最早や昨年のことになるかと思ふが、私はこの雑誌に『質屋の小僧』といふ文章を書いたことがある。すると、一二ヶ月後、私のその文章を見たと云つて、あべこべに以前その質屋の暖簾をくぐつた頃の私の印象を、その『質屋の小僧』が書いたことがある。その頃から一年程たつた今、彼は既に質屋の小僧でなく番頭であつた。名は金井源蔵と云ふ。
 以前、その小僧時代に私がよく世話になつた金井君が、いつの間にか番頭になると共に、文学青年になつて、私のところへ原稿を持つて来るやうになつた因縁を書いたのが、前記私の『質屋の小僧』の大略であるのだが、私がそんな文章を書いたり、彼がそんな応酬の文章を書いたりしたので、その後私たちは一層会ふ機会が多くなつた。彼はそれから後も一二度『文藝春秋』に投稿したらしかつたが、一度切りで後は採用されなかつたらしい。「規則が変つて、投書は一切取らなくなつたらしいので、」と云つて彼は無邪気な態度で残念がつてゐた。が、私のところへは、ときどき小説とか随筆のやうなものとかの原稿を持つて来ては、それに就いての感想を聞かしてくれといふ習慣になつた。尤も、彼が私のところへ来るといつても、奉公中の境遇であるから月に一度の公休日の時とか二三ヶ月に一度私の家の近所へ店の用事で来た時に二三十分寄つて行く位のことであつた。だから、唯の文学青年としても私は彼に悩まされたことは一度もない。殊に彼の最も好もしいことは、それ等の原稿を私に見せるのに、どこかの雑誌に世話してほしいといふやうな口吻を一度も洩らした事がないことであつた。私はさういふ後進者の原稿を読んで感想なり批評など述べる時に、概して厳しい批評をするのが例である。教師とすると採点の可成り辛い方であつた。だから、金井君の幾つかの原稿を読んだ後でも、褒めたことは一度もなかつたかも知れない。貶した末に、何処かひと所ぐらゐ褒めたといふ程度がせいぜいだつたと思ふ。それにも拘らず、彼は私を訪ねて来て、懐から原稿を出す、彼のは大抵短かかつたから私がその場で読んで、大抵非難して返すと、「はあ、はあ、」とよく質屋の店頭でやる口調を免れない声で、私の云ふことを聞いてゐて、それが終ると、につこり笑ひながら、片手を首の後に廻して、「駄目かなア、むづかしいもんだな、さう云はれるとさうですなア、」と云つて、時に持つて帰ることもあるし、時には「どうか紙屑籠へ、」とそのままにして、さつさと帰つて行くのが常だつた。要するに、私は彼のやうな感じのいい文学好きの青年を見たことがないと云つても過言ではない。
 彼はただ正当の教育を少なく受けた男だけに、つまらないことを知らなかつたり、つまらないことを尋ねたりすることがあつた。つまり、「小説と随筆といふのはどこで違ひますかな、」とか、「小説と小品文の違ひは、」とか、いつた風なことなどがある。私は時として、彼の持つて来た原稿を例に見せながら、「これが小説で、これが随筆だよ、」と分けてやることもあるし、時とすると、「そんなことを考へないで、ただ書きたいと思ふことを、自分の一番書きいい方法で書けばいいんだ、」と答へてやることもあるし、時とすると、「そんな馬鹿なことを聞くものぢやない、」と叱ることもあるし、兎もすると、私も昔彼が小僧時代に店の格子の蔭に坐つてゐた時、私が彼の前に持つて行つた質物を風呂敷のままぽんと投げ出して、「奮発してつけてくれ、」といつた頃と同じぞんざいな口調で、物をいふことが珍らしくなかつた。が、そんな幼稚な質問をするわりに、こんなことをいふと、彼が又これを読んで増長すると困るが、時になかなか一寸したうまい観察もするし、器用にまとまつたものを書くこともあつた。が又、少年時代からずつと商人の店の、而もああいふ種類の商人の店独得の、暗い古風な格子の前に坐つて、余り新しい本を読む暇がなかつたと見えて、飛んでもない古い書き方をしたり、在り来りな見方をしたりすることがあつた。古いのもかまはないが、妙な本や妙な作者の影響を訳分らずに受けてゐるかと思はれるやうなものもあつた。そんな時私は遠慮なく罵倒した。すると彼は、一層しげしげ片手を首の後に廻した。

 大体、元『質屋の小僧』今『質屋の主人』金井源蔵君はそんな風な好青年なのである。今から一ヶ月ばかり前、暫くぶりで彼が訪ねて来て、「いよいよ今度年期もあけ、御礼奉公も済ましましたので、本郷の湯島新花町百〇一番地――天神様の横を半町ほど入つた所です――に自分で店を開くことになりました。この質屋といふのは変なものでしてね、」とそこで又彼は首の後に手を廻しながら、「商売を始めましたからといつて、まあどうぞ御贔屓にぐらゐは云へますが、それもあんまり大きな声ではお願ひ出来ないやうな商売でしてね、……」と云つた。
「なる程、それや困るだらうな。ぢやあ僕も亦時々厄介になりに行くから頼むよ、」と私は仕様事なしに笑ひながら云つたやうな訳なのであるが、彼はそれより前に、今度いよいよ勤めてゐた店の年期があけて、自分で商売を始めることになつたと披露した直ぐ後で、「これからは多少今までよりも体も自由ですし、暇も出来るでせうから、その、文学の方を遠慮なく勉強出来るだらうと思つてるんです、」と云つたのである。
「なる程、君もずゐぶん文学好きだね、」と私は驚いて叫んだ。
 彼はまた首の後に手を廻しながら、「いや、全くですな。しかし、商売をやらないと、……この方は、さし詰め食つて行かなければならない道理ですから、無論一所懸命にはやるつもりですが……」と弁解するやうに云つた。それから、先に述べた質屋開業の広告難のことを話したのである。
 そこで私は彼の尻馬に乗つて、妙なことを人に進める訳ではないが、大体彼はさういふ善良な男であるから、若し万一に入用のことがあつたら安心して彼の店を訪問されんことを、読者諸君に私から改めて紹介する訳である。
 尤もこの文章は決して質屋の広告のために書いたのではない。勘違ひをされては迷惑するのである。文学青年といふと一概に嫌なもののやうに聞えるが、世にはかういふいい意味の、愛すべき文学青年もあるといふことを、私は嘗て一度彼のことをこの雑誌に書いた因縁で、同じ『質屋の小僧』の後日談として、斯くの如く書いたまでである。

底本:「日本の名随筆 別巻18 質屋」作品社
   1992(平成4)年8月25日第1刷発行
   1997(平成9)年5月20日第3刷発行
底本の親本:「宇野浩二全集 第一二巻」中央公論社
   1973(昭和48)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年11月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。