後白河法皇の院政中、京の加茂の川原でめずらしい死罪が行われた。
 大宝律には、じょうと、五刑が規定されているが、聖武天皇以来、代々の天皇はみな熱心な仏教の帰依者で、仏法尊信のあまり、刑をすこしでも軽くしてやることをこのうえもない功徳だとし、とりわけ死んだものは二度と生かされぬというご趣意から、大赦とか、常赦とか、さまざまな恩典をつくって特赦を行うのが例であった。死罪者は別勅によって一等を減じて流罪に処せられるのはもちろんだが、そのほかの罪も、流罪は徒罪に、徒罪は杖罪ということになってしまうのである。また検非違使庁けびいしちょうには、布十五反以上を盗んだものは、律ではしばり首、格では十五年の使役という擬文律があるが、それでは聖叡にそわないから、死罪はないことにし、盗んだ布も使庁のほうで十五反以内に適宜に格下げして、十五年の徒役が半分ですむように骨を折ってやる。強盗が人を殺して物を盗んでも、盗んだ品だけを問題にして、人を殺したほうにはなんの刑科もない。法文は法文として、実際においてこの時代には死刑というものは存在しなかったのである。その後、文治二年に北条時政が検非違使にかわって京の名物ともいうべき郡盗を捕まえ、使庁へわたさずに勝手に斬ってしまった。これは時政の英断なので、寛典かんてんに流れた格律に目ざましをくれたつもりだったが、朝廷ではむやみに激怒して、時政を鎌倉へ追いかえすのどうのというさわぎになったような世だから、死刑そのものがめずらしいばかりでなく、死刑される当の人は、中納言藤原泰文やすぶみの妻の公子きんこと泰文の末娘の花世はなよ姫で、公子のほうは三十五、花世のほうは十六、どちらも後々のちのちの語草になるような美しい女性だったので、人の心に忘れられぬ思い出を残したのである。
 公子と花世姫の真影は光長の弟子の光実みつざねが写している。光実には性信親王しょうしんしんのうや藤原宗子のあまり上手でもない肖像画がたくさんあるが、この二人の真影は光実の生涯におけるただ一つの傑作であろう。
 刑台に据えられた花世が着ている浮線織の赤色唐衣からぎぬは、最後の日のためにわざわざ織らせたものだといわれるが、舞いたつような色目いろめのなかにも、十六歳の気の毒な少女の心の乱れが、迫るような実感でまざまざと描きこめられている。
 長い垂れ髪は匂うばかりの若々しさで、顔の輪郭もまだ子供らしい固い線を見せているが、まなざしはやさしく、眼はパッチリと大きく、熱い涙を流して泣いているうちに、ふいになにかに驚ろかされたといった、どこか霊性をおびた単純ないい表情をしている。公子のほうは平安朝季世きせいの、自信と自尊心を身につけた藤原一門の才女の典型で、膚の色は深く沈んで眉毛が黒々と際立ち、眼は淀まぬ色をたたえて従容と見ひらかれている。ふとじしの豊満な肉体で、痩せて霊的な花世の仏画的な感じと一種の対照をなしている。
 いまの言葉でいえば、二人の罪は「尊族殺」の共同正犯というところで、直接に手こそ下さなかったが、刺客を本業にしている雑武士ぞうざむらいを邸へ呼びこみ、尻込みするのを左右から鞭撻して、花世にとっては親殺し、公子にとっては夫殺しの大業をなしとげたのである。あえて当時の律によるまでもなく、尊族殺が死罪になるのはいうまでもないことだが、比類のない不幸と戦いぬいた、この美しい元気な娘が死刑になるなどとは、誰一人思ってさえいなかった。
 寛典に馴れて甘やかされた考えからではなく、妻と娘に殺された、父にして夫なる当の中納言藤原泰文は、かねて放埒無残な行いが多く、極悪人といわざるも、不信心と不徳によって知られた定評のある人物で、名を聞くだけでも眉をしかめるものが少くなかった。のみならず、その妻と娘に現在の父、そうして夫である男を殺させるようにしたのには、徹頭徹尾、泰文のほうに非があるのであって、二人の女性は無理矢理おしつけられ、やむにやまれずそうした手段をとったものである。公平な立場に立てば、公子と花世に罪があるかどうか容易に判定しかねるような性質のものだったから、当然、この二人は寺預けか贖銅しょくどう(罰金刑。少々、高くつくであろうが)ぐらいですむはずだと、誰もみな安心しきっていたのである。
 従三位じゅさんみ藤原ノ朝臣あそん泰文は「悪霊民部卿」という忌名いみなで知られている藤原ノ忠文ただぶみの四代の孫で、弁官、内蔵頭を経て大蔵卿に任ぜられ、安元二年、従三位に進んで中納言になった。比叡の権僧正ごんのそうじょうである弟を除くと、兄弟親族はみなほとんど兵部ひょうぶに関係した職についていたが、泰文だけは異例で、若いころから数理にすぐれて、追々おいおい、大学寮の算博士さんはかせも及ばないような算道の才をあらわした。大蔵卿になってからは、見捨てられていた荘園の荒蕪を処理して宮廷の収入を一躍倍にするという目ざましい手腕を見せたが、その間に抜目なく私財も積み、なお深草の長者太秦うずまさ王の次女の朝霞子あかこを豊饒な山城十二ヶ所の持参金つきで内室に入れるなど、ようやく三十になったばかりで、藤原一門でも指折りの物持になり、白川のほとりに方三町の地幅をとって、そのころまだ京都になかった二階屋の大第だいていをかまえ、たいへんな威勢だったが、忠文の悪名は泰文の代になってもまだ消えず、そのためにだいぶ損をした。
 忠文はそのかみ将門まさかど追討の命を受けて武蔵国へ馳せ下ったが、途中で道草を食っているうちに、といっても余儀ない事情によることだが、将門は討ちしずめられ、なんのこともなく京へ帰還した。忠文としてはそれはそれなりに大いに働いたつもりだったが、大納言実頼の差出口で恩賞が沙汰やみになったことを死ぬまで怨んでいた。臨終の床で、
「かならず怨みをはらしてみせる」
 などと言わでもの怨みをいうあきらめの悪い死にかたをしたが、忠文が死ぬとすぐ、実頼の息子や娘がつぎつぎに変死した。
 平安朝の中期は、竜や、狐狸こり妖異よういや、鳥のつらをした異形の鬼魅きみ、そのほか外道げどう頭とか、青女あおおんなとか、そういった怪物あやしものが横行濶歩する天狗魔道界の全盛時代で、極端に冥罰めいばつ恠異かいいを恐れたので、それやこそ忠文の死霊の祟りだということになって、以来、忠文を悪霊とか悪霊民部卿とかと呼びならし、忠文の一族を天狗魔道の一味のように気味悪がり、泰文が異常な数理の才にめぐまれていることまで、天狗の助けでもあるかのようにいいふらした。
