をかの上の森陰に直立すぐだちて
牧羊の神パアンしやうを吹く。

晝さがりの日暖かに、風も吹きやみぬ。
そら青し、雲白し、野山のやま影短き
おとなしの世に、たゞ笙の聲、
ちよう、りよう、ふりよう、
ひうやりやに、ひやるろ、
あら、よい、ふりよう、るり、
ひよう、ふりよう、
蘆笛あしぶえくだした
ふるひ響きていづるに、
神も昔をおもふらむ。
ひげそゝげたる相好さうがうは、
おきなさびたるまひがほ、
つのさへみゆる額髮ひたひがみ
髮はらゝぎて、さばらかに、
風雅の心浮べたる
――耳も山羊やぎあしも山羊――
半獸はんじうの姿ぞなつかしき。

ほどらひの搖曳ゆりびきに、
あこがれごゝち、夢に入るを
きけば昔の戀がたり、
細谷川ほそだにかは丸木橋まるきばし
ふみかへしては、かへしては、
あの山みるにおもひだす、
わかき心のはやりぎに
森の女神めがみのシュリンクス
追ひしその日の雄誥をたけびを。
岩の峽間はざま白樫しらがし
枝かきわけてラウラ
ミュルトスの森すぎゆけば、
木蔦きづたつるからまるゝ
山葡萄やまぶだうこそうるさけれ。
去年こぞ落栗おちぐり毬栗いがぐり
ひづめわれはさまれど、
君を思へば正體しやうたい無しや、
岩角いはかど木株こかぶ細流せゝらぎ
踏みしめ、飛びこえ、かちわたり、
雲の御髮みぐしや、白妙しろたへ
肌理きめこまやかの肉置しゝおき
肩をめむとあへぎゆく。
やがてぞ谷はきはまりて。
鳶尾草いちはつぐさ濃紫こむらさき
にほひすみれのしぼ鹿子がのこ
春山祇はるやまづみの來て遊ぶ
泉のもとにつきぬれば
胸もとゞろに、かの君を
今こそつひに得てしかと
思ふ心のそらだのめ。
淺澤水あさざはみづ中島なかじま
たふれてつかむあしよ。
あまりに物のはかなさに、
空手むなてをしめて、よゝと泣く
吐息といきためいきとめあへず、
うれうそぶくをりしもあれ、
ふしぎや、音のしみじみと、
うつろ蘆莖あしぐき鳴りいでぬ、
※(「くさかんむり/孚」、第3水準1-90-90)あしつゝ響き鳴りいでぬ。
さては抱けるこの草は
君が心のやどりぐさ
戀は草、草は戀。
せめてはこれぞわが物と
しやうにしつらひ、年來としごろ
つもるおもひを口うつし
移して吹けば片岡に
つま雉子きじ雌鳥めんどりも、
胡桃くるみける友鳥ともどりも、
原ににれがむ黄牛あめうしも、
まきいなゝ黒駒くろごまも、
らちにむれゐる小羊こひつじも、
聞惚きゝほれ、見惚みほれ、あこがれて、
蝉の連節つれぶしのどやかに、
蜥蜴とかげいしに眠るなる
世は寂寥さびしら眞晝時まひるどき
蘆に變りしわが戀と
おのれも、いつか、ひとつなる
うつら心や、のんやほ、のんやほ、
常春藤いつまでぐさのいつまでも
うれしうれへにまぎれむと、
けふも日影ひかげ長閑のどけさに、
心をこめて吹き吹けば、
つもる思も口うつし、
ああ蘆の笛、蘆のしやうの笛」。

日はやゝに傾きて、遠里とほざと
もやはたち、中空なかぞらぬくもりに、
草のいや高き片岡、
かをり、うつゝにほふ今、
眠眼ねむりめの牧羊神、笙を吹きやみぬ。
森陰に音もなし。

村雨むらさめははらゝほろ、
山梨やまなしの枝にかゝれば、
けんけんほろゝうつ
雉子の鳴くまされて、
磐床いはどこいづる牧羊の神パアン、
胸毛むなげの露をはらひつゝ
延欠のびあくびして仰ぎ見れば、
有無雲ありなしぐも中天なかぞら
ひとり寂しくこふの鳥、
をち柴山しばやまかけて飛ぶ。
かへりみすれば、川添かはぞひ
根白柳ねじろやなぎ濡燕ぬれつばめ
かすめ飛びふ雨あがり、
今、夕影ゆふかげのしるけきに、
いきのこの世のせはしさよ、
つちには蟻のいとなみを、
空には蜂の分封こわかれ
つくづく見れば、宿命しゆくめい
かたきおきてぞいちじるき。
水のおもてうつりたる
おのが姿に戀じにの
玉玲瓏ぎよくれいろう水仙花すゐせんくわ
花は散りてし葉の上を、
蟻はなゝめに、まじくらに
――なにいとなみのすさびなる――
いきの力にられたり、
またある時はかて運ぶ
いそしきわざのもなかにも、
蟻※ありづか[#「土へん+(蒙−くさかんむり)」、54-上-22]近き砂の上、
二疋にひきの蟻の足とめて、
なに語りあふ、たゆたへる、
ふさるさのみちまどひ
蟲の世界のまつりごと、
健氣けなげにも、はたいたましや。
空は今何の反橋そりはしぞ、
あま馳使はせつかひわたらすか、
東の山に虹かゝり、
更に黄金こがね一帶いつたい
あふさわたせるけしきにて、
鹿とりなび弓雄等ゆみをら
鳴鏑かぶら射放いはなつ音たてゝ、
蜂の巣立すだち子別こわかれ
父蜂おやはちさそふ細工蜂さいくばち
七歩しちほばかりのうしろより、
やゝ高く飛ぶ女王蜂によわうばち
たとへば修羅しゆらちまたにて、
亂飛らんぴ亂廻らんくわい虎走とらばしり
勇猛ゆうまうたぐひ無き兵も、
パアンふとおびやかしぬれば
人崩ひとなだれつきて、人馬じんば落ちかさなり、
まどひ、ふためき走るごと、
大騷亂だいさうらんのわたましや、
せいちから仕業しわざなる。
はるかに山のあなたには、
人の築きし城のうち、
國富み榮え、民しげ
都はあれど、ものみなは
かたみにつらき犧牲いけにへ
くじのさだめをのがれあへず、
青人草あをひとぐさ細工蜂さいくばち
黄泉よみ坂路さかぢのさかしきに、
とはに磐石ばんじやく押し上ぐる
シシュフォスわうの姿かな。
たねとりばちのふところ手、
夢の浮世のぬめり
しやらり、しやらりとしたる身も、
子別こわかれぎし初秋はつあき
あさいのちを知らざるや、
イクシオオンのたえまなく
車輪しやりんめぐるあはれさよ、
それにひきかへ王蜂わうばち
滿ち足らひたるさいはひ
こよなき物と見えながら
ウラノスはクロノスに、クロノスは
其子ジウスにほろぼされ、
ジウスのさへあやふきを
プロメエチウスは知るといふ
流轉るてんの世こそ悲しけれ。
あゝ勢力せいりきの強くとも
めいおきてになにたむ。
を知る心深ければ
かなしみさらに深まさる。
なぐさめはたゞこの笙の笛、
牧羊神の笛のに、
世の秘事ひめごとぞかくれたる。
ふパアン吹く笛のに、
この天地あめつちのものみなは、
こぞりてれゐふくまれて、
身も世も忘れ、とことき
辨別わいだめも無き醉心地ゑひこゝち
夢見る心地さそふなる
不思議の笙の笛の聲、
のびやかに、ほがらかに、あんら、ゆるやかに、
森の泉に來て歎く
谺姫こだまひめさへほゝゑませ、
たに八十隈やそくま吹きなびけ、
人里ひとざと遠く傳はれば、
牧人ぼくじん※(「筑」の「凡」に代えて「卩」、第3水準1-89-60)つゑなげうちて、
羊踊ひつじをどりりをひとをどり、
いきよろこびみちわたる
おもてにしばしゆふづく日、
耀かゞよふみれば宿命しゆくめい
覊絆きづなはいつかかれたり。
をちこち山の影長く、
ゆふべの空のえんなるに
なほも笛吹く牧羊神。
雲のみなと漁火いさりびか、
ちろり、ちろりと、長庚ゆふづゝ
あさが散らせるよき物を、
羊を、山羊やぎを集むるか、
母の乳房ちぶさ髫髮兒うなゐご
呼びかへすなるひとつ星
ああ二つ星、三つ星と
かずふ空の縹色はなだいろ
ふかまさり行く夕まぐれ、
羊の鈴のも絶えて、
いづこの野邊の花垣はながきか、
燕のいもと、雉子の叔母、
舌をたれし弟姫おとひめ
あの容鳥かほどりの歌の聲、
しばうらみさへ、
やはらぎたりや、このゆふべ
こゝにパアンも今はとて、
さらばの音取ねとり末長すゑながく、
「さらば明日あすまゐらう。
うえうちり、たちえろ」
白樺木立こだちわけ入れば
東のをかに月はのぼりぬ。


赤松の林をあとに、
麻畠あさばたけひだりにみつゝ、
※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)車はいまつゝみにかゝる。
ほのかなる水のにほひに、
河淀かはよどの近きはるし。

三稜草みくりぐさふる河原かはら
葦切あしきりはけゝしとさわぎ、
くゞひこそ夏はきたらね、
たまたまに百舌もず速贄はやにへ
篦鷺へらさぎの何をか思ふ
しよんぼりと立てるなはてに、
紡績ばうせきの宿にやあらむ、
きり、はたり、はたり、ちやう、ちやう、
をさおとやゝにへだゝり、
道祖神だうそじんまつるあたりの
鐵道の踏切近く、
繩帶なはおび[#ルビの「なはおび」は底本では「なはおぴ」]襤褸つゞれころも
勝色かちいろ飾磨しかまそめ
乳呑子ちのみごへる少女をとめは、
淺茅生あさぢふ末黒すぐろに立ちて
萬歳ばんざいはやし送りぬ。

萬歳はなれにこそあれ、
幾年いくとせを生きよ、さとの子。
人の世に尊きものは
土のぞ、くに御魂みたまぞ。
いつはりまちすまへば
産土うぶすなの神にさかりて
やしなひをかきたる人も、
埴安はにやすさとの土より
はえぬきのなれに呼ばれて
本然ほんねんの命にかへる。

道芝みちしばうへく風よ、
農人のうにん寢覺ねざめに通ふ
かすかなる土のおとづれ、
なつかしき母の聲音こわねか。
晝さがり草の高く
松脂まつやにのにほひもまじる
地の胸の乳房ちぶさのかをり
蘇門答剌そもたらかうも及ばじ。

忽ちに鐵のにほひす。
鳴神なるかみの落ちかゝるごと、
※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)車は今、橋にとゞろく。
桁搆けたがまへ眼路めぢをかぎりて、
ひとり見る蛇籠じやかごこいし


薄日うすびのかげもおとろへて、
ひややかに雲低き
鈍色空にびいろぞらのゆふまぐれ、
はづれのつじのかたすみに、
ちやるめらの聲吹きおこる。

はじめのふしのゆるやかに
心を誘ふくだの聲、
はなやげるしらべかと
おもへば、あらず、せきあぐる
悲哀の曲の搖曳ゆりびきに、

 みそらかけりて、あの山越えて、
 越えてゆかまし夢の里。
 よしや、わざくれ、身はうつし世の
 はえにまぎるゝとがめびと、
 有爲うゐ奧山おくやまみちけはし。

ひゞきはるかに鳴りわたる
おほまが時のうすあかり、
飴屋あめやの笛にそゞろげる
子供心もおのづから
家路いへぢをおもふの聲に

 夢の浮橋うきはし、あら、なつかしや
 戀ひし、なつかし、虹の橋、
 いつし、いづれの日にけそめて、
 涙の谷の中空なかぞら
 雲につらぬるそり橋か。

細き金具かなぐ歌口うたぐち
かなしみあふれ、氣もえて、
折りまはしたる聲のはて、
忽ちくづれ調てうかはる
あゝ、ちやるめらの末の曲。

 「やぶれ菅笠すげがさ、しめが切れて
 さらにきもせず、すてもせず。」
 人に思のなまなかあれば、
 夢にうつゝへ難き
 ――えい、なんとせう――あだ心。


眞鍮しんちゆうかくなるいた
ビルゼンの像あり、
もろ/\御弟子みでし之をめぐる。
母にてをとめ、
わがのむすめ、
歸命頂禮きみやうちやうらい、サンタ・マリヤ。

これもまた眞鍮のいた
萬民ばんみんにかはりて、
髑髏されかうべをかにクルスを
猶太ゆだきみ
那撒禮なざれのイエスス
キリストス、神の御子みこ

不思議なる御名みなにこそあれ、
エスス・リストス、
みのこ、の人のすくひ、
げにいきがみよ。
はじめなり、をはりなり。

繪踏ゑぶみせよ、ころべ、ころべと
糺問きうもんせつなる。
いでや、この今日けふこゝろみ
ちおほせなば、
パライソに行き、
くじけたらむには、インヘルノ。

伴天連ばてれんの師ののたまはく
マルチルのいさを
大惡だいあくなゝつのモルタル
とがあがなふ。
ブルガトリオを
まつしぐら、ゆけ、パライソへ。

大日本、朝日の國の
信者たち、つとめよ、
名にしふアンチクリストの
力を挫く
義軍ぎぐん先驅さきがけ
かゝれ、主の如く磔刑はたものに。

このしるし、世につ標、
あらかたの標ぞ。
ありし、ある、あらむ世をかけて、
絶えず消えせぬ
命の光、
高くに仰げ、サンタ・クルスを。

見よ、かゝる殉教の士を。
天草あまくさ農人のうにん
五島ごたうにはいさなとる子も
ガリレヤかい
海人あまならひ
かなしみせつを守りつぐ。

代代よよに聞く名こそことなれ。
神はなほこの世を
知ろす、たゞひとり、おぼつかな、
今の求道者ぐだうしや
らざる神」の
あかしにと死する勇ありや。


婆羅門ばらもんの作れる小田をだからす
なくの耳にれたるか、
おほをそ鳥の名にし負ふ
いつはり聲のだみ聲を
又無き歌とほめたつる
木兎づくふくろふ椋鳥むくどり
ともばやしこそ笑止せうしなれ。

