洪次郎
紅子
基一郎

東京市内のある裏通りで、玄関の二畳から奥の六畳へ是非とも茶の間を通つて行かねばならぬ不便な間取りの家。
座敷には瀬戸の丸火鉢が一つと、床の間にヴアイオリンのケースが置いてある。茶の間には粗未な鏡台。羽織を重ねたまゝの女の外出着が、だらしなく壁にかゝつてゐる。神棚の上に、麦藁帽子が仰向けにのつてゐることゝ、座敷と茶の間に跨つて、チヤブ台とも机ともつかぬものが、薬缶とインキ壺とを並べて載せたところとが、なんとなく気にかゝる。

冬の夕方である。

この家の主人洪次郎が、外套の襟を立てゝ、勢よく玄関から上つて来る。いきなり座敷にはいり、中腰で火鉢に手をかざす。


洪次郎  (勝手の方へ話しかけ)驚いたよ。何処へ行つてもみんな留守さ。梶山は昨夜出たまゝ帰らないつていふし、杉野は、親戚へお通夜に行つたといふし、浦田は、たつた今、和服と着かへて出たと云ふんだ。こいつは、大概、行く先がわかつてるんだが、人前だと、あいつ、妙に横平になりやがるから、話がしにくいよ。(話しかけてゐるつもりの相手が、一向返事もせず、姿を現はす様子もないので、そろそろ気がゝりになり、ちよつと、勝手の方をのぞいてみる)おい、ゐないのか。はゞかりか。え? そいぢや何処だ。(間)ゐないんだね。ゐないならゐないつて返事をしろ。(再び、もとの座に帰り、火鉢に手をかざす)なんだ、火がないのか。(諦めて起ち上り、押入の中から掛蒲団を出し、それにくるまつてごろりと横になるが、突然、頭をもたげ)おい、飯はどうするんだ、飯は……。(今度は、頭から蒲団をひつかぶり、そのまゝひつくり返る)
やがて、表の格子が開き、ソプラノまがひの流行歌が、湯上り女の気配を運んで、洪次郎の共同生活者、紅子がはひつて来る。

紅子  (電気をつけると、眼の前に、足の先だけ出して洪次郎が寝てゐる)どうしたの、あんた。何時帰つたの。酔つてるの。(間)酔つてないの。(間)眠てるの。(間)眠てないの。(間)返事をするの?(間)しないの……?
洪次郎  (返事をしない)
紅子  返事をしないのね。ようし……。覚えてらつしやい。(そのまゝ、鏡台の前にすわり、化粧をしはじめる)いゝこと。さういふ態度は、みつともなくつてよ。大人は大人らしくするもんよ。一と月ぐらゐ仕事がみつからないからつて、すぐ失業者の真似なんかしなくてもいゝのよ。もうあと一と月待つてみて、どうにもならないやうだつたら、あたしも働くつて云つてるぢやないの。(極めて爽やかな微笑を残し、勝手の方へはひる)
洪次郎  (のつそり起き上り、これも、勝手の方へ行く)
紅子の声  駄目よ、そんなとこに炭なんかありやしないわ。(間)火を起すんなら、七輪でして頂戴。今瓦斯は使ふんだから……。さ、どいた、どいた……。
やがて、七輪をあほぐ団扇の音。
紅子の唄ふ歌。
しばらくたつと、洪次郎が、十能に炭火をのせ、それを吹きながら現はれる。火鉢に炭をうつす。消えようとするのを、切りに消すまいとして努力する。火が少しづゝ起つて来るにつれて、幾分陽気になる。何時の間にか、紅子の歌に合はせて自分も唄ひ出す。

紅子の声  あ、さつき、電報が来たわ。ちよつと、こゝにあるから取りに来て……。
洪次郎  電報……? 何処から……。
紅子  …………。
洪次郎  誰から来たんだい。
紅子  誰だか……。
洪次郎  どんな電報さ。
紅子  だから、みればいゝぢやないの。
洪次郎  片仮名ぐらゐ読めるだらう。そつから云つて御覧よ。
紅子  誰だか知らないけど、今晩六時に着くつていふ報らせよ。
洪次郎  (やゝ不安げに)六時に……。誰が……。持つて来て御覧。
紅子  今、両手が塞つてるからさ。
洪次郎  (取りに行く)六時つて云ふと、もう六時ぢやないか。
紅子  さうよ。
洪次郎  (電報をみながら出て来る)駄目だなあ、早く云はなくつちや……。もう間に合はないぢやないか。
紅子  (ついて来て)なにが……。
洪次郎  なにがつて、迎ひに行くのがさ。
紅子  モトつて、だあれ……。
洪次郎  困るなあ、不意に来られちや。
紅子  誰なのよ。
洪次郎  まだ、なんにも話してないんだからなあ……。一人でゐることになつてるんだからなあ……。
紅子  一体、誰なのよ。
洪次郎  何時来たんだい、この電報は……。
紅子  お昼過ぎよ。
洪次郎  どうして、今まで、ほうつといたんだ。昼過ぎなら、用意をする暇があつたんだ。
紅子  それより、誰が来るんだか、云つたらいゝぢやないの。
洪次郎  書いてあるぢやないか。兄貴さ。
紅子  お郷里くにの……。だつて……。あゝ、さうか。基一郎のモトね。
洪次郎  それより、電報はこゝをみるんだよ。出した場所がわかるぢやないか。(間)だけど、今時分、なにしにやつて来るんだらう。小遣を送れとは云つてやつたが、東京見物に来いなんて誰も云やしない。
紅子  あんたは、兄さんが、よつぽど怖いのね。
洪次郎  怖くなんかないさ。
紅子  だつて。家を持つた時分でも、兄貴に知れると厄介だつて、そればかり云つたぢやないの。
洪次郎  実際、厄介だからさ。(溜息)
紅子  そんなに心配なの。
洪次郎  君は知るまいが、この兄貴つてやつが普通の兄貴ぢやないんだ。第一年が十も違ふ。
紅子  お父さんみたいなんでせう。
洪次郎  おやぢならおやぢで、また始末がいゝさ。おやぢの名代といふやつだから、つまりおやぢの消極的権能ばかり振り廻すんだ。子供の時分から、僕は、こいつの顔色ばかり見てゐた。お袋は、なんでもあにさん次第だし、楽しみといふ楽しみ、欲望といふ欲望を、悉く、こつちは、兄貴の手に委ねてゐたやうなもんだ。こいつに反抗するといふことは、子供心に、なにか、一切の希望を失ふことのやうな気がしてゐた。小学校に通ふ時分まで、何が恐ろしいと云つて、この兄貴から、「アだぞ」と云つて眼くばせをされるくらゐ、恐ろしいことはなかつた。
紅子  なに、「アダゾ」つて……。
洪次郎  「遊んでやらんぞ」の略語だ。(間)然し、中学を出て、東京へ行きたいつて云ひ出した時、兄貴は、それでも、反対はしなかつた。五年間だけ学費を出してやると云つてくれた。その頃から、兄貴に対する気持も少しづゝ変つて来て、なんとなく温味を感じるやうになつてゐたのだが、音楽学校を出た翌月、約束通り一文も送らんからと云つて寄越した時には、畜生と思つた。だが、然し、それも無理はないのだ。世間見ずの模範青年上りで、税金に追はれながら祖先伝来の山林を手放さず、東京の学校を出さへすれば、望み通りの地位にありつけると思ひ込んでゐたんだ。(間)こつちも、始めのうちは、意地を張つて、無心はおろか、大層景気のいゝことを云つてやつてたもんだから、先生、それを真に受けて、今度は、余計なおせつかいをしだしたんだ。
紅子  お嫁さんを持たせようつて話……。
洪次郎  うん。弟の嫁は、自分が見立てるに限ると思ひ込むところなんか、如何にも、この兄貴らしい。(間)兎に角、さういふ話のあつた後でもあるし、この様子を見せては、またどんな問題が起らないとも限らない。それがいやなんだ。
紅子  例へば、どんな問題……。
洪次郎  どんな問題つて、いくらも面倒な問題があるぢやないか。
紅子  あんたの意志一つで、どうにもならないつていふ問題があつて……。
洪次郎  …………。
紅子  それはないでせう。そんなら……?(間)あんたは、たゞ、兄さんになんか云はれるのが怖いんでせう。
洪次郎  そんなことぢやない。
紅子  さうよ。
洪次郎  その後、金の無心さへしてなければなんでもないんだ。
紅子  ぢや、今日は、あたしがゐない方がいゝのね。
洪次郎  いゝよ、ゐたつて……。さう云はれてみると、これがやつぱり、兄貴に対する昔ながらの気持なんだ。理由なく負目を感じてるんだ。よし、今度こそ、堂々とぶつかつてみよう。正面衝突だ。
紅子  だつて、わざわざ、喧嘩しないだつて、穏やかに済むもんなら済ませたらいゝぢやないの。あたしがゐて、具合がわるかつたら、しばらく、何処かへ行つてあげてもいゝわ。
洪次郎  行くつて、何処へ行くんだい。いゝよ、いゝよ、向うの出方によつて、当り障りのない返事をしとくよ。都合次第で、女中だぐらゐに云つとくよ。
紅子  あたしの都合も考へて頂戴。
洪次郎  無論さ、だから、話が自然にそつちへ行けば、君のことを褒めとくよ。このひとさへゐてくれゝば、細君なんか貰はなくつてもいゝつて云つてやるよ。
紅子  そんなこと云ふと、却つて疑はれてよ。
洪次郎  だからさ、そこは、なんとかうまく云ふよ。これで、もう少し教育のある女ならとかなんとか……。
紅子  あたしが兄さんなら、お前になら丁度いゝぢやないかつて云ふわ。
洪次郎  あ、さうらしいぜ。
なるほど、表の方で、案内を乞ふ声が聞える。

紅子  出てみませうか。
洪次郎  いや、待て。僕が出る。(玄関の方へ行く)
その間に、紅子は、あたりをそこそこに片づけて勝手の方へはひる。

洪次郎の声  そつちは開きません。左の方です。(格子の開く音)あ、兄さんですか。お待ちしてました。お迎ひに出ようと思つたんですが、朝から外へ出てゐて、今帰つたばかりなもんですから……電報は昼過ぎに着いたんださうですけれど……。タクシイでいらしつたんですか……。え? 電車で……。よく、道順がわかりましたね。荷物はこれだけ……? え? キヤベツ? それはどうもありがたう。重かつたでせう、こんなに沢山……。
洪次郎は、兄の基一郎を案内してはひつて来る。

基一郎  見かけより、えゝ家ぢやないか。
洪次郎  狭いんですよ。
基一郎  一人なら、勿体ないくらゐだ。(さう云ひながら、室内を見まはす。女の着物や、鏡台などが、見えない筈はないのだが、わざと知らん顔をして)下宿にゐるより不自由ぢやないか。
洪次郎  さうでもありません。新聞でみると、大分大雪らしいですが、汽車は大丈夫ですか。
基一郎  大丈夫だから、時間通り着いたわけだが、駅の様子が変つとんで、間誤ついたよ。
洪次郎  あゝ、上野ですね、変つたでせう。東京は、丸で、昔の面影はありません。立派になりましたよ。明日、ゆつくり御案内しませう。時に、磯坊は大きくなつたでせうね。
基一郎  大きくなつた。
長い沈黙。

洪次郎  姉さんの眼はどんな風ですか。
基一郎  たうとう、片一方、駄目になつた。
洪次郎  見えなくなつたんですか。
基一郎  原町の医者へ半年も通つたよ。金を棄てたやうなもんだ。
洪次郎  いろいろ、お物入りのところを、どうも……。
長い沈黙。

紅子が茶を運んで来る。

紅子  いらつしやいませ。
基一郎  (黙つて会釈する。じろじろ、紅子と洪次郎とを見比べながら)なんにも、かまふことはいらん。
紅子が再び引込むと、基一郎の表情は、遽かに険しくなり、洪次郎は、眼のやり場に困つて、切りに灰を掻き廻してゐる。

基一郎  (突然)おい、洪次郎!
洪次郎  え?
基一郎  なんだ、あれや……。
洪次郎  あれですか。
基一郎  まさか、女中ぢやあるまいね。
洪次郎  なんにみえます。
基一郎  見える見えんぢやない。ほんとのことを云つてみろ。
洪次郎  (なにか胸につかへて、物が云へないらしい)
基一郎  どうして、おれに隠してるんだ。
洪次郎  (突つかゝるやうに)なんにも隠してなんかゐません。
基一郎  あれや、どこの、どういふ女だ。なにしに此処にゐるんだ。
洪次郎  あれは、僕が、ある処で知り合ひになつた不幸な女なんです。(この時、紅子は、茶の間に忍び込んで、襖の蔭から話を聴いてゐる)両親はあるんですが、子供の時から里子にやられてゐて……。
基一郎  そんなことより、現在、此処でなにをしてるんだ。それを聴かう。
洪次郎  (唇をふるはせ)さういふ風に訊問するのはよして下さい。それに応へる義務が、僕にあると思つてるんですか。
基一郎  うむ、なるほど、これは、おれが悪かつた。実は、さつきから、おれは、お前の方からその話を切り出すのを待つてゐたんだ。お前が、自分の力で、自分の利害問題を処理するのを、おれは別段干渉しようとは思はん。たゞ、おれとして見逃がして置けんのは、お前の素行が、引いて、神原一家の名誉に関する場合だ。おれも、不敏ながら、村の名誉職を勤めてゐる身だ。その弟が、何時の間にか女をこしらへて、自堕落な生活をしてゐるといふことでも、あつちへ知れたら、それこそ、おれの面目は丸潰れだ。
洪次郎  しかし、これには、いろいろ事情があるんです。詳しい話をしないとわかりませんが、さつき云つた通り……いや、それより、最近、僕のところへ来るやうになつた動機を云へば、かうなんです。去年の春でした。ある日の夕方、下宿で、何時ものやうにヴアイオリンの練習をしてゐると、女中に案内されて、若い女が僕の部屋へ訪ねて来たんです。不思議に思つて、訳をたづねると、しばらく、黙つて眼を伏せてゐましたが、実は、と、かう云ふんです。(紅子が笑ひたいのを我慢してゐる)実は、わたくしは、この裏に住んでゐるものですが、先日来、母が重病で寝んでをりますのに、どうも、こちらのヴアイオリンの音が耳について眠られないつて申します。それで、大変申兼ねますけれど、もう少し加減をして弾いていたゞけませんでせうか……。僕は即座に快諾しました。その後、窓から注意して見ると、なるほど、その娘が、氷を買ひに行つたり、時には急いで医者を呼びに行くらしいこともあり、蔭ながら、その看護振りの甲斐々々しさを想像してゐましたが、またある日、今度は、ふと、道傍でその娘と出会つたのです。すると、非常に慌がしさうに、僕の方に寄つて来て、幾分躊ひながら、かう云ふんです。あのう、ほんとに御迷惑でせうけれども、まだ病人が寝つかれないつて申しますから、もうほんのちよつと、音を低く弾いていたゞきたいんですけれど……。僕は、それを聞いて、顔が赤くなりました。
基一郎  何が?
洪次郎  顔がです。顔が赤くなつたんです。僕は、可なり注意をしてゐたつもりなんだがと云つて、極力詫びたんですが、娘には、その態度が気に入つたんでせう。(紅子、危ふく吹き出さうとする)自分は、ヴアイオリンが好きで、毎日、あなたのお部屋から漏れる音を楽しみにして聴いてゐるんだなんて、お世辞を云つてました。それから後は、何時、何処で顔を会せても、きつと向うから笑ひかけるやうになりました。
基一郎  (顔をそむけるやうにして舌打ちをする)
洪次郎  ほんとです。母親の病気がよくなつたからと報らせに来て、その序に、これからヴアイオリンを教へてくれと頼まれた時、僕は、それを断る勇気がありませんでした。
基一郎  よし。もうその先は聞かんでもえゝ。たゞ、その両親といふのは、万事、承知なんだね。かうして、一緒に暮してることも知つてるんだね。
洪次郎  知つてはゐるんでせう、非常に怒つてるさうですから……娘は、どうしても帰らないと云ふんです。母親が、一度、迎ひに来ましたつけ……。
基一郎  何れにしても、このまゝでは済まされんね。どうだ、一つ、この問題は、おれに委せんか。
洪次郎  どういふ風にですか。
基一郎  お前の将来も考へ、その娘さんの身体にも傷がつかないやうにしてやるんだ。こんな、だらしのない真似は、今日限り止せ。後暗い男女関係ほど世間を狭くするものはない。素性のわからん女なぞ、おれだつて、義理の妹と呼びたくないんだ。
この時、紅子が、襖を開けて、つかつかと基一郎の前に進み出る。

紅子  それは、あたくしのことでございますか。
基一郎  (やゝ面喰ひ)さやう。
紅子  素性が、どうおわかりにならないんですの。お調べになりましたんですか。
基一郎  いや、調べなくつても、両親の反対を顧みず、男と勝手に……。
紅子  (かぶせるやうに)男と……。へえ、男でなければ、なんと結婚するんでせう。
基一郎  妙なもんだ。あんた達は、ものゝ云ひ方まで似てゐるな。洪次郎、お前は、暫くあつちへ行つとれ。少し、この娘さんと話したいことがある。
洪次郎  僕のゐないところで、何を云はうつていふんです。
基一郎  それは、あとでわかる。おれにはおれの考へがあるんだ。あつちへ行つとれ。
洪次郎  いゝえ、行きません。
基一郎  なに。
洪次郎  (満身の勇気を振ひ起し)こゝは僕の家だ。
紅子  (なだめるやうに)兄さんがあゝおつしやるんだから、しばらく、二人きりでお話をしてみるわ。大丈夫よ。
洪次郎  僕たちは、なんにも怖れるものはないんだ。(起ち上り、次の間にはひる)
基一郎  (その後でいきなり、襖を開け)そんなところにゐちや、話が聞えるぢやないか。
紅子  お勝手へ行つてらつしやい。向うの方が暖かいわ。
洪次郎は、しぶしぶ勝手の方に姿を消す。

基一郎  わしは田舎物で、話下手だが、よく心持を汲んで下さい。世間並の考へ方から云へば、兄貴が弟の身持について、彼れこれ心配するのは、これや当り前だ。そこを、あんたもわかつて貰ひたい。かういふことになるならなるで、一応、わしに相談があつて然るべきだと思ふから、さつきのやうなことも云ひたくなるんです。しかし、わしは、必ずしも、相手があんただから、反対するんぢやない。物には順序もあり、習慣もあるといふことを云ふまでだ。
紅子  …………。
基一郎  それだから人間が旧いと云はれゝば、わしはそれでもいゝんだ。旧くつても新しくつても、世の中に間違ひさへなければそれでいゝと思つとる。だが、兎角、間違ひは新しい方に多いんだ。
紅子  …………。
基一郎  洪次郎は、云ふまでもなく、わしの弟で、東京へ出て学問をしたゞけに、わしらよりえらいところは十分あるにはあるだらうが、年の若いといふことゝ、気の弱いといふことでは、まだまだ、わしが手を引いてやらんけれやならんと思つとるんです。いくら不服でも仕方がない。実際、その方が結果はいゝ。これは、今迄のことが証明してゐる。落ちついて話をすれば、奴さんも、そこはわかる筈なんだ。この前の手紙にも、これからの生活と闘つて行くためには、まだまだ当分、兄さんの力を藉らんけれやならん。一人前の音楽家として、将来世の中に立てるか立てないかは、一つに兄さんの庇護に俟つ外はないと書いてあつた。
紅子  …………。
基一郎  わしには音楽など、さつぱりわからんから、あいつの才能がどんなものか、これから先、見込があるのかないのか、その辺のことは知らんが、せめて、伸びるものだけは伸ばさせてやりたいと思へばこそいろいろ苦心もしてゐる。打ち明けて云へば、自分たちは食ふや食はずです。誰でも云ふことだが、近頃の農村は全くお話になりません。それも、あいつは知つてる筈です。
紅子  …………。
基一郎  そこで、わしは、もう一と息といふところで、あいつが、道草を食つてくれなけれやいゝがと、そればかり案じてゐるんです。なんと云つても、一番よくあるやつは、つまらん女に引つかゝるといふことだ。女のために身を持ち崩すといふことだ。これさへなけれや、まあ、行き着くところへ行き着けると、わしは思つてる。こんなことを云つちや可笑しいが、弟のために、わしは犠牲になるつもりでゐる。出来ることなら、なんでもするつもりでゐます。
紅子  …………。
基一郎  聞けば、あんたも、洪次郎のことを思つてゐて下さるやうだ。
この頃から、洪次郎は、茶の間に現はれ、そつと耳を澄してゐる。

基一郎  つまりはあれのため、同時に、あんたのためだ。かういふ不自然な、云はゞ余計に苦労の多い生活を打ち切つて、ひとつ、あいつに、みつちり、勉強させてやつて下さらんか。
紅子  …………(顔をあげる)
基一郎  わしは無理なお願ひはせん。当分、二人のことを、わしに委せなさい。
この時、洪次郎は、夢中になつて、足下にあつたチヤブ台にぶつかり、薬缶をひつくり返す。そして、慌てゝ、また勝手の方にかくれる。

基一郎  (一段声を低め)わしの意見はかうだ。あんたも、一旦、御両親のところへお帰りなさい。そして時機をお待ち下さい。
紅子  でも、今更、そんなこと、できませんわ。
基一郎  そこを辛棒しなけれや……。なにも、好んで、御両親の反対を押し切る必要はない。もともと、これは、あんたの出方一つなんだ。御両親の反対と云つても、それは、あんたが、わざわざ反対を買ふやうに仕向けたんでせう。
紅子  そんなことありませんわ。頭から、あの方と一緒になることに反対なんですわ。
基一郎  どういふ理由で……。
紅子  つまり音楽なんていふものに理解がないからなんですけれど、ひとつは、母が病気の時に……。
基一郎  うるさい音を聞かされた……。
紅子  さうですわ。そんなこと、ですけれど、理由にならないと思ひますわ。それに、第一、成功しなければお金にならないつていふことが、不安らしいんですの。
基一郎  そこですよ。だから、成功するまで、待つてゝ御覧なさい。
紅子  そんなこと、何時のことだかわかりませんもの。
基一郎  あんたまでが、それぢや心細い。では、わしの方から、ちやんと話をつけるまでお待ちなさい。
紅子  駄目ですわ。誰がなんと云つたつて承知しつこありませんわ。もう、あの人、うちぢやすつかり信用をなくしてるんですもの。
基一郎  どうしてね。
紅子  父なんか、顔を見るのもいやだつて云つてますわ。
この時、洪次郎、また勝手から顔を出す。

基一郎  さうなると、少し面倒だが、しかし、これは、なにかの誤解があるんでせう。何れにしても、万事、初めからやり直す必要がありますね。本人は勿論、兄貴として、わしからも、今迄のことを詫びた上で、更めてお話をしないと、その誤解は解けない。それには、どうしても、このまゝ、あんたが洪次郎のそばにゐてはいけん。どうあつても、ひとまづ、家へお帰りなさい。場合によつては、わしが連れて行つてあげてもいゝ。
紅子  いゝえ、いゝえ、それはお断りしますわ。そんなことをすれば、もう、それまでゝすわ。どんな方法で、身動きができないやうにされるかわかりませんわ。
基一郎  あんたも子供ぢやないんだから、その時はその時で、また決心のつけやうもあるでせう。ことをわけて了解を求め、その上で、どうしても止むを得んとあれば、わしも、黙つて、あんた方のすることを許しませう。あんた方の味方にもなりませう。それまでは、わしの義務として、するだけのことはしなけれやならん。
紅子  (泣声になり)わかりましたわ。さういふ風に云つていただくと、覚悟がつけ易うござんすわ。
基一郎  辛いだらうが、思ひ切つて、ひとつ、さうして下さい。
洪次郎は、何時の間にか、襖に耳を寄せてゐる。
突然、紅子が、声を立てゝ泣き出す。

洪次郎  (いきなり襖を押しあけ)どうしたんだ! こんなことになるだらうと思つてゐた。紅ちやん、兄貴の云ふことなんか聴かなくつてもいゝ。
基一郎  まあ、そこへ坐れ。
洪次郎  話は、聞かなくつてもわかつてる。出て行け! 出てつてくれ! いくら兄貴でも、そんな世話まで焼かなくつていゝ。
基一郎  (落ちついて)興奮しちやいかんよ、興奮しちや……。
洪次郎  どんな権利があつて、人の生活に立ち入るんだ。自分のどこに自信があるんだ。人間の運命について、どれだけ先がわかつてるんだ。村役場の収入役をしてゐて、どういふ世界をのぞいたんだ。予備歩兵少尉にどんな哲学があるんだ!
基一郎  なんだと、それは誰に向つて云ふ言葉だ。(つめ寄る)
洪次郎  (やゝ怖じ気づき)別に当はない。
基一郎  馬鹿!
長い沈黙。

基一郎  貴様は、兄貴を兄貴と思はんのだな。小さい時からのことを考へてみろ。河原で一日遊び草臥れて、帰りにおれの背中の上ですやすやと眠つたのは誰だ。
洪次郎  …………。
基一郎  生意気盛りに、村の若いものから手籠めに遭はうとしたのを、おれが飛び出して行つて助けてやつたのは誰だ。
洪次郎  …………。
基一郎  かういふことを数へ上げれば、まだいくらでもあるぞ。
洪次郎  うるさい!
基一郎  うるさければ、云はん。独りで思ひ出してみろ。貴様が小学校へ通ひはじめた頃だ。鉄橋の上で、汽車に轢かれさうになつたのを覚えてゐるか。
洪次郎  …………。
基一郎  覚えてゐるだらう。あの時、汽車を止めたのは、このおれだ。(間)あの頃の貴様は、今の貴様と、おれの眼には、おんなじなんだ。
洪次郎  うるさい!
基一郎  うるさくつても、これだけは云つとくぞ。おれは死ぬまで、お前の手を引いてゝやる。
洪次郎  余計なこつた。さ。帰つてくれ。邪魔だ。
基一郎  そんなら帰る。金を持つて来たんだが、どうしよう。
洪次郎  そんなものは、もういらん。今後、一切、世話にはならんから……。
基一郎  さうか。しかたがない。(ゆつくり起ち上る)
基一郎が、玄関の方へ出て行く間、紅子は、じつと洪次郎の顔を見つめてゐる。が、思ひ出したやうに、基一郎を追つて出る。二人の姿が消える。
洪次郎はぐつたりと、そこに坐る。

洪次郎  (しばらく考へた後)おい、紅ちやん、兄貴から金を受け取つとけ。
基一郎  いや、これは、もうやるわけに行かん。
洪次郎  置いてけ!
基一郎  おれも、久し振りで東京見物をして帰る。その費用に充てることにする。
洪次郎  半分だけ置いてけ!
基一郎  いや、いや、半分は、土産を買つて帰る。
洪次郎  (低い声で)覚えてろ!
玄関の格子が開く音。

基一郎の声  では、紅ちやんとやら、御機嫌よう。
やがて、紅子が現はれる。

洪次郎  (元気を装ひ)あゝ、痛快、痛快……。今迄、頭が上らないと思つてゐた兄貴に、今日は思ふ存分のことを云つてやつた。これで、天下に怖いものなしだ。急に頭のてつぺんが清々すが/\したよ。
紅子  だつて、あんなに云はなくつていゝんだわ。もつとわからない方かと思つたら、なかなか話せるわ。
洪次郎  なにを云やがんでえ。
紅子  結局おんなじこつたけれど、兄さんのおつしやることも、無理はないわ。
洪次郎  僕たちが別れるつていふことかい。
紅子  別れるつていふことにはならないわ。万一話がつかなければ、また家を出て来いつて云ふんですもの。
洪次郎  え?
紅子  あたしたちが一緒になることは、もう承知してらつしやるんだわ。
洪次郎  そんなこと云つたかい。
紅子  それを知らなかつたの、あんたは……。
洪次郎  そいぢや、どうして泣いてたんだい。
紅子  また、一旦、家へ帰るつていふことが、なんだか悲しかつたからよ。
洪次郎  (話が違ふといふ顔をする)
紅子  それと、兄さんの親切が、妙に胸に応へたの。こんなことつて、今迄、なかつたんですもの。
洪次郎  口ではうまいことを云ふのさ。
紅子  違ふわ。あたし、兄さんを信じてよ。これ、御覧なさい。(帯の間から、紙幣を五枚出してみせる)
洪次郎  なんだ、それや……。
紅子  今、玄関で、あたしにつて、下すつたの。
洪次郎  君につて……。(長い間)あ、いけねえ……。(なにか妄念を払ふやうに、頭を振りながら、床の間のヴアイオリンを取り上げ、無暗に弾きはじめる)
紅子  兄さんも、お気の毒よ。折角、はるばる田舎から出てらしつて、今頃、寒いのに、また宿屋をお探しになるんだわ。
洪次郎  …………。
紅子  ねえ、もう一度、呼んで来ませうか。
洪次郎  (ヴアイオリンを投げ出し)畜生! また、頭のてつぺんが重くなつて来やがつた。
――幕――

底本:「岸田國士全集4」岩波書店
   1990(平成2)年9月10日発行
底本の親本:「文藝春秋 第九年第一号」
   1931(昭和6)年1月1日発行
初出:「文藝春秋 第九年第一号」
   1931(昭和6)年1月1日発行
入力:kompass
校正:門田裕志
2012年2月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。