虎梵名ヴィヤグラ、今のインド語でバグ、南インドのタミル語でピリ、ジャワ名マチャム、マレー名リマウ、アラブ名ニムル、英語でタイガー、その他欧州諸国大抵これに似おり、いずれもギリシアやラテンのチグリスに基づく。そのチグリスなる名は古ペルシア語のチグリ(箭)より出で、虎の駛く走るを箭の飛ぶに比べたるに因るならんという。わが国でも古来虎を実際見ずに千里を走ると信じ、戯曲に清正の捷疾を賞して千里一跳虎之助などと洒落て居る。プリニの『博物志』に拠れば生きた虎をローマ人が初めて見たのはアウグスッス帝の代だった。それより前に欧州人が実物を見る事極めて罕だったから、虎が餌を捕うるため跳る疾さをペルシアで箭の飛ぶに比べたのを聞き違えてかプリニの第八巻二十五章にこんな言を述べて居る。曰く「ヒルカニアとインドに虎あり疾く走る事驚くべし。子を多く産むその子ことごとく取り去られた時最も疾く走る。例えば猟夫間に乗じその子供を取りて馬を替えて極力馳せ去るも、父虎もとより一向子の世話を焼かず。母虎巣に帰って変を覚ると直ちに臭を嗅いで跡を尋ね箭のごとく走り追う。その声近くなる時猟夫虎の子一つを落す。母これを銜えて巣に奔り帰りその子をきてまた猟夫を追う。また子一つを落すを拾い巣に伴い帰りてまた拾いに奔る。かかる間に猟師余すところの虎の子供を全うして船に乗る。母虎浜に立ちて望み見ていたずらに惆恨す」と。しかれども十七世紀には欧人東洋に航して親り活きた虎を自然生活のまま観察した者多くなり、噂ほど長途を疾く走るものでないと解ったので、英国サー・トマス・ブラウンの『俗説弁惑』にプリニの説を破り居る。李時珍いう虎はその声に象ると、虎唐音フウ、虎がフウと吼えるその声をそのまま名としたというんだ。これはしかるべき説で凡てどこでもオノマトープとて動物の声をその物の名としたのがすこぶる多い。往年『学芸志林』で浜田健次郎君がわが国の諸例を詳しく述べられた。虎の異名多くある中に晋梁以後の書にしばしば大虫と呼んだ事が見える。大きな動物すなわち大親分と尊称した語らしい。スウェーデンの牧牛女は狼を黙者、灰色脚、金歯など呼び、熊を老爺、大父、十二人力、金脚など名づけ決してその本名を呼ばず、また同国の小農輩キリスト昇天日の前の第二週の間鼠蛇等の名を言わず、いずれもその害を避けんためだ(ロイド『瑞典小農生活』)。カナリース族は矮の本名を言わずベンガルでは必ず虎を外叔父と唱う(リウィス『錫蘭俗伝』)。わが邦にも諸職各々忌詞あって、『北越雪譜』に杣人や猟師が熊狼から女根まで決して本名を称えぬ例を挙げ、熊野でも兎を巫輩狼を山の神また御客様など言い山中で天狗を天狗と呼ばず高様と言った。また支那で虎を李耳と称う、晋の郭璞は〈虎物を食うに耳に値えばすなわち止む、故に李耳と呼ぶ、その諱に触るればなり〉、漢の応劭は南郡の李翁が虎に化けた故李耳と名づくと言ったが、明の李時珍これを妄とし李耳は狸児を訛ったので、今も南支那人虎を呼んで猫と為すと言った。狸は日本で専ら「たぬき」と訓ますが支那では「たぬき」のほかに学名フェリス・ヴィヴェリナ、フェリス・マヌル等の野猫をも狸と呼ぶ。したがって野狸に別たんとて猫を家狸と異名す。因って想うに仏経に竜を罵って小蛇子と言うごとく狸児は虎を蔑して児猫といった意味だろう。これに似て日本で猫を虎に擬えた事『世事百談』に「虎を猫とは大小剛柔遥かに殊なるといえども、その形状の相類する事絶えて能く似たり、されば我邦の古え猫を手飼の虎といえる事『古今六帖』の歌に「浅茅生の小野の篠原いかなれば、手飼の虎の伏所なる」、また『源氏物語』女三宮の条に見えたり、唐土の小説に虎を山猫という事、『西遊記』第十三回〈虎穴に陥って金星厄を解く〉といえる条に「〈伯欽道う風是個の山猫来れり云々、只見る一隻の班爛虎〉」とあり云々」、これも伯欽が勇を恃んで虎を山猫と蔑語したのだ。
(二) 虎の記載概略
虎の記載を学術上七面倒に書くより『本草綱目』に引いた『格物論』(唐代の物という)を又引するが一番手軽うて解りやすい。いわく虎は山獣の君なり、状猫のごとくにて大きさ牛のごとく黄質黒章、鋸牙鉤爪鬚健にして尖り舌大きさ掌のごとく倒に刺を生ず、項短く鼻る、これまでは誠に文簡にして写生の妙を極め居る。さてそれから追々支那人流の法螺を吹き出していわく、夜視るに一目は光を放ち、一目は物を看る、声吼ゆる事雷のごとく風従って生じ百獣震え恐るとある。しかし全くの虚譚でもないらしく思わるるは予闇室に猫を閉じ籠めて毎度験すと、こちらの見ようと、またあちらの向きようで一目強く光を放ち、他の目はなきがごとく暗い事がしばしばあった。また虎嘯けば風生ずとか風は虎に従うとかいうは、支那の暦に立秋虎始めて嘯くとあるごとく、秋風吹く頃より専ら嘯く故虎が鳴くのと風が吹くのと同時に起る例が至って多いのだろう。予が現住する田辺の船頭大波に逢うとオイオイオイと連呼くれば鎮まるといい、町内の男子暴風吹き荒むと大声挙げて風を制止する俗習がある。両ながら予その場に臨んで験したが波風が呼声を聞いて停止するでなく、人が風波のやむまで呼び続けるのだった。バッチの『埃及諸神譜』に古エジプト人狗頭猴を暁の精とし日が地平より昇りおわればこの猴に化すと信じた。実はこの猴アフリカの林中に多く棲み日の出前ごとに喧噪呼号するを暁の精が旭を歓迎頌讃すと心得たからだと出づ。これも猴に呼ばれて旭が出るでなく旭が出掛かるによって猴が騒ぐのだ。さて虎も獅も同じく猫属の獣で外貌は大いに差うが骨骼や爪や歯牙は余り違わぬ、毛と皮が大いに異なるのだ。ただし虎の髑髏を獅のと較べると獅の鼻梁と上顎骨が一線を成して額骨と画れ居るに虎の鼻梁は上顎骨よりも高く額骨に突き上り居る、獅は最大いなるもの鼻尖から尾の端まで十フィート六インチなるに虎は十一フィートに達するがある由。インドや南アジア諸島の虎は毛短く滑らかで色深く章条鮮やかなるに、北支那やシベリア等寒地に棲むものは毛長く色淡し、虎の産地はアジアに限りアムール州を最北限、スマトラ、ジャワとバリを最南限とし、東は樺太、西は土領ジョルジアに達すれど日本およびセイロン、ボルネオ等諸島にこれなし、インドの虎は専ら牛鹿野猪孔雀を食いまた蛙や他の小猛獣をも食い往々人を啖う。創を受けまた究迫さるるにあらざれば人と争闘せず。毎も人を食う奴は勢竭き歯弱れる老虎で村落近く棲み野獣よりも人を捉うるを便とす、草野と沼沢に棲む事多きも林中にも住み、また古建築の廃址に居るを好く、水を泳ぐが上手で急がぬ時は前足もて浅深を試みて後渡る。虎ごとに章条異なり、また一疋の体で左右異なるもある。『淵鑑類函』巻四二九に虎骨甚だ異なり、咫尺浅草といえども能く身伏して露われず、その然声を作すに及んではすなわち巍然として大なりとある。動物園や博物館で見ると虎ほど目に立つ物はないようだが、実際野に伏す時は草葉やその蔭を虎の章条と混じやすくて目立たず、わずかに低く薄く生えた叢の上に伏すもなお見分けにくい、それを支那人が誤って骨があるいは伸び脹れあるいは縮小して虎の身が大小変化するとしたんだ。