倭人の名は『山海經』・『漢書』・『論衡』等の古書に散見すれども、其記事何れも簡單にして、之に因りては未だ上代に於ける倭國の状態を窺ふに足らず。然るに獨り『魏志』の倭人傳に至りては、倭國の事を敍すること頗る詳密にして、而も傳中の主人公たる卑彌呼女王の人物は、赫灼として紙上に輝き、讀者をして恰も暗黒の裡に光明を認むるが如き感あらしむ。『魏志』は晉の陳壽の編纂に成れりと雖も、其東夷傳は主として魏の魚豢の著作『魏略』に據り、殊に倭人傳に載せたる事實は、當代の人が實際に目に睹、耳に聞ける所を記述せしもの多ければ、史料として最も尊重すべきものなり。本朝には『古事記』・『日本書紀』の二書備はりて上代の事蹟を傳へたりと雖も、漢魏時代に當る頃は固より口碑傳説によりて、幽にその状況を彷彿するに過ぎざるを思へば、當時支那人が我國に渡りて、親しく目撃したる事實を傳へたる『魏志』の倭人傳の如きは、實に我國の太古史上に一大光明を與ふる者と謂ふべし。『魏志』の國史に與ふる價値已に此の如くなるを以て、古來本邦の學者にして倭人傳の解釋に勢力を傾注したる者亦尠からざりき。然るに文中記す所の里程及日程に分明を缺く處あるに因り、傳中の主眼たる卑彌呼及其居城邪馬臺等の考定に就きて異議百出し、今日に至るまで史上の難問題と稱せらる。されば後進の學者は卑彌呼の事蹟に就きて殆ど適從する所を知らず、爲めに國史を著はすもの、此の貴重なる史料を徒に高閣に束ねて、參考に供せざる傾向あり。是れ豈に史界の一大恨事にあらずや。余輩は常に之を遺憾とし、聊か亦此問題につきて考究する所ありしが、今年の初に至り、漸くにして新解釋を得たるを以て、二月二十一日日本學會に於て論旨の大要を講述して、會員の批評を仰ぎたり。而して本論は即ち當時の講演を増補改訂せしものなり。若しも此論文が卑彌呼に對する史界の注意を喚起し、此難問題に關して學者の新研究が、陸續發表せらるるに至らば、望外の幸なり。
 卑彌呼問題の難點は、全く魏の帶方郡より女王の都邪馬臺に至る道程の解釋に存ずるが故に、余輩は茲に『魏志』に載する行程の全文を拔載し、而して後逐次にその解釋を試みんとす。
從郡至倭、循海岸、水行歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里、始渡一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島方可四百餘里、土地山險多深林、道路如禽鹿徑、有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴、又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離、方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴、又渡一海千餘里、至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人、好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之、東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚柄渠觚、有千餘戸、世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐、東南至奴國百里、官曰※(「凹/儿」、第3水準1-14-49)馬觚、副曰卑奴母離、〔有二萬餘戸、東行至不彌國百里、官曰多模、副曰卑奴母離〕、有千餘家、南至投馬國、水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸、南至邪馬〔原本壹〕國、女王之所都、水行十日陸行一月、官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳※(「革+是」、第3水準1-93-79)、可七萬餘戸、自女王國以北、其戸數道里可略載、其餘旁國遠絶不可得詳、次有斯馬國、次有已百支國、〔次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國〕、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡、其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王、自郡至女王國萬二千餘里。
 文中に郡とあるは魏の帶方郡を謂へるなり。
 此郡の所在地は那珂氏の説に從へば、今の京畿道臨津江の江口にありしなり(『外交繹史』第二八章魏志倭人傳)。此處より船を發して九州に至るには、先づ京畿、忠清、全羅三道の西海岸を南方に沿ひて航行すべきが故に、文中に「乍南」とあるは此海路を指ししなり。而して船は全羅道西南の海角より方向を轉じて東方に向ひ、全羅、慶尚二道の南岸に沿ひて狗邪韓國に至る。此國に就きては菅政友氏は之を今の巨濟縣となし(「漢籍倭人考」上)、那珂氏は之を今の金海となし、韓史の加※(「にんべん+耶」、第3水準1-14-34)國、國史の加羅國ならんと考定せり。加羅國は當時韓地より皇國に至る要津なりければ、狗邪韓國を金海即ち加羅國と見たる那珂氏の説は、蓋し正鵠を失はざるべし。『魏志』の文中に「乍東」とあるは、全羅道西南の海角より金海に至る航路の方向を云へるなり。而して帶方郡より狗邪韓國に至る海上の里程を七千餘里となす。又文中に「到其北岸狗邪韓國」とある北岸の文字甚だ穩かならざれども、之を倭韓兩國の間に横はる海洋の北岸と見れば文意通ずべし。狗邪韓國より九州の北岸に達するには三海を通過す。先づ初に此國より船を發し一海を渡る、其間一千餘里にして對馬國に至る、此處には方向を明記せざれども、その南行せしは言を俟たず。對馬國より更に南行して瀚海を渡る、其間一千餘里にして一大國に至る。こゝに一大國とあるは一支國の誤りなること、先輩既に之を論ぜり。さて一支國よりまた南行すること一千餘里にして末盧國に至る。末盧國は今の肥前國松浦郡にして、『古事記』仲哀天皇の條に「筑紫末羅縣」、神功紀に「火前國松浦縣」とある即ち是なり。而して當時韓國へ往來する船舶が松浦郡の那邊に碇泊せしかに就きては、那珂氏の『外交繹史』に
萬葉集十六ニ「神龜年中、太宰府差筑前國宗像郡之百姓宗形部津麻呂、充對馬送糧舶柁師也云々、自肥前國松浦縣美彌良久埼舶、直射對馬海」トモアレバ、菅氏ノ説ニ「漢土ニ渡ルニモ、對馬ニ趣クニモ、コノ美彌良久埼ヨリ船發キセシナリ[#「發キセシナリ」はママ]。西北ニ向フニ便リヨキ地ト思ハルレバ、海路モオシハカリ知ラルベシ」ト云ヘリ。
と説かれたり。魏國の使者が倭國に渡れる時も、亦此美彌良久の埼に由りしなるべし。而して此埼は松浦郡値嘉島にあり。さて末盧國より東南に向ひ陸行すること五百里にして伊都國に至る。伊都國は今の筑前國の怡土郡のことなれば、松浦郡の値嘉島より上れば、實は東北に當れど、魏の使者は少しく其方向を誤りて東南とせり。又伊都國より東南に向ひ陸行すること百里にして奴國に至る。奴國は仲哀紀の儺縣、宣化紀の那津にて、今の筑前國那珂郡博多の近傍なりしこと、先輩已に之を説けり。されば其方向實は東北に當れるを、魏の使者之を東南と誤れり。又奴國より東行百里にして不彌國に至る。此國の所在は未だ詳ならざれども、其の奴國即ち博多よりの距離を以て之を考へ、また此處より後の行程が常に南方にありし事情に由りて之を推測し、太宰府の附近と考定せば大過なからん。太宰府は博多の東南に位するを、魏の使者が之を東方と報告せしはまた例の誤りなり。此の如く末盧國より不彌國に至る『魏志』の方向には誤謬あれども、東北を東南とし、東南を東方と誤解するが如きは、古代の旅客にありては往々見る所なり。若し之を以て『魏志』記す所の方向は毫も憑據するに足らずと思惟する者あらば、其は大なる謬見なり。此書帶方郡より狗邪韓國に至る方向を「乍南乍東」と記し、又狗邪韓國より末盧國に至る航路の方向を常に南と書するが如きは、其方向の正確なるを證するものにあらずして何ぞや。末盧國より不彌國に至る方向に於て些少の誤解あるにもせよ、その大體の方向が東方にありしことを誤らざるなり。『魏志』記す所の方位は卑彌呼問題の解決に最大關係を有するものなるが故に、特に一言を添ふるのみ。
 以上記載せる道程の里數を計算するに、帶方郡より狗邪韓國に至る間は七千餘里、狗邪韓國より對馬一支を經て末盧國に至る間は三千餘里、末盧國より伊都國に至る間は五百里、伊都國より奴國に至る間は百里、奴國より不彌國に至る間は百里なれば、帶方郡より不彌國までの總里數は一萬七百餘里となる。而して帶方郡より女王の都邪馬臺國までは一萬二千餘里と記されたれば、不彌國より邪馬臺國に至る里數は僅に一千三百餘里に過ぎず。『魏志』の文面を案ずるに、帶方より不彌國に至るまでの行程は頗る分明なれば、諸家の考定殆ど一致すれども、此國より邪馬臺に至る行程に關しては、見解區々に分かれたり。而して此の行程の解釋は本論の主眼なるが故に、爰に卑見を開陳するに方りて、先づ從來の諸説を列擧すべし。
 『日本書紀』を案ずるに、神功攝政三十九年の條に
魏志云、明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難斗米等、詣郡求詣天子朝獻、太守※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)夏遣吏將送詣京都也。