 泰文はこれも面白いと思ったのか、どこかの家で慶事があるとかならず出掛けて行って、
「悪霊民部卿、参上」
 と、中門ちゅうもん口に立ちはだかって、無類の大音声だいおんじょうで見参する。稚気をおびた嫌がらせにすぎないが、輿入れや息子の袴着祝などにやられると災難で、大祓おおはらいをするくらいでは追いつかないことになる。
 泰文は中古の藤原氏の勇武をいまに示すかのような豪宕ごうとうな押出しで、とりわけ声の大きいので音声おんじょう大蔵といわれていたが、一般に、泰文という人間から受ける印象は底知れない薄気味悪いもので、逢魔ヶ時のさびしい辻などではあまり逢いたくないような、なんともつかぬ鬼気を身につけていた。外道頭といって、大入道で、手足が草の茎のように痩せた化物が、夕方通りすがりに血走った大眼玉でグイと睨みつけて行く。それがしの中将などはそれで驚死したということだが、つまりはそういった感じである。いつも眠むそうに眼を伏せているが、時折、瞼をひきあげると、ぞっとするような冷い眼付で相手を見た。武芸に自信のある手練者も、泰文の冷笑的な眼付でジロリとやられると、なんとなく勝手がちがうような気がして、手も足も出なくなってしまう。当代、泰文ほど人に憎まれた男もすくないが、ただの一度も刀杖とうじょうの厄を受けず、思うぞんぶんに放埒な所業をつづけられたのは、そのへんにいわくがあるとみていい。
 凡下ぼんげや一般の庶民は別として、公家堂上家の生活は風流韻事いんじに耽けるか、仏教の信仰にうちこむか、いずれにしてもスタイルが万事を支配する形式主義の時代だったが、そういうなかにあって、泰文はたしかに一風変った存在だった。詩にも和歌にも、わかりもしない文学じみたことは一切嫌い、琵琶や笛の管弦の楽しみも馬鹿にして相手にせぬばかりか、かつて自分の手で拍手かしわでを打ったことも、自分の足を寺内へ踏みこませたこともないという徹底した無信心で、そのためにも評判を悪くした。実際よりも何倍かひどい誤解を受けつづけたのは、そういうひねくれ根性のせいだったが、そのくせ侮辱にたいしてはおそろしく敏感で、馬鹿にされたと感じると、三月ぐらいの間に刺客をやって、かならず相手を殺すか傷つけるかした。
 このほかにも泰文には人の意表に出るような奇怪な振舞が多かった。泰文の身体のなかに陳腐な習俗に耐えられない、ムズムズする生物のようなものがいて、新奇で、不安な感覚を与えてくれるような事柄にたえず直面していないと生きた気がしないといったように、恥もなさけもなく、野性のままの熱情をむきだしにして、奔放自在にあばれまわっていた。衒勇げんゆうを振うことも趣味の一つであった。当時、京から大津へ出る美濃路の口にあたる栗田口や逢坂ごえには、兇悪無慙な剽盗ひょうとうがたむろしていて、昼でも一人旅はなりかねる時世だったが、泰文は蝦夷拵えぞごしら柄曲えまげの一尺ばかりの腰刀を差し、伴も連れずに馬で膳所ぜぜの遊女宿へ通った。遠江とおとうみの橋本宿は吾妻鏡にも見える遊女の本場だが、気がむけばそのまま遠江まで足をのばすという寛濶さで、馬が疲れると自分のを捨てて通りがかりの馬をひったくり、群盗の野館のだちのあるところは、
「中納言大蔵卿藤原ノ泰文」
 と名乗りをあげて通って行く。声の大きなことは非常なもので、賊どもは気を呑まれて茫然と見送ってしまうというふうだった。
 また泰文は破廉恥な愛欲に特別の嗜好を持っていた。すまし顔の女院や※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)じょうろうなどは目もくれない。遊興はすべて下司げす張った、刺戟の強いほうが好ましい。醍醐だいごの花見や、加茂の葵祭、観学院かんがくいんの曲水の宴、さては仙院の五節舞ごせつのまいなどというありきたりな風流ごとにはどうしてもなじめない。宿場の遊女を単騎で征伐に出かけるのも仕事の一つだが、そのほか毎夜のように邸を抜けだして安衆坊の散所へ出かけて、乞食どもと滓湯酒かすゆざけを飲みわけたり、八条猪熊で辻君を漁ったり、あげくのはて、鉢叩や歩き白拍子しらびょうしを邸へ連れこんで乱痴気騒ぎをやらかす。恋の相手も、従ってまともな女どもでは気勢があがらない。大臣、参議の思いものや、夫婦仲のいい判官や府生ふせいの北ノ方、得度したばかりの尼君、というふうにむずかしければむずかしいほどいいので、これと見こんだら、尼寺の築泥ついじも女院の安主あんじゅも、泰文を食いとめることができない、かならず奇怪な手段で成功した。

 泰文には、文雄、国吉くによし泰博やすひろ、光麻呂の四人の息子と、葛木、花世という二人の娘があったが、頸居くびすえというお七夜の祝儀に立合っただけで、それぞれ奥の離屋へ捨ててしまった。子供というものは泰文にとっては、わけのわからない、手のかかる、人に迷惑をかけることを特権と心得ているうるさいやつで、男の子は学資をかけて大学寮を卒業させなければ七位ノじょうにもなれず、女の子は女の子で、莫大な嫁資をつけなければ貰ってもらえぬという不経済極まる生物いきものぐらいにしか思っていなかったのだろうか、そういう勘定はぬきにして、自分のことで忙しすぎるので、子供のことなどはすっかり忘れてしまったのである。
 朝霞が泰文のところへ輿入れしたのは十六の春で、十年のあいだに六人の子供を生んだ。朝霞がどういう顔立ちの婦人だったかわかっていない。花世が母親似だとしたら、朝霞も当時としては美人の部類に入るくらいのことはあったろうと想像されるが、朝霞というひとも朝鮮から移ってきた秦氏の血をうけ、外来民特有のねばり強い気質をもっていたようである。泰文が朝霞を迎えたのは、大金持の娘と結婚するという功利的な打算から出たことで、女体にはたいした興味がなく、朝霞のほうも当然のことと諒承して、毎夜のように対ノ屋で演じられるろうがわしい馬鹿さわぎを眺めても怨みがましいようすもせず、庭の北の奥に一劃だけ分離している葵ノ壺という別棟で、ひっそりと六人の子供を育てながら、庭の花のうつりかわりを見て、時がすぎていくという感覚をおぼろに感じる、植物さながらの閑寂な日々を送っていたのである。
