樹の多い山の手の初夏の景色ほど美しいものはない。始めは樹々の若芽が、黒々とした枝の上に緑の点を打って、遠く見ると匂いやかに煙って居るが、その細かい点が日ごとに大きくなって、やがて一刷毛はけ、黄の勝った一団の緑となるまで、日々微妙な変化を示しながら、色の深さを増して行くのは、朝晩眺め尽しても飽きない景色である。
 五月の日に光るかなめの若葉、柿の若葉。読我書屋の狭い庭から、段々遠い林に眼をやって、更にあたりの景色に憧れ、ふら/\家を出るのもこの頃である。明るい日は照りながら、どこか大気の中にしっとりとした物があって、梅雨近い空を思わせる。どこかで頓狂に畳を叩く音のするのは、近く来る大掃除の心構えをして居るのであろう。荒物屋、煎餅屋、煙草屋、建具屋、そういう店に交って、出窓に万年青おもとを置いたしもた屋の、古風なくぐりのある格子戸には、「焼きつぎ」という古い看板を掛けた家がある。そんな町の中に、珍しい商売のしきみ問屋があったりして、この山の手の高台の背を走る、狭い町筋の左右に、寺の多いことを語って居る。その町にある狭い横丁、それは急な下り坂になって、小家がちの谷の向うが、又上り坂で、その先は若葉で隠れて居るようなところもある。
 そういう低みにはきっと小さな寺があって、その門前には御府内八十八箇所第何番という小さな石が立って居るのである。その又寺の裏には更に細い横丁があって、それを曲って見ると、すぐ後ろは高台で、その下が些かの藪畳になって居る。垣根ともだちともつかぬ若葉の樹の隙から、庵室めいた荒れた建物が見え、墓地らしい処も有るので、覗き込んで見ると其の小家の中には、鈍い金色を放つ仏像の見えることもある。そうかと思うと、古い門だけが上の町に立って居て、そこから直ぐ狭い石段が谷深く続き、その底に小さな本堂の立って居るような寺もある。初夏の頃は、その本堂が半ば若葉に埋もれて、更に奥深く静かな趣を見せて居る。
 そういう町を、五月の晴れた朝ぶら/\歩いて居ると、その低い谷底の本堂の前に、粗末な一挺の葬い駕籠が着いて居る。門前に足を止めて見下ろすと、勿論会葬者などの群れは無くて、ただその駕籠をかついで来たらしい二三の人足の影が見えるばかりである。東京では、このごろ駕籠の葬式というものは殆ど見掛けなくなって居る。駕籠の中の棺の上に、白無垢や浅黄無垢を懸け、ほんの僅かの人々に送られて、静かに山の手の寺町を行く葬式を見るばかり寂しいものはないが、これこそ真に死というものの、寂しさ静けさを見る気持がして、色々の意味から余りに華やかになり過ぎた今の葬儀を見るよりは、はるかに気もちの良いものである。私は暫くこの門前に散歩の足を止めて、この景色を眺めて居た。
 昔東京では提灯けといって、言わば狐鼠こそ々々と取片附けるというような葬いは、夜の引明けに出したものだそうであるが、それ程ではなくともこうした朝早くの葬式は、やはり見送る人々の仕事の都合や何かを顧慮した、便宜的な質素な葬式なのであろう。然しお祭騒ぎをされずに、みず々しい若葉の朝を、きわめて小人数の人に護られて来た仏は、貧しいながら何か幸福のようにも思われ、悲しい人事ではあるが、微笑まれもしたのである。この時私はふと何年か昔に、紅葉山人が自分の葬儀の折にこの駕籠を用いさせたことを思い出した。然しそれは万事に質素な其の時分でも、ちと破格過ぎることであった。その折の写真を見ると、流石さすがに当年文壇の第一人者だけあって、銘旗を立てた葬列は長々と続いて居るが、柩はその上に高くかつがれた寝棺ではなくて、文豪と謳われた人の亡きがらを載せた一挺の駕籠が、その葬列の中に、有りとも見えず護られて居るのである。潔癖、意地、り、渋み、そういう江戸の伝統を伝えたといわれる此の人の、これが最後の註文の一つであったかと思ったのは、私もまだ年の行かない頃のことであったが、今はからずもそれを思い出したのである。
 この高台の通りには、幾つかの横丁があって、それは右へも左へも、平地のままにも折れ曲り、又坂道になって降りても行く。冬過ぎる頃、土塀の崩れからいち早く芽を出して早春を感じさせるにわとこの有る寺があったり、土用の丑の日にへちま加持といふのをする古い真言でらがあったり、それらを私は興あることに考えながら静かに杖を曳いて行く。土地に高低のある山の手の町の寺々は、大方山の中腹か、もしくは其の根方に拠って居る。そしてそういう寺の後ろなどの、陰気な湿潤な地域には、極めて細かい家々の建てこんでいるような所もある。今は大方宅地になって居るが、以前は粗末な草花を作っている植木屋がいたり、金魚を作って居る家があったり、昔はこういう辺りから女太夫おんなだゆうなどが出たのではないかと思うような所もある。今でも芝居や映画の中などには出て来るので、若い人達もその姿だけは知って居るが、ぴしゃんと二つに折ったような編笠を、前のめりに深く冠って少しうつ向いた、帯から裾への恰好が馬鹿に良い。その編笠の紐の鹿の、くっきりと映えるような美しいのも居たというが、着物はすべて木綿に限ったもので、あの人達ほど木綿の着物をしゃんと着こなして居た者はないと、亡き母の言った言葉を覚えて居る。花に明ける春の巷、柳ちる夕暮の秋の町、三味線を抱えた意気な姿は、今もなおその時代の物を書く画家や文人に使われて居るが、山の手の隅々には、昔こういう人々の住んで居た所が相応にあるようで、私の散歩の折の空想も、折々はこういう方にも飛ぶのである。

底本:「日本の名随筆90 道」作品社
   1990(平成2)年4月25日第1刷発行
   1997(平成9)年5月20日第6刷発行
底本の親本:「岩本素白全集 第一巻」春秋社
   1974(昭和49)年11月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年11月29日作成
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