「おかみさん、どうぞ、その花をお呉んなさい、その一つで三つの花、薔薇と鈴振花と茉莉花の三つの香がする薫の高い意地惡さうな花をさ。その變にほんのりと匂つて來て胸苦しくさせる花をお呉んなさい。
「旦那、もう茉莉花も、薔薇も鈴振花も、すつかり切らしました。何ぞほかに新しい花を召しますのなら、どうか名を仰有つて下さいまし、女の胸の上、戀人の床の上に萎れる花の名はみんな存じてをりますから。
「おかみさん、その一つで三つの花といふのは、新しい花ぢや無いよ。丁度私と同年ぐらゐの花だが、暴風の晩に萎れて了つたかも知れない。
「旦那、私どもでは、萎れた花なんて置きませんです。宅の品はみんな新しい若い、愛の充ちた花で、蘆や薄荷の茂の中で、水に浸つて生きてをります。
「おかみさん、私のいふ花が生きてるか、死んでるか知らないが、何しろ今その意地惡の悲しい香がして來てゐる。噫恨めしいその香はどこからして來るんだらう。
「旦那、多分、お痛はしいお心からでは御座んせんか。暴風の晩にたつた一邊かいだばかりで、一生忘られない花の香もありますから。たしか、今暴風の晩と仰有いましたね。
「おかみさん、何でも花はそこにあるよ。後生だ取つてお呉れ。その妙に氣を搖る意地の惡い香が、通りすがりにしたばかりで、こゝへ入つて來たんだ。私のいふ愛と恨のその花を取つてお呉れ。
「旦那、それでは御自分で、花の中をお探し遊ばせ。その間にちよいと私はこの大きな菖蒲を活けてをります。
「おかみさん、そら、あつた、こゝにあつた、ひとりぽつちで忍冬の中に潰れてゐた。たつた、ひとりぽつちでさ、この花は世界に一つしか無いんだ。それ、暴風と涙と幸の香がしないかね。
「旦那、私には砂地と濱の香しか致しません。それは金雀花ぢやあ御座いませんか、風で忍冬の蔓に絡んだのです。色が褪めて、黄ばんで醜いぢや御座いませんか。
「おかみさん、生きてるよ、金いろだよ、美しいよ。まるで清い小さい心の臟だ、蝋の涙だ。蝋と愛と死のこの香がしないのかねえ。
「旦那、何の香も致しません。然し先程、薔薇と鈴振花と茉莉花の香と仰有いましたでは御座いませんか、ひとつ品の良い香のする奇麗な花環をお造り申しませう、庚申薔薇に葉鷄頭でも添ひまして。
「おかみさん、私の要るのはこの花ばかりだ。この小さい涙の玉、この黄いろい心の臟だ。何なら、一番立派な葬式の花環の代を上げてもいい。
「旦那、これは差上げませう、よろしう御座います、この黄いろい心の臟なら、心から悦[#ルビの「よろこ」は底本では「よろ」]んで差上げます。
「おかみさん、私も心からお禮を申すよ。
花屋の敷居を跨いで、もう戸の外に出てから、私は振返つて、かう言つた。
「おかみさん、この胸苦しいほど恨めしい花が、今日丁度にも置いてあつた花屋の前を通りすがつたとは、よほど廻合が惡かつたのだ。おかみさん、今お呉れだつたこの涙と愛と死の小さい心の臟は、實にわるい花だよ。私が聞いてならない事を、この花は聞かせてくれた。おかみさん、この花を持つて歸つて殺してやるんだ、この心の臟を突通してやるんだ。私は愛の思出や、感情の玩具や、古い繪草子にんだ押花や風が忍冬の蔓に隱して置く花なんぞは嫌ひだ。おかみさん、これには段々譯もあるがそれは言へない、また察しても貰ひたくないほど、深い譯がある。これからよく忍冬に氣を付けてお呉れ、この花屋の前を通るとき、この堪へ難い愛の香がしないやうにして貰ひたい。」
「とはいふものゝ、大事を取つて、今にこゝの前を避けて通る、愛と若さと死の皮肉な花が、威勢よく反身になつてゐたり、しよんぼりと絶入つてゐる家の前を。
底本:「上田敏詩集」玄文社詩歌部
1923(大正12)年1月10日発行
入力:川山隆
校正:Juki
2012年7月10日作成
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