 泰文は吝嗇というのではないが、徹底した自己主義者で、金銭のことにかけては前例のないほどキッパリした割切りかたをし、子供の一代に金をかけることなどになんの意義も感じていなかった。あるだけの金は自分ひとりのもので、子供らなどに使われるのはこのうえもない損だと思っているふうで、子供にかかる費いなどは青銭一枚出すのではなかった。朝霞は父や兄から泰文の評判をきき、おおよそそんなことだろうと見こみ、嫁資のほかに自分の身につくものをこっそり持ってきたので、子供たちの養育費はすべてその土地のあがりから出していた。
 それはよかったが、子供たちが大きくなり、上の三人の男の子を大学寮へ送らなければならない齢がすぎかけているのに、泰文はなにも言いださない。今年は今年はと、隠忍して待っていたが、辛抱しかね、ある日、おそるおそるそのことを切りだした。
 泰文はひとえの直衣を素肌に着、冠もなしで広床の円座にあぐらをかいていたが、
「お前のいう子供とは、いったい誰の子供のことか」
 と欠伸あくびまじりに聞きかえし、それが自分の子供らのことだと諒解すると、雷にでもうたれたような顔をした。
 なるほど自分には何人か子供がいたようだと、それでようやく思いだしたらしかったが、なにかまた忙しい思いつきがあるのだとみえ、いいようにしたらよかろうと、あっさり話をうちきってしまった。その翌年、長男の文雄が省試の試験に及第して秀才の位をとったという話をよそで聞いたが、フトそれらの学資はいったいどこから出ているのかと疑問をおこした。もし家計のなかから朝霞がひねりだしていたのだったら、ゆるしがたいことなので、帰るなり葵ノ壺へ行って問いつめると、朝霞はやむなく身付きの自領の上りから払っていたことを白状した。泰文は無気味な冷笑をうかべて、それはもともと嫁資の一部をなしているはずのものだから、こちらの領分へとりこむが、そのほかの隠し田をあるだけさらけださなければ、童めらを勘当すると脅しつけた。
 そのころ泰文は東山の八坂の中腹に三昧堂のようなものを建てた。有名な無信心者がどういう気で持仏堂など建てたのか。招かれたある男が可笑がって笑うと、泰文は堂の縁端まで連れて行って眼の下の墓地を指さし、
「あれはうちの墓地だが、童めらが一人残らずあそこへ入ったら、おれはここに坐ってゆっくり見物してやるのだ。そのための堂よ」
 と笑いもせずにいった。
 その男は泰文は隠居して、自分の子供らの墓を縁から見おろしてやるという奇怪な欲望からそういう堂を建てたということを了解して呆気にとられたが、あわれをとどめたのは仕送りを断たれた三人の息子で、長男の文雄だけは方略の論文を書いて試験に及第し、河内の国府の允になって任地へ発つ運びになったが、二男の国吉は灯心売りになり、三男の泰博は二条院の雑色になって、乞食のような暮しをしていた。泰文のやりかたがあまりひどいので、親戚のものどもも見るに見かね、関白の基房を通じて法皇のご沙汰をねがった。法皇も呆れて、二人の子供を見てやるようにと注意したので、泰文は渋々子供の学費を出すことに同意したが、基房の差出口がよくよく癇にさわったとみえ、間もなくひどいしっぺい返しをした。
 祇園ぎおんの八坂のやしろの東南のあたりに後白河法皇の寵姫が隠れていた。江口の遊女で亀遊といい、南殿で桜花の宴があったとき、喜春楽を舞って御感ぎょかんにあずかったという悧口者で、世間では祇園女御と呼んでいたが、毎月、月初めの三日、清水寺の籠堂でお籠りをすることを聞きつけると、走水の黒鉄という鉢叩きに烏面からすめんをかぶせ、天狗の現形げんぎょうで籠堂の闇に忍びこませて通じさせたうえ、基房の伽羅の珠数をそばに落してきた。亀遊は基房の珠数を見知っていたので、むずかしいことになりかけたが、走水の黒鉄が捕まったので、すべて泰文の仕業だったことがわかった。黒鉄は磔木はたものに掛けられてさんざんに打たれたが、泰文の後楯があると思っているのか、いっこう平気な顔で「ほとほとに(女洞の掛言葉)舟は渚にゆるるなり、あしの下ねの夢ぞよしあし」などとろうがわしい和歌を詠み、面憎いようすだった。
 後白河法皇の院政中は、口を拭っておとなしくさえしていれば、なにをしてもゆるされた寛大な時代だったが、泰文の放埒はいささか度をこえているので、法皇も困りきり、都離れのしたところでしばらく潮風に吹かれてくるがよかろうと、泰文を敦賀ノ荘へ流すことにした。
 あばれだすかと思っていた泰文は、意外に素直に勅を受け、二十騎ばかりの伴を連れて宇治の平等院でひとしきり水馬すいばをやったうえ、一糸纏わぬすッ裸で裸馬に乗り、京の大路小路を練りまわしたうえ、悠然と敦賀へ下って行った。
 泰文が京にいなくなると、魔党畜類まとうちくるいが姿を消したような晴々しさになり、二人の息子は白川の館へ帰り、一家団欒して夢のように楽しい日を送っていた。ある日、ちょうど長男の文雄も上洛して曹司ぞうしにいたが、長女の葛木姫が、
「父君がいなかったら、なんとまあ毎日が楽しいことでしょう」
 と思いこんだようにいった。
 それはみなの心にあって口には出さずにいたことだったが、こういう日々が永久につづけばいいというのは誰しもが願うところだったので、文雄が、
父帝ちちみかど(後白河法皇)へお願いしてみよう」
 といい、このうえとも泰文が家名を傷つけぬよう、京へ帰さずに長く敦賀へとめおかれるようにという願文をつくり、兄弟三人の連名で上書した。
