暗くなって来た、間もなく夜だ。
 無期帰休兵のグーセフが、釣床ハンモックから半分起きあがって、小声で言う。
「ねえ、パーヴェル・イヴァーヌィチ。こんな事をスーチャン〔(蘇城、ウラジオの東方約百キロにある炭坑地)〕の兵隊が言ってたっけ。奴の乗ってた船に大きな魚が突き当って、船底をぶち抜いたってね。」
 話しかけられた素性の知れぬ男は、船の病室の皆からパーヴェル・イヴァーヌィチと呼ばれていたが、まるで聞えなかったように黙っている。
 そしてまたしんとする。……風が索具リギンを鳴らし、スクリューが動悸を打ち、波がざざっとぶつかり、釣床がきしむ。が、これにはもうとっくに耳が慣れているので、あたりのものすべてが寐入って沈黙しているように思われる。退屈だ。一日じゅう骨牌かるたをしていた三人の病人――その二人は兵卒で一人は水兵である――も、もう寐入って寐言をいっている。
 どうやら揺れて来たようだ。グーセフの背の下の釣床が、緩やかに上ったり下ったりする。まるで溜息でもしているようだ。――それが一度、二度、三度……。何かゆかにがちゃんとぶつかった。水差しが落ちたのだろう。
「風の奴め、いよいよ鎖から抜け出したぞ……」と、耳を澄ましてグーセフが言う。
 今度はパーヴェル・イヴァーヌィチが咳払いをして、いらいらした調子で返事をする。
「船が魚とぶつかると思えば、風が鎖から抜け出す。……鎖から抜け出すって、一体風は獣かってことよ。」
「正教徒はそんなふうに言うんですよ。」
「じゃ正教徒ってのは、お前も同然物を知らねえ。……勝手な熱ばかり吹きやがって、胸にこう手を当てて、考えてから言わなくちゃいけないねえ。お前さんはわからず屋だよ。」
 パーヴェル・イヴァーヌィチは船に弱い。船が揺れ出すときまって怒りっぽくなって、つまらぬことで当り散らす。だがグーセフの考えでは、腹を立てることなんか何一つありはしない。魚のことにしろ、鎖を抜け出た風のことにしろ、不思議でも奇妙でもなんでもない。山のように大きな魚で背中が※(「魚+潯のつくり」、第4水準2-93-82)ちょうざめみたいに硬いとしたら。また、世界の涯に岩乗な石壁が立っていて、暴れ者の風達がその壁に鎖で繋いであるとしたら。……彼らが鎖から抜け出さないなら、どうしてあんなに海の上を狂い廻って、まるで犬みたいに身もがきするものか。鎖で繋いでないのなら、静かな時は一体どこにいるというのか。
 グーセフは、山のように大きな魚や、赤銹の出た太い鎖のことを長いあいだ考える。やがて退屈になって、生れ故郷のことを考えはじめる。極東で五年も兵隊勤めをして、今そこへ帰って行くのだ。雪で一杯になった、とても大きな池が眼に浮ぶ。……池の畔りに、高い煙突からもくもくと黒煙を吐く赤煉瓦の建物がある。これは陶器工場だ。池の向う岸には村がある。端から数えて五番目の構えから、兄のアレクセイがそりに乗って出て来る。その後ろには大きなフェルトの長靴をはいて、小さな甥のヴァニカが坐っている。やはり大きな長靴をはいた、小さな姪のアクーリカもいる。アレクセイは一杯機嫌だ。ヴァニカは笑っている。アクーリカの顔は見えない。すっかりくるんである。
「わかったものじゃないぞ。子供が寒さで凍えなけりゃいいが……」とグーセフは考える。「神様お願いです」そう呟く、「親をうやまうように、あいつらに智慧と分別を授けてやって下さい。それも、両親ふたおやよりは利口にならぬように……」
「この靴の底あ、変えなくちゃいけねえ」と、病気の水兵が低音バスで寐言をいう。「そうとも、そうだとも。」
 グーセフの想念がぽつんとたたれる。池が消えて、縁もゆかりもない眼無しの大きな牛の頭が、いきなり現われる。馬は歩かず、橇も走らず、ただもう黒い煙のなかに渦を巻く。が、とにかく故郷が見られたので彼は嬉しい。嬉しさで喉がつかえ、身体じゅうがむずむずし、指の先が顫えて来る。
