私が始終青年のためにうれえていることの一つは、概して日本の青年は薄ッぺらであるということ。書物を読むにいささか文字を頭に入れるというだけにとどまって、その文の精神を解することをつとめないし、はなはだしきはその意味さえも理解しないでいる者が多い。その癖に大きな書物を読みたがる。むつかしい書物を手にしている。この点に於ては、外国こと亜米利加あめりかだの欧羅巴ようろっぱの書生に較べて、日本書生のく悪い癖であって、ちょっと話振はなしぶりを聞くと、高尚なような、また深いように聞えるけれども、モウ三分か五分話していると、己れ自からが意味をさないで話しているものだから、ぐに襤褸ぼろが出て、薄ッぺらな所があらわれる。これは青年のみならず教師が悪いのであって、教師がややもすれば半解はんわかりであって、教えることを自ら消化していない。その癖大きな問題をかつぎ出す、あるいは大きな書物を引照している。
 ある時中学校に行ったところが、一人の教員が文明史を教えているというから文明史はどんな書物によってやっておられるか、ギゾーの文明史でも御用おもちいかと問うた、その教師がギゾーのは古くて駄目だめですから私が講義をしておりますと。ギゾーの古い事は言うまでもないが。ギゾーがかの錯雑さくざつした欧羅巴の歴史の事実をうまく綾にんで概括した、あの力というものは非常なものである。その智識の博いことと、そのかんがえ慧敏けいびんなことと、その論鉾の巧みなことと、その綜合的の方法、などの力に富んでいることは驚くべきものであって、今でも繰返して読むだけの価値ねうちはたしかにあるものである。それをギゾーが古いからといって、自分があらたに作るというような学者は、日本には未だないと思う。中学は勿論もちろん大学にもないと思う。ところがトンダ大風呂敷おおふろしきを開げるのが先ず今日の常態である。スヰントン万国史ばんこくしは中学などで使っているが、あれさえはじめからしまいまでスッカリ分る中学の教師はないと思う。そういう先生についてやるのだから、書生は同じ方向に進んで、何事も一時の間に合せであって、精々せいぜいく行って、試験に及第すればよい位である。学理などを攻究するという考えよりも、試験及第が第一になっている故精神が大変に野卑になって来る。今後少し頭脳あたまの良い書生は、あるいは小理窟こりくつ饒舌しゃべれるようになるかも知れないが、その精神の卑しいことは一層卑しくなるだろうと心配している。
 私の考えるところは試験の成績は悪くてもよい。同級生におくれてもよい。人の物笑いになってもよい。落着いて自分の心を練って、学問することを考えてもらいたい。人生は競争だとか、戦争の如きものだとか、しきりに言う。勿論もちろんそうである。職業に就くにも御たがいに争ってやる、学校にいる時でもお互に点を余計に取ろうと思って競争する。競争には違いない。戦争には違いない。けれどもそれは小競合こぜりあいの競争であって小兵こものの戦争であって、匹夫ひっぷあらそいというものである。少しく量見を大きくすれば、試験に落第したというても、同僚の者に貴公お先きに入らっしゃい、私はゆっくり行くというて、気を長く学問して、こせこせしないで行くのが私は最終の勝利を得るものだと思う。ゲーテの言葉に、「急ぐなかれ休むなかれ」と、この言葉を守って、大きく悠然ゆっくり学問する癖を附けなければいかぬ。でなければ日本の小国民がいよいよ小国民になってしまう。
 右に言うたことはひとり気を長く大きくしろというばかりでない。気を落着けて、読んだものを良く理解するように、消化するようにせねばならぬということだ。半分分っているやつほどおっかない者はない。しかし残念ながら今日こんにちの日本の社会はこういう奴が沢山にあって、小才子こざいしの天下になっている。しかし小才子の時代は長く続くものでない。今の青年が熟して本当に国の役に立つということは、今より三十年以後のことであろう。その時分の時代は、今日の小才子時代とは違うのであるから、長き将来を思って仕事をするものは、今からその用意をして、自分の品格を養わぬといけない。学問があっても人格の低い者は何事に附けても、人の道具となるにとどまって、大事を成すものでないから、書物を読むにも、学校に行くにつけても、ただ読書にかぶれないようにして、心を養うことをつとめなければならぬ。また書物を読むにしてもその精神でやらなければいかない。いよいよ薄っぺらになるばかりであって、今日の青年の書いたもの、言うことを聞いても一向駄目だめじゃ、イガイガでヒョッと人のことを聞きかじったことが多い。己れはこう思うと、ただ思うのみならず、己れはこうやっているという確信と実行のあるものは至って少ない。心ある青年はここに眼を注がねばいかぬと思う。