バルフォールの『印度事彙』に人あり孕んだ牝虎を十七疋まで銃殺し剖いて見ると必ず腹に四児を持っていた。しかるに生まれて最幼き児が三疋より多く母に伴れられ居るを見ず、自分で餌を覓るほど長じた児が二疋より多く母に偕われ居るを見なんだ。因って想うに四疋孕んでその内一、二疋は必ず死んで産まるるんだろう。インド土人いわく虎子を生まばきっとその一疋は父虎に食わると、ロメーンスの説に猫甚く子を愛するの余り、人がむやみにその子に触るを見ると自分で自分の子を食ってしまうとあった。予本邦の猫についてその事実たることを目撃した。虎も四疋生みながら、一、二疋足手纏いになり過ぎるので食ってしまうのかも知れぬ。虎一生一乳、乳必双虎と『類函』にも見ゆ、また人これに遇うもの敵勢を作ししばしば引いて曲路に至りすなわち避け去るべし。けだし虎頂短くて回顧する能わず直行する故なりとある、これも事実らしい。ウットの『博物画譜』に虎道傍にあって餌獣の至るを俟つに必ず自分の巣に対せる側においてす。これ獣を捉えて真直ぐに巣に行かんためで、もし巣の側にあって餌を捉えたら真直ぐに遠い向側に進み、それから身を廻して道を横ぎり元の巣の側へ還る迂路を取らねばならぬからだ。また虎が餌獣を打たんとて跳びついて仕損じたら周章て慙愧り二度試みて見ずに低頭して去るとある。支那にも『本草』にその物を搏つや三たび躍って中らずんばすなわちこれを捨つと出づ。川柳に「三たび口説いて聴かれず身退く振られ客」とあるごとし、『爾雅』に虎の浅毛なるを山、白いのを※[#「彪」の「彡」に代えて「甘」、12-15]、黒きを※[#「彪」の「彡」に代えて「夂/黒の旧字」、12-15]、虎に似て五指のを、虎に似て真でないを彪、虎に似て角あるを※[#「厂+虎」、12-16]というと言って、むつかしい文字ばかり列べ居る。『国史補』には四指のを天虎五指のを人虎と俗称すと出づ。ちょっと聞くと誠に出任せな譫語のようだが実は支那に古来虎多く、その民また特に虎に注意して色々と区別を付ける事あたかもわが邦で鷹や馬に色々種別を立てたごとし。サモエデスは馴鹿に注意深き余りその灰褐色の浅深を十一、二の別名で言い分け、アフリカのヘレロ人は盛んに牧牛に勤め牛の毛色を言い分くる語すこぶる多く、芝や空の色を一つの語で混じ言うを何とも思わぬが牛の褐色を種別して言い能わぬ者を大痴とす(ラッツェル『人類史』巻一)。田辺の漁夫は大きさに準って鰤を「つはだ、いなだ、はまち、めじろ、ぶり」と即座に言い別くる。しかるに綿羊と山羊の見分けが出来ぬ。開明を以て誇る英米人が兄弟をブラザー姉妹をシスターと言うて、兄と弟、姉と妹をそれぞれ手軽く言い顕す語がないのでアフリカ行の宣教師が聖書を講ずる際、某人は某人のブラザーだと説くと、黒人がそれは兄か弟かと問い返し返答に毎々困るというが(ラッツェル『人類史』二)、予もイタリア書に甥も孫もニポテとあるを見るごとにどっちか分らず大いに面喫う事である。
『本草』に虎が狗を食えば酔う狗は虎の酒だ、また虎は羊の角を焼いた煙を忌みその臭を悪んで逃げ去る、また人や諸獣に勝つが蝟に制せらるとある。佐藤成裕の『中陵漫録』二に虎狗を好み狗赤小豆を好み猫天蓼を好み狐焼鼠を好み猩桃を好み鼠蕎麦を好み雉子胡麻を好み、虎狗を食して淫を起し狗赤小豆を食して百疾を癒し猫天蓼をうてしきりに接る、狐焼鼠を見て命を失う猩桃を得て空に擲つ、鼠蕎麦に就いて去る事を知らず、雉子胡麻を食して毎朝来ると見ゆ。皆まで嘘でなかろう、虎が蝟に制せらるるは昨今聞かぬが豪猪を搏つとてその刺に犯され致命傷を受くる事は近年も聞くところだ。『物類相感志』に虎が人を食うごとに耳上に欠痕もしくは割裂を生ずる、その数を験して何人食ったと判るとある。また『淵鑑類函』に〈虎小児を食わず、児痴にして虎の懼るべきを知らず、故に食わず、また酔人を食わず、必ず坐して守り以てその醒むるを俟つ、その醒むるを俟つにあらず、その懼るるを俟つなり〉とある、自分を懼れぬ者を食わぬのだ。さていわく〈およそ男子を食う必ず勢より起る、婦人は必ず乳より起る、ただ婦人の陰を食わず〉とは大椿件だ。十六世紀にレオ・アフリカヌスが著した『亜非利加紀行』に婦女山中で獅に出会うた時その陰を露せばたちまち眼を低うして去るとある。これは邪視を避くるに女陰を以てすると同一の迷信から出たらしい。邪視の詳しき事は、『東京人類学会雑誌』二七八号二九二頁以下に長く述べ置いた、ただし支那説は虎が女陰を食わぬばかりで、見たら逃げるとないからアフリカの獅のごとくこれを怖るるでなく単にその臭味を忌む事という意味らしい。
(三) 虎と人や他の獣との関係
『大英類典』第十一版巻二十六に「牝虎は二ないし五、六児を一度に産むが三疋が普通だ、その子を愛する事甚だしく最も注意してこれを守る、生れて二年目に早自分で餌を求める、それまで母と一緒に居る、その間母虎の性殊に兇暴で子が乳離れする頃より鹿犢豕等を搏って見せその法を教ゆ、この際牝虎の猛勢惨酷その極に達する、多分子を激して手練を積ましむるためだろう、さて十分殺獲術を究めた上ならでは子と離れぬ、若い虎は老虎より迥かに物多く殺し一度に三、四牛を殺す事あり、老虎は一度に一つより多く殺す事稀で、それも三、四また七日に一度だ」とある。虎が一たび人を啖うとその癖が付く。インドのニルゲリ山間などは虎はあれど人を殺す事至って稀だが家に飼った水牛を害する事しきりだ(リウァース著『トダ人族篇』四三二頁)。このほど死んだワレス氏が六十年前シンガポールに寓した時常に近所を彷徨く虎若干ありて、新開の阿仙薬園に働く支那人を平均日に一人ずつ殺したと『巫来群島篇』第二章に言われた。十七世紀に支那に宣教したナヴワレッテがキリスト教を奉ずる支那人に聞いたは、その頃百また二百虎群を成して広東より海関に至る、旅人百五十人以上隊を組むにあらざれば旅し得ず、これがため僅々数年間に五万人死せりとは大層な話ながらかかる話の行わるるを見て如何に虎害が支那に繁かりしかを察せらるる。また支那の書に馬虎を載す、全く馬同様だが鱗を被り虎の爪あり、性殺を好む、春日川より出でて人畜を捉うと。欧人湖南にこの獣ありと聞き往って精しく捜せしも見出さず全然法螺話だろうという(アストレイ『新編紀行航記全集』巻四、頁三一三)。これは『水経註』に見えた水虎の話を西人が誤聞したのでないか。『本草綱目』虫部や『和漢三才図会』巻四十にも引かれ、わが国の河童だろうという人多いが確かならぬ。エイモニエーの『安南記』にはオラングライー族の村に虎入りて人なり犬なり豕なり一頭でも捉わるると直ぐ村を他処へ移すと見ゆ。一七六九年インドの北西部飢饉し牛多く死し虎常時の食を得ず、ブハワバール市を侵しおよそ四百人を殲し、住民逃げ散じて市ために数年間空虚となったとクルックの『西北印度諸州篇』に見え、次に開化の増進に随い虎が追々減少する事体を述べ居る。虎を狩る法は種々あり、虎自身が触れ動かして捕わるる弾弓や、落ちたら出る事ならぬ穽や木葉に黐塗りて虎に粘き狂うてついに眼が見えぬに至らしむる設計等あるが、欧人インドで虎を狩るには銃を揃え象に乗って撃つのだ。康煕帝自ら虎狩せしを見た西人の記には専ら槍手隊を使うたよう出で居る。遼元の諸朝は主として弓を用いたらしい。『類函』四二九巻に陳氏義興山中に家む、夜虎門に当って大いに吼ゆるを聞き、開き視れば一少艾衣類凋損たれど妍姿傷ねず問うてこれ商人の女母に随い塚に上り寒食を作すところを虎に搏たれ逃げ来た者と知り、見れば見るほど麗しいから陳の妻が能くわが子婦たらんかと問うと諾した。依ってその季子に配す。月を踰えてその父母尋ね来り喜び甚だしく遂に婚姻を為し目けて虎媒といったとある。
