太政官。それは私たちがまだ生れぬ前にあつたものださうな。――
「太政官て何のことやいな、一體。」
「知らんのかいな、阿呆あほ。……をせへたろか、新田の茶瓶のこつちや。」
「そら知つてるがな、言はんかて。……其の太政官て何のことやね。」
「太政官ちうたら、太政官やがな。お上の役人のこつちや。」
 中の村の青年會の事務所で、二人の若い男がこんなことを言つてゐると、今一人の稍年を取つた男が、
「二人ながら知りはらんのか、あかんな。太政官ちうのは、明治十八年まであつたんで、つまり今の内閣のことや。……太政大臣がゐて、それが今の總理大臣や、それから左大臣に右大臣、參議が四五人、これだけで最高の政治をしてたんやがな。」と、下唇の裏を前齒で噛み/\言つた。
「あゝ、さよか。……そいで新田の茶瓶さんが、この村の太政官ちうことだすな。」と、常吉と呼ばるゝ、材木屋の二男は、さも感心したといふ風で言つた。
「あの太政官も、もうあけへんがな、中風で杖つかな、座敷もあるかれへん。」と、伊之助といふ中百姓の長男は、其の白く廣い額に、ラムプの光を受けて、眩しさうにしてゐた。
「中風でも、レコの方は生れてから一遍も知らんのやちうさかいなア、あゝなつても、なかなかつちうやないか。」と、仙太郎といふ漂輕へうきんな若者は、右の拳で變な形をして見せつゝ、高らかに笑つた。これは郵便局の一人息子で、父に代つて事務を取つたりしてゐた。
「ぽし/\始めようか。……竹さんは今夜休むんやろ、待つてゝも仕樣がない。」と、年嵩の淺野貞一といふ小學校教員は言つた。徴兵前の男ばかりの中に、この人の二十三といふのが目立つてけてゐる。
「さうだすな。」と三人の若者は、近頃み習ひかけた煙草の道具を片付けて、其處に並べてある形の揃はぬ寺子屋流の机に向つた。正面には淺野先生が構へ込んで、手摺れのした黄表紙の日本外史を披いた。他の三人も銘々に同じ本を披いた。
「……頼朝乃屬之狩野宗茂具湯沐令姫千手侍浴。因問其所欲。重衡欲削髮頼朝不許。因餽酒遣千手及工藤祐經佐之。祐經※(「てへん+二点しんにょうの過」、第3水準1-84-93)皷。千手彈琵琶。重衡屬杯千手。朗吟曰燭暗數行虞氏涙。夜深四面楚歌聲。頼朝微行。側耳戸外聞而憐之。更遣名妓伊王。與千手更直。明年六月。以南都僧侶請。斬于奈良阪。二女削髮爲尼云。」
 常吉が行き止まり/\、此處まで讀んで來ると、淺野先生は雙子織の羽織の胸に附けた紙捻の紐を結び直しながら、太い聲で、
「其處まで。」と言つた。さうして常吉は其の半枚を、講義しかゝつたが、解らぬところが多くて、淺野が殆ど總てを代つて講じた。
「これでは輪講やないな。のツけ(初めの事)から淺野はんに教へてもろた方がよいやないか。」と、仙太郎は笑つた。常吉は面皰にきびの多い顏を眞赤にして差し俯伏いた。
「……千手と、それから工藤祐經をやつて、酒の相手をさした。……相手といふのも可笑しいが、まア取り持ちをさしたんやなア。………」
 淺野はかういつた風に、自分で引き取つて講義をして行つた。
「工藤祐經て、あの工藤左衞門やらう、赤い臺の上に坐つて、ピカ/\した羽織着て、ゴツい紐結んでよるやつや。……吉例曾我の對面。……」と、伊之助は臺詞のやうな聲を出した。一同は本から眼を離して、どツと笑つた。
「祐經が鼓を打ち、千手が琵琶を彈いた。………」
 一所になつて笑つてゐた淺野は、一番先きに笑ひを止めて、講義を續けた。
「工藤左衞門、鼓知つてよるんやなア、あいつ、なか/\隅に置けん。」と、常吉は眞顏で言つた。
「重衡ちう奴も、悠長な奴や。何時殺されるか知らんのに、散財さんざいしてよる。……酒もげんさい(美人の事)も向ふ持ちで、腹の痛まん散財や。」
「鼓なんぞぽん/\やりやがつて、工藤左衞門て、幇間やないか。……幇間一人殺さうおもて、曾我兄弟は長いこと一生懸命になりよつたんやなア、阿呆らしい。」
 仙太郎や伊之助が、いろ/\のことを言つては笑はすので、淺野は、
「靜に。」と、學校で兒童を叱る時其のまゝの聲を出してから、
「重衡は杯を千手にして、えゝ聲で歌うた。……」とやりかけると、仙太郎がまた、
「もう燒け糞やなア。」と、小ひさい聲で言つて、一寸舌を吐いた。
「燭は暗し、數行虞氏の涙、夜は深し四面楚歌の聲。………」
 うまく節を附けて、淺野が吟聲をやり出したので、一同は呆氣に取られた顏をした。
「いよー、重衡。……色男。」と、伊之助が叫んだ。
「これは支那の項羽のことを引いたので、項羽が漢の高祖に負けて、……」と、虞美人のことから、「力拔山兮氣蓋世」の歌まで引き合ひに出して、淺野は自分一人で面白さうに講義をしてゐた。
「……頼朝が更に名姫、……………名高い白拍子、……藝妓げいこやなア、其の名妓の伊王といふ女を重衡のところへやつて、千手と伊王と二人で、更直した、……交る/″\お伽をした。……」
「ひよー、耐まらんな。」
 兩手を高く擧げて、仙太郎が大きな聲を出した。
「もう殺されてもよい。」と、常吉は相變らず眞顏をしてゐた。
「頼朝て、なか/\すゐおツさんやないか。」と、伊之助は首を傾げた。
「自分が好きやさかいな。……伊東の辰姫を引ツかける、北條の政子を引ツかける。行く先き先きで箒黨や。」
 先生の淺野までが、こんなことを言ひ出したので、輪講は到頭滅茶々々になつた。
「君、面皰とりのえゝ藥はないか知らん。」と、言ひながら、常吉は早や本を疊んで懷中に入れてゐる。
「面皰なんぞ出けたて構やせん。却つて看板になつてえゝぐらゐや。」と、仙太郎も本を疊んで煙管を取り上げた。
「えらいこツちや。どえらいこツちや。……學校の二階が墜ちた。……」と、張り上げられるだけの高聲を張り上げて、神主の息子の竹丸が馳け込んで來た。
「こいつ、また人を騙さうと思ひやがつて、……」と、仙太郎は火の付いた煙管を振り上げて打つ眞似をした。
「騙すもんか。嘘と思ふんなら、いて見といで、………」
 青年會員の中で唯一人の少年、竹丸は、日本外史が懷中から拔け落ちさうになつたまゝ、南京鼠のやうに、一同の周圍を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はり歩いた。
「これツ。」と、淺野は叱り付けるやうに言つて、片手で竹丸の袖を捉へながら、
「竹さん、學校のの邊の二階が墜ちたんや。皆んな墜ちたんか。」と訊いた。
「役場になつてるところが墮ちましたのや。……わたへなア、いんまかずさんとこへ使に行きましたんや、數さん役場の夜なべに手傳ひにいてはりますのや。ほいたら、役場が學校の天井と一所に教場の上へ墜ちて、大騷動だすね。」
 一息に此處まで言つて、竹丸はほツと息を吐いた。
「そいつはおもろいな。いて見て來うか仙さん。」と常吉は中腰になつた。
「役場の下んとこは、一年生の教場だツしやろ。晝間やつたら、一年生が皆んな地獄おとしにかゝつた鼠や、びしやりといわされよつたんや。……さうすると面ろかつたんやがなア。」
 竹丸は得意氣にかう言つたが、ハツと氣がついた風で、
「あゝ淺野先生は一年生の受持だしたなア、……先生は大人おとなやもん、上手に逃げはるやろ、地獄おとしにかゝらはれへん。」と、きまりわるさうに首を縮めた。
「誰れも怪我しやはれへなんだか。」
 心配さうな顏をして、淺野がかう訊いた時、表の方の暗黒くらがりから、
「先生。」と呼ぶ婀娜なまめかしい聲がした。
「どなた。」と、淺野が優しい顏には不似合に突き出た咽喉佛を、ゴク/\動かして、咎めるやうに言つた聲は、いつもよりまだ太かつた。
「わたし。………」
わたしちう名はおまへん。」
「ほゝゝゝゝ。………」
「ほゝゝゝゝ、ちう名もおまへん。」
「先生嫌ひ、わたしだすがな。……お夜食持つて來ましたんや。……仙さん。……」
「今になつて仙さんか、有り難いこツちや、どつこいしよ。」と、仙太郎は立ち上つて、ヨタ/\と危ない腰付をしながら、入口の郵便局になつてゐる方へ出て行つた。
「伊東の辰姫か、北條の政子か。」と、伊之助は、正しく坐つてゐたのを胡座あぐらにして、ニヤリ/\笑つた。
「梅鉢屋の春姫や。」と、常吉もニヤリ/\しながら、淺野の顏を見詰めてゐた。
「さアえらい御ツつおうや、君茶を入れてんか。」
 腸チブスの豫後の危ない腰付きを、一層危なツかしくして、仙太郎は大きな皿に入つた海苔卷鮓を恭しく捧げるやうにして持ち込んで來た。ツマに添へた紅生※[#「くさかんむり/橿のつくり」、U+8591、136-8]の眞赤なのが先づ美しかつた。
 表では駒下駄の音が、可愛らしく響いてゐた。

 小學校は、總鎭守天滿宮の馬場先の松原の中の官有地にあつた。其處はこの天滿村の部落の新田といふところに屬してゐるけれど、前後左右四五丁の間に人家はなくて、白壁の大きな建物が、青々とした松林の茂みに孤立してゐた。其の建物は二階造りの大きなもので、二階の上には尖塔の立つた太鼓樓まで附いてゐて、階上正面の扁額には、何々親王家の染筆になつたといふ「天滿校」とお家流に書いた大文字が、金網の中から、肥桶擔ぐ百姓共を威壓するやうな筆勢を見せてゐた。
 洲の股の一夜普請、なぞと、村人の中にはこの學校のぞんざいな建築を惡口するものがあつた。細い材木を大きく組み立てゝ、上から白く塗り潰した二階造りの西洋館は、見たところ眩しいほど立派で、表の鐵柵や石門や、出來上つた時にはお賽錢を投げかけたものがあつたといふ話もある。
 鐵柵の尖つた棒の頭には、一つ/\に鑄物の「小」といふ字が附いてゐた。
「あれ見いや、かねの垣の頭に字が附いてるやらう。あんなえゝ垣、町の縣廳にもあらへん。」
「どえらいもんや。これから町へいても、俺アえらさうに言ふたるんや。」
 こんなことを語り合つて、この小學校の出來たのを自分の土藏の建つたやうに喜んだ百姓もあつた。
 其の鐵柵の上へ、草刈童が伸び上つて、「小」の字の鑄物を弄つてゐると、ハンダで附けた鑄物は脆くもポキリと取れた。草刈童は、昔し過つて殿樣御祕藏の鶴の置物の嘴を缺いた小姓のやうに、一時は青くなつて驚きつゝ、元の通りにめてみたけれど、ハンダが取れてはうまくクツ付いてゐなかつた。遂には大膽になつて、其の「小」の字の鑄物を懷中へ入れて歸ると、手遊品にしながら、寶物のやうにして友達に誇つた。友達は羨ましさに堪へないで、夕暗に足音を偸みつつ、そつと來ては、學校の鐵柵に伸び上つて、手に/\鑄物の「小」の字をむしり取つて行つた。場所が寂しいので、小さな盜賊には都合が好かつた。
 半月經たぬ中に、學校の鐵柵は皆坊主になつた。村の惡太郎で「小」の字の鑄物を持つてゐないものは幅が利かなかつた。
