※(ローマ数字1、1-13-21)

 建久けんきゅう九年十二月、右大将家うだいしょうけには、相模川さがみがわの橋供養の結縁けちえんのぞんだが、その帰途馬から落ちたので、供養の人びとに助け起されてやかたへ帰った。その橋供養と云うのは、北条遠江守ほうじょうとおとうみのかみむすめで、右大将家の御台所政子みだいどころまさこには妹婿いもうとむこになる稲毛いなげ三郎重成しげなりが、その七月に愛妻を失ったので、悲しみのあまりに髪をって出家して、その月になって亡妻ぼうさい追福ついふくのために、橋供養を営むことになり、右大将家もこれに臨んだのであるが、その帰途右大将家が馬から落ちたことにいて鎌倉では奇怪な噂をする者がでて来た。それは右大将家が橋供養の帰途、八的原やまとはらにかかったところで、空中に怪しい者の姿を見た。それは先年せんねん西海せいかいはて崩御ほうぎょあらせられた貴人きじん御霊みたまであったが、それを拝すると共に眼前めさきくらんで馬から落ちたのだと云う噂であった。
 その噂とともに右大将家は病気になって、祈祷医療きとういりょうに手を尽していると云う噂も伝えられた。しかし、右大将頼朝よりともは、実際それ程の病気ではなかった。病気でないばかりか夜中やちゅう時どき寝所しんじょから姿を消して、黎明方よあけがたでないといないことさえあった。
 そうした頼朝のそぶりに気のいたのは政子であった。政子は頼朝づき侍女こしもとの一人を呼んで詮議せんぎした。
上様うえさまは、いつも寝所におで遊ばされるのか」
「お出で遊ばされるように思われますでございますが」
「何か怪しいことでもないのか、上様が御寝ぎょしんなされる時刻とか、お起き遊ばされる時刻とかに」
「御寝なされる時刻と、お起き遊ばされるお時刻とに……そうでございます、べつにお変りもございませんが、何時いつかこの二日三日前、周防様すおうさまと二人で、こく過ぎ、お廊下を見廻みまわっておりますと、怪しい人影が御寝所の唐戸からどを開けて、出てまいりましたから、手燭てしょくをさしつけましたところ、それは被衣かつぎのようなものを頭からかぶった女房姿でございましたが、驚いたように内へお引込み遊ばされるとともに、唐戸をお締めになりました、それより他に怪しいことはございません」
「被衣のような物を被った女房姿、そう、それより他には何もない、では、これからのちもよく気をつけて、どんな悪者が、上様をねらわないにもかぎらないから」
 政子はそう云ってから侍女こしもとを帰した。政子はそうしておだやかに云って侍女を帰したものの、頭の中は穏かでなかった。その政子の頭にちらと浮んだことがあった。それは頼家よりいえが生れて間もない時のこと、政子には継母けいぼに当る遠江守時政の後妻まきかたから頼朝のおこないついて知らして来た。それは頼朝に愛している女があって、伏見広綱ふしみひろつなの家に置いてあると云う知らせであった。政子は非常に怒って牧宗親まきむねちかに云いつけて、広綱の家へやり、広綱の家を破壊さすとともに、その女をわした。女は逃げて大多和義久おおたわよしひさの家へ往った。それを知った頼朝は、事にかこつけて義久の家へ往って、宗親を呼ばしてののしり、怒りにふるえる手に刀を抜いて宗親の髪をった。これがために時政は面目めんぼくを失うて領地へ帰ったことがあった。政子はこんなことを思い浮べながらじっと考えたのちに、大番所おおばんじょに詰めている畠山六郎はたけやまろくろうを内密に呼ばした。
 呼ばれて六郎は急いで政子の前へ出た。この六郎は畠山次郎重忠しげただの子六郎重保しげやすで、時政の前妻のむすめの腹に生れた者であった。
「上様の寝所しんじょねらう怪しい者があると云うから、お前は今晩から寝所の外を見張ってもらいたい」

※(ローマ数字2、1-13-22)

