アナウンサーの紹介につづいて、
別のアナウンサーの声で――
――只今から、ガンバハル氏の「精神と電気」といふ御講演がございます。
ガンバハル氏の声――ええ、わたくしは、只今御紹介にあづかりましたガンバハルと申すものであります。生れは多分アフガニスタンあたりだと思ひますが、早く両親を失ひ、物心のつきます頃は、もう、ポートセードの船著場で、靴磨きをしてをりました。
 ところが、或る日のこと、モロツコの絨毯売が、わたくしを仏蘭西の貨物船に載せて、無理矢理にマルセイユへ連れて行きました。そこでわたくしは、例のドパンゴ婆さんと近づきになりました。この婆さんは、お聞き及びの方もありませうが、有名なソルシエール、つまり巫女であります。その婆さんのところへは、色々な人が出入りをしてをりました。露西亜の宮内官、独墺の学者、支那の政治家、それに、英国の相場師、これがなかなか沢山であります。そのうちで、わたしを可愛がつてくれた墺太利の心霊学者と、マルセイユ電力会社の技師、この二人が、何をかくしませう、わたしを今日あらしめた恩人であります。すなはち、心霊学と、電気学の二た道から、わたしの好奇心は眼をさまされたのでありまして、この二つの学問を究めることによつて、わたくしは新しい発見に到達することが出来たのであります。
 わたくしは、欧米のあらゆる都市で、機会ある毎に、この新学説を試みましたが、何分、手数のかかる実験を必要とする関係上、多くは、予期の結果を収めることができずに終りましたが、幸ひ、日本に参りまして、東京放送局の理解ある援助により、わたくしの実験は完全な成績を挙げる機会を得たのであります。
 扨て、一口に「精神と電気」と申しましても、それは、今日まで、仮説として行はれてをります牽強附会な唯物論的空想と違ひまして、人間の精神活動と宇宙の電気的現象との密接な関係を、立派に証明することができるのでありますが、その理論は、ここで簡単にお話ししましても到底おわかりになりますまいし、また、専門家以外には、それほど面白い話でもありませんから、すぐに、これからお目にかける、いや、お耳に入れる実験の説明をいたします。
 先づ、みなさんは、「千里眼」といふものを御承知だらうと思ひます。すなはち、透視といふやつであります。箱の中に隠されてあるもの、隔つた場所にあるものを、はつきり見つける一種の能力であります。この「千里眼」なるものを学者はどう説明してをりますか。心霊学上に一問題として、まだ誰もはつきりした学説を立ててはをりません。或は、「網膜によらざる視覚」の実験に成功した生理学者もあると聞いてをりますが、その実験は、まだ決定的な成績を挙げてはゐないやうであります。
 わたくしは、此の「千里眼」についても既に十分の研究を積んでをります。しかし、一方、かのテレヴイジヨン、即ち、無線映写の科学的進歩が甚だ遅々としてをりますため、実験に少からぬ不便を感じてゐる次第であります。然るに、音響の無線放送が最近長足の発達を遂げました結果、今日まであまり問題とされなかつた音響の透視――妙な言葉でありますが、「千里眼」に対して、「千里の耳」とでも申しますか、遠距離にある物音が、任意に聴けるやうになりましたことは、なんと申しましても学界の驚異であると思ひます。ここでもう一度はつきり申上げて置きますが、今日の所謂ラヂオは、聴取者の方には勿論、放送者の方にも、それ相当の機械的設備が必要なのであります。処が、それだけなら、今日電気学の知識さへあれば、理屈はなんでもないことであります。然るに、わたくしは、聴取者の方だけにある装置を施せば、どんな処で、何をしてゐる人間の声でも、好きな時に聞くことができるといふことを発見したのであります。この謎は電気学の知識だけで解くことは出来ません。また、その実験も普通の無線電話装置だけでは不充分なのであります。が、その装置のことは、詳しく申上げません。ただ、ある場所から聞えて来る音声を、此処で私が喋舌る声と同様に、みなさんのお耳に入れることが出来るやうになつてゐるのであります。此の実験に必要なのは、先づ、その声を聞かうとする人の署名であります。今日放送局の方にお願ひして、なるべく世間に名を知られてゐる方々の手紙を集めていただかうと思ひましたが、それは一寸困るといふお話なので、致し方がありませんから、先程ある紙屑屋に参りまして、好い加減に拾ひ集めて貰つた手紙や端書を五六枚、これから実験に供することに致します。
 みなさんは、もう既に、此の実験に伴ふある種の危険を予感されるでせう。それは人間の姿が、此の装置の前では、全く赤裸々にされ、凡て秘密の談合といふものは、此の地上にあり得なくなるからであります。壁に耳のあることを恐れた時代はもう過ぎ去つたのであります。
 今から始めます実験が、不必要に個人の私生活をあばき、その名誉を傷けないことを切に祈る次第であります。
 第一は、平野万兵衛といふ人、市内京橋区……詳しい住所はわざと申上げません。一寸お断りして置きますが、本人の声だけでなく、その周囲にゐる人々の声も当然聞えて来ますから、そのつもりで御注意を願ひます。はい、始めます。(コツッといふ機械を合はす音)やがて電流の通じるらしい音。
――巫山戯やがんない、馬鹿野郎……。
――なんて声を出すの、この人は……。
――なんて声だ? てめえにや、それがわからねえのか。
――もういいから、はやくおやすみなさい。
――寝ようと寝るまいとこつちの勝手よ。
ガ氏の声  ははあ、やつてをるやうですな。
――おつ母さん、一寸、お湯い行つて来るわよ。
――もう遅いからよせ。
――だつて、まだ、何処でも起きてるわよ。
――いいから、さつさと行つておいで。
――お父つつあん、何んか、御用ない?
――ある。帰りに柿を少し買つて来な。
――おつ母さん、お金は……。
――お父つつあんにお貰ひ……。
――馬鹿なことを吐かせ。出してやれ。
――いやですよ。
――なに、いやだ。(大声で)おい、柿を食はせろ、柿を……。