「神様が逢わせて下すったのだ」と譫言うわごとをいう。が、すぐさま眼をあいて、暗闇のなかで水を手探りする。
 彼は水を飲んで横になる。するとまた橇が行く。それからまた眼無しの牛の頭、煙、雲……。こうして夜明けまでつづく。

 暗闇のなかにまず青い円が見えて来る。これが円窓まるまどだ。それからグーセフの眼には、隣の釣床に寝ているパーヴェル・イヴァーヌィチの姿が、だんだん見分けがついて来る。この男は坐って眠っている。横になると息が詰まるのだ。彼の顔は灰色で、鼻は長くて鋭く、痩せこけているせいで眼がとても大きい。こめかみは落ち窪んで、鬚はまばらで、頭の毛は長い。……この顔をいくら眺めても、とても身分はわからない。紳士なのか商人なのか百姓なのか、得体が知れない。表情や長髪から推すと、苦行僧か、それとも俗人の修道士のようでもある。だがその話すことを聞くと、やっぱり坊主でもなさそうだ。咳と病気とむんむんする暑さとで、彼はめっきり弱っている。苦しげに息をついて、乾いた脣をしきりに動かす。グーセフが見ているのに感づくと、彼は、顔をねじ向けて言う。――
「だんだんわかって来たぞ。……ふむ。……もうすっかりわかったぞ。」
「なんのことですかね、パーヴェル・イヴァーヌィチ。」
「つまりだ。……どうも腑に落ちなかったんだよ。君らのような重病人が、安静にしているどころか、こんなむんむんして、焼け焦げるようで、揺れ通しで――つまり一口に言うと、お墓のすぐ手前みたいな船の中にいるのがさ。だが今じゃもうすっかりわかったぞ。……ふむ。……軍医が君らを船に乗せたのは、厄介払いがしたかったのさ。君たちみたいな、犬畜生の世話を焼くのが、もう真平になったのさ……金は一文だって払わないし、うるさい文句は並べるし、それで死なれりゃ矢張り成績にかかわるし、だからつまり犬畜生だな。ところで厄介払いをするとなりゃ造作はない。……まず良心と博愛心に眼をつぶらせておいて、それから船の役人を騙しさえすりゃいい。もっともこの第一のほうは問題じゃない。何しろその道にかけちゃ、俺たちはみんな達人だからな。第二のほうだってちょっとこつを覚えりゃなんでもない。四百人もの丈夫な兵隊や水兵のなかに、五人やそこら病人がいたって目につくものかね。で君らを船へ追い上げる。丈夫な奴の中へ混ぜちまう。大急ぎで点呼をする。どさくさ紛れになんの異状も気づかない。ところが、いざ船を出して見ると、中風だの肺病の三期だのが、甲板にごろごろしている……。」
 グーセフには、パーヴェル・イヴァーヌィチの腹の中が呑み込めない。自分が叱られているのかと思って、言いわけをする。
「あっしが甲板に寝転んだのは、とても立ってる気力がなかったからでさ。はしけから船へ移される最中、えらい寒気がしたんでね。」
「怪しからんことさ」と、パーヴェル・イヴァーヌィチは続ける、「まず不埒ふらち極まるのは、君らがこの長い航海の間とても待ち通せまいことは知り抜いていながら、それを構わず乗せおったことだ。まあ仮にインド洋までは持つとする。だがその先はどうだ。考えても怖ろしいじゃないか。……これが忠実に勤め上げてくれたお礼だとよ。」
 パーヴェル・イヴァーヌィチはとても凄い眼つきをした。さも汚らわしそうに眉をしかめて、あえぎ喘ぎこう言う。――
「奴らは赤膚あかはだになるまで、うんと新聞で叩いてやらなくちゃならん。」
 病気の兵士と水兵は眼を覚まして、三人でもう骨牌をしている。水兵は釣床から半身を乗り出し、兵士はすぐその下にとても窮屈な姿勢で坐っている。兵士の一人は右腕に吊繃帯をして、手頸から先はすっかり繃帯で隠れている。だから彼は、骨牌札を右の腋下か、さもなければ、曲げた肘の間に挾んで、左手で出し入れをする。船はひどく揺れる。立つことも、茶を飲むことも、薬を服むことも出来ない。
「君は従卒だったのかね」と、パーヴェル・イヴァーヌィチがグーセフに訊く。
「そうでさ。従卒でした。」