虎を殺した者を褒むるは虎棲む国の常法だ。秦の昭襄王の時白虎害を為せしかば能く殺す者を募る、夷人廖仲薬[#ルビの「りょうちゅうやく」は底本では「こうちゅうやく」]秦精等弩を高楼に伏せて射殺す、王曰く虎四郡を経すべて千二百人を害せり、一朝これを降せる功焉より大なるはなしとて石を刻んで盟を成したと『類函』に『華陽国志』を引いて居るが、かかる猛虎を殺した報酬に石を刻んで盟を成したばかりでは一向詰まらぬ、きっと何物かくれたのじゃろう。一六八三年ヴェネチア版、ヴィンツェンツォ・マリア師の『東方遊記』に西インドコチン王は躬ら重臣輩の見る所で白質黒条の虎を獲るにあらざれば即位するを得ず、この辺の虎に三品あり武功の次第に因ってそれぞれの虎の皮を楯に用い得る、また虎を殺した者は直ちにその鬚と舌を抜き王に献ず、王受け取ってこれを焼きその勇者に武士号を与え金また銀に金を被せたる環中空にして小礫また種子を入れたるを賜う。勇士これを腕に貫けば身動くごとに鳴る事鈴のごとし。かくて虎の尸もしくはその一部を提え諸方を巡遊すれば衆集まり来りてこれを見贈遺多く数日にして富足るとある。これに似た一事を挙げんにアフリカの仏領コンゴー国では蟹(ンカラ)を海の印号とし虎に縁近き豹(ンゴ)を陸の印号としまた王家の印号とす。因って豹を尊ぶ事無類で王族ならではその皮を衣るを得ず、これを猟り殺すに種々の作法あり、例せばデンネットの『フィオート民俗篇』(一八九七年版)十八章に「豹を殺した者あると聞いて吾輩忙いで町へ還った、何故というと豹が殺された時は各町民が思うままに他町民と勝手次第に相掠奪す、殺した人が豹皮を王に献ずる日はその人思い付きのまま町のどの部分でも通り、その間家内にさえなくば何でもかでも押領し得るんだ、さてかの者自身縛られて王前に詣り叮嚀に豹首を布に包み携う、王問う「吾子よ何故汝はこの人(豹)を殺したか」、豹殺し対う「彼は甚だ危険な人で王の民の羊や鶏を夥しく殺しました」、王いわく「吾子よ汝は善くした、それじゃ彼の髯を数え見よ、汝も知る通りすべて三九二十七毛あるはずだ、一つでも足らなんだら汝は孤に布二匹を賠わにゃならぬ」、かの者答う「父よ勘定が合うて二十七毛確かにござります」、王「そんなら注意髯を皆抜け、次に歯と爪と皮もことごとく取って孤の用に立てよ」、豹殺し命のまにまに抜き取り剥ぎ取りおわる、ここにおいて王言う「吾子よ汝は大勇の猟師だから爾後狩に出る時食事を調うる者を欲しいだろ、因ってこの若い嬢子を汝の婢なり妾なりにして取って置け」と聞いて豹殺し腰抜かすばかり悦びながら「父様見やんせ、余りに衣類が弊れているので、とてもこんな結構な品を戴かれません」、王「吾子よ最もな事を吐す、さらばこの衣類を遣わすからそこで着よ」、豹殺し「父様有難くて冥加に余って誠にどうもどうも、しかしこんな尤物に木を斫ってやる人がござらぬ」、王「委細は先刻から承知の介だ、この少童を伴れ去って木を斫らすがよい、またこの人を遣るから鉄砲を持たせ」、豹殺し「父よ今こそ掌を掌って御礼を白します」、そこで王この盛事のために大饗宴を張る」とある。小説ながら『水滸伝』の武行者や黒旋風が虎を殺して村民に大持てなところは宋元時代の風俗を実写したに相違ない。
盗人にも三分の理ありとか、虎はかく人畜を残害するもののそれは「柿食いに来るは烏の道理哉」で、食肉獣の悲しさ他の動物を生食せずば自分の命が立ち往かぬからやむを得ぬ事だ、既に故ハクスレーも人が獣を何の必要なしに残殺するは不道徳を免れぬが虎や熊が牛馬を害したって不道徳でなくて無道徳だと言われたと憶える。閑話休題、虎はまず猛獣中のもっとも大きな物で毛皮美麗貌形雄偉行動また何となく痒序たところから東洋諸邦殊に支那で獣中の王として尊ばれた。『説文』に虎を獣君という、山獣の君たればなり、また山君というと、わが邦で狼を大神と呼び今も熊野でこれを獣の王としまた山の神と称うるごとし。『揚子』に聖人虎別、君子豹別、弁人狸別、狸変ずればすなわち豹、豹変ずればすなわち虎、これは聖人君子弁人を順次虎豹狸に比べたのだ。『管子』に〈虎豹は獣の猛者なり、深林広沢の中に居る、すなわち人その威を畏れてこれを載す、虎豹その幽を去って而して人に近づくすなわち人これを得てその威を易る、故に曰く虎豹幽に託って威載すべきなり〉。熊楠謂うに昔朱隠居して仕えず、閻負涼に使しを以て王猛に比し並称す。秦主苻堅猛を侍中とせし時猛に譲れり、のち猛死し堅南晋に寇せんとす、苻融石越等皆諫めしも独りこれを賛し、にわかに水の敗を致し以て亡国に至れり、これ豈景略(王猛の字)の匹ならんや、処士虚声を盗む何代か人なからんと王阮亭は言った(『池北偶談』巻二)。ちょうど虎豹が林沢におれば威あり、幽棲を去って人に近づくと三文の値もなくなるに似たり、インドでは欧州と等しく獅を獣王とす、仏を獅に比べた文諸経に多い、たとえば隋訳『大集譬喩王経』上にいわく、仏言う舎利弗譬えば須弥山王金色辺あり、もし諸鳥獣その辺に至らば皆同一色いわゆる金色なればすなわち師子獣王と同色なり、諸鳥獣既に師子と同一金色なりといえどもその力勢功徳名称ことごとく師子王と等しからず、またまた師子獣王遊戯するにしきりに無畏吼声を発するごとくならずとて、声聞と独覚が多少如来に似たところあるもその間全く懸隔しいるに喩えある。玄奘が訳した『大毘婆娑論』巻百三に菩薩菩提樹下に修道する所に魔王攻め来る、菩薩念ずらく魔軍鳥形を作し来らば我れ猫狸形を作して敵せん、魔軍猫狸形を作し来らば我れ狗狼形を作して敵せん、魔軍狗狼形を作し来らば豺豹形、豺豹形で来らば虎形、虎形で来ると師子形、師子形で来るなら竜鱗を化作し竜鱗で来たら猛火、猛火で来たら暴雨、暴雨で来たら大蓋を化作してこれに敵せんと、鳥に初まって大蓋に至るその間逓次後者が前者より強い、しかして虎より獅、獅より竜鱗、それから火、次に雨、次に蓋が一番強いとしているが、蓋は鳥に啄き破らるべきものだからこの目次中の最強者が最弱者より弱い事となる。想うに一九などの小説にしばしば繰り返された一話はこの仏語より来たんでないか、いわく猫を畜って名を命んと苦心し猫は猫だから猫と号づく、さて攷うると猫より強いから虎、それよりも強い故竜、竜は雲なくんば行き得ぬ故雲、雨ふれば雲散ずる故雨、それを吹き飛ばす風、風を防ぎ遮る障子、それを噛み破る鼠と段々改称してさて鼠より猫が強いので猫を猫と号づけて最初の名に戻ったと。虎や獅に王威ある由を述べたついでに言い置くは虎の威を仮る狐てふ諺だ、これは江乙が楚王に〈狐虎の威を仮る〉と言った故事で『戦国策』に出ている。『今昔物語集』巻五第二十一語に天竺の山に狐と虎住み、その狐虎の威を仮りて諸獣を恐す、虎行きて狐を責め狐恐れて逃ぐるほどに井に落ちたとありて、弁財天と堅地神の縁起譚だがその出処が解らぬ。芳賀博士の攷証本にも聢と出ておらぬ、多分インドで出来たのでなく江乙の語に拠って支那で作られたものかと思う。