ガ氏の声  酔払ひの平野万兵衛さんはこれくらゐにして置きまして、次は森田六造氏、府下池袋……。(コツッといふ音)
――(唱ふ声)からたちの花が咲いたよう……。
――直して頂戴よ。早く……もう演芸放送はとつくに始まつてるわよ。
――だから一所懸命に直してるぢやないか。どうも、よく狂ふ機械だな。……からたちの花が咲いたよう……。
――あなたが余計なことをなさるからよ。さつきまでよく聞えてたんだわ。
――一層よく聞える為めに、一時、聞えなくなるといふ例はいくらもある。そんなにガミガミ云ふなよ、みつともない。
――ぢや、もうガミガミ云はない。早くして頂戴ね、後生だから……。
――そんなに聞きたいのか。
――今日のは面白さうだわ。
――なにが面白いもんか。「ガンバハル氏の実験」なんて、ろくでもない実験にきまつてらあ。
ガ氏の声  碌でもない……知らぬが仏とはよく云つたものですな。
――可笑しいな、今聞えたんだがなあ。やや、長き間といふところかな。おや、おれの云つたことがまた聞えて来やがらあ……。おや、おや、これや、どうかしとるよ。
ガ氏の声  面倒なことになりましたから、この辺で打ち切りませう。次は、女名前で、小泉ゆき子さん、敬意を表してお所は略します。なかなか見事な御筆蹟です。
――そんなところに立つてないで、まあお掛けなさい。草臥れたでせう。
――ええ。(波の音らしいものがかすかに聞える)
――僕たちの新しい生活について、もつと話さうぢやありませんか。
――ええ。
――僕は今幸福の絶頂にゐるんです。今日といふ日を、どれだけ待つてゐたと思ひます。ゆき子さん、此の果しない海を前にして、二人の永久に変らない愛を誓はうぢやありませんか。
ガ氏の声  どうでせう、これは少しお聞きづらいと思ひますから、このへんで……。放送局の方が、今、手真似で、もつと続けろと云はれるのですが、どうも、かういふ種類の何は……。ぢや、折角の御希望ですから、もうしばらく……。
――さうよ、それや、さうよ。でも、明日は、今日ほど幸福でせうかしら……。あたくし、なんだか、明日になるのがおそろしいの。それや、幸福でないとは思ひませんわ。あなたと一緒にゐられる限りは、どんなことだつて幸福でないことなんかありませんわ。ですけれど、今日つていふ日は、きつと特別な日よ。特別に恵まれた日よ。だから、明日と同じ日が、何時までも続くよりも、今日と同じ日が何時までも続いて欲しいと思ふわ。あたくし、慾張りでせう。
――僕、あなたのおつしやることがよくわからないんですが……。
――おわかりにならない? ぢや、もつとお話ししますわ。
――ですがね、ゆき子さん、あなたは、僕といふ人間を誤解なすつちやいけませんよ。世間には、結婚の翌日から男の優越感を露骨に示して、妻を足下に見下す夫があります。僕は決して、あなたを……。
――いいえ、そればかりぢやありませんわ。あたくし、そんなあさはかなプライドから、結婚の翌日をおそれてゐるんぢやありませんわ。それよりもね、あたくし、どつちかつて云へば、ピユリタンなのね。あなたとあたくしとの関係を、普通の夫婦関係にしてしまひたくないつていふ気がするんですの。それは勿論、空想ね。そんなこと、できつこないわ。でも、それを空想にしてしまはない方法が、たつた一つあると思ふの。
――このまま別れるつておつしやるんですか。
――いいえ、そんなに辛くないもつと自然な方法よ。
――所謂、マリヤアジユ・ブランつていふやつを実行するんでせう。
――いいえ、それこそ不自然この上なしですわ。それに、こんなに愛し合つてゐるものが、そんなこと云ふだけ野暮ですわ。
――ぢや、どうするんです。
――だから、明日が来ないやうにすればいいんですわ。
――明日が来ないやうに……。もつと、はつきり云つて下さい。
――このまま死んでしまふの。
――ば、ば、馬鹿な……。
――どうして……? あたくし、それが理想なのよ。さうするより外、二人を世の中で一番幸福なものにする方法はないわ。ね、さうして頂戴。あたくし、その為めに、わざわざ、ピストルを用意して来たのよ。
――ピストルを……。
――ええ、ピストル……ここに持つてるわ。出して見ませうか。
――お止しなさい、危いから……。
――大丈夫よ。こら、まだ新しいのよ。弾丸は二発だけ入れといたの。あなたが一発、あたくしが一発、それで沢山なんですもの。
――どら、お貸し下さい。
――あなたがなさる? 駄目でせう。あたくしの方が上手よ。さ、此処がいいかしら……。それとも海岸に出ませうか。
――海岸に……?
――海岸の方が素敵ね。
ガ氏の声  海岸まで、みなさんはついておいでになりますか。此の不幸な新郎新婦の最後を、みなさんは見届けようといふ勇気がおありですか。
――ゆき子さん、待つて下さい。それぢや、ここで、たつた一度、キツスを許して下さい。最初の、そして、最後の……。
――いいえ、いけません。さ、お起ちなさい。
――ゆき子さん、僕は、不幸です。
――もう一度云つて御覧なさい。
――なにをですか。
――今、おつしやつたことを……。
――今……?(強ひて笑ひながら)どうして、そんな目附をなさるのです。(声をふるはせ)不幸だと云つたのは、僕の云ひ違ひです。僕は此の通り幸福です。幸福にふるへてゐるのです。
――幸福でせう。あたしもよ、あたしもこんなに幸福なの。
――それぢや、もうすこし、此処にかうしてゐませう。海岸にはまだあんなに人がゐるぢやありませんか。
――さうね、やつぱり此処の方がいいわ。此の部屋は、全く静かな部屋ね。二人つきりの世界が、ほんたうに始まりさうな部屋だわ。
――電燈を消しませうか。
――待つて頂戴。あたくし、なんだか、もう、かうしてはゐられなくなつたわ。
――(驚いて)ゆき子さん……。
――ぢつとしてらつしやい。
――(絶望的に)一寸、ゆき子さん……。
と同時に、轟然、ピストルの音一発、二発……あとは寂寞。波の音。

