川田雪山、聞書
「土陽新聞」連載、明治三十二年十一月
近頃再びお龍氏に面会しまして後日譚ごじつのはなしが無い事を聞きましたから、拾遺として一ツ二ツ話しませう。文中に私とあるは例に依てお龍氏自身の事と御承知を願ひます。
 十一月旬九
雪山しるす

◎橋本久太夫は大坂に居た頃は妻を二人持て居りました。一人は長崎の女郎、一人は大阪の芸者でした。私が妻を二人も持つてはイケぬ、どれか一人にするがよいと云ふと、見てください、どちらが宜うご座いませうと云ふから私が二人に逢つて見ると、長崎のは国へ帰りたいと云つて居るし、大坂のは親の為めに芸者になつたと云つてましたが顔もよし温厚おとなしさうな女でしたから、帰りたいと云ふのは帰して大坂の方を取れと云ふと橋本も其気になり帰すことにしましたが、サア路用が要る、私しが十四五両なら貸してやると云ふと直ぐ、ソンナラ拝借と手を出しましてネ、ホヽこんな面白い男ですよ、つゞまり帰して大阪のを本妻にしました。お房と云ふ女です。後に私が東京へ出た時高輪でフイと橋本に邂逅めぐりあひ、マア私の家へ来なさいと云ふから二三日世話になりましたが、お房が、あなたのお蔭で酒呑みだけれどマア橋本さんと副つて居ます、お恩返しはこんな時にせねばする時が無い、と云つて親切にして呉れました。自分の所夫をつとだけれど矢ツ張り橋本さん/\とさん付けにして居りました。
◎伏見で居た時分夏の事で暑いから、一晩龍馬と二人でぶら/\涼みがてら散歩に出掛けまして、段々夜が更けたから話しもつて帰つて来る途中五六人の新撰組と出逢ひました。夜だからまさか阪本とは知らぬのでせうが、浪人と見れば何でも彼でも叩き斬ると云ふ奴等ですから、故意わざと私等に突当つて喧嘩をしかけたのです。すると龍馬はプイと何処へ行つたか分らなくなつたので、私は困つたが茲処こゝほぞの据え時と思つて、平気な風をして、あなた等大きな声で何ですねゑ、と懐ろ手で澄して居ると、浪人は何処へ逃げたかなどブツ/\怒りながら私には何もせず行過ぎて仕舞ひました。私はホツと安心し、三四丁行きますと町の角で龍馬が立留て待て居て呉れましたかね、あなた私を置き去りにして余んまり水臭いぢやありませんかと云ふと、いんにやさう云ふ訳ぢや無いが、彼奴等あやつらに引掛るとどうせ刀を抜かねば済まぬからそれが面倒で陰れたのだ。お前もこれ位の事は平生ふだんから心得て居るだらうと云ひました。
◎新宮さんは器用な人でたしか小龍とかいふお方の弟子だつた相でぐわも上手でしたが、或日女が丸はだかで居る絵を書て、腰の辺から股の中の事まですツかり画いて居りました。美男でしたから、君は男振りが好いから女が惚れる、僕は男振りは悪いが矢ツ張り惚れる、などゝ龍馬がてがうて居りました。