「ふむ可哀そうに」パーヴェル・イヴァーヌィチはそう言って、悲しげに首を振る、「人間一匹を故郷の巣から引っこ抜いて、一万五千露里も引張って来た挙句に、肺病やみにしてしまう。……それが、それがなんのためだと言うのだ。やれコペイキン〔(「コペック」をもじったもの)〕大尉だの、やれドィルカ〔(「孔」の義である)〕海軍少尉候補生だのと、そういう連中の従卒にする。大した理窟があったものだ。」
「なあに辛い事なんかありませんや、パーヴェル・イヴァーヌィチ。朝起きると長靴を磨く、サモ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルの支度をする、部屋の掃除をする、それだけ済ませりゃ、もうなんの用事もありゃしません。中尉さんは、一日じゅう図面を引いてござる。こっちはお祈りを上げようと、本を読もうと、町へ出ようと、好きに出来まさ。全く、誰もかもこうして暮せたらと思いますね。」
「ふむ、そりゃいい。中尉は図面を引く。君は一日じゅう台所に坐って、くよくよ故里くにのことを考える。……なるほど図面か。……いや図面どころじゃない。人間の生活のことだ。人生二度とは生れて来られない。大事につかわなくちゃならん。」
「そりゃ勿論、パーヴェル・イヴァーヌィチ、悪い人間はわがうちにいたって兵隊に出たって、どこだって大事にされやしません。だがきちんとした生活をして、よく人の言いつけを守りさえすりゃ、誰が酷い目に逢わせるものかね。士官さん達は教育のある、物のわかった人間だもの。……五年が間、営倉へぶち込まれたことなんぞ一度だってないさ。殴られたことも、忘れもしねえが、たった一度きりでさ……。」
「なんで殴られたのだ。」
「喧嘩をしたんでさ。どうもこの拳固が苦労の種なんでね、パーヴェル・イヴァーヌィチ。シナ人の苦力クーリーが四人、うちの中庭へはいって来たんです。薪を運んで来たんだったかどうだったか、覚えちゃいませんがね。とにかく退屈だったんで、ちょいとこの拳骨を使って見たんでさ。一人なんざ鼻血まで出しやがってね、始末の悪い奴でさ。……それを中尉さんが窓から見て、怒っちまって、耳ん所へがんと来ました。」
「お前も馬鹿な男だなあ、可哀そうに……」とパーヴェル・イヴァーヌィチは呟いた。「さっぱり物がわからないんだ。」
 揺れが激しいのですっかり弱ったと見え、彼は眼をつぶった。頭を後へがくりとやるかと思うと、胸の上へごくんと落す。二三度横になろうとしたが、どうにもならない。横になると呼吸が苦しいのだ。
「なんだってまたそいつらを殴ったんだね」と、暫くして彼は訊いた。
「なんでもないんでさ。ちょうどはいって来たから、やっちまったんです。」
 そしてまたしんとする。……骨牌の三人組は、怒ったり呶鳴ったりしながら二時間もやっていたが、やはり揺れるので参ったらしい。札を投げ出して横になった。またグーセフの眼には、大きな池や工場や村が浮ぶ。……また橇が行き、ヴァニカが笑い、お馬鹿さんのアクーリカが毛皮外套の前をあけて、足を突き出す。『みんな御覧よ、あたしの靴はヴァニカみたいなお古じゃないわよ』とでも言うように。
「六つにもなって、まだ分別がつかない」とグーセフは譫言うわごとをいう。「足を出して見せるより、この兵隊の叔父さんに一杯御馳走してくれたらいいに。いい土産みやげを出すぞ。」
 するとアンドロンが火繩銃を肩に、獲物の兎を下げて行く。よぼよぼのユダヤ人イサイチクが、石鹸一箇とその兎を交換しないかと言いながら、後からいて行く。黒いこうしが土間に見える。ドームナが肌着を縫いながら何やら泣いている。するとまた眼無しの牛の頭、真黒な煙……。