聞かずや春の山ぶみに、
林の奧ゆ、伐木ばつぼく
丁々たう/\としてやまさら
なほもいうなる山彦を。
こはそも仙家せんかの斧のか、
よし足引あしびき山姥やまうば
めぐりめぐれる山めぐり、
輪廻りんゑごふの音づれか。

いなとよ、たゞの鳥なれど、
赤染色のはねばうし、
黒斑くろふ白斑しらふの綾模樣
紅梅、朽葉くちばの色ゆりて、
なに思ふらむ啄木きつつき
つくづくわたる歌の枝。

げにうつろなる朽木きうぼく
幹にひそめるけら蟲は
風雅ふうがの森のそこなひぞ、
けてくらひね、てらつゝき、
また人の世の道なかば
闇路やみぢの林ゆきまよふ
なやみの人を導きて
歡樂山くわんらくざんにしるべせよ。
あゝ、あこがれのその歌よ、
そゞろぎわたり、胸に沁み
さもこそ似たれ、陸奧みちのく
卒都そとの濱邊の呼子鳥よぶこどり
なくなる聲のうとう、やすかた。




風の無い晩に歌がきこえる……
――月は黒ずんだ青葉の
曲折ぎざぎざに銀をせてる。

……歌がきこえる、生埋いきうめになつた
木精こだまかしら、そらあの石垣の下さ……
――んだ。行つて見よう、そこだ、その陰だ。

――蟾蜍ひきがへるよっ。――なにもこはい事は無い。
こつちへお寄り、僕が附いてる。
よつく御覽、これはあたままるめた、はねの無い詩人さ、
どぶの中の迦陵※(「口+陟のつくり+頁」、第3水準1-15-29)かりようびんが……あら厭だ。

……歌つてる――おゝ厭だ。――なぜ厭なの。
そら、あの眼の光つてること……
おやすまして、石のしたもぐつてく。
さよなら――あの蟾蜍ひきがへるは僕だ。




星の聲

 膝の上、
 天道樣てんたうさまの膝の上、
踊るは、をどるは、
 膝の上、
 天道樣てんたうさまの膝の上、
星の踊のひとをどり。

――もうし、もうし、お月さま、
そんなに、つんとあそばすな。
をどりの組へおいでなら、
きん頸環くびわをまゐらせう。

おや、まあ、いつそ難有ありがた
思召おぼしめしだが、わたしには
姉樣あねえさまのくだすつた
これ、このメダルで澤山よ。

――ふふん、地球なんざあ、いけすかない、
ありやあ、思想のだいですよ。
それよか、もつとれきとした
立派な星がたんとある。

――もう、もう、これで澤山よ、
おや、どこやらで聲がする。
――なに、そりやなにかのききちがひ、
宇宙の舍密せいみが鳴るのでせう。

――口のわるい人たちだ、
わたしや、よつぴて起きてゝよ。
引摺ひきずりのお轉婆てんばさん、
夜遊よあそびにでもいつといで。

――こまつちやくれたあまつちよめ、
へへへのへ、のんだくれの御本尊ごほんぞん
掏摸すりいぬのお守番もりばん
猫の戀のなかうど、
あばよ、さばよ。

衆星退場。靜寂と月光。遙に聲。

 はてしらぬ
 そら天井てんじよのそのしたで、
踊るは、をどるは、
 はてしらぬ
 そら天井てんじよのそのしたで、
星の踊をひとをどり。


とてもあの星には住まへないと思ふと、
まるで鳩尾みづおちでも、どやされたやうだ。

ああ月は美しいな、あのしんとした中空なかぞら
なつ八月はちぐわつ良夜あたらよに乘つきつて。

帆柱ほばしらなんぞはうつちやつて、ふらりふらりと
けてゆく、雲のまつくろけの崖下がけしたを。

ああつてみたいな、無暗むやみつてみたいな、
たふといあすこの水盤すゐばんつてみたならさぞよからう。

つきさまはめくらだ、險難けんのん至極しごくな燈臺だ。
哀れなる哉、イカルスが幾人いくたりておつこちる。

自殺者の眼のやうに、あがつてござるお月樣、
吾等疲勞者大會の議長の席につきたまへ。

つめたい頭腦で遠慮無く散々さんざんけなしてもらひませう、
とてもなほらぬ官僚主義で、つるつる禿げた凡骨ぼんこつを。

これが最後の睡眠劑か、どれひとつその丸藥ぐわんやく
どうか世間の石頭いしあたまへもけて呑ませてやりたいものだ。

どりやうはぎ甲斐甲斐かひがひしくも、きりりと羽織はおつたお月さま、
愛のひえきつた世でござる、何卒どうぞえびらの矢をとつて、

よつぴき引いて、ひようとち、この世に住まふ翅無はねなし
人間どもの心中しんちゆうなさけたねを植ゑたまへ。

大洪水だいこうずゐに洗はれて、さつぱりとしたお月さま、
解熱げねつかうあるその光、今夜こんやここへもさして來て、

寢臺ねだい一杯いつぱいみなぎれよ、さるほどに小生も
この浮世から手を洗ふべくさふらふ


またほんか。戀しいな、
氣障きざ奴等やつらの居ないとこ、
ぜにやお辭儀じぎの無いとこや、
無駄むだの議論の無いとこが。

また一人ひとりピエロオが
慢性孤獨病で死んだ。
見てくれは滑稽をかしかつたが、
垢拔あかぬけのしたやつだつた。

神樣は退去おひけになる、猪頭おかしらばかり殘つてる。
ああ天下の事日日ひびに非なりだ。
用もひととほり濟んだから、
どれ、ひとつ「空扶持むだぶち」にでもありつかう。


――そりやあしんの生活もしてはみたいさ、
だがね、理想といふものは、あまりばくとしてゐる。

――そこが理想なんだ、理想の理想たるところだ。
わけわかるくらゐなら、別の名がつく。

――しかし、何事も不確ふたしかな世の中だ。哲學また哲學、
生れたり、刺違さしちがへたり、まるですぢが立つてゐない。

――さうさ、しんとはきるのだといふんだもの、
絶對なんざあ、たつがあるまい。

――ひとつ旗をおろしてしまはうか、えい、
お荷物はすつかり虚無きよむへ渡してしまはう。

――そらから吹きおろす無邊むへんの風の聲がいふ、
「おい、おい、ばかもいゝ加減にしなさい。」

――もつとも、さうさな「可能かのう」の工場こうぢやうの汽笛は、
「不可思議」のかたへ向つてうなつてはゐる。

――其間そのかんたゞ一歩いつぽだ。なるほど黎明しのゝめ
曙のあはひのちがひほどである。

――それでは、かうかな、現實とは、すくなくとも
「或物」に對して益があるといふことか。

――そこでかうなる、ねえ、さうぢやないか、
薔薇ばらの花は必要である――其必要に對してと。

――話がすこめうになつて來たね、
すべては循環論法にはひつてくる。

――循環はしてゐるが、これがすべてだ。
           ――何だ、さうか、
なら、いつそ月のはうへいつちまはう。


感情の封鎖ふうさ近東行きんとうゆき郵船いうせん……
ああ雨がる、日が暮れる、
ああ木枯の聲……
萬聖節ばんせいせつ降誕祭かうたんさい、やがて新年、
ああ霧雨きりさめなかに、煙突えんとつの林……
しかも工場の……

どのベンチもみんな濡れてゐて腰をおろせない。
とても來年にならなければ徒目だめだ。
どのベンチも濡れてゐる、森もすつかり霜枯れて、
トントン、トンテンと、もう角笛つのぶえも鳴つて了つた。

ああ、海峽かいけふ濱邊はまべからけつけた雲のおかげで、
前の日曜もまるつぶれだつた。

霧雨きりさめつてる、
づぶ濡の木立こだちにかけた蜘蛛のは、
水玉みづたまおもみにたるんでこはれてしまつた。
豐年祭ほうねんまつりのころに、
砂金しやきんの波の光を漂はせて、豪勢がうせい景氣けいきだつた日光は
今どこに隱れてゐる。
けふの夕方は、泣きだしさうな日が、丘のうへ
金雀花えにしだなか外套まはし羽織はおつたまま、横向よこむきてゐる。
薄れたしろつぽい日の酒場さかばゆか吐散はきちらしたたんのやうで、
いろい金雀花えにしだ敷藁しきわらと、
いろい秋の金雀花えにしだを照してゐる。
角笛つのぶえが頻に呼んでゐる、
歸れ……
歸れと呼んでゐる。
タイオオ、タイオオ、アラリ。
ああ悲しい、もうめてくれ……
たまらなく悲しい……
日は丘のうへてゐて、頸筋くびすぢから※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)むしり取つたせんのやうだ、
日はふるへてゐる、ひとりぼつちで……

さ、さ、アラリ!
熟知おなじみの冬が來たぞ、來たぞ。
ああ、街道かいだう紆曲まがりくねりに、
赤外套あかまんと」も見えない。
ああ此間こなひだ通つた車の跡が、
ドン・キホオテりうに、途方とはうも無い勇氣を出して、
總崩そうくづれになつたくも斥候隊せきこうたいはうのぼつてゆくと、
風はその雲を大西洋上たいせいやうじやうらちへと追ひたてる。
急げ急げ、こんどこそ本當ほんとだ。

昨夜ゆうべは、よくも吹いたものだ。
やあ、滅茶苦茶めちやくちやだ、そら、鳥の巣も花壇くわだんも。
ああわが心、わがねむり、それ、斧のが響く。

きのふまでは、まだ青葉の枝、
けふは、下生したばえ枯葉かれはの山、
大風おほかぜに芽も葉もまれて、
一團ひとかたまりに池へ行く。
あるひかり番舍ばんやの火にばり、
あるひは遠征隊の兵士が
野戰病院用の蒲團にはひるだらう。

冬だ、冬だ、霜枯時しもがれどきだ。
霜枯しもがれ幾基米突いくきろめえとるに亘る鬱憂を逞しうして
ひとひとり通らない街道かいだうの電線を腐蝕してゐる。

角笛つのぶえが、角笛つのぶえが――悲しい……
角笛つのぶえが悲しい……
消えて行く音色ねいろの變化、
調てう音色ねいろの變化、
トントン、トンテン、トントン……
角笛つのぶえが、角笛つのぶえ
北風きたかぜに消えてゆく。

耳につく角笛つのぶえ、なんとまあ餘韻よゐんの深いおとだらう……
ふゆだ、ふゆだ。葡萄祭ぶだうまつりも、さらば、さらば……
天人てんにんのやうに辛抱づよく、長雨ながあめりだした。
おさらば、さらば葡萄祭ぶだうまつり、さらばよ花籠、
とちの葉陰の舞踏ぶたふの庭のワットオぶりの花籠よ。
今、中學の寄宿舍に咳嗽せきおとしげく、
暖爐に火は消えて煎藥が匂ひ、
肺炎が各區かくくに流行して
大都會のあらゆる不幸一時に襲來する。

さりながら、毛織物、護謨ごむ藥種店やくしゆてん物思ものおもひ
場末の町の屋根瓦やねがはらの海に臨んで、
その岸ともいつつべき張出はりだし欄干近らんかんぢか窓掛まどかけ
洋燈ランプ版繪はんゑちや茶菓子ちやぐわし
たのしみは、これきりから。
(ああ、まだある、それから洋琴ピアノのほかに、
毎週一囘、新聞に出る、
あの地味ぢみな、薄暗い、不思議な
衞生統計表さ。)

いや、何しろ冬がやつて來た。地球が痴呆ばかなのさ。
ああ南風なんぷうよ、南風なんぷうよ、
とき」が編みあげたこの古靴ふるぐつを、ぎざぎざにしておくれ、
冬だ、ああ厭な冬が來た。
毎年まいねん毎年まいねん
一々いち/\その報告を書いてみようとおもふ。


ハムレツト――そちに娘があるか。
ポロウニヤス――はい、御座りまする。
ハムレツト――あまり外へ出すなよ。腹のあるのは結構だが、そちの娘の腹に何か出來ると大變だからな。

しとしとと、無意味に雨が降る、雨が降る、
雨が降るぞや、川面かはづらに、羊の番の小娘こむすめよ……

どんたくの休日やすみのけしき川に浮び、
かみにもしもにも、どこみても、はしけ小船こぶねも出て居ない。

夕がたのつとめの鐘がまちで鳴る。
人氣ひとけの絶えたかしっぷち、薄ら寂しい河岸かしっぷち。

いづこの塾の女生徒か(おお、いたはしや)
大抵はもう、冬支度ふゆじたく、マフをかゝへてつてるに、

唯ひとり、毛の襟卷もマフも無く
鼠の服でしよんぼりと足を引摺ひきずるいぢらしさ。

おやおや、列を離れたぞ、變だな。
それ驅出かけだした、これ、これ、ど、ど、どうしたんだ。

身を投げた、身を投げた。大變、大變、
ああ船が無い、しまつた、救助犬きうじよいぬも居ないのか。

日が暮れる、向の揚場あげばに火がついた。
悲しい悲しい火がついた。(尤もよくある書割かきわりさ!)