 ところで泰文のほうは、こんなことでおめおめひっこんでいるわけはなかった。関白基房は基道の伯父で、基実が死んだとき基道が小さかったので摂政になったが、基道の義母は清盛の女の盛子で平氏と親戚関係になっていることから、基道にたいする清盛のひいきが強く、基房はあるかなしかの扱いを受けていた。泰文はこういう機微をのみこんでいるので、そのとき五位ノ侍従だった基道の筋に途方もない金を撒いて流罪赦免の運動をした。清盛は些細な罪で有能な官吏を流罪するなどは当をえた政治と思えないと妙な理窟をこねだし、基道を突ついてしつっこく法皇にせっつかせた。気の弱い法皇はうるさいのでまいってしまい、いいなりに赦免状を出したので、ろくろく敦賀の景色も見ないうちに京へ呼びかえされることになった。泰文は外道頭そっくりの異形な真額に冠をのせ、逢坂あたりまで出迎えた、鉢叩き、傀儡師かいらいし、素麺売などという連中に直衣を着せ、なんと形容のしようもない異様な行列をしたがえて入洛すると、馬を早乗りにして白川の邸へ馳せ戻った。
 誰が告口したのか、伜どもが連書して法皇に不届きな願をしたことを耳にしていたらしく、すごい形相で式台に上ると、長い渡廊から廊ノ間、対ノ屋の広間と、邸じゅうを駆けまわって伜どもを探したが、国吉と泰博は下司の知らせで、逸早く邸から逃げだしたので、きわどい瀬戸で助かった。
 二人はまた食うあてがなくなり、以前よりいっそうみじめな境涯に堕落して、安衆房の散所で人にいえぬようななりわいをしてかすかに命をつないでいたが、国吉はその冬、馬宿うまかたと喧嘩して殺され、泰博は翌年の春、応天門の外でこれも何者かに斬られて死に、二男と三男は泰文の望みどおりに持仏堂の下の墓へ入った。
 泰博が殺されたとき、さる府生ふせいが役所でくやみをいうと、泰文は、
「やっと二人だけだ。祝辞を述べてもらうにはまだ早い」
 と毒々しいことをいったということである。泰文ほど上手に刺客を使う男も少ないので、国吉と泰博は泰文が人をやって殺させたのだという風説が当時あった。「京草子」の作者も、それらしいことをにおわせているが、これは信じにくい。
 泰文は時流に適さない魅偉な容貌をしているので、ことさらに残酷なことを好む変質者のように見られているが、人をやって自分の子供を殺すようなことまではしなかったろうと思われる。稚気に近い粗暴な振舞いや、思いきった悖徳はいとく無残な言動が多く、妻や子供らに酷薄な所業をしたが、それは考えるような悪質なものではなく、うちあけたところ、なにか変ったことをしでかして、同時代の人間をあっといわせたいという慾求から出ているのだと見る向きもある。残忍も無慈悲も、おのれを見せびらかし、自分というものを世間にしっかり印象づけたいという執念によることなのであるから、風説どおりに人をやって自分の子供たちを殺させたのなら、泰文がそれを吹聴もせずにおくわけはないからである。

 国吉と泰博が陋巷ろうこうで変死したとき、葛木は十八、花世は十一、四男の光麻呂は六つだったが、伜どもの願書の件以来、泰文は猜疑心が強くなり、子供らをいっしょにしておくとろくなことをしないとでも思ったのか、葛木と光麻呂をひき分けて東の台で寝起きさせるようにした。それでも朝霞は世をはかなむこともせず、出世間しゅっせけんの欲もださず、いつかまた葛木や光麻呂に逢える日のあることを信じて、花世と泰文の遠縁にあたる白女しらめという側女にょうぼうを相手に、しとみもあげずに、一日中、写経ばかりしていた。
 そういうわびしい明け暮れに、泰文の従弟の保平が十八になる保嗣やすつぐという息子を連れて安房の北条から出てきた。保平はもと山城の大掾だいじょうをつとめ、太秦王などとも親しく、朝霞との間にもなにがしかの想いがあったもののようである。保平が安房へ引込んだのが、朝霞が泰文のところへ輿入こしいれした直後だったことなどを思い合わせても、保平の側に相当な遺憾があったのではないかといわれている。こんどの上洛は安房から出た砂金や、土産の鹿毛や、少からぬ土産があったので、泰文は保平の親子を釣殿に住ませ、下にもおかぬような歓待をしたが、側女の白女が曹司へ出てとりもちをしているうちに、どこか野趣をおびた、保嗣の公達ぶりにうたれてもの思いに耽けるようになった。これでもれっきとした藤原一門の女だから、朝霞さえ後楯になってくれれば、保嗣への恋もものにならないものでもない。それにはまず朝霞の心を掴んでおくにかぎると浅墓あさはかな才覚をし、側見するところ、保平は口にこそ出さないが、いまだに朝霞のことを忘れかねて悩んでいるらしいということをいって朝霞の気持をそそりたてた。
 そんなことを言われるまでもなく、朝霞にとって保平は幼な馴染みのなつかしい人間で、心のやさしいことも身に沁みて知っており、ひょっとしたら泰文にでなく保平に嫁いでいたかもしれないという微妙な想いがあったので、釣りこまれたわけでもあるまいが、つい白女に本心をもらしてしまった。白女はこれで朝霞の退引のっぴきならぬ弱身を掴んだと思い、正面切って保嗣に働きかけたが、保嗣は冷静で賢い青年だったので、ここでなにかしでかしたら泰文の腰刀の一と突きを食うだけだと、浪花なにわの国府の府生に任官したのをさいわい、事のおきぬうちと、淀から舟に乗ってだしぬけに浪花へ発って行ってしまった。
 白女の落胆はたいへんなもので、朝霞をつかまえては嘆きに嘆いた。朝霞のほうはおなじ繰言くりごとのまきかえしにうんざりし、ある日、たまりかねて素ッ気ないことをいうと、白女は朝霞の冷たい態度から、急に曲ったほうへ解釈した。保嗣が急に浪花へ下ったのは、朝霞が細工して追いだしたのだと一図に思いつめ、うらめしさのあまり、朝霞と保平のことをあることないこと泰文に告げ口した。月のない夜、保平が朝霞の寝殿へ忍んできて夜明けまでいるというようなことから、次第に手のこんだものになり、眼で見るように委曲をつくした。
 この間に泰文のほうは、あらたな恋の悦楽にはまりこんでいた。相手は敦賀の国府にいた貧乏儒家藤原経成の娘の公子という女歌人で、父について敦賀に下っていたのが、京へ帰ることになり、敦賀ノ庄を出るときから泰文の道連れになっていたのである。
 肉置ししおきのいい、天平時代の直流のような豊満な肉体をもち、よく頭のまわる、聡明な女だったが、当代のえせ才女のように文才を鼻にかけて男をへこます軽薄な風もなく、面白ければ笑い、腹をたてれば怒るといった屈託のない性質だった。泰文は女と深いかかりあいをつけるような無意味な振舞いはしない男だが、ウマがあうというのか、公子にはすっかりうちこんで、口実をつくっては、参殿の行き帰りに四条の公子の家の前に車をとめた。そういう事情から、泰文の気持が浮きあがっているので、とうのたった古女房のことなどはどちらでもよく、白女のいうことなどは身にしみて聞いてもいなかった。
