此度の信州旅行は、伊那の高遠町の名高い小彼岸櫻を見る事と、天龍峽の芽吹きの若葉を見たい爲であつたが、高遠町の方には更に永年心にかけてゐた老女繪島の遠流の事蹟をしらべたい私の念願が果されて、はからずも伊那の友人によつて、彼の地に繪島の研究者があり、その人に紹介の勞をとつてもらふ事が出來る事になつた大きな目的を持つてゐたのである。
 五月一日の朝、私は郷里下諏訪町まで迎へに來てくれた友人有賀氏に連れられ辰野驛に汽車を降り、そこまで出かけてくれた同舊友矢島氏に會ひ、そこから自動車で伊那町に至り、そこでやはり舊友の小原氏に會した。之等の人々は皆二十四年も以前の友達である。その頃私達は諏訪、筑摩、伊那、佐久など信州各地の歌好きな青年男女が十五六人グループを作つて「白夜集」といふ短歌の囘覽雜誌をこしらへ歌の勉強をした。若山喜志子さんもこのメンバーの一人であつた。今日集まつてくれた人々は皆その時の舊友であつて、今はそれぞれその地方の組合農會、銀行などの重要な地位にある人々で地方町村を負うて立つてゐるのであるが、昔はそろつて歌をやつたものであつた。此人々が集まると今でも「東京に出て行つた時には心配したがお邦さんもお喜志さんもまづよかつた」と語り合つてくれる郷里の聲援者たちである。
 さて私は、伊那町に入るまでにいくつもの山葵畑を見た。高い崖の傾斜にきれいな水を案配して流し、そこに一面に山葵が植ゑつけられてある。山葵の花は細い莖のさきに小さく白く咲きはじめてゐた。之が此國の農家の副業となるのだらうと思つて私は眺めた事だ。伊那町から小原氏と一緒に自動車に乘つた人は北村勝雄氏と言つて繪島の事蹟の研究者で此度私が出かけて來たのも此人に紹介され度い爲のその人であつた。氏は伊那高等女學校に教鞭をとつて居られる、素朴率直な山國の士らしい誠に親切な人であつた。
 自動車は高遠町に向つて快走してゐる。山國の春らしい透明な空氣を透して明るく晴れ渡つた空は、したゝるばかりに蒼く輝いてゐる。道ばたの農家には梅櫻李一時に花をひらいて遠く鶯が鳴き、近く燕がとびちがつてゐる。行く手に高く現れた山のうしろの高い山は千丈ヶ岳の高峯ときく、斑に雪は白く、山肌は紺碧に群山を抽いてそびえ立つてゐる。それも春らしい眺めであつた。
 高遠町に自動車は入つた。かねて聞いてゐた三峰川の水は深い山々の雪解けの水を集めて蒼い色がやゝ白く濁り、おびたゞしい水は渦をなして街の南を滔々と流れゆくのである。此河床から十六米程高く古風に靜かな高遠町は見渡される。河畔の旗亭に車を止めそこで私たちは河魚料理で晝食をした。そこへ豊島晃氏が來訪された。醫學博士で歌人であつた故豊島烈氏の令兄である。
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 豊島烈氏は實によい歌を作つた人であつた。その著「五月の空」にある
眞珠庵の古き疊にさし入りてとこ世のものと春日ゆらめく
などの歌は深く私の心に印象されてゐるものである。私は非常によい折と思うて令兄に乞うて氏の墓所に參し、それから山道づたひに繪島の墓に向つたのであつた。
 繪島の葬られた寺は蓮華寺といふ法華寺で、町の北、山の中腹にある寺であつた。高い石段をいくつものぼつて、物古りた本堂のわきを通り、更に坂道を七面堂のある高所にまでのぼつてゆかねばならぬ。左手は深い溪流になつてゐて、いく抱へもある老樹は高くしげり合ひ、その繁りのなかから谷の蛙の鳴き聲が響いてくる、といふ樣や幽閑な場處であつた。