じめじめと川もびっしより濡れるほど
しとしとと、譯もなく、無意味の雨が降る、雨が降る。


日曜日には、ゆかりある
※(「女+爾」、第4水準2-5-85)ちきやうだい名誦なよみあげて
珠數じゆず爪繰つまぐるをつねとする。

オルフェエよ、若きオルフェエ、
アルフェエ川の夕波に
轟きわたる踏歌たふかの聲……

パルシファル、パルシファル、
おほまがつびの城壁じやうへき
白妙しろたへ清き旗じるし……

プロメテエ、プロメテエ、
不信心者ふしんじんしや百代ひやくだい
口傳くちづてにする合言葉あひことば……

ナビュコドノソル皇帝は
きんの時代の荒御魂あらみたま
今なほこれらをりやうするか……

さて、つぎに厄娃えわむすめたち、
われらと同じ運命の
乳に育つた姉妹あねいもと……

サロメ、サロメ、
戀のおほくが眠つてる
蘭麝らんじやかをる石の唐櫃からうど……

オフェリイ姫はなつかしや、
この夏のに來たまはば
人雜ひとまぜもせずかたらはう……

サラムボオ、サラムボオ、
墓場の石にさしかゝる
清いかさきた月あかり……

おほがらのきさきメッサリイヌよ、
しや薄衣うすぎぬきなでて、
足音あしおとぬすむ豹のこび……

おお、いたいけなサンドリヨン、
蟋蟀こほろぎぬ爐のそばで、
れた靴下くつした縫つてゐる……

またポオル、※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)ルジニイ、
殖民領しよくみんりやうの空のもと
さても似合にあひ女夫雛めをとびな……

プシケエよ、ふはり、ふはりと
つみ燐火おにびに燃えあがり、
消えはしまいか、氣にかかる……




森の奧なる温室をんしつ
永久えいきうざせるその戸、
その圓屋根まるやねしたにあるもの、
これになぞへて、わが心のしたにあるもの。

うゑに惱む王女わうぢよの思、
荒野あれのに迷ふ船乘ふなのりの愁、
不治ふちの患者の窓下まどしたに起る樂隊のおと

さていともぬくすみに行きてみよ。
收穫時とりいれどきのある日に氣絶きぜつしたるをんなともいふべし。
病院の中庭なかには驛傳えきでん馭者ぎよしや來り、
おほしか狩人かりうどなれはてなる看護人かんごにん、かなたを通り過ぐ。

月影にすかし見よ。
(物皆こゝに處を得ず。)
法官ほふくわんの前に狂人きやうじん立てりともいふべし、
いくさぶね、帆を張りて運河に浮び、
白百合しろゆりの鳥啼き、
眞晝まひるがた、葬禮さうれいの鐘は鳴る、
(かの鐘形かねがた玻璃器ぐらすきしたに。)
平原へいげん病人びやうにん舍營しやえいあり、
晴れし日に依的兒ええてる匂ふ。

あな、あはれ、あな、あはれ、いつか雨ふらむ、
雪ふらむ、風ふかむ、温室に。


あはれみたまへ、もくろみの
戸にたたずめるうつけさを、
わがたましひは、しろたへの
無能むのう無爲むゐにあをざめり。

わざをやめたるたましひは
吐息といきあをきたましひは、
たゞ眺むらむ、疲れはて、
つぼみの花に震ふ手を。

かかりしほどにわが心、
紫紺しこんの夢の玉を吹き、
らふ纖手せんしゆのたましひは
月の光をふりそゝぐ。

月の光に明日あすといふ
黄花きばなのさゆりきみえて、
月の光に手の影は
ひとり悲しくあらはれぬ。


胸にある青き愁よ、
さいはひを求めてやまず、
よよと泣く月の光に
夢青く力無けれど。

この青き愁のむろ
さしよりて透見すきみをすれば、
ぐらすの緑のあなた、
月を浴び、玻璃はりおほはれ、

生ひ繁るもの、はなもの、
夢の如く、不動に立ちて
よひよひは、忘我ばうがの影を
愛執あいしふ薔薇さうびにおとす。

水は、はた、ゆるくきいで、
薄曇うすぐも不斷ふだんいきに、
月影と空とをまぜて、
夢の如くふしもかはらず。


わが心
ああ、げにおほはれたるわが心かな。
わがねがひ羊群やうぐん温室をんしつの内に在りて、
まき暴風あらしきたるを待つ。

まづ最もめるものをはむ。
そはあやしきにほひを放てり。
そのなかれば、われ母と共に戰場を過ぐる如し。
眞晝まひるがた人人ひとびと一戰友いちせんいうを葬り、
歩哨ほせうは時のしよくきつす。

また最も弱きものを訪はむ。
そはあやしき汗を流したり。
こゝに新婦しんぷみ、
日曜に謀叛むほん起り、
小兒せうにらうに引かる。
(そのさき、はるかに霧を隔てて、)
くりやの口に横はるは垂死すゐしをんなか、
あるは不治ふぢの患者のとこした野菜やさいを切る看護の尼か。

つひに最も悲しきものを訪はむ。
(毒あるが故に、これを最後さいごにしたり。)
ああ、わが唇は手負ておひ接吻せつぷんを受く。

この夏、城のきさきは皆わが心の塔のうち餓死がししたり。
今ここに曙の光、祭を照し、
河岸かしづたひ羊の歩むを見る、
また病院の窓に帆あらはる。

胸より心へ行く道の遠さよ。
歩哨は悉く受持の地に死したり。

ひと日わが心の郊外にさゝやかなる祭ありき。
日曜のあさ、人、失鳩答しきうた苅入かりいれたり。
そられたる斷食だんじきの日、尼寺あまでら童貞どうていこぞりて運河に船の行くを眺めたり。
其時、白鳥はくてう毒水どくすゐの橋のしたに惱みぬ。
囹圄ひとやめぐりなる樹樹きぎの枝はりとられ、
六月ろくぐわつの午後、人、藥水やくすゐを齎し、
患者のしよく眼路めぢのかぎりに擴げられたり。

わが心よ。
萬物の悲しさ、ああ、わが心よ、ああ、萬物の悲しさ。


病院。運河の岸の病院。
夏七月の病院。
廣間ひろまには爐をきたり。
時しもあれや、運河のうへ大西洋定期船たいせいやうていきせん汽笛きてきの聲。

(ああ窓に近づく勿れ。)
移民宮殿を通拔とほりぬけす。
暴風雨あらしなか遊船よつと一艘いつさう
また他の船は悉く羊群やうぐんせたり。
(窓はかたく閉ぢたるこそよけれ。
人々そとより殆んど全くおほはれたり。)
雪のうへなる温室をんしつの心地す。
暴風雨あらしの日、産後さんご初詣はつまうである如し。
夜具やぐの上に草木くさきの散りぼふが見えて、
日うららかなるに出火あり。
われ、負傷者ふしやうしやに充ちたる森を通過す。

ああ今つひに月はのぼりぬ。

廣間ひろま中央まんなかよりは噴水ふんすゐほとばしり、
一群ひとむれ少女せうぢよら、戸を細目ほそめに開く。

まきの島には羊のむれ
氷河の上に美々びびしき木立こだち
大理石造の玄關に百合の花。
人のかよはぬ森の奧に祭あり。
氷の淵に東邦の本草ほんざうは茂りたり。

聞け、今水門は開かる。
大西洋定期船たいせいやうていきせんは運河の水をり亂る。

ああ、されど看護の尼は爐をいたり。

河添かはぞひの道のかたへのあしの葉は、緑凉しく燃えさかる。
月の光に漂ふは手負ておひせたる船一艘いつさう
王女わうぢよは皆暴風雨あらししたの船に乘り、
あまたの姫は失鳩答しきうたの原に死したり。

ああ、この窓はゆめな開きそ。
開け、水天すゐてんさい大西洋定期船たいせいやうていきせんの汽笛の聲。

花苑はなぞのに何者か毒害どくがいせらる。
敵がたにさかんなる祭のけはひす。
包圍せられたる市街しがいに鹿が放たれ、
花百合のなかにけものをりは見ゆ。
炭鑛の底深く熱帶の植物茂り、
牝羊めひつじ一群ひとむれ鐵橋てつけうを過ぎ、
をすの羊は悲しげに廣間ひろまをさして入り來りぬ。

看護の尼、いまともしびてんじて
患者の食を運びつつ、
運河にのぞむ窓の戸を、
すべての門の戸を閉ぢて、月の光を隱したり。


くいといふ燧玉ひとるたま、手にとりて
過ぎし日を其下そのしたに照らしてみれば、
内證ないしようのかくれたる色青き
底のうへに、うるはしき花は浮ぶ。

その玉の照らしたるわがねがひ
その願、つらぬけるわが心、
その心、思出おもひでに近づけば、
忽ちに枯草かれくさはもえあがる。

このたびはおもひをと、かの玉に
うかがへば、晶玉しやうぎよくのつとひかり、
忘れたるかなしみの花びらは、
ほのぼのとおもむろに咲きにほふ。

記憶にはあともなく消えはてし
ありしのことわざも歸り來て、
なよげなるけばをもてでらるる
新しき望あるわが心。


あはれなる疲れたるこのめつき、
汝等なんぢらのめつき、わがめつき、
今は亡きめつき、今にきたるべきめつき、
つひに來ずしてむとも、實は世に在る目付めつき
日曜の日、貧者ひんじやを訪ふ如きもあり、
家無き病人の如きもあり、
白布はくふに被はれたる牧に羊の迷ふが如きもあり。
また類罕たぐひまれなる目付もあり、
圓天井まるてんじやうした、閉ぢたる廣間ひろまの内、童貞どうていの刑に就くを眺むる如きもあり。
なんともわかぬかなしみを思はしむる目付あり。
即ち工場こうぢやうの窓に居る農民を、
機織はたおりとなりし園丁を、
蝋人形らふにんぎやう見世物みせものの夏の晝過ひるすぎを、
庭にる病人を見る女王によわうの心を、
森のなかなる樟腦のを、
祭の日、塔に王女わうぢよを押籠むるを、
みづぬるき運河のうへ七日なのか七夜なゝよを舟にて行くを思はしむ。

あはれみ給へ、收穫時とりいれどき病人びやうにんのやうに、小股こまたにて出て來る目付を。
あはれみ給へ、食事の時に迷兒まひごとなりしやうなる目付めつきを。
あはれみ給へ、外科醫げくわいを仰ぎ見る怪我人けがにん目付めつきを、
そのさま、暴風雨あらしした天幕てんとに似たり。
あはれみ給へ、誘惑せらるる處女しよぢよ目付めつきを、
(噫、乳の流は闇に逃げ入る、
白鳥はくてうへびむれのなかに死したり。)
またあはれみ給へ、つひに屈したる處女しよぢよ目付めつきを。
路無き沼に棄てられし王女わうぢよの姿かな。
また暴風雨あらしなかを照り輝ける諸船もろふねの眞帆あげて遠ざかり行くが如き目付めつきもあり。
また何處いづこにかほかる事能はずして苦む目付めつきあり、げにあはれむに堪へたるかな。
殆ど區別無く而も實は相異あひことなれる苦悶の目付。
何人なんぴとつひにそれとさと目付めつき
殆ど無言むごんなる目付。
またあはれなるさゝやきの目付、
押殺おしころされたるあはれの目付。

あるものの中に在れば、病院となりし古城こじやうる心地す。
またのものは尼寺あまでらちひさき芝生しばふうへに百合の紋章打つたる天幕てんとを張りたる如し。
更に他のものは温室をんしつに收容したる負傷者のふうありて、
また更に他のものは病人無き大西洋定期船たいせいやうていきせんに乘組みたる看護の尼の姿あり。

噫すべてかかる目付めつきを眺め知り、
かかる目付めつきを受け入れて、
かかる目付めつきの應接におのが目付めつきつかひはて、
それよりのちは、わがをもまた閉ぢえざるとは。




路はみな都會にむかふ。

煤煙のおくのかた、
かなた、かいかいかさね、
幅廣き大石段だいせきだんのかずかず、
絶頂ぜつちやうかいまでも、てんまでものぼ往來ゆききの道となりて、
夢の如く都會は髣髴たり。

ふりさけみれば、
鐵材てつざいあみに組みたる橋梁けうりやうの、
虚空こくうに躍りてかゝるあり、
石あり、柱あり、
ゴルゴンの鬼面きめんこれを飾る。
郊外に聳ゆるはなんの塔ぞ、
屋根あり、破風はふありて、家屋かをくうへそばだつは、
つ鳥の皷翼はばたきに似たり。
即ちこれ觸手ある大都會、
屹然きつぜんとして、
平野田園の盡くるところに立つ。

あかき光の
きらめくは
標柱へうちゆううへ大圓柱だいゑんちゆううへ
晝なほ燃えて、
巨大なる黄金わうごん卵子たまごの如し。
天日てんじつこゝに見えず、
光明の口にはあれど、
煤煙の奧に閉さる。

揮發きはつあぶら瀝青れきせいの波は、
石造せきざうの波止場、木製の假橋かりばしを洗ひ、
ゆききの船の鋭き汽笛、
きりの奧に恐怖おそれを叫ぶ、
緑色りよくしよくの船のはそのまなこ
大洋と虚空こくうとを眺むらむ。

川岸かし荷車にぐるま轣轆れきろくふるひ、
芥車あくたぐるま蝶番てふつがひの如くきしり、
鐵の權衡はかりかくなる影を落して、
忽ちこれを地下室の底に投ず。
鐵橋ありて、中央に割れて開けば、
帆檣ほばしらの森に立つすさまじき絞臺かうだいの姿。
また中天ちゆうてんあかがね文字もじ
長大にして屋根を越え、
壁を越え、軒蛇腹のきじやばらを越え、
對立してあだかも戰場の觀あり。

かなたには馬車動き、荷車過ぎ、
汽車は走り、努力は飛ぶ、
皆停車場に向ふ。見よ、金色こんじき欄干てすり
處々しよ/\に連りててたる船の如し。
鐵路てつろまた枝線しせんを廣げて軌道地下ちかに入り、
隧道トンネル洞穴ほらあなを潛行すれば、
忽ち歴々たる光明の網變じて、
沙塵と騷擾とのなかあらはる。
即ちこれ觸手ある大都會。