 白女としては、朝霞に復讐することだけがただ一つの生甲斐のようになっているので、泰文の冷淡な態度に業を煮やし、外へ出てあることないことに尾鰭をつけて触れまわったものである。閨房の乱は一般の風で、めずらしいことはなにもなかったが、それが泰文の内室ではじまったことをみな痛快がった。泰文にしてやられた女房連や、怨を含んでいた亭主どもは、このときとばかりにはやしたてたので、洛中洛外にこの話を知らないものは一人もないほどになった。奇怪なのは泰文の態度で、湧きたつような醜聞を平然と聞流しにしているばかりか、自分のほうからほうぼうへ出かけて行って、自分が毎日どんな情けない目にあっているかというようなことを行ってあるき、自分の話のあわれさにつまされて泣きだしたりした。この間、泰文という男はなにを考えていたのか、他人にはまったく窺い知れぬことである。ふしぎなのはそれだけではない。保平をそのまま邸に置きながら、保平の家従や僕を車部屋の梁へ吊るし、保平と朝霞の間にどれほどのことがあったのか白状しろと迫った。このへんの心理はまったく不可解である。
 最初にやられたのは天羽透司あまばとうじという家従で、保平の友人でもあり、打明け話の相手だと思われている男であった。泰文はかねて手なずけていたあぶれ者に天羽の寝所を襲わせて車部屋へひきこむと、いつそんなものを作ったのか、柱に十文字にぶっちがえた磔木はたものに縛りつけてまず鞭で精一杯に撲りつけた。
「本当のことを言ってもらいたい。保平が朝霞のところでなにをしていたか、あなたはよく知っているはずだ」
「私はなにも知らない。この二十日ばかり、保平殿は私を疎外し、打明けたことはなにもいってくれない」
 泰文はあぶれ者を呼びこみ、天羽の手首を括り、縄の端を梁の環に通して網を引かせた。天羽は床から指四本のところまで吊りあげられ、十五分ばかりは頑張っていたが、腕が抜けそうになったところでいった。
「おろしてください。知っているだけのことを言います」
 天羽をおろすと、あぶれ者どもを車部屋から追いだし、天羽と二人だけ残った。
「さあ言え」
「保平殿の供をして、北ノ殿の近くへ三度ばかり行ったが、それ以上のことはなにも知らない。と申すのは、明け方まで中庭で待っているのが例だったからです」
 あぶれ者が呼びこまれ、天羽はまた梁に吊りあげられた。こんどはすぐ降参した。
「本当のことをいいます、保平殿が奥方とねんごろにしていることはとくに気がついていました。奥方は、毎日のように白女に文を持たしておよこしになり、また見事な手箱を保平殿へおつかわしになりました」
「もうたくさんだ」
 泰文は天羽を縛って雑倉ざつぐらへ放りこむと、こんどは僕を吊しあげた。
「お前は保平と奥方がなにをしていたか見て知っているはずだ。天羽がそういった。お前はいったいなにをしてくれた。夜の明けるまで二人の傍にいて」
 僕は知らぬ存ぜぬといっていたが、腕の関節が脱臼しかけたので、しどろもどろに叫びだした。
「なるほど、私はそういう不都合な時刻に葵ノ壺へ入りました。けれどもお二人の傍にいたわけではありません。じつはそばの局で白女と遊んでおりました」
「言わぬならもう一度吊しあげるだけのことだ」
 僕は震えだした。
「もうお吊しになるには及びません。なにもかも申します」
 そこへ白女が呼びこまれた。
「お前がねんごろにした女房がいる。こいつの前で、あったことをみな言ってみろ」
「申します。私はお二人の前でさる実景を演じる役をひきうけました。ここにいるこの白女という女房が、そうするように強請いたしたからです。最初に保平さまが下着をとられ、それから奥方が下紐を解かれました」
「よくわかった。お前がいま言ったことをこの紙に書くがいい」
「かしこまりました」
 僕は助かりたいばかりにすぐ筆をとったが、肩を痛めているのではかばかしくいかなかった。しかしともかく書きあげた。泰文は誓紙をひったくると、腰刀を抜いて三度僕の胸に突き通し、死にゆくさまを立ったままで冷淡な眼つきで見おろしていたが、僕が布直衣の胸を血で染めてこときれると、白女のほうへ向いていった。
「こんどはお前の番だろうな」
「どうぞ命だけは」
 白女が狂乱して叫んだ。
「いやいや、そういうわけにはいくまいよ。とんだところを見せものにして、主人の淫慾をそそるとは出来すぎたやつだ。この俺だって、そこまでのことはしないぞ」
 そういうと、白女の垂れ髪を手首に巻きつけ、腰刀で咽喉を抉った。白女はむやみに血を出して死んだ。泰文は二つの死骸を芥捨場ごみすてばへ投げだし、裏門から野犬を入れて食わしてしまった。そうして置いて、その足で保平の部屋へ行って陽気に酒盛をはじめた。すさまじい絶叫や叱咤の声で、保平は事の成行を案じていたので、どうされることかと生きた空もなかったが、泰文は徹底的な上機嫌で、なにがあったかというような顔をしている。保平はいよいよ薄気味が悪くなって、翌日、なにやかやと言いまわして泰文の邸から逃げだした。京にいる間、刺客を恐れてたえずビクビクしていたが、どうしたのか何事もなく、その秋、いのちつつがなく安房へ帰り着いた。
 朝霞のほうはどうだったかというと、このほうも恐れていたようなことはなにも起きなかった。それどころかいままでにないほどのご愛想で、ときどき橋廊下を渡って葵ノ壺へでかけ、調子をはずした大音声で、二時間ばかりずつ世間話をするようになった。朝霞は泰文の気持を忖度しかねて悩んでいたが、そういうことも度重なると、つい心をゆるし、将来の不幸を見越して、子供たちのために別にしてあった……どんなに責められても言わなかった隠し田のありかを白状してしまった。
「これは光麻呂と娘の分なのですから、そこのところをどうぞ」
「わかっている。俺にあずけておけば、悪いようにはしない」