「あかんなア、脆いもんや。」
「矢ツ張り天滿宮や光遍寺の方が、古うても丈夫や。」
 村人がこんなことを言つて、小學校の新式建築の眞價を疑ひ出したのは、この時からであつた。
 三年ち、五年と暮れる中には、太鼓樓から雨が漏つて、ギラ/\光る白い紙で貼つた天井には墨繪の山水か、化物の影法師のやうな汚點しみにじみ出す。雨の日、ある教室の紙天井が孕み女の腹のやうに膨れ出したので、若い代用教員が、教鞭の先きで、其の一番膨れてゐる臍とも思はるゝところを輕く突くと、雨水は其の小さな穴から瀧津瀬のやうに落ちて、兒童の着物を濡らした。
 玄關正面の見事の獅噛しかみは、雨の爲めに崩れ落ちた。幾度塗り直しても、毎年梅雨になると必ず落ちた。石の柱のやうに塗り裝うてある壁は、一年に二三度も剥げ落ちた。左官は絶えず入り込んで、方々を塗り隱してゐた。
「左官學校」なぞと、蔭で冷評するものもあつた。
 けれどもこの小學校の建築に全生命を打ち込んでゐる村の太政官を憚つて、誰一人大ぴらに、學校の普請をけなすものはなかつた。
 大野源兵衞と實名を呼ぶよりも、「太政官」と綽名をいふ方が、他所村へさへ通りの好い、横ぶとりに肥つた大きな禿頭の男は、小學校と斜めに往來を距てゝ、丁度小學校の附屬舍宅のやうに見える位置に、小學校と同じ白堊造りの西洋館を建てゝ、唯一人住んでゐた。大きな小學校と、この太政官の家とを、後の山の上から見下ろすと、恰も白い牝牛が同じ毛色のこうしを連れて、松林の中に眠つてゐるやうに見えた。
「あの隱居は、學校を建てた村方の入費から溢れ出したんに違ひない。」
 村人の中にはまたこんな蔭口を言つて、太政官を毀るものもあつたけれど、面と向つては誰れ一人太政官の前に頭の上るものはなかつた。大きな聲で物を言ひ得るものもなかつた。太政官の鯨のやうに細い眼に見詰められると、村長でも何んでも慴れ俯伏いた。
 太政官は其の白い犢のやうな家を、自ら隱居と呼んでゐた。松林は天滿川といふ其の界隈での大きな山川の河盂になつてゐたから、砂が白くて松がよく育つた。隱居の庭も砂地でサク/\と歩くのに心地が好かつた。
 一しきり蘭や萬年青おもとの變種の流行はやつた時分に、太政官は隱居の庭に温室を造つて、丹念に青い鉢植ゑものを育てた。其の蘭の變種の金龍と呼ぶものなぞは、太政官の温室から出たもので、葉の眞ん中に浮彫のやうな龍の形が現はれ、白いが雲の如くにそれを取り卷いてゐる形は、如何にも珍らしかつたが、遠い都にまで其の評判が高くなつて、葉一枚千圓と呼ばれた。萬年青にも得難い變り種が幾つか出來て、先祖傳來の田地を一町歩ばかりと、山を十町歩ほどゝより外に財産とてはなかつた太政官は、植木だけで數萬圓の富と稱せらるゝやうになつた。
 金龍でも石花でも、蘭や萬年青の變種は、價の出た時に直ぐ賣つて金にした。唯一つ家の寶物にするのだと言つて、古青磁の小鉢に水晶の砂を敷いて植ゑてゐた金龍の若芽三葉は、都會の大富豪なにがしが、何千圓とか何萬圓とかで太政官から買つた其の親株とゝもに、天下二つの珍品と貴ばれてゐたが、太政官は其の貴い第二世金龍を惜し氣もなく、さる貴い方に獻上して、新築の小學校の爲めに「天滿校」の三字の扁額を揮毫して貰つて來た。
「そんなこと言ふたて、あかんで、何んぼ太政官がえらうても、村でこそ太政官やが、場所へ出れば唯の百姓や。……高大もない宮樣とかに學校の額書いて貰うて、そんなことあくかい。」と、村人どもが高を括つてひそかに舌を吐いてゐる最中に、僅か昨日立つて京都へ行つたばかりの太政官は、もう今日の夕方、紫縮緬の大きな袱紗に包んだ貴い揮毫を捧げつゝ、大きな赭顏あからがほに、はち切れさうな微笑を湛へて、網曳後押し付きの人車くるまで歸つて來た。それと前觸れのあつた時、若い妻をつた村の駐在巡査はそこ/\に制服を着けて、村境ひまで貴い揮毫の護衞に出たけれど、よくは間に合はなかつた。
「太政官は矢ツ張りえらい、場所柄へ出しても太政官で通るなア。」と、村人どもはまた今更に舌を卷いた。
 白い犢のやうな隱居も、二階家に造られてあつた。小さくは見えても、階下した四室、二階四室で、村には類の尠ない手廣さであつた。表から見ると、すツかり西洋風で、窓から白いカーテンのみ出してゐることなぞもあつたが、郵便切手賣捌所の札のかゝつてゐるドアの、白い把手を捻つて内部へ入ると、光景は全く變つて、青い疊の敷いた玄關の横には、粹な圓窓が先づニコリとしてゐる風で客を迎へた。
おらんとこは無人で敢り次ぎが居んさかい、この圓窓が取り次ぎや。……この窓けてわめいて呉れ、うちにゐたら俺が出て來るぞ。」と、太政官は常にさう言つてゐた。
「何うや、この圓窓、なか/\別嬪やろな、始終笑うてよる。」
 こんなことをまた太政官がよく言ふので、成るほど障子から櫺子から、數寄を凝らして造つたこの圓窓が、愛嬌のある圓ぽちやの美人のやうに見えることがあると、繁々出入りするものはよくさう思つた。
 玄關の次ぎに八疊の居室ゐまがあつて、其處には疊一枚もあらうかと思はれるほどの、大きな長火鉢が据ゑてあつた。其の前に角力取りの場所蒲團のやうなものを敷いて、太政官は胡座をかいてゐた。大火鉢には鐵瓶と藥鑵と土瓶とが三つかゝつて、何時でも茶を飮むのに不自由はなかつた。唐木造りの綺麗な茶箪笥が直ぐ手の屆く邊にあつて、煌やかな九谷とも思はるゝ茶道具が並んでゐた。酒が嫌ひで茶の好きな太政官は、奈良漬と羊羮とをらしたことが殆んどなかつた。茶は玉露の薄雪といふのを宇治から取り寄せ、煙草は薩摩の國分を、大きな銀煙管に輕く填めて喫んでゐた。
 飯のお菜には、奈良漬の外に、土佐の上節をこまかく灰のやうにかいて、尼ヶ崎の白醤油をタツプリかけたのが大好きであつた。それ以外滅多に魚鳥の肉や野菜やを求めようとはしなかつた。米は非常にやかましく、苗代に種子を下ろす時から自分に監督して、植ゑて作る田地まで、ちやんと決つてゐた。さうしてれた米を足舂きにするのには、母家おもやの方で下男が一人、かゝり切りにするほどであつた。「水車舂きの米と、焦げた飯は喰へん。」と、太政官は始終さう言つてゐた。二三升に足らぬ玄米を殆んど一日がゝりで下男が足舂きにしたのを、下女がまた殆んど一日がゝりで一粒撰りにした。舂いて舂いて、舂き拔くので、米は玉のやうに白くなつて、細く尖つてゐた。それをば、新らしい手拭を被つて赤い襷を掛けた下女が、鼻唄で調子を取りつゝ、黒光りのする母家の廣い縁側で、太い指頭に摘んでは選り分けてゐた。少し形の揃はぬ粒は皆な取り除けて、しものものゝ飯米に混ぜた。
 岩山に生えたくぬぎの三年枯れの堅薪で炊いた飯の、一番下と釜の底とが、移す時綺麗に離れるのでなければ、太政官は其の飯を口にしなかつた。一寸でも釜の底が焦げ附いてゐると、たとへ狐色ぐらゐになつたのでも、茶碗の中に盛られた飯を輕く嗅いだゝけで、あゝ今日の飯は焦げたなと、箸を投げて了つた。
「飯の皮が喰へるもんか。」と、太政官は常に言つてゐた。そんなに釜の底の方を氣にしてゐても、太政官は決して釜底に近い飯を口に入れなかつた。上の方を取り棄て、釜肌を殘して、西瓜の實をゑぐるやうに、眞ん中だけの飯を移し取つて、それだけを喰ふことにしてゐた。釜肌にくツ附いた飯を、飯の皮と呼んでゐた。
 皮を棄てた飯の實だけと、鰹節に白醤油――其の他に太政官の食慾は何物をも求めなかつた。ひよツとして、本場の上等鰹節のない時は、白醤油を皿に入れ、それを箸の尖端さき※(「舌+低のつくり」、第3水準1-90-58)めつゝ、可味うまさうに飯の實を味つてゐた。
おらんとこの米は鮓米の上等よりまだ上等や、俺は其の上米さへ喰うてるとえゝんや。世間のやつは毎日々々、米を喰うてゐやがつて、ほんまに米の味を知つてゐくさらん。」
 かう言つて、太政官は高らかに笑つてゐた。彼れは毎日々々米の味を噛みしめ/\味はつてゐたのである。

 六十一の本卦祝ひをした太政官には、五十五になる妻があつたけれど、兒は一人もなかつた。妻といふのも名ばかりで、若い時から一度も親しく近づけたことはないといふ評判であつた。
 名ばかりの今の妻は、太政官の三人目の後妻であつた。最初の妻は彼れの二十一の年に十七で嫁いで來て、婚禮の翌日離縁になつた。其の女はそれから何處へ片付いても三日とは夫の側に居られなくて、今は其の老い朽ちかけた姿で、尻切れ草履を引き摺りつゝ、村の使ひ歩きなぞをしてゐる。二人目の妻は一月足らず居たけれど、これも離縁になつた。
かゝなんぞ、何んでもえゝ。」と、太政官は絶望的に言つて、其の頃居た年嵩の下女を三人目の妻に直した。戸籍面には、「源兵衞妻」とあつても、太政官は其の妻と親しく物を言つたこともあるまいといふ噂さである。
 白い犢の臥してゐるやうな隱居の西洋館の窓から、太政官が大きな赭ら顏を出して、鯨のやうな細い眼をしばたゝきつゝ、
「やアい、めし持つて來いよ。」と、姿には似ぬ細く優しい聲で叫ぶと、汚れた手拭を姉さん被りにして、耳の切れた黒繻子と茶色のメリンスとの晝夜帶を引きほどきにするか、或はまた藁繩のやうな細帶のまゝで兩手に箕など持つて、廣いカドで立ち働いてゐた名義だけの妻が、直ぐ此方を振り向いて、澁紙色の顏で、合點々々をするのが見える距離に母家はあつた。小山のやうな藁葺の大きな家は、光遍寺の本堂と高さを競うてゐた。廣いカドでは、鷄冠の眞赤な合ひの子鳥が、置き棄てられた床几に載つて、長く首を伸ばしつゝ、時をつくつた。
 素足に藁草履をバタ/\さして、芋の蔓のやうに曲りくねつた細い野路を、妻が被つた手拭もらずに、風呂敷に包んだ飯櫃おひつを提げて急いで來た。兩側には青々とした麥の穗が波のやうに、小石を踏んだ妻の足元には、陽炎が燃えた。
「さア飯……。」と、白い把手に黒く荒れた太い指をかけて、隱居の扉を開けつゝ、風呂敷のまゝ飯櫃を突き出すと、
「よし、來た。」と、太政官は美人のやうな圓窓を開けて、それを受け取り、前の喰ひ汚れの飯櫃を包んだのを妻の手に渡した。風呂敷は白と赤とで、間違へぬやうな色にしてあつた。
太公たいこう。太公。」と太政官がよく呼んでゐる養子が居た。弟の二男で、太吉といふのであるが、十六にもなつて鼻の下に長く鼻汁を垂らしてゐた。この養子を守り育てつゝ、名義ばかりの妻は、男女十人からの雇人を追ひ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はして、百姓仕事にいそしんでゐた。
「なか/\出けんこツちや。」と、村人どもは皆名義ばかりの妻をめた。