と註し、同じく四十年の條に
魏志云、正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。
と註し、又四十三年の條に
魏志云、正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人、上獻。
と註したれば、『書紀』の編者は暗に神功皇后を以て卑彌呼女王に擬せしなり。此書既に神功皇后と卑彌呼とを同一人物と見たりとせば、大和の京を以て『魏志』の邪馬臺國と考定せしに相違なかるべく、從つて魏の使者は不彌國より東行して、彼處に入りしものと思惟せしなり。『書紀』成りてより以來殆ど千餘年の間、本邦の學者にして亦卑彌呼の事を論ぜしものなかりしが、元祿元年松下見林は『異稱日本傳』を著はし、『後漢書』倭國傳の解釋に
今按。邪馬臺ヤマト大和國也。古謂大養徳國、所謂倭奴國ナリ。邪馬臺大和和訓也。
と云はれたり。蓋し、氏の如きは『書紀』編者の意見を公然と表白せしものと謂ふべし。松下氏の説一たび出でてより、幕府の學者は殆どこれに雷同し、また一人として其間に疑議を挾むものなかりき。然るに本居宣長氏は『馭戎慨言』を著はし、卑彌呼を以て神功皇后に當つるの非なるを痛論し、その九州に據れる熊襲の輩なるべきを辯證せり。同氏が『魏志』の行程に關する考察は、余輩の意見に合する所多ければ、左に其一節を引用すべし。
此時にかの國へ使をつかはしたるよししるせるは皆まことの皇朝スメラミカドの御使にはあらず。筑紫の南のかたにていきほひある、熊襲などのたぐひなりしものゝ、女王の御名のもろ/\のからくににまで高くかゞやきませるをもて、その御使といつはりて、私につかはしたりし使也。其故はまづ右の文に、かの國の帶方郡より、女王の都にいたるまでの國々をしるせるは、かのかしこの使の、大和オホヤマトの京へまゐるとて、てきつる道の程をいへる如くに聞ゆめれど、よく見れば、まことは大和オホヤマトの京にはあらず。いかにといふに、まづ對馬ツシマ一支イキ末廬マツラ伊都イトまでは、しるせる如くにて、たがはざるを、其次に奴國不彌國投馬國などいへるは、漢呉音はさらにもいはず、今の唐音をもてあてゝも、大和への道には、さる所の名共あることなし。又不彌國より女王の都まで、南をさして物せしさまにいへるもかなはず。大和はつくしよりはすべて東をさしてくる所にこそあれ。また自女王國以北といへるもたがへり。以西とこそいふべけれ。みづから來たらんに、かく北南と西東とをわきまふまじきよしなきをや。又投馬國より女王の都まで、水行十日陸行一月といへる、水行十日はさも有ぬべし。陸行一月はいと心得ず。月の字は日の誤なるべし。さて一日としては、いづこの海邊よりも、大和の京へはいたりがたく、又一月ならんには、山陽道のなからのほどより、陸路クヌガヂをのぼりしとせんか。さること有べくもあらず。古西の國よりやまとへのぼるには、すべて難波ナニハの津までは、船より物するぞ、定まれることなりける。かくあまたたがへる事共のあるは、大和の京にあらざりししるしにて、誠にはかの筑紫なりしものゝ、おのれ姫尊也といつはりて、魏王が使をも受つるに、あざむかれつるものなれば、其使のてきたりけん國々も、女王の都と思ひしも、皆筑紫のうちなりけり。されば不彌國といふより、投馬國などいへるもみな、つくしのしまの東べたを、南をさして物せし、ウミつ路にて、その過し方を以北といへるも此故なり。また周旋バカリ五千餘里といへるも、筑紫のシマにて、ほとりの嶋々かけたる程によくかなへり。さて女王國東、渡ルコト千餘里、復國皆倭種なりといへるも、大和にしてはかなはず。これもつくしより海をへだてゝ東なる、四國をいへるなり。
 本居氏が卑彌呼を以て熊襲に擬したるは更なり、その行路局部の解釋に於ても、余輩悉くは之に贊成すること能はざれども、女王の住地を九州に當てたる大體の論に至りては、實に敬服の外なく、蓋し當時に於ける卓見と稱すべし。本居氏の此論文によりて、當時の學者は殆ど女王卑彌呼を熊襲の類と見做すに一定せしが、さて『魏志』の不彌國より邪馬臺國に至る行路につきては、大體二説に分かれたるが如し。一は本居氏自身の唱へ出でたるが如く、不彌國より九州の東海岸に出で、これを南方に航行して、熊襲の國に至れりとなす説、又一は不彌國即ち太宰府の附近より筑後に下り、有明の内海を南方に航行して、熊襲に至れりとなす説即ち是なり。鶴峯戊申は其著『襲國僞僭考』に於いて、『魏志』上文の百里を不彌國より投馬國に至る里程と誤解して曰く
投馬は和名鈔筑後郡名上妻加牟豆萬カムツマ、下妻上、とある妻なるべし。兵部式諸國驛傳馬に、筑後國傳馬、御井上妻狩道各五疋とあり。此處より水行二十日にして、大隅國囎唹郡に至るべし。今上妻下妻の間に矢部川あり。即柳川の川上なり。此川を下りてまた内海に浮び南方に到るべし。
と。蓋し氏は九州西岸航行説を主唱せられしなり。又近藤芳樹氏は倭女王の都邪馬臺を肥後の菊池郡山門郷なるべしと説かれたれば、鶴峯氏の如くまた西岸航行説を執れる論者の一人なりしなり。菅政友氏は「漢籍倭人考」投馬國の條に
不彌國ヨリ南ニ向ヒテ進ミ行クコト二十日ノ後ニ、投馬國ニハイタルトノ義ナレバ、必ズ内海ニハアラズ、豐前豐後ノ東洋ヲ經テ、日向アタリ所謂投馬國ナラント覺シケレバ、本居翁ノ説オホカタハ違ハサルベシ。
と云ひ、又邪馬臺國の條に
水行十日陸行一月トイヘルニツキテ思フニ、兒湯郡アタリヨリ贈於郡ニ至ランニ、海陸トモニサバカリ多クノ月日ヲ經ベキニモアラネバ、本居翁ノ考ノ如ク、月ハ日ノ誤リニテ、此ハ船路ヨリ直チニ今ノ大隅國佐多岬ヲ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)リテ鹿兒島灣ニ入リタルモノト覺シク、水行ハ十日ニテ陸行一日トアランニハ、サモコソト思ヒナサルヽナリ。
と説かれたれば、氏は本居氏の説を祖述せし東海航行論者なりしなり。修史局の編纂に係る『國史眼』には、『魏志』の行程を明瞭に記述せざれども、投馬の名を設馬の誤となし、之を薩摩に當てたるによりて之を推すに、不彌國より以下邪馬臺に至る行路は、九州の西海岸を經由せしものと考察せしなり。また史局の説を繼承して而も之を一層發達せしめたるものを『日韓古史斷』となす。同書筑紫の章に曰く
從來不彌以上はほゞ定説あり。其の設馬は今史局薩摩に擬す。其の邪馬臺はなほ異説多し、蓋熊襲の都噌唹城のみ。魏志の行程設馬に至るの路間、若干の陸行を脱し、其の水行二十日は筑後河の舟筏と、不知火の内浦航路にして、設馬は五萬餘戸、今の薩摩の全境にして、阿久根以南を云ふ。故に水行十〔日〕、陸行一月は既に隼人海峽黒迫門を踰え薩摩潟を渉り噌唹に着する者とす。然るに水行十日せば開聞の海角を迂囘するも、ほゞ櫻嶋の内灣に達し得べく、また別に陸行一月の長程を要せざるなり。因て疑ふ月は皆日のあやまれるにや。當に水行十日、陸行一日と爲すべきなり。又按ずるに、舟にて加世田港まで來り、陸に上り谿山に至り、一日にして又舟にて噌唹の大津に達せしにや。
と。那珂氏は菅氏の説に對しては
筑前博多ヨリ贈於郡ニ至ルニ、豐前豐後日向ノ東ニ沿ヒテ、佐多岬ヲ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)リテハ、イカニ地理ニ暗キ古代トハ云ヘド、餘リノ迂※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)ナレバ、信ゼラレズ。
と云ひて之を排斥し、又『古史斷』の説に對しては菅氏などの説に愈れるに似たりとのみ云ひて、明に自説を發表せられざりき。
 以上述べ來れる所によりて知らるるが如く、本居氏の説出でてより以後、本朝の學者は殆ど卑彌呼を熊襲の類と見做すに於いて一致したるに、獨り三宅博士と星野博士とは時流と異れる見解を有せり。三宅氏は「漢委奴國王印考」(『史學雜誌』第三編第三七號[#「『史學雜誌』第三編第三七號」は底本では「『史學會雜誌』第三編第三七號」]に於て
不彌(不詳)千餘家、投馬(備後備中ノ内ナルベシ)可四萬餘戸、邪馬臺(大和)可七萬餘戸。
と云はれたれば、博士は『魏志』の邪馬臺を五畿内の大和と見做し、卑彌呼を神功皇后に擬したるなり。果して然りとせば、博士は卑彌呼問題を『書紀』編纂時代の舊説に飜したるものと謂ふべし。又星野博士は『史學雜誌』に於て、神功紀に「轉至山門縣、則誅土蜘蛛田油津媛」とある山門縣、即ち筑後の山門郡を以て邪馬臺國と考定せり。那珂氏が博士の説に對して
此ノ山門郡ハ、筑前ナル國々ト相近クシテ、魏志ノ行程ニ合ハザルコトハ、近藤氏ノ山門郷ヨリモ甚シ。博士ハ魏志文ヲ引クニ、伊都國ヨリ邪馬臺マデノ行程ヲバ略カレタレドモ、コレラノ行程ハ、國々ノ位置ヲ求ムルニ必要ナル者ナレバ、多少ノ誤謬ハ免レズトモ、全クハ棄ツベキ者ニアラズ。今其ノ略カレタル行程ヲ算スルニ、東南百里、東行百里、水行二十日、及十日、陸行一日ニシテ、少クトモ水陸三十餘日ハ費シタルニ、怡土郡ヨリイカニ迂※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)シテモ、陸行四五日ニ過ギザル山門郡ヲ以テ之ニ當ツルハ、地理甚違ヘリ。
と論難せられたるは尤も余輩の意を得たるものなり。
 以上從來提出せられたる主要の諸説を列擧し盡したれば、此より卑見を開陳する順序となれり。余輩の考ふる所に據れば、卑彌呼問題をして此の如く解決に困難ならしめたる原因の一は『魏志』倭人傳に記されたる里數の標準が概して短少にして、支那國に行はれたる古今の尺度に合せざるに在るが如し。例へば帶方郡即ち臨津江口より狗邪韓國即ち金海に至る海上の距離は、大約二百餘里なるを、『魏志』には七千餘里となす。故に此間の三十五里は我が一里に當る。又狗邪韓國より九州の末盧國即ち松浦郡に至る海上の里程は、大約六十餘里に過ぎざるを、『魏志』には之を三千餘里となす。故に此間の五十里は我が一里に當る。又末盧國より不彌國即ち太宰府の附近に至る陸上の距離は大約三十里を出でざるに、『魏志』には之を七百里となす。故に此間の二十三、四里は我が一里に當る。此の如く『魏志』倭人傳に見えたる里程の標準は區々にして一定せざる上に、普通の支那里に比してもまた大に短縮せり。大谷文學士の調査によれば(『東洋時報』第一二二號)、漢時代の一里は官尺にて我が三丁五十五間、後漢建武銅尺にて三丁五十一間に當り、唐時代の一里は小尺にて我が四丁四十二間、大尺にて四丁五十一間に當る。而して現時の一清里は我が五丁十七間なり。然るに『魏志』記す所に據れば、長里を取るも其の一里は我が一丁三十四間に過ぎざれば、漢魏時代の標準は『魏志』里の約二倍半に當る。然れば帶方郡より不彌國に至る一萬七百餘里とあるは、一見甚だ大數の如くなれども、其實我が二百九十餘里の短距離を言へるにて、之を魏時代の標準里に換算するときは、大約二千七百餘里に過ぎず。因て思ふに、『書紀』の編者をはじめとして松下等の學者が、邪馬臺國を大和と考定して怪まざりしは、畢竟『魏志』に一萬二千餘里とある里數の大なるに眩惑して、その示す實際の距離を考慮せざりしにも因るべし。『魏志』の示す所によりて之を推すときは、邪馬臺國は不彌國より一千三百餘里に當れば、女王國が大和にあらずして、九州の地域にあるべきは、亦論を待たず。然れども『魏志』に載する所里程の標準一定せず。今假に上の一千三百餘里を此書示す所の長里にて算すれば、大約我が五十七里となり、また短里にて算すれば、大約我が二十六里となる。此の如く『魏志』の里程に處によりて甚しき伸縮を示すが故に、不彌國より南方一千三百餘里とあるを根據として、邪馬臺國の所在を的確に推知することは、殆ど不可能の事に屬す。然し不彌國より邪馬臺に至る行程には日數を擧げたれば、此日數に據りて女王國の位置を探らんか。即ち不彌國より邪馬臺國に至るに水行三十日陸行一日總て三十一日を要せり。今假に魏の使者は一日七里の行程を以て前進したりとせんか、三十一日にして二百十七里を行くべし。不彌國即ち博多附近より南に於いて此里程に當る地點を求むれば、琉球諸島の中大島あたりに落つべし。然れども此くては實際に合はざることとなれば、日數を楯に取りて女王國の位置を正確に推測すること、亦不可能の事たり。
 それ既に里數を以て之を測るも、又日數を以て之を稽ふるも、女王國の位置を的確に知ること能はずとせば、果して如何なる事實をか捉へて此問題を解決すべき。余輩は幾度か『魏志』の文面を通讀玩索し、而して後漸く爰に確乎動かすべからざる三箇の目標を認め得たり。然らば則ち所謂三箇の目標とは何ぞや。曰く邪馬臺國は不彌國より南方に位すること、曰く不彌國より女王國に至るには有明の内海を航行せしこと、曰く女王國の南に狗奴國と稱する大國の存在せしこと即ち是なり。さて此の中第一、第二の二點は『魏志』の文面を精讀して、忽ち了解せらるるのみならず、先輩已に之を説明したれば、姑く之を措かん。然れども第三點に至りては、『魏志』の文中明瞭の記載あるにも拘らず、余輩が日本學會に於て之を述べたる時までは、何人も嘗てこゝに思ひ至らざりしが故に、又此點は本論起草の主眼なるが故に、余輩は狗奴國の所在を以て、此問題解決の端緒を開かんとす。
 狗奴國に就きては、『外交繹史』に
菅氏云、大隅ヨリ南ニハ、種子屋久ナドイフサヽヤカナル島々ハアレド、共ニ攻撃スル程ノ國無ケレバ、此狗奴國ハ、モト下ノ「女王國東、渡海千餘里、復有國、皆倭種」トアル地ノ内ナルヲ、陳壽ガ、東ヲ南ト誤リタルナラン。サレバ後漢書ニハ、之ヲアハセテ「自女王國、東渡海千餘里、至狗奴國、雖皆倭種、而不女王」ト改メタリ。其ノ狗奴國ハ、馭戎慨言ニ「伊豫國風早郡に河野カフノサトあれば、それなどをいへるか、魏志に狗奴國の男王といへるも、すなはち此河野のわたりをうしはきゐたりしものをいふなるべし」トアリ。日韓古史斷ハ、更ニ進ミテ、狗奴ハ河野ニシテ、其官有狗古智卑狗ハ、河野氏ノ遠祖子致彦コチヒコヲ云フト云ヘリ。其ハ國造本紀ニ「小市ヲチノ(伊豫國越智郡)國造、輕島豐明御世、物部同祖大新河子致コチ賜國造。」氏族志神別越智氏ノ條ニ「大新河孫子致命、應神帝時爲國造、舊事本紀、云々、文武帝時、有越智玉興者、爲伊豫大領本書不言何郡、盖越智郡也玉興弟玉澄居河野、其後爲河野氏、云々。河野系圖、豫章記、越智氏累世居伊豫、支族蕃滋云々、而河野氏尤著河野系圖」トアルニ由リテ、ソノ子致命ヲ子致彦トシテ、狗古智卑狗ニ附會シタルナリ。又國造本紀ニ「久努(遠江國山名郡久努郷)國造、筑紫香椎ミヨ、以物部祖伊香色男孫、印播足尼賜國造」トアルニ由リテ、「河野は初め久努に作る。久努造は即越智氏同族にして、伊豫より出でたり。すべて越智の一族、東國に遷れる者、三河遠江伊豆駿河に蕃息し、三島を氏神として尊崇するは、伊豫なる大三島神の氏子たる明證なり。」又「越智(小市)風早(風速)の二國造、應神の朝に定め賜へりと(國造本紀ニ)云へれども、是の時初めて入國せりと思ふべからず。從來早く土著したりしならん。越智は物部氏と同祖なれば、自ら別系なり。越智の祖伊香色男は、蓋孝元帝の時の人なり。其の子は大新河にして、又其の子は十千根なり。十千根は、垂仁帝の時、物部連の尸を賜はりて、物部氏の祖となれり。されば孝元垂仁の間に、伊豫に越智氏の領國すでに定まれるなるべし」ト云ヘリ。又「男子爲王」ハ、下文ニ、男王卑彌弓呼トアルニ由リテ、日韓古史斷ハ、卑彌弓ヲ日子ヒノミコト讀ミテ、「伊豫國造の皇別より出でゝ、當時來りて其の國を鎭めたまへるを謂ふに似たり。越智氏、武臣として、世々王子王孫を奉戴して、地方を綏撫せしものと思はる」ト云ヘリ。伊豫造ハ、古事記ニ「神八井耳命者、伊余[#「伊余」は底本では「伊奈」]造等之祖也」、國造本紀ニ「伊余[#「伊余」は底本では「伊奈」]造、志賀高穴穗御世、印幡敷桁彦シキケタヒコ命男速後上賜國造」トアル者ニテ、古史斷ニハ、栗田寛氏ノ考ヲ引キテ「この國造は、成務帝時に定まれるにあらず、早く崇神帝の朝に賜はりしならん」ト云ヘリ。此等ノ説、イト巧ニハ辨ゼラレタレドモ、想像ニ成レル事多クテ、確證少ケレバ、慥ナル事ハ知リ難シ。
と評せられ、那珂氏自身は狗奴國に就きて別に意見を示されざりき。
 此の如く從來の學者が狗奴國を九州以外に置きて毫も之を怪まざりしは、『魏志』の本文を精讀せずして、專ら『後漢書』の文面に信頼したるに因るなり。學者若し余輩の言を疑はゞ試に左に引用する『魏志』の本文を熟讀せよ。
自女王國以北、其戸數道里可略載、其餘旁國、遠絶不可得詳、次有斯馬國、(中略)次有奴國、此女王境界所盡、其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王、(中略)女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種、又有侏儒國、在其南、人長三四尺、去女王四千餘里、又有裸國黒齒國、復在其東南、船行一年可至。
 此の中「女王國東渡海云々」以上の文意を案ずるに、末盧、伊都、奴、不彌、投馬諸國の戸數道程は前文の如く之を略載し得べけれども、其餘の傍國に就いては、詳なること知るべからず。然れども斯馬國以下奴國に至る十七ヶ國ありて、而して奴國は女王界の盡くる所に位す。又女王國の南には狗奴國ありて、男子を王とし、女王に屬せず、と云ふ趣に解せらる。されば倭國即ち九州の全部は、女王の所領にあらずして、その南部は狗奴國の版圖に屬せしなり。然るに『後漢書』の編者范曄は上段掲載の文面に據り、而も大に之を省略して、左の如き文をなせり。
自女王國東度海千餘里、至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王、自女王國南四千餘里、至朱儒國、人長三四尺、自朱儒東南行船一年、至裸國黒齒國、使驛所傳極於此矣。
 『後漢書』の此文を以て『魏志』の本文に對照するときは、前者が後者を剽竊踏襲したる形跡、顯然とし亦敝ふべからず。然るに獨り怪むべきは、『後漢書』が『魏志』の原文に女王國の南にありとせる狗奴國を擅に移して、女王國の東方千餘里の處にありと記せる倭種の住地に置かるること是なり。これ正しく原書の意と背馳し、誤謬を後世に傳へたるものと謂ふべく、本朝の史家が女王國の方位に就いて正當の解釋を得ざりしは、全く此曲筆に基く。然れども更に之を考ふるに、『後漢書』が此の如き杜撰の文を構成せるは、決して不注意より起りし偶然の誤謬にあらず、實は范曄が『魏志』の本文を誤解したるに因るなり。然らば編者は如何に此の本文を誤解したるかと云ふに、『魏志』に女王國より以北にある國々の戸數道里は略載すべしとあるに誘はれて、其下文にその餘の旁國遠絶にして詳に知るべからずとあるを、ひたぶるに女王國以南の國々と思ひ込みしなり。『魏志』に「次有奴國、此女王境界所盡」とある文面は、必しも之を女王國の極南にありと云ふ意に取るべからざるを、『後漢書』は實に之をかく思惟したるのみならず、この奴國はまた倭國即ち九州全島の極南界にありと誤解せり。其徴は同書倭國傳に
建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。
とある是なり。此の倭奴國は三宅博士が既に説けるが如く、伊都國の東なる奴國即ち國史の儺縣なるを、范曄は『魏志』が旁國として列擧せる十七ヶ國の末尾に見えたる奴國と誤解したるなり。故に范曄は『魏志』載する二ヶ處の奴國を一國と誤り、而も之を女王國の極南界即ち倭國の極南界にありと見たりしなり。編者已に奴國を倭國の極南界にありと思惟せしかば、『魏志』に、「其南有狗奴國」とある文面に逢着して、狗奴國の方位遂に解すべからざることとなりぬ。因て范曄は之を以て陳壽の誤謬と斷定し、適※(二の字点、1-2-22)『魏志』の下文に「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」とあるに思ひつきて、狗奴國を之と連結せしめ、「自女王國東度海千餘里、至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」とある文を結構せるなり。『魏志』の文を熟讀するに、漢魏時代に倭國と云ふは主として九州地方を指ししものにて、此島より以東に位する四國あたりは、未だ倭國の範圍に包含せしめざりしものの如し。さればこそ上文に見ゆる如く「復有國、皆倭種」とのみ云ひて、其國名を擧げざりしなれ。故に女王國の東なる倭種の國より以下裸國黒齒國の事を記せる一段は、已に倭國即ち九州に據れる女王國及狗奴國の事を敍し去りし後に、其處より絶遠なる國々の事を附記せるなり。倭國即ち九州内に於ては魏使が通行せし沿道の國は更なり、絶遠の國々と雖も、猶其名稱だけは聞き傳へたれど、女王國の東方千餘里の外に僻在せる孤島に就いては、其の住民の倭種たるを幽かに聞き得たるのみにて、其國の何と呼びけん、名稱さへも定かに知られざりしなり。之に反して狗奴國は倭國の南部に據りて、女王國と土壤を接したればこそ、其王の卑彌弓呼たることも、其官の狗古智卑狗たることも、また其國が女王國と相攻伐したることも、よく魏國に知られたるなれ。此の如く魏人に熟知せられたる狗奴國を以て、王名官名は更なり、國名さへも知らざりし、東方絶遠の倭種國に當てたる『後漢書』の著者は、全く『魏志』の文面を了解せざりしものと謂ふべし。
 若しも以上の推論に誤謬なしとすれば、後漢末より三國時代に亙りて、倭國即ち九州全島は南北の二大國に分裂し、北部は女王國の所領とし、南部は狗奴國の版圖として、兩々相對峙し久しく相讓らざる形勢をなししなり。然るに魏の正始八年に至り、女王國と狗奴國との間に戰鬪起り、女王卑彌呼は此亂中に沒したりと見ゆれば、此戰爭が女王國の敗北に終れることと察すべし。狗奴國が倭國の南部に據りて、而も此の如く強勇なりしを以て之を觀れば、此國こそ實に國史の所謂熊襲國に當つべきものなれ。而して熊襲の領土は大隅を中心として、薩摩日向の大部分を包括したれば、三國時代に於ける狗奴國の境域も、殆ど之と同一なりしと見て不可なかるべし。從つて此國と對抗したる女王國の領地が豐、肥、筑前後六國に跨りたること亦察するに難からず。而して女王の都邪馬臺國の位置は此形勢に鑑み、又『魏志』に載する所の里數、日數及行路の状況を參酌して、其全領域の西南部にありしこと、余輩の安んじて斷言し得る所なり。
 既に前にも述べたるが如く、『魏志』倭人傳に示せる方向は、處によりて些少の誤謬あるを免れざれども、大體に於いて正確を失はざれば、奴國不彌國等より南方にありと明記せられたる邪馬臺國が、筑前より南方に位せしは明なり。又不彌國より邪馬臺國に至るに、水行三十日陸行一日總べて三十一日を要せしとあるは、過多に失する嫌あれども、魏國の使者が實際陸行して水行せざりしならんには、何が故に此く虚報を作爲する必要ありしか、余輩は其理由を見出すこと能はざるが故に、此記事によりて、使者が有明の内海を航行せしものと斷定して不可なきを信ず。又邪馬臺國の南に狗奴國と稱する大國ありて、女王國と拮抗せしことは、前文已に之を説き盡したりと思惟す。余輩は以上三個の理由によりて、女王の領土は九州の北半に跨がり、而して其都邪馬臺國は此全版圖の西南部即ち肥後國の内にあるべきを信ぜんと欲す。女王の都已に肥後の内にありと一決せば、こゝに二個の疑問は提出せらるべし。曰はく帶方郡より邪馬臺國に至る實際の里程は三百三、四十里にて、之を後漢建武の銅尺にて計算すれば、約三千一百里を出でざる距離なるに、『魏志』が之を一萬二千餘里と計上したるは何故なるか。曰はく不彌國より邪馬臺國に至る實際の道程は三、四十里の間に出入する短距離なるに、『魏志』が之を三十一日程と明記せるは何故なるか。余輩の議論をして確實ならしむるには、尚ほ此等の疑問に對して合理的の説明を與ふる必要あり。
 此等の疑問を解決するに方りて、まづ第一に研究すべきは、『魏志』が帶方郡と邪馬臺國との距離として與へたる一萬二千餘里なるものが、果して當時の標準里に由れるものなりや否やの事是なり。漢土に行はれたる尺度の制を案ずるに、時代によりて多少の長短ありしと雖も、其一里は我が三町五十一間より四、五町の間に出入し、曾て『魏志』倭人傳に見えたるが如き短少の里程制度ありしを聞かず。然れども『魏志』が此處に示せる里數は處によりて伸縮を見るも、其全道程を通じて悉く普通の標準里よりも短少なるが故に、或は之を以て魏時代に行はれたる制度なりしと思惟する者なしとも保し難し。因て余輩は『魏志』が他の處に示せる里程を考究して、その果して倭人傳に與へたる里程と吻合するや否やを見んとす。『魏志』卷三〇高勾麗傳を案ずるに
高勾麗在遼東之東千里、南與朝鮮※(「さんずい+穢のつくり」、第3水準1-87-24)貊、東與沃沮、北與夫餘接、都於丸都之下。
とあり。遼東郡治は今の遼陽附近にして、高勾麗の都、丸都城は今の輯安縣石板嶺の麓に當たれば、其間の距離は我が九十里と百里との間にあり。然れば『魏志』が高勾麗傳に記せる千里は普通の標準里によれるものと見るべく、而して倭人傳に示せる里程と合せず。又同書夫餘傳によれば、夫餘は玄菟の北千里の處にありと記せり。玄菟郡治は今の奉天近傍にて、夫餘の都城は今の農安、長春のあたりにありしと思はるれば、その間の距離は大約我が百里もあるべし。然れば此處に示せる『魏志』の里數もまた普通の標準里により計算せしや明かなり。又『三國志』卷四七呉王傳嘉禾二年の條に引用せる『呉書』に「玄菟郡在遼東北、相去二百里」とあり。遼東郡は今の遼陽附近に位し、玄菟郡は今の奉天附近に治したれば、その間大約我が十七里なり。又同處に呉國の使者秦旦、張群、杜徳、黄疆等が玄菟郡より逃れて、高勾麗に走れる時に、初に六、七百里を行き、後に數日を費して、高勾麗王宮の都、即ち丸都城に達せりとあり。玄菟郡より丸都までは大約我が九十餘里なり。又『魏志』卷三〇韓傳を見るに
韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里、有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。
とあり。三韓の地は今の慶尚、全羅、忠清三道を包括せり。此地域の周※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)につき、今精細なる里數を擧ぐること能はざれども、地圖の上にて之を概算するに、蓋し我が三百里を下らざるべし。又同書鮮卑傳檀石※(「广+鬼」、第4水準2-12-8)の領域を記せる處に
北拒丁令、東却夫餘、西撃烏孫、盡據匈奴故地、東西萬二千餘里、南北七千餘里。
とあり。夫餘は今の農安長春の南北に據り、烏孫は今の天山の西部に住み、其間大約我が千里を距つ。此の如く『魏志』・『呉志』等、倭人傳以外の處に擧げたる里數は、大概普通の標準里に該當し、一として倭人傳中帶方郡より邪馬臺國に至る處に示せるが如き短少なる里數にあらず。又更に『魏志』倭人傳中に記せる里程を考究するに、帶方郡より邪馬臺國に至る道程のみが、甚しき短里にて一萬二千餘里と云ふ大數となり居れども、魏の使者が通行せざる、即ち沿道以外の處に係る里程が、之に反して普通の標準里によれるが如く思はるるは、大に注意を要すべき點なりとす。例へば倭人傳によれば、一支國は方三百里となり、而して伊能忠敬の實測録に此島の沿海周※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)は三十五里十五丁五十九間半とあれば、『魏志』の之を三百里と云へるは、大かた標準里に違はず。又『魏志』は倭國の周※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)を記して「周旋可五千餘里」といへり。實測録によれば、九州の沿海周※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)は八百六十里七町四十九間半とあり。此里數は沿岸の灣曲せる部分をも、精細に實測したる結果なれども、『魏志』の擧ぐる所は、沿岸の概略を目算したるものなれば、かの五千餘里といへるも、大方實際にかなへり。此の如く倭人傳に一支及倭國の周※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)を言へる所は、當時の標準里に合するに反して、獨り對馬島の周圍を記して「方可四百餘里」とあれども、實測録によれば、上之島の沿海周圍五十里一十四町二十一間半、下之島の沿海周※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)は一百三十五里三十一町一十九間半とあれば、兩者の間に多大の差異あり。思ふに傳の四百餘里といへるは、上之島の周圍をのみ擧げたるにはあらざるか。然らざれば魏の使者の誤算なり。其は何れにしても、『魏志』が帶方郡より邪馬臺國に至る三百三、四十里の距離を數ふるに、一萬二千餘里といふ大數を擧げたるに、周※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)百八十餘里ある對馬島に於いて僅に四百餘里といへるは、甚しき相違といふべし。
 以上考證せし所によりて知らるるが如く、『魏志』・『呉志』中に擧げられたる里程は、大概漢時代の標準里に合するのみならず、『魏志』倭人傳に於ても、帶方郡より邪馬臺に至る道程を除き、その他の處に記せる里程は、亦標準里に比して大差なきを見る。然るに獨り帶方より邪馬臺に至る道程に限り、古今に比類なき短里を以て計上し、一萬二千餘里といふ大數を表出したるは、大に怪まざるを得ず。唯に里數に於いて過大なるのみならず、日數を擧げたる所に於いても、其里程の短距離なるに照合して、亦その過多なるに驚くべし。已に里數に於いて當時の制度に合せず、また日數に於いても常軌を逸したるより之を考ふれば、魏國の使者は何事か爲にする所ありて、故らに里數日數を誇張したるものと斷定せざるを得ず。若しも魏國の使者が誠實に一定の標準を立て、之に依りて道程を計上せしとするも、不彌國より邪馬臺國に至る一千三百餘里(實は我が三十四里)を行くに、多くも十日を超ゆべからざるに、水陸三十一日を要せしと云ふは甚だ多きに過ぎたり。若しも魏國の天子が使者の採用せし里程の標準が、『魏志』に記すが如き短少なるを知りたらんには、爭でか此の如き不合理の報告を信ずべけんや。使者が此の如き虚僞の報告を呈して、恩賞に預らんこと思もよらず、必ずや虚妄を語るの故を以て嚴責を蒙るべきなり。然れども若しも使者が當初より故意に此沿道の里數日數を誇張せしものとすれば、決してさる矛盾を有せざるなり。何となれば後漢建武の銅尺にて一千三百餘里は、大約我が百四十里に當れば、之を行くに三十一日を要せしとするも、また必ずしも怪まるべきにあらざればなり。
 又更に倭人傳が帶方郡より邪馬臺國に至る沿道紀行の體裁を視るに、帶方郡より狗邪韓國に至るまでは單に里數を擧げ、對馬、一支、末盧、伊都、不彌に於いて里數の外に戸數及官名を擧げたるに、投馬、邪馬臺に於いては、戸數、官名を記せるは上記諸國の條に於けるが如くなれども、此處に限り里數の代りに日數を擧げたり。凡そ漢土の紀行文を見るに、日數のみを擧げたる場合には、多く里數を省けり。是れ蓋し正確なる里數を知ること能はざるが故なり。然るに倭人傳に於いては、帶方郡より邪馬臺に至る里程は一萬二千餘里と計上し、而して帶方より不彌國までは一萬七百餘里と知られたれば、かの一萬二千餘里よりこの一萬七百餘里を差し引きて得たる一千三百餘里が、即ち不彌國より邪馬臺國に至る里程なるは、當時魏の使者が必ず熟知せる事なり。然るに不彌國より投馬國に至る行程と、投馬國より邪馬臺國に至る行程とに於いてのみ、日數を記して里數を擧げず。論者或は云はん、此の二國は帶方郡より絶遠の地に位するが故に、此等諸國相互の距離に就きて明確なる知識を有せざりしが故ならんと。然れども傳中には投馬、邪馬臺二國に於ても、他の諸國の如くに、官名、戸數を記したるのみならず、帶方郡より邪馬臺に至る總里數をも記したる程なれば、不彌より投馬、投馬より邪馬臺に至る距離が計算せられざる理あるべからず。但し此紀行が實際を誠實に敍したるものとすれば、里數の代りに日數を擧げたるまでなりと解し去るべきなれども、若しも此行程が故意に誇張せられしものとすれば、不彌國より以下邪馬臺國に至る行程を示すに、里數の代りに日數を用ゐたるは、大に要意苦心の存する所ならざるべからず。傳によれば帶方郡より邪馬臺國に至る道程を一萬二千餘里となす。試に此里數を虚心平氣に考へんか、如何に東國の地理に暗き魏人と雖も、其里數の多大なるに疑惑の念を起すべし。是に於てか此報告を作りしものは、務めて此疑念を杜絶する道を講ずる必要あり。故に使者は此道程の計算に誤りなきを證せんと欲し、不彌國より邪馬臺國までは日數を明載し、又それと共に此間の距離が一千三百餘里なることを間接に現はし、從つて一日の行程平均我が四、五里なりしことを暗示せり。若しも此の如くに、倭人傳の行程を解釋するときは、不彌國より邪馬臺國に至るに日數にて三十一日、里數にて一千三百餘里と計上するも、余輩が邪馬臺國を肥後の内に置く結論と牴觸せざるを悟るべし。今日に傳はれる『魏志』の倭人傳によれば、不彌國より投馬國まで水行二十日、投馬國より邪馬臺國まで水行十日、陸行一月とあり。若し此明文の如くんば、不彌國より邪馬臺國に至る一千三百餘里を行くに六十一日を要し、一日進行の道程は平均我が二里乃至二里半となるべし。虚僞の報告を作るに苦心せし魏の使者が、何の爲にか此の如き見やすき破綻を示して、自ら恥辱を招く愚をなさんや。更に思ふに、不彌國より水行三十日の道程に於いてすら、使者が寄泊せし投馬國の名を擧げたるに、邪馬臺に至る陸行一月の沿道に於いて、一國の名稱をだに記さざるは、理に於て然るべからず。余輩は此等の理由によりて、『魏志』に一月とあるは一日の誤寫なりと云ふ先輩の意見に贊同す。
 以上地理上の考證によりて、女王の都せし邪馬臺國は肥後の國内にありて、其領土は九州の北半に亙りたりと思はるるが故に、之と對抗して而も之を敗北せしめたる狗奴國も、亦決して小國にあらざりしなり。狗奴國の所在及其版圖の區域に就きては、倭人傳に明記する所なければ、之を精細に述ぶること能はざれども、此國が女王國の敵國にして、九州の南部を占領したる形勢より之を判ずるに、蓋し國史に傳はれる熊襲の如き地位を有せるものならん。而して女王の名卑彌呼及狗奴國の名卑彌弓呼は、また此二王の九州に於ける大君主にして、決して一小地方に割據せる酋長にあらざりしを示すものなり。女王卑彌呼の名義に就いては、古來種々の解釋ありて、未だ一定せざるが如し。松下見林は其著『異稱日本傳』卷上に於いて「卑彌呼ヒメコ者神功皇后御名氣長足姫尊故訛云然」と説かれたれば、氏は卑彌呼ヒメコを姫尊の轉訛と見たるなり。然るに本居宣長は此解釋に從はずして、更に之を姫兒ヒメゴの對譯と説けり。而して此解釋の當を得ざることは、那珂氏の『外交繹史』卷二八魏志倭人傳に精はしく論ぜられたれば、左にその一節を引用すべし。
卑彌呼ハ、熊曾ノ女酋ノ名ナリ。馭戎慨言ニ「一女子云々とは、まさしく息長帶尊の御事を三韓などよりひかことまじりに傳へ聞奉りてかけるもの也。卑彌呼は、姫兒ヒメゴと申す事にて、神代卷に火之戸幡姫兒ヒノトハタヒメゴ千々姫チヽヒメ命また萬幡姫兒ヨロヅハタヒメコ玉依姫タマヨリヒメ命などある姫兒に同じ。姫を比彌ヒミといへる例も、古きふみに見えたり。さればこそたふとみて、御國人のつねにかく申せしを、韓人カラビトなどの聞て傳へしを、御名と心得しなるべし」、中外經緯傳モコノ説ニ從ヒ、「姫と卑彌と通はし云へるも、古言なり。釋日本紀に引れたる上宮紀に、皇女たちの中に、某比賣と申せる中に、大中比彌、田宮中比彌、阿那爾比彌、布利比彌命、また上宮聖徳法王帝説の中に載たる古文に、吉多斯比彌乃彌己等、加斯支移比彌乃彌己等など、なほあり。神名式阿波國に、波爾移麻比彌神社とも見えたり。今按るに、當時皇后よろづまつりごちておはしましけれど、實には、おのづから應神天皇の御世なれば、しかすがに皇后の御事を須賣良美古登と申すべきにあらず。故別に崇めて比味呼と申奉れるを、女子の天皇にておはす御名と心得て、然は記せるものなりけり」トアリ。サレドモ、古史徴第三十七段ニ「記傳に神代紀の一言どもを引きて、栲幡千々姫タクハタチヂヒメミコ萬幡姫ヨロヅハタヒメ命、火之戸幡姫ヒノトハタヒメミコ千々姫チヂヒメ命など有を、姫兒ヒメゴヨミをつゞけて一ツノ名とせられ、また高皇産靈尊萬幡姫ヨロヅハタヒメミコ玉依姫タマヨリヒメ命と書連カキツヾけたるを萬幡姫ヨロヅハタヒメミコ玉依姫タマヨリヒメ命と訓て、豐秋津師比賣トヨアキツシヒメ命の亦名とせられ、馭戎慨言にも云々と云れしは違へり」ト云ヘルハ、實ニ然ル事ニテ、姫兒ヒメゴト云フ稱ハ、物ニ見エタルコト無ケレバ、卑彌呼皇后ノ尊稱トスルハ、據ナキ説ナリ。
 吉田博士は其舊作『日韓古史斷』第三編に於いて、卑彌呼は「日子」「ひのみこ」の義、姫子にあらずと云ひて、亦本居氏の説に贊成を表せざりき。余輩の考ふる所によれば、卑彌呼とは女王の尊稱にて、其實名にあらず。その義は既に松下氏の説けるが如く、姫尊即 himemikoto の轉訛ならん。漢人は常に外國の名稱の長きを厭ひて之を省略する風あり。故にヒメミコトのメミ(memi)二音の相重なるを略して、單に之をメ(me)とし、又ミコトのトを省きて、卑彌呼ヒメコと書けるなり。此解釋の正を失はざるは、狗奴國王の名卑彌弓呼の解釋と相待ちて之を悟るべし。卑彌弓呼の名義に就きて、詳細なる説明を與へたるものを『日韓古史斷』となす。同書第三編第二章筑紫の條に曰く
狗奴國は男王あり卑彌弓呼素と曰ふ。後漢書に云ふ、女王國より東、渡海千餘里、狗奴國に至る、皆倭種なりと雖も女王に屬せずと。魏志に云ふ、奴國の南に狗奴國ありと。或は曰ふ、狗奴は河野にして伊豫國なりと、恐らくは當に然るべし〔注略〕。按ずるに伊豫は西南の舊國にして大族あり、河野と云ふ、其の初久努クヌに作る、其の祖子致コチと云ふ、魏志に謂はゆる官狗古智卑狗と曰ふ者は即子致彦コチヒコ歟。子致又越智ヲチと云ふ〔注略〕。而て又王あり卑彌弓呼素と爲すは又日子ヒノミコの稱を冠れり。伊豫國造の皇別に出で〔注略〕、當時來り其の國を鎭めたまへるを謂ふに似たり。又其の名、女王を壹與と曰ひ男王を呼素と云ふは、二國講和して、古俗盟約易名の事をなし、伊豫壹與の稱を女王に附し、襲小襲にや、又「古事記傳」「征韓起源」等に因れば、襲の語源は「ヲソ」より出づといへり、「コ」「ヲ」は古言多く相通せり、或は熊襲の徒魏人に告ぐるに殊に卑めて小襲と呼びしにやの稱を男王に附せしに因る歟。
 吉田博士は狗奴國王の名を卑彌弓呼と云はずして、卑彌弓呼素と讀み、此名の中卑彌弓は卑彌呼と同じく日子ヒノミコの對譯、呼素はオソの音譯なりと見られたり。博士が狗奴國王の名を卑彌弓呼素となししは、倭人傳の文に「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼モトヨリ和」とある副詞の素を男王名稱の末尾に連結せしめたるが故なり。呼の今音は hu なれば、呼素は hu-so と音し、襲(oso)と音聲相近けれども、同文卑彌呼の名に於いて、呼は正しく ko と響かしたるを見れば、卑彌弓呼の名に於いて、之を(o)と音せしむるは如何にや。菅氏は「漢籍倭人考」に於いて亦此王の名義を説いて曰はく
卑彌弓呼ハ、卑彌呼ニ弓一字ヲ加ヘタルマデナル上ニ、卑彌ハ姫ニテ女子ノ稱ナレバ、男子ニサル名ノアルベクモ思ハレズ、サラバ字ノ誤ハモトヨリナガラ字ノ誤リハヒトリ此ノミナラズ、往々ニアリ狗奴國ノ所在サヘ詳ナラネバ、思ヒヨスベキスベモナシ、サレド試ニイハヾ、卑彌弓呼ハモト卑呼彌呼トアリケンヲ、卑下ノ呼ヲ脱シ、彌偏ヲ誤リテ、再ビ彌ノ下ニ弓ト書シタルモノナラン、卑呼彌呼ハ彦御子ニテ、其ハ開化天皇々子彦坐王ヒコマスミコヲ訛リテ申シシナリ。
 余輩の考ふる所によれば、卑彌弓呼は卑弓彌呼の倒置にて、hikomikoto の省略なり。されば卑弓彌呼は卑彌呼と同じく狗奴國王の實名にあらずして、その尊稱なり。『魏志』の文中にも女王卑彌呼に對して、男王卑彌弓呼と記したれば、當時九州の倭人は邪馬臺國王は女子なりしが故に、之を尊稱して卑彌呼即ち姫尊といひ、狗奴國王は男子なりしが故に、之を[#「之を」は底本では「之と」]卑弓彌呼即ち彦尊といひしなり。ヒコ、ヒメのヒはムスコ、ムスメのムスの如く一個の美稱なれば、必ずしも之を日の義に解くべきにあらず。『魏志』倭人傳の中に種々の官名(人名)を擧げたれども、之にミコトの尊稱を附せざるは、何れも一地方の酋長にして、女王或は男王に隷屬する臣下なりしが故なるべく、之に反して倭女王狗奴男王がミコトと稱せられしは、此二王が九州に於ける二大勢力たりし一證と見るべし。
 太古九州全島が二大國に分裂せしことは、我が開闢史によりても、その形勢を窺ひ得べきが如し。余輩は隼人等が祖先として知られたる火闌降ホノスソリ命と其弟彦火火出見尊とが、鉤針の故を以て爭ひし一條の物語を、此二大勢力の爭鬪を神話に化し去りしものと思惟す。蓋し彦火火出見尊は九州北部の勢力を表はし、火闌降命は南部の勢力即ち隼人國を表はししなり。而して弟尊が兄命を苦めて、遂に之を降服せしめたる方法は、一種特別にして、而も地方的性質を帶ぶるものなるが故に、余輩は左に『古事記』の一節を引用すべし。
是以備如海神之教言、與其鉤、故自尓以後、稍愈貧[#「稍愈貧」は底本では「弥愈貧」]、更起荒心迫來、將攻之時、出鹽盈珠而令溺、其愁請者、出鹽乾珠而救、如此令惚苦之時、稽首白、僕者自今以後、爲汝命之晝夜守護人、而仕奉、故至今、其溺時之種々之態、不絶仕奉也。
 九州の西海岸は潮汐滿乾の差甚しきを以て有名なれば、上に記せる鹽盈珠鹽乾珠の傳説は、此自然的現象に原因して起れるものならん。故に神典に見えたる彦火火出見尊と火闌降命との爭鬪は、『魏志』によりて傳はれる倭女王と狗奴男王との爭鬪に類せる政治的状態の反映と見做すべきものなり。
 『魏志』の記す所によれば、邪馬臺國は本と男子を以て王となししが、其後國中混亂して相攻伐し、遂に一女子を立てて王位に即かしむ。是を卑彌呼となす。此女王登位の年代は詳かならざれども、その始めて魏國に使者を遣はしたるは、景初二年即ち西暦二百三十八年なり。而して正始八年即ち西暦二百四十七年には、女王狗奴國の男王と戰鬪して、其亂中に歿したれば、女王は蓋し後漢の末葉より此時まで九州の北部を統治せしなり。女王死して後國中また亂れしが、其宗女壹與なる一小女を擁立するに及んで國亂定りぬ。卑彌呼の仇敵狗奴國の男王卑弓彌呼は何年に即位し何年まで在位せしか、『魏志』に傳らざれば、また之を知るに由なし。然れども正始八年に此王は女王卑彌呼と戰つて勝利を得たれば、女王の嗣者壹與の代に及んでも、依然として九州の南部に據りて、暴威を逞しうせしに相違なし。
 九州に於いて此の如く南北の二大國が對立して、互に雌雄を爭ひし時に方りて、此より以東の國々は果して如何なる状態にてありしか、漢史の方面よりは、其の消息を窺ふに由なし。若しも當時大和の朝廷が九州地方と密接なる關係にてありたらんには、『魏志』倭人傳に之を逸すべき筈なし。然るに傳中に女王國以東に關する事を載する甚だ漠然たるを思へば、當時皇朝の威力は未だ九州地方に及ばざりしなり。那珂氏の「上世年紀考」(『史學雜誌』第八編第一二號)によれば、崇神天皇の崩年戊寅は魏帝曹髦の甘露三年即ち西暦二百五十八年に當り、仲哀天皇の崩年壬戌は晉の穆帝の永和十一年即ち西暦三百五十五年に當る。然れば倭女王卑彌呼及其嗣者壹與は崇神天皇と同時代の人たりしなり。此年紀推定の正確なることは、之によりて日韓の古史がよく解説し得らるるにても證すべし。國史を案ずるに皇化の九州地方に加はりしは、崇神天皇以後にあり。此帝の時四道將軍を四方に派遣せられけるが、その中西道に向ひしは、吉備津彦なり。此將軍は專ら中國を經略せしにて、九州に渡りしとは思はれず。然るに『國造本紀』に此朝に十一國の國造を定め給へるが中に
造、瑞籬御世、大分同祖志貴多奈彦命兒建男祖命定賜國
阿蘇國造、瑞籬御世、火造同祖神八井耳命孫速瓶玉命定賜國
と見ゆれば、火國造は肥後國の一部を賜はり、阿蘇造は肥後國の阿蘇郡を賜はりしに聞ゆれども、崇神天皇の頃九州の北部殊に肥後は卑彌呼女王の本地にして、其沒後に至りても尚ほ壹與の領土なれば、瑞籬御世に此處に國造を置かれしこと事實と思はれず。されば那珂氏もこの國造設置に就きては疑を懷かれ
景行紀ニ「吉備津彦西道」トアル西道ハ、イヅコマデヲ云ヘルカハサダカナラネドモ、古事記ニ「大吉備津日子、與若建吉備津日子向和コトムケヤハス吉備」トアリテ、二皇子ノ平ゲ給ヒシハ、今ノ中國ノ地ナレバ、西方ノ經略ハ未ダ筑紫島マデハ及バザルベク思ハルレバ、此ノ二國造ノ事モ、後ヲ前ニメグラシテ、祖先ヲ擧ゲテ云ヘルニハ非ザルカ。
と説かれたるは極めて理なり。然るに其後景行の朝に天皇親ら豐、火、日向、筑紫を巡狩せられ、次で日本武尊をして熊襲を討たしめ給ひ、また此朝の時に葦北國造などをも置かれたりしを以て之を觀れば、九州の北半は是時より漸く王化に沾ひ始めたるなり。成務天皇の時に至りて、九州に筑志、筑志米田メタ、豐、國前、比多、松津、末羅、天草、葛津の國造を定め給ひしこと、『國造本紀』に見えたれば、此天皇の時となりては、往昔卑彌呼の領土たりし處は、悉く大和朝廷の命令を奉ずることとなれりしなり。此の如く景行の朝より成務の朝に亙りて、九州の北部が容易に王化に靡きしは、固より列聖御稜威の然らしむる所なるべしと雖も、而もまた此處に據れる女王國の勢力が衰頽に赴きしこと、その原因たらずんばあらず。而して女王國の衰弱せし原因に二あり。一は此國が卑彌呼女王の時に、南方の敵國狗奴國と戰つて敗北を取りしより以來、其勢力また昔日の如くならざりし事、一は西晉末より五胡中國に侵寇したる結果として、女王國の依頼せし樂浪帶方の二郡滅亡せしこと即ち是なり。若しも此の如き形勢の變動無からんには、如何に景行天皇及日本武尊が勇武にましますも、此く容易に九州の北部を經略平定すること、或は能はざりしならん。九州の北部既に皇朝の命を奉ずるに及んでも、南部の熊襲即ち狗奴國は依然として王師に反抗して、尚ほ獨立の地位を保ちしなり。然れども仲哀神功の代となりては、皇室の威力は東海、北陸、四國、中國及び九州の北半に及びしかば、流石の熊襲も其壓力に堪へずして降服するの已なきに至れり。かくて大八洲國は悉く討平せられて、皇室の隆なること前後に比びなかりしかば、神功皇后は全國の兵力を傾けて三韓を征伐し給へり。而して韓國當時の状態を顧るに、樂浪帶方二郡の滅亡するや、高勾麗北方より南下して其故地を略し、更に進んで三韓を併呑せんず勢なり。是に於いて從來緩慢なりし韓族は、はじめて強固なる國家を組織する必要を感ずると同時に、尚ほその中には東方倭國の應援を得て、自國の獨立を維持せんと圖るものありき。神功皇后の征韓は此大勢に駕せしかば、容易に效果を收めたるものなるべく、必ずしも之を皇國の勢力強大なりしのみに歸すべからず。
 以上女王國の興亡及其の滅亡が、皇威の發展に好箇の機會を與へたるを敍したれば、再び本論に立ち歸り、卑彌呼女王の人物に就いて、論ずる所あらんとす。已に前にも述べたるが如く、邪馬臺國には元と男王ありしが、其後國中に混亂を生じ、遂に卑彌呼を奉じて王となせり。卑彌呼死して國また亂れしが、十三歳の少女壹與を奉戴するに及んで、國亂遂に定りぬ。此の如く邪馬臺國が二代引き續きて女王を奉戴せしは甚だ奇怪に思はれんが、景行の朝より神功の代に至るまで、九州地方に女酋の多かりしを見れば、邪馬臺國が女王を君主と仰ぎしも、亦怪むに足らざるべし。那珂博士は其『外交繹史』第二八に『書紀』・『風土記』に見たる女酋の例を擧げたれば、左に之を引用すべし。
筑紫島ニハ女酋ヲ尊ブ習俗ノ有リシト見エテ、景行紀ニ云「到周芳※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)サバ、天皇南望之、詔群卿曰、於南方、煙氣多起、必賊將在、則留之、先遣祖武諸木、國前祖兎名手、物部祖夏花、令其状、爰有女人神夏磯媛、其徒衆甚多、一國之魁帥也、聆天皇之使者至、則拔磯津山賢木、以上枝挂八握劍、中枝挂八咫、下枝挂八尺瓊、亦素幡樹于船舳、參向而啓之曰、願無兵、我之屬類、必不違者、今將徳矣云々」周芳※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)サバハ、今ノ周防國佐波郡ナリ。一國之魁帥也トハ、筑紫國ノ中ニテ、一地ノ酋長タルヲ云フ。磯津山ハ、河田羆氏ノ西征地理考ニ「今ノ企救郡貫山、一名シハツ山是也」トアリ。又「到速見邑、有女人、曰速津媛、爲一處之長、其聞天皇車駕、而自奉迎之云々」速見邑ハ、今ノ豐後國速見郡ナリ。速津媛ノ事ハ、豐後國風土記速見郡ノ條ニモ「昔者纒向日代メシ宇天皇、欲玖磨贈、幸於筑紫、從周防國佐婆船而渡、泊於海部郡宮浦時、於此村女人、曰速津媛、爲其處之長、即聞天皇行幸、親自奉迎云々、因斯名曰速津媛、後人改曰速見」トアリ。景行紀ニ又、「天皇將京、以巡狩筑紫國、始到夷守、是時於石瀬、人衆聚集、於是天皇遙望之、詔左右曰、其集者何人也、若賊乎、乃遣兄夷守弟夷守二人覩、乃弟夷守還來而諮之曰、諸縣君泉媛、依大御食而其族會之」夷守ハ、今ノ日向國西諸縣郡小林郷ナリ。「到八女、則越藤山、以南望粟岬、詔之曰、其山峯岫重疊、且美麗之甚、若神有其山乎、時水沼縣主※(「けものへん+爰」、第3水準1-87-78)大海奏言、有女神、名曰八女津媛、常居山中、故八女國之名、由此而起也」八女縣ハ今ノ筑後國上妻下妻二郡ナリ。藤山ハ、今御前嶽ト云ヒテ、御井郡ト下妻郡トノ界ニアリ、水沼縣ハ、今ノ筑後國三潴郡ナリ。豐後風土記日田郡ノ條ニ「昔者纒向日代宮御宇大足彦天皇、征伐球磨贈於凱旋之時、發筑後國生葉行宮、幸於此郡、有神名曰津媛、化而爲人、參迎辨申國消息、因斯曰久津媛之郡、今謂日田郡者訛也」上ノ津媛ノ上ニ、久字落チタルカ、生葉ハ、景行紀ニ的邑イクハムラ[#ルビの「イクハムラ」は底本では「イチハムラ」]トアリ、今ノ生葉郡ナリ。日田郡、今モ然云フ。肥前國風土記松浦賀周カス里ノ條ニ「昔者此里、有土蜘蛛、名曰海松橿媛ミルカシヒメ、纒向日代御宇天皇巡國之時、遣陪從ミトモ大屋田子オホヤタコ、誅滅云々、」杵島孃子ハヽコ山ノ條ニ「同天皇行幸イデマシ之時、土蜘蛛八十女ヤソメ、又有、常皇命、不アヘ降服マツロヒ、於茲遣兵掩滅、因曰孃子山」、彼杵郡浮穴郷ノ條ニ「同天皇在宇佐濱ウサハマ行宮、詔神代カシロ、曰云々、即勅直遣此村、有土蜘蛛、名曰浮穴沫ウキナワ、捍ヒテ皇命甚無禮、即誅之、因曰浮穴郷」、神功紀ニ「轉至山門、則誅田油津媛、時田油津媛兄夏羽、興軍而迎來、然聞其妹被一レ誅而逃之」山門縣ハ、今ノ筑後國山門郡ナリ。ナド見エ、又豐後風土記日田郡五馬山ニ、土蜘蛛五馬媛、肥前風土記佐嘉郡ニ、土蜘蛛大山田女、狹山田女ナドモアリ。
 此等の例證によるときは、景行の朝より神功の代に亙りて、九州地方に女子にして君長たりしもの十二名あり。尚ほ之に卑彌呼及壹與を加ふるときは十四名の多きに及ぶ。今日より之を見れば寧ろ奇異の感なくんばあらず。是れ固より當時の風習なるべけれども、何が故に斯る習が行はれて、此の如く多數の女酋を輩出せしめたるか、これ大に考究すべき問題なり。那珂氏は之に説明を與へて
此ノ風俗ハ、イカナル原因ヨリ生ジタルカハ知ルベカラザレドモ、卑彌呼壹與等ガ、國人ニ畏服セラレタルハ、其ノ英略アルガ爲ノミニハアラデ、此ノ風俗アリシニモ由レルナルベシ。然ラズバ、又卑彌呼ノ英略ヲ以テ、國人ヲ服セシヨリシテ、人民自ラ女酋ヲ重ンズル心ヲ生ジ、遂ニ筑紫ノ各地ニ、女酋ノ興起スルニ至リシヤモ知ルベカラズ。
と説かれ、又三宅博士は別に説をなして
凡太古の家系は母姓に因れり。我が舊辭の時代はかゝる原始社會を去ること遠しと雖も、猶其の遺風を存したればにや、古事記往々女子を擧げて氏族の祖と爲せり。又我が舊辭時代には著名なる女子多く、各處の酋長に女子少からず、是れ亦女系を主とせる古俗と相關係せるならん。
と云はれたり。此二家の所説は果して我が國の古俗に女酋の多かりし原因を解き得たるものなりや否や。請ふ試に『魏志』が卑彌呼の人物に就きて記す所を見よ。
乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大無夫壻、有男弟佐治國、自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飮食、傳辭出入、居處宮室樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞。
 此文によりて卑彌呼の人となりを察するに、軍國の政務を親ら裁斷する俗界に於ける英略勇武の君主と見るよりは、寧ろ深殿に引き籠りて祭祀を事とし、神意を奉じて民心を收攬せる宗教的君主と見らるるなり。是れ余輩が那珂氏の説に從ふこと能はざる所以なり。又三宅博士の云はるるが如く、我國の太古にも母系を重んじたる形跡なきにあらねど、卑彌呼時代には夫婦の制が判然と確立せしことは、『魏志』の文面よりも、又我が開闢史の上よりも知らるるが故に、余輩は博士の意見に贊成すること能はず。且つ母系を重ずる習慣より之を論ずれば、國民の尊敬を受くる女王は母たる資格を要すべきは勿論なるに、卑彌呼が年長じて夫壻なく、一生を處女にて送りしは如何に解くべきか。我國の古俗にては人事を汚穢とするが故に、神祇に奉侍する婦人は大概人に嫁せざるを常とす。人の妻女は勿論、一たび人に姦せられたる女子が齋宮たる資格を失ふことは能く人の知る所なり。因て案ずるに、卑彌呼が年長じても夫壻なきは、神祇に奉侍する自己の地位の然らしむる所にして、他の故ありしにあらず。されば卑彌呼が女王として推戴せられしは其資性の英明勇武なるにあらずして、神祇に奉侍し其意を傳達するに適したる性質を具備せしが故なり。又卑彌呼の嗣者壹與が十三歳にして女王となりしは、必しも之を卑彌呼の宗女たりし門閥上の關係にのみ因れるものと見るべからず。之を皇朝の例に鑑るに、二、三歳の皇女にして齋王となれるものありき。壹與が十三歳にして王統を繼ぎしも、必ず此宗教的理由に因るものと解せらる。
 論者若し我が國の古俗に女酋多きの故を以て、女尊男卑は我が國上代の風俗なりしと推斷せば、大なる謬見なり。『魏志』倭人傳に
其俗國大人皆四五婦、下戸或二三婦、婦人不淫不妬忌。
とあるによりても、我が古俗にて婦女は貞節を守り、其夫に從順なりしを察すべし。又神典に、伊邪那岐、伊邪那美とかき、沫那藝、沫那美と記すが如く、常に男神を前に擧げて女神を後にするを見ても、男尊女卑が我が國の古俗なりしを悟るべく、殊に諾册二神が天の御柱を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りて美斗の目合をせさせ給ふ處に「伊耶那美命イザナミノミコトマヅ阿那迩夜志アナニヤシ愛袁登古エヲトコヲトノリタマヒ、ノチニ伊耶那岐命イザナキノミコト、言阿那迩夜志アナニヤシ愛袁登賣エヲトメヲトノリタマヒキオノ/\言竟之後ノリタマヒヲヘテノチニ告其妹曰ソノイモニ女人先言不良ヲミナヲトコニサキダチテフサハズトノリタマヒキ」とあるは、明かに男尊女卑の國俗を證するものなり。此の如く男尊女卑は我が古俗なりしにも拘らず、女人にして君長となれるもの多かりしは、甚だ奇異に聞ゆれども、其理由の宗教的關係に存するを悟らば、疑團は忽ち氷解せらるべし。我が古俗に於いては、女性は一般に男性に劣れりと雖も、女性の中に特に神祇の憑依する所となりて、其意思を傳達するに適する資質を有する者あり。此の如き婦人はこの理由によりて、國民の尊崇を受くるに至ること、敬神の念深き上代にありては、決して怪むべきにあらず。卑彌呼、壹與等が九州北半の大君主と仰がれしも、全く此の理由によるものにて、必しも之を以て此等女王の資性勇武なりしのみに歸すべからず。
 此の如く倭女王卑彌呼の性質を論究したる後に於いて、余輩ははじめて我神典中の一大疑問を解釋し得べしと信ず。所謂一大疑問とは何ぞや。曰はく皇祖天照大御神が女性の御身を以て、高天ヶ原に君臨せさせ給ふ事是なり。神典を通讀するに男尊女卑の精神は全篇に※(「彳+編のつくり」の「戸」に代えて「戸の旧字」、第3水準1-84-34)滿するにも拘らず、大御神が女神を以て天上の君主と仰がれ給ふは、一見甚しき矛盾なり。古來の學者此矛盾を解かんと務めて、遂に其要を得ず。是に於てか大御神は男神にして女神にましまさずとまで思惟する者あるに至る。然れどもこれ畢竟我が國の古俗を知らざるよりの謬見なり。凡て神話傳説は國民の理想を述べたるものにて、當時の社會の精神風俗等は、悉く其の中に包含せらるるものなるが故に、皇祖發祥の地たる九州に於いて、上古卑彌呼をはじめとし女子を以て君長たりしもの其數を知らずとせば、大御神が女神として、天上に照臨し給ふも、亦何の怪むべきことかこれあらんや。神典の中天安河の條はよく大御神の御資格を表はすと共に、また當時の社會の状態を示すを以て、左にその一段を引用せん。