 明治になつて、文人中此繪島の寺を紹介した人は田山花袋氏であると聞いてゐる。然し大正何年かに北原白秋氏などが此地に遊んで繪島の墓を訪ねた時に此寺の前住職は「繪島? そんな人は知らない」と答へた由である。それから七面堂のあたりをさがした處、右手の深い草むらのなかに「信敬院妙立日如大姉」の石碑がころがつてゐたといふ事を聞かされた。してみると可なり最近まで繪島の墓はその寺からも人からも忘れ去られた程浮世に縁遠いものとなつて了つてゐたらしい。此頃では時折に遠地から此墓を訪づれる人が多くなつた由で寺でも墓處をあらため石碑を臺にすゑたといふ事であつた。こんな話をきゝながら私たちは登つていつた。
 七面堂の眺めは實にすばらしい。老杉を通して城山の今を盛りの櫻を左に見、右に三峰川の蒼い水を見る、凉しい風が額の汗を吹いて、青草の匂ひが肌に沁む心地である。その右手の草原を通つて小高いがけの上に青竹をめぐらし半坪程の土地をくぎつてそのなかにさゝやかな墓碑が建てられてあつた。石碑の面には文字の刻みも消えはじめて「信敬院妙立日如大姉」右に寛保一辛酉、左に四月十日、妙經百部、繪島殿、とある。墓には時折に人の參するか線香のくづれが松葉の樣にちらばつてゐた。私は若芽ののびた木の枝を折つてもらつてそれを墓前に供へしばらく瞑目した。
 繪島と言へば人も知る如く痴情の罪によつて公に罰せられ、かゝる山國にとぢこめられて世を終つた不思議な因縁の女性である。
 その罰せられたあたりの彼の女の行は決して賞揚すべきものではない。ずゐぶん思ひ切つて亂れたものでもあつたらしい。私も昔は彼の女をその一點よりのみ眺めたのであつた。然るにいつの頃からか私は繪島に對する考へが變つてきた。人生の機微にふれ、人間の深き心にいささかは悟入させられていつたのでもあらうか。
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 繪島の生ひたちに就いては資料から確證を得る事は出來ない。唯ごく身分の低いものゝ娘であつたが、七代將軍家繼の生母月光院のおはしたに上つたのが始まりで、尠くも二十年位の間に大奧大年寄といふ當時の職業婦人? としては最高前例にもない破格の出世をした女性であつた事はたしかである。之は月光院に仕へたのが運がよかつたので、月光院の出世につれて出世をしたのだとだけでは斷じきれない本人の才智人物に優れたものがあつた婦人に相違ない。
 女は美人ならば出世をする、運がよければ出世をする、と世人はよく言ひはやす。然し私は實際社會を貫ぬいて流るゝものは實はもつと嚴格なものである事を知つて、かゝる言を吐く人を眞の苦勞を知らぬ淺薄な人の社會批評であると思ふ樣になつた。それはお妾にでもあがる人はいざ不知、職業婦人として立つ以上、勿論美も運も或程度まで幸するが、第一流の人となるのにはとても/\そんな事でその位置に坐る事は出來得ない。その人の内にある眞實性と人生に對する熱情が第一でないならば、如何なる美も運も才氣もそこに押しのぼる事は出來ない事を觀ずるのである。
 繪島がさういふ位置にのぼつたのは、やはり決して虚僞や才氣のからくりでなく、その内に眞實性があり熱情のある優れた婦人であつたに相違ないと私は思ひ至る。たゞその強い性格が權勢ある位置にのぼつて一度戀の刺戟を受けて、それが不自然のものであつた爲に狂ひを生じたものでもあらうか、強い性格を持つた女性のかゝる悲劇を生み出す事はまゝある事である。
 かゝる女性は惡人ではない、時すぎて迷雲四散しその本性に立ちかへる時愚凡百人に抽づる事の出來る婦人である。徳川の時代がさういふ女性を眞に生かし得なかつたのは遺憾な事と折にふれては私は考へるのである。
 繪島は高遠お預けの後は好んで四書を讀み法華宗に歸依し、靜かに三十有餘年の後生を寂しい山國に埋めて動じなかつた。やはり彼女は凡婦ではない。

 山を降りて寺に立ち寄り、繪島の常用したといふ夜着のほどいた布を見せてもらつた。下手に洗濯をしてしまつて布は大へん損なはれてゐたが、薄緑の支那どんすで牡丹の模樣のあるものであつた。裏は朱色の支那どんすであつたといふ。