「太政官は、身體の何處ぞが不具かたはやてなア。」
「何んしよ、碌な奴やない。」なぞと、蔭で太政官の惡口を言つて、其の妻や女に縁の薄いのを怪むものも、名義ばかりの妻のことは、口を揃へて譽めた。
 名義ばかりの妻が、入口の扉を閉めて、からの飯櫃を提げつゝ歸つて行く足音が、パタ/\と響くのを耳にしながら、太政官は早速晝飯の箸をとつた。お菜はいつもの鰹節で、細く粉末のやうにかく爲めに、特別の小さな鉋が用意されてあつた。小函に鉋を嵌めてゴリ/\とかくのは、普通の鰹節削りと違つてゐないけれど、其の函は滑々した桑の木で小形に造られ、四隅に銀金具が光つてゐた。
 其のお雛樣の道具のやうな器で、大きな掌を器の上から一杯に擴げて、太政官は自分に鼈甲のやうな堅い本場の鰹節をかいた。さうして片口の白醤油をジト/\に滴らして、忙し氣に食事を始めた。丹塗りの八寸の膳の上には、たゞ小皿が一つ載つてゐるだけである。
「飯は、いて喰はな可味うまうない。」と、太政官は口癖のやうに言つてゐた。この界隈では市人いちんどと呼んでゐる、山奧から牛の背や荷車に薪や炭を積んで、町へ賣りに出る山男のやうな人々が、太政官の隱居に近い松林の小蔭に荷を卸して、肥料こえ柄杓の頭ほどある橢圓形の面桶めんつうに、白い飯を堅く詰め込んだのを、コク/\と箸でおこして、梅干か香の物か、精々鰊の※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)たのくらゐで、口に一杯頬張りながら、茶も湯もなしに、可味さうに喰つてゐるのをば、太政官は食慾の第一の羨望にしてゐた。名人の庖丁を凝らした料理や、廣く聞えた土地の名物なぞは、彼れの眼中になかつた。彼れはたゞこの市人の丈夫な、鋼鐵のやうな、胃と齒とを理想としてゐて、
「市人が面桶の一升飯を喰てよるのは、思ひ出したゞけでも、可味さうで、口に唾液つばが溜るわい。」と言つてゐた。
 けれども太政官は、冷飯が嫌ひで、三度々々例の上米を炊いた温いのを運ばしてゐるので、市人の面桶を其のまゝ眞似する譯には行かなかつた。温い飯を大きな茶碗に壓し付けて堅く盛り、それにしたぢを染ました粉末の鰹節を塗つて、市人の面桶の心持ちでコク/\おこして喰べた。
 昔しのガルガンチユアとか言つた人は、どんなに大食であつたか知らぬが、六十一にもなつて太政官は大きな茶碗に七膳から八膳も喰べた。近頃中風のだと言つて、座敷の中でもよく杖を手にしてゐながら、食慾はさのみ衰へなかつた。手盛りで喰べた後の茶碗と小皿とは、學校とこの隱居と村に唯二つしかないポンプ井戸から汲んだ清水で洗つて、丁寧に拭き込んだ八寸の膳とともに、戸棚の中にしまつた。戸棚は奧の方までよく片付いて、鰥生活とは何うしても思はれなかつた。
 食後は、少しも濕氣のない砂利地の前栽へ下りて、蒼々とよく育つ松の枝振りを眺めたり、春日形かすががたの石燈籠の苔を撫でゝ見たり、且つては千兩、萬兩の蘭や萬年青を育てた温室の中に、今は空の鉢ばかりがごろ/\してゐるのを覗いて、自分より少し後れて蘭や萬年青に手を出した村の豪農が、失敗して家屋敷まで失うたことを考へたり、放課時間と見えて、筋向ふの小學校の運動場で、兒童等の揚げる鬨の聲に、今更ハツと氣が付いたやうに、自分一手の世話で出來上つた大きな白堊造りの方を、誇り顏に見やつたりした。――あの學校は俺の生命であると、さう思つた。
 午後は大きな長火鉢に凭れて、煙草を喫んだり、茶を呑んだり、羊羮を摘んだりして、暮らした。さうして夕方になるのを待ち兼ねて、また二階の窓から赭ら顏を突き出して、
「やアい、飯持つて來いよ。」と喚いた。名義だけの妻が草履の音を立てゝ、入口まで運んで來る一粒選りの米の飯と、鰹節にしたぢ、夕食も晝飯の通りであつた。
 夜の更けぬ中に二階へ上つて寢た。二階の十疊は、疊の表替へをしたばかりで、新しい藺のが高かつた。正面には村第一の書家だといふ天滿宮の神主の手で、「白砂青松何とかして貧亦可也」と意味の解らぬ愚文を長つたらしく書いた大額が、金紙で立派に裝はれて掲げられ、床には住吉派の繪師の書いた見事な清少納言の大幅が、緞子の表裝に、牙軸げじくゆツたりと掛かつてゐた。
「このげんさいえゝやろ、俺のほんまの嬶はこれや。」と、太政官はよく客に自慢して見せた。
「何んぼえゝげんさいかて、おしろ(後)向きでは始まりまへんな。」
 長い頭髮と、黄色の裝束と、燃え立つやうな緋の袴とを見せて、向ふむきに青い簾を掲げてゐる清少納言の、繪絹から拔け出しさうな姿を眺めて、涎の垂れるやうな口元をしつゝ客は笑つた。
「名義だけでも、俺には嬶があるさかいな、このげんさい、遠慮して向ふむいてよるんや。」
 かう言つて、太政官も笑つた。彼れはこの「香爐峯の雪は簾を掲げて看る」の逸話を描いた清少納言の繪姿には、六十一になる今日けふが日まで、心底から打ち込んであるやうであつた。
 骨の赤く塗つた丸行燈を提げて、ヨチ/\と危なつかしい足つきで二階へ上つて來た太政官は、戸棚から、キチンと疊んである蒲團を取り出し、ぽか/\と暖かいこの行く春の陽氣に、郡内の厚いのを三枚も重ねて敷いて、上から眞赤な薄いのを一枚だけ掛けることにして、福々しい臥床を設らへた。
 それから床の間の前へ行つて、ニタ/\笑ひ顏をしながら、清少納言の繪姿に見惚れてゐた。身の丈よりも長いと思はるゝ黒髮には、眞中ほどに金泥が使つてあつて、それが、キラ/\と丸行燈の灯に映つて光つた。暫らく見詰めてゐると、其の長い髮が蛇のやうにも見えた。黒くて金の模樣を腹に現はした蛇が、のたくつてゐるやうにも見られた。
をなごは蛇體やていふさかいなア。」と、太政官は口の中で獨り言をした。
 床の間の前を離れて、左手の窓のカーテンを撥ね退け、硝子戸も鎧戸も開けて見ると、外は朧の月夜であつた、眼の前には、自分が魂魄まで打ち込んだ小學校の眞白な建物が、眠つてゐるやうに聳えてゐる。鐵柵の中の老木の櫻は、疾くに花吹雪を作つて、若葉の間に實が結びかけてゐるけれど、花の匂ひはまだ、何處にか移りを留めてゐるやうである。村役場になつてゐる二階からは、あか/\と燈火が射して、階下の宿直室の障子に映る黄色の薄い灯は、何事かを囁やいでゐるやうでもあつた。
 太政官の鯨の眼のやうな細い兩眼からは、ハラ/\と老の涙が溢れた。
 彼れはハタと室の戸を閉めて、ツカ/\と床の間の上へあがると、清少納言の繪姿の頸筋のあたりを舌の尖端さきで輕く※(「舌+低のつくり」、第3水準1-90-58)めてから、丸行燈の燈心を一筋にして、郡内の厚蒲團の上へ、埋まるやうになつて轉がつた。
 やがて中風の初期を思はせる、うはばみのやうな鼾聲が聞えた。

 小學校の二階の村役場では、折柄の納税告知書で忙がしいので、助役の野口が腋臭のする腕を高く捲くり上げて、臨時雇の數之介といふ老人を相手に、書くのと算盤をおくのとに忙がしがつてゐた。近々書記に出世さして貰うのを樂みにしてゐる重吉といふ頭髮を綺麗に分けた小使も加はつて、一しきり速算が續いた。「願ひましては、何圓何十錢なり、さしては、……」といふ平板な言葉が、太古の音樂のやうに、一時間あまりも續いた後は、二室を打ち通して、卓子やら椅子やら書棚やらを並べた場所に笑ひ聲が充ちて、
かみん丁の平吉の息子は、みなん丁の才六の娘してよる。」といつた風な話がはずんだ。
「こいだけの配付の中で、未納が三分一はあるやろな。督促令状書くのが厭やなア。」と野口助役は俄に眞面目な顏になつて、卓子の上へうづたかく積み重ねられた黄色い紙の納税告知書を見やりながら言つた。
「督促令状はまだよろしおますけんど、公賣處分のお供は御免だツせ。」と、小使の重吉は、思ひ出しても身慄ひがすると言つたやうな顏をした。
「利兵衞の後家んとこへ公賣にいたときは、鍬一挺と針指し一つよりないんで、そいつを押へると、後家がおこつて、俺のどたま(頭)から水浴びせよつたなア。」と、助役は長く伸びた散髮頭を押へ/\言つた。
「何んしよまア。かう米がやすうては良い衆も難儀するし、小前こまへのもんも仕事が無うて、米の廉いには代へられんなア。……こんな時に高い税の配布を出すのは、火事場へ無心にいくやうなもんで、何んぼ自分に貰ふもんや無うても、氣が引けるなア。」
 齒のない口をもぐ/\させながら、臨時雇の數之介老人は歎くやうに言つた。
「太政官とこでも、去年から今年へかけて、一反歩に三十八圓から損やちうこツちや。……私んとこは小作がないさかい、損はせんけど、乾鰯ほしかも石灰も高いよつてな、そいだけ借錢になつてけつかる。何んの因果で百姓に生れて來たかなア。」と、助役は沈痛な口調で、戲談じようだんらしく言つて笑つた。
「一反で三十八圓損するとごつうおますな。そいなら作らんとおく方がましや。……作らな、税だけの損で濟むんが、作ると汗水流して、もむない不味まづいといふ事)もんくうて、それで損するんや。……嘘やおまへんか、そんなこと。」と、重吉はあるだけの智慧を絞る風で首を傾げつゝ、考へ/\言つた。
「やいや、嘘やない。太政官とこみたいにドツサリ男衆をとこしを置いて、おまけに半ぼんから小作やと、肥料こえから税からかゝりを一寸こゝで當つてみても、こく十二三兩では何うしても三十圓から四十圓の損になるなア。」
 手近かの、ツル/\と手摺れのしたおき好さゝうな算盤を引き寄せて、パチ/\やりながら、助役も首を傾げてゐた。
「そんなら作らなえゝやおまへんか。」と、重吉は事もなげに言つた。
「こいつ、作らんちう譯にもいかんわいな、小前こまへのもんが弱りよるよつて。……」と助役は手に持つてゐる眞鍮の煙管を、拇指と食指との先きで器用にクル/\と※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はした。
「それでゐて小前のもんは小前のもんで、がうたくかしよるんや、なまじひ豐年で年貢負けて呉れへんいふてな。……小作人も可哀さうは可哀さうやな、米の廉い割に乾鰯や諸式が高いさかいな。」と、蔓の折れたのを紙捻で繋いだ眼鏡を外して、大きな玉を拭き/\、數之介老人も口を出した。
「これで昔しはお百姓ちうてよかつたんやが、今ではこんなやくざ仕事ないわい。……資本もとを勘定して、利※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はりを見ると、よしんば米が石二十圓からしてゝも、年二分五厘にほか當つてゐよらん。何處の銀行かてそんな廉い利息ちうたらあれへんがな、郵便貯金かて四分二厘かいな、それを八厘か五分に上げるちうて、新聞に出たつた。」
