人物
文六      五十五歳
おせい―その妻 四十五歳
廉太―その悴  二十三歳
おちか―その娘 十七歳
常吉―丁稚   十六歳
京作―止宿人  四十二歳
万籟―新聞記者 三十八歳

時  大正×十×年の冬

処  首都の場末
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麺麭屋の店に続きたる茶の間。
文六、おせい、廉太、おちか、食卓を囲み、常吉は少しはなれて別の膳につき、何れも食事をしてゐる。午後六時。

文六  (汁を啜りたる後)おせい、また生姜を忘れたな。浅蜊に生姜、豆腐に葱、台所に貼り付けとけ。
おせい  (飯を頬張りたるまゝ)あれだけおちかに云つといたんだけれど……。縁の取れた目笊の中に、いつかのがまだありやしないかい。
おちか  (指で口から髪の毛を抜き取りながら)常公、お前忘れたね、いやだ。(おせいに)もうないの。
常吉  生姜もでしたか、そいつあ聞きませんでしたぜ。
おちか  この人に用を頼むと、いつでもこれ、しやうがあれや……
廉太  (むきになつて)馬鹿。(空の茶碗をおちかの方に突き出す)下らない洒落はよせ。
おちか  (あつけに取られて、廉太の顔を見る。飯をつけ終るや、投げ出すやうに茶碗を下に置き、わつと泣き出す)
おせい  (廉太に)お前もまたなんだね、それくらゐのことを……。
文六  よせよせ、泣くのは。洒落るつもりでもなかつたらう。おれが贅沢を云つたのが悪かつた。此の寒空に温かいものも食べられない人間がいくらもあるんだ。
おせい  お父ツつあん、御飯は。
文六  うむ、まあ待て。(盃を口に当てる)
(此の時、階段の途中より、梶本京作、薬缶を持ちたる手を差出し、半身を見す)

京作  お湯を一杯どうぞ。
おせい  はい只今。おちか。
おちか  (薬缶を受け取りに行き)すぐ持つて行くわ。(湯を注ぎて、二階に上る)
文六  先生は近頃、一向下へ降りて見えんな。
廉太  先生なんと呼ぶのはおよしよ、お父ツつあん、小学校の教員ぢやないか。
文六  だから先生ぢやいけないのか。
廉太  つけ上るからさ。
おせい  (たしなめるやうに)廉ちやん。
廉太  あんな気に喰はない奴はない。
常吉  ほんとですね、こないだも、あつしのことを……。
文六  お前は黙つてろ。まあいゝさ。世間にや色々の人がゐる。
おせい  廉ちやん、どうかしてゐるよ、今夜は。
(長き沈黙)

廉太  (二階の方を見ながら)おツ母さん、駄目だよ、おちかを呼ばなくつちや。
おせい  (常吉に)お前、すんだら早く片づけて、(時計を見て)夜学へ行くならさつさとおいでよ。
常吉  (黙つて膳を片づけ、勝手の方に去る)
おせい  あの子はなにしてるんだらうね、御飯も食べないで……。(角の立たないやうに)おちか。おちかや。
廉太  何してるつて、わかつてるぢやないか。
文六  (茶碗をおせいの方に差出し)廉坊、飯を食つたら、また将棋でもさすか。
廉太  今夜は教会で丸尾先生の話があるんだ。お父ツつあん行かない。
おちか  (膳と薬缶とを持つて二階より降り来る)なにか用、おツ母さん。
おせい  しまつてからにおしよ。
おちか  だつて、まだお茶を飲んでゐらしつたんですもの。
おせい  いゝから早くおあがり。(独言のやうに)いつまでも片づかなくつて……。
文六  おれもまだ食ふぜ。
おせい  あんたはいゝのよ。ゆつくりおあがんなさい。
(店先で客の声がする)