ガ氏の声  みなさん、わたくしは冷静でなければなりません。しかし、わたくしの心臓は、今、激しく鼓動してゐます。こら、この通り……(木魚を打つやうな音が聞える)わたくしも、長年、此の実験をつづけてゐますが、こんな驚くべき場面に遭遇したことはありません。日本には、かういふ事件が屡々あるのですか。あるとすれば、うつかり……恋愛も出来ませんな。余談はさて置き、次にうつります。今度は。……はい、わかりました。それではと……只今、其の筋から、実験に供する人物の本名を公表するなといふ御注意がありましたから、わざと仮名を用ふることにします。そのおつもりで……。そこで、今度は……やはり、女の方ですが、何といふ名にしませうかな。手紙の文面では、もう相当の年配らしい、それでも、なかなかハイカラな御婦人ですな。それではと……どうも日本流の名前をつけるのは六ヶ敷しいが……。まあ、可笑しいかも知れませんが、キガ・ムラノさんとでも申して置きませう。そこで、キガ・ムラノさんのお声を一つ……。
最初ピヤノの伴奏でテノールの独唱が聞える。民謡風の曲である。

――(うつとりとした声で)いいわね。なんて素敵でせう。
――ちつともよかないや。
――どうして……。あんたはなんでもけなしたがるのね。
――それより、小母さんは、どうして今夜、僕をこんなところへ誘ひ出したんです。
方々から、シツ、シツといふ声が聞える。長い間。