 頭の上で誰やら大声を出す。水夫が四五人駈けつける。甲板を何かかさ張るものでも引摺る様子だ。それとも何かがどしんと落ちたのかしら。また駈けて行った。……悪いことでも持ち上ったのじゃないか。グーセフは頭をもたげて、聴耳を立てる。すると、例の三人組がまた骨牌をしているのが見える。パーヴェル・イヴァーヌィチは、坐って脣を動かしている。むんむんする。息をする力もない。喉が渇くが、水は生温くてとても飲めない。……船は相変らず揺れる。
 三人組の中の兵士が急におかしな様子をする。……ハートをダイヤだと言い、勘定を間違え、札を取り落し、はては物におびえたようなうつろな笑い声を立てて、皆の顔を見廻す。
「兄弟、ちょいと待っ……」と言いかけてゆかにごろりと寝る。
 皆があわてる。てんでに呼んでみるが、返事はない。
「ステパン。お前、気持が悪いんじゃねえか、ええ?」と、吊繃帯の兵士が訊く、「いっそ坊さんを呼ぶかね。」
「おい、ステパン。水を飲むんだ……」と水兵がいう、「さ、兄弟、飲むんだ。」
「まあさ、なんだって水差しなんか歯にぶつけるんだ」とグーセフが怒る。「まだわからねえのか、冬瓜頭とうがんあたまめ。」
「なんだって?」
「なんだって?」グーセフが口真似をする、「息をしねえじゃないか。死んだのよ。そのなんだってってのは、これよ。なんてまあ間抜けどもだ。主よ、憐れみ給え……。」

 船が揺れないので、パーヴェル・イヴァーヌィチは陽気になった。もう向っ腹も立てない。その顔には傲慢な癇癪持らしい嘲笑の色が見える。まるでこうでも言いたそうだ。――
『さあ、おかしくって腹の皮のよれるような話をしてやるぞ。』円窓は開けてあって、微風がパーヴェル・イヴァーヌィチを吹いている。人声がして、水を打つかいの音がする。……すぐ窓の下で、誰かが甲高い厭らしい声で吠えはじめた。シナ人が歌っているのだろう。
「さあ、港についたぞ」と、パーヴェル・イヴァーヌィチは嘲笑を浮べていう。「もう一と月もすりゃロシヤに帰れる。なあ、親愛なる勇士諸君。俺はオデッサに着いたら、真直にハリコフへ行くんだ。ハリコフには友達の文士がいる。奴の所へ行ってこう言ってやる。――ええ、兄弟、その女の愛だの自然の美だのって、見っともないのはめちまえ。それよりも二足動物の汚ならしさをぶちまけろ。……これが本筋だ……。」
 そこでちょっと何か考えていたが、やがて言った。――
「グーセフ、俺が奴らに一杯喰わせてやったのを知ってるかい?」
「奴らって誰ですかね、パーヴェル・イヴァーヌィチ。」
「つまりその、あいつらさ。……この船には一等と三等しかないんだ。しかもその三等へは、農民――つまり下層民しきゃ乗せないんだ。背広でも着込んで、遠目だけでも紳士かブルジョアに見える奴にゃ、どうぞ一等こちらへと来るんだ。血の出る思いをしようがしまいが、五百ルーブリ積んで出さなくちゃならない。なぜそんな規則になってるんですと訊きたくなる。つまりそりゃ、ロシヤ知識階級インテリの威信を高めてやろうとの思召おぼしめしですかね?『いや決して。ただ品格ある人士には、三等ではとても我慢がなされないから、お通ししないまでです、どうも大変に不潔で乱雑ですから。』なるほど、品格ある人間のことをそれまでに御配慮下さるとは有難いことです。だがたとい不潔だろうが不潔でなかろうが、とにかく私には五百ルーブリなんかありません。私はおかみの金を掠めたこともなく、土民を搾ったこともなく、密輸入をやったこともなく、人間をぶん殴って半殺しにした覚えもありません。だから御判断下さい――私は一体一等に乗る権利があるでしょうか? いやそれどころか、ロシヤのインテリと自認する権利がありましょうか? だが奴らの前じゃ理窟なんか通るものか。……こうなったら騙しちまうほかはない。おれは百姓外套を着て、だぶだぶな長靴をはいて、酔っぱらいの下種面げすづらをして船会社へ行った。――『閣下さあ』とそう言ったんだ、『切符をひとつお貰いしてえで。』……」
「だがあんたは、一体どんな身分なんで?」と水兵が訊く。
「坊主さ。おれの親父は潔白な坊さんだった。世間の偉い人の前へ出ても、ぽんぽん本当を言って退けた。だから随分ひどい目に逢ったものさ。」
