たいそう外科的手術げかてきしゅじゅつおそろしがっている、わか婦人ふじんがありました。
 もし、すこしぐらいのいたさを我慢がまんをして、手術しゅじゅつけるなら、十ぶん健康けんこうかえすことができるのを、どうしても、その婦人ふじんは、手術しゅじゅつけることをほっしなかったのです。
 季候きこうわりめになると、婦人ふじんは、あお顔色かおいろをしていました。
「あなたほどのわかさで、そんなあお顔色かおいろをなさっていてはいけません。はや手術しゅじゅつをおけになって、さっぱり病気びょうきなおしておしまいなさいまし。」と、っているひとは、いいました。
「なんとおっしゃっても、わたくしは、手術しゅじゅつけるのがおそろしいのでございます。」と、婦人ふじんは、ひかるメスを、はさみをかんがえると、ぶるいをしました。
おくさん、T町ティーまち有名ゆうめい先生せんせいがあります。このかた手術しゅじゅつなら、まったく安心あんしんしてけられます。けっして二とやりなおしをするようなことはありませんから、ぜひここへいってておもらいになったらいかがですか。」と、こころから、婦人ふじんのことをおもって、いってくれたのでした。さすがに、よわ婦人ふじんであったが、いくらかこころうごきはじめました。
T町ティーまちのなんというお医者いしゃさまでございますか?」と、おしえてくれたひとに、ききました。
M病院エムびょういんといえば、その界隈かいわいらぬものがないほど、有名ゆうめいなものです。」と、そのひとは、こたえました。
「まあ、そんなにいいお医者いしゃさまが、あったのでございますか?」
 婦人ふじんは、なぜはやくそれをらなかったろう。そうすれば、こんなにながあいだ、このやまいくるしまなくってもよかったのにと、きゅうに、もしない、その医者いしゃこころうち尊敬そんけいしました。その彼女かのじょは、いろいろのひとに、T町ティーまちにあるM病院エムびょういんはなしをして、はたして、それはほんとうのことかと、たしかめようとしました。まれにはまったくそのらぬものもあったけれど、またなかには、よくその病院びょういんっていて、「その病気びょうきにかけては、二人ふたりとない名人めいじんだというはなしです。」と、いうものもあったので、彼女かのじょは、いよいよすすんで、その病院びょういんへゆくになったのであります。
 彼女かのじょが、手術しゅじゅつけることを覚悟かくごしたとったときに、彼女かのじょあんじた周囲しゅういひとたちは、それは、よく決心けっしんしたといって、よろこんだのでした。
 そこから、T町ティーまちまでは、とおかったのであります。ものによっても、一にちついやされたのです。じょうぶな叔母おばさんをつきそいにたのんで、彼女かのじょT町ティーまちにゆき、そして、病院びょういんもんをくぐったのでした。
 患者かんじゃひかしつは、たくさんのひとで、いっぱいでした。左右さゆうにすわっている人々ひとびとのようすをきくと、いずれも彼女かのじょおな病気びょうきであるらしいので、いまさら、その名医めいいということがかんぜられたのでありました。
 そのうちに、看護婦かんごふはいって、彼女かのじょのかたわらにきました。
「あなたですか、院長いんちょうさんにてもらいたいと、おっしゃられたのは?」と、看護婦かんごふはたずねました。
「さようでございます。」と、彼女かのじょは、こたえました。
「おどくですが、院長いんちょうさんは、ただいま、ご旅行中りょこうちゅうなんですが……。」
 こう看護婦かんごふがいったとき、わか婦人ふじん顔色かおいろは、落胆らくたん失望しつぼうのために、わりました。彼女かのじょは、どうしていいかわからなかったからです。しばらくだまってかんがえていました。
代診だいしんでは、いけませんか。」と、看護婦かんごふが、いました。
 彼女かのじょは、あれほど、まよったすえに、ようやく決心けっしんをしてきたのを、いまさら代診だいしんにみてもらうまでもないと、いくぶん腹立はらだたしくなりました。
叔母おばさん、わたし、また、くることにしますわ。」といって、彼女かのじょは、がりました。
「せっかく、きましたのに……。」と、叔母おばさんも彼女かのじょ後方うしろしたがうよりしかたがなかったのでした。
 彼女かのじょは、もんるときに、どうして、みんながあのように、代診だいしん満足まんぞくしているのだろう? 院長いんちょうさんには、めったにみてもらえないからかしらんとさえおもいました。そして、彼女かのじょはむなしく、いえにもどってしまったのです。そのふたたび、彼女かのじょが、かけるはずもなかったから、病気びょうきはついになおらずにしまいました。
 ところが、そのになってきくと、M病院エムびょういんでは、院長いんちょうよりも代診だいしんのほうが、はるかに手術しゅじゅつ上手じょうずなので、院長いんちょうには、とき仕損しそんじはあるが、代診だいしんかぎってけっして仕損しそんじがないということでした。
なかのことって、みんなこうしたものね。」と、さすがに、これをきいたとき、婦人ふじんは、歎息たんそくをつきました。いつか代診だいしんより、院長いんちょうえらいとおもった、自分じぶんおろかしさをさとったのでした。

底本:「定本小川未明童話全集 10」講談社
   1977(昭和52)年8月10日第1刷発行
   1983(昭和58)年1月19日第6刷発行
※表題は底本では、「世(よ)の中(なか)のこと」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:仙酔ゑびす
2012年7月16日作成
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