それは静かな晩で潮の音もしなかった。その海岸に一週間ばかりいて好きな俳句を作り、飽いて来ると水彩画を画いていた益雄は、父親から呼ばれて明日の朝の汽車で東京へ帰ることになったので、静な居心地の好い海岸へ名残を惜むような感傷的な気もちになって、夕飯の後で海岸へ出、水際を歩いてみたり、陽の温みの残っている沙の上に腰をおろしてみたり、我がままいっぱいに体をふるまって俳句などを考えていたが、それも厭いて来たので旅館へ帰りかけたところで、本門の方から往くと遠くて無趣味であるから、その草藪を通って旅館の裏手から入ろうとしているところであった。
虫の音はますます冴えて来た。益雄は虫の音を句にしたいと思った。彼は月の蒼白い光が櫟の枝にほんのりとかかった色彩のぐあいに眼をつけた。と、左の方に当ってがさがさと云う枯れた草木の枝葉に足を触れる音が聞えた。益雄はびっくりして犬だろうか人だろうかと思って眼をった。
手に小笊を持った男の子が兎のようにきょときょとして出て来た。
「おい、おい、君、どこへ往くのだ」
子供は益雄の姿を見つけると嬉しそうな容をして走り寄って来た。
「臨海亭のお客さんだ、お客さんだ」
益雄は何故そんなに子供が嬉しがるか判らなかった。
「どうしたのだ、どこへ往くのだ」
子供は己の周囲を一わたり見廻してから益雄の顔を見た。
「臨海亭へ魚を持って往くところだが、黒い犬のようなものが跟いて来て歩けないのだ、なんだろう、狐だろうか」
「なに犬さ、どこにいるのだ」
「もういなくなったよ、お客さんを見たから逃げたのだろう」
「怖いのか」
「怖かあないが、とうせんぼうするようにして歩けないのだよ」
「君が怖い怖いとおもってるのだから、そんな気がするのだ、いっしょに伴れてってやろうか」
「好いのだ、おいらはお母が待ってるから、急ぐのだ」
子供はくるりと背後向きになるなり、草の間をむこうの方へ走って往った。益雄は子供の気もちがおかしかった。彼は笑いながら歩いた。
小さく咳をする声が虫の音にまじってやさしく聞えて来た。益雄はおや人がいるようだなと思ってその方に眼をやった。右側の雑木の一団が月の陰をこしらえている処に、細ぼそとしたカンテラの燈が点いて、女が一人裁縫しながら外の方を見ていた。
「おや、ここに家があったのか」
益雄は二三回通っているのにそこに家のあったことに気が注かなかったので驚いた。
「ちと、どうかお掛けなすってくださいませ」
二十二三に見える長手な顔をした淋しそうな女で、白っぽい単衣の上に銘仙のような縦縞の羽織を引っかけていた。
「ありがとう、ここに家があったのですか、ね、え、二三回とおったのですが、ちっとも気が注かなかったのですよ」
「こんな小屋がけでございますから、木の陰になって見えなかったのでございましょう」
女は笑顔になった。益雄は女に親しみを感じて来た。四畳半位ある座敷の前には小さな船板のような縁側がついていた。
「どうかおかけくださいませ、むさくるしいところでございますが」
「すこしお邪魔さしていただきましょうか」
益雄は縁側へ寄って往った。女は何時の間にか起って薄い小さな蒲団を持って来た。
「穢い蒲団をあげましょう、どうかお敷きくださいませ」
「いや、どういたしまして、蒲団は好いのです」
「それでも冷えますから」
女の匂がそそりとした。益雄はちょっとお辞儀をしてからその蒲団を引き寄せて腰をかけた。
「お茶はさしあげません、あまり穢うございますから」
女は元の処へ坐りながら云った。
「お茶はたくさんです、どうかおかまいなさらないように」
益雄は思いだして敷島の袋とマッチを袂から出して煙草に火を点けた。
「やっぱり東京から、お出でになりましたのでございましょう」
女はもう針を持っていた。
「そうです、東京からまいりました」
「御勉強にでもいらっしゃいまして」
「なに、すこし暇ができましたから、一週間位前に来て遊んでいたのですよ、それが家が忙しいものですから、親爺に呼ばれて、明日は一番の汽車で帰るのです」
「東京は好い処でございましょうね、私は一度も東京へ往ったことがございません」
「そうですか、では、一度是非いらっしゃい、でも住んでるとうるさい処ですよ」
「そうでございましょうか、私達のような一度も往ったことのない田舎漢は、どうかして東京に住みたいと思いますわ、花のように着飾ったな方が、ぞろぞろと街いっぱいになって歩いておりましょう、ね」
益雄は女のぎょうさんな云い方がおかしかった。
「まさか、そうでもありませんよ、私達のような汚い奴も歩いてるのですよ」
「でも」
女はそう云ってから笑った。益雄も声をだして笑った。
「冷え冷えして来ました。お入りくださいまし、閉めましょう」
女は益雄の顔を見た。益雄はもうすこしそこにいたかった。
「お邪魔じゃないのですか」
「家は、今、何人もおりませんから、何時までおいでくださいましても宜しゅうございます」
「そうですか」
益雄があがって蒲団を持って入ると、女は起って雨戸を閉めだした。
古い柱の切れ端のような木の台の上にカンテラの燈が微紅く燃えていた。益雄はその燈の傍へ往って坐った。
女はもう針を持たなかった。
益雄は遅くなって女の家をそっと出て帰った。旅館では彼の帰りの遅いのを心配していた。彼の室附の婢はしつこく歩いていた場所を訊いたが、彼は好いかげんなことを云って寝た。
その夜の益雄の夢はやすらかな夢であった。彼は朝になってもう二三日帰りを延す工風はないかと考えたが、そのうちに停車場へ往く自動車が迎えに来たので、しかたなしにそれに乗って出発した。
益雄が東京へ帰り着いたのはその日の午後一時比であった。日本橋で大きな食料品の問屋をやっている益雄の家では、父親の代理であっちこっちの問屋や銀行などに往かなくてはならない用事が溜っていたので、益雄は二三日それに費したが、海岸の女のことが思われてしかたがない。で、早く暇をこしらえてまた海岸へ出かけようと思ったが、二三日ではちょっと暇ができそうにもなかった。そこで、本郷林町の素人下宿にいる洋画家の友人が、夏の間その海岸にいたことを思いだして、それとなしに女の噂でも聞いてみようと思って、浅草の問屋へ往っての帰りに夕飯を途ですまし、団子坂下から電車をおりてその下宿へ往った。
「やあ、何時帰った、ブルジョアはちがったものだね、ちょっと俳句を捻ると云っても、あんな処まで出かけて往くのだから、どうだ、好い女でも見つかったかい」
画家はとり散した絵具だらけの穢い室でウイスキーを飲んでいた。
「女も見つかったが、親爺がやんやん云って来るものだから、たった一週間しかいられなかった、おちついて好い処だね」
益雄はウイスキーをさされないようにと煙草をつけた。
「好い処さ、それに臨海亭のお客さんになりゃ、理想的だからね、あの家は、海も好いが、家のまわりの木や草が好いのだ、僕はあの旅館の裏手をスケッチしたよ、どうだい、一ぱいやろう、茶のかわりに」
画家は傍にある足のついた小さなカップに手をかけた。益雄は顔をしかめて手を揮った。
「たくさん、たくさん、そんな茶なら一生飲まなくても好い」
「ひどく見縊るね、じゃ、まあ、さすまい、で、なんだね、名吟ができたかい、どうも昔から下戸に名吟がないと云うぜ」
「あるとも、僕は毎日海岸へ出たり、あの芒の穂の出た旅館の裏手の草の中を歩いてたよ、あの草っぱらに夕月の射したとこは好かったよ」
「そうだ、あの草っぱらは好いな、あちこちに犬小屋のような小屋がけをして、婆さんがいるじゃないか、厭な婆あだよ」
「婆あって、婆あじゃないじゃないか、壮いじゃないか」
「あれが壮いもんか、もう六十だろう、狼のように痩せた婆あじゃないか」
「そんなことはない、二十二三だよ、背のすらりとした好い女だよ」
「おい、おい、ばかなことを云うなよ、なにが二十二三の好い女だい、あんな狼婆あを、おい、寝とぼけちゃいかんよ」
「寝とぼけるものか、君こそ、女を六十婆あだなんて、君こそ寝とぼけてるよ」
「君はどうかしてるよ、あの銀の針金のような白髪と、木彫のような皺とがわからないかい、なにが女なのだ、六十の狼女かい」
「君はけしからん、君はちょっと遠くから見た位だから、見ちがえてるだろう、僕はその女としみじみ話してるから、まちがえっこはないよ」
「じゃ、君は、あの、婆あも女も区別ができなかったのだろう、笑わかすなよ」
「痴、君のような下等な奴には、もうなにも云わない、ばか」
「僕も君のような痴な奴とは、絶交だ、六十の婆あと、女の区別がつかないような奴なんかと、朋友になってるのは恥辱だ」
「なに云ってるのだい、君こそ女も婆さんも判らないじゃないか、痴」
そこへ下宿のお媽さんが入って来た。お媽は二人の間を隔てるようにして坐った。
「お二人とも、何時も仲の好いお朋友がどうしたのですよ、おかしいじゃありませんか、私に話してくださいよ、ぜんたいどうしたのですよ」
益雄はそう云われるとすこしきまりがわるかった。
「なに、ね、××の臨海亭の裏手に草っぱらがあるのだ、そこに小屋がけをして六十位の婆さんがいる、ところで、この男は、二十二三の女がいるというから大に争っているところだよ」
画家は苦笑しながら手にしていたカップをぐいと飲んだ。
「じゃ、こうなさいよ、二人で××へいらして、ほんとにお婆さんか女さんかを突きとめて、負けた方が汽車賃を出すことにしたらいいじゃありませんか」
益雄はいい口実が出来て海岸へ往けるからこれはいいと思った。
「そりゃ面白い、どうだ賭をしようか」
画家は晴ばれした顔をこっちへ向けた。
「好いとも、明日往こうか」
「明日はすこしつかえるから、明後日の朝の一番にしようじゃないか」
「好いとも、だが、僕がきっと勝つよ」
益雄と画家は約束を実行して、二人で××海岸へ往った。そして、臨海亭へ着くなり、益雄は茶を持って来た婢に向って訊いた。
「姐さん、この裏手の草っぱらに家があるね」
婢は益雄の前へ茶碗を置こうとしていた。婢は不思議そうな顔をした。
「家、そこの草っぱらですか、家なんかありませんよ」
「ないことがあるものか、小さな家だよ、家のあることは事実だが、その家にいる者が問題だよ、姐さんは近比ここへ来たのだね」
「でも、もう三年になりますよ、家なんかがあるのでしょうか、私たちは狐が怖いのですから、夜なんか通ったことがありませんが」
「おかしいぞ、だが、姐さんは、通らないから知らないかも判らない、まあ、後で往ってみよう」
益雄と画家は茶をそこそこに飲んで庭へおり、裏口の針金をもうしわけに引いた柵を跨いで草藪へ往った。益雄の懐には女に持って来た化粧道具が入っていた。
晩秋の夕陽が芒の穂や雑木の枝に動いていた。そこには菊芋の丈け高い麻のような茎も見えていた。二人は小さな落葉のがさがさと音のする路を通って、あっちこっちと小家のある処を探して歩いたが、どこにも家らしい物はなかった。
「どうもこのあたりだったよ」
画家は五六本の樫や雑木のごたごたと生えたところへ指をさして話を続けた。
「ここの小家から、あの婆さんが顔をだして、ろくでもない奴が来やがって、うるさくってしかたがないなんて、僕にあてつけるようなことを云ったのだよ」
益雄の記憶もたしかにその木の傍であった。そこには萱の中に二つ三つの黒い石の頭が見えていた。
「どうしてもへんだなあ」
旅館の風呂番の老人がそこへ来た。益雄はその老人に訊いてみた。
「爺さん、ここに家があったように思うが、あったのか」
「家なんかありませんや、もっとも、まだ臨海亭の出来ない時、さあ三十年にもなりますかね、このあたりに漁師の家が一軒あって、そこの主翁が漁に往って歿くなったと云う、壮い女が住んでたことがありますよ」
底本:「日本怪談大全 第一巻 女怪の館」国書刊行会
1995(平成7)年7月10日初版第1刷発行
底本の親本:「日本怪談全集 第二巻」改造社
1934(昭和9)年
入力:川山隆
校正:門田裕志
2012年3月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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