 そこを引あげ後年繪島 圍屋敷の[#「繪島 圍屋敷の」はママ]移された花畑(地名)の地を見にまはつた。そこは町のうしろ東寄りの處で今は桑畑となつてゐる。坂下の道をへだてゝ谷川が寂しく遠く流れてゐた。川の向谷の上に一本の道があつて、右手の山が深い樹立の蔭を落し日は早くかぎれて見える。四方山にかこまれたかくも奧深い國に、あの大奧の華やかな榮華のなかから追はれて一生をとぢこめられはてた彼女の心境を、私はしばし身に沁みて考へさせられた。
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 花畑を見て私達は高遠公園にのぼつて行つた。そこは名高い小彼岸櫻の名所で、太い櫻の老樹はあでやかに花のさかりであつた。樹皮にはウメノキゴケを生じ雅趣ある木が何本となく並んでゐる。その下かげに豊島氏の令妹の原夫人と伊那日々新聞社長夫人が私達を待つてゐて下さつた。
 公園の高臺から見渡すと、櫻花をへだてゝ谿の樹々はすでに思ひ/\の若葉をひろげ、藤澤川の急流は若葉の下をたぎちゆくのが見える。あふげば西の山々の奧に南アルプスの峻峰は、折から夕日を浴びて眞白に雪を輝かしてゐる。
「月が出ると高遠町は全く雪月花の世界だ」
と誰かゞ言つた。
 山を下つて令妹原氏の邸宅で暫くは快談に時をうつした。私の泊りの爲に萬端の準備をされ風呂も沸かして下された由だけれど、私はその夜伊那町で彼地の篤學高津才次郎先生に會し、南信の漂泊俳人井月の事を拜聽する約束が出來てゐたので、強ひてそこを辭して伊那町の箕輪屋に投じた。
 高津才次郎先生は伊那高等女學校の教頭で、はやく井月の研究家として知られてゐる。井月は越後生れとのみ郷里を明かにしないが明治廿年三月十日まで、伊那を中心に南信の所々を漂泊し俳諧に終始した、歌道に於ける良寛の如き人であつた。先生の編された漂泊俳人井月全集(白帝書房)によつて見ると、故人芥川氏、又室生犀星、久保田万太郎、佐藤惣之介等の諸氏もその刊行に力を添へられ、之を愛讀された樣である。
 先生が靜かに物語られる逸話のなかで私の心を打つたものは、井月が或る家の庭前に柿の落葉を拾つて埃をふき、其家の家女に「ハイお土産」とさし出したといふ話と、又その臨終に前日貰つた饅頭を持つて仰臥してゐたが、人が訪れるとパチリと一たん眼をあいて再び閉ぢた。それが終りであつたといふ樣な實に尊いと思ふお話であつた。
 私は俳諧を知らないが、此全集を旅先でひろひ讀んでみた處で、ずゐぶん優れたものもあるが、和歌に於ける良寛の樣な格調の高さに至つたものに出會ふ驚きを、良寛ほど數多く感じなかつた。可成り月次調の俳句もまじる心地であつた。併し井月の文字を見、その學殖の深き樣を聞いた時に私は全く驚嘆した。楷書は顏眞卿の筆致をほの見せたと言ふのであるが、草書も假名も實に流麗で、その風格は一茶の樣な野趣のおもしろさでもなく、良寛の全人的深遠なものとも違ひ、實に井月の文字は知識的の鋭さによつて引しまり、心の無駄のない言はゞ近代味をもつたものである事であつた。かゝる人が全く乞食と選ぶなき漂泊の俳人として芭蕉の精神道に正直に殉じた事を思ふと、更に更に尊い心に觸れるのである。私は此度の短い旅にかくまで心を養はれた伊那の二日を、永く忘れ得ぬ事であらう。

底本:「信濃詩情」明日香書房
   1946(昭和21)年12月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:富田倫生
2012年5月7日作成
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