ある時中学校に行ったところが、一人の教員が文明史を教えているというから文明史はどんな書物に依てやっておられるか、ギゾーの文明史でも御用いかと問うた、その教師がギゾーのは古くて駄目ですから私が講義をしておりますと。ギゾーの古い事は言うまでもないが。ギゾーがかの錯雑した欧羅巴の歴史の事実を巧く綾に纂んで概括した、あの力というものは非常なものである。その智識の博いことと、その考の慧敏なことと、その論鉾の巧みなことと、その綜合的の方法、などの力に富んでいることは驚くべきものであって、今でも繰返して読むだけの価値はたしかにあるものである。それをギゾーが古いからといって、自分が新に作るというような学者は、日本には未だないと思う。中学は勿論大学にもないと思う。ところがトンダ大風呂敷を開げるのが先ず今日の常態である。スヰントンの万国史は中学などで使っているが、あれさえ始から終までスッカリ分る中学の教師はないと思う。そういう先生に就てやるのだから、書生は同じ方向に進んで、何事も一時の間に合せであって、精々能く行って、試験に及第すればよい位である。学理などを攻究するという考えよりも、試験及第が第一になっている故精神が大変に野卑になって来る。今後少し頭脳の良い書生は、あるいは小理窟位饒舌れるようになるかも知れないが、その精神の卑しいことは一層卑しくなるだろうと心配している。
私の考えるところは試験の成績は悪くてもよい。同級生に後れてもよい。人の物笑いになってもよい。落着いて自分の心を練って、学問することを考えてもらいたい。人生は競争だとか、戦争の如きものだとか、瀕りに言う。勿論そうである。職業に就くにも御互に争ってやる、学校にいる時でもお互に点を余計に取ろうと思って競争する。競争には違いない。戦争には違いない。けれどもそれは小競合の競争であって小兵の戦争であって、匹夫の争というものである。少しく量見を大きくすれば、試験に落第したというても、同僚の者に貴公お先きに入らっしゃい、私は悠くり行くというて、気を長く学問して、こせこせしないで行くのが私は最終の勝利を得るものだと思う。ゲーテの言葉に、「急ぐなかれ休むなかれ」と、この言葉を守って、大きく悠然り学問する癖を附けなければいかぬ。でなければ日本の小国民がいよいよ小国民になってしまう。
右に言うたことは独り気を長く大きくしろというばかりでない。気を落着けて、読んだものを良く理解するように、消化するようにせねばならぬということだ。半分分っている奴ほどおっかない者はない。しかし残念ながら今日の日本の社会はこういう奴が沢山にあって、小才子の天下になっている。しかし小才子の時代は長く続くものでない。今の青年が熟して本当に国の役に立つということは、今より三十年以後のことであろう。その時分の時代は、今日の小才子時代とは違うのであるから、長き将来を思って仕事をするものは、今からその用意をして、自分の品格を養わぬといけない。学問があっても人格の低い者は何事に附けても、人の道具となるに止まって、大事を成すものでないから、書物を読むにも、学校に行くにつけても、ただ読書にかぶれないようにして、心を養うことを力めなければならぬ。また書物を読むにしてもその精神でやらなければいかない。いよいよ薄っぺらになるばかりであって、今日の青年の書いたもの、言うことを聞いても一向駄目じゃ、イガイガでヒョッと人のことを聞き噛ったことが多い。己れはこう思うと、ただ思うのみならず、己れはこうやっているという確信と実行のあるものは至って少ない。心ある青年はここに眼を注がねばいかぬと思う。
それで僕は教育のことは甚だ知らぬから、今日中学の倫理科なるものがドの位進んでいるか知らぬが、私の殊に惜むことは、倫理科で教えることも、理窟を教えるに止まって、人間の行為の動機を定めることが少ないと思う。故に道徳のことに就ても、小理窟が大変に多い。親に孝をしろ、何故に親に、孝をしなければならぬかという理窟を附ける。道徳を学理的に講究する方は、頗るこの方法でよかろうけれども、青年の心を養うるに小理窟で行くものでない。孝道を教えるに、孝道の理窟を説くに及ばぬと思う。孝行は理窟以外のことであって、実行にあるのである。例えば孝を論ずるというような議論を書かしたならば、「そもそも孝の文字は如何」とか、「孝道の歴史」だとか、あるいは「各国の孝道の比較論」だとか、何だとかいうて難しいことを沢山並べて、つまるところは議論――ただ空論に走しってしまうことが、今日の倫理説の傾向である。孝道の如きは、心を落付けて、父母が己れのためにしてくれたことを顧みて、感謝の涙を一滴流して、親を思うことが、即ち孝道であって、かくするには一瞬時間に出来ることであって、理窟を言うて論文を書くに五年間かかるよりも、一分間に両親の恩を悟る方が孝道に適う。かつこれでこそ孝道が分ったというものである。倫理的の行為は吾輩議論だと思わない。実行だと思う。然るに今日の倫理の教え方は議論に流れ去っている。書生なども、至大な大問題をば口の先にただ論じているに止まって、これを実行するということを力めるものは少ない。教えるものもその通り、習うものもその通りであるから、倫理的の教育の実行が挙がらないのも当然のことであって、心の極低いところの書生を動かすということを力めないで、教師は教師で切口上で堅苦しいことを言ている。生徒は試験及第の事ばかりに汲々としておって、徳を求めるなどのことは考えないのである。この風で行たならば、人情が薄くなるとか、道徳が衰えるとかいうことも当然の事であって、よしまたいささか進歩することがあっても、外貌的の改良で偉人の出る見込みはないと思う。デ一体普通教育の目的は、多く普通の人間を拵らえる手段となっているのであろうから、英雄豪傑を養成する目的ではあるまい。けれども英雄豪傑となる原素を含んでいる者を押潰して、平凡的普通に教育する教育は、これまた教育の目的に背くものであって、それだけの要素を含んでいるものは、益々発達させてやる途を開て行かなければならぬのである。その途というのは、外ではない。即ち心を養うことであるのだが今日その点に於ては学校の設備が更にないようだ。また教師たる人も其処に意を用いている人は必ずあろうけれども、先ず極く少ないと思われる。
デ一言で私の言うことを約めれば、品性を養うことは、今日日本の教育制度に於ては更にない。ないからというてただに教育者を詰るのではない、責むるのではない。寧ろ青年諸君に直接に訴えて、今日はその設備がない、ないからして自分でやれということである。かくの如きは教師のあるに如くはない、けれども心掛けに依って自分で出来るものである。徳性を養うには自力で、或る程度まで進むことが出来るものである。他力のない以上は自分でやるに如かぬのであるから、その心せんことを切に望むのである。
〔一九〇三年八月一日『青年界』二巻一〇号〕