マルコポロ紀行に元世祖将官に位勲の牌を賜い佩用せしむるに、金また銀を鍍した牌に獅の頭を鐫り付けたとあるが、ユールの註に拠るとマルコの書諸所に虎を獅と訛称しあるそうだ。古くより虎賁などいう武官職名もあり、虎符を用いた事もあるから件の牌には虎頭を鐫り付けたのだろう。今日といえどもアフリカで虎と呼ぶは豹でアメリカで虎と呼ぶは旧世界に全くなきジャギュアル、また獅と呼ぶのは同じく東半球に住まぬピューマなるなど猫属の諸獣の性質酷だ相似たる点から名称の混雑は尠なくない。
『戦国策』に人あり係蹄を置きて虎を得たるに、虎怒りてを決って去る、虎の情そのを愛せざるにあらざれど、環寸のを以て七尺の躯を害せざる者は権なりとあって虎の決断を褒め居る。ロメーンスの説に狐が足を係蹄に捉われて危殆と見ると即刻自ら咬み切って逃ぐるは事実だとある。『大英類典』第十一版獅の条を見ると近来獅の性実は卑怯なる由言う人多しとあって、要は人と同じく獅もことごとく勇猛ならず、中には至って臆病な奴もありなんと結論し居る。かかる噂は今に始まったのでなくレオ・アフリカヌスが十六世紀に既に言って居る。モロッコのマグラ市近き野に獅が多いが極めて怯懦で、小児が叱ると狼狽遁げ去る、その辺の大都フェスの諺に口ばかり剛情な怯者を詈って汝はアグラの獅ほど勇なり犢にさえ尾を啖わるべしというとある。虎もこの例で至って臆病なのもあるらしく、前年スヴェン・ヘジン、チベット辺で水を渡る虎の尾を小児に曳かれて何事もなからざりしを見たと何かで読んだ。さらば虎に勝った勇士の内には真の勇士でなくて機会好く怯弱な虎に出逢って迎えざるの誉れを得たのもあるだろう。『瑣語』に周王太子宜臼を虎に啗わさんとした時太子虎を叱ると耳を低れて服したといい、『衝波伝』に孔子山に遊び子路をして水を取らしむ水所にて虎に逢い戦うてその尾を攬りこれを得懐に内れ水を取って還る、さて孔子に問いけるは上士虎を殺す如何、子曰く虎頭を持つ、また中士の作法を問うと耳を捉えると答えた、下士虎を殺さば如何すると問うと、虎の尾を捉えると答えたので子路自分の下士たるを慙じ尾を出して棄てたとある。子路は至って勇ありしと聞くが周王太子などいずれ柔弱な人なるべきに叱られて服した虎はよほど弱腰の生れだったと見える。『朝野僉載』には大酔して崖辺で睡った人の上へ虎が来て嗅ぐと虎鬚がその人の鼻孔に入りハックションと遣った声に驚きその虎が崖から落ちて人に得られたとある。
ローマ帝国の盛時虎を多く畜って闘わしめまた車を牽かせた例もある。今もジャワで虎や犀を闘わす由(ラッツェル『人類史』二)、『管子』に桀王の時女楽三万人虎を市に放ってその驚駭を見て娯んだとあるから、支那にも古くから帝王が畜ったのだろう。
虎が仙人や僧に仕えた話は支那にすこぶる多い。例せば西晋の末天竺より支那に来た博識耆域は渉船を断られて虎に騎って川を渡り、北斉の僧稠は錫杖を以て両虎の交闘を解く、後梁の法聡は坐するところの縄牀の両各々一虎あり、晋安王来りしも進む能わず、聡手を以て頭を按え地に著けその両目を閉ざしめ、王を召し展礼せしむとはなかなか豪い坊主だ。王境内虎災大きを救えと乞うと入定する事須臾にして十七大虎来る、すなわち戒を授け百姓を犯すなからしめた、また弟子に命じ布の故衣で諸虎の頸を繋ぐ、七日経て王また来り斎を設くると諸虎も僧徒と共に至る、食を与え布を解きやるとその後害を成さず、唐の豊干禅師が虎に騎って松門に入ったは名高い談で後趙の竺仏調は山で大雪に会うと虎が窟を譲ってその内に臥さしめ自分は下山した、唐の僖宗の子普聞禅師は山に入って菜なきを憂うると虎が行者に化けてその種子をくれて耕植し得た、南嶽の慧思は山に水なきを患うると二虎あり師を引きて嶺に登り地をいて哮ると虎泉とて素敵な浄水が湧出した、また朝廷から詰問使が来た時二虎石橋を守り吼えてこれを郤けた、『独異志』に劉牧南山野中に果蔬を植えると人多く樹を伐り囿を践む、にわかに二虎来り近づき居り牧を見て尾を揺がす、我を護るつもりかと問うと首を俛せてさようと言う態だった、牧死んで後虎が去ったと『類函』に引いて居る。虎が孝子を恵んだ話は『二十四孝』の内にもあるが、ほかにも宋の朱泰貧乏で百里薪を鬻ぎ母を養う、ある時虎来り泰を負うて去らんとす、泰声をして我は惜しむに足らず母を託する方なしと歎くと虎が放ち去った、里人輩感心して醵金を遣り虎残と名づけた。また楊豊虎に噛まる、十四になる娘が手に刀刃なきに直ちに虎頭を捉えて父の難を救うたとある。予もそんな孝行をして見たいが子孝ならんと欲すれども父母俟たずで、海外留学中に双親とも冥途に往かれたから今さら何ともならぬ。
(四) 史話
史書や伝記に載った虎に関する話はすこぶる夥しいから今ただ手当り次第に略述する事とせり。まず虎が恩を人に報じた例を[#「例を」は底本では「礼を」]挙げると、晋の干宝の『捜神記』に廬陵の婦人蘇易なる者善く産を看る、夜たちまち虎に取られ、行く事六、七里、大壙に至り地に置き蹲りて守る、そこに牝虎あり難産中で易を仰ぎ視る、因って助けて三子を産ましめると虎がまた易を負うて宅へ還し、返礼に獣肉を易の門内に再三送ったと見ゆ。天主教僧ニコラス・デル・テコの『南米諸州誌』に、一五三五年、メンドツァ今日アルゼンチナ国の首都ブエノサイレスの地に初めて殖民地を建て、程無く土蕃と難を構え大敗し、次いで糧食乏しくなりて人相食むにんだ、その時一婦人坐して餓死するよりはいっそインディアンか野獣に殺さるるが優と決心して、広野に彷徨う中ある窟に亜米利加獅の牝が子を産むに苦しむを見、大胆にも進んで産婆の役をして遣った、米獅これを徳とし産後外出して獣を搏ち将ち来て肉を子供と彼女に分ちくれたので餓死を免がれた、そのうちインディアンが彼女を擒り、種々難儀な目に遭わせたが、遂にスペイン人に賠われて城に帰った、それは吉かったが全体この女性質慓悍で上長の人の命に遵わぬから遂に野獣に啖わす刑に処せられた、ところが天幸にも一番に彼女を啖わんと近づき寄ったのが、以前出産を助けもろうた牝米獅で、見るより気が付き、これは飛んだところで御目に懸ります、忰どもも一人前になって毎度御噂を致しいる、女ながらも西大陸の獣中王たる妾が御恩報しに腕を見せましょうと、口に言わねど畜生にも相応の人情ありて、爪牙を尖らせ他の諸獣を捍いで一向彼女に近づかしめず、見物一同これほど奇特な米獅に免じて彼女を赦さずば、人間が畜生に及ばぬ証明をするようなもの、人として獣に羞じざらめやと感動して彼女を許し、久しく無事で活命させたとある。