 講釋をする風にして、助役は物識りらしい口を利いた。
「何んの昔しかて百姓が良かろぞい。……今よりズツともむないもんくうて、土百姓々々々と人間の數へも入らずに、あの天滿宮さんの神主の家へ行くんかて、門から草履を脱いで、臺所口へ平つくばつたもんや。……早い話が、其の時分この村で疊の敷いたつた家は五軒となかつたで。……あとは皆むしろや。」と、數之介は郷士として村人に立てられてゐた昔しを偲ぶさまで言つた。
「けんど、昔しは時節が良かつたさかい、一生懸命に働いて損するちうやうなことおまへなんだやろ。働いてさへゐれや、百姓は堅い仕事としてあつたんや。それに今は何うや、作つて損する。……それに上るとか下るとか心配ばツかりして、まるで下手へたな相場師や。……それにこの税がなア。……」と、助役は圓い眼をクリ/\さして、自分の前に堆い納税告知書を見詰めた。
「數さん、昔しは税が廉かつたんだすやろな。」と重吉もおなじく、納税告知書の山を見詰めてゐた。
「今のやうなことは無かつたやろが、年貢の外に、運上や冥加金やいふて、兎角百姓と洗濯もんは、しぼられるもんや。昔しから。……」と、數之介は冷かに言つた。
「田畑ちうやつは、持つて逃げることが出けんし、隱す譯にも行かんしなア。税がかけよいんや。」と、助役は仔細らしく考へ込んだ。
「あゝ、かんこ臭い。」と、重吉は膝のあたりや袂を拂ひながら立ち上つて、火元を突き止めようとした。誰れかの吸ひ殼が、一束の納税告知書の上に落ちて、四五枚の黄色い紙にプス/\と黒焦の穴をあけたのであると分ると、
「あゝこれや/\。」と、重吉は指に唾液を付けて焦げるのを揉み消した。
「高い税を取られる恨みの火や。」と、助役は重吉の周章あわてたさまを見ながら笑つた。
「西の仙藏はんとこへ行く配布が焦げくさつた。納付スベシのスベシが無うなつてけつかる。」と、重吉は獨り言をして、國税と附加税との焦げた分四五枚を一つ/\改めてゐた。
スベシ、が氣に喰はんさかい、遲う納めたるて、仙藏はんはいつも言ふんやないか。御納メ下サレタク願ヒ奉リ候。と書いてれや、ぢつきに納めたるて、あの人は言ふてるんやよつて、スベシが焦げたら、今度は直きに納めはるやろ。」と、助役は※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はりくどいことを言つて、指の先きでまたクル/\と煙管を弄んだ。
「附加税が隨分多いな。」と、重吉は改まつた調子で今更らしく言つた。
「村税はそれで一杯や、其の上もう殖やせん。……學校ちうやつが金喰ひでな、村税の半ぼんは教育費やがな。」と、助役は無駄なことに金を使ふものだといつた風の顏をした。
「そら仕樣がおまへんがな。字を覺えてかしこなるんやもん。」と、重吉は鉈豆の煙管の詰まつたのを穿ほじりながら言つた。
「太政官みたいに、いろはの字も知らんほどで、我れが名前も書けんかて、村で一といふて二のない羽利はききになつたやないか。……錢儲けは上手やし。……あの寺田の息子見い、大學校の一年生までいたいふけど、薩張り阿呆で人が相手にせんやないか。」
「さう言や、さうだすけど。」
「さう言はいでも、さうや。」
 助役は無理往生に重吉を壓し付けるやうな、物の言ひ振りをした。
「そらさうと、寺田の相續税、何うなつたかいな。」と、數之介はフト思ひ出した風で言つた。
うもかうもあれへん。三年の年賦ちうことになつたのだすが、なか/\納め切れまへうまい。……いづれ公賣もんだすなア。」と、助役はヂツと正面の壁のボン/\時計を眺めた。
「相續税なんて、無理やおまへんか。……第一百姓は別にかねてそないにあれへんさかい、田賣つて金にして税納めんならん。地租や地方税や町村税と違うて、相續税はごつおまツさかい、米や松茸賣つた金では追ひ付きまへんもんなア。」と、重吉はまだ丹念に鉈豆の雁首を穿つてゐた。
「まア昔しの關所の輕いやつやなア。……あゝア身上しんしよの無いもんは氣樂でよいわい。」と、數之介は皮肉な笑ひ方をした。
「寺田の息子が言ふてよつたやないか、こなひだ此處へ來て。……身代しんだいらして税にするんでは税やない、罰金やて。……阿呆でも大學校へ片足ブチ込んで來よつたんで、言ふことは分つたるがな。……何でも相續税ちうやつは、異人の税の眞似をしたんで、あツちでは親子が別々に住んでゐて、親が死んで子が親の身代を讓り受けたとか、また身寄りの人が死んで、其の遺言で身代を其のまんま貰うたとかいふ時には、そらそれだけ俄に身代が殖えるんやもんなア、言はゞ大當りの儲けもんや、それに税をかけるのは、賭博ばくちの寺錢みたいなもんで、當り前やろが、日本ではお前、親の身代も子の身代もあれへん、一軒の身代や。……それが代がはりのたんびに、田なら田賣つて税にしてたんでは、しまひには身代が無いやうになるがな。……身代なんて不正わるいもんやさかい、無いやうにしてやろちうんなら、こら別やけんど。……」と、助役は口に唾液を溜めて、聽き噛りの理屈を長々と喋舌つた。
「田賣らうにも、が下がつてるし、第一けふは不景氣で買手があろまい。」と、數之介は皺だらけの顏にます/\皮肉の笑ひを浮べて言つた。
「百姓は割に合はん仕事やちうことは、よう分つてるが、そいでも地價がズン/\騰るさかい、知らん間に身代が三層倍にも五層倍にもなつたアるちうて、皆な喜んではつたが、かう不景氣ではそれもあきまへんなア。」と、重吉は漸く通るやうになつた鉈豆で、快く一服吸ひ付けた。
「ひと頃の土地熱も、まア夢みたいなもんやつたなア。……蘭や萬年青の變種が千兩もしたんとおんなしやろかい。……それにこんな在所の山ん中で、坪十五圓の二十圓のて、そんな相場が何處から立つもんかい。」
 助役はまた氣になる風で、ボン/\時計を見い/\言つた。
「どれ、もう一唸り唸つて、早松さまつの土瓶蒸しでパイ一行くとしようかい。……わしやちいと腹しもてるんやがなア。」
 眼鏡の大きな玉を空氣ラムプの光にキラ/\さして、數之介は算盤を引き寄せた。

 光遍寺の初夜の鐘が疾くに聞えて、ボン/\の針は十時半を指した。納税告知書と原簿との對照は漸く半分だけ濟んだ。
「もうしにしようかい。」と、助役は脇臭をプン/\させながら、手織の袷の高い腕捲りを收めた。
「さいや、こいだけで一先づ明日あしたのことにしよう。……こいつもぼし/\蒸せて來たよつてなア。」と數之介は傍の火鉢にかけた中形の土瓶の蓋の隙から吹き出す白い湯氣を見詰めた。其の湯氣には得ならぬ薫りを含んでゐた。土瓶の尖つた受口には、子供が鼻血を出した時にするやうに、白い紙で栓がしてあつた。
「松茸は土瓶蒸しに限りますなア。」と、重吉は早や黄色い納税告知書の幾束を、錠前付きの大戸棚に納ひかけた。
「早松がかう出るんでは、今年や松茸あかんやろで。」と、助役は大きな欠伸を一つして、くたびれた腦へ、新らしい早松の香氣を、鼻の穴からしたゝかに吸ひ込んだ。
「松茸や不作でも、山林税はたゞみたいなもんやさかいな。山持ちは損する氣遣ひあれへん。」と、數之介は土瓶の蓋をつて、濛々と立ち騰る湯氣の中に、白髮頭を突ツ込みつゝ、蒸され加減を見ようとした。
「今年の天滿山官林は、誰れが受けるかなア。わしが受けた時分にや、六十兩でも高いちうたんやが、近年は二百兩下で落札おちたことがない。今年ら見い、かう早松が生えては、秋の松茸屹と不作やで。……不作が眼に見えたつても、百五十兩下では落札おちんで、官も商賣上手やが、損知つてゝ高う入れる忠義もんが何んであないに多いやろ。」と言ひながら、助役も湧き立つやうな早松の湯氣に顏の半分を包まれてゐた。
「かうほかの税が高いんやもん、天滿山官林の松茸ぐらゐ、村方むらかた無代たゞ呉れたてさゝうなもんや。それを一兩でも高う賣らうと、競り上げるのは、官も慾が深すぎる。」と、數之介は香氣に充ち滿ちた土瓶の蓋をして、下の火を弱める爲めに、火箸でせツせと灰をかぶせた。
「何んだツか助役さん、一體税ちうもんは、此方こつちから懸け取りみたいにして貰ひに歩くのがほんまで、納める人に持つて來させるのは可かんのだすか。寺田の息子がさう言ふてよつた。」
 階下へ下りたと思つた重吉は、盃やら皿やら椀なぞを運んで來て、ガチヤ/\と其處に置きつつ言つた。
「もう置いて呉れ、税の話で腹一杯になつた。」と、助役は手を振つて重吉を制しながら、辨當の包みから赤塗りの小ひさな箸を拔き出し、伸ばせるだけ手を伸ばして、數之介の前の香氣の高い土瓶から、恰好のよい春松茸を一つ挾み出して、がぶりと口に入れた。
「おゝ可味うまい、早松は秋ほど薫りがないちうのは嘘や。」
「やいや、そら秋の方がえゝ薫りや。」と、數之介も小さな香氣の塊を一つ口に入れ、齒のない口で、もぐ/\と顏中を動かして、ぴちや/\と舌を鳴らした。
「梅鉢屋の坊ンさん、何してやがるんやろ、まだ酒持つて來やがらん。」と、重吉は貴い人の筆蹟「天滿校」の三字の額の眞下の窓から、折柄の朧夜に、薄絹を張つたやうな靄を透かして、葉櫻の影の仄暗い石門の邊りを見下ろした。
「あゝ來た/\。何んぢやこの月夜に提灯とぼしやがつて、……あゝ提灯持つてるのは竹丸さんや。」
 重吉がかう言つた時、この大きな室の四隅の柱のあたりで、俄にメキ/\凄まじい音がした。
「地震や。」と、助役は松茸の稍大きなのを口に含んだまゝ、周章あわてゝ立ち上つた。大きな室の床板は、三人の男と、多くの椅子、卓子と、七つ八つもある書類入の戸棚とを載せたまゝ、風船が下降するやうに、ずうツと沈んで行く。驚いた顏をした重吉と、呆れた眼を瞠つた數之介とは、渡船にでも乘つてゐる人のやうに、中腰でヨロ/\して、下り口も出口も分らぬ状で、うろ/\してゐた。
 數之介の手には、大事さうに蔓を握つた蒸し松茸の土瓶があつた。
「數さん大地震だすなア。」と、重吉が慄へ聲で、唇の色まで土色にして言つた時、室の動搖はピタと止つて、朧月に葉櫻の影の映つてゐた硝子窓は二間も上になつた。ところ/″\雲でも描いたやうに、雨漏りのある白い貼り天井は、三間からも上になつて、遙かに大空を望むやうであつた。
「何んやこら、二階のゆかが落ちたんやないか。」
 其の途端、またメリ/\と音がして、階下の教室の黒板ボールドを壞した音に、ハツと氣付け藥をまされた風で、助役はかう言つた。漸く階下への下り口を見出した時は、階上が階下になつて、長い階子段は高く棒のやうに眼の前に突ツ立つてゐたのである。
「あゝ此處が玄關の出口や。……」