見よ、この市街を。――人波は大綱おほづなの如く、
大厦高樓のめぐりにまつはるなか、
道は遠長くうねりて、見えつ隱れつ、
ほぐし難くうちまじりたる群集ぐんしふの、
手振てぶり狂ほしく足並あしなみ亂れ、
眼にはにくみの色をたゝへて、
駈拔かけぬく「時」をやらじとばかり、齒にて引留ひきとゞむ。
さる程にあしたよりゆふべをかけて、夕暮がよるになりても、
騷擾と喧囂と憂愁のなかに立ち、
偶發ぐうはつ」のかたにむかひて人が播く勞作の辛苦のたねも、
「時」すぐに奪ひて去るをいかにせむ。
ここに暗憺あんたんとして薄暗き帳場ちやうば
※(「目+票」、第4水準2-82-15)ひがめにして疑のねん深き事務室、
また銀行も狂亂大衆たいしゆうの風のおとに、
はたと戸を閉づ。

戸外こぐわいには天鵞絨びろうどのぬめりの光、
赤く曇りて襤褸布ぼろぎれの燃ゆるが如く、
點燈てんとう柱柱はしらばしら退すさりゆく。
生活は酒精しゆせいの波に醗酵せり。
人道にむかひて開く酒場さかばこそは、
爭鬪爛醉の影をうつ
鏡明るき殿堂ならずや。
壁にそびらをもたせつつ、
燐寸箱マチばこを賣る盲人めしひもあり。
ひとつの穴に落ち合へる酒色と饑餓との民もあり。
肉の惱みの相尅さうこくが、
小路こうぢに跳りかつ消ゆる其聲黒し。

かくて怒號のさけびつぎつぎに高まさりて、
憤怒ふんぬの聲、暴風あらしとなれば、
金色こんじきと憐光の快樂けらくを追ふに、
眼も眩みてか、人皆はかたみみあふ。
近づくは女人によにんか、はた蒼顏さうがん傀儡くわいらいか、
異性のしるしは髮の毛にのみめだちぬ。
かかるとき、偶偶たまたますゝけたる赤黒あかぐろき空氣の幕が、
日をさかりまくれあがれば、
光を仰ぐ大衆たいしゆう
大叫喚だいけうくわんの海潮音、
廣場に、旅館ホテルに、市場いちばに、住居すまひに、
とよもしうなる聲つよく、
垂死すゐしの人も安んじて、
今際いまはの時を送り得ず。

晝既にかくの如きを――、夕暮が
黒檀のつちをもて天空てんくうりきざむ時、
をちかたの都會の光、平原を領するがほに、
巨大なるよるの望の如し。
そそりたつ此大都會、如法によほふ樂欲げうよく光華くわうくわ游狎いうかふとなり。
光明は闌干らんかんとして天雲あまぐものあなたに流れ、
千萬の瓦斯ガス金光きんくわうの林の如く、
鐵路てつろ、軌道を投げて憚ることなく、
いつはりの幸福を追へば、
富貴と勢力とこれに伴ふ。
城壁のしるく見ゆるは大軍たいぐんたむろするに似て、
またもたちのぼる煤煙は、
田野を招く劉喨たるかくの聲。

これ即ち觸手ある大都會、
貪婪どんらんたこに比すべし、骨堂こつだうなり。
威力あるかばねなり。

かくてもろ/\の路ここよりして遙に
かの都會にむかふ。


驕慢の都、その宿命に驅らるるうへを、
眼にはみえねども儼然げんぜんとして、
悲よりも高く、悦よりも高く、
生生せいせいとして思想は領す。

沈靜なる勢力と熱意との世のはじめ、
精神の炬火もえいでしよりこのかた、
人間の頭腦に入りまじりて、
黄金わうごんの迷宮に
これを包みしは思想、
光芒くわうばうこれが爲に更にまさりぬ。
かくて思想の力ますます強く、
人間の恐怖と熱望と批判とを統治し、
心情と生氣とを動かし、
有情うじやう非情ひじやうとを眺めて、
あたかもその常に閉さざる※(「目+匡」、第3水準1-88-81)まぶたもと
無限のまなこは開きたるに似たり。

かくて思想は廣大の物界に震動して、
大方たいはうの世界に火焔のをめぐらせり、
いづれかはじめの光なるを知らず。

されど天空てんくうつねゆるその金光きんくわうを仰ぎみれば、
人は自己の光よりこれらをみし事を忘れ、
さすがにこれらの光華くわうくわひて、一日ひとひ、神を造りぬ。

けふもなほこの光、久遠くをんわたる如し、
されど之を養ふに力と美とを缺きたり、
常に靜まらず、とこしへにあらたなる
現實の血なくんば久しくは保たじ、
われら今常に之をそゝぐ。

一世の思想家は其心ますます明にしてせいなる可し。
生命せいめいの高貴なる工人こうじんとして、
ひたひは輝き心は跳り、
新しき光もて忽ち頭腦を照せる、
光明くわうみやうをこそ驅使すべく、
征服のみちにその歩調ほてうますます勇ましく、
悠久たる覆載ふうさいもと、人こそは至上なれと
みづからの高貴なるに感ずるならむ。
廣遠にして豐富なる哉、めもはるに、
はなさきわたる大思想よ。


世界は星と人とより成る。

空高く、
とこしへに無聲むせいなるいつの時より、
空高く、
奧深くして風荒るる天上てんじやうのいづこの庭に、
空高く、
いづれの太陽をなかにして、
ものに譬ふれば
火焔の蜂の巣をさながらに、
勢力彌漫びまんしたる虚空こくう大壯觀中だいさうくわんちゆう
幾千萬いくちよろづの不可思議にして壯烈なる
星の巣立は飛散す。

星ありき、いつの世とは知らねど、蜜蜂の如く、
これら衆星しゆうせいをまき散しぬ。
これ、今、金色こんじきの精氣のなか
花に、まがきに、園生そのふうへに飛びかひて、
よるは輝き、晝は隱るる
久遠くをんの天の運行に、
往きつ、さかりつ、はた戻りつ、とこしへに囘轉す、
母なる星のめぐりを。

嗚呼熾烈しれつなる光明くわうみやうの、狂へる如き大旋轉だいせんてんよ。
白色はくしよく大靜寂だいせいじやく、これを領す。
うまれの火爐くわろを中心に、狂ひつ、とどろきつ、
※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)轉する金色こんじきの天體は、宇宙ののりに從ふなり。
嗚呼大法だいほふに從ひて、而も無邊なる大群飛だいぐんぴよ。
焔の落葉おちばか、燃え上る草むらか、
更に更に遠く進み、更に更に高く跳り、
發生し、死滅し、はた増殖して、
輝くもの、燃ゆるもの、
さながら似たり、
寶冠はうくわんのおもてを飾るたまの光に。
かくて地球も其昔、いつとは知らず在天ざいてん
大寶冠よりしたたりたる夜光やくわうの玉のひとひかり。

緩慢にして遲鈍なる寒氣、鉛の色の濕りたる空氣は
この炎々として猛烈なる火氣くわきを靜めて、
大洋の水、まづ其面そのおもを曇らせ、
山岳、つぎに其氷りたる脊椎せきつゐもたげ、
森林は、底土ていどしたよりるぎ出で、
しゆみて骨々こち/″\しき猛獸の怒號、爭鬪にをののき、
天災、東より西へ流れて、
大陸は作られ、また滅びぬ。
かしこ、旋風せんぷうの怒をなして渦卷くところ、
狂瀾怒濤の上、岬はつきいでぬ。
突進し、震蕩しんたうし、顛覆する天地てんちの苦鬪、
漸くにして其狂亂を收むるや、
影と爭との幾千年後、
徐ろに人は宇宙の鏡にあらはる。

彼はじめよりしゆたり、
忽然として
其上半身を直立し、其額を上げ、
萬物のしゆたりと名乘る、かくて其祖より離れぬ。
晝ありよるあるこの地球は、
はるばると限なく
東西にひろがり、
はじめの思想、はじめの飛躍は、
人間の
至上なる腦の奧より
日のもとにあらはれぬ。

嗚呼、思想よ、
恐ろしき飛躍なる哉、火焔くわえんの散らふに似たり。
其爭ふや赤く、其和するや緑に、
天上の星光せいくわう、雲を破る如く、
はてしらぬ原にかがやき、
火の如くなりて虚空こくうに轉じ、
山をぢ、川を照らし、
新光明しんくわうみやうくまなく放ちぬ、
海より海へと、靜寂せいじやくの邦の上に。

されどこの金色こんじき喧囂けんがううち
いつも空にある如く、今も空にある如き
大諧音だいかいおんの終に起らむを望みて、
さながら
日輪の如く、
あらはれ、のぼるものは、
此世の民の中よりづる
天才なり。

火焔くわえんの心を有し、蜜の唇を有して、
天才は事も無げに、「道」を語りぬ。
苦悶の闇に迷ふ凡百ぼんぴやくのともがら、
皆この大思想の巣にかへり來て、
切なる求道ぐだう、狂ほしき疑惑の
滿干まんかんの波はひたせども、
此突如たる光明くわうみやうに影もとゞまりつ、
よろづの物質に新しき震動は傳り、
水も、森も、山岳も、山風に、濱風に、
身の輕きをおぼえて、
おのづから跳り、枝おのづから飛びて、
白き泉の接吻せつぷんに岩も動きぬ。
萬物其もとゐよりしてあらたまりぬ。
しんぜんと、あいしうと、
水火すゐくわが作る微妙なる結合は、
宇宙の精神の經緯けいゐとなりて、
愛する物が織りなせる世のすべては、
つひに天上ののりに從つて生く。

世界は星と人とより成る。


「智慧」は山嶽の中腹に坐して、
山川の白波しらなみ
左に折れ、
右にれ、
谷間の岩を縫ひつ、まとひつ、
流るるを見て、
分別らしき眼差まなざしに、不安の色を浮べたれど、
井然せいぜんたる山下さんかの村落に、
くびきつながれたるうしうま
列も亂さず、靜かに勞作に向ふを見ては、
「智慧」の腦中に築かれたる宮殿に、
炬火たいまつの焔、沈として、平安はもどり來りぬ。

平靜なる山川の景に、何の變化も無し。
人もし仰いで高きを望まば、
「智慧」は徐ろに手を擧げて、
いちじるき山すを知らむ。
唯ひとりかの炎々たる熱望を抱きて、
ひとたび昇るとも、又更に高く昇らむとする人、
かの金色こんじき眩暈げんうんを避け難き人は、
其精神の聲のみを聞きて、毫も他を聞かず。

其大飛躍に足代あししろとなるものは喜悦なり、
危きを冒し、難きに就く沈痛の喜悦なり。
飄逸にして且活躍を好む其心は、
大風たいふうの黒き喇叭のいと微かなる音をだに逸せず。
斯る人は人生の戰鬪を一の祝祭とす、
そこには人、ぐんを成して行かず、ひとり行くを悦ぶ。
眼もくらむ深雪みゆきの光、
白妙のけんが峰を被ふ葬衣はふりぎぬ
かじかむ指を噛み、張りつむる胸をむしる。
大風たいふう擦子おろし、極寒の萬力まんりき
岩より岩へ轉ずる雪なだれ、
是等のものもつひに止めえじ、
かの肅々しゆく/\として頑強にいただきを極めむとするあゆみを。

しかすがに樂しきは谷底の命かな。
人の姿、人の聲、
むしろとし、日光を敷石としたるへや
砂石しやせきかめ、木づくりの古椅子。
週の日はすべて
勞作と辛苦との淺黒きやぶに暮しつ。
日曜のたび毎に
紅白の花をかざして、
朝には御堂みだうの鐘の聲をく。
夕されば、少女をとめの姿、つねよりもあだめきて、
口ふるれば、耻らひて身はすくめども、
かたくなに否むとに非らず、忽ちにうべなふもよし。

されど、かの絶壁の細道をたどりて
徐ろにのぼりゆく人々は、
喜悦に醉ひ、未來に醉ひ、
人里を思ひ出づる歌聲に耳をもさず、
孤獨なるその振舞を世の人の顧みずとも何かあらむ、
天に向ひ、無限に向ひ、今開く此戸よりして、
後の世はこぞりて必らず續かむと、
わが夢のはてをも問はず、
いたゞききんの照しと白雪しらゆきと蹈み轟かし、
いや高き光を、空に仰ぎつつ、
築き上げたる熱望と意志とのいはほ




われはいのちの渦卷のなかにあり……
弱し、顫へたり、蒼ざめたり、不安なり、苛苛いらいらし。
悔に、願に、祈に、
思出に、望に、欲に滿ちたり……
われとわが求むる所を知らず、
われとわが誰なるをも知らず、
散亂し、變化し、樣樣に分裂したるを感ず。
幸なるか、知らず、唯、
われは生きたり。

われは愛す、何とは無しに愛す。
われは戰慄す、みいられたる人の如くに恐る。
わが愛するはなづさはる温柔をんにうの黒き眼にして、
嬉しげに、優しげに、かはるがはる麗はしく、
閉づれば長く曳くまつげの影、
見開いたる時の愛らしさ。
わが愛するは清き唇、にほひよき唇、
煙の如くほそやかに吹きまよふ丈長たけながの髮、
たまひとつ、にこやかにむ細き指なり。
しかもわれ何故に愛するかを、
また何故に愛せられたるかをきはめず、唯、
われは愛す。

われは榮譽を欲す、而も知らず、
果して之を欲するか否かを。
われは思考す、而して其思想を
定かならぬ恐懼のことばに述ぶ。
ここのわがひたひなかに詩ありと感ずれど、
後々に生き殘るべき詩なるか、否か、知る由なし、
唯之をぶれば、心あがり、おもひ樂し。
この聲抑ふ可からず。
われは詩人なるか、知らず、唯、
われは歌ふ。