 泰文は素ッ気ない顔でうなずいてみせたが、これははじめから予期していたことだったのである。

 朝霞と保平のいきさつはこれで無事に落着するはずだったが、事件は意外なところから新に掻き起されることになった。
 朝霞の兄弟と泰文の弟の権僧正光覚ごんのそうじょうこうかくは融通のきかない武骨者ぞろいで、こんどの事件の始末のつけかたをあきたらなく思っていた。朝霞は亭主を裏切ったばかりでなく、一族兄弟の顔に泥を塗ったものであるから、泰文がひとりどう諒解をつけようと、こんないい加減なことですまされては、自分らの立つ瀬がないということなのであった。
 光覚は檀下たんかに尊崇をあつめている教壇師だったが、朝霞の処置をつけてくれないと講莚こうえんにも説教にも出ることができないので、「朝霞の始末はどうしてくれるのだろうか」と手紙や使いでうるさくいってくるし、朝霞の兄弟は兄弟で、「こう延び延びにされては拷問にかけられるより辛い。一家の名誉が要求することに応じてくれなければ、われわれは衛門えいもんを辞するほかはない」などときびしく詰め寄ってくる。
 いったいこの頃の北ノ方というものは、奥深いところで垂れこめているうちに、いつ死んだかわからないような死に方をすることが多く、葬いも深夜こっそりとすましてしまうという風で、まったく取るにも足らない存在であった。殊に泰文などときたら、いまあってもう無い自然現象のようなものとしか見ていなかったのだから、朝霞と保平の一件などは、事実だろうと否だろうと、なんの痛痒も感じない。保平の僕と白女を殺したのは、それはそういったもののはずみでそうなったまでのことで、立腹したのでも逆上したのでもなかった。ただうるさいと思うばかりで、手きびしい抗議も軽く念頭を擦過するだけのことだったが、際限もなくせっついてくるので、そんなに朝霞が邪魔なら、尼寺へやるなり殺すなりいいようにしたらよかろうといってやると、では勝手ながらこちらで埒を明けるから悪しからずという返し文が届いた。
 それから三日ばかり後の夜、泰文の留守へ朝霞の兄の清成と清経が五人ばかりの青侍を連れてやってきて、朝霞のいる葵ノ壺へ行った。朝霞はしとねに入っていたが、橋廊下を渡ってくる足音におどろいて起きあがると、長兄の清成が六尺ばかりの綱を、次兄の清経が三尺ほどの棒を持って入ってきたのを見た。
「あなたたちはこの夜更けに、なにをしにいらしたんです」
「気の毒だが、お前を始末しにきた。なにしろこんな因縁になってしまって」
「それは泰文の言いつけなんですか」
「そうだ」
 と清経がうなずきながらいった。
「なにかしたいことがあったら言いなさい。ここで待っているから」
「なにといって、べつに。どうせこんなことになるのだろうと思っていましたから」
「それはいい覚悟だ。花世はとなりに寝ているのだろう。むこうへやっておくほうがよくはないか」
「そうですか。そうしてください」
 清成が几帳の蔭から花世を抱きあげて出て行ったが、すぐ戻ってきた。
「ではやるから」
「いまさらのようですが、保平とはまるっきりなにもなかったのです」
「そうだろう。しかしこういう評判が立ったのだから、なんともいたしかたがない。あきらめてもらうほかはない」
「わかっています」
「怖くないようにきぬで眼隠しをしてやる。なあに、すぐすんでしまうから」
「どうでもよろしいように」
 清成が几帳の平絹をとって朝霞の顔にかけると、清経が綱を持って朝霞のうしろにまわった。綱の塩梅あんばいをして、棒をカセにして締めだしたが、うまくいかないのでべつな綱をとりに行こうとした。足音を聞いて朝霞が顔から帛をとった。
「いったいまあなにをしているんです」
 清成がふりかえりながらいった。
「この綱はよく滑らないから、べつなのを探してくる」
 そういって出て行った。間もなく車部屋から簾の吊紐をとって帰ってきて、眼隠しをするところからやりなおしたが、その紐もぐあいが悪いかしてまたやめてしまった。
「どうしたんです」
「それもぐあいがわるい」
 また綱を探しに行き、棕梠の縄をもってきてそれに燈油をとって塗った。
「こんどこそうまくいきそうだ」
 綱はカセの棒にうまく絡んだ。兄弟が力をあわせて一トひねり二タひねりするうちに、事はわけなくすんでしまった。
 朝霞の亡骸は用意してきた柩におさめ、青侍どもに担がせてその夜のうちに深草ふかくさまで持って行き、それから七日おいて、泰文のところへ、朝霞が時疫じやみで急に死んだと、実家からあらためて挨拶があった。
「時疫とは、いったいどのような」
「脚気が腹中ふくちゅうへ入って、みまかられました」
 泰文は薄す眼になって聞いていたが、
「かわいそうな。さぞ痛い脚気だったろう」
 と人の悪いことをいった。
 朝霞が死んだのは承安三年の十月のことだったが、それから二年ほどなにごともなくすぎた。泰文は相変らず公子のところへ通い、子供らは母のいない葵ノ壺でしょんぼりと暮らしていた。すさまじい扼殺やくさつが行われた夜、葛木と光麻呂は遠い別棟に居り、花世はまだ十一で、眠っていたところを清成に抱きだされたのだったから、三人の子供らは母がそんなひどい死にかたをしたことは露ほども知らなかった。召使どもの言うとおり、深草の実家で病気で死んだのだと信じこんでいたので、心の奥底にある死んだ母の影像は、さほど無残なようすはしていず、母に死なれた悲しみも、月日の経つにつれてすこしずつ薄れ、あきらめて母のことはあまり言いださぬようになった。
 母が死んでから二年目のおなじ月に新しい母がきた。前の母は、どちらかといえば、あまり口数をきかない、とりすました冷い感じのひとだったが、こんどの母は、見るからに豊かな、明るい顔だちのよく笑うひとで、前の母より年をとっているくせに、子供らといっしょになって扇引おうぎひき貝掩かいあわせをやり、先にたって蛍を追ったり、草合せのしかたをおしえたり、一日中、にぎやかにしているので、この陰気な邸のなかででも、こんなに面白く暮らせるのかと、呆気にとられるくらいだった。とりわけ敏感な花世には、急に新しい世界がひらけたような思いで、公子が自分を生んだ実の母ではなかったかと、うつらうつらするようなこともあった。