 二階全體がフワリと下りて、階下の教室の並んだ机の上へ安全に据つたのである、といふことを知つた重吉と數之介とは、何とも知れぬ妙な顏をして、互ひに眼をパチクリさしてゐた。
「えらいこツちや、どえらいこツちや。」
 天滿宮の神主の息子竹丸と、梅鉢屋の小僧とは、玄關先からこの状を覗き込むと、口々にかう叫んで、矢のやうに駈け去つた。
「一寸面白かつたやないか。」と、助役は元の顏色になつて、莞爾と笑つた。
おもろい(面白い)も、よう出けた。……わたへはもう死ぬと思ひましたで。五月二十日が木村重吉の命日になるんやと思ひました。」と、重吉の聲はまだ慄へてゐる。
「命日のこと考へてるやうな、氣樂なこツちや、なか/\死ねん。」と、助役は倒れもせずにあつた自分の椅子に腰をおろした。
 今は缺員空位の村長の卓子の青い掛け布の上の、早咲の菖蒲を生けた頭勝ちの花瓶が一つ轉けたゞけで、其の餘のものはそつくり有姿のまゝであつた。
こいつが危なかつたなア。」と、助役は自分の直ぐ前の、ニツケル鍍金の大きな臺付の空氣ラムプを見詰めた。今一つの燈火は吊ラムプであつたから、柱のボン/\時計とゝもに、遙かに高く取り殘されてゐた。
「あゝ數さんが、……大事さうに土瓶提げてはる。」
 かう言つて、玄關の扉から顏を出したのは、宿直室で寢てゐた學校の女小使であつた。四十を越してこんな勤めをしてゐても、女は女だけに、薄汚ない寢衣の袖で、羞かしさうに口元を掩うた。
「おみつつあん、どしようぞいな。……こんなことになつて。……」と、重吉は漸く少しの戲談を言ひ得るまでに、落ち付きを見せて來た。
「……月が重なりや、おなかが太る、どしようぞいな……ぢや。」
 燒糞のやうに言つて、助役は方々を見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はしてゐた。
「……さ、棄てとけ、ツとけ。……ぢや。」と、數之介は節を付けて今にも踊り出しさうにしながら、また蒸松茸を一つ摘んで、齒のない口に入れた。
「重さん、梅鉢屋の坊主、酒置いてゐたかいな。早うせんと、數さんが松茸皆平げはるで。」
「けんど、こんなりで酒飮んでることも出けんやおまへんか。」と、重吉はまた落ち込みはしないかと、床板をトン/\踏んでみた。
「それもさうやなア。……重さん一寸ちよつといて、太政官呼んで來いよ。……あいつが儲けた普請や、このざま見せたろ。」
「さよか、もう寢てるやろな。……」と、重吉は首を傾げ/\、急出來の床の上から廊下へ飛び下りて、上草履のまゝしツとりと夜露に濡れた土を踏んで行つた。
「皆さんの氣樂人やこと。ホヽヽヽヽ。」と、學校の小使お道は、若々しい聲で笑つて、寒さうに肩を窄めながら、宿直室へ歸つて行つた。
「お道つあん、後から行くで。……夜這ひに。」と、助役は叫んだ。
「待つてまツせ。……おうちでおはん(女房の事)が、……鐵漿かね附けて。……」
 お道の若々しい聲は、廊下の曲り角あたりから聞えた。
「今晩は、今晩は。……もうおやすみだすか。」と、重吉が太政官の隱居の戸を叩いてゐるのが、ツイ一重隣りからのやうに聞えた。
 東の村あたりで、頻りに犬の吠え立てるのも聞えた。
「中氣やさかいな。太政官、なか/\起きんわい。……太政官も、もう世の季ぢやわい。」と、數之介は嘲笑ひつゝ、また蒸松茸を一つ頬張つた。
「數さん、毒や、腹しもてるちうたやないか。」と、助役は耐り兼ねて、土瓶を取り上げた。

 太政官は脹れぼつたい顏をして、寢衣のまゝ太い杖を片手に、重吉の手引きでやつて來た。助役は見るなりラムプを持つて廊下に下りた。村長の席にあつた柔らかさうな大きい椅子は、廊下へ一杯になつて、太政官の太い腰を卸すのを待つた。
「野口さん、二階が墜ちましたな。危いことやつた。………誰れも怪我が無うて頂上や。」
 女のやうに優しい聲を出して、太政官は細い眼を光らしつゝ、眞向から助役の顏を見た。
「あれ見とくなはれ、あんな工合にドシンと行きましたんやで。」と、數之介も這ふやうにしながら、腰掛けを踏臺にして、机の上に一段高く載つかつてゐる床の上から下りて、齒を穿ほじつてゐた爪楊子を襟に差しつゝ言つた。
「野口さん、何うする積りやな。こんなりつても置けまい。」と、太政官は數之介風情には眼も呉れなかつた。猫に睨まれた鼠のやうにしてゐた助役は、
「これから片付けまへう。」と、揉み手をしながら、他所行よそゆきの聲を出した。
「片付けるて野口さん、こいだけの手でこれが、何う出けるもんぞい。」と、太政官は笑つた。
「何ういたしたもんでござりまへう。」と、助役は最早裁判官の前へ出た男のやうに、對話をする力が拔けてしまつてゐた。
「何うするて、役人のお前に、わしが指圖は出けんけど、差し當り火の用心に氣を付けて、假役場を拵へな、仕事が出けんやおまへんか。それから知らす向き/\へは早う知らすし、てツたい(仕事師の事)呼ぶんなら、今夜の中に小使やつとかんと、明日の間に合ひまへうまい。」
 大きな腹を突き出して太政官は、椅子にもかゝらずに、杖に凭れるやうにして、太い息を助役の頭から吹きかけた。
「何處ぞ空いた教場がおまツしやろ、其處へ机一脚と椅子を三四脚持つて行きまへう、それでよいのや。」と、重吉は猿のやうに、墮ちた二階へ躍り上つて、散らばつたものを片付けにかゝつた。
「さうや、さうや。お前は賢い。」と、太政官は薄暗いのを透かして、重吉の後姿を見送つたが、自分の生命とまで思つてゐるこの學校の損所を調べようともしなかつた。
「そないにやにこい普請やない。裏の地形ぢぎやうさがつて、柱が開きよつた。……直ツきに元の通り出ける。何んでもない/\。」と、小さな聲で誰れに言ふともなく言つて、太政官は歸りさうに杖を持ち直した。
「おやすみのとこを御苦勞はんだした。」と、助役はペコ/\頭を下げて、汗も出ぬ額を頻りに拭いた。
 其處へドヤ/\と、教員の淺野を先きに立てゝ、青年會の四五人が、銘々黄表紙を半分づゝ勳章のやうに胸へ現はして、石の門の半分だけ少し開かれてある鐵の扉を、自分のものゝやうに兩方とも眞一文字に押し開き、
「野口さん、役場もわやだすな。」
「こんなぼろくそ學校潰して了へ。」
「役場の輕業。……」
「役場が上から墮ちて、下の學校へ夜這ひに行きよつたんや。」
「重公とお道婆アさん。……」なぞと、口々に言つて、乾燥はしやぎ切つた状で、前庭を掩うた葉櫻の下を駈け込んで來ると、いつもならば眞ツ先きに迎へ出て何か輕口を言ふ筈の野口助役は、引導を渡された佛のやうに、身動きもせず突つ立つてゐるので、いづれも不思議の眼でよく見ると、其の前の柱の影に、太政入道清盛のやうな大きな姿が、忽ちそれと分つたから、淺野を初め四五人は、馬斬の捕手のやうに尻込みして顏を見合はした。
「お前等やな、其の……せう年會ちうもん拵へたんは。……せいだい勉強しいや。」と、太政官はツル/\と見事に禿げた頭を、空氣ラムプに光らすほどに俯伏いて、此方を見ながら優しい聲を出した。
「ハツ、さうでござります。」と、淺野は郡長の前へ出た時のやうな身體つきをして、切口上で答へた。
「せう年會やおまへん、せい年會だす。」と、仙太郎は臆面もなく大きな聲で言ひ放つた。
「あゝよか。……せうせいなら、しまへうしなはれで、よう似てるさかい、わし等はどツちでもえゝと思ふがなア。」と、太政官は微笑んだ。
「違ひます、少年會と青年會では、空氣銃と村田銃ほど違ひます。」と、病み上りの仙太郎は危い足元をして、詰め寄せる風で太政官に近づいた。
「さうすると、お前は村田銃の方やなア。よし/\、負けとこ。わしはこいで大砲の積りやが、昔もんの青銅砲で、もうあかん、龜裂ひゞが入つて來たよつて、新らしい村田銃に負けとこ。アハヽヽヽヽ。」
 小氣味よく笑つて太政官は、杖を力にフラ/\と玄關先きへ下りた。
「これが天滿村青年會の規則でござります。」と、淺野は進んで懷中から出した一枚の印刷物を太政官に捧げた。
わしは皆さん知つての通り無筆で、假名も讀めんよつて、書いたもん貰うても仕樣がないさかいなア、今度また其の青年會ちうもんのこと、口でよう教へとくれ。……おまはんは學校の先生やよつて、子供を教へるやうに老人としよりも教へとくれ。」
 だん/\優しい聲になつて、太政官は大きな顏におちよぼ口を作つて言つた。淺野はハツと氣が付いて、惡いことをしたといふ風で、規則書を握つた手を引き込めたが、太政官は無筆を恥づる もなく[#「恥づる もなく」はママ]、大きな顏を光らして、上機嫌で歸つて行つた。
「あゝ野口さん、御苦勞やが萬事おたのまをします。」と、太政官は野口助役の居たことを忘れてゐたといふ状で、背後を顧みつゝ言つた。
「ハツ。」と、助役は畏まつた。その横にぼんやり立つてゐた數之介も、一所になつて畏まりつゝ頭を下げた。
「へゝんの、へえや。」と、朧夜に下駄の音の遠ざかつて行く太政官の黒い後影を見送りつゝ、助役はペロリと舌を出した。
「さア此方へおいなはれ、野口さん、數さん。」と、重吉は小學校の一室から呼んだ。其處には早や重吉が學校の小使お道婆アさんに手傳はせて、假役場を拵へ上げてゐた。梅鉢屋の小僧が持つて來た酒も、貧乏徳利のまゝで大鐵瓶の中に浸つてゐた。大鐵瓶の下には、堅炭の大きな塊がぽツぽと青い炎をあげてゐた。
 青年會員等も銘々墜ちた役場の床の上から椅子なぞを運び出して來て、假役場の一室に陣取つた。
「太政官が來たら、お前がこんなやにこい學校建てゝ儲けるさかい、こんなことになる、ちうて一締め締めたらうとおもたんやが、肝心の落ちたとこ見よらへんのや。」と、助役は重吉が茶呑茶碗に注いで※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はつた酒を、ガツ/\して飮みながら、早や醉つたやうな風をして言つた。
「締めるどころか、逆さまに締められて、ハツ、ハツと、これや。」と、重吉は滑稽な状で平身低頭する眞似をして、自分にもグツと一杯熱燗を呷つた。
「總別、役人ちうもんは上役に向ふと價値ねうちのないもんぢやがのう。……わしもこれえゝ年して、……甲う乙うと、わしは太政官より三つ上で、子供の時にやようせぶらかし(虐める事)てやつたもんやが、今ぢやあの男の前へ出ると、身體がしやちこ張つて、言ふことも言へん。あの男には何神さんかが乘り移つてるんや知れん。」と、數之介は強盜にでも入られた後といつたやうな顏をして言つた。
「太政官なんて何んぢやい。」と、仙太郎は力んだ。
「子供怖いもん知らずでな。」と、數之介はまた土瓶蒸しの松茸を狙つてゐた。