 それで僕は教育のことは甚だ知らぬから、今日中学の倫理科なるものがドの位進んでいるか知らぬが、私のことに惜むことは、倫理科で教えることも、理窟を教えるに止まって、人間の行為の動機を定めることが少ないと思う。故に道徳のことに就ても、小理窟が大変に多い。親に孝をしろ、何故に親に、孝をしなければならぬかという理窟を附ける。道徳を学理的に講究する方は、すこぶるこの方法でよかろうけれども、青年の心を養うるに小理窟で行くものでない。孝道を教えるに、孝道の理窟を説くに及ばぬと思う。孝行は理窟以外のことであって、実行にあるのである。例えば孝を論ずるというような議論を書かしたならば、「そもそもこう文字もんじ如何いかん」とか、「孝道の歴史」だとか、あるいは「各国の孝道の比較論」だとか、何だとかいうて難しいことを沢山並べて、つまるところは議論――ただ空論にしってしまうことが、今日の倫理説の傾向かたむきである。孝道の如きは、心を落付けて、父母が己れのためにしてくれたことをかえりみて、感謝の涙を一滴流して、親を思うことが、即ち孝道であって、かくするには一瞬時間に出来ることであって、理窟を言うて論文を書くに五年間かかるよりも、一分間に両親の恩を悟る方が孝道にかなう。かつこれでこそ孝道が分ったというものである。倫理的の行為は吾輩わがはい議論だと思わない。実行だと思う。然るに今日の倫理の教え方は議論に流れ去っている。書生なども、至大な大問題をば口の先にただ論じているに止まって、これを実行するということをつとめるものは少ない。教えるものもその通り、習うものもその通りであるから、倫理的の教育の実行が挙がらないのも当然のことであって、心のごく低いところの書生を動かすということを力めないで、教師は教師で切口上きりこうじょうで堅苦しいことを言ている。生徒は試験及第の事ばかりに汲々きゅうきゅうとしておって、徳を求めるなどのことは考えないのである。このふうで行たならば、人情が薄くなるとか、道徳が衰えるとかいうことも当然の事であって、よしまたいささか進歩することがあっても、外貌的がいぼうてきの改良で偉人の出る見込みはないと思う。デ一体普通教育の目的は、多く普通の人間をこしらえる手段となっているのであろうから、英雄豪傑を養成する目的ではあるまい。けれども英雄豪傑となる原素を含んでいる者を押潰おしつぶして、平凡的普通に教育する教育は、これまた教育の目的にそむくものであって、それだけの要素を含んでいるものは、益々発達させてやるみちを開て行かなければならぬのである。その途というのは、外ではない。即ち心を養うことであるのだが今日その点に於ては学校の設備が更にないようだ。また教師たる人も其処そこに意を用いている人は必ずあろうけれども、先ずく少ないと思われる。
 デ一言で私の言うことをつづめれば、品性を養うことは、今日日本の教育制度に於ては更にない。ないからというてただに教育者をなじるのではない、責むるのではない。むしろ青年諸君に直接に訴えて、今日はその設備がない、ないからして自分でやれということである。かくの如きは教師のあるにくはない、けれども心掛けに依って自分で出来るものである。徳性を養うには自力で、或る程度まで進むことが出来るものである。他力のない以上は自分でやるにかぬのであるから、その心せんことをせつに望むのである。
〔一九〇三年八月一日『青年界』二巻一〇号〕

底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
   2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「青年界 二巻一〇号」金港堂書籍
   1903(明治36)年8月1日
初出:「青年界 二巻一〇号」金港堂書籍
   1903(明治36)年8月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
2010年7月6日作成
2011年4月12日修正
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