文六  (おせいを頤で指す)
おせい  いらつしやい。(かう云つて立上つて行く)食パンを一斤、へい。バタ附とジヤミ附とを半斤づゝ、へい。ジヤミは苺のが生憎切れまして、左様で御座いますか、どうもお気の毒さま。
文六  丸尾さんはどんな話をなさるんだい、今夜。
廉太  どんな話か聞いて見なきやわかるもんか。人類の使命と宇宙の神秘つて云ふ題なんだ。
文六  何んだつて。あの人の云ふこた六ヶ敷くつて、おれなんかにやわからん。そこへ行くと根津さんの話はくだけたもんだな。学問の点ぢやどうか知らんが、成る程と云はせるだけえらいな。
廉太  僕らが成る程つて云はないから同じこつた。あんな説教なら聞かない方がましだ。
文六  なかなかさうぢやあるまい。あの人はお前、丸尾さんなんかよりや、イエス様に近い人だね。云ふことは兎も角、第一することが違ふ。あの人には見栄を飾ると云ふところがない。丸尾さんは、親の仇でも討つたやうな顔をして懺悔をするぢやないか。
廉太  懺悔をすると云ふことが愉快なことだからさ。
文六  さあ、そいつはどうかな。
廉太  まだそんなとこがわからないのか。
文六  お前はもうわかつてるのか。
おせい  (入り来る)をかしなお客さん。店先で面白い話をするの。奥さんが病気なんだつて。それで毎晩食パンを買つて帰るの。ハイカラな奥さんと見えるわね。処が、バタ附を買つて帰ると、ジヤミ附がいゝつて云ふんですつて。それから、ジヤミ附を買つて帰るとバタ附でなくつちやならないんですつて。だから、今晩は、両方買つて帰るつて云ふの、それもね、一緒に出しちや面白くないから、初め一方を出して……
廉太  (ぷいと立ち上り)面白かないよ。そんな話。
おせい  (むつとして)おや、この子は気でも狂つたのかい。
文六  (まあまあ、うつちやつとけと云ふ合図をする)
廉太  (鳥打帽と頸巻とを取りて)一人で行くよ。(出で去る)
文六  廉坊。
廉太  (姿を見せず)あゝ。
文六  一寸。
おせい  (黙つて膳を片附け出す)
おちか  (台所に立ち去る)
廉太  なんだい。(閾の処に立ちたるまま、返事を待つ)
(稍長い沈黙)

文六  説教は七時からだらう。(間)機嫌を直して出て行け。(間)まあ、すわれ。
廉太  (しぶしぶ火鉢の側にすわる)
文六  顫えてるぢやないか。(間)ぢや、今年もう一度受けて見ろ。三度目の正直つて云ふこともある。
廉太  学校なんか、行かないだつていゝや。その代り、僕のやりたいことをやらしてもらは。
文六  何をやるんだい。神学か。
(長い沈黙)

廉太  お父ツつあん、僕、書生に行つてもいゝかい。
文六  書生。
廉太  丸尾先生が勉強さしてやるつて云ふんだけれど……(間)何んだか、かうしてると、わからないことだらけで、いやになつちまふんだもの。
文六  だから、大学で、そのわからないことを教はるんぢやないか。
廉太  大学なんて駄目だとさ。僕のわからないことつて云ふのは、そんなことぢやないんだ。学問つて云や学問だけれど、本で覚える学問ぢやないんだ。人生問題なんだから……。
文六  人生問題か。さうか、そいつは困つたなあ。
廉太  自分の哲学、自分の宗教と云ふものがなくつちや、なんにもならないんだからなあ。
文六  自分のね。ぢや、キリスト教は誰の宗教なんだい。
廉太  だからよ。人のキリスト教ぢやいけないんだ。自分のキリスト教といふものがなくつちや。
文六  そんならキリスト教でなくつたつていゝぢやないか。
廉太  聖書より立派な教はないよ。
文六  そんなら、そのとほりにすれやいゝぢやないか、みんなが。
廉太  解釈のしかたが違ふんだ。どうにでも解釈が出来るんだ。だから、そこよ、自分のいゝと思ふ解釈でなければ値打がないわけさ。
文六  自分でいゝと思つても、どうだかわかりやしない。
廉太  そこは信念よ。自分でいゝと思つたことは、神が命じることなんだ。
文六  さう思つてれや世話はないな。お前、神様つて云ふものが、ほんとにあると思ふかい。
廉太  神がなけれや、宇宙はどうしてできたんだい。人類はどこから生れたんだい。
文六  猿からつて云ふぢやないか。
廉太  なんだ、そりや一世紀前の学説ぢやないか。ぢや、その猿は、前何から生れたんだい。
文六  猿か、猿はお前、猿よ。
廉太  (横を向き)馬鹿な。
文六  ぢやお前に聞くがね、人間がみんな死んでしまつたら、神様はどうするんだい。
(長い沈黙)