われは生きて萬物の中を行く。
善か、惡か、知らず、
そは屡々萬物になづさはれ、
また屡々傷つけらるればなり。
われは愛す、冬も、夏も、絲杉いとすぎも、薔薇ばらも、
色青き大山たいざん鈍色にびいろ名無ななしをか
大海たいかいの轟、巴里の轟も……
善か、惡か、知らず、唯、
われは生き、われは行き、われは萬物を愛す。

われまた男女の間を行く。
額のしたに、眼のなかに、そのたましひを見てあれば、
巣立に散り行くおもしろさ。
世は影の鳥、火の鳥の飛び去る如く、
われ高山かうざんに昇りて、その過ぐるを眺む……
男はわれを害し、女はただ泣けども、
われはその男女を愛す。
われは生きたり。

――かくて、われは死なむ。のちにか、はるかのちにか、はた今すぐにか、
知らず、
けだし、わが行く處は、
あなたの、あなたの知らぬ國、
勇んで窓を飛び出づる鳥の如く、
あなたの、あなたの知らぬ國へ行きて
神の光によみがへらむ。否、
知らず。

あるひはわが行きて長久とこしへの眠に朽ち果つる所は、
地下の數尺、
草木も、天も、懷かしきかの眼もあらぬ
いまはしき闇の世界か。

しかはあれど、われはいのちあつき味を知る。
このわがちひさきひとみにも
ただ稻妻いなづまつか
久遠くをんにわたる光明くわうみやううつりたらずや、
われも亦せいなるうたげつらなりて、わが歡樂は飮みほしぬ、
また何の望かあらむ。
われは生きたり。

――かくてわれは死なむ。




 ポン・トオ・シァンジュ、花市はないちの晩。風のまにまに、ふはふはと、夏水仙のにほひ、土のにほひ、あすはマリヤのお祭の宵宮よみやにあたるにいやかさ。西の雲間に、河岸並かしなみに、きんの入日がぱつとして、群集ぐんじゆうへに、淡紅うすあかの光の波のてりかへし。今シァアトレエの廣場ひろばには、人の出さかり、馬車がをどれば電車が滑る。辻の庭から打水うちみづ繁吹しぶききりがたちのぼり、風情ふぜいくははるサン・ジァック、塔の姿が見榮みばえする……風のまにまに、ふはふはと、夏水仙の匂、土のにほひ。……その風かをる橋のうへ、ゆきつ、もどりつ、人波ひとなみのなかに交つて見てゐると、撫子なでしこの花、薔薇ばらはな欄干らんかんに溢れ、人道じんだうのそとまで、瀧と溢れ出る。花はゆかしや、行く人の裾に卷きつく、足へもからむ、道ゆく車の輪にからむ。

 かどのパレエの大時鐘おほどけい、七時を打つた――みやこの上に、金無垢きんむく湖水こすゐと見える西のそら、雲かさなつてどことなく、らいのけしきの東の空。風のあふり蒸暑むしあつく、呼吸いき出入でいりも苦しいと……ひとしほマノンの戀しさに、ほつと溜息ためいきついた……風のあふり蒸暑むしあつく、踏まれた花のが高い……見渡せば、入日いりひはなやぐポン・ヌウフ、橋の眼鏡めがねしたを行くむらさきの水の色、みるに心が結ぼれて――えい、かうまでも思ふのに、さてもつれないマノンよと、恨む途端とたんに、ごろ、ごろ、ごろ、遠くでらいが鳴りだして、かぜあふり蒸暑むしあつい。

 植木鉢うゑきばち草花くさばな花束はなたば植木棚うゑきだな、そのしづかに流れるは、艶消つやけしきんの光をうつしつつ、入日いりひうんを悲んで、西へともなふセエヌかは、紫色の波長く恨をひいてこの流、手摺てすりから散る花びらをいづこの岸へ寄せるやら。夕日ゆふひは低く惱ましく、わかれの光悲しげに、河岸かし左右さいうのセエヌがはかは一杯いつぱいきしめて、むせんでそゝさゞなみに熱い動悸どうきを見せてゐる。……われもあまりの悲しさに河岸かし手摺てすりに身をもたせたが……花のかをりのよるの風、かへつてふさぎのたねとなり、つれないマノンを思ひだす。

 あれ、ルウヴルの屋根の上、のぞみの色のそらのおく、ちろりちろりとひとつぼし。おお、それ、マノンの歌にも聞いた。「あれこそなさけのひとつぼし、空には、めうとも、こひびとも、心變こゝろがはりのないものか。」涙ながらに、金星きんせいを仰いで見れば、寶石はうせきの光のやうにきらめくが、憎らしいぞや、雲めが隱す、折角せつかく樂しい昨日きのふは夢、せつない今日けふうつつかと、つい煩惱ぼんなうしやうじるが、世の戀人の身の上をなんで雲めが思ふであらう。……もう、もう、そんな愚痴ぐちはやめ……星も出よ、あらしも吹けよ、唯ひとすぢに、あの人を思ふわが身には、どうでもよい。ある日マノンの歌ふには「うつろひやすい人心ひとごゝろ」。そこでこちらも早速さつそくに「君が色香いろかもかんばせも」と鸚鵡返あうむがへしをしておいた。したが、あらしに打たれる花は、さぞ色褪せることだらう。……ぴかりと稻妻いなづまはたたがみ、はつとばかりに氣がついた。

 あめこそは、さても眞面目まじめに、しつとりと人の氣分きぶんを落ちつかせ、石の心も浮きあげてつめたい光を投げかける。雨よ、この燃える思をひややかに、亂れた胸をたひらかに、このさし伸べたねつの手をすずしいやうにひやせかし。おゝ、ぽつりぽつりやつて來た。……あゝ、さつとひとあめ……おや、もう月の出か。さては村雨むらさめの通つたのか。何となくあかるいぞ。かぜのまにまにふはふはと、撫子なでしこが匂ふ、夏水仙が匂ふ、薔薇ばらが匂ふ、土が匂ふ。ルウヴルきゆうの屋根の上、なさけの星も傾いた。どれこの花束を買ひませう。おやおや氣でもちがつたか。そして心で笑ひつつ、薔薇ばらの花束ひとかかへ、さきの口説くぜつもどこへやら、マノンのとこへ飛んで行く。


このをとめ、みまかりぬ、みまかりぬ、戀やみに。

ひとこれを葬りぬ、葬りぬ、あけがたに。

寂しくも唯ひとり、唯ひとり、きのままに、

棺のうち、唯ひとり、唯ひとり、のこしきて、

朝まだき、はなやかに、はなやかに、うちつれて、

歌ふやう「時くれば、時くれば、ゆくみちぞ、

このをとめ、みまかりぬ、みまかりぬ、戀やみに。」

かくてみな、けふもまた、けふもまた、野に出でぬ。


せめてなごりのくちづけを濱へ出てみて送りませう。

いや、いや、濱風、むかひ風、くちづけなんぞは吹きはらふ。

せめてわかれのしるしにと、この手拭ハンケチをふりませう。

いや、いや、濱風、むかひ風、手拭ハンケチなんぞは飛んでしまふ。

せめて船出ふなでのその日には、涙ながして、おくりませう。

いや、いや、濱風、むかひ風、涙なんぞはてしまふ。

えい、そんなら、いつも、いつまでも、思ひつづけて忘れまい。

おゝ、それでこそお前だ、それでこそお前だ。


 木立生ひ繁るをかは、岸までりて、靜かな水の中へつづく。薄暗うすぐらい水のなかば緑葉りよくえふを、まつさをなまたのなかば中空なかぞらの雲をゆすぶる。

 ここを通るは白雲しらくも眞珠船しんじゆぶね、ついそのさきを滑りゆく水枝みづえいかだ……それ、眼のしたせきの波、渦卷くもやのそのなかに、船もいかだもあらばこそ。

 われらが夢の姿かな。船は碎け、筏は崩れ、帆はあれど、めあてなく、波のまにまに、影の夢、青い夢、せきけ、波に散り、あともない。

 木立こだちひ繁る阜は岸までつづく。むかひの岸の野原には今一面の花ざかり、中空なかぞらの雲一ぱいに白い光がかすめゆく……ああ、またべつの影が來て、うつるかと見て消えるのか。


 蟋蟀こほろぎが鳴く夏の青空あをぞらのもと、神、佛蘭西フランスうへに星のさかづきをそそぐ。風は脣に夏のあぢはひを傳ふ。銀砂子ぎんすなごひかり凉しき空の爲、われは盃をあげむとす。

 よるの風は盃のひやふちに似たり。半眼はんがんになりて、口なめずりて飮み干さむかな、石榴ざくろの汁を吸ふやうに滿天まんてんの星の凉しさを。

 晝間ひるまの暑き日の熱のほてり、いまだに消えやらぬまき草間くさまに横はり、あゝこのゆふべのみほさむ、空が漂ふ青色あをいろのこの大盃おほさかづきを。




の紫の肩巾エシヤルプ
ふはりと地の肩の上にすべちる
黄昏たそがれの窓にもたれて
今夜もまた空の悲劇をはじめると、
雲はけふどこへいつたか、
いつもの逢引あひびきにかげもみせない。
西方さいはう一面にぎわたり、
光いつとなくしらんで薄れて、
さながら、あまりにもろく美しい花束が
ちよいとのことにこぼれ散るやうだ。
夕影ゆふかげはいま山あひのうろくぼまで及んだが、
むかうのをかは入日のはての光を浴びて、
あのカナアンの國よりもなほ遠い
神の誓のさとのやうに照りわたる。
温柔をんにうの氣、水の如く中天ちゆうてんに流れをどつて、
ぷんぷんなまめいて滑りゆくには、
つい、ぼんやりと、恍惚うつとりしてしまふところを、
これではならぬと、やつとこさ、
胸の思をなだめてかす、
心いきの小歌こうたもくひとめた。
おや、うしろのはうでらんぷがつく。
見よ、大空の奧深く、
千萬年せんまんねんも倦んぜずに、また、こよひ、
ちろり、ちろりと見える、聞える、
いろ數々かずかずふるはせた、星の光のふしまはし。


新しき美をわれは求める。
墓のうへに遠慮無く舞踏するわれらだ。
爾等なんぢらはモツァルト、ラファエルを守れ、
ベエトホ※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ン、シェイクスピア、マルク・オオレルを守れ、
われらは敢て異端の道を擇ぶ。
爾等なんぢらはたに敬禮しようや。
もしいにしへの俊傑が復活するとならば、
このわが身中みうちに、このわが血液によみがへるべし。
爾等なんぢら見窄みすぼらしい繪馬ゑまの前に、
なんでこの身が、ぬかづき祈らう。
むしろ、われは大風たいふうの中を濶歩して、
轟き騷ぐ胸を勵まし、
つぐみ鳴く葡萄園に導きたい。
沖の汐風に胸ひらくとも、
葡萄の酒にはうとも、なんのその。
古書こしよ傍註ばうちゆうして之を汚す者よ、
ぬかづきはいせ、われは神だ。
われ敢て墓の上に舞踏して憚らぬ所以のものは、
全世界の美、われにとりては、
朝毎、朝毎に、新しいからだ。


世間のある人々には、その日々の消光くらし
ひとりでふだを打つパシアンスのあそびの如く、
またはすつかり覺えこんだ日課を
夢うつゝで譫語うはごとに言ふ如く、
またはカフェエに相變らずの顏觸と
薄ぎたない歌留多札を弄ぶやうだ。
ある人々には、一體、いのちはごく手輕な
造作も無い尋常一樣の事で、
手紙を書いたり、一寸は「あそび」もしたり、
とにかく「用事」は濟せてゆく。
してその翌日あくるひも同じ事を繰返して、
昨日きのふかはらぬ慣例しきたりに從へばよい。
即ちあらつぽい大きな歡樂よろこびけてさへゐれば、
自然また大きな悲哀かなしみもやつてないのだ。
ゆくてを塞ぐ邪魔な石を
蟾蜍ひきがへる※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて通る。

しかし、君、もし本當に生きてゐたいなら、
其日其日に新しい力を出して、
荒れ狂ふいのち、鼻息強く跳ね躍るいのち
ぎよせられまいとするいのちにうち克たねばならぬ。
一刻もやすの無い奇蹟を行つてこそ
亂れそそげたこのたてがみ
汗ばみはずむこの脇腹、
湯氣をてたるこの鼻頭はなづらは自由に出來る。
君よ、君のいのちは愛の一念であれ、
心殘のさびも無く、
後悔の銹も無く、
鋼鐵の清い光に耀け。
君が心はいつまでも望と同じく雄大に、
神のさづけ松明たいまつをしむな。
ふさぎがちなる肉身にくしんから雄々しい聲を噴上ふきあげよ、
苦痛にすべてうちまかせたその肉身にくしんから、
從容しようようとして死の許嫁いひなづけたる肉身にくしんから叫べ。
寶玉は鑛石を破つて光る。




シモオヌよ、そなたの髮の毛の森には
よほどの不思議がこもつてゐる。

そなたは乾草かれくさの匂がする。牛なぞの
ながくてゐた石の匂がする。
鞣皮なめしがはの匂がするかと思へば、
麥をあふりわける時の匂もする。
また森の匂もするやうだ。
ばつて來る麺包パンの匂もする。
廢園の石垣にそつて亂れ咲く
草花の匂もする。
懸鉤子きいちごの匂もするやうだし、
雨に洗はれたつたの匂もする。
日が暮れてから苅りとつた
羊齒しだの匂、の匂がする。
ひひらぎの匂、苔の匂、
垣根の下にが割れた朽葉色くちばいろ
萎れた雜草の匂がする。
蕁麻いらぐさの匂、金雀花えにしだの匂がして、
和蘭陀おらんだげんげの匂もして、乳の匂がする。
黒穗草くろんぼさうの匂、茴香うゐきやうの匂、
胡桃くるみの匂がする、またよくれて
摘みとつた果物くだものの匂がする。
柳や菩提樹ぼだいじゆべんの多い
花を咲かせるときの匂がする。
蜂蜜の匂もする。まき草原くさはら
さまよふ生物いきものの匂がする。
つちの匂、川の匂、
愛の匂、の匂がする。