 パーヴェル・イヴァーヌィチは話し疲れて息ぎれがする。がまだ話し続ける。
「そうだ、おれは本当と思ったことはぽんぽん言ってのける性分だ。……おれに怖いものは何一つない、誰一人ない。こういう点じゃ、おれと君らとは随分ちがうな。君らは暗愚で、盲目で、叩きのめされた人間だ。何にも見えないし、また見えてもわからんのだ。……風が鎖を抜け出すと言われれば、そう信じる。犬畜生だ、ペチェネーグ人〔(中世ヴォルガ、ドニエープル、ドナウの間に遊牧生活を営んだトルコ系の民族。近世にはいって近隣諸民族の圧迫を受け、遂にはマジャール族と混淆して跡を絶った)〕だと言われりゃ、そうかなと思う。頸っ玉を殴られても相手の手を舐める。熊皮外套かなんか着込んだけだものが、君らをさんざん掠めた挙句に、茶代に十五コペイカ玉を一つ投げる。それでも君らは、『どうぞ旦那、お手を預かせて』だ。君らは非人パリヤだ、憐れむべき人間だ。……ところがおれは違う。おれの眼はちゃんと明いている。地上遙かに舞う鷲か兀鷹みたいに、おれにはなんでも見えるし、なんでもわかる。おれは抗議の権化だ。圧制を見れば抗議をする。偽善やお為ごかしを見れば抗議をする。思い上った豚を見れば抗議する。おれを黙らせようとしても駄目だ。イスパニヤの宗門改め〔(十五世紀末から、イスパニヤで行われたカトリックの宗教裁判は、峻烈苛酷を極めたので名高い)〕に掛けたって、おれを黙らせることは出来ない。そうとも。……おれの舌を抜いて見ろ、身振りで抗議してやる。穴蔵に叩き込んで見ろ、一里も先から聞えるような大声を出してやる。それとも絶食して死んで、奴らの後暗い良心を一層重苦しくしてやる。殺して見ろ、幽霊になって出てやる。『君は実に煩さい男だよ、パーヴェル・イヴァーヌィチ』と、みんながそういう。おれはこの評判を誇りにしているのだ。極東には三年勤めていただけだが、おれのことは百年たっても忘れずにいるだろうよ。一人残らず喧嘩してやったからな。ロシヤの友達は『帰ってくれるな』と言って来る。だが帰ってやるんだ。意地でも帰ってやる。……そうとも。……これがつまり生活というものだ。これでこそ生活と言えるのだ。」
 グーセフは聴いていない。窓の外を見ている。透明な、柔らかいトルコ玉色をした海面は、眼も眩むような烈日を浴びて、小舟を一つ揺すっている。その舟に、裸のシナ人がカナリヤの籠を高く差し上げて、口々に叫んでいる。――
「歌うある、歌うある!」
 その小舟に、ほかの一艘が寄って来てぶつかった。小蒸気が走り過ぎる。また小舟が来る。これには肥ったシナ人が坐って、箸で米の飯を食べている。海面がものうげに揺れる。白い鴎が懶げに舞う。
「あの肥っちょの頸っ玉へ一つお見舞したいもんだな……」グーセフは肥ったシナ人を眺め、欠伸あくびをしながらそう考える。
 彼はうとうとする。空も海もやはりうとうとしているようだ。時が飛ぶように過ぎる。いつの間にか日が暮れ、いつの間にか暗くなる。……船はもう停っていない。どこか先へ進んで行く。

 二日たった。パーヴェル・イヴァーヌィチはもう坐っていない。横になっている。眼は閉じて鼻は前よりも尖って来たようだ。
「パーヴェル・イヴァーヌィチ」とグーセフが呼び掛ける。「ねえ、パーヴェル・イヴァーヌィチ。」
 パーヴェル・イヴァーヌィチは眼をあけて、脣を動かす。
「加減が悪いんですかね。」
「いいや、なんでもない……」と、パーヴェル・イヴァーヌィチはあえぎながら答える。「なんでもない――どころか――良いくらいだ。……なあ、こうして横にもなれるだろう。……少し楽になったよ……。」
「そりゃ好かった。パーヴェル・イヴァーヌィチ。」