廉太  神様か、神様はそんなことはしないよ。神は創造者だ。破壊者ぢやない。
文六  さうとばかりは云へないぜ。
廉太  戦争か、地震か、それや、新しい世界を建設する為めの破壊よ。
文六  だからさ、人間なんて奴をみんな殺してしまつて、それよりましなものを造らうなんて云ふ気を起さないとも限るまい。
廉太  (両手で頭をかゝへ、しばらく考へ込む)
(おせい、おちか、縫物をし始める)

文六  それは神様が人間を造つたものとしてだよ。(間)処が、神様は人間が造つたのかもしれない。神は人間の心に宿るとまで云ふぢやないか。すると、人間がみんな死んでしまへば、神様なんて云ふものもなくなつてしまふわけだ。
廉太  それやさうよ、(間)む、待てよ。丸尾さんに聞いて見ら、そいつあ。
文六  聞いて見な。
廉太  おツ母さん、本を買ふんだから弐円おくれ、来月は何にも買はないよ。
おせい  本、本つてお前、こないだから幾冊買ふの。
文六  出してやれ。
おせい  お二階の先生が本ならいくらでも貸してやるとおつしやるんだから……(帯の間より金を出して渡す)
廉太  駄目だい、あいつの持つてるやうな本は……(おちか、反感を含んだ眼で廉太を見上げる。廉太、之には気づかず)「結婚と恋愛」か。そんなものは読みたかねえ。(おちか、ハツとして再び廉太を見上げる)ぢや行つて来ら。(立ち上り出で去る)お客さまだよ。(廉太の声が聞える)
おちか  (立つて行く)いらつしやいまし。
おせい  (文六のそばに躙り寄り)今晩はね、お父さんに少し相談したいことがあるの、(店の方を頤で指し)おちかのことでね。
文六  おちかがどうしたんだい。
おせい  (うつむいて)実はね、お父さんに済まないことが出来ちやつたの。
(文六の不安と云ふよりも寧ろ悲痛な表情、長い沈黙)

文六  (暗い想念を追ひ払ふやうに)なんだい。
おせい  おちかは、まだお父ツつあんに云つてくれるなつて云ふけれど、ほうつて置くわけにも行かないし、尤もまだ、はつきりさうとは云へないんだけれど――まあ、あたしの見たところでは、やつぱりさうらしいの。
文六  (恐る恐る)さうらしいか。
おせい  えゝ。
(沈黙)

文六  (二階を頤で指し)先生か。
おせい  まさかと思つたけれど……
(おちかの影が障子に映つてゐる。動かない)

文六  (それを見て、荒々しく)おちか。ここへ来い。
おせい  もう出来たことは仕方がないんだから、あんまりひどいことを云はないでね。腹も立たうけれど、あの娘ばかりが悪いんぢやない、あたしにも重々罪があるんだから……。
文六  (その言葉が耳にはいらないやうに)おちか、来いと云つたら、来ないか。
(おちかの啜り泣く声が聞える)

――幕――
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前と同じ。

文六とおせいは長火鉢に向ひ合つてゐる。
おちかは、母親の傍らに、泣き崩れてゐる。
前の場から、時間はさう経つてゐない。

文六  おれには出来ん、どうあつても出来ん、そんな真似は。それぢや、お前、子供の仕業ぢやなくなるぜ。いゝから、見てろ、おれのやることが、いゝか、わるいか、まあ、見てろ。
(此の時、京作、決然たる面もちにて階段を降りて来る。四十を越したる風貌。帽子を手にもち、外出の服装をしてゐる)