――(囁くやうに)も少し我慢してらつしやいね。あとで、いいことを聞かしてあげるから……。
間。

――何を探してるの。え、どうしたの、お金入れ……なくしたの。よく探して御覧なさい。外套のポケットぢやない。
シツ、シツといふ声。間。

――ない? 沢山はひつてたの。そんな筈ないわね。え、沢山? うそ……
独唱止む。拍手。

――どう、起つて御覧なさい。その辺におつこつてやしない。
そのうちに、ガヤガヤと方々で話声がするので、この二人の会話は聞えなくなる。

ガ氏の声  落した金入れにいくらはひつてゐたかわからないのは残念ですが、いや、それよりも、まだ知りたいことがみなさんにはおありでせうが、キガ・ムラノ夫人の秘密は一とまづ、此の群集の雑音の中に葬りませう。(間)今迄の実験によつて、ほぼ、みなさんは、人間の精神活動と、宇宙の電気的現象との間に存在する不思議な関係について、たしかな証拠を認められたことと思ひます。すなはち、ある人間の音声は、物理的に云ふ音波なるもの以外に、最も微妙な精神的波動を伝播し、その波動が、他の特殊な精神活動、例へば「文字を書く」といふ機能と、その機能の結果に、一種の交感作用を及ぼす事実が明白になつたのであります、是を言ひ換へれば、人間の書いた文字には、人間の発する音声と同様に、精神があるのであります。少くとも、精神的波動と、これに感応する性質があるのであります。従つて、同じ人間の音声と筆蹟との間には、特殊な精神的脈絡があり、空中電波の媒介によつて、その脈絡を電気的にわれわれの感覚に訴へることが出来る。それが此の不思議な実験なのであります。今日の実験で、その筆蹟を、めいめいの署名と限つたのは、自分の名前といふものが一番書き慣れてをり、一番はつきりその人の精神を写してゐるからであります。(間)わたくしの学説を御紹介する上から云へば、実験はもうこれくらゐで十分だと思ひますが、いま気がついて見ますと、此のお話はどういふ間違ひか、プログラムには、演芸放送として取扱はれてをります。これは甚だ迷惑な次第でありまして、当然、科学講座、或は、くだけて、趣味講座として頂くべきでした。が、これはもう致し方がありません。放送局の御都合もあることと思ひますし、かたがた、みなさんの御期待にそむかないために、わたくしは、断然、此の深遠な科学問題を、肩の凝らない娯楽としてみなさんの前に提供することに致します。それにつきまして、一つ、御相談があるのですが、先程、申上げました通り、屑屋から貰つて来ました手紙が、まだ二三通残つてゐるのです。しかし、どれを見ましても失礼ながら、あまり面白さうな人物もゐないやうですから、一人一人やつて見ても始まらんと思ふのです。そこで、今迄、そんなことをやつて見たことはありませんが、今夜、試みに、これを一度にやつて見たらどうかと思ふのであります。或はただ、わけのわからない、狐にでもつままれたやうな場面になるかとも思ひますが、なに、世の中の出来事は、芝居のやうに筋が通つてはゐないのであります。念の為め、一ツ、二ツ、三ツ、此の三人の住んでゐる所だけを大体お知らせして置きます。ええと、一人は北海道、一人は東京市外高円寺、尤も、そのそばに神田キネマホールといふ活字が刷つてあります。それから、もう一人は、上海にてと書いてあるだけです。それでは、はじめます。
――妻のわさ子は、いよいよ、住みなれた我家、その昔、光は此処にのみとさへ思つた愛の巣を後に、雪深き北海の果て、トラピスト修道院に向つたのであります。
甚だ悲しい音楽がはじまる。

