昨夜ゆうべふかしをした。
 今朝けさ……とふがおひるごろ、炬燵こたつでうと/\してると、いつもさへづる、おてんばや、いたづらツすゞめたちは、何處どこへすツんだか、ひつそりとしづまつて、チイ/\と、あまえるやうに、さびしさうに、一羽いちは目白鳥めじろいた。
 いまがはなころの、裏邸うらやしき枇杷びはかとおもふが、もつとちかい。屋根やねにはまい。ぢき背戸せどちひさな椿つばきらしいなと、そつと縁側えんがはつと、その枇杷びははうから、なゝめにさつとおとがして時雨しぐれた。……
 椿つばきこずゑには、ついのあひだ枯萩かれはぎえだつて、そのとき引殘ひきのこした朝顏あさがほつるに、いつしろのついたのが、つめたく、はら/\とれてく。
 かんがへてもたがい。風流人ふうりうじんだと、うぐひすのぞくにも行儀ぎやうぎがあらう。それいた、障子しやうじけたのでは、めじろがじつとしてようはずがない。かしても、何處どこにもその姿すがたえないで、まつた銀杏いてふが、一枚いちまいひら/\とぶのがえた。
 懷手ふところでして、かたさむい。
 かうしたは、これからみぞれにも、ゆきにも、いつもいゝものは湯豆府ゆどうふだ。――むかしからもののほんにも、ひとくちにも、おとひゞいたものである。が、……あぢは、中年ちうねんからでないとわからない。誰方どなたたちでも、小兒こどもこれきだとふのはあまりなからう。十四五ぐらゐの少年せうねんで、ぼくどうふがいよ、なぞは――説明せつめいおよばず――おやたちの注意ちういえうする。今日けふのおかず豆府とうふへば、二十はたち時分じぶんのまづいかほ當然たうぜんつてい。
 能樂師のうがくし松本金太郎まつもときんたらう叔父をぢてきは、どうふはもとより、うした豆府とうふだいすきで、したがつて家中うちぢうみなたしな[#ルビの「たしな」は底本では「たし」]んだ。その叔父をぢ十年じふねんばかりまへ、七十一で故人こじんになつたが、ほその以前いぜん……こめりやう六升ろくしようでさへ、なかさわがしいとつた、諸物價しよぶつかやすとき月末げつまつ豆府屋とうふやはらひ七圓なゝゑんした。……どうも平民へいみんは、すぐに勘定かんぢやうにこだはるやうでおはづかしいけれども、何事なにごとはう早分はやわかりがする。……豆府とうふ一挺いつちやうが、五厘ごりんから八厘はちりん一錢いつせん乃至ないし二錢にせんころことである。……つたな! うも。……豆府屋とうふや通帳かよひちやうのあるのは、おそらく松本まつもといへばかりだらうとつたものである。いまのながしもよく退治たいぢる。――お銚子てうしなら、まだしもだが、もよほし稽古けいこなんどいそがしいときだと、ビールでどうふで、る/\うちに三挺さんちやうぐらゐぺろりとたひらげる。當家たうけのは、なべへ、そのまゝはしれるのではない。ぶつ/\とふやつを、わん裝出よそひだして、猪口ちよくのしたぢでる。何十年來なんじふねんらいれたもので、つゆ加減かげん至極しごくだが、しかし、その小兒こどもたちは、みならんかほをしておとゝる。勿論もちろん、そのおとうさんも、二十時代はたちじだいには、右同斷みぎどうだんだつたのはふまでもない。