シモオヌよ、そなたの髮の毛の森には
よほどの不思議が籠つてゐる。


シモオヌよ、雪はそなたのえりのやうに白い、
シモオヌよ、雪はそなたの膝のやうに白い。

シモオヌよ、そなたの手は雪のやうに冷たい、
シモオヌよ、そなたの心は雪のやうに冷たい。

雪は火のくちづけにふれてける、
そなたの心はわかれのくちづけにける。

雪は松がうへにつもつて悲しい、
そなたのひたひ栗色くりいろかみしたに悲しい。

シモオヌよ、雪はそなたのいもうと中庭なかにはてゐる。
シモオヌよ、われはそなたを雪よ、戀よと思つてゐる。


シモオヌよ、柊冬青ひひらぎそよごに日が照つて、
四月は遊にやつて來た。

肩のかごからあふれる花を、
いばらに柳にとちに、

小川をがはや溝や淺沼の
みぎはの草にもわけてやる。

水の上には黄水仙きずゐせん
森のはづれへ日々花にちにちくわ

素足すあしもかまはず踏み込んで、
いばらのひかげへすみれぐさ、

はら一面いちめん雛菊ひなぎく
鈴を頸環くびわ櫻草さくらさう

森のにきみかげぐさ
その細路ほそみちへおきなぐさ、

人家じんかの軒へあやめぐさ、
さてシモオヌよ、わが庭の

春の花には苧環をだまき遊蝶花いうてふくわ
唐水仙たうすゐせん、匂の高い阿羅世伊止宇あらせいとう


 僞善ぎぜんの花よ、
 無言むごんの花よ。

 銅色あかがねいろ薔薇ばらの花、人間のよろこびよりもなほ頼み難い銅色あかがねいろ薔薇ばらの花、おまへのいつはり多い匂を移しておくれ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 うかれのやうに化粧した薔薇ばらの花、遊女あそびめの心をつた薔薇ばらの花、綺麗きれいに顏をつた薔薇ばらの花、なさけ深さうな容子ようすをしておみせ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 あどけ無いほゝ薔薇ばらの花、末は變心こゝろがはりをしさうな少女をとめ、あどけ無い頬に無邪氣むじやきあかい色をみせた薔薇ばらの花、ぱつちりした眼のわなをお張り、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 眼の黒い薔薇ばらの花、おまへの死の鏡のやうな眼の黒い薔薇ばらの花、不思議といふ事を思はせておくれ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 純金色じゆんきんしよく薔薇ばらの花、理想りさう寶函たからばこともいふべき純金色じゆんきんしよく薔薇ばらの花、おまへのおなかかぎをおくれ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 銀色ぎんいろ薔薇ばらの花、人間の夢の香爐にも譬ふべき薔薇ばらの花、吾等われらの心臟を取つて煙にしてお了ひ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 女同志をんなどうしの愛を思はせる眼付めつき薔薇ばらの花よ、百合ゆりの花よりも白くて、女同志をんなどうしの愛を思はせる眼付めつき薔薇ばらの花、處女をとめに見せかけてゐるおまへの匂をおくれ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 あかねさすひたひ薔薇ばらの花、さげすまれたをんな憤怒いきどほりあかねさすひたひ薔薇ばらの花、おまへの驕慢けうまん祕密ひみつをお話し、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 ばんだ象牙ざうげひたひ薔薇ばらの花、自分で自分を愛してゐる黄ばんだ象牙ざうげひたひ薔薇ばらの花、處女をとめよる祕密ひみつをお話し、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 血汐ちしほの色の唇の薔薇ばらの花、肉をくら血汐ちしほの色の唇の薔薇ばらの花、おまへに血を所望しよまうされたら、はてなんとしよう、さあ、お飮み、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 硫黄ゆわうの色の薔薇ばらの花、煩惱の地獄ともいふべき硫黄ゆわうの色の薔薇ばらの花、たましひとなり焔となり、おまへが上に舞つてゐるその薪に火をおつけ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 桃のの色の薔薇ばらの花、紅粉こうふんよそほひでつるつるした果物くだもののやうな、桃のの色の薔薇ばらの花、いかにもずるさうな薔薇ばらの花、吾等の齒に毒をお塗り、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 肉色の薔薇ばらの花、慈悲の女神めがみのやうに肉色の薔薇ばらの花、若々わかわかしてゐて味の無いおまへの肌の悲みに、この口をさはらせておくれ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 葡萄のやうな薔薇ばらの花、あなぐら酒室さかむろの花である葡萄のやうな薔薇ばらはな狂氣きちがひ亞爾箇保兒アルコオルがおまへのいきねてゐる、愛の狂亂をつかけておくれ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 菫色の薔薇ばらの花、こじけた小娘こむすめしとやかさが見える黄色きいろ薔薇ばらの花、おまへの眼はひとよりも大きい、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 淡紅色ときいろ薔薇ばらの花、亂心地みだれごゝち少女をとめにみたてる淡紅色ときいろ薔薇ばらの花、綿紗モスリンうはぎとも、あめの使ともみえるこしらへもののそのはねを廣げてごらん、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 紙細工かみざいく薔薇ばらの花、この世にあるまじき美をたくみにも作り上げた紙細工かみざいく薔薇ばらの花、もしや本當ほんたうの花でないかえ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 曙色あけぼのいろ薔薇ばらの花、「時」の色「」の色を浮べて、獅身女面獸スフインクス微笑ほゝゑみを思はせる暗色あんしよく薔薇ばらの花、虚無きよむに向つて開いた笑顏ゑがほ、その嘘つきの所が今に好きになりさうだ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 紫陽花色あぢさゐいろ薔薇ばらの花、ひんい、心の平凡なたのしみともいふべく、新基督教風しんキリストけうふう薔薇ばらの花、紫陽花色あぢさゐいろ薔薇ばらの花、おまへを見るとイエスさまも厭になる、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 佛桑花色ぶつさうげいろ薔薇ばらの花、優しくも色のめたところが返咲かへりざきをんなの不思議な愛のやうな佛桑花色ぶつさうげいろ薔薇ばらの花、おまへのとげにはがあつて、おまへの爪は隱れてゐる、その天鵞絨びろうど足先あしさきよ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 亞麻色あまいろ薔薇ばらの花、華車きやしや撫肩なでがたにひつかけた格魯謨色クロオムいろの輕い塵除ちりよけのやうな亞麻色あまいろよりも強いと見える、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 香橙色くねんぼいろ薔薇ばらの花、物語に傳はつた威尼知亞女※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ネチヤをんな姫御前ひめごぜよ、きさきよ、香橙色くねんぼいろ薔薇ばらの花、おまへの葉陰の綾絹あやぎぬに、虎のあぎとてゐるやうだ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 杏色あんずいろ薔薇ばらの花、おまへの愛はのろい火で温まる杏色の薔薇ばらの花よ、菓子をとろとろ煮てゐる火皿ひざらがおまへの心だ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 盃形さかづきがた薔薇ばらの花、口をつけて飮みにかかると、齒の根が浮出す盃形さかづきがた薔薇ばらの花、まれて莞爾につこり、吸はれて泣きだす、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 眞白まつしろ薔薇ばらの花、乳色ちゝいろで、無邪氣むじやき眞白まつしろ薔薇ばらの花、あまりの潔白けつぱくにはひとおどろく、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 藁色わらいろ薔薇ばらの花、稜鏡プリズム生硬なまな色にたちまざつた黄ばんだ金剛石のやうに藁色わらいろ薔薇ばらの花、扇のかげで心と心とをひしと合せて、のぎにほひをかいでゐる僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 麥色の薔薇ばらの花、くくりの弛んだ重い小束こたばの麥色の薔薇ばらの花、やはらかくなりさうでもあり、かたくもなりたさうである、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 藤色ふぢいろ薔薇ばらの花、決着けつちやくの惡い藤色ふぢいろ薔薇ばらの花、波にあたつて枯れ凋んだが、その酸化さんくわしたはだをばなるたけ高く賣らうとしてゐる、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 深紅しんくの色の薔薇ばらの花、秋の夕日の豪奢はでやかさを思はせる深紅しんくの色の薔薇ばらの花、まだ世心よごころのつかないのに欲を貪る者の爲添伏そひぶしをして身を任すたふと供物くもつ僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 大理石色なめいしいろ薔薇ばらの花、あかく、また淡紅うすあかじゆくして今にもけさうな大理石色なめいしいろ薔薇ばらの花、おまへはごく内證ないしよ花瓣はなびらの裏をみせてくれる、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 唐金色からかねいろ薔薇ばらの花、天日てんぴに乾いた捏粉ねりこ唐金色からかねいろ薔薇ばらの花、どんなにれる投槍なげやりも、おまへの肌に當つては齒もにぶる、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 焔の色の薔薇ばらの花、強情がうじやうな肉をかす特製の坩堝るつぼほのほの色の薔薇ばらの花、老耄らうまうした黨員の用心、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 肉色の薔薇ばらの花、さも丈夫らしい、けた薔薇ばらの花、肉色の薔薇ばらの花、おまへは、わたしたちにあかい弱い葡萄酒ぶだうしゆけて誘惑する、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 玉蟲染たまむしぞめ天鵞絨びろうどのやうな薔薇ばらの花、あかの品格があつて、人のをさたる雅致がちがある玉蟲染たまむしぞめ天鵞絨びろうどのやうな薔薇ばらの花、成上なりあがりの姫たちが着る胴着どうぎ似而非えせ道徳家もはおりさうな衣服きもの僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 櫻綾子さくらどんすのやうな薔薇ばらの花、勝ち誇つた唇の結構な氣の廣さ、櫻綾子さくらどんすのやうな薔薇ばらの花、光り輝くおまへの口は、わたしどもの肌の上、その迷景ミラアジユの赤い封印ふういんしてくれる、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 乙女心をとめごゝろ薔薇ばらの花、ああ、まだ口もきかれぬぼんやりした薄紅うすあか生娘きむすめ乙女心をとめごゝろ薔薇ばらの花、まだおまへには話がなからう、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 いちごいろ薔薇ばらの花、可笑をかしな罪の恥と赤面せきめんいちごの色の薔薇ばらの花、おまへの上衣うはぎを、ひとがみくちやにした、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 夕暮色ゆふぐれいろ薔薇ばらの花、うれひなかばんでゐる、あゝたそがれどききり夕暮色ゆふぐれいろ薔薇ばらの花、ぐつたりした手に接吻せつぷんしながら、おまへは戀死こひじにでもしさうだ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 水色みづいろ薔薇ばらの花、虹色にじいろ薔薇ばらの花、怪獸シメエルの眼に浮ぶあやしい色、水色の薔薇ばらの花、おまへのまぶたを少しおあげ、怪獸シメエルよ、おまへはめんと向つて、ぢつと眼と眼と合せるのがこはいのか、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 草色くさいろ薔薇ばらの花、海の色の薔薇ばらの花、ああうみのあやしい妖女シレエヌほぞ草色くさいろ薔薇ばらの花、波に漂ふ不思議な珠玉しゆぎよく、指が一寸ちつとさはると、おまへは唯の水になつてしまふ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 紅玉あかだまのやうな薔薇ばらの花、顏の黒ずんだひたひに咲く薔薇ばらの花、紅玉あかだまのやうな薔薇ばらの花、おまへは帶の締緒しめをの玉にすぎない、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 しゆの色の薔薇ばらの花、ひつじが、戀に惱んではたけてゐる姿、羊牧ひつじかひはゆきずりに匂を吸ふ、山羊やぎはおまへにさはつてゆく、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 墓場の薔薇ばらの花、屍體したいから出た若いいのち、墓場の薔薇ばらの花、おまへはいかにも可愛かはいらしい、薄紅うすあかい、さうして美しい爛壞らんゑかをり神神かうがうしく、まるで生きてゐるやうだ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 褐色とびいろ薔薇ばらの花、陰鬱いんうつ桃花心木たうくわしんぼくの色、褐色とびいろ薔薇ばらの花、免許の快樂、世智、用心、先見、おまへは、ひとのわるさうな眼つきをしてゐる、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 雛罌粟色ひなげしいろ薔薇ばらの花、雛形娘ひながたむすめ飾紐かざりひも雛罌粟色ひなげしいろ薔薇ばらの花、ちひさい人形にんぎやうのやうに立派なので兄弟きやうだい玩弄おもちやになつてゐる、おまへは全體ぜんたいおろかなのか、こすいのか、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 赤くてまた黒い薔薇ばらの花、いやにたかぶつて物隱しする薔薇ばらの花、赤くてまた黒い薔薇ばらの花、おまへのたかぶりも、赤味あかみも、道徳がこしらへる妥協の爲にしらつちやけてしまつた、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 鈴蘭のやうな薔薇ばらの花、アカデエモスの庭に咲く夾竹桃けふちくたうからんだ旋花ひるがほ、極樂の園にも亂れ咲くだらう、噫、鈴蘭のやうな薔薇ばらの花、おまへはにほひいろもなく、洒落しやれ心意氣こゝろいきも無い、年端としはもゆかぬ花だ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 罌粟色けしいろ薔薇ばらの花、藥局やくきよくの花、あやしい媚藥びやくを呑んだ時の夢心地、にせ方士はうしかぶ頭巾づきんのやうな薄紅うすあかい花、罌粟色けしいろ薔薇ばらの花、馬鹿者どもの手がおまへの下衣したぎひださはつてふるへることもある、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 瓦色かはらいろ薔薇ばらの花、煙のやうな道徳の鼠繪具、瓦色かはらいろ薔薇ばらの花、おまへは寂しさうな古びた床机しやうぎひあがつて、咲き亂れてゐる、夕方の薔薇ばらの花、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 牡丹色の薔薇ばらの花、仰山ぎやうさんに植木のある花園はなぞのつゝましやかな誇、牡丹色の薔薇ばらの花、風がおまへのはなびらあふるのは、ほんの偶然であるのだが、それでもおまへは不滿でないらしい、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 雪のやうな薔薇ばらの花、雪の色、白鳥はくてうはねの色、雪のやうな薔薇ばらの花、おまへは雪の脆いことを知つてゐるから、よほど立派な者のほかには、その白鳥はくてうはねを開いてみせない、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 玻璃色びいどろいろ薔薇ばらの花、草間くさまほとばし岩清水いはしみづの色、玻璃色びいどろいろ薔薇ばらの花、おまへの眼を愛したばかりで、ヒュラスは死んだ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 黄玉色トパアズいろ薔薇ばらの花、忘れられてゆく傳説の姫君、黄玉色トパアズいろ薔薇ばらの花、おまへの城塞じやうさいは旅館となり、おまへの本丸ほんまるは滅んでゆく、おまへの白い手は曖昧な手振をする、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 紅玉色リユビイいろ薔薇ばらの花、のりものつてゆく印度いんどの姫君、紅玉色リユビイいろ薔薇ばらの花、けだしアケディセリルの妹君であらう、噫衰殘すゐざんの妹君よ、その血僅に皮に流れてゐる、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 ※(「くさかんむり/見」、第3水準1-90-89)ひゆのやうに紫ばんだ薔薇ばらの花、賢明はフロンド黨の姫君の如く、優雅いうがはプレシウズれんの女王ともいひつべき※(「くさかんむり/見」、第3水準1-90-89)ひゆのやうに紫ばんだ薔薇ばらの花、うつくしい歌を好む姫君、姫が寢室ねべやとばりの上に、即興そくきよう戀歌こひかを、ひとが置いてゆく、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 蛋白石色オパアルいろ薔薇ばらの花、後宮こうきゆう香烟かうえんにつつまれてやす土耳古トルコの皇后、蛋白石色オパアルいろ薔薇ばらの花、絶間無たえまななでさすりのつかれ、おまへの心はしたたかに滿足した惡徳の深い安心を知つてゐる、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 紫水晶色アメチストいろ薔薇ばらの花、曉方あけがたの星、司教しけうのやうな優しさ、紫水晶色アメチストいろ薔薇ばらの花、信心深い柔かな胸の上におまへは寢てゐる、おまへは瑪利亞樣マリヤさまに捧げた寶石だ、噫寶藏はうざう珠玉しゆぎよく僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 君牧師カルヂナルころもの色、濃紅色のうこうしよく薔薇ばらの花、羅馬公教會ろおまこうけうくわいの血の色の薔薇ばらの花、濃紅色のうこうしよく薔薇ばらの花、おまへは愛人の大きな眼を思ひださせる、おまへを襪紐たびどめ結目むすびめに差すものは一人ひとりばかりではあるまい、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 羅馬法皇ろおまほふわうのやうな薔薇ばらの花、世界を祝福する御手みてからき散らし給ふ薔薇ばらの花、羅馬法皇ろおまほふわうのやうな薔薇ばらの花、その金色こんじきしんあかがねづくり、そのあだなるりんの上に、露とむすぶ涙は基督クリスト御歎おんなげき、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