『淵鑑類函』に晋の郭文かつて虎あり、たちまち口を張って文に向うたんで視ると口中に骨哽り、手を以て去ってやると明日鹿一疋持ち来って献じた。また都区宝という人父の喪で籠りいた時里人虎を追う、虎その廬に匿れたのを宝が簔で蔵しやって免がれしめた、それから時々野獣を負ってくれに来たとある。古ギリシアの人が獅のために刺を抜きやり、のち罪獲て有司その人を獅に啖わすとちょうど以前刺を抜いてやった獅であって一向啖おうとせず、依って罪を赦された話は誰も知るところだ。これらはちょっと聞くと嘘ばかりのようだが予年久しく経験するところに故ロメーンス氏の説などを攷え合わすと猫や梟は獲物を人に見せて誇る性がある、お手の物たる鼠ばかりでなく猫は蝙蝠、梟は蛇や蟾蜍など持ち来り予の前へさらけ出し誠に迷惑な事度々だった。故セントジョージ・ミヴワートは学者一汎に猴類を哺乳動物中最高度に発達したる者と断定し居るは、人と猴類と体格すこぶる近く、その人が自分免許で万物の長と己惚るる縁に付けて猴が獣中の最高位を占めたに過ぎぬが、人も猴も体格の完備した点からいうと遠く猫属すなわち猫や虎豹獅米獅等の輩に及ばぬと論じた。この事については熊楠いまだ公けにせぬ年来の大議論があって、かつて福本日南に大英博物館で諸標品について長々しく説教し、日南感嘆して真に天下の奇才と称揚されたが、日本の官吏など自分の穢い根性から万事万物汚く見る故折角の名説も日本では出し得ず、これを公にすると直ぐに風俗壊乱などとやられる。ここばかりに日が照らぬからいずれ海外で出す事としよう、とにかく眼で視数で測り得る体格上でさえ人間の己惚れから観察に錯誤ある事ミヴワートの説のごとし、まして他の諸動物の心性の上に至っては近時まで学者も何たる仔細の観察をまるでせなんだ、これは耶蘇教で人は上帝特別の思召しもて他の諸動物と絶えて別に創作された物といい伝えたからで、それなら人と諸動物と業報次第輪廻転生すと説く仏教を奉じた東洋の学者は諸動物の心性を深く究めたかというと、なるほど仏教の経論に多少そんな論もあるが、後世の学者が一向気に留めなんだから何の増補研覈するところなかった、人と諸動物の心性の比較論はなかなか一朝にして言い尽すべきでないが、諸動物中にも特種の心性の発達に甚だしく逕庭がある、その例としてラカッサニュは犬が恩を記ゆる事かくまで発達しおるに人の見る前で交会して少しも羞じざると反対に、猫が恩を記ゆる事甚だ少なきに交会の態を人に見する事なきを挙げた。ただし猫のうちにも不行儀なもあって、予は英国で一回わが邦で二回市街で人の多く見る所で猫が交わるを見た。また貝原益軒は猫の特質として死ぬ時の貌いかにも醜いから必ず死ぬ態を人に見せぬと言って居る。猫属の輩は羞恥という念に富んでいるもので、虎や豹が獣を搏ち損う時は大いに恥じた風で周章て首を低れて這い廻り逃げ去るは実際を見た者のしばしば述べたところだ。『本草』にも〈それ物を搏ち三躍して中らざればすなわちこれを捨つ〉と出づ。獣の中には色々変な心性の奴もあって大食獣とて鼬と熊の類の間にあるものは、両半球の北極地に住み幽囚中でも肉十三ポンドすなわち一貫五百七十二匁余ずつ毎日食う、野にあるうちはどれだけ大食するか知れぬ至極の難物だが、このものの奇質は貯蓄のため食物を盗みまた自分の害になる係蹄を窃み隠すのみか、猟師の舎に入って毛氈鉄砲薬鑵小刀その他一切の什具を盗み去って諸処に匿すのだ、これらは食うためでないからただただ好奇心から出る事と知らる(ウット『博物画譜』巻一、『大英類典』十一版、巻十二)。言わばこの獣は人間に窃盗狂に罹ったように心性が窃みの方に発達を極め居るのだ。因って想うに虎や獅や米獅は時として友愛の情が甚だ盛んな性質で、自分を助けくれた人を同類と見做し、猫や梟同前手柄自慢で種々の物を捉えて見せに来る、特に礼物進上という訳でないが、人の立場から見るとちょうど助けやった返礼に物を持ち来てくれる事となるのだろう。
わが国で寅年に生れた男女に於菟という名を付ける例がしばしばある、その由来は『左伝』に楚の若敖、より妻を娶り闘伯比を生む、若敖卒してのち母と共にに畜わるる間子の女に淫し令尹子文を生んだ、の夫人これを夢中に弃てしむると、虎が自分の乳で子文を育った、子田して見付け惧れ帰ると夫人実を以て告げ、ついに収めて育った、楚人乳を穀虎を於菟という、因って子文の幼名を闘穀於菟すなわち闘氏の子で虎の乳で育った者といったと見ゆ。ロメーンスの『動物知慧論』に猫が他の猫を養い甚だしきは鼠をすら乳する事を載せ、貝原益軒も猫は邪気多きものだが他の猫の孤をも己れの子同様に育つるは博愛だと言った。虎も猫の近類だから時として人や他の獣類の子を乳育せぬとも限らぬであろう。参考のため狼が人の子を乳育する事について述べよう。誰も知るごとくローマの始祖ロムルス兄弟は生れてほどなく川へ流され、パラチン山の麓に打ち上げられたところへ牝狼来て乳育したと言い伝う。後世これを解くにその説区々で、中にはローマで牝狼をも下等娼妓をも同名で呼んだから実は下等の売淫女に養育されたんだと言った人もある、それはそれとしておき狼が人児を養うた例はインドや欧州等に実際あるらしい、一八八〇年版ポールの『印度藪榛生活』四五七頁以下に詳論しある故少々引用しよう。曰くインドで狼が人子を乳した例ウーズ州に最も多い、しかしてこの州がインド中で最も狼害の多い所でまず平均年々百人は狼に啖わる。スリーマン大佐の経験譚によればその辺で年々小児が狼に食わるる数多きは狼窟の辺で啖われた小児の体に親が付け置いた黄金の飾具を聚めて渡世とする人があるので知れる、その人々は生計上から狼を勦滅すを好まぬという。一八七二年の末セカンドラ孤児院報告に十歳ほどの男児が狼より燻べ出された事を載せた。どれほど長く狼と共に棲んだか解らぬが、四肢で行く事上手なと生肉を嗜むところから見ると習慣の久しきほとんど天性と成したと見える、孤児院に養われて後も若き狗様に喚るなど獣ごとき点多しと載せた。また一八七二年ミネプリ辺で猟師が狼から燻べ出し創だらけのまま件の孤児院に伴れ来た児は動作全く野獣で水を飲む様狗に異らず、別けて骨と生肉を好み食う、常に他の孤児と一所に居らず暗き隅に竄る、衣を着せると細かく裂いて糸と為しおわる、数月院にあって熱病に罹り食事を絶って死した。今一人狼より得られこの院に六年ばかりある児は年十三、四なるべし、種々の声を発し得るが談話は出来ず喜怒は能く他人に解らせ得、時として少しく仕事をするが食う方が大好きだ、追々生肉を好まぬようになったが今なお骨を拾うて歯を磨ぐ、これら狼から出た児が四肢で巧く歩くは驚くべきもので、物を食う前に必ずこれを嗅ぎ試むとある。