 紅葉先生こうえふせんせいも、はじめは「豆府とうふ言文一致げんぶんいつち大嫌だいきらひだ。」と揚言やうげんなすつたものである。まだ我樂多文庫がらくたぶんこ發刊はつかんらない以前いぜんおもふ……大學だいがくかよはるゝのに、飯田町いひだまち下宿げしゆくにおいでのころ下宿げしゆく女房かみさんが豆府屋とうふやを、とうふさんとむ――ちひさな下宿げしゆくでよくきこえる――こゑがすると、「ばあさん、また豆府とうふか。そいつをはせるとちまふぞ。」で、かねてこのみの長船をさふねさやはらつて、階子段はしごだんうへ踏鳴ふみならしたと……御自分ごじぶんではなさらなかつたが、當時たうじのおともだちもよくはなすし、おとしよりたちもつて苦笑くせうをされたものである。身體からだよわくおなりにつてからは、「湯豆府ゆどうふことだ。……古人こじんえらい。いゝものをこしらへていてくれたよ。」と、うであつた。
 あゝ、命日めいにちは十ぐわつ三十にち、……その十四五日前にちまへであつたとおもふ。……お二階にかい病床びやうしやうを、ひさしぶりで、下階した八疊はちでふえんさきで、かぜひやゝかな秋晴あきばれに、どうふをがりながら、「おい、そこいらに蓑蟲みのむしるだらう。……な。」「はツ。」とつた昨夜ゆうべのお夜伽よとぎからつゞいてそばた、わたしは、いきなり、には飛出とびだしたが、一寸ちよつとひろにはだし、もいろ/\ある。もまだちない。かたち何處どこか、かげえない。かね氣短きみじかなのはつてる。こと御病氣ごびやうきなにかのおなぐさみらうものを、はやく、とおもふが見當みあたらない。蓑蟲みのむしこひしくまよつた。「其處そこる、……百日紅さるすべりひだりえだだ。」上野うへの東照宮とうせうぐう石段いしだんから、不忍しのばずいけはるかに、大學だいがく大時計おほどけいはり分明ぶんめいえたひとみである。かゝるときにもするどかつた。
 睫毛まつげばかりに附着くツついて、ちひさな枯葉かれはをかぶりながら、あの蓑蟲みのむしかゝつてた。そつとつまんで、をそのまゝ、ごそりとてのひらゑてくと、はし片手かたてに、おもやせたのが御覽ごらんなすつて、「ゆうべは夜中よなかから、よくいてたよ――ちゝ、ちゝ――と……あきさびしいな――よし。其方そつちへやつときな。……ころすなよ。」小栗をぐりかたはらからをついて差覗さしのぞいた。「はい、うへせてきます。」かるうなづいて、先生せんせいが、「おまへたち、銚子てうしをかへな。」……ちゝ、ちゝ、はゝのなきあとに、ひとへにたのみまゐらする、その先生せんせい御壽命ごじゆみやうが。……玄關番げんくわんばんからわたしには幼馴染をさななじみつてもいゝかきした飛石とびいしづたひに、うしろきに、そではそのまゝ、蓑蟲みのむしみのおもひがしたのであつた。
 たゞし、そのころは、まだ湯豆府ゆどうふあぢわからなかつた。眞北まきたには、湯豆府ゆどうふ、たのしみなべ、あをやぎなどと名物めいぶつがあり、名所めいしよがある。辰巳たつみかたには、ばかなべ蛤鍋はまなべなどと逸物いちもつ一類いちるゐがあるとく。が、一向いつかう場所ばしよ方角はうがくわからない。内證ないしようでそのみち達者たつしやにたゞすと、いはく、なべ一杯いつぱいやるくらゐの餘裕よゆうがあれば、土手どて大門おほもんとやらへ引返ひきかへす。第一だいいちかへりはしない、とつた。格言かくげんださうである。みなわかかつた。いづれも二十代はたちだいことだから、どうふではらはくちくらぬ。もち大切おほぎれなだるま汁粉じるこ、それもいちぜん、おかはりなし。……しからざれば、かけ一杯いつぱいで、蕎麥湯そばゆをだぶ/\とおかはりをするのださうであつた。
 洒落しやれたどうふにも可哀あはれなのがある。わたしりあひに、御旅館ごりよくわんとは表看板おもてかんばんじつ安下宿やすげしゆくるのがあるが、あきのながあめ、陽氣やうきわるし、いやな病氣びやうき流行はやるとふのに、ぜん小鰯こいわしいたのや、なまのまゝの豆府とうふをつける。……そんな不料簡ふれうけんなのはひややつことははせない、なま豆府とうふだ。てもふるへあがるのだが、はずにはられない。ブリキの鐵瓶れて、ゴトリ/\とて、いや、うでて、そつと醤油したぢでなしくづしにめるとふ。――つては、湯豆府ゆどうふ慘憺さんたんたるものである。……
 ……などとふ、わたしだつて、湯豆府ゆどうふ本式ほんしきあぢは意氣いきなのではない。一體いつたい、これには、きざみねぎ、たうがらし、大根だいこんおろしとふ、前栽せんざいのつはものの立派りつぱ加勢かせいるのだけれど、どれもなまだからわたしはこまる。……そのうへかたごとく、だし昆布こんぶなべそこいたのでは、つよくしても、うもえがおそい。ともすると、ちよろ/\、ちよろ/\とくさ清水しみづくやうだから、豆府とうふしたへ、あたまから昆布こんぶかぶせる。すなはち、ぐら/\とえて、蝦夷えぞゆき板昆布いたこんぶをかぶつてをどりをどるやうなところを、ひよいとはさんで、はねをばして、あつゝとあわてて、ふツといて、するりと頬張ほゝばる。ひとたらをかしからうし、おきになつても馬鹿々々ばか/\しい。
 が、がつてではない。あぢはとにかく、もののなまぬるいよりははうましだ。
 時々とき/″\婦人ふじん雜誌ざつしの、お料理方れうりかたのぞくと、しかるべき研究けんきうもして、そのみちでは、一端いつぱしまんらしいのの投書とうしよがある。たとへば、ぶたにくこまかくたゝいて、擂鉢すりばちであたつて、しやくしでしやくつて、てのひらへのせて、だんごにまるめて、うどんをなすつてそれからねて……あゝ、つてください、もし/\……そのあらつてありますか、つめはのびてませんか、つめのあかはありませんか、とひもじいはらでもひたくる、のが澤山たくさんある。
 淺草あさくさ一女いちぢよとして、――うちぢやあ、うどんのたまをかつて、油揚あぶらげねぎきざんで、一所いつしよにぐら/\て、ふツ/\とふいてべます、あついところがいゝのです。――なにかくさう、わたしこれには岡惚をかぼれをした。

 いや、色氣いろけどころか、ほんたうに北山きたやまだ。……どうふだ。が、家内かない財布さいふじりにあたつてて、安直あんちよくたひがあれば、……※(「魚+弗」、第3水準1-94-37)はうぼうでもいゝ、……こひねがはくは菽乳羮ちりにしたい。
 しぐれは、いまのまにんで、薄日うすびがさす……かへで小枝こえだのこつた、五葉いつはばかり、もみぢのぬれいろうつくしい。こぼれてるのはをしい。ばせば、せまにはで、すぐとゞく。
 本箱ほんばこをさがして、むらさきのおん姉君あねぎみの、第七帖だいしちでふすのも仰々ぎやう/\しからう。……炬燵こたつすべつてあるきさうな、膝栗毛ひざくりげぞく木曾街道きそかいだう寢覺ねざめのあたりに、一寸ちよつとはさんで。……
大正十三年二月

底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
   1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
   1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
※表題は底本では、「湯(ゆ)どうふ」とルビがついています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年8月14日作成
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