 僞善ぎぜんの花よ。
 無言むごんの花よ。


 どんなに立派な心よりも、おまへたちの方がわたしはすきだ、ほろんだ心よ、むかしの心よ。

 長壽花きずゐせん金髮きんぱつのをとめ、幾人いくたりもの清いまつげはこれで出來る。

 東洋の水仙花すゐせんくわのならぬ花、道で無い花。

 黄金色わうごんいろ金盞花きんせんくわ、男の夢にかよつてこれとちぎ魑魅すだまのものすごあでやかさ、これはまた惑星わくせいにもみえる、或は悲しい「夢」の愁の髮に燃える火。

 長壽花きずゐせん水仙花すゐせんくわ金盞花きんせんくわ、どんなに明るい色の髮の毛よりも、おまへたちの方が、わたしはすきだ、ほろんだ花よ、むかしの花よ。

 白百合しらゆり處女むすめで死んだ者の、さまよふたましひ

 紅百合べにゆり、身の潔白をなくして赤面せきめんした花、世心よごゝろづいた花。

 鳶尾草いちはつの花、清淨しやうじやう無垢むくかひなの上にいて見える脈管みやくくわんの薄い水色、肌身はだみ微笑ほゝゑみ、新しい大空おほぞらの清らかさ、朝空あさぞらのふとうつつた細流いさゝがは

 白百合しらゆり紅百合べにゆり鳶尾草いちはつの花、信頼心しんらいしんの足りない若いものたちよりも、おまへたちのはうがわたしはすきだ、ほろんだ花よ、むかしの花よ。

 花薄荷はなはくか、燃えたつ草叢くさむら火焔ほのほしゝむら火蛇ひへびのやうなこの花の魂は黒い涙となつて鈍染にじんでゐる。

 双鸞菊とりかぶと、毒のかぶといたゞき、鳥の羽根はねの飾を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)した女軍ぢよぐん勇者つはもの

 風鈴草ふうりんさういろつぽいの鈴、春ここにちりりんと鳴る、はしばみの樹が作る筋違骨すぢかひぼねしたうづくまる色よい少女をとめ

 花薄荷はなはくか双鸞菊とりかぶと風鈴草ふうりんさうどくの薄い、浮れやうの足りないほかの花よりも、おまへたちのはうが、わたしはすきだ。ほろんだ花よ、むかしの花よ。

 牡丹ぼたん、愛嬌たつぷりの花娘はなむすめ、尤もひんは無い、味もない。

 匂阿羅世伊止宇にほひあらせいとう、眼にえた愁のあるむすめ。

 苧環をだまき成人おとなびてゐないのが身上しんじやうの女學生、短い袴、ほそあし、燕の羽根はねのやうに動くうで

 牡丹ぼたん匂阿羅世伊止宇にほひあらせいとう苧環をだまきの花、むすめざかりの姿よりも、おまへたちのはうがわたしはすきだ。ほろんだ花よ、むかしの花よ。

 水剪紅羅すゐせんのう、すこし不格好ぶかくこうだが、白鳥はくてうくびのやうにむくむくした※(「毬」の「求」に代えて「戎」、第4水準2-78-11)わたげがある。

 龍膽りんだう、太陽のまめやかな戀人。

 赤熊百合しやぐまゆり、王の御座所ござしよ天幕てんと屋根飾やねかざり、夢をちりばめたしやく埃及王ばろ窮屈きゆうくつな禮服を無理にせられた古風こふう女王ぢよわう

 水剪紅羅すゐせんのう龍膽りんだう赤熊百合しやぐまゆり本物ほんもの女性美によしやうびよりも、おまへたちのはうが、わたしはすきだ。ほろんだ花よ、むかしの花よ。

 櫻草さくらさう、はつ春の姉娘あねむすめ

 毛莨うまのあしがた、貧しいうかれの金貨。

 鈴蘭、おめかしの好なをんな、白いのどを見せて歩く蓮葉者はすはもの故意わざとらしいあどけなさ、丸裸まるはだか罔象女みづはのめ

 櫻草さくらさう毛莨うまのあしがた鈴蘭すゞらんつゝしみの足りない接吻せつぷんよりも、おまへたちのはうが、わたしはすきだ。ほろんだ花よ、むかしの花よ。

 茴香うゐきやう、愛の女神めがみ青雲あをぐもの髮。

 野罌粟のげし、戀人に噛まれて血を鈍染にじました唇。

 黄蜀葵とろろあふひ土耳古皇帝とるこくわうてい鍾愛しようあいの花、麻色あさいろに曇つた眼、肌理きめこまかな婀娜あだもの――おまへの胸から好いにほひがする、潔白の氣は露ほどもないにほひがする。

 茴香うゐきやう野罌粟のげし黄蜀葵とろろあふひ色々いろいろと物言ひかけるよその小花こばなよりも、おまへたちのはうがわたしはすきだ。ほろんだ花よ、むかしの花よ。

 山百合のマルタゴン、なん百となく頭をげて、強いかをりを放つ怪物くわいぶつ淺藍色うすあゐいろ多頭たとう大蛇おろち

 山百合やまゆりのマルタゴン、葡萄色えびいろ頭巾づきんかぶつてゐる。

 山百合やまゆりのマルタゴン、いろい眼をしたマルタゴン、東羅馬ひがしろおまの百合の花、澆季皇帝げうきくわうてい愛玩あいぐわん聖像せいざうかう

 マルタゴン、鈴なり花のマルタゴン、名指なざしてもいいが、ほかの怪物くわいぶつよりもおまへたちのはうがわたしはすきだ。ほろんだ花よ、むかしの花よ。

 猿猴草ゑんこうさう、さも毒がありさうな白い花。

 翁草おきなぐさ、吟味してみやびた物言ばかりなさるマダアム・プレシウズ。

 オンファロオド、人をとろか明色めいしよくの眼をした臍形ほぞがたの花、影を無言むごんに映して見せる奧深い鏡。

 猿猴草ゑんこうさう翁草おきなぐさ、オンファロオド、粉粧つくりが足りない尋常の化生けしやうのものよりも、おまへたちのはうがわたしは好だ。ほろんだ花よ、むかしの花よ。

 瑠璃草るりさう、アンゴラの生れか、手ざはりのい、柔かい女猫めねこ

 紫羅欄花あらせいとう、帽子の帶のへりにさした人柄ひとがら前立まへだて

 罌粟けしはなあいの疲のねむり、片田舍の廢園。蓬生よもぎふなかに、ぐつすりねむるまろ寢姿ねすがた――靴のおとにも眼が醒めぬ。

 瑠璃草るりさう紫羅欄花あらせいとう罌粟けしの花、どんなに嫖緻きりやうよりも、おまへたちのはうが、わたしはすきだ。ほろんだ花よ、むかしの花よ。

 矢車草やぐるまさう、まるで火の車。

 思草おもひぐさ、わたしはおまへを思ひだす――めんとおまへを見るときに。

 白粉花おしろいばな夜中よなかに表をたゝくから、雨戸あまどを明けてふと見れば、墓場の上の狐火きつねびか、暗闇くらがりのなかにおまへの眼が光る。噫、おしろい、おしろい、よごれたよる白粉花おしろいばな

 矢車草やぐるまさう思草おもひぐさ白粉花おしろいばなしやうまことの美人よりもおまへのはうがわたしはすきだ。ほろんだ花よ、むかしの花よ。

 雛菊ひなぎく、指で隱したおまへのその眼のしをらしさ。

 釣舟草つりぶねさう不謹愼ふきんしんの女である、秋波ながしめをする、しなをする。

 ※(「くさかんむり/見」、第3水準1-90-89)ひゆの花、男なんぞは物ともしない女の帽子の羽根はね、口元も腰元もけるやうだ、おまへの蜜の湖に若い男が溺れ死ぬ。

 雛菊ひなぎく釣舟草つりぶねさう※(「くさかんむり/見」、第3水準1-90-89)ひゆの花、もつと眞劍のまよはしよりも、おまへたちの方がわたしは好だ。ほろんだ花よ、むかしの花よ。

 忍冬すひかづら、うかれて歩く女。

 素馨そけい、ゆきずりに袖ふれる女。

 濱萵苣はまさじ、すました女、おまへには道義のにほひがする、はかりにかけた接吻せつぷんの智慧もある、かしの箪笥に下着したぎが十二枚、をつ容子ようす濱萵苣はまさじ、しかも優しい濱萵苣はまさじ