文六  (惶てゝゐずまひを正し)やあ、先生、お出掛ですか。寒うごわすぜ。(おせいに、どうかせよと云ふ眼くばせをする)
おせい  (あんたおつしやいよと云ふ眼くばせをする)
京作  一寸出て来ます。(かう云ひながら店先へ出る)
文六  (片唾を飲んで)あの、先生。
京作  (引き戻されるやうに後戻りをして)は。
文六  お急ぎでなければ、一寸只今お話いたして置きたいことが御座いますんですが、御都合は如何でせうか。
京作  いえ、伺ひませう。(座につく、努めて平静を装つてゐる。時々おちかの方を盗み見る)
文六  (おせいに、お前云へと云ふ合図をする)
おせい  (そんなことがあるもんですかと云ふやうな顔附)
文六  今夜はまた格別冷えますやうですな。
京作  (夢からさめたやうに)えゝ。
文六  どうもその……(かう云つたものゝあとが続かず、おせいを見て、泣き出すのかと思ふやうな笑ひ方をする。そして、咳払ひを一つして、京作にお辞儀をする)
京作  (なんのことかわからずに、これも、頭をちよつと下げてお世辞笑ひをする)
おせい  (困つたやうな顔をして火鉢に火をつぎ足す)
文六  (思ひ切つて)実はその……此の度、おちかを(一寸おちかの方を見る)わきへやることになりましたんで……(一同それ/″\思ひがけぬ話がもち上つたと云ふやうな顔をして、文六の方を見る)さういたしますと、自然、お世話も行届かないやうになりますし、家内も(一寸おせいの方を見る)なか/\まめなやうには見えますが、これがまた至つて無精者で(おせい、しかたがなしに、不満と同意とを併せたやうな作り笑ひをする)このあひだも、見てをりますと、先生に差上げる吸物の椀で、隣のブルドツクに飯を食はせてゐるやうな次第で……(京作、眼をみはる)
おせい  (何か云はうとする)
文六  お前は口を出すな。おちかが居りますと、これでまあ、いくらか家の中がきちんと致しますが、これが居りませんやうになりますと、先生のお居間の掃除も、ろくに出来ないと云ふやうなことになつて、穢いお話ですが……。
おせい  お父ツつあん。
文六  え、もうゐるのか。
おちか  (哀願するやうに)お父ツつあん。
文六  (どぎまぎして)早い話が、まあ、先生の方でも御迷惑だらうと、かう存じますんで、それにまた……。
京作  わかりました。つまり、出てくれと仰しやるわけですね。(間)さう遠まはしにおつしやられるとお話がしにくくなりますが、事情はほゞ御察しゝて居ります。わたくしの方からこそ、お指図を仰がなければならなかつたのです。どう云ふお考か、一番大事な点に触れることをお避けになるやうですが、これは是非、わたくしの責任として、解決をつけて置きたいと思ひます。その前に、云はゞわたくしの不始末について、先づ御両親にお詫びを致さなければなりません。(両手をついて恭しく礼をする)おちかさんの将来について、わたくしが望んでゐたやうに、充分の責任を持たせて頂くことも出来ず、処女の矜りを奪つたまゝ、おちかさんの生活から、わたくしが卑怯にも姿を消すと云ふことは、実に苦痛です。それと同時に、わたくしの愛、男としての誓に信頼して、身も魂も捧げて下さつたおちかさんの純潔な心に対して、今更申しわけがありません。(おちかの方に向き直つて丁寧に頭をさげる)
おちか  (啜り泣きながらお辞儀をする)
京作  実を申せば、如何なる事情も二人の仲を裂くことが出来ないやうな、一つの結果を、わたくしは待ち望んでゐたのです。その結果は、二人の愛に勝利を与へるものだと思つてゐたからです。その勝利を見ることが出来ないのはかへすがへすも残念です。然し、その望みは、まだ全く棄てなくともいゝ、さう云ふ気がします。おちかさんのからだに、万一、わたくしの愛の形見が残されてゐたら、それを知るときが来たら、おちかさんはわたくしのものです。わたくしはおちかさんのものです。(だんだん興奮して来る)わたくしは現に結婚してゐる身です。それを否認はしません。しかし、その結婚は名のみの結婚です。わたくしが妻と呼ぶべき女は、病身と云ふ名目で郷里に帰してはありますが、岩のやうなからだと、氷のやうな心の持主です。彼女は、一匹の魚を買ひ、自身は背中のもり上つた肉をさらへ、わたくしには、あばら骨と腸とをあてがふ女です。彼女は、わたくしの職務上必要欠くべからざる時計を質に入れ、隣家の大学生と共に、子安海岸へ海水浴をしに行く女です。それだけならまだよろしい。彼女は、一月分の俸給を受け取るや、月末の払ひも済さずに、それを懐に入れて郷里へ帰つてしまつた女です。(文六、おせい、だん/\この話に引き入れられて、大きくうなづいたりなどする)
文六  お国は。
おせい  紀州だつておつしやつたぢやないの。
京作  さうです、紀州です。蜜柑の産地です。さう云ふわけですからして、つまり……さうです、蜜柑の産地です。
(長い沈黙、京作、涙を拭ふ)