著者ポール氏自らかの孤児院に往きてその一人を延見しに普通の白痴児の容体で額低く歯やや反り出動作軽噪時々歯を鳴らし下顎攣つる、室に入り来てまず四周と人々を見廻し地板に坐り両掌を地板に較せ、また諸方に伸ばして紙や麪包の小片を拾い嗅ぐ事猴のごとし、この児痩形にて十五歳ばかりこの院に九年棲めり、初めはどこにも独り行き得なんだがこの頃(一八七四年)は多少行き得、仕事をさせるに他が番せねばたちまち休る癖あり、最も著しき一事はその前肢甚だ短き事でこれは長く四ツ這いのみし行きしに因るだろうという、最初この児捕われた時一牝狼の尸とその子二疋とともに裁判庁へ将ち来る、全く四肢で行き万事獣と異らず、煮た物を一切食わず、生肉は何程も啖う、その両脚を直にするため数月間土人用の寝牀に縛り付けて後ようやく直立するに及べり、今一人狼より燻べ出された児は年はるかに少かったが夜分動もすれば藪に逃げ入りて骨を捜し這い行く、犬の子のごとく悲吟するほか音声を発せず、これらの二児相憐愛し長者少者に鍾より水飲む事を教えた、この少者わずかに四ヶ月この院にあったその間ヒンズー人しばしば来てこれを礼拝し、かくすればその一族狼害を免がると言った。一八五一年スリーマン大佐曰く数年前ウーズ王の臣騎馬で河岸を通り三疋の獣が水飲みに来るを見ると、二疋は疑いなく幼い狼だが一疋は狼でなかった、直ちに突前して捉え見ると驚くべし、その一疋は小さき裸の男児で、四肢で行き膝と肘が贅に固まりいた、烈しくもがく奴をついに擒ってルクノーに伴れ行き畜うたが、全く言語せず才智狗同前で手真似や身ぶりで人意を悟る事敏かった、大佐また曰く今一児狼群中より捉え来られたのは久しき間強き狼臭が脱けず、捉えられて後三疋の狼来て子細に吟味した後その児少しも惧れずともに戯れた、数夜後には六疋尋ねて来た、もとかの児と同夥と見えると、またマクス・ミュラーの説にチャンズールの収税吏が河辺で大きな牝狼が穴から出ると三疋の狼子と一人の小児が随いて行くを見て捕えんとすると狼子の斉しく四肢で走り母狼に随い皆穴に入った、土民集まり土を掘ってかの児を獲たが、穴さえ見れば這入らんとす、大人を見て憚る色あったが小児を見れば躍び付いて咬もうとした、煮た肉を嫌い生肉と骨を好み犬のごとく手で押えいた、言語を教えるも呻吟ばかりだった、この児のち英人ニコレツ大尉の監督で養われたが生肉を嗜む事甚だしく一度に羊児半分を食った、衣を着ず綿入れた蒲団を寒夜の禦ぎに遣ると破ってその一部分を嚥んでしまったが一八五〇年九月死去した、生存中笑った事なく誰を好くとも見えず何を聞くも解らぬごとし、捕われた時九歳ほどらしく三年して死んだ、毎も四這だが希に直立し言語せず餓える時は口に指した。ミュラーこのほか狼に養われた児の譚を多く挙げて結論に、すべて狼に養われた児は言語わぬらしい、古エジプト王やフレリック二世ジェームス四世それからインドの一莫臥爾帝いずれも嬰児を独り閉じ籠めて養いどんな語を発するかを試したというが、今日そんな酷い事は出来ず、人の言語は天賦で自ずから出来るか、他より伝習して始めて成るかを判ずるにこれら狼に養われた児輩に拠るのほかないと言った、さて人の児がどうして狼に乳育さるるにんだかてふ問題をポール解いて次の通り述べた。曰くたとえば一中の一狼が生きながら人児を捉え帰り今一狼は一羊を捉え帰るに、その羊肉のみで当分腹を充たすに足る時は人児は無益に殺されず、その間牝狼の乳を吸いそのまま狼の一族と認められたのだろう、また一層もっともらしき解説は狼その子を失い乳房腫れ脹るるより人児を窃み来って吸わせ自然にこれを愛育したのだろう、また奇態な事は従来男児に限って狼に養われたらしいと。
勇士が虎に勝った史話は多く『淵鑑類函』や『佩文韻府』に列べある。例せば『列士伝』に秦王朱亥を虎圏の中に著いた時亥目を瞋らし虎を視るに眥裂け血出濺ぐ、虎ついにあえて動かず。『周書』に楊忠周太祖竜門の狩に随うた時独り一虎に当り、左にその腰を挟み右にその舌を抜く、小説には『水滸伝』の武松李逵など単身虎を殺した者が少なからぬ、ただし上の(三)にも述べた通り虎の内にも自ずから強弱種々だから、弱い虎に邂逅せた人は迎えざるに勇士の名を得たのもあろう、『五雑俎』巻九に虎地に拠りて一たび吼ゆれば屋瓦皆震う、予黄山の雪峰にあって常に虎を聞く、黄山やや近し、時に坐客数人まさに満を引く、然の声左右にあるごとく酒几上に傾かざる者なしとあって、虎の声は随分大きいが獅に劣る事遠しだ、『類函』に魏明帝宣武場上にて虎の爪を断ち百姓をして縦観せしむ、虎しばしば圏を攀じて吼ゆる声地を震わし観者辟易せしに、王戎まさに十歳湛然懼色なしとある、予などは毎度多くの獅、虎が圏中で吼ゆるを観たが一向懼ろしくなかった、家内にあって山上の虎声に駭き酒を傾したなどは余程の臆病者じゃ。『五雑俎』にまた曰く壮士水碓を守りしが虎に攫まれ上に坐らる、水碓飛ぶがごとく輪るを虎が見詰め居る内にその人甦った、手足圧えられて詮術ない、ところが虎の陽物翹然口に近きを見、極力噛み付いたので虎大いに驚き吼え走ってその人脱るるを得た、またいわく胡人虎を射るにただ二壮士を以て弓をき両頭より射る、虎を射るに毛に逆らえば入り毛に順えば入らず、前なる者馬を引き走り避けて後なる者射る、虎回れば後なる者また然す、虎多しといえども立ろに尽すべしとは、虎を相手に鬼事するようで余りに容易な言いようだが、とにかくその法をさえ用いれば虎を殺すは至難の事でないらしい。また曰く支那の馬は虎を見れば便尿下りて行く能わず、胡地の馬も犬も然る事なし、これに似た話ラヤードの『波斯スシヤナおよび巴比崙初探検記』(一八八七年版)にクジスタンで馬が獅を怖るる事甚だしく獅近処に来れば眼これを見ざるにたちまち鼻鳴らして絆を切り逃げんとす、この辺の諸酋長獅の皮を剥製して馬に示しその貌と臭に狎れて惧るるなからしむと見ゆ。畜生と等しく人も慣れたら虎を何ともなくなるだろう。したがって虎を獲た者必ずしも皆勇士でもなかろう。ベッカリはマラッカのマレー一人で十四虎を捕えた者を知る由記し、クルックは西北インドで百以上の虎を銃殺した一地方官吏ありと言った、『国史補』に唐の斐旻一日に虎三十一を斃し自慢しいると、父老がいうにはこれは皆彪だ、将軍真の虎に遇えば能く為すなからんと言ったので、真の虎の在処を聞き往って見ると、地に拠って一度吼ゆれば山石震い裂け馬辟易し弓矢皆墜ち、逃げ帰ってまた虎を射なんだとある。字書に彪は小虎といえり、虎の躯が小さい一変種であろう。『類函』に虎能く人気を識る、いまだ百歩に至らざるに伏してゆれば声山谷に震う、須臾して奮い躍りて人を搏つ、人勇ある者動かざれば虎止って坐り逡巡耳を弭れて去ると。猛獣に遇った時地に坐れば撃たれぬとは欧人も説くところだ。