◎吉村(寅太郎)さんには私は逢つた事は有りませぬが、龍馬が常に話して居りました。大和へ行く前に京都の骨董屋で緋威ひをどしの鎧を百両で買ふ約束をしてあつたそうですが、旗挙の期日が迫つて急に京都を飛出したので、金は払はずに其鎧を着たまゝ戦つて死んださうです。骨董屋は[#「骨董屋は」は底本では「骨菫屋は」]損をしたが苦にもせず結局うれしがつて、私は土州の吉村に百両の鎧をやつたなどと、近処隣に吹聴して居ましたそうな。
◎龍馬は詩は作らなかつたのです。何時か京都の宿屋で主人が扇を出して詩を書いてくれと云ふから一首作つて書いてやると、側で見て居た薩摩の有馬彦十郎が、君の詩には韻字が無いぞと云ふから、ウム詩は志を云ふ也と云ふから韻字なんか要らぬと云ふと又、名前の下へ印をかねばいくまいと云ふから、袂の中から坂本とつた見印みとめを出して捺いてやつたさうです。龍馬が笑つて話しました。
◎近藤勇は三十一二の年恰好で顔の四角い様な、眉毛の濃い、色の白い、口は人並より少し大きい奸物らしき男でした。寺田屋のお登勢を捕へて新撰組の定宿と云ふ看板を出せと剛情を云つたのですが、お登勢も中々しツかりした女ですから承知しなかつたのです。あの壬生みぶ浪人と云ふのははゞ新撰組の親類の様なもので、清川八郎がかしらで、京都の壬生村に本陣が有つたのです。それで当時は此浪人をみぶらふ/\と云つて居りました。
◎私の父の墓は京都の裏寺町の章魚たこ薬師の厨子つし西林寺と云ふ処にあります。お登勢の死んだのは確か明治ママ年でした。私は東京に居たですから死に目には得逢えあはなかつたのです、残念ですよ。
◎海援隊の船は横笛丸、いろは丸、夕顔丸、桜島丸の四ツで、龍馬が高杉(晋作)さんに頼まれて下の関で幕府の軍艦と戦つた時乗て居たのは此の桜島丸です。いろは丸は紀州の船と衝突して沈没しましたので、長崎で裁判が有つて償金を出せ、出さぬと大分八釜敷やかましかつたのです。此時分龍馬が隊中の者を連て丸山の茶屋で大騒ぎをして「船をられた其のつぐなひにや金を取らずに国をとる、国を取て蜜柑を喰ふ」と云ふ歌を謡はせたのです。ホヽ可笑をかしい謡ですねえ……。
◎長州の長府(三吉慎蔵の[#「三吉慎蔵の」は底本では「三好真造の」]家なり龍馬等其家に寓す)に居た時分直ぐ向ふに巌流島と云つて仇討の名高い島があるのです、春は桜が咲いて奇麗でしたから皆なと花見に行きました。或晩龍馬と二人でこツそりと小舟にのり、島へ上つて煙火はなびを挙げましたが、戻つて来ると三吉さん[#「三吉さん」は底本では「三好さん」]等が吃驚びつくりして、今方向ふの島で妙な火が出たが何だらうと不思議がつて居りました。岸からは僅か七八丁しか離れて居ないので極々小さい島でした。

◎中井正五郎さんは天誅組の落武者で海援隊へ這入つて居たのです。頬髯の生えた威厳いかめしい男でした。平生ふだん隊中の者につて居たさうです……僕は阪本氏の為めなら何時でも一命を捨てるつてネ……果して龍馬が斬られて同志が新撰組へ復讎に行つた時、此の中井さんが真先に斬り込んで花々しく戦つて討死したのです。墓は東山の龍馬の墓の五六間向ふに出来て居ます、海援隊が建てたので……。
◎お乙女あねさんはお仁王と綽名あだなされた丈け中々元気で、らいが鳴る時などは向鉢巻をして大鼓を叩いてワイ/\と騒ぐ様な人でした。あに(権平氏)さんと喧嘩でもする時はチヤンと端坐かしこまつて、肱を張つて、兄さんの顔を見詰め、それはイキませぬ、と云ふ様な調子でした。西郷さんが城山で死んだと聞ひた時、姉さんは大声を揚げてオイ/\と泣き倒れたさうです。コレは後ちに聞きました。
◎龍馬の書いたものも日記やら短冊やらボツ/\ありましたが、日記は寺田屋のお登勢が持つて行くし、短冊は菅野が取て行きましたので、私の手元には此の写真(さきはなしに云へる民友社の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵に似たるもの是也)一枚だけしか有りませむ。それから一ツ懸軸がありました。コレは龍馬が死ぬる少し前に越前へ行つて三岡八郎(由利公正)さんに面会した時呉れたのださうで、私は大事にして持て居りましたが何時か妹が取て行つたなり返してくれませぬ。私は此の写真を仏と思つて毎日拝んで居るのです。
と語り来つて感慨に堪えざるものゝ如く凝乎ぢつと手中の写真を見詰るので、傍の見る目も気の毒となつて、ソツと顔をそむけると床の間には香の煙りのゆら/\と心細くも立昇るので僕は覚えずも、人間勿読書子、到処不感涙多、の嘆を発するを禁じ得なかつた。

附記

後日譚に、陸奥が近藤長ママの長崎で切腹した知らせの手紙を伏見の寺田屋へ持て来たと書きましたが、コレは伏見薩摩屋敷の誤り、又「大仏の和尚の媒介なかうどで云々」は僕の聞き間違ひで実は粟田青蓮院の寺内、金蔵寺の住職智足院が仲人したので、大仏騒動の折りは唯だ内縁だけであつたそうです。最初から阪崎先生や民友社の誤謬を叱り飛すと大袈裟に出掛けた僕だから今更ら智者も千慮の一失と胡魔化したとて、どうせ諸君が御承知なさるまいからこゝに謹んで正誤致します。御無礼の段は何分真平まつぴら……。
 十一月旬九
雪山識す

底本:「坂本龍馬全集」宮地佐一郎、光風社出版
   1988(昭和63)年5月20日発行
底本の親本:「土陽新聞」
   1989(明治32)年11月26、28、29日
初出:「土陽新聞」
   1989(明治32)年11月26、28、29日
入力:Yanajin33
校正:Hanren
2011年5月19日作成
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