全に否定されたわけだ。いな、およそ沈まぬ船というものが、木でなく鉄によって、はじめて実現されたのである。
 一八五八年一月三十一日。このあらゆる意味で画期的な海の巨人が、近代資本主義の祝福を一身に集めて、進水式を挙げる日である。「グレート・イースタアン」は六八〇フィートの長大な船体をテームズ河に併行させていた。進水は横すべりに行われる。ボイラーも何もはいっていない正味一万二千トンの重さを、約八〇平方フィートの二台の承船架クレードルが、がっちりとのっけて、さらにその承船架を支えて河中まで、たっぷり油を引いた幅八十フィート長さ二百フィートの滑走路が、十四フィートに一フィートの傾斜でのびていた。
 ところが、いよいよ羅針盤コンパスの四隅は銀盃の酒で清められ、支柱がとり外され、巨体が一間ばかりそろそろと辷った、と思うと、どうしたわけか、そこへ釘づけになって、てこでも動かない。
 水圧機を使ったり、散々手間と金を費したあげく、ようやく満潮時の河水に浮んだのは、それから三カ月のちだった。船は浮んだ。最後の予算外の大失費のため、今度は会社の方が沈没した。
 進水した「グレート・イースタアン」は、その後さらに一年と四カ月ばかりは、艤装も施されず、有楽町の半出来の映画劇場みたいに、醜怪な姿をさらしものにしていた。が、やっと工面がついて、一八六〇年六月処女航海を行った。
 だがその航路は、彼女本来の使命であった濠洲航路ではなく、太平洋航路だった。そもそも濠洲航路を補助金なしで稼ごうというのでできあがった巨大船である。その性能をもってこの長航路を独占し、往も復も満員満載――にちかい状態を予想して、そもそも算盤が弾かれていた。それも、さんらんたる金色の雲が濠洲を包んでおった六年前の算盤である。その黄金狂時代は、カリフォルニアでも、濠洲でもあまりに早くすぎ去ってしまった。
 結局のところ濠洲黄金狂時代の申し子であった巨船「グレート・イースタアン」が、結局のところ大西洋を――他人のうみを――稼がねばならん破目はめとなった。
 そこには一八三七年以来の歴史をもつキュナード汽船が、ことに最近、多年の競争相手だった米国コリンス会社を完全にノックアウトした(一八五八年)ほどの実力――柄は小さいがサーヴィスは満点という娘盛りの一大船隊をようして控えていた。
 そこで当然、「グレート・イースタアン」にべらぼうな積載容力があればあるほどいよいよ算盤が合わなくなる、という悲劇が生じてきた。そもそもが客と貨物を満載せんことにはやってゆけないはずにできていたのだ。
 そのうち、棄てる神あれば助ける神、という小市民的譫言うわごとを、助けるような出来事が降っていた。旅客でも貨物でもなく、どんな種類の「商品」でもなくたんに一個の使用価値にすぎないところの山のごとき物品を積込む日が、「グレート・イースタアン」を訪れた。商品ではないから、したがってまた「運送」するのでもない。山のごとく積込んだ物を順繰りに大西洋の底へ沈めてゆく「グレート・イースタアン」は、もはや何らの「商船」でもない。皮肉な運命にもてあそばれて商船としては見事落第した彼女がいまは工作船として――海底電線の敷設船として、思いもかけぬ能力を発揮しつつあったのである。
 じっさい、大西洋の一方から他方へ、およそ三千マイルにちかい長さの代物しろものをひっぱってゆくという前代未聞の仕事には、まことにうってつけの彼女であった。彼女を除いたら、どんな大きな船といってもやっと三千トン級で、とうていこの仕事には耐えられなかった。だがこの独占的仕事も、一八六三年から一八七四年まで前後十一年間続いておしまいになった。その頃はもう、優美な複式機関スクリュー船が商船界に君臨して、無格好な外輪をくっつけている図体ばかりでかい彼女をあざわらっていた。用のない彼女は自殺するほかはない。一八九〇年、一世を震撼させた「グレート・イースタアン」は、リヴァープール湾に注ぐマアセイ河のとある場所で解剖されて鉄片となった。