――初めてお目にかかつた旦那に、こんなことをお願ひしちや済まないんですが、どうか一つ、いくらでも結構です、助けると思つて……。
――わかつた。君が、かうして、旅の空で、借金に苦しんでゐるのを見るだけで、僕の気持は暗くなる。しかし、上海あたりで、ホテルのボーイでもしてゐれば、相当金がはひりさうなもんぢやないか。
――使つちまふから駄目です。
――はひる以上に使ふんぢや借金も出来るわけだな。
――寂しいんですよ、旦那……。金でも使はなけれや、ぢつとしてあの灯を見ちやゐられません。
――うちぢやね、堅いお客さんばつかりなんだから、あんまり変な評判を立てられないやうにして頂戴よ。
――あたし、そんな女に見えます?
――さういふわけぢやないさ。ただね、いろんなひとがゐるからさ。いらつしやいませ。お一人? この、今日来たんですの、どうかよろしく……。
――朝の祈り、昼の祈り、夕の祈り、彼の女の姿は、その祈りの度毎に浄められ、心の痛手は純白の法衣の下に、あとかたもなく消えて行つたのであります。
――旦那、今夜一つ、どつかへお供しませう。ダンスホールは如何です。
――僕は踊れないよ。
――踊らなくつたつて、旦那、一度、経験しといても悪かありませんよ。上海は、その点、世界的市場ですからね。
――何をそんなに見てらつしやるの。
――君の顔をさ。
――あたしの顔に何かついてます?
――ついてやしない。ただ、不思議なんだ。
――どうして?
――君が、こんなところへ出るなんてさ。何か事情があるんだらう。
――彼女は今、燈火ともしびのほの暗き祭壇に額づいて、何事か、一心に祈りつづけてゐるのであります。悪むべき夫は、もはや、彼の女の眼に、単なる憐むべき男として映じてゐるに過ぎません。
――君は誰にでもさういふことを云ふのかい。船がはひると、君は、眼をキヨロつかせて船客の誰彼を物色するんだね。僕は、不幸にして、君の眼鏡にかなつたわけか。
――旦那は、でも、甲板の上から、わたしの方ばかり見ておいででした。
――僕は、上海は不案内だから、どこか、日本人の経営してゐる、ホテルへ泊らうと思つてゐたのだ。
――旦那は何処からおいでになつたんですか。
――何処から来た。あの船の来たところからさ。
――何処へいらつしやるんです。
――そんなことを聞いてどうする。僕は、君のやうな男にまた会ひたくはないよ。
――ねえ、僕にそれを聞かしてくれ給へな。
――さういふことをお聞きになるお客さまつて、随分多いのね。
――だけど、僕は、ほんとに君の身の上に興味をもつてゐるんだよ。
――あら、まあ、お礼を云はなくつちやならないのかしら……。
――彼女は、しかし、それ以上に、自分を憐れむべき女だと思つてゐました。
――冗談ぢやないよ。
――弱りましたな。
――それより、何か召上らない。
――一体、いくら欲しいんだい。
――ぢや、ハムサラダとヱビフライ……。
――いくらでも結構です。借金は二百円ばかりなんですが……。
――お飲みものは……。
――君の借金の高は僕に関係はない。
――シトロンでいい。君も何か食ひ給へ。
――ぢや、五十円ばかり如何でせう。
――あたしは沢山……。
――五十円……。それや、知らない男にやる金ぢやない。
――をばさん、此の女にも御馳走していいだらう。
――そんなら三十円ばかり……。
――ええ、ようござんすとも……。
――馬鹿云へ!
――静かに上げた彼女の顔は、晴れやかな光に満ちてはゐましたが、その眼には、われ知らず涙の露を宿してゐたのであります。
――弁士黙れ。
やがて音楽が止む。

ガ氏の声  やや混乱の体でありますから、この辺で打ち切り、最後に、みなさんのお許しを得て、此のドラマの作者――名前はおわかりでせう――これを槍玉にあげることに致します。一体なら、作者は、当夜放送局に出張つて、自ら放送指揮をなすべきであるに拘はらず、怠慢のためか、はたまた、自信のないせゐか、今以て顔を見せません。そこで、此処にある原稿の署名を利用して、彼が、現在、何処で何をしてゐるかを突き止め、あはよくば、みなさんの喝采を博したいと思ひます。では、早速……
グウグウ高鼾が聞える。

ガ氏の声  これはなんでせう、この音は……ははは、眠つてをります。
ムニヤムニヤいふ声。

ガ氏の声  何か云つてをりますか。
――うむ……。五月蠅い、やかましい、ラヂオなんかやめちまへ。
ガ氏の声  (狼狽して)はあ、今すぐ……。
アナウンサアの声。ガンバハル氏の御講演「精神と電気」は終りました。
人物
アナウンサア
ガンバハル氏
平野万兵衛
その妻
その娘
森田六造
その妻
小泉ゆき子
その許婿
テノール歌手
キガ・ムラノ
連れの青年
高円寺の男(活動写真説明者)
上海の男(ホテルのボーイ)
旅客
カフエーの女将
北海道の女(女給)
カフエーの若い客
作者
其他群集

(をはり。――東京中央放送局のために)

底本:「岸田國士全集3」岩波書店
   1990(平成2)年5月8日発行
底本の親本:「牛山ホテル」第一書房
   1929(昭和4)年11月25日発行
初出:「文藝春秋 第五年第十一号」
   1927(昭和2)年11月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompas
校正:門田裕志
2012年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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