 六郎はその晩から右大将家の寝所の周囲を警衛けいえいすることになった。
 そのうちに十二月はすぐ尽きて翌年の正月となった。その正月の五日の晩、六郎は平生いつものように右大将家の寝所の周囲を見廻みまわっていた。
 五日の月はほんのりと庭の白沙はくさを照らして、由比ゆいはまの方からはおだやかな波の音が、ざアーア、ざアーアと云うように間遠まどおに聞こえていた。それはもうこくに近いころであった。寝所のすぐ前の築山つきやま木立こだちの陰に入って、じっと木立のなかの暗い処を見廻わしたが別に異状もないので、そこにあった岩へ腰をかけた。
 と、その時、寝所しんじょ南縁なんえんの月の光のしている雨戸がかすかな音を立てていた。六郎は曲物くせものと思ったので、じぶんの体を見せないようにと、ちょと己を見返って、それが木立の陰になっているのを見極みきわめると、急いで雨戸の方へ眼をやった。
 被衣かつぎのような物を頭からすっぽりと着た女姿おんなすがたの者が開けた雨戸の口に立っていた。六郎はもう腰を浮かしていた。そして、その曲物を手取りにしてやろうと思った。
 女姿の者はじっと四辺あたりに注意するようであったが、やがて体を軽がるとさして庭へおりた。その白い足はすなに触れた。そして、女姿の者は後向きになって雨戸を締めてから急ぎ足になって右の方へ折れて往きかけた。
 六郎は跫音あしおとをたてないように木立の陰にうて追って往ったが、機を見たのでそのまま飛びかかった。
 女姿の者は驚いて逃げ走った。六郎はひとひしぎにり押えようとしたが、逃げられたので気をいらだたして、
「待て」
 女姿の者はすこし前に走ってから右の方へ折れた。六郎は不思議な曲者を執り逃しては恥辱だと思ったので、いきなり腰の刀を抜いてりさげようとしたが、距離ができると思ったので、思い直して背のあたりと思う処をねらって突いた。女姿の者はうなり声をだしたが、それ以外には何も云わなかった。六郎は曲物がたおれるだろうと思ったが、曲者は斃れないでなおも逃げ走ろうとした。
 六郎はあわてて二度目の刀で突いた。と、女姿の者のかむっていた被衣かつぎが落ちた。
「無礼者」
 それは聞き覚えのある声であった。六郎はその声を聞くとともに、眼前めさきがくらむようになって立ちすくんだ。そして、気がいて恐る恐る眼をやった時、南縁なんえんの雨戸のしまる音がして、曲者くせものの姿はもう見えないで、被衣のみがすなの上にふわりと落ちていた。
 無礼者、六郎の耳にはその声がまたよみがえって来た。その声はどうしても聞き覚えのある右大将家の声であったが、しかし、それにしても右大将家ともあろう者が、何故なにゆえに女房の被衣などを着て、しかも、夜陰やいんに曲者のように南縁の雨戸を開けて戸外そとへ出るだろう、右大将家が決してこんなことをするはずがない。はずはないが声はどうしても右大将家の声であった。もし右大将家としたなれば、じぶんは主君に二とうまで傷をわしたから、不忠不義の極悪人となって死なねばならぬ、それも己一人死ぬるなら好いが、父をはじめ一家一門にもそのとがめがかかって、人にうらやまれる畠山の家門を恥かしめることになる。が、それにしても右大将家が、何故に女房の姿をして外へ忍び出る必要があろう。これはどうも奇怪至極なことである。どうも右大将家ではない。右大将家の声と思ったのは、己の聞きあやまりであろう。まさか右大将家ではあるまい、右大将家でないとすると、何者であろう。右大将家のお傍附そばづきの女房であろうか、女房にしてはその声が、女らしくなかった。彼は刀を持ったなりに雨戸の方へ歩いて往って、右の手でそれをたたいた。
「畠山六郎でございます、お耳に入れたいことがございます」
 内から女の声で返事をした。それは御台みだいの声であった。六郎はちょっと雨戸を離れて立った。
 と、内から雨戸がいて女房がしら周防すおうと云うのに紙燭しそくらして政子の顔があらわれた。
「上様の御傍おそばに変ったことがございますまいか、今ここを見廻みまわっておりますと、被衣かつぎを着た者が、ここの雨戸を開けて出ましたから、二刀ふたたち突きましたが、突かれながら、あれなる被衣を落して、また内へ逃げ込みましてございます」
「それは女房が忍んで親元へまいる処をお前に見咎みとがめられて、浅手あさでを負うたようであるが、気にする程のことはないから、このことは他へは口外こうがいしてはなりませぬ、上様は落馬以来、すこし御加減ごかげんにすぐれない処があるが、今までお話しなされておって、すこしも変ったことはなし、お前は気にせずに、やはり見廻りを大事にするが好い」
 六郎は安心した。
「は」
「では、その被衣をってもらいましょう」
「は」
 六郎は気がいて刀をさやに収め、被衣を拾ってさし出した。