「太政官、あの年になつて女子をなご知らんのやてなア。何んぼえらさうにしてもあかんわい。人間に生れて來た甲斐があろまい。」と、材木屋の二男常吉はむづかしい顏をして言つた。
「女子が出けんよつて、其の方の力がほかへ出て、あの人はあれだけに出世したんやがなア。……※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)でも見い、合ひの子の蹴合鳥、めんかけると弱いが、牝さへ離しといたら強いさかいなア。」と、淺野は本の講釋をする調子で言つた。
「そんなもんかなア、そんならわたへ等も牝をかけずに出世しよう。」と、中百姓の長男伊之助は笑ひ/\言つた。
「辛抱が出けるもんか、阿呆。」と、郵便局の息子仙太郎は怒鳴つた。
「皆んな、わしが太政官の手、火傷やけどさしたん知つてるかい。」
 がぶ/\と酒ばかり一人で飮んで、腋臭をプン/\させながら、助役は縺れかゝる舌をなめづり/\言ひ出した。
「さアさ、始まり/\。大久保彦左衞門、鳶の巣山初陣の一番槍。……」と、伊之助は手を拍つて囃し立てた。委細構はず助役は、咳拂ひを一つしてから、
わしが二十四の年やさかいな、今から十六年前や、よいか。二十五まで背丈せたけは伸びるちう其の前の年や。五斗俵は樂に差し上げられるし、女子をなごは三四人……ぢや。其の頃天滿山官林に天狗さんがゐるちうでなア。……」と、此處まで言つて助役は貧乏徳利から手酌で波々と一杯引つ掛けた。
「いやア、彼處にや昔しからほんまに天狗がゐるんぢや、天滿宮の先の高判別當が松茸狩にいて、天狗に問答したことがある。」と、數之介は横から口を入れた。
「天狗、天狗、其の大天狗をおらいわしたツたんや。……其の年に天滿山官林の松茸の札が、六十兩でわしんとこへ落札おちたんや。山ア始めると、松茸盜みやがつて仕樣がない。何處のどいつか知らんが、忌々しいて、死んだ親爺と二人で言ふてたんやが、何んしよ、あの山天狗さんが怖いんで、それまで誰れも番小屋建てゝ夜番したもんないんぢや。」
「そいつをお前が初めてあの山で夜番して、天狗を退治たちうんやろ。えらい/\。」と、仙太郎は煽動おだてかけた。
「まア聽けよ。其の頃の俺ア其の、西の村のすもん(角力の事)に十一番取つて、りで九番勝つたツた時やらう、何糞ツ天狗が出やがつたら反りで高い鼻折つたるちうんで、親爺さんが泣くやうに言ふて止めはるのを聽かずに、あの官林の赤阪の平地ひらちへ小屋建てゝ、山刀一本と蒲團に蓆、そいから酒肴持つて泊りにたもんぢや。……行く時やえらさうに言ふていたが、あの寂しい山ん中で、たツた一人寢るんやもん、夜半よなかになると風が轟と來て、そら氣味が惡いのなんのツて、梟のめんたがキヤ、キヤ、キヤアちうて啼きよるしなア。……」
「天狗は出たか出んのか。道中ばツかり長う引ツ張らいで、早う天狗出しなはれ。」と、常吉は椅子ごと膝を押し進めて、熱心に聽かうとした。
「天狗は出たんぢや。……まア聽けよ。ほえから元氣出さないかんわいおもて、持つていたかんてきに火一杯いこして、鍋にさかな入れてグツ/\たきながら、火燗ひかんの熱いやつをやつてたんや。……さうするとお前また、轟と山が唸るほどの風が吹いて來て、小屋が地震みたいに、ゆら/\搖れるやないか。……こいつは耐まらんとおもて、餘ツぽど山刀持つて出ようとおもたんやが、いや待て暫し。………」
「何言ふてるんや、大阪で講釋聽いた眞似やないか。皆な眉毛に唾液つば附けや。」と仙太郎は指で頻りに眉毛へ唾液を塗つた。隣りの椅子の淺野も仙太郎の眞似をして、眞面目腐つて眉毛に唾液を塗つた。
「嘘やない、ほんまや。まア聽けよ。……ほえから怖いのを辛抱して、ヂツとしてると、また小屋が搖れたなア。丁度三遍搖れて、小屋が潰れるかとおもたが、搖れがピツタリ止まると、今度は小屋の家根がメキツ、メキツちうんや。……天狗が乘りよるわいとおもてると、何んや家根の眞ん中に穴があいて、生々なま/\しい人間の手がプランとがつた。………」
「えゝ加減においとくれ、野口さん、うだ/\と何んや。」と、仙太郎はまた眉毛に唾液を塗つた。
「嘘やないちうたら、まア聽けよ。……そいから、俺アまアあの時、何んであんなことする元氣が出たか、かんてきの火の眞赤まつかにいこつたやつを一つ火箸で挾んで、其の生々しい腕へしや付けたつたんや……さうすると何うや、家根の上で、つツ……」
「天狗さんが火傷しやはつたんか。」と、常吉は飽まで眞顏である。
「俺ア、この話三遍聽くよ。皆んな初めか、可笑しいなア。」と、伊之助は退屈氣な風で背伸びをした。
「熱つツ、ていふとお前、其の生々しい腕がスツ込んで、またメキツ、メキツと屋根から下りる音がしたが、えらいことをやりやがるな、お前には感心したちうて、腕の火傷を押へながら入つて來たのは、太政官やないか。あの頃はテキさんもまだ若かつたんや。」
 これだけを語り終つて、助役は茶碗のめた酒を顏顰めつゝ、不味さうに飮んだ。
「太政官がそんな茶利ちやりするやろか。」と、仙太郎は疑ひの眼を瞠つた。
「するもせんもない、今でも太政官の右の脈どこに火傷がちやんと附いたる。俺ア先刻も見た。」と、助役は首を振り/\言つた。
「そら茶利やあろまい。官林の松茸盜んだんは太政官の仕事やろ。」と、常吉は面皰の顏に確信をつた風をして言つた。
「其の時分、太政官は金龍や萬年青で千兩二千兩儲けてる最中や、官林の松茸盜んで何んしようぞい。」
 と、數之介は嘲笑ひつゝ、冬の夜のやうにして火桶を抱き込んだ。
「昔しから物好きで、忠實まめな人やつたんやろ、野口さんが天狗のゐる山へ夜番にいたのを聞いて、喫驚さしとなつて、耐らなんだんやろ。」と、重吉は辯護でもするやうに言つた。
「あの人は隨分忠實々々庵小まめ/\あんこまめやさかいな、一昨年此處で教育展覽會を開いた時も、六年の習字と綴方を一人で貼つたよつてなア。其の貼り方がまた上手で、表具屋と違はん。」と、淺野は紙捻の羽織紐を解いたり結んだりした。
「そやけど、大けな聲で言へんが、太政官の家は代々レコ根性があるちうで、……」と、助役は聲を密めて、右の食指ひとさしゆびで鍵の手の形をして見せた。
「そらそやろかい、學校建てた序に、自分の隱居を村費で建てゝ、大けな顏して住んでるんやもん。……白晝の強盜や。……」と、常吉は憎々しさうに言つた。
「太政官、俺んとこの拜殿で賽錢盜んでたことある。」と、竹丸が子供聲を張り上げて言ひ放つた。
「それみい、あればツかりは性分や。慾得からばツかりやない、他人のもん見ると欲しなるのや。」と、常吉は子供正直の竹丸の言葉で、自説に刻印を打たうとした。
「竹丸さん、もう遲いで、にんかいな。」と、思慮あり氣の伊之助は、この場の不用意な座談が重大な結果を生むのを恐れるやうに、落ち付かぬ顏をして、更に、
「皆んな面白もない話止めようやないか。」と、大きな聲で言ひ足した。
 後は賑かに、村の娘や後家の噂さになつて、猥らなテクニツクを用ゐた話が、大切おほぎりの所作事のやうにはずんだ。
 此處は何學年の教室であつたか、正面の剥げちよろのボールドには、白墨チヨークで海石流に書かれた「忠君愛國品行方正」の八文字が淡く消えかゝつて、ラムプの火に映つてゐた。
 ボン/\時計は十二時を打つて、光遍寺の三更の鐘が、夢のやうに響いた。

 四百あまりの戸數と、千八百足らずの人口とをつた天滿村は、三十餘年このかた、太政官と綽名されてゐる、一字も字を知らぬ――假名も讀めぬ――大野源兵衞といふ、二十代から頭髮の禿げてゐる、豆腐を立てたやうな横に廣い大男に、一手で支配されて來た。
 戸長の時分には戸長があり、町村制の後には村長があつても、それは皆太政官の人形であつた。戸長や村長になることを、太政官の手遊品になり、番頭になることゝ思ひ込んでゐる村人も多かつた。
 酒にも女にも遊びにも、爪の垢ほどの嗜好を有たぬ太政官は、二十七の年から村を一手に攫んで、それを何よりの仕事とし、樂みとした。金を儲けることもよく知つてゐたが、金を握るよりは、村を攫む方に、手の力は籠つてゐた。
 兎にも角にも、自由に郡役所や縣廳へ出て、郡長や知事に平氣で口の利ける人間はこの男の外になかつた。上の方から言つて來ることも、この男の大きな頭を潛らねば纏まりが付かなかつた。
 一年ひとゝせ、代議士の總選擧に、反對派の壯士が彼れを脅かさうとした時、彼れは天滿宮から寳物の緋縅の甲胄を借りて來て、それに身を固め、大身の槍をかい込んで、壯士に應對したので、流石の壯士も鐵拳を加へ兼ねた上、兜の鍬形で額を突き上げられて逃げ出した。といふやうな逸話は、「太政官」といふ綽名とゝもに、知事の耳にまで入つてゐたさうである。
「太政官はえらいのやが、俺等とおんなしで、字を知らん明盲あきめくらやさかい、何にも役はせえへんのやなア。」と、百姓が田圃で株伐りをしながら、高聲でやつてゐるやうに、彼れは一度も戸長や村長になつてゐない。何かの都合で、學務委員といふものに、たつた一度なつたけれど、一月經たぬ中に罷めて了つた。――一字も字を知らぬ學務委員――彼れ自身にも可笑しくて耐らなかつたのであらう。
 村の世話方――といふ名を自身にけて、彼れは村を自由にしてゐた。自分が明盲であるから、先づ立派な、郡第一の學校を建てゝ、眼の見える重寶なやつをドツサリ拵へてやらう、と彼れは思つて、小學校の建築に半生の力を注ぎ、出來上つた其の白堊の建物に生命を打ち込んだ。
「俺の力で書いて貰うた、天滿校の三字の、貴い筆蹟の額になつて掲つてゐる以上、どんなやつが出で來うと、この學校に指一本差させるもんか。差しもしようまい。」
 かう太政官は信じ切つてゐた。近來甚だしく體力も氣力も衰へて來て、或る時は自身の力の何時まで續くことかを、自身に疑ふ折はあつても。………
 村役場のゆかが、人とゝもに學校の教場の上へ落ちたといふことは、至る日の朝、村中に傳はつた。
「野口の阿呆めが、何んにも太政官呼んで來ることはない。自分が村長の代理なら、自分で責任を負うてしたらえゝやないか。」なぞと、この村では何事も太政官の指圖なしにはおほやけのことの出來なかつたしきたりを破らうとする蔭口が、今更らしく聞えた。
 近頃では流石に太政官の人形になることを厭やがつて、村長のなりがないので、無能な無爲な阿呆野口を助役にして、太政官に宛行あてごうて置いたのであるが、そんなことでは、治まつて行きさうもなくて、權威オーソリチー破壞の聲が、百姓たちの口から村中に漲りかけた。
 折柄の村會議員半數改選には、若い男が四人も出た。阿呆息子と見られてゐた寺田の利一郎といふ高等學枚の卒業生も、其の中に居た。