 泰文は公子が子供らに馴れすぎるのを面白くなく思っていたが、さすがにそうは言いだしかね、子供らにあたりちらして、わけもなく鞭で打ったりした。泰文の不機嫌の真の原因は、娘たちに相当な嫁資をつけて嫁にやらなければならなくなっていることで、それが頭にうかぶと、むしゃくしゃして、つい苛立ってしまうというわけなのであった。泰文としては、どう考えてもそういう風習と折合をつける気にはならないので、いっそ邸を尼寺にしてしまえとでも思ったのか、葵ノ壺の入口に別に中門をつくり、男と名のつくものは一切奥へ入れぬようにしたが、そういう企てがどれほど浅墓なものかということを間もなく思い知らされた。というのは、姉娘の葛木姫が泰文の眼をぬすんで法皇に嘆願の文を上げたからであった。父は娘を家からだすことを嫌って壺へおしこめ、手紙の行来さえとめている。そればかりか、事ごとに鞭や杖で打つので、辛くてたまらない。嫁入るなり、尼寺へつかわされるなり、ともかくこの苦界からぬけださせるようにしていただきたいと書き、「さく花は千種ちぐさながらにうれおもみ、本腐もとくだちゆくわが盛かな」という和歌を添えてつくづくにねがいあげた。法皇はあわれに思って、東宮博士大学頭範雄の三男の範兼を葛木の婿にえらび、一千貫の嫁資をつけ嫁入らせるようにと沙汰された。
 一説には、葛木の上書は公子が文案し、和歌も公子が詠んだものだといわれているが、たぶんこれは事実だったろう。おのれを持することの高い、公子のような悧口な女が、どういうつもりで泰文のような下劣な男のところへ後添いに来る気になったのかと、いろいろに取沙汰されたものだが、国吉や泰博のはかない終りや、常ならぬ虐待を受けている子供たちをあわれと思い、朝霞にかわって、泰文のでたらめな暴虐から子供たちを護ってやろうと思ったのではなかろうか。葛木を泰文の邸から出したのは、いわれるように公子の才覚だったとすれば、公子が進んで後添いにきたという意外な行動も、いくぶん説明がつくのである。
 そういった状況のうちに、この物語の本筋の事件の起きた治承元年になり、花世は十五、光麻呂は十一の春を迎えた。花世と光麻呂は、母親の面ざしをそのままに受けついだよく似た姉弟で、光麻呂が下げ髪にしているときなどは、姉とそっくりだった。花世の美容については、「かたちたぐひなく美しう御座まして、後のためになどとどめおかましう思ひける」とか「カカル美容(ミメ)ナシ」といったような記述が残っている。薄命な花世の身のすえに同情するあまり、いくぶんの誇張もあるのだろうが、光実の肖像画で見る美しさくらいのことはたしかにあったのにちがいない。
 泰文は権勢にかけて※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)ぎとられた一千貫のうらみが忘れられず、大酒を飲んではひとりで激発していたが、日に日にたちまさってくる花世の美しさを見ると、後から追いかけられるような気がしてまた落着かなくなった。その後、いろいろと思いあわせ、葛木を家から出したのは公子の仕業ではなかったかと疑いかけていたが、それはそれとして、花世の美しさはなんとしても物騒である。このまま放っておくと、いずれ姉とおなじようなことをやりだすにちがいない。このうえまた一千貫では精がきれる。ともかく悪智慧をつけられないように、公子から離しておくにしかずと思い、花世を二階の殿舎でんしゃに追いあげ、食事も自分で運んで行くという念の入った用心をしていたが、思春の情はなにものの力でもおさえることのできない人性にんしょうの必然であって、そのほうを始末するのでなければ、完全におさえつけたという満足はえられないわけだと、放蕩者だけあっていみじくもそこに気がついた。足りないものをみたし、性の満足さえ与えておけば、嫁に行きたいなどという出過ぎた考えを起さず、いつまでも手元に落着いていることだろう。ほしいものを宛てがえばいいといっても、そこらあたりの青侍や下司をおしつけて孕まれでもしては事面倒である。どうしようかと首をひねったすえ、そんならば父親の自分が娘の恋人の役を勤めたらよろしかろう。これ以上安上りなことはなく、手軽でもあり安心でもある、というところへ考えを落着けた。それでさっそく花世を呼び、こんな罰あたりなことをいってろめこみにかかった。
「お前も、いずれは子をひりだす洞穴ほらあなを持っているわけだが、おなじ生むなら、聖人になるような立派な子を生むがいい。父が自分の娘を知ると、生れて来る子供はかならず阿闍梨あじゃりになる。聖人はみなそのようにして生れでたもので、母方の祖父こそ、じつは聖人の父親なのだ」
 泰文のいいあらわしようもない卑しい眼差にあうなり、花世は子供心ながらに、父がいまどんな浅間しいことを考えているかを感じとってしまった。
「なにをなさろうというのですか」
「だから、おれがその骨の折れる仕事をしてやるというのだ」
「そんなことは嫌でございます」
「欲のないやつだ。父のおれがこういうのだから、否応はいわせない」
 理窟ではいけないと知ると、力ずくになった。

 途方もない話だが、信じられないような奇怪な交渉が夏のはじめまでつづけられていた。抵抗すれば、それこそ息の根がとまるほどひどい折檻をされるので、気の毒な娘はそういう情けない生活を泣く泣くつづけていくほかはなかったのである。
 泰文はでたらめな箴言に勿体をつけるつもりか、拍手をうって拝んだり、御幣ごへいで娘の腹を撫でたり、たわけのかぎりをつくしていたが、おいおい夏がかってくると、素ッ裸で邸じゅうを横行し、泉水で水を浴びてはすぐ二階へ上って行ったりした。泰文はよほどの善根ぜんこんでもほどこしている気でいるらしく、いつもニコニコと上機嫌だったが、だんだん図に乗って、たぶん邪悪な興味から、裸の花世を葵ノ壺へ連れて行き、菊燈台の灯をかきたてて自分と娘のすることを現在の継母にちくいち見物させるようなことまでした。