勇士に限らず至極の腰抜けでも出来る芸当だ。本邦にはあいにく虎がないから外国に渡った勇士でなければ虎で腕試しした者がない。膳臣巴提便(『日本紀』)、壱岐守宗于が郎等(『宇治拾遺』)、加藤清正(『常山紀談』)、そのほか捜さばまだ多少あるべし。『常山紀談』に黒田長政の厩に虎入り恐れて出合う者なかりしに菅政利と後藤基次これを斬り殺す、長政汝ら先陣の士大将して下知する身が獣と勇を争うは大人気なしと言った。その時政利が用いた刀に羅山銘を作りて南山と名づく、周処が白額虎を除いた故事に拠ると出づ、『菅氏世譜』に政利寛永六年五十九歳で歿したとあるから、文禄中虎を斬った時は三十四、五の時だ。長政罪人を誅するに諸士に命じて見逢に切り殺させらる、長政側近く呼んでその事を命じ命を承けて退出する、その形気を次の間にある諸士察して仕置をいい付けられたと知った、しかるに政利に命じた時ばかり人その形気を察する能わず、この人天性勇猛で物に動ぜなんだからだと貝原好古が記し居る。『紀伊続風土記』九十に尾鷲郷の地士世古慶十郎高麗陣に新宮城主堀内に従って出征し、手負の虎を刺殺し秀吉に献じたが、噛まれた疵を煩い帰国後死んだとは気の毒千万な。
「虎と見て石に立つ矢もあるぞかし」という歌がある。普通に『前漢書』列伝李広善く射る、出猟し草中の石を見て虎と思い射て石に中て矢をい没む、見れば石なり。他日これを射たが入る能わずとあるを本拠とするが、『韓詩外伝』に〈楚熊渠子夜行きて寝石を見る、以て伏虎と為し、弓を彎きてこれを射る、金を没し羽を飲む、下り視てその石たるを知る、またこれを射るに矢摧け跡なし〉とある方が一層古い。『曾我物語』にはこの事を敷衍して李将軍の妻孕んで虎肝を食わんと望む、将軍虎を狩りて咋れ死す、子生れ長じて父の仇を覓め虎の左眼を射、馬より下りて斬らんと見れば虎でなくて苔蒸した石だった、その時石に立てた矢が石竹という草となったとある。『宋史』に〈元達かつて酔って道傍槐樹を見る、剣を抜きてこれを斬るに樹立ちどころに断つ、達ひそかに喜びて曰く、われ聞く李将軍臥虎を射て羽を飲ましむと、今樹我がために断つ豈神助か〉、『東海道名所記』等に見えた石地蔵が女に化けて旅人に斬られた話は、石橋臥波氏輯『民俗』第三報へ拙考を出し置いた。南宋の淳煕三年金国へ往った大使の紀行『北轅録』にも〈趙州に至る、道光武廟を経て二石人あり、首路に横たわる、俗に伝う、光武河を渡らんと欲し、二人餉を致す、その蹤を洩さんと慮りすなわちこれを除く、またいう、二人に遇いて道を問うに答えず、怒ってこれを斬る、すでにして皆石なり〉とある。
沈約の『宋書』に檀和之林邑国を討った時林邑王象軍もて逆戦う、和之に蹤いていた宗愨謀って獅の形を製し象軍に向かうと象果して驚き奔りついに林邑に克ったとある、この謀ずっと古くよりあった証は『左伝』に城濮の戦に晋の胥臣虎皮を馬に蒙せて敵の軍馬を驚かし大勝したとある。
林宗甫の『和州旧跡幽考』五に超昇寺真如法親王建、天正年中絶え果て今は形ばかりなる廬に大日如来一躯あり云々、平城帝第三の御子、母は贈従三位伊勢朝臣継子、大同の末春宮に坐し世人蹲踞太子と申したてまつる、弘仁元年九月十二日三十七歳にて落飾し東大寺の道詮律師の室に入らせて真如親王となん申しき、弘法大師に随いて真言宗を極めたまえり、貞観三年奏聞を経唐に渡りここには明師なしとて天竺に渡る、唐土の帝渡天の志を感じて多くの宝を与えたまいけるに、その由なしとて皆々返しまいらせて道の用意とて大柑子を三つ留めたまえりとぞ、僧宗叡は帰朝すれども伴いたまえる親王は見えたまわねば唐土へ生死を尋ねたまえりける、その返事に渡天すとて獅子州にて群れける虎の逢いて食いたてまつらんとしけるに、我身を惜しむにはあらず我はこれ仏法の器物なり、過つ事なかれとて錫杖にてあばえりけれどついに情なく食いたてまつるとはるかになん聞えしとこそ書きたれとある、弘仁元年に三十七歳とは誤写で確か七、八十歳の高齢で虎に食われたまいしと記憶する、さしも九五の位に即きたもうべかりし御方の虎腹に葬られたまいしは誠に畏れ多き事だが、かつて「聞く説く奈落の底に沈みなば刹利も首陀も異ならざるなり」と詠みたまいしを空海がかく悟りてこそ「如来位までは成り登るなり」と讃めまいらせたなどを攷うるとよほど得脱した方と察したてまつる。インドにも親王の御履歴に少しく似た話が『賢愚因縁経』十二に出て居る。仏鷲頭山に在った時波羅奈王の輔相一男児を生むに三十二相備わり満身紫金色で相師感嘆す、その母素性良善ならず、しかるにこの子を姙んでより慈悲厚くなる、因って生れた子を慈氏と名づく、王その高徳あって必ず位を奪わん事を恐れ宮中に召して殺さんとす、父これを愍み子をその舅波梨富羅国の師波婆利に送る、舅に就いて学問甚だ通じければ会を作してその美を顕揚せんと一弟子を波羅奈国に遣わし輔相に謀り会資として珍宝を得んとす、その弟子中道で人が仏の無量の徳行を説くを聞きて仏に趣く途中虎に食われ、善心の報いで天に生まる、旧師波婆利慈氏のために大会を催すところへ悪波羅門押し懸けて詛い波婆利大いに困る、ところへ虎に食われた弟子天より降り殃を脱れんとならば仏に詣れと教え一同を仏教に化した、話が長いから詳しくここに述べ得ぬ。『経律異相』四五には牧牛児あり常に沙門の経誦むを歓び聞く、山に入りて虎に食われ長者の家に生まる、懐姙中その母能く経を誦む、父この子の所為と知らず鬼病と為う、その子の前生に経を聞かせた僧往きて訳を話しその子生れて七歳道法ことごとく備わった大知識となったとある。支那には虎に食われたのを知らずに天に上ったと思っていた話がある。『類函』に『伝異志』を引いて唐の天宝中河南氏県仙鶴観毎年九月二日の夜道士一人天に登るといって戸を締む、県令張竭忠これを疑いその日二勇者に兵器を以て潜み窺わしむ、三更後一黒虎観に入り一道士を銜み出づるを射しが中らず、翌日竭忠大いに太子陵東の石穴中に猟し数虎を格殺した、その穴に道士の冠服遺髪甚だ多かったと見ゆ。後漢の張道陵が蟒に呑まれたのをその徒が天に上ったと信じたのにちょっと似て居る。
(五) 仏教譚