 缺員であつた村長は直に選擧された。これまでの例を破つて、太政官へは一言の挨拶もなしに、青柳の青六と綽名されてゐる、六藏といふ金貸しの四十男が村長になつた。
 天滿村九つの大字から選ばれる村會議員十人の中で、四人が東方、六人が西方といふ勘定になつた。東方は太政官派、西方は青六派といふことであつた。
「太政官でも何んでも、ドーンと來い。負けはせんぞ。」と、青六は胸を叩いた。
「やいぶんき、青六が村長になつたちうて、皆なが喜んでゐるのがおもろいやないかい。」と、乙松と呼ぶ老いた小作人は、文吉といふ若い小作人を見かけて、野路から麥畑の中に聲をかけた。
おとまはんかア、……あの鬼みたいな青六が村長になつて、何がかろぞい。」と、文吉は鍬の手を止めて、間拔けた聲で答へた。
「俺んとこのちいとあつた田もあの青六に取られ、家屋敷も青六のもんになつてゐるが、村中で青六にやられて、田地持ちから小前に落ちたもんが何人あると思ふ。」
あいつの金つたが最後屁さいごべえや。……蟒に捲かれたやうなもんで、もうあかん。田から畑から家屋敷道具まで吸ひ込まれて了ふんやさかいな。」
「百兩のしろもんを、十兩か高々二十兩でせしめるんやさかいなア、證文に物言はして。……あの手にかけたら、あいつ上手なもんや。」
「何んしよまア、村長はんが代はろと、誰れが議員さんになろと、小前のもんは生血いきち絞られるばつかりや。……蓆旗でも立てゝ、一つがうそう(強訴)でもやらかさうかい。こんなりでは見い、いんまに生きついて了ふで。……」と、文きはどんよりと曇つた眼の玉をクリ/\動かして、血の氣の乏しい顏に笑ひを浮べた。三十の男盛りで、顏に皺が一杯よつてゐる。
「違ひない。」と、乙まも※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)しめたやうな手拭の頬冠りを取つて、すゝきのやうな白髮頭を掻き掻き笑つた。
「太政官と青六では、お月さんと鼈やが、村々の旦那衆が何んであないに太政官厭やがるんやろかい。」と、文きは鍬を其處へ放り出して、畦に腰を掛けた。雲雀がチユークラ/\と囀つて、二人の水呑百姓の上を舞うた。
「旦那衆のすることは、俺等おらゝにや解らんなア。」
 乙まはかう言ひながら、川縁になつてゐる藪地に向つて立小便を始めた。
「出がわるい。……せいのないしよんべんすない。」と、文きは乙まの腰付きを見やりつゝ言つた。
「出もわるかろかい。水呑百姓ちうけど、水も碌に飮めん。此頃は日燒けで。……」
 この村を貫ぬいて流るゝ、大きな山川の、河原ばかり廣くなつて、水の細くなつたのを眺めながら、乙まはかう言つて、
「この川床も荒れて高うなつたなア。俺ア覺えてから、五尺は結構高うなつてるで。」と、言ひ足した。
「何んしよそら、旦那衆が山ア坊主にして金にするさかい、大水が出て川床も荒れようかい。……一昨年をとゞしの大水何うや、天滿宮さんの石段まで上つたで。……新田の市作んとこは家が流れて、田が落ち込んで川原になつてしもたがな。……そいでもあいつ負け惜しみの強いやつや、母者人はやひとが心配してわづろてる枕元で、青六に借錢の抵當に取られるより、川に取られた方がえゝ吐かしてけつかつた。可哀さうに母者人はあれを苦に病んで死んだがな。……無理もない、猫の額ほどの田地やけんど、先祖からの持ち傳へや、あゝ一面の川原になつてしもたんで、何處やら分らへん。……母者人がわたへんとこの田ア何處だツしやろちうて、水の引いたごろた石の川原を、泣き泣き探してたがなア。」と、文きの言葉は粗雜ながらに、物哀れであつた。
「けんど、市作もあいで甲斐性もんやなア、田も家も流れるし、母者人はやひと死なすし、蒼い顏に元氣出して大阪へ行きよつたが、電氣の工夫になつてお前、今ではさかなお菜にして飯喰ひよるちうこツちやで。」と、乙まは羨ましさうにして言つた。
「田ア荒れる、山ア荒れる。……川ア荒れる。賢いやつア町へいて了ひよるし、何うなるこツちやろかい。」
 文きは棄鉢のやうに言つて、ぼんやり突つ立つてゐたが、何處からか赤犬が來て、綴れ股引の尻のあたりを嗅がうとした。
「あゝ喫驚びつくりした。……やけんどめんたと間違へてけつかる。」と、手をあげて打つ眞似をすると、犬は後足を畦に滑らして逃げて行つた。
「俺等の若い時分とは、犬まで痩せやがつたなア。」と、乙まは感じの深い眼付きをして、骨の出ばつた赤犬の尻を見送つてゐた。

 青六と呼ばるゝ大字青柳の青柳六藏は、村長になると同時に、小學校の太鼓樓を取り卸し、二階を毀つて、平家にして了つた。このまゝにして置くと、太鼓樓と二階との重味で、後の方の置土をした弱い地盤へだん/\根太が滅入り込んで、顛覆ひつくりかへるといふ其の道のものゝ意見によつて、直ぐにこれを決行したのである。さうして白堊しらかべにしておくと、始終剥げたり落ちたりして、修繕が面倒だからと、後の方だけは一面に燒板を張つて了つた。
「もう左官に用はないぞ。左官學校とは言はさん。」
 青六村長はかう言つて、其の始終蒼白い顏に、寂しい沈痛な笑みを湛へてゐた。
 これまでは柱一本根繼ぎするにも、學校のことゝ言へば、大工より先きに太政官へ知らしたのを、今度は青六の獨斷で、この大工事を何人にも斷らずに、大勢の大工を指圖して、雷のやうにやつて退けた。
「おい兵太、太政官の生靈が取りくぞ。」
「なんまんだぶつ、なんまんだぶつ。」
 こんなことを言ひ合ひながら、大工どもは古墳でもあばくやうな風にして、氣味わるさうに太鼓樓から二階を壞しにかゝつた。
 太鼓樓の家根裏の棟木から、「永代不變棟梁何某、世話方大野源兵衞、明治△年△月吉日」と、墨の艶麗はしく書かれた厚い木札を、大工の一人が取り卸して來た時は、居合はした青六を始め一同變な顏をした。其の木札は二三日神符か何ぞのやうにして取り扱はれてゐたが、到頭焚火の中に入れて燃されて了つた。
「あれ見いや、木札の煙が太政官の隱居の方へ行くやないか。執念て恐ろしいもんや。」と、手傳てツたひ(仕事師の事)の一人は言つた。
「この木札を太政官が、天滿宮の神主に書かして棟上をした時は、賑かやつたで。」と、老いた手傳は眼をクシヤ/\さしてゐた。
 春は櫻の花の眞盛りに、村の若い衆が總出で、揃ひの赤襦袢をそよ/\と吹く東風に飜へしつつ、木遣音頭で棟木を曳いた。町からは藝妓げいこが一組來て、梅鉢屋の二階で舞ひを舞うた。村中の人々が殘らず集つて來て、餅撒きに紅白の小餅を拾はうと爭つた。酒嫌ひの太政官が無理に一杯飮んで、赭ら顏を一層赤く、金時のコロ煎りのやうにして、仕立おろしの、紋の眞白な黒羽二重の紋付きに、茶宇の袴をキユー/\音さして、彼方此方と歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてゐた。其の日は朝からよく晴れてゐた。
 大工や手傳は、こんな記憶を銘々に思ひ出してゐた。
「開業式の時も賑やかやつたで。……」と、誰れやらが言ひ出した。
「さう/\、花車だんじりや太鼓が出て、知事さんが來たもんなア。……太政官が知事さんと連れ立つて、二階から下りて來て、そら丁度彼處あそこんとこや、もう枯れたが、彼處に百日紅の石を喰うやつがあつてな、其の下んとこを二人で歩いてたのを俺ア見たが、其の時や太政官が知事さんほどえらう見えたで。」
 花の頃の上棟式、紅葉の折の開校式。それらの過ぎ去つた光景をば、今は痛々しい姿になつた小學校の前で、人々は齊しく思ひ浮べてゐた。
 小學校改築の仕事のかゝり初めから、人々は必ず太政官の隱居の二階の窓が開いて、其處から怒氣を含んだ大きい赭ら顏の見えることを豫想してゐたけれど、名義ばかりの妻が毎日三度母家から飯櫃を運ぶ時より外に、扉一つ動かないで、隱居は死んだやうに靜かであつた。
「太政官がおこつて來るやろおもたになア。」
 かう言つて、拍子拔けのしたやうな顏をしながら、大工どもは隱居の方を見い/\仕事をした。
 この改築工事が終ると、小學校は、鬘を脱いで褞袍どてらを着た女形役者のやうな姿になつた。「別嬪が髮の毛を剃つて尼はんになつたやうや」といふものもあつた。見窄らしくはなつたけれど、前よりは丈夫さうに見えた。

 青六が餘んまりの高飛車に、太政官は呆れ返へつた揚句の果ては、馬鹿々々しいやうな氣がした。今更、「何をするか、俺に默つて」とも言つて行く氣にはなれなかつた。村の何人に對つても、總て此方から物を交渉するといふことはなくて、悉く先方から此方へ伺候さした太政官は、他人の前に苦情を並べに行くといふ經驗がなかつた。
 出るにも出られず、ヂツとしても居られぬといふ破目になつて、太政官は三四日悶えに悶えてゐた。學校がどんな姿になりつゝあるか、窓の隙間からでも、たツた一目覗きたいやうな氣がしたけれど、幾度か立ちかけては躊躇した。
 名義だけの妻が毎日三度/\運んで來る一粒選りの米の飯も、此頃は飯櫃を餘り輕くしないで戻すことが多かつた。大工や手傳の働らく、ドン/\ガン/\といふ破壞の物音、偖は古材木や古瓦を積んで行くらしい荷車の音は、太政官の耳に錐を刺し込むやうで、彼れは白晝に蒲團を引ツ被つて寢てゐることもあつた。
 表に「郵便切手賣捌所」の札と郵便函とが掲つてゐても、滅多に切手なぞを買ひに來るものはなかつた。買ひに來ても返事をしてやらなかつた。尤も此處に切手賣捌所の札をかけて、郵便函を置いたのは、太政官が手紙や葉書を出す便利の爲めで、公衆を目的にしたのではなかつた。學校の先生が歸りに葉書の一枚も入れて行く外には、こんな松原の一軒家へ態々郵便を出しに來るものも、葉書を買ひに來るものもなかつた。
 太政官はこの村に唯一つしかないといふ大事の大きな金庫を、母家の方に置いてゐたので、月に一二度づゝは鍵を持つて母家へ通はねばならなかつた。
 母家からは、小學校の背中が眞正面に見えた。
 小學校の改築――といふよりは、太政官に取つてブチ壞し――が濟んでから五日ほど後に、太政官は鍵を持つて母家へ出かけた。金庫の用が濟んで、もう暑さを感ずる日當りのよい黒光りの縁側へ出ると、野路を歩く時には、脇目もふらずに、見ないやう/\と勉めて來た小學校の後姿が、淺間しい姿になつて、其の鯨のやうな細い眼に映つた。
 自分の生命よりも大切ないとし子が、松皮疱瘡にかゝつて、玉のやうであつた顏が、二目ふためとは見られぬみにくさになつた時の悲哀は、かうでもあらうかと、太政官は縁側に立ちつくしつゝ、白堊姿のスラリ高く清げであつた小學校が、たとへば、白瓜か南瓜になつたやうに、脊低せツぴくの厭やなものになつて、杉の燒板で一面に背中を張られたのが、瘡蓋かさぶたみたいだと思つた。