 花世と公子にとっては、地獄にいるような思いがしたことだったろう。この世にあろうとも思えぬ畜道のけがれにまみれるくらいなら、いっそ死んだほうがましだと、露見した場合の泰文の仕置を覚悟で、白川の邸で行われている、目もあてられないあさましい行態を日記にして上訴したが、泰文はそういうこともあろうかと抜け目なくそのほうへ手をうっていたので、上書は三度とも念入りに泰文の手元へ送りかえされた。泰文が腹をたてて花世と公子をどんなむごい目にあわせたか、想像するに難くないが、不幸な二人の女は、このうえ一日もこういう生活をつづけてゆくことに耐えられなくなり、どういう手を尽しても、この地獄からぬけだす方法がないことを承知すると、二人で話しあって、とうとう非常手段に及ぶ決心をしたのである。
 邸で召次めしつぎをつとめている犬養ノ善世という下部がいた。卯ノ花の汗袴かざみを着て式台に這いつくばってとぼけているが、首筋に深く斬れこんだ太刀傷があり、手足も並々ならずすじ張っていて、素性を洗いだせば、思いがけない経歴がとびだしそうないわくありげなおとこだった。召次の役目柄、男で葵ノ壺へ入れるのはこの男だけだったが、公子はさしあたって善世を手なずけるところからはじめた。あばれだせばむやみに狂暴になる泰文が相手では、どのみち女だけの腕で仕終わせるのぞみはなかったからでもある。
 善世は眼の色を沈ませていつもむっつりと黙りこんでいて、なにを考えているのかいっこうに気心が知れず、うちつけにそういう大事を洩らすのはいかがかと思われたが、ほかに便宜とてもないのであるから、ある日、ままよと切りだしてみると、意外なことに、異議なくすぐ同腹してくれた。
 うちあけ話を聞くと、犬養ノ善世はもとは鬼冠者といい、伊吹の山にいた群盗の一味で、首の傷は五年ほど前、山曲やまたわの暗闇で泰文とやりあい、腰刀をうちこまれたものだということだった。こうして沓石くついし同然の下司の役に甘んじているのは、いつかはうらみをはらしてやろうという覚悟によることである。あなたさまがたにたいする大蔵卿の仕打ちは、かねがね私めも腹にすえかねていたのだから、そういう存念があられるのなら、どのようにもお手助けすると、キッパリとした返事であった。
 善世は、近々、泰文が八坂の別第べっていへ行くはずだから、仲間を集めてその途中で事をしたらといったが、公子は考えてべつな意見を述べた。これまでの例では、泰文は危難にそなえて大勢伴を連れて行くから、かならず仕終せるとは思えない。油断のない泰文のことだから、こんどの八坂行はわれわれ二人も伴って、目のとどくところへ置くにちがいない。それに奔放自在な泰文に立ちむかうには、緻密に考えた計画はむしろ邪魔なので、その場の情況に応じて咄嗟に断行するといった伸縮性のある方法のほうが、成功の公算が多いのではあるまいか。われわれはいつも泰文のそばにいるのだから、抜目なくかまえていれば、かならずいい折を発見することが出来ると思う。お前はいつなんどき合図があっても、すぐに行動ができるように、近いところにいて気をつけていてもらいたい。善世は、ごもっともなお考えであるといい、それで相談がまとまった。
 七夕と虫払いがすむと、泰文は急に八坂へ行くといいだした。暑気を避けるより、十四日の盆供ぼんくに伜どもの墓を賑やかに飾りたて、谷の上の細殿ほそどのからゆっくり見おろしてやろうという目的らしかった。予期されたように公子と花世もいっしょに行くことになり、檳榔毛びろうげの車に乗って、まだ露のあるうちに邸の門を出た。犬養ノ善世は狩衣すがたで車のわきにつき、ときどき汗を拭きながらむっつりした顔で歩いているのが袖格子そでごうしの隙間から見えた。
 八坂のていに着くと、泰文は公子と花世をつれ、谷と谷との間に架けられた長い橋廊下をわたり、なぞえのうえにある細殿へ行って、眼の下の墓を見おろしながら酒盛をはじめた。どうしたのか、その日はいいぐあいに酔いが発しないらしく、折敷の下物を手づかみで食い、夜が更けるまで調子をはずした妙な飲みかたをしていたが、夜半近く、杯を投げだすと、そこへ酔い倒れてすさまじい鼾をかきだした。
 公子と花世は蒼くなって眼を見あわせ、たがいの思いを通じあった。いずれこういう折があるものと期待していたが、それにしてもあまり早すぎた。着いたばかりの今では、善世のはらにも支度ができていないだろう。どうしたらよかろうという苛立ちと当惑の色がたがいの眼差のなかにあった。公子が心をきめかねているうちに、花世は思いつめたような顔になって細殿から出て行ったが、間もなく戻ってきて、橋廊下のきわから公子を手招きした。
 公子が足音を忍ばせながら花世のそばへ行くと、花世は公子の耳に口をあてて、
「いま善世が来ます」
 とささやいた。
 善世が夏草をかきわけながら谷のなぞえを這いあがってきて、ややしばらくの間、階隠はしがくしの下にうずくまっていたが、すらすらと細殿へ入りこむと、ふところから大きな犬釘と金鎚をだし、あおのけに倒れている泰文の眉間に釘をまっすぐにおっ立て、頃合をはかって、
「鯰め」
 と一気に打ちこんだ。
 泰文はものすごい呻き声をあげ、それこそ化けそこねた大鯰のように手足を尾鰭のようにバタバタさせながらのたうちまわっていたが、つづいてもう一本、咽喉もとにうちこまれた犬釘で、すっかりおとなしくなってしまった。
 星屑ひとつ見えない暗い夜で、どこも深い闇だけであった。八坂の山中に光といえばこの細殿の燈台の灯だけであろうが、その灯は風にあおられながら泰文の異形の外法頭げほうあたまをしみじみと照していた。

底本:「久生十蘭短篇選」岩波文庫、岩波書店
   2009(平成21)年5月15日第1刷発行
底本の親本:「オール讀物」
   1950(昭和25)年10月号
初出:「オール讀物」
   1950(昭和25)年10月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:平川哲生
校正:門田裕志
2011年5月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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