※(ローマ数字3、1-13-23)

 畠山六郎は御台みだいことばによって右大将家をあやめないことを知って安心したものの、無礼者と云った詞が耳の底にこびりついていてきみがわるかった。
 そのうちに正月十一日となったが、その日になって右大将家が病気が重くなったので、出家したと云うことが伝えられた。そして、十三日になってその死が伝えられた。
 頼朝が逝去せいきょするとともに、頼家が家督かとくを相続したが、朋党ほうとう軋轢あつれきわざわいせられて、わずかに五年にして廃せられ、いで伊豆の修禅寺しゅぜんじ刺客しかくの手にたおれた。そして、頼家の跡へは弟の実朝さねともが立って家督を相続した。
 六郎はじぶんが怪しい女房を刺すとともに、おうぎかなめでもったように主家しゅかの乱脈になったことを考えずにはいられなかった。頼朝の死から頼家の家督相続となり、ついで実朝の家督相続となった一方、梶原かじわら一族がほろび、比企判官ひきはんがん一家が滅び、仁田四郎にたんのしろうが殺されると云う陰惨な事件が続いて、右大将家の覇業はぎょうも傾きかけたのを見ると、己がその罪悪の発頭人ほっとうにんのような気がして、恐ろしくてじっとしていられなかったが、御台みだいからも禁ぜられているうえに、事件が事件であるから口外することもできなかった。
 頼朝がだ病気にならない時、御所ごしょの女房頭周防のむすめの十五になる女の子が、どこが悪いと云うことなしにわずらっていてくなった。周防は非常になげいたが、むすめ乳母うばの口から、むすめが生前畠山六郎を思うていたと云うことを聞かされると、むすめの姿を絵にかし、そのうえ木像もこしらえて、切通きりどおしげんの堂を建ててそれを収めた。それは六郎が武蔵むさしの領地と鎌倉の間を往復するたびに通ることになっているので、むすめの像に時おりその姿を見せて、せめてものおもいをやらせようとする優しい親心から出たことであった。そして、周防はその堂に堂守どうもりの僧を雇うて置いた。
「どんな地震がしようと、大風おおかぜ海嘯つなみが起ろうと、むすめの像だけは、り出してくだされ」

※(ローマ数字4、1-13-24)

 そののち、六郎が切通きりどおしの坂を通って、新しい堂の前に往くと、きっと、村雨むらさめが降って来たり、旋風つむじかぜが吹き起ったりした。そんな時には六郎は、馬からおりて家来の者といっしょにその堂の簷下のきしたへ入って雨や風を避けた。
 ある時、例によって六郎は武蔵の領地へ往って帰りかけていたが、切通が近くなると怪しい雨や風のことを思いだした。
「また切通の堂が来たぞ、いやな堂じゃないか、今日は雨かな、風かな、まさかこんな上天気じょうてんきに雨は降らないだろう」
 それは夏の晴れ切った日の夕方であった。六郎の馬がさきになって堂のまえまで往ったところで、馬が不意に物に狂ったように、身顫みぶるいしたために、六郎は馬から落ちてしまった。
不届者ふとどきもの、今度はすることにことを欠いで、馬から落したぞ」
 わかい六郎は火のいたようにおこった。
「この堂を焼いてしまえ、不届至極ふとどきしごくの堂じゃ」
 六郎はそう云ってから堂の方へ往った。堂の中には年とった僧が一人、眼をつむって坐っていた。
「こら、堂守どうもりの坊主、この堂は何物をまつってある堂じゃ」
 僧は眼を開いた。
「これは御所の女房周防殿が、女御むすめごのために建てた堂でございます」
 僧は右の方を見返って、仏壇の上にえた絵像と木像の方を見た。
「あれが、その絵像と木像とでございます」
「周防のむすめの絵像があっても、木像があっても、何時いつも俺にたたる堂じゃ、今日は焼き払う、その方は早く出よ」
「それでは、絵像と木像とをお渡しを願います、周防殿の云いつけもございますから」
「いかん、その絵像と木像とが俺に祟るから、そいつから一番に火をかける、早く出よ」
「でも絵像と木像とだけは」
「ならん、出よ、ぐずぐず云っておると、その方もいっしょに焼き殺すぞ」
「では、是非ぜひに及びません」
 僧は仏壇の方にちょっと頭をさげてから、とぼとぼと下へおりた。
「それ、火をつけろ」
 六郎の家来の一人は、火打ひうちを出してこつこつ打ちはじめた。
 僧は堂の方を向いて合掌がっしょうして立っていた。
 火はもうめらめらと堂ののきに燃えついた。その火の傍で六郎の狂気のように笑う声が聞えた。

※(ローマ数字5、1-13-25)

 六郎はその翌日、幕府に呼び出されて京都行きを命ぜられた。それは実朝の御台みだいを迎えに往くためであった。実朝の御台は奏聞そうもんを経て、坊門大納言信清卿ぼうもんだいなごんのぶきよきょう息女そくじょを迎えることになったので、鎌倉では容儀ようぎ花麗かれい壮士そうしを選んでそれを迎いに往かした。六郎もその選に入ったものであった。その一行には、左馬権介さまごんのすけ結城ゆうき七郎、千葉平兵衛尉ちばへいべえのじょう葛西かさい十郎、筑後ちくご六郎、和田わだ三郎、土肥先二郎どひせんじろう佐原さはら太郎、多多良たたら四郎、長井ながい太郎、宇佐美うさみ三郎、佐佐木小三郎ささきこさぶろう南条平次なんじょうへいじ安西あんさい四郎など云う美男優長びなんゆうちょうやからであった。
 それは元久げんきゅう元年のことであったが、その十二月になって御台は鎌倉に下着げちゃくした。御台御迎えの一行が上洛じょうらくした時、一行の宿泊所と定められている六角東洞院ろっかくひがしのどういんの京都の守護武蔵前司源朝雅むさしぜんじみなもとのともまさていへ着いたが、朝雅は一行をねぎらうために酒を出した。その酒の席で朝雅と六郎が口論をはじめた。朝雅はまきかたの腹に生れたむすめ婿むこで、六郎とは親類関係になっている。
 六郎はひどく朝雅をののしってやめなかった。一座の者は六郎と朝雅をやっとなだめてその場を収めたが、朝雅はそれを遺恨いこんに思って、牧の方に云ったので、牧の方は時政に畠山親子に逆心ぎゃくしんがあると云って讒言ざんげんした。
 それは元久二年六月二十二日の微明びめいであった。畠山六郎の家へ一隊の人馬じんばが押し寄せた。その時六郎の家には主従十五人しかいなかった。六郎はその家来を率いてと渡りあったが、またたく間にたれて枕を並べて死んだ。
 武蔵の領地にいた六郎の父重忠しげただも、北条氏のために鎌倉へおびきよせられてみちで殺された。

底本:「日本怪談大全 第一巻 女怪の館」国書刊行会
   1995(平成7)年7月10日初版第1刷発行
底本の親本:「日本怪談全集 第三巻」改造社
   1934(昭和9)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2012年5月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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