「もう/\、二度と學校を見たうない。」
 太政官はかう言つて、細い眼を涙に霑しながら、頭を抱へて座敷に逃げ込み、それから俯伏き勝に野路をトボ/\と隱居へ歸つて行つた。
 名義だけの妻を始め、家の人は皆彼れの涙を初めて見たと、あとで語り合つてゐた。
 太政官は早速母家の大きな金庫を、隱居へ取り寄せることにした。さうして、もうこれからは死ぬまで母家へは行くまいと思ひ定めた。母家へさへ行かなければ、學校の淺間しい後姿も、厭やらしい背中の瘡蓋も、見ないで濟むと考へた。
 大きな金庫は、牛車に乘せられて、太政官の膝元の大字新田の若い衆によつて運ばれた。赤い揃衣そろへを着た十人餘りの若い衆が、振舞酒にほんのり眼元を紅くして、昔し小學校の棟上の時に、棟木を曳いた人々のやうな扮裝で、牛車の綱を手にした。初夏の太陽は麗はしい光を投げて、金庫の兩脇に金粉でおいた丸に柏の定紋が、キラ/\と眩しく光つた。
「やアとこせえーえー。ようーいやな。さアあれわのさツさい。これわのさツさい。……」
 高い音頭の聲が、燃えるやうな青葉の間から湧きあがつて、東の村へも、中の村へも、西の村へも響いた。何事が始まつたのかと、背中に子供をたゞ負んぶして駈け出して來る隣村の人も見えた。
「太政官の隱居の餅撒がある。」と、誰れか言ひ觸らしたものがあつて、子供等がちらりほらり集まつて來たけれど、金庫を運び込んだ後の隱居は、例もの通り空家あきやのやうに靜かで、太政官の大きな姿は窓にも入口にも現はれなかつた。
 赤襦袢の揃衣を着た若い衆の姿が、母家の方の青い麥畑の間をうろ/\して、時ならぬ蓮華草が咲いたやうに美しかつた。

 青六が太政官に對する壓迫は、これに止まらなかつた。
 天滿小學校々舍新築移轉案といふものが、近日の村會に提出されることになつた。
 斯くと聞いた太政官は、額を土色にして、隱居の天井を睨み詰めた。東方四つの大字の議員等は、頻りに隱居へ出入りし始めて、一粒選りの上米の飯を大きな飯櫃に五人前取り寄せることもあつた。梅鉢屋の小僧が御膳籠を擔いで、酒肴を隱居に運び込むのを、村役場の重吉が鋭い眼で睨んでゐることもあつた。
 臨時村會は、ある日の午後四時、小學校の放課後から六學年の教場で開かれて、校舍新築移轉案が議題に上された。例の蒼白い顏に得意の色を漂はして、チヨコナンと議長席に着いた青六村長を眞正面にした議席から、六番と書いてある三角の木の前に、寺田の阿呆息子利一郎は起立して喋舌り出した。
「……中央に偏するといふことは馬鹿氣たことであります。成るほどさしでキチンと當つて見れば、本村の中央はこの邊かも知れませんが、如何に中央だと言つても、こんな松林の中に學校を建て、役場を置くといふことは、即ち中央に偏するといふものです。大字中の村は、昔しから本村の中央市場でありまして、天滿宮の所在地であり、代官屋敷の所在地でもあつたのです。維新後も中の村には郵便局あり巡査駐在所あり、また旅館、料理店の如きも、中の村の外にはないのであります。然るに、小學校と村役場とがひとり中の村から除外された所以のものは、畢竟本村に眞の自治がなくて、或る一人の大きな男の禿頭から出る私心私情私慾の爲めに、村治を左右されてゐたからであります。……加ふるに最早この校舍は老朽し――イヤ建築の當時から不完全なもので――到底新設備を加へて兒童に新教育を施すに堪へない、宜しくこれを中の村の新敷地に移して、……」
 利一郎の喋舌つてゐる半ば頃から、今までの村會には例のなかつた傍聽人といふものが、續々と詰めかけて來て、それが皆太政官の膝元新田から東四つの大字の百姓ばかりで、眼色に殺氣を帶びてゐるのを、青六村長を始め西方の議員等は只事ならじと見て取つた。
「お前は阿呆やけど、東京へいてたさかい江戸ツ兒(東京辯の事)がえらう上手やな、譽めたる。」
「お前のお間男まをとこしてなア、おとつつあんに足切られて、跛足になつたん知つてるか。」
 傍聽人はこんなことを言つて、口々に利一郎の演説を妨害し始めた。青六は蒼い顏を更に蒼くして、氣が氣でない風に、度々利一郎に眼配せしたけれど、利一郎は血の巡りがわるくて、何んの氣なしに、ペラ/\やり續けた。東方四人の議員はと見ると、靜かに差し俯伏いてゐた。
「何んでもえゝさかいなア、この議案に手を擧げたやつは、其の手え叩き折つてしまへ。よしか。」
 窓の外からもこんな聲が聞えて、大勢の人が來てゐるらしかつた。窓硝子が外からメリ/\破られて、青六の横手へ太い鍬の柄がヌウツと出た。
「よし來た。」とばかり、室内の傍聽人は皆腕まくりをした。
 青六が慄へ聲で採決をすると、利一郎を始め西方六人の議員は、一人も手を擧げ得なかつた。
「本案は否決しました。」
 蚊の泣くやうな聲で言ふと、青六はいたちの逃げるやうにして退席した。
「こら、滿場一致で否決しましたと、何んでかしやがらんのかい。」と、青六を追つて行つた傍聽人があつた。
 青六は一つもやられなかつたけれど、青六に續いて退場しようとした西方の議員は、皆三つ四つ宛傍聽人に擲られた。利一郎は一番多く擲られたさうで、額から血が流れ、野口助役に辨當風呂敷で繃帶をして貰つて歸つた。
 けれども、こんなことで小學校新築移轉の大勢を永久に沮むことは出來なかつた。眞夏にならぬ中にまた臨時村會が召集されて、同じ議案が出た。今度もまた東方の大字から示威運動の傍聽人が押し寄せるといふ噂が高く、それに對抗する爲め、西方の大字からも、鐵砲を擔いだ獵師の一隊を先手にして繰り出すなぞと、怖ろしい大評判が立つたので、一里距つた警察分署から、士官のやうな風をした警部補が三人の巡査を率ゐて警戒にやつて來た。
 けれどもこの時はもう小學校が手狹になつた爲め、村役場は天滿宮境内の勤番所へ移つて來てゐたから、東方の示威運動も此處までは屆かず、西方の鐵砲もほんの噂さだけの空鐵砲で、臨時村會の傍聽人は神主の息子の竹丸たゞ一人であつた。さうして、寺田の利一郎がまた長々しくペラ/\喋舌つた後に、小學校々舍新築移轉案は、四に對する六の多數で、青六の得意氣な口から、堅い聲で可決を宣言するに至つた。
 一月ひとつきからも降り續いた梅雨の中に、小學校の表側の白堊は、ところ/″\醜婦の顏に白粉が剥げたやうになつて、中には竹の下地さへ露出したところも見えたけれど、何うせもう僅かの生命だからと、左官も入らなかつた。先きの長くないことを知つた兒童等は、教室の壁や、廊下の羽目に「へのへのもへ」さんなぞを書き散らした。
 一夜、小使のお道婆が宿直室で、黴臭い蒲團にくるまつて、少しは出かゝつた蚊の唸りを氣にしながら、うつら/\と昔しの色夢を樂んでゐると、こんなところまで樂書に汚れて來た入口の扉をほと/\と敲いて、
「お道つあん、お道つあん。……一寸けてんか。……」と、優しい聲で呼ぶものがあつた。お道は半ば夢中で、まだ若かつた春の頃、情人に臥床をおとづれられた折のやうな風をして、何かなしに扉の錠前を開けると、轉げ込むやうにして入つて來たのは、大きな黒い塊のやうな太政官であつた。油煙の細く立ち騰るカンテラの灯に透かして見ると、單衣の上に黒絽紋付の羽織を引ツかけ、眞白な太い紐を胸高に結んでゐるのが、仰々しく見えた。
「へえ、憚かりさん。おほけに。」と優しく言つて太政官は、ツカ/\と宿直室の隣りの御宸影奉安所の前へ進むと、白いとばりの前に立つて、稍暫く祈念を凝らしてゐた。
 今更に身形みなりのしどけないのに、年にも似ず顏赭らめて、寢衣の上へ帶なぞ締めて來たお道は、前をかき合はせ/\、呆れた顏をして、薄暗がりの中に何かの眼のやうに見える太政官の背中の白い紋を見てゐたが、稍暫くすると、太政官は、
「お道つあん、寢とくれや。大けに。」と、小鳥のやうな聲で言つて、夜風の冷たい前庭へトポ/\と力なげに出て行つた。
 外には淺く霧が浮んで、空には星も見えなかつた。犬の遠吠えも聞えぬ靜けさで、梢から落ちる小さな滴が、涙かとも思はれた。
 二階がなくなつてから、玄關の軒へ持つて來て窮屈に掲げた貴い人の手蹟、「天滿校」の大額の眞下へ行つて、太政官はまた突つ立つて動かずにゐた。
「おやすみなはれ。」
 お道はかう言つて、カタンと扉を締めた。
「ハイお息み。大けに。」
 太政官の聲は、いよ/\細く幽靈のやうであつた。
 丑滿刻ごろから小雨になつて、壞れたトタンのとひを流るゝ水の音が、小鼓こつゞみのやうであつた。
 早曉に起きて、楊子をくはへながら扉を開けたお道は、キヤツと叫んで氣絶しさうになつた。
 太政官は昨晩ゆうべの姿其のまゝで、玄關の「天滿校」の大額の下に、縊れて死んでゐたのである。

「死んでも鼻汁はな垂らさんやうに、鼻の穴へ綿を詰めてる。……矢ツ張りこの人はえらいのう。」
 檢視に來た分署長は、かう言つて譽めた。
 青六が抵當流れに取つた中の村の水利のわるい田地が、小學校の敷地に村へ賣り付けられて、丁度この日に校舍新築の鉋初めが行はれた。
「太政官はえらい人やつた。」
 死ぬとまた人氣が出て、村人は口々にかう言つた。さうして太政官の屍體は村葬で送られた。
 仙太郎や常吉や伊之助や竹丸や、青年會員は皆袴の股立を取つて棺側に隨つた。
 緋衣を着た光遍寺の住職が、珠數を揉み/\、お十念を唱へるのが、母家の前の廣場から、朗かに響き渡つた。
「南無阿彌陀佛。々々々々々々。………………」
 ぢり/\と燒けつくやうな、夏の日の午後であつた。
 小學校の兒童は課業を休み、儀仗兵のやうに列を組んで會葬した。次席訓導淺野は黒い體操服にサーベルを帶びて、先頭に立つた。
 校舍新築の工事もこの日は休んで、大工も左官も會葬した。
「今、ひよつと、太政官が蘇生いきかへつたら、どんなもんぢやらう。……」
 墓場の式場で青六が、えへん、えへんと咳拂ひを挾んで、鹿爪らしく弔文を讀んでゐる時、數乏介老人は、ひやかすやうな調子でかう言つた。

 隱居の後片付あとかたづけをした時、あの清少納言の大幅だけは、う探しても見えなかつたさうである。
(大正四年四月)

底本:「鱧の皮 他五篇」岩波文庫、岩波書店
   1952(昭和27)年11月5日第1刷発行
   2009(平成21)年2月19日第4刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2011年5月27日作成
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