おせい  だん/\お話を伺つて見ると、何とか、もつとどうにか出来さうなもんですがね、お父ツつあん。
文六  しかしお前、かう云つちや何んだが、どんな彼女にしても、きまつた奥さんがあるところへ、娘をおしつけるわけに行かんぢやないか。
おせい  だからお前さん、その奥さんの方をどうにか……
文六  おい/\、何を云ふんだ。先生はまだそんなことをおつしやりはしない。
京作  さう云ふわけですからして、さうです、申しおくれましたが、その方を成る可く早く片をつけまして、更めて御相談を致しますから、それまでどうぞこのまゝで、御厄介になつてゐたいと思ふのですが……。
文六  わたくしは、自分の主義としまして、さう云ふことを黙つてゐることが出来ませんので、成る程、伺つて見れば、御夫婦仲もあまり睦じくないやうなお話しですが、それとこれとは、また問題が違ひますんで。かりにも人の娘をなになさるのに、狐が鶏を浚つて行くやうな、まあ、たとへて見ればですな、(調子が次第に激しくなる。相手を呑んでかゝると云ふところが見え出す)さう云ふ法はありませんな。それぢや何の為に親がついてゐるのかわからないぢやありませんか。
京作  (恐縮して)いや、そこを重々お詫びするわけです。たゞ、考へていたゞきたいのは四十の坂を越したわたくしが、まだ十七と云ふおちかさんを、妻に欲しいなどゝ、どの面をさげてお願ひできませう。
文六  できないとお思ひになつたら、お諦めになるのがほんとうでしたな。
京作  痛み入ります。しかし、そこが買物などゝ違ふわけで、欲しいと思つたら懐算段などはしてをられないのです。世間の親は、娘の婿にと思ふ男のほかは、どんな男でもみんな狐だと見做してゐます。同じ狐の中にも、稲荷大明神のお使もゐるわけです。取られたと思つてゐた鶏が、何羽にもなつて帰つて来たと云ふ伝説が、わたくしの国にもあります。(文六とおせい顔を見合はせる)
文六  何羽にもして返して貰ふのが却つて迷惑なものもあるでせうからな。いや、これもたとへですが、どちらにしても、わたくしどもの娘は、鶏とは違ふんですから、どうぞそのおつもりで。今夜と申すわけにも行きますまいが、明日は早速他へお遷りを願ひます。
おちか  (母親の方を見たる後、また、しく/\泣き出す)
京作  おちかさん、あなたはなんにもおつしやらないのですか。先生はもう行くんですよ。
文六  おちかは何も云ふことはありません。お出かけのところをお引留めしてすみませんでした。さあ、どうぞ御自由に。
京作  さうおつしやられゝば致し方ありません。荷物ごしらへをします。(力なく立ち上り二階に上る。)
おちか  (母親の膝に縋り、おろおろ声にて)おツ母さん。
文六  (京作の姿がかくれるのを待つて、がつかりしたやうに)あれぢやどうにもしやうがない。すつかり見損なつたわい。おちか、あきらめろ。いくら髭ばかり生やしてゐても、あんな男なら亭主に持つな、おせい、お前はどう思ふ。
おせい  さうねえ。今更なんと云つても仕方がないけれど、あゝまで想つて下さるものを……。
文六  お前までなんだ、おせい。男のくせに魚の腸ばかり食はされて黙つてゐるやつが何になる。おちか、お前そんな男がすきか、そんな亭主がいゝか。
おちか  (はつきりうなづく)
文六  いゝことはない。
おちか  (声をあげて泣き出す。時々母親の顔を見上げて懇願するやうな眼附をする)
(此の時、表の方が騒がしくなる。常吉、台所より走り入る。一同、不安と恐怖におそわれて、常吉の方を見、表の方に耳を傾ける)