 忍冬すひかづら素馨そけい濱萵苣はまさじまよはしの足りないほかの花よりも、おまへたちのはうが、わたしはすきだ。ほろんだ花よ、むかしの花よ。

 蛇苺へびいちご蘭引らんびきこしらへあげた女。

 芍藥しやくやく腕套うでぶくろに包んだ手で、しきりに皮肉をいてゐる。

 ゆきした、堅い心も突きとほす執念しふねん深い愛、石に立つ矢、どんなに暗い鐵柵てつさくあみなかへもはひ微笑ほゝゑみ

 蛇苺へびいちご芍藥しやくやくゆきした、もつとおとなしい隱立かくしだてよりも、おまへたちのはうがわたしはすきだ。ほろんだ花よ、むかしの花よ。

 ブラテエルといふ花は、所帶染しよたいじみた世話女房。

 モレエヌはラブレエのやうに笑ひのめす花。

 水蓼みづたでは無情の美人、燒木やけぎだ、あしかゞりだ、眼にばかり心が出てゐて、胸はから

 ブラテエル、モレエヌ、水蓼みづたで、もつとなまめかしい姿よりも、おまへたちの方が、わたしはすきだ。ほろんだ花よ、むかしの花よ。

 亞米利加あめりか薄荷はくかの花、愛の衰にふりかける胡椒こせう

 鐵線蓮かざぐるま、人のたましひからへび

 留紅草るこうさう樽形たるがたの花、その底にダナウスの娘たちが落ちてゐさうな花、人間の弱い心臟の血を皆かまはずに吸いこむため、おまへの唇にはきずがある。

 亞米利加あめりか薄荷はくか鐵線蓮かざぐるま留紅草るこうさう、もつと優しい鳩のやうな肉よりも、おまへたちの方がわたしはすきだ。ほろんだ花よ、むかしの花よ。

「十一をんな」といふ花は白い日傘ですらりと立つてゐる。

 芥菜からしの花、おまへの優しい心はみんな歌になつて、なくなつてしまふ。

 木犀もくせい可愛かはい從姉妹いとこの匂、子供の戀、眞味を飾る微笑ほゝゑみ

「十一をんな」、芥菜からし木犀もくせいの花、僞のもつと少ない手足よりも、おまへたちのはうがわたしはすきだ。ほろんだ花よ、むかしの花よ。

聖母せいぼ手套てぶくろ」即ち實※答利斯ジキタリス[#「くさかんむり/支」、92-上-1]の花、信心しんじん諸人しよにんみなこれに接吻せつぷんする。

 刺罌粟とげけし、すきな手のかふゑくぼ

 母子草はゝこぐさ、すいた人の指にはめた脆い蛋白花オパアル寢室ねべやでもつて、月を映してみるつもりか。

聖母せいぼ手套てぶくろ」、刺罌粟とげけし母子草はゝこぐさ、どんなに眞白ましろな手よりも、おまへたちのはうが、わたしはすきだ。ほろんだ花よ、むかしの花よ。

 杜若かきつばた、悲しい松明たいまつの強いほのほ

 菖蒲あやめ女丈夫ぢよぢやうふの血にまつた凄い短刀。

 伊吹虎尾いぶきとらのを、振りかざす手のいかりからになつた心臟にしがみつくまむし自害じがいした人。

 杜若かきつばた菖蒲あやめ伊吹虎尾いぶきとらのを、どんなに恐しい娘よりも、おまへたちのはうがわたしはすきだ。ほろんだ花よ、むかしの花よ。

 犬芥いぬがらし苦痛くつうにほほゑむ尼僧にそう、隱れたる殉教者じゆんけうしやの光。

約百ヨブなみだ」といふ川穀ずずだま、蒼ざめたまぶたの下の涙、暗い頬の上の悲しい眞珠。

 紫苑しをん基督キリスト御最後ごさいごのおんかたどるせつない花。

 犬芥いぬがらし、「約百ヨブなみだ」、紫苑しをん、どんなに血のれる心よりも、おまへたちのはうがわたしはすきだ。ほろんだ花よ、むかしの花よ。


 いろいろの立木たちきよ、押籠おしこめになつた心よ。
 まづその樹皮じゆひさいなんで、そろそろ、おまへたちの祕密を汚してみよう、いたましいいろいろの心よ、
 わたしの悲しい心のよろこび

 かしよ、ほろんだ神々かみがみに向つて輝きわたる榮光えいくわうの波、おそろしく大きな足のえみし、光と血の岩。
 おまへの緑の髮の毛の波は、貝のが斧のときしらせると、眞紅しんくまる。すぎしかたを憶ひだして。
 かしよ、にくみきざはしたふと神木しんぼく、わたしの悲しい心のよろこび

 色白の腕をしたぶなの木よ、聖母瑪利亞おんはゝまりや、子持を歎き給ふ禮拜堂らいはいだう二形ふたなり利未僧りびそうが重い足で踏み碎いた、あらずもがなの足臺あしだい、僧官濫賣のかねれて、燒焦やけこげをこしらへた財嚢ざいなう、「愛」の神が、嘗てここに人間を愛してみたいと思つたうろ胎内たいない
 おまへのほぞの上に、ぎんへびの帶をきりりとおめ、
 とはいふものの、また可愛かはゆくもあるぶなの木、不思議の木、わたしの悲しい心のよろこび

 人間の罪をひとりに引受けた孤獨の老僧と見立てるにれよ、祈念きねんつとめるにれの木、潮風はゴモラびとの涙よりからい。
 罪障深ざいしやうぶかいおまへの肌の毛孔けあなを海の風に吹かせて、わたしどもの爲に苦んでおくれ。
 鞭索べんさく苦行くぎやうに身をきたへたにれの木よ、わたしの悲しい心のよろこび

 こしもあらはの※(「木+岑」、第3水準1-85-70)とねりこよ、草叢くさむらからへた汚れた夢のやうだ。いのちの無い影のなかに咲きたいといふ狂氣きちがひ百合ゆりのやうでもある。
 惡龍あくりようの眼もおまへの清い冷たい肌は通されぬ。
 ※(「木+岑」、第3水準1-85-70)とねりこよ、色蒼いろあをざめた天竺てんぢく赤脚仙ジムノソフイスト、えたいの知れぬ木、わたしの悲しい心のよろこび

 つめたい肌黒はだぐろ胡桃くるみの木よ、海草かいさうの髮を垂れ、くすんだ緑玉りよくぎよくの飾をしたをんなそら草原くさはらの池にひたつて青くなつた念珠ロザリオ、ぼんやりとした愛の咽首のどくびめてやらうとするばかりの望、よくを結びそこな繖形花さんけいくわ
 いやにひやつく繖形花さんけいくわ、わたしはおまへのかげに寢て、自殺者じさつしやの聲で眼が醒めた。
 冷たい肌黒はだぐろ胡桃くるみの木よ、わたしの悲しい心のよろこび

 林檎の木よ、發情期はつじやうきの壓迫で、身の内がほてつて重くなつた爛醉らんすゐなさけふさつぶじゆくした葡萄のゆるんだ帶の金具かなぐ、花を飾つた酒樽、葡萄色の蜂の飮水場みづのみば
 さも樂しさうな林檎の木よ、昔はおまへのにほひをかいでよろこんだこともある、その時おまへの幹へ、牛が鼻先はなづらこすつてゐた。
 花を飾つた酒樽、林檎の木よ、さも樂しさうな木、わたしの悲しい心のよろこび

 やつと灌木くわんぼくの高さしか無いひひらぎよ、僞善ぎぜんの尻を刺すのみ愛着あいぢやくきざたがね、鞭の手燭てしよく取手とつて
 眼を赤くしたひひらぎよ、おまへの爪のしたほとばしる血でもつて兄弟のちぎりを結ばせる藥が出來さうだ。
 やつと灌木くわんぼくの高さしか無いひひらぎよ、ちいさい※手くびきり[#「會+りっとう」、93-下-1]、わたしの悲しい心のよろこび

 篠懸すゞかけの木よ、總大將が乘る親船おやぶね帆檣ほばしら、遠い國の戀に向ふはらんだ帆――男の篠懸すゞかけ種子たねを風に石弩いしゆみの如く、よろひを通し腹を刺す――女の篠懸すゞかけ始終しじゆう東をばかり氣にしてゐて定業ぢやうごふ瞑想めいさうする、さうして胚種はいしゆの通りすがりに、おまへは之を髮に受けとめる、おまへは風と花とをさへぎらうとして張りつめたあみだ。
 獨ぼつちの男の木、唯、氣で感應する女の木、不可知ふかちなかで一緒になれ。
 篠懸すゞかけ一本木いつぽんぎよ、片意地の戀人たちよ、わたしの悲しい心のよろこび

 白樺しらかんばよ、蓬生よもぎふ大海原おほうなばらゆあみする女の身震みぶるひ、風がその薄色の髮に戲れると、おまへたちはなにか祕密を守らうとして象牙の戸のやうにあしを合せる。その時この白い女人柱カリヤチイドの張切つたの上に、神々かみ/″\の涙がちて、突き刺された怪獸シメエル痍口きずぐちから、血のれるのがみえる。
 それでも、背中せなかや胸をいてやるまい、噫木魂精こだまよ、おまへは腕をして勝ち誇る夢を捧げてゐる。
 名も知られずに悲しげな白樺しらかんば處女をとめで通す健氣けなげの木、わたしの悲しい心のよろこび

 殯宮ひんきゆう通夜つやをしてゐるやうな赤楊はんのきよ、おまへの王樣は崩御になつた、赤楊はんのきの民よ、靜かな水底みなぞこかんむりの光を探しても、うたげ歌舞かぶの響を求めても、詮ない事になつてしまつた、赤楊はんのきの王樣、今、まが方士はうしひげである藻草もぐさした、深淵の底に眠つてゐられる、忘却ばうきやくの花は、その眼のくぼつらぬいて咲いてゐる。
 だれかまだ手に力のある者がゐるならば、はやくその花をるがよからう。
 諒闇りやうあんの民、赤楊はんのきよ、涙に暮れる木、わたしの悲しい心のよろこび

 垂飾たれかざりをつけた日傘ひがさ花楸樹はなかまどよ、ジタナ少女をとめくびにある珊瑚玉さんごだま、その頸飾くびかざり柔肌やははだ巫山戲ふざけた雀が來てつゝく。
 その頸飾くびかざりは二つある。雀は少女をとめの肩にた。
 ねんごろにきやくをもてなす花楸樹はなかまど、小鳥が毎年まいとしあてにする降誕祭ノエルまつり飾木かざりぎよ、わたしの悲しい心のよろこび

 戀人のやうに顏をあかめる秋の櫻の木、そのあかいのはおまへの枝にぶら下る心臟の血であらう、この間、通りすがりの人たちにのおいしいのはべられて、今は唯なさけに脆いかぜ出來心できごゝろを、あからんだ葉に待つばかり。
 ただ泣いておいで、おまへの琥珀色こはくいろの涙へ、わたしは指環ゆびわしるしを押してあげる、あとの思出のたねとして。
 秋の櫻の木、あかい木よ、親切な木、わたしの悲しい心のよろこび

 常世とこよいのち常世とこよのざざんざ、いたましい松の木よ、おまへの歎は甲斐が無い、いくらおまへがしにたくても、宇宙のおきてが許すまい、獨ぼつちで生きてゆくのさ、おまへをいやがる森のなか、おまへのふとい溜息ためいきを嘲つてゐる森のなかで。
 死んでゆく身は今ここに敬禮する。
 傷ましい木よ、常世とこよいのち常世とこよのざざんざ。わたしの悲しい心のよろこび

 刺槐はりゑんじゆよ、い匂がして、ちくちくしてくれるのが愛のたはむれなら、後生ごしやうだ、わたしの兩眼りやうがんりぬいておくれ、さうしたら、おまへの爪の皮肉も見えなくなるだらう。
 してまたばくたるなでさすりで、わたしを存分ぞんぶんいておくれ。
 女の匂のする木よ、肉を食ふ木よ、わたしの悲しい心のよろこび

 髮に微笑ほゝゑみを含んで清い小川をがはの岸に寄りかかる少女子をとめご金雀花えにしだ、金髮の金雀花えにしだ色白いろじろ金雀花えにしだ清淨しやうじやう金雀花えにしだ
 金髮を風の脣に、白いはだへを野山のせいにみえぬ手に、無垢むくの身を狂風に乘る男に、おまへはまかせる。
 金髮きんぱつ金雀花えにしだよ、夢ばかりみてゐる纖弱かよわい木、わたしの悲しい心のよろこび

 愁に沈む女よ、落葉松からまつよ、石垣いしがきくづれに寄りかかる抛物線はうぶつせん
 ぎんの蜘蛛の巣がおまへの耳に絲を張つた、おまへの胴中どうなかに這つてゐる甲蟲よろひむしは涙の雨に打たれて血を吐いた。
 愁に沈む女よ、落葉松からまつよ、わたしの悲しい心のよろこび

 涙に暮れる枝垂柳しだれやなぎよ、棄てられた女の亂髮みだれがみ、心と世とを隔てる幕、おまへのうれひのやうに輕い花を織り合せた縮緬ちりめん
 涙に暮れる枝垂柳しだれやなぎよ、おまへの髮をきあげて、そら御覽よ、あすこを通る人を、あかつきをかに立つ人を、
 すこしは駈引かけひきもありさうな戀人、しやれた心配もする柳の木よ、わたしの悲しい心のよろこび

 鼠色の白楊はこやなぎよ、罪ありさうにふるへてゐる、全體ぜんたいどんな打明話うちあけばなしが、その蒼白あをじろい葉の上に書いてあつたのだらう、どういふ思出を恐れてゐるのだ、秋の小逕こみちに棄てられた熱に惱んだ少女子をとめごよ。
 おまへの妹は黄昏色たそがれいろの髮を垂れて、水のほとりに愁へてゐる、亂倫らんりんまじはりを敢てするおまへたち、なんぞ願があるのかい、なかうどをして上げようか。
 始終、心の安まらないおまへたちよ、わたしの悲しい心のよろこび

 張箍はりわ女袴をんなばかま穿いた官女くわんぢよよ、とちよ、三葉形みつばがたぬひを置いて、鳥の羽根はねの飾をした上衣うはぎひきずる官女くわんぢよよ、大柄おほがら權高けんだかで、無益むやく美形びけい
 おまへの指先から落ちる輕蔑には、大概の田舍者は殺されて了ふ、わたしならその手を挫いてやる、こちらさへ其氣になれば愛させてもみせる。
 張箍はりわ女袴をんなばかま穿いた女、高慢かうまん上衣うはぎを着た女、わたしの悲しい心のよろこび

 死より生れて、死の僧となつた水松いちゐの木よ、おまへの枝は骨だ。
 つるつるした墓石はかいしの枕元にある免罪符パルドンをおもひだす永久の鎭魂歌レキエム
 わたしの爲に祈つてくれ、おきなびた水松いちゐの木よ、憐愍あはれみ深き木、わたしの悲しい心のよろこび

 御主おんあるじかんむりとなつた荊棘いばらの木よ、血塗ちまみれの王のひたひめた見窄みすぼらしい冠。
 憐愍あはれみふさの血に赤くそまつた尊い荊棘いばら
 愛の荊棘いばらよ、末期まつごの苦の時、この罪ある心のなかにその針を突き通し給へ。
 敬愛すべき荊棘いばらの木、わたしの悲しい心のよろこび

底本:「明治文學全集 31 上田敏集」筑摩書房
   1966(昭和41)年4月10日初版第1刷発行
   1983(昭和58)年10月1日初版第4刷発行
底本の親本:「牧羊神」金尾文淵堂
   1920(大正9)年10月5日発行
初出:「牧羊神」金尾文淵堂
   1920(大正9)年10月5日発行
入力:阿部哲也
校正:川山隆
2011年1月9日作成
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