「自分のことに引き較べて、つくづく君らが可哀そうになるよ。……なあ、可哀そうに。おれの肺はしっかりしてるんだ。この咳は胃から来るんでね。……おれは地獄だって堪え通せる。まして紅海なんかなんでもない。そのうえおれは、自分の病気にも奴らのくれる薬にも、批判的な態度を取ってるんだ。だが君らは……君ら暗愚な人間は……。辛いだろうよ。さぞ、辛いことだろうよ。」
 船は揺れない。穏かだ。がその代り蒸風呂にはいったように熱くて息苦しい。話しをするのはおろか、人の話しを聴くのさえ辛い。グーセフは両膝を抱えて、その上に頭をのせながら故郷のことを考える。ああ、こんな蒸暑い中で雪や寒さを思うのは、なんという慰めだろう。橇に乗って行く。にわかに馬が物に驚いて、一散に駈け出す。……道も溝も谷も見境なしに、まるで狂ったように村を駈け抜け、池を越え、工場を過ぎ、野原へ出る。……「抑えろ!」工場の人や通行人が声をかぎりに叫ぶ、「抑えろよう!」だがなんで抑えることが要るものか。身を切るような寒風に、顔を打たせ手を咬ませろ。蹄が蹴上げる雪の塊りを、胸といわず帽子といわず、襟から頸の根っこまで浴びるがいい。橇の滑り木がぎいぎい鳴って挽革や心棒がちぎれて飛ぼうと構うものか。橇が引繰り返って投げ出された機みに、雪堆ゆきやまの中へ真逆様に顔を突込むときは、また一段と壮快だ。それから起き上ると身体じゅう真白で髭には氷柱が下っている。帽子もなく、手袋もなく、帯もほどけてしまった。……人が見て笑う。犬が吠える……。
 パーヴェル・イヴァーヌィチは片眼を薄く開けて、グーセフを見る。そしてそっと訊く。
「グーセフ、お前の司令官は泥棒をしたかね。」
「そんなこと誰が知るもんですか、パーヴェル・イヴァーヌィチ。知りませんよ。あっしらの耳にゃとどかねえもの。」
 それから長い時が沈黙のうちに過ぎる。グーセフは夢を見、譫言うわごとをいい、絶え間なしに水を飲む。口を利くのも厭だ。人の話しを聴くのも厭だ。誰か話しかけはしまいかとびくびくしている。一時間過ぎる、二時間過ぎる。そして三時間。日が暮れる。やがて夜が更ける。が彼はそれも知らずに、相変らず坐ったなりで寒いことを思いつづける。
 誰か病室にはいって来た気配がする。人声がする。が五分もすると、またしんとする。
「天国へ往かしめ給え。永遠とわに安らわんことを」と吊繃帯の兵士がいう。「やれやれ騒々しい男だった。」
「どうしたんだ?」とグーセフが訊く。「誰のことだ?」
「死んじまった。いま上へかついで行ったよ。」
「仕方がねえ」欠伸あくびをしながらグーセフが呟く。「天国へ往かしめ給え。」
「なあグーセフ、お前どう思う」暫くすると吊繃帯がきく。「彼奴あいつ、天国へ往けるかなあ。」
「誰のことだね?」
「パーヴェル・イヴァーヌィチよ。」
「往けるだろうさ。……長い苦しみだったからな。それに何しろ坊主だからな。坊さんというものは身内が多い。それがみんなで祈ってくれる。」
 吊繃帯の兵士は隣の釣床に坐り込んで、小声でグーセフに言う。――
「グーセフ、お前も長いことはねえぜ。とてもロシヤまでは持つまいぜ。」
「医者か助手でもそう言ったかね?」とグーセフがきく。
「うんにゃ、誰も言ったんじゃねえ。だがわかるんだ。……間もなく死ぬ人間は、すぐとわかるものさ。お前は飲みも食いもしねえ。痩せちまって、見るも怖ろしいくらいだ。つまり肺病だあね。何もお前の気を落させようと、こんなことを言うんじゃねえよ。聖餐礼や塗油式がして貰いたかろうと思ってよ、金を持ってるんなら、高級船員へでも渡しておいたほうがいいぜ。」
郷里くにへ手紙が出してねえ……」グーセフは、溜息をつく、「死んでもわかるまい。」
「そりゃわかるとも」と、病気の水兵が低音バスを出す、「死ねば当直日誌へ書き込むんだ。オデッサへ着くと司令官に報告を出す。そこからごうかどこかへ報らせが廻る……。」
 そんな話からグーセフは、気持がそわそわして来る。何か漠然とした願望にさいなまれだす。水を飲んでみる――これでもない。……円窓へいざり寄って、もやもやした熱い空気を吸い込む――これでもない。故郷や寒さのことを考えてみる――これでもない。……しまいには、もう一分もこの病室にいたらきっと息が詰まる、とそんな気がする。
「息苦しいんだ、兄弟……」と彼は言う。「上へ出て見たい。お願いだ、連れてってくれ。」
「よし来た」と吊繃帯の兵士が応じる。「とてもお前にゃ行けねえ。かついでってやるから、おれの頸っ玉につかまりな。」
 グーセフは兵士の頸につかまる。兵士は丈夫なほうの腕で彼を抱えて、上へ連れてゆく。甲板には無期帰休の兵士や水兵が、ごろごろ寝ている。とても沢山いるので、なかなか通れない。
「立ってみな」と吊繃帯の兵士が小声で言う。
「そろそろとおれの後からついといで、シャツに掴まってな。」
 暗い。甲板にもマストの上にも海上にも、燈火一つない。へさきの突端に当直番ウォッチが、石像のようにじっと立っている。その姿はやはり眠っているようだ。船が自由意志に任されて、勝手に進むのかと思われる。
「パーヴェル・イヴァーヌィチは海へ抛り込まれるんだ……」と吊繃帯の兵士がいう。「袋へ入れてどぶんとな。」
「うん、そういう規則だ。」
「だが郷里くにの土の中のほうがいいなあ。とにかくお袋がお詣りに来て、泣いてくれる。」
「知れたことよ。」
 家畜の糞と乾草の匂いがする。舷側には、牛が首を垂れて立っている。一つ、二つ、三つ……八頭いる。小馬も一匹いる。グーセフは撫でてやろうと手を伸ばす。だが小馬は首を振り、歯を剥いて袖に噛みつこうとする。
「こん畜生……」グーセフは怒る。
 二人は静かに舳の方へ歩いてゆく。やがてふなばたたたずんで、黙って上を見、下を見る、上には深い夜空がある。きらめく星と安らぎと静寂がある。それは故郷の村とすっかり同じだ。下には闇と混乱がある。高い波がなぜこう騒ぐのだかわからない。どの波を見ても、われがちに一番高くなろうとする。前に行く波に追いかぶさろうとする。また第三の波がやはり同じ兇猛な醜い姿をして、白いたてがみを光らせてざわめき寄せる。
 海には情けも分別もない。もしこの船がもっと小さく鉄板も薄かったら、波は情け容赦もなく船を叩き潰して、乗っている人間は聖者でも罪人でも残らず一呑みにするだろう。船だってやはり、無分別な残忍な顔つきをしている。このくちばしの巨きな怪物は、行手に立つ数知れぬ波を切り裂いて、まっしぐらに突き進む。闇も風も無限の空間も孤独も、船は何にも怖がらない、一切を物の数ともしない。もし大洋にもその住民がいるとしたら、この怪物もやはり、聖者罪人の見境なしに彼らを圧し潰してしまうだろう。
「ここはどの辺かね?」とグーセフがきく。
「知らねえ。きっと大洋だろうよ。」
「陸地が見えない……」
「そりゃそうよ。何しろ七日しなきゃ見えないって話だ。」
 二人の兵士は燐光を発する白い泡を見つめて、黙って考え込む。最初にグーセフの方が沈黙を破る。
「だが何にも怖しいことはないんだ」と彼は言う。「暗い森のなかに坐っているような、不安な気持がするだけよ。もし仮に今すぐボートを海へ卸して、百露里先へ行って魚を捕って来いと上官が命令すりゃ、俺はやっぱり行くね。それとも今、正教徒が水に落ちたら、すぐその後から飛び込むね。ドイツ人やシナ人なら助けてやらねえ。だが正教徒なら飛び込むね。」
「死ぬのが厭かい?」
「厭だとも。家の奴らが可哀そうなんだ。なあ、家の兄貴はやくざ者だ。大酒は喰うし、女房はやたらに叩くし、親を敬わねえ。俺がいなけりゃ何もかもわやだ。きっと親父やお袋が乞食をするようにならあ。だが兄弟、俺の脚はもう立っちゃいられねえ。それに、ここだって蒸暑いや。……降りて寝よう。」

