光線の明るく射す室と、木影などが障子窓に落ちて暗い日蔭の室とがある。
 其等それらの、さま/″\の室の中には生活をことにし、気持を異にした、いろ/\な、相互いに顔も知り合わないような人が住んでいる。
 にぎやかな町に住んでいる人は、心を浮き立てるような笛や、ラッパの音や、楽隊の音色や、または、夕暮方の電車の音などに耳を傾けて、あてない空想に耽ったり、また、華かな瓦斯がす燈火ともしびのつく頃の夜の楽しさを思うて、気がうき/\として、隣りや、向い筋から聞えて来る琴や、三味線の音色に、何んとなく、夢を見るようなうっとりとした気持になって、自分も、手にしていた紅いきれを傍にやってほつれ髪を掻きあげながら、ほうっとした顔付で三味線にあわせて口ずさむ女もあろう。
 また、さびしい、室の裡に物思いに沈んで、じっと下を見つめて、何事をか考えている、青い顔の年老としとった女があろう。窓の障子の上には、夕暮方の光線がぼんやりとにじんで、頭には幾分か白髪も交って頬に寄った小皺が目立って見える……室のうちには、傷いた道具がわずかばかり並べられてあるばかりで、目を惹くような貴重のものも見当らない。女は、この広い世界にたゞ独り見捨てられた人のように頼りない様子である。
 一日をうか/\と、おもしろおかしく、何事をも深く心にとゞめ考えもせずに暮らしているものがある。また、悲しみに沈んでしみじみとはかない身の上を思いわずらうものがある。しかも、同じい夕暮の一時を、いろ/\の室の裡に、さま/″\の人が異った気持を抱いて、異った生活をしている。

 賑かな、都会から汽車で二三時間も離れると、極めて淋しい、田舎に行くことが出来る。其処そこには、青い空の下に、独り一軒の家を建て、其のうちには静かに、稀にしか人と顔も合わすことなく日を送っている人がある。遠くへだった、都会の歓楽に酔うて叫んでいる賑かな声も聞かない。また、悲惨な犠牲者の狂い働いている騒がしい響きの混った物音も聞かない。また、二十世紀の科学的文明が世界の幾千の都会に光りと色彩の美観を添え、益々繁華ならしめんとする余沢もこうむっていない。たゞ千年前の青い空の下に、其の時分の昔の人も、こうして住んでいたというより他に思われない極めて単純な、自然のままの質朴な生活をつゞけている人がある。頭を上げて見るものは悠久に青い空の色である。淋しく、西の空に沈んでゆく夕日に地平線の紅く色づく眺めである。草の葉が無心に風に吹かれて飛んでゆく小鳥の影の、いつしか見えなくなる、其黒い点ばかりである。
 私は、田舎にゆくたびに、こういう静かな、淋しい処に産れた人と彼の、繁華な明るい町に住む人といずれが幸福であろうかと考えさせられた。
 静かな、淋しい生活であろう……とか或は賑かな、華美な生活であろう……とか言うのは、これは傍から見てたゞそういうように思うばかりであって、果して其人の心には、どう感じているか立ち入って見なければ分らない。同時にどちらが幸福であるか、また不幸福であるかということは分らないのである。
 たゞ、あきらめ、惑わない人が幸福であろうと思う。……悲しい時に於ても……また喜ばしい時に於ても……のみならず、日常の生活を真に味い得る人のみに限って、人生は、始めて夢でない、空想でないと言い得る。たゞ、生活を考え、感じ、味い得る人に限って、生存の意義が明かにせられたのである。故に、たとえ悲しみに沈み、思いに悩む人も、真に其の悲しみというものを感じ、心に味い得た人は、やはり、其処に生きているだけのいがあるのだ、いくら、富有な境遇に在ても夢のような生活を送っている人もある。
 人生の生活というものは、必ずしも時間的であると、空間的であるとを要しない。単に刹那に、よく人生の生活の意義が明かにせられると信ずる。
 私は、時間といい、また空間という、仮定された思想のために多くの人々が、生活を誤謬の淵底に導きつゝあることを知った。此世に時間というものはない。此の世に空間と名づけられた形あるものもない。ただ、それが観念に過ぎぬと知った時に自分等の生活は、時間と空間の中に営まれているべきものとは思われない。
 たゞ、人生の生活は、感じ、考え、味うのにある。真に感じ、真に考え、真に味い得た刹那にあっては死は決して怖るべき者でない。
 真理は、主観の結晶である、あきらめ、惑わざる瞳の中の色に、閃めく寂しい光りである。――私は、無意味の時間と、労働とをにくむ。而して、考え、感じ、味わんがための怠惰と休息を好み、あきらめ醒めたるものゝ自殺を喜ぶ。
 日は暮れた。夕暮の一時は、私に、いろ/\の室の裡にさま/″\の人が、異った気持を抱いて、異ったことを考えているのであろうことを思わせた。

底本:「芸術は生動す」国文社
   1982(昭和57)年3月30日初版第1刷発行
底本の親本:「北国の鴉より」岡村盛花堂
   1912(大正元)年11月25日初版
   1913(大正2)年6月17日再版
入力:Nana ohbe
校正:仙酔ゑびす
2011年12月31日作成
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