尓速須佐之男命白于天照大御神、我心清明故、我所生之子得手弱女、因此言者、自我勝云而、於勝佐備此二字以天照大御神之營田之阿此阿字以其溝、亦其於看大嘗之殿、屎麻理此二字以散、故雖然爲、天照大御神者、登賀米受而告、如屎醉而吐散登許曾此三字以我那勢之命爲此、又離田之阿溝者、地矣阿多良斯登許曾自阿以下七字以我那勢之命爲此登此一字以詔雖直、猶其惡態不止而轉、天照大御神坐忌服屋而、令神御衣之時、穿其服屋之頂、逆剥天斑馬剥而、所墮入時、天衣織女見驚而、於梭衝陰上而死訓陰上云富登故於是天照大御神見畏、開石屋戸、而刺許母理此三字以坐也、尓高天原皆暗、葦原中國悉闇、因此而、常夜往、於是万神之聲者、狹蠅那須此二字以滿、万妖悉發、是以、八百万神於天安之河原神集集而(中略)宇受賣命手次-繋天香山之天之日影而、爲天之眞拆[#「天之眞拆」は底本では「天之眞析」]而、手草結天香山之小竹葉小竹佐々天之石屋戸、伏※(「さんずい+于」、第3水準1-86-49)此二字以而、踏登杼呂許志此五字以神懸而、掛出胸乳、裳緒忍-垂於番登也、尓高天原動而、八百万神共咲、於是、天照大御神以爲怪[#「怪」は底本では「恠」]、細開天石屋戸而、内告者、因吾隱坐而、以爲天原自闇、亦葦原中國皆闇矣、何由以天宇受賣者爲樂、亦八百万神諸咲。云々
 此文を以て之を觀れば、大御神は高天ヶ原に於いて至高の神にましませど、敬神の念深くして祭祀を重じ、御自らまた天神を祀らせ給へり。故に新嘗の料に備へんが爲に營田ミツクタにて稻を作らしめ給ひ、又神御衣カミノミソを造らんが爲に、天衣織女アメノミソオリメをして忌服屋イミハタヤにて之を織らしめ給へり。而して大御神が天神に奉侍せしさまは、宛も後世倭姫命が大御神に奉侍せしと毫も異なかりしなり。『倭姫命世紀』は後世の作に係れど、その神衣祭の由來を記せる一段は、上古の制度を傳へたるものにて、大御神が天神に奉侍せしさまも、又卑彌呼などが神祇を祀りしさまも、之によりて其一斑を窺ひ得べければ、左の一節を拔載せん。
垂仁天皇廿五年丙辰春三月、伊勢百船度會國、玉ヒラク[#「てへん+綴のつくり」、U+6387、36-1]伊蘇國入座、即建服織ハトリノ、令太神之御服、麻績機殿神服社是也、然後隨神誨、造神籬、取丁巳年冬十月甲子、奉於五十鈴川上之後、※(「不/見」、第3水準1-91-88)清麗膏地、和妙之機殿、同興于五十鈴川上側、令倭姫命居焉、于時、天棚機姫神、令太神和妙御衣倍利、是名号磯宮[#「磯宮」は底本では「礒宮」]矣、爰卷向日代宮御宇(景行)日本建尊比々羅木八尋鋒根、奉獻皇太神宮、即倭姫皇女、彼鋒根緋嚢、皇太神貴財、八尋機殿隱、爲皇太神御靈※(「低のつくり」、第3水準1-86-47)、奉崇祭、令天棚機姫神裔八千々姫命、毎年夏四月秋九月織神服、以供神明、曰神衣祭也。
 余輩は此等の記録に徴して、大御神が敬神の念甚深にして祖宗に孝順なるの故を以て、天上に君臨し萬神を統御し給へるを知ると共に、卑彌呼が九州に於いて一國の尊崇を受けしも、全く同一の理由に因るものなるを信ず。但し卑彌呼は下界の小君長に過ぎざりしかども、大御神は天上まします至高至尊の神にして、日輪を玉體となし、長へに下土に照臨し給へり。余輩は大御神の風姿を拜み奉りて、功徳の盛なるを欽慕すると共に、また太陽崇拜の我國民の根本思想たりしを思はずんばあらず。
 つら/\神典の文を案ずるに、大御神は素戔嗚尊の荒らき振舞を怒りて、天岩戸に隱れさせ給へり。此時天地暗黒となりて、萬神の聲は狹蠅の如く鳴りさやぎ、萬妖悉く發りぬ。是に於て八百萬神達は天安河原に神集ひに集ひて、大御神を岩戸より引出し奉り、次で素戔嗚尊を逐ひやらひしかば、天地再び照明となれり。飜て『魏志』の文を案ずるに、倭女王卑彌呼は狗奴國男王の無禮を怒りて、長く之と爭ひしが、其暴力に堪へずして、遂に戰中に死せり。是に於て國中大亂となり、一時男子を立てて王となししが、國人之に服せず、互に爭鬪して數千餘人を殺せり。然るに其後女王の宗女壹與を奉戴するに及んで、國中の混亂一時に治れり。是はこれ地上に起れる歴史上の事實にして、彼は天上に起れる神典上の事蹟なれども、その状態の酷似すること、何人も之を否認すること能はざるべし。若しも神話にして太古の事實を傳へたるものとせば、神典の中に記されたる天安河の物語は、卑彌呼時代に於けるが如き社會状態の反映と見るを得べきか。
 人代となりてより以來、皇朝に於いて婦人にして始めて國家を統治せられしは、神功皇后なり。皇后は巾幗の身を以て、遠く海を渡り三韓を伐たせられし程の人なれば、資性勇武にましまししは言を俟たざれども、而も世の歴史家が此大功を奏せられしを以て、偏に皇后が千軍萬馬の間に叱※(「咤−宀」、第3水準1-14-85)せられし武勳にのみ因るとなせば、そは大なる誤なり。余輩を以て之を觀れば、皇后は武略を以て軍卒の畏敬を受けしよりは、寧ろ神祇に奉侍してその意思を宣傳する祝官として、民望を收攬せられしが如し。而して如何に皇后が神明の憑託となり、如何に軍民の畏服する所となりしかは、余輩の禿筆を以て之を描出せんは要なし、寧ろ左に載録する『古事記』の本文に就て、直接に其眞相を玩索するに如かざるべし。
其太后息長帶日賣命者、當時歸神、故天皇坐筑紫之訶志比宮熊曾國之時、天皇控御琴而、建内宿禰大臣居於沙庭、請神之命、於是太后歸神、言教覺詔者、西方有國、金銀爲本、目之炎耀種々珍寶、多在其國、吾今歸-賜其國、尓天皇答白、登高地西方者、不國土、唯有大海、謂詐神而、押退御琴、不控默坐、尓其神大忿詔、凡茲天下者、汝非知國、汝者向一道、於是建内宿禰大臣白、恐我天皇、猶阿-蘇-婆勢其大御琴阿至勢以尓稍取依其御琴而、那摩那摩迩此五字以控坐、故未幾久而、不御琴之音、即擧火見者、既崩訖、尓驚懼而坐殯宮、更取國之大奴佐奴佐二字以-々-求生剥・逆剥・阿離・溝埋・屎戸、上通下通婚・馬婚・牛婚・鷄婚・犬婚之罪類、爲國之大祓而、亦建内宿禰居於沙庭、請神之命、於是教覺之状、具如先日、凡此國者、坐汝命御腹之御子所知國者也、尓建内宿禰白、恐我大神、坐其神腹之御子、何子歟、答詔、男子也、尓具請之、今如此言教之大神者、欲其御名、即答詔、是天照大神之御心者、亦底筒男、中筒男、上筒男三柱大神者也此時其三柱大神之御名者顯也今寔思其國者、於天神地祇亦山神及河海之諸神、悉奉幣帛、我之御魂坐于船上[#「于船上」は底本では「干船上」]而、云々
 倭女王卑彌呼は如何なる方法を以て國民を統馭せしかは、『魏志』に記す所の文辭甚だ簡單にして、其の詳なること得て之を知るべからずと雖も、祭祀を以て政治の要道とする一種の神裁政治なりし點に於いては、神功皇后に異る所なきを認めずんばあらず。故に卑彌呼が「事鬼道能惑衆」とあるは、神功皇后が神懸りして神意を宣傳する類を指ししなるべく、「年已長大無夫壻」とあるは、齋王が常に處女なりし古俗、或神功皇后が仲哀天皇崩去の後寡居せられしが如き風習を云へるなるべく、「有男弟佐治國、自王以來、少見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飮食辭」とあるは、神功皇后が神主となりて、神殿に籠らせ給ひ、武内宿禰が沙庭に伏して神命を請ふに比すべきものなり。而して神功皇后が當時の人民を畏服せしめし所以は、皇后としての位置のみにあらず、又皇后自身の威勢のみにあらずして、全く皇后が神明の意思を宣傳する御資格にありしが如し。故に夫君仲哀天皇といへども、皇后に由りて宣言せられたる神命を奉ぜざるときは、神怒にふれて崩去するに至る。之を以て之を觀ても神祇に對するの信仰が、如何に當時の人心を支配せしかを窺ふに足らん。神功皇后が攝政として宏業を建てられしも、卑彌呼が女王として九州に威勢を震ひしも、均しく皆この關係に由るものなれば、此兩者の形跡に於いて類似する所ありしは、寧ろ當然の事のみ。『日本書紀』の編者が暗に卑彌呼を以て神功皇后に擬せしも、全く此類似を認めたるが故なるべけれど、斯る類似は獨り皇后と卑彌呼とに限るべからず。苟も當時一方に雄據して君主と仰がれし女王は、大概此の性質を具備せしなり。故に余輩は茲に『書紀』が卑彌呼を以て神功皇后と考定せし妄を斷じて、本論の結末となす。
〔明治四十三年六・七月、『東亞之光』第五卷第六・七號〕

底本:「白鳥庫吉全集 第一卷 日本上代史研究 上」岩波書店
   1969(昭和44)年12月8日発行
初出:「東亞之光 第五卷第六・七號」
   1910(明治43)年6、7月
※「辯」と「辨」と「弁」、「獻」と「献」、「萬」と「万」、「號」と「号」、「坐」と「座」の混在は、底本通りです
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「古事記」からの引用文には、訓点のハイフンが脱落している個所が見られますが、初出の脱落を底本が引き継いだものであり、底本のままとしました。
※底本では引用文に校訂が施されており、初出での著者自身による引用とは異なる箇所があります。
入力:しだひろし
校正:岩澤秀紀
2012年10月4日作成
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