 グーセフは病室へ戻って、釣床に横になる。相変らず漠然とした願望に責められて、一体どうしたいのか自分でもわからない。胸が圧しつけられる。頭ががんがんする。口が乾いて、舌も満足に動かせない。うとうとするかと思うと寐言をいう。悪夢と咳と蒸暑さに疲れ果てて、明方近くにぐっすり寐入る。兵営で、今しがたパンがかまどから上ったところだ――そんな夢を見る。すぐそのあとから竈へ這い込んで、白樺の浴箒はたき(これで皮膚を叩いて発汗を十分にするのが蒸風呂の慣わしである)〕を使ってよく汗を取る。彼は二日もぶっ通しに眠る。三日目のひるごろ、水夫が二人降りて来て、彼を病室からかつぎ出す。
 彼は帆布で縫いぐるみにされて、火床の鉄棒を二本おもりに入れられる。帆布に縫い込まれた彼は、人参か大根のように見える。頭の方が拡がって、足の方がつぼまっている。……日没前に彼を甲板へ担ぎ出して、板の上に載せる。板の一方の端は舷側に載せてある。他の端は、腰掛に箱を重ねて支えてある。ぐるりには帰休兵や乗組員たちが、帽子を脱いで立っている。
「願わくは御名の尊まれんことを……」と司祭がはじめる。「太初はじめありしごとく、現在いまあるごとく、常久とこしなえに。」
「アメン」と三人の水夫が唱和する。
 帰休兵と乗組員は十字を切って、舷越しに波を覗き込む。人間が帆布に縫いぐるみにされて、これから波に飛び込むのだと思うと妙な気がする。誰も彼もこんな目に逢うものだろうか。
 司祭はグーセフに土を撒きかけて、跪拝する。三人が「永遠とわの記念」を唱和する。
 当直番が板の端を持ち上げる。グーセフは辷り落ちて、真逆様に宙に浮く。それからもんどり打って、ぼしゃんと行く。泡に蔽われて、一瞬間はまるでレースを着たように見える。が、その瞬間が過ぎると波間に消える。
 彼はぐんぐん底へ沈んで行く。行き着くだろうか。底までは一里もあるという。百ひろほど沈むと、次第に速度が緩んで、まるで思案でもするように拍子ひょうしを取って揺れる。そしてもう潮に押されて、下よりは横の方へぐんぐん流される。
 やがて魚の群に出逢う。「水先案内パイロット・フィッシュ」〔(鰤の類 Naucrates ductor 鱶の先頭に立つのでこの名がある)〕と呼ばれる魚だ。黒い物を見つけると魚達は化石したように立ち停る。そして一斉に廻れ右をして消え失せる。一分もたたぬうちに、彼らは矢のような早さで再びグーセフめがけて襲いかかる。そしてぐるりの水を電光形にきはじめる……。
 その後から別の黒い物があれられる。これはふかだ。勿体振った渋々の様子で、グーセフなどは気にも留めぬふうに下を潜って泳ぎ寄る。グーセフは仰向いたままぐうんと沈む。すると鱶は腹を返して、温かな透明な水に甘えながら、ものうげに口をあけて二列の歯並びを見せる。「水先案内パイロット・フィッシュ」は有頂天だ。その先はどうなることかと、立ち停って見物する。鱶はちょっと屍をいじってみて、さも厭そうに、下から口を当てて用心深く歯を加えると、帆布は頭から足の先まで真縦に裂ける。錘の鉄棒が一本抜け出て「水先案内」達を脅かし、鱶の横腹に当る。そして見る見る底へ沈んで行く。
 そのとき天の方では、日の沈む側に雲がむらがっていた。その一つは凱旋門に似ていて、次のはライオンに、三番目のは鋏に似ている。……雲の後ろから、幅のひろい緑色の光が射して、空のなかばまでとどいている。暫くすると、この光に紫色の光が来て並ぶ。その隣には金色のが、それから薔薇色のが。……空はやがて柔かな紫丁香花色ライラックになる。この魅するばかりの華麗な空を見て、はじめ大洋はしかめ面をする。が間もなく海面も、優しい、悦ばしい、情熱的な――とても人間の言葉では名指すことも出来ぬ色合になる。

底本:「チェーホフ全集 8」中央公論社
   1960(昭和35)年2月15日初版発行
   1980(昭和55)年6月20日再訂再版発行
※「寝」と「寐」の混在は、底本通りです。
入力:米田
校正:阿部哲也
2010年9月6日作成
2012年2月21日修正
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