「グレート・イースタアン」はいいみせしめとなった。彼女が進水してから三十年間というものは、その大きさの半分に達する船さえついに一そうも造られていない。そして、彼女を凌駕すること四百四十七トンという大船が生れたのは、やっと一九〇一年――彼女の誕生日から数えて実に半世紀の後であった。しかし英国旗をひるがえすはずもない。英帝国主義の一大敵国にまで発展した新興ドイツをシンボライズする、一万九千三百六十一トンの「カイゼル・ウィルヘルム二世」がそれである。
「グレート・イースタアン」から「カイゼル・ウィルヘルム二世」にいたる半世紀の間、技術上の進歩はどの方面で行われていたか? 船体の構造についていえば、トン数の割合にいやに細長くなったことである。そのため速力が増し、同時に中央部船室の数が殖えるという一石二鳥の徳がある。むろんライナーの話で貨物船はべつだ。何よりの発達はいうまでもなくエンジンで、複式エンジンのことは前に書いたが(それとともに外輪パドルは永遠に博物館物になった)、一八八一年には三段膨脹機関トリプル・エキスパンション・エンジン、一八九四年には四段膨脹機関カドラプル・エキスパンションが発明されて、そのたびに汽船はいよいよ「経済的に」なっていった。「グレート・イースタアン」がべらぼうな図体に設計されたのは単式機関の欠陥を補うための手段だった。これに反して「カイゼル・ウィルヘルム二世」は時速二三ノット半を平気で出しうる双スクリュー四段膨脹エンジンの性能を百パーセント発揮するために、半世紀の間忘れられた怪物的巨体を恢復かいふくしたのである。
 汽船の凱歌がいかは帆船にとっては輓歌ばんかであった。「グレート・イースタアン」が起工される四年前、一八五〇年の数字で、全世界の船舶総トン数は九百三万二千トン、そのうち八百三十万トンすなわち九一・九%までは帆船であった。ところが「カイゼル・ウィルヘルム二世」が進水する一年前、一九〇〇年には、総トン数二千六百二十万五千トンのうち六一・九%までは汽船になっていた。
「グレート・イースタアン」は鉄造船の権威を確立したけれども汽船としては、換言すれば帆船にたいする新たなる世紀の挑戦者としては、失敗した。帆船はかえって自己を鉄造化することによって、なおしばらくのあいだ、汽船にたいする優越的地位を保つことができた。むろん旅客だけは汽船に譲らなければならなかった。が、年とともに激増してゆく貨物の運輸という部面では、鉄造帆船が商業上の優勝者として残った。全世界の帆船トン数は一八八〇年までは年とともに殖えていっている。
一八五〇年   〇、八三〇万トン(九一・九%)
一八六〇    一、一八四   (八九・一%)
一八七〇    一、四一一   (八四・二%)
一八八〇    一、四五四   (七二・九%)
 括弧かっこのなかは帆汽船合計船舶総トン数にたいする帆船トン数の比率である。帆船は一八八四年まで年々殖えてゆき、同時にまた減ってゆきつつあったのである。
一八九〇    一、二〇二   (五四・〇%)
 実数の上でも減った。貨物が帆船から汽船に奪われてゆくのだ。貨物は何よりも資本家的商品である。何月何日にロンドンから、メルボルンから発送すれば、何月何日までにヨコハマへ、シスコへ着くという見とおしが何はおいても必要である。いかにも帆船の方が運賃は安いが、運賃をいっておれないもっと大きな利益が、運輸時日の確時性パンクチュアリティという一事から生れる。
 帆は風まかせ。
一九〇〇      九九九万トン(三八・一%)
 帆のない汽船トン数の方が、絶対的にも相対的にも殖えたのである。石炭をいて臭い煙を吐く蒸汽船に、たとえば茶のような商品は、いかになんでも、積むことができない。そのほか果実くだもの――その他およそ「生身なまの貨物」だけは、いつまでも帆船のものである。という意見が船舶業者の間でも、陸の商人の間でも、長いこと行われていた。そんなわけで、帆船芸術の極致といわれた数々のティー・クリッパアは、汽船が太平洋を渡るころになっても、依然として南シナ海、インド洋および太平洋の女王だった。ところが一八六三年にとある果敢な荷主が出て、上海シャンハイからロンドンまで一千二百五十トンの新茶を蒸汽船ロバート・ロウエ号に運送させた。そして、新茶の香気が汽船によっていささかも損われないという事実を実証した。それでもまだその後十年ほどは、茶は帆船にという偏見が維持されていた――ただしその後十年だけのことである。
 果実をはじめ、マトン、ラム、ビーフ、バター、ミルク、野菜、魚類等々の「生身なまの貨物」にいたっては、汽船はいけないどころか、汽船によってはじめてこれらの貨物は長距離輸送が可能になった。最初の冷蔵船が英濠間を往復したのは一八八一年である。その前年、試験的に濠洲からロンドンに運ばれた羊肉はわずか四百頭分にすぎなかったのが、一九〇一年には濠洲から百二十二万五千頭、ニュージーランドから三百二十三万頭、アルゼンチンから二百六十万頭分――換言すれば冷蔵船の出現によって濠洲以下ははじめてヨーロッパのための生肉供給所となることができたのである。
 汽船はいまはあらゆる貨物を帆船から奪っていったばかりでなく、帆船時代には存在しなかった貨物を新たにつくり出しさえしたのだ。

 ことのついでに日露戦争の年、一九〇五年をとってみよう。
一八八〇   一、四五四万トン(七二・九%)
一八九〇   一、二〇二   (五四・〇%)
一九〇〇     九九九   (三八・一%)
一九〇五     九五六   (三〇・九%)
 これは世界中の商帆船トン数と、それの総商船トン数にたいする割合であった。したがってこの数字は、平均化されている。おのおのの国についてみれば、帆船の敗退はあるいはもっと早く、あるいはもっと遅れて、起っている。英本国では一八九〇年に帆船トン数の比率は三六・八%に減っており一九〇五年には一五・六%――この年の全世界の平均比率の約半分である。
 これにたいしてノールウェイでは、一九〇五年になっても五五%、ロシアでは同じく五三・六%――これらの国々は、やっと一八九〇年当時の世界的水準に、この点では、停滞していたということができる。
 わが大日本帝国では――
 一九〇五年の帆船トン数三三四、六八四トン、汽船トン数九三八、七八三トン。総商船トン数にたいする帆船トン数の比率は二六・三%。この年の各国平均比率三〇・九%よりいいばかりでなく、英国の一五・六、ドイツの二二・四には及ばないがフランスの四八・七、合衆国の三七%にくらべてずっといい。
 もっと昔、明治二十三年、一八九〇年、世界全体としてはまだ帆船の方が多かった。英本国では帆船トン数の比率は三六・八%だった。ところが日本は、なんと、三三・八%。
 けれども、同じ年、一国における汽船トン数の多さ、帆船トン数の少なさ――のトップを切っている国は、日本ではなくシナであって、いわく二八%、一九〇五年で三〇%。
 何の不思議もないはなしである。シナや日本のような東洋の君子国にとっては、汽船と同様に西洋型帆船もかつてはすべて「夷狄いてき」のものでしかなかったのだから。
 そのかわり、いったん「西洋文明」をこの方面でも採用する段になると、鉄の船は浮ぶはずがあるまいの、なまものは汽船には積めまいの、といった苦労をはじめ、およそ「グレート・イースタアン」式の悲劇いっさい、味わう必要もなかったのである。
 ペリーの「黒船」に上下顛倒して数年たたぬうちに、幕府だけでなく薩藩その他までが、自ら黒船の所有者となり、そのなかにはペリーの旗艦「サスクハナ」にひけをとらぬ、代物しろものすら見出されたというわけである。
 だが、幕末の日本軍艦の大部分は半汽走船――補助汽走船だった。汽船と帆船の混血種であり、汽船と帆船の一世紀にわたる闘争の間からさまよい出た折衷派である。

 どんな闘争でも、折衷派という奴をうみ出す。
 最初の補助汽走船はアメリカの帆船業者がつくり出した。一八四五年に補助スクリューを装備された七百トンのクリッパー「マサチューセッツ」がそれで、一等船客三十五名を収容できる優美な船だった。これをもってアメリカの船舶業者は、一八三七年以来北大西洋の旅客をかっさらった英国のキュナード汽船に対抗しようとしたのである。そもそも最初の補助汽走船が、形式は混血種でも、けっして汽船業者の利益のためでなく、これを敵とする帆船業者の武器として発明されたという点を、銘記しておくことが必要だ。
 もっとも、生れたての汽船も、補助汽走船みたいなものだった。だが、その場合あくまで帆の方が補助機関であって、汽船が完成されるにつれて帆も帆柱もなくなってゆき、今日では、尾底骨びていこつ的存在にまで退化してしまった。
 いわゆる補助汽走船は、本来帆船であり、あくまで汽船に対抗するための、帆船の変形物にすぎない。だから汽船が発達して、補助の帆柱を単なる旗竿に使うようになっても、いわゆる補助汽船はけっして跡を断たなかった。失敗しても失敗してもあとからあとからできていった。没落する帆船業者の悲鳴的利害をその基礎にもっていたからであった。
 一見補助汽走船はうまくいくように思える。風のあるかぎり帆を掲げて、一文も使わず時にいいかげんな汽船以上の速力もでる。天候一変すればエンジンをかけて稼ぐから、……だから折衷主義を「日和見ひよりみ主義」というのである……ほぼ間違いなく予定日数を約束することもできて、汽船より安い賃銀で、汽船のもつ最大の利益――パンクチュアリティ――を大方の顧客に提供することができる。
 だが、しょせんそれは不可能であった。天候一変の節、存分役に立つだけ強力なエンジンを装備すれば、エンジンやボイラーの容積は大きく要る。機関部員も一人二人では済まなくなる。結局エンジンが遊んでいる日も得にはならない。さりとて、得になる程度の小規模な馬力では、いざ荒天となって、何の役にもたたぬ。
 この矛盾を解決してくれるものはないか? 詩にみちた、かぐわしい、帆船時代をとり戻すために? そして貧血した帆船業者を、昔の利潤にありつかせるために?
 たまたま二十世紀の前夜にあたって、ディーゼル博士が内燃機関を発明した。エンジンも、燃料も、きわめてわずかな容積で済み、熟練した技師が一人か二人あれば沢山、さあ問題は解決した、というので、一九一〇年頃から、ディーゼル・エンジンを補助機関に備えつけた日和見帆船がワンサとできた。
 だが、ディーゼルもまた従来発明されたすべての推進機関と同様に、結局は汽船をより「経済的」に武装した。二万トン以上のモーター・ライナーは今日ではけっして珍しくない。ディーゼルはあまりに経済的であった。――で、かりに一万トンの帆船がこの機関を有効な補助推進機関として据付すえつけたとすれば、今度はついに七千八百平方ヤードの帆布が、それ相当のリギンが、マストが、そして、これらすべてに生命を与えるための相当人数のセイラーが、かえって「不経済」の原因となっただろう。
 帆船そのものが、否定されたのである。
 帆船輓歌は、ついに日和見主義の輓歌であった。

底本:「黒船前後・志士と経済他十六篇」岩波文庫、岩波書店
   1981(昭和56)年7月16日第1刷発行
底本の親本:「服部之総全集」福村出版
   1973(昭和48)〜1975(昭和50)年
初出:「中央公論」
   1932(昭和7)年9月号
※初出時の表題は「黎明期の船史」です。
入力:ゆうき
校正:小林繁雄
2010年4月26日作成
2012年5月12日修正
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