仏教も虎もインドが本元故、虎に関する伝説や譬喩や物語が仏教書に多い、釈尊の前身も毎度虎に関係したと見えて、北涼の法盛訳『菩薩投身餓虎起塔因縁経』に拠れば如来前身乾陀摩提国の栴檀摩提太子たり、貧民に施すを好み所有物一切を施し余物なきに至り、自身を千金銭に売って諸貧人に施し他国の波羅門の奴たり、たまたま薪を伐りに山に入って牛頭栴檀を得、時にその国の王癩病に罹り名医の教に従い半国を分け与うべしと懸賞して牛頭栴檀を求む、波羅門太子に教えこの栴檀を奉って立身せよという、太子往きて王に献り王これを身に塗って全快し約のごとく半国を与うるも受けず、その代りに王に乞うて五十日間あまねく貧民に施さしむ。王その志を感じ布施五十日の後多く銭財を附けて本国に送り還す、太子国に帰りてことごとく銭財を貧民に施し父母と妃の止むるを固辞し、山に入って仙人に従学す、母夫人時々美膳を送りて供養す、太子が修道する山の深谷に牝虎あり、新たに七子を生む、時に大雪降り虎母子を抱き三日食を求むれども得ず、飢寒極めて虎母その子をわんとす、五百の道士これを見て誰か能く身を捨て衆生を救わんと相勧む、太子聞きて崖頭に至り虎母子を抱いて雪に覆われたるを見、大悲心を発し寂然定に入りて過去無数劫の事を見、帰って師に語るらく、われ昔願あり千身を捨てんと、すでにかつて九百九十九身を捨てたれば、今日この虎のために身を捨てて満願すべしと、師曰く卿の志願妙なり必ずわれに先だちて得道すべし、得道せばわれを遺るるなかれと、師と五百道士と涕泣して太子を送り崖頭に至れば、太子種々その身の過悪を訶責し今我血肉を以てかの餓虎を救い舎利骨のみ余されん、わが父母後日必ず舎利を収めて塔を建て、一切衆生の病諸薬針灸癒す能わざる者来りてわが塔を至心供養せば、即日必ず除癒を得んと誓い、この言虚しからずば諸天香華を雨さんと言うに、声に応じて曼陀羅花降り下り大地震動と来た、太子すなわち鹿皮衣を解きて頭目を纏い、合手して身を虎の前に投じ母虎これを食うて母子ともに活くるを得た、王夫人の使飲食を齎し翌日来ってこの事を聞き走り帰って王に報じ、王人をして太子の骨を拾わせ舎利を取って平坦地に七宝塔四面縦貫十里なるを起し四部の妓人をして昼夜供養せしめたとあるから芸者附きの大塔で、この塔今もあり癩病等の重患者貴賤を問わず百余人常に参籠す、身を虎に施した太子はわが先身、師の仙人はわが次に成道すべき弥勒菩薩だ、われ衆生を救うため身を惜しまなんだから、昔時以来常に我師たりし弥勒に先だつ事九劫まず成道したわやいと仏が説かれた、『大智度論』にはこの時太子の父母子を失って目を泣き潰したとあって、父母を悩ませ虎にも殺生罪を獲せしめたは不都合ながら、自分の大願を満たすため顧みなんだと論じ居る。また古インドに自撰とて多くの貴公子を集め饗応した後王女をしてその間を歩かせ、自分の好いた男に華鬘や水を授けて夫と定めしめた、『ラマヤナム』にミチラ王ジャナカ婿を定めんとて諸王子を招き競技せしめた時、ラマ強弓を彎いたので王の娘シタがこれを夫と撰定したとある、仏悉達太子と言った時瞿多弥釈女が自撰の場へ行くと、釈女五百の釈種童子を嫌うて太子を撰んで夫とした、仏最初得道の時優陀夷その因縁を問いしに仏答えていわく、昔雪山下に雑類無量無辺の諸獣ありて馳遊す、かの獣中に一つの牝虎あり端正無双諸獣中に比類するものなし、諸獣その夫たらんと望む、相いいて曰く汝ら且く待て共に相争うなかれ、かの牝虎の自選を聴せと、時に一牛王あり牝虎に向いて偈を説く、〈世人皆我の糞を取り持ち用いて地に塗りて清浄と為す、この故に端正なること※[#「牛+孛」、40-2]虎に賢れり、まさに我を取りて以て夫と為すべし〉、牝虎答うらく〈汝項斛領甚だ高大、ただ車を駕しおよび犁を挽くに堪えたり、いかんぞこの醜き身形をもてたちまち我がために夫主とならんと欲するや〉、また一大白象あり牝虎に向いて偈を説く、〈我はこれ雪山の大象王なり、戦闘我を用いて勝たざるなし、我既にこの大威力あり、汝今何ぞ我が妻とならざるや〉、押しの強い言いぶりだ、牝虎偈を以て答えていわく〈汝もし師子王を見聞せば、胆れ驚怖し馳奔走し、屎尿を遺失して虎籍し去らん、いかんぞ我が夫たるを得るに堪えんや〉、爾時かの中に一師子あり諸獣の王なり、牝虎に向いて偈を説いていわく、〈汝今我が形容を観よ、前分闊大に後繊細なり、山中に在りて、自ら恣活し、また能く余の衆生を存恤す、我はこれ一切諸獣の王なり、更に能く我に勝つ者あることなし、もし我を見および声を聞くことあれば、諸獣悉皆奔りて住らず、我今かくのごとく力猛壮、威神甚だ大にして論ずべからず、この故に賢虎汝まさに知るべし、すなわち夫のために婦となるべきを〉、時にかの牝虎師子に向って答うらく〈大力勇猛および威神、身体形容ことごとく端正、かくのごとく我れ今夫を得已れり、必ずまさに頂戴して奉承すべし〉、かくて師子が虎の夫と定まった、かの時の師子は我が先身、牝虎は今の瞿多弥女、他の諸獣は今の五百釈童子瞿多弥の肱鉄を受けた奴輩だと仏が説かれた。
(大正三年一月、『太陽』二〇ノ一)
玄奘の『大唐西域記』巻三に、北インド咀叉始羅国の北界より信度河を渡り東南に行く事二百余里大石門を度る、昔摩訶薩王子ここにて身を投げて餓えたる烏菟を飼えりとある、仏国のジュリアン別に理由を挙げずに烏菟を虎と訳したが、これは猫の梵名オツを音訳したんだろとビールは言われた、しかしながら前篇に述べた通り虎を『左伝』に於菟とし、ほかにも烏(『漢書』)、※[#「虎+鳥」、41-7]※[#「虎+兔」、41-7](揚雄『方言』)など作りあれば、烏菟は疑いなく虎の事でその音たまたま猫の梵名に酷く似たのだ。それから『西域記』に王子投身の処の南百四、五十歩に石堵波あり、摩訶薩王子餓獣の力なきを愍み行きてこの地に至り乾ける竹で自ら刺し血を以てこれに啖わす、ここにおいてか獣すなわち啖うその中地土および諸草木微しく絳色を帯び血染のごとし、人その地を履む者芒刺を負う、疑うと信ずるとをいうなく、悲愴せざるはなしと出づ。玄奘より二百余年前渡天した法顕の紀行にも竺刹尸羅国で仏前生に身を捨て餓虎に施した故蹟に諸宝玉で餝った大堵波あり、隣邦の王公士民競うて参詣し捧げ物多く花を撒き燈を点して間断なしと見ゆ。結局前出『投身餓虎起塔因縁経』もこの故蹟に附けて出来た伝説らしい。それに後日更に一話を附け加えてその近処の土や草木が赤く地に芒刺多く生えたるに因んで王子身を虎に施す前に自分の血を出して彼に与えたと作ったんだ。近年カンニンガム将軍この捨身処の蹟を見出したが土色依然と赤しという(一九二六年ビール訳『西域記』巻一、頁一四六)。すべて何国でも土や岩や草花など血のように赤いと血を流した蹟とか血滴から生えたとか言い囃す、和歌山より遠からぬ星田とかいう地に近く血色の斑ある白い巌石連なった所がある、昔土蜘蛛を誅した古蹟という、『日本紀』七や『豊後風土記』に景行帝十二年十月碩田国に幸し稲葉河上に土蜘蛛を誅せしに血流れて踝に至るそこを血田というとあるのも土が赤かったからの解説だろ、支那の『易経』に〈竜野に戦うその血元黄〉、これまた野の土や草が黄色の汁で染めたようなを竜が戦うた跡と見立てたらしい、英国ニューフォレストの赤土は昔ここで敗死した嗹人の血で色付いたと土民信じ、ニュージーランドのマオリ人がクック地峡の赤い懸崖を古酋長の娘の死を嘆いて自ら石片で額を傷った血の染まる所と伝えるなど例多くタイラーの『原始人文篇』一に載せ居る。沙翁好きの人は熟知の通りギリシアの美少年アドニス女神ヴェヌスに嬖されしをその夫アレース神妬んで猪と現われ殺した時ヴェヌス急ぎ往いて蜜汁をその血に灑ぐとたちまち草が生えた、これをアドニスと号づけわが邦の福寿草と同属の物だが花が血赤い、さてパプロスに近い川水毎夏漲り色が赤くなるