しかれどもこの地の精華はその実、上層にあらずして下層にあり、御茶の水上橋に非ずして御茶の水下橋にあり(橋の名のかく名づけられたるなり)下橋を渡りて隧道に依りて通ずる幾個の地下国は尽くこれ待合(今の待合とやや性質を異にす)にして、毎家、幾多の蛾眉を貯ふ。房廓は昼夜数百の電燈を点じて、清気機は常に新鮮なる空気を供給す。房中の粧飾、衣服の驕奢、楼に依り、房に依り、人に依りて各その好尚を異にす。濃艶なる者は金銀珠玉、鳳凰舞ひ孔雀鳴く。清楚なる者は白沙浅水、涼風起り白鷺飛ぶ。洋風なる者は束髪長裾、俗にこれを嬢と呼び、和装なる者は雲髻寛袖、俗にこれを姫といふ。小桜姫とレツドローズ嬢とは両派の名妓にして彼が一月の纏頭は二万円を下らずといふ。世人この地を称して楽園と呼びまた白魔窟と呼ぶ。かつてここに遊びたる紳商某は足再びその室を出でずして鉅万の産を蕩尽したる事あり。文士某がこの地の名妓仇国と心中したる時の遺書は一巻の小説として出版せられその売高は以てその生前の負債を償ひたる事あり。
有名なる考証家中邦婀娜夢氏は『四百年後の東京』と題せる一書を著して非常の好評を博せり。その中の一節に曰く
野蛮の先導者暗黒時代の松明持孔子を祭りたる廟と今なほ二、三の考古家によりて愛読せらるる『論語』といふ古書における「子の曰く」を研究したる学校とのありし処は今の○○シヤボン屋のシヤボン庫のあたりなりといふ。シヤボン屋主人の物語る所によればその第三シヤボン庫と第四シヤボン庫との間にある朽根は彼の幼時なほ緑葉を見るに及びたる老樹にして昔は聖堂構内の物なりしといひ伝へたりと。
御茶の水殺人事件とて当時の東京に喧伝したる、特にこの事件のために新聞の雑報小説に残酷なる傾向を促したりとまで称へらるる事件の被害者「この」の屍骸の横はりたるは、待合白※[#「間+鳥」、U+9DFC、45-14]亭の六扇窓下にして、スルガホテルの厠の窓より見下すべき駿台第一の老屋、その屋の棟に金箔の僅かに残りたる十字架は、その昔宗教隆盛時代に建築せられ、当時の慷慨家をして「彼巍然たるニコライ会堂」あるいは「東京市中を睥睨する希臘教会堂」と慷慨せしめたる、四百年前の最大」建築なり。噴飯
云々御茶の水殺人事件とて当時の東京に喧伝したる、特にこの事件のために新聞の雑報小説に残酷なる傾向を促したりとまで称へらるる事件の被害者「この」の屍骸の横はりたるは、待合白※[#「間+鳥」、U+9DFC、45-14]亭の六扇窓下にして、スルガホテルの厠の窓より見下すべき駿台第一の老屋、その屋の棟に金箔の僅かに残りたる十字架は、その昔宗教隆盛時代に建築せられ、当時の慷慨家をして「彼巍然たるニコライ会堂」あるいは「東京市中を睥睨する希臘教会堂」と慷慨せしめたる、四百年前の最大」建築なり。噴飯
おちやのみづのうてなたかどのたましけどしなぬくすりをうるみせはなし
隅田河口は年々陸地を拡げて品川沖は殆ど埋れ尽さんとす。されど最新の式に憑りて第四回の改築を行ひたる東京湾は桟橋櫛の歯の如く並びて、林の如き帆檣安房上総の山を隠したり。第七砲台の跡に建てられたる銅像、日本が数箇の強国を打ち倒し第十四回平和会議の紀念として建てられたる万国平和の肖像は屹然として天に聳え、日々月々出入する幾多の船舶の上に慈愛の露を灑ぎ居れり。世界第一の大軍艦豊葦原号の帆檣が満潮の際においてなほこの肖像の台石に及ばざる事数尺なりといふ。この時における港湾は最早単一なる船舶碇繋場にあらずしてむしろ海上の市街なり。万般の必要物は悉くこれを商ふ船舶ありて、いはゆる移動商店(商ひ船の事)は海上に充満せり。水船、酒船、料理船、青物船、小間物船、裁縫船、洗濯船、見世物船、蒸気風呂船、内科医船、外科医船、そのほか日常の事物坐ながらに用を弁ずべし。汽笛には符号ありて、何船にても必要ある者は汽笛を鳴らしてこれを呼ぶ。呼ばれたる移動商店はその呼び主を尋ねてその需要を満たす。便利なる事あるいは陸上に勝れり。さればその便利なるだけそれだけ混雑もまた甚だしく警察船の常に往来するにかかはらず、掏摸船の災難に罹る者少からず。平和肖像の下に置かれたる港湾裁判船は日々三十件以上の新訴訟事件を取扱はざる事なしといふ。東邦平和雑誌記者はこの東京湾の未来を論じて世界の大勢に論及し、最後に放言して
吾人が同胞幾百万の血を以て得たる彼万国平和の慈仁なる肖像に再び不潔の血を塗る時あらば、その時は第十一回平和会議の結果としてこれより十倍大の平和肖像を建設するの時なり。
といへり。しかれども世人はなほ平和の夢を貪るに余念なく、宝舟と称する美術船にて今年正月二日に売り捌きたる七福神の画は未だかつてあらざるの多額に上りたり
よのなかにわろきいくさをあらせじとたたせるみかみみればたふとし
〔『日本』明治32・1・1〕