常吉  聞きましたか。
文六  (無意識に立ち上り)何だ。
常吉  (舌をこわばらして)地球がつぶれてしまふんださうです。
文六  なんのこつた、それや。
(此の時、表の方より、廉太が飛び込んで来る。一同立ち上る)

廉太  お父ツつあん、聞いた。
文六  一体どうしたんだ。
廉太  地球が彗星と衝突するんだつて、あしたの晩、十一時頃だつて、慥かなんだとさ。電車も止つちやつたし、巡査なんか一人も居やしない。中央天文台で今望月博士が発表したんだとさ。
(店の前に群集の叫び声が聞える。一同、店先に出る。二階より梶本京作、麻縄と新聞紙とを手に持ちたるまゝ恐る恐る降り来る)

声  吾輩は、発行部数僅かに六百部を有する都下最小の新聞「吾等の存在」社会部記者、浜木万籟と云ふものである。流言蜚語を弄するものでないことを証明するため特に名乗りをあげて置く。諸君、吾輩は茲に、新聞「吾等の存在」の報道が、人類史の最後の頁を語るべき運命に遭遇したることを衷心誇りとするものである。(「早く先を云へ」と叫ぶものがある)本日午後一時、中央天文台長望月博士は突如天空の一角に一大彗星の出現せるを発見し、其の進路が正しく吾人の地球に向ひつゝあるを知り、助手と共に鋭意速力の算定に努めた結果、同彗星は一分間に二万八千哩を突進し明日即ち大正×十×年二月三十一日午後十一時、吾が地球と衝突すべき必然性を有することを確証したのである。その衝突によつて当然吾が地球が滅亡すべきことは、同彗星の大きさが地球の約七倍であることから推断するに難くない。諸君、学識経験共に豊富にして、人格高き望月博士の専門的見地は、ヘブライの予言者にも優る確かさをもつてゐる。博士は此の空前絶後の凶変を世人に公表すべきか否かについて熟考した。科学者たる博士の信念は、次の如く問題を解決した。(「もうそれでわかつた」と叫ぶものがある)曰く「人類最後の一日を因襲の羈絆より脱せしめよ」と(二三の拍手が起る)博士は直ちに都下の新聞記者を招集して彼等に彼等の最後の役目を果たさせやうとしたのである。悲しい哉、自覚なき彼等新聞記者は、博士の言の終るを待たずして倉皇姿を消し、爾来、一の新聞社も号外の発行を企てるものがない有様である。宜なるかな、諸官省、諸会社殊に軍隊さへ一令なくして解散し、通信交通機関は忽ち途絶し、囚人は脱獄し、僕婢は遁走し、飲食店は掠奪に遭ひ、恨みを受くるものは殺され、見目よきものは犯され、(群集の声次第に高まりて後の句を聴き取り難し)
文六  みんな、こちらへ来い。
(おせい、おちか、常吉之に従ひ座にもどる)

おちか  どうしよう。もう死ぬのね。
おせい  地球がどうなるつて云ふの。
文六  大丈夫だ、騒ぐな。(うろうろする。京作にぶつかりなどする)騒ぐことはない。さて、それではと……みんな騒ぐことはない。
(廉太、浜木万籟を伴ひて入り来る)

廉太  此の人だよ、今演説をしたのは。
万籟  水を一杯飲ませて下さい。(汗を拭ひ一同に会釈する)
文六  さあどうぞ、おちか、早く水をあげろ。おせい、表の戸は……廉太、お前締めて来い。(廉太、店の方に行く)
常吉  旦那、おつかの処へやつて下さい。
文六  黙つて逃げろ、こんな時は。
常吉  (丁寧に手をついて)ぢや行つて参ります。(出で去る)
万籟  (どつかと尻をおろし)みなさんも、立つてないで坐つたらどうです。
(一同、思ひ出したやうに坐る)

おちか  (コツプに水を汲んで来て、万籟に渡す)
萬籟  あゝ、やつと疲れが出て来た。(柱にもたれる)僕は何のためにこんなことをやつてると思ひます。これが新聞記者の務めだと思つてやつてるんでもなければ、勿論名前を売らうと思つてやつてるんでもありません。人類が滅亡して何が義務です。何が名声です。わからないでせう。(淋しく笑ふ)僕は独身です。八ツ山に女がありました。云ふまでもなく売笑婦です。僕はあの女に惚れてゐたのですが、自分だけのものにすることが出来ない。向うもその通りだつたのです。僕は今、その女の家に駈けつけました。あすの晩十一時には、その女と抱き合つて、天の灰にならうと思つたんです。その女の家は、固く戸が締つてゐました。戸の外には百人からの男が、茫然と二階を見上げてゐます。時々誰かれの口から、絶望的に、色々な女の名が呼ばれるのです。同じ名が、違つた男の口から呼ばれるのです。家の中では物音一つしません。僕が会はうとしてゐた女の名が、少くとも十人の口から呼ばれました。僕は、それらの男を一々見る勇気はありませんでした。そのうちに格闘が始まりました。戸を破つて家の中に雪崩れ込む有様を見ました。女の悲鳴を聞きました。僕は逃げ出しました。(沈黙)
廉太  お父ツつあん、僕、一寸出て来るよ。
文六  何処へ行くんだ。
廉太  丸尾さんとこ。
文六  丸尾さんのとこへ行つてどうするんだ。
廉太  あのことを聞いて来るんだ。説教の途中でこんなことになつたもんだから、まだ聞いてないんだ。若し、神がゐなくなるんなら、僕、このまゝ死ぬのはいやだ。
文六  早く聞いて来い。
(廉太出で去る)

万籟  神はあるかないかではない。信じるか信じないかだ。僕は信じない。信じないと云ふことが一つの信仰だ。僕は人類が神を信ずる為めに向上したとは思はない。神を信ずる為めに幸福であり得たとも思はない。最も高い文化、最も楽しい生活は、人類が、自己の力に最も大きな期待を持つた時に生れるのだ。死に瀕して神を祈る心は静かには違ひないが、死に面して己を讃美する華やかな瞬間に及ばない。生への執着は時間的観念を超越してゐる。生命の最後の幕が、歓喜と陶酔の中に閉ぢられるならば、死は一つの休息である。否、寧ろ歓喜と陶酔との連続である、延長である。吾人は、残された一日を如何に過すべきかを考へなければならない。楽しかつたことは繰り返せ。求めて得なかつたものを求めよ、好きな酒は飲め、歌ひたきものは歌へ、踊りたきものは踊れ。
おせい  (酒の用意をする)
万籟  恋なきものは新しき恋を選べ。
京作  (おちかの方に躙り寄る)
万籟  愛するものは何ものも怖れずして進め。
京作  (おちかの手を取る)
文六  (それを見て見ぬふりをする)
万籟  愛さるゝものは、はにかむことなく一切を与へよ。
おちか  (京作の肩にもたれかゝる)
文六  (それを見ぬふりをする)
おせい  (万籟と文六とに酒を注ぐ)
万籟  (それを飲み干して)二日の糧を貯ふるものは一日分を頒ち与へよ。
文六  (立ちて店の方に行き、次で、箱を戸外に出す音がする)
万籟  二人の妻を有するものは一人を放ち譲れ。
京作  (おせいの顔を見る。おせい、きよろきよろ、あたりを見まはす)
万籟  (酔ひたるらしく)人類よ、汝等は今、自ら最後の審判を行はんとするなり。人類よ、汝等の歴史をして光輝あらしめよ。(かう云ひ終りて、あふむけに寝ころがる)
京作  (そつと、その顔をのぞく)
文六  (帰り来りて、此の有様を見て驚く)
おせい  廉坊は大丈夫か知ら。
文六  (何かしら、思ひ当つたやうに、慌てゝ表に飛び出し)廉坊、廉太、おうい、廉坊……(声がだんだん遠くなる)
おちか  (京作の方にすり寄る)
京作  (遂におちかを抱きかゝえる)
おせい  (逃げるやうに走り出で)お父ツつあん……(泣き声になる)
文六の声  (遠くの方にて)廉坊……
――幕――

底本:「岸田國士全集1」岩波書店
   1989(平成元)年11月8日発行
底本の親本:「麺麭屋文六の思案」改造社
   1926(大正15)年12月20日発行
初出:「文藝春秋 第四年第三号」
   1926(大正15)年3月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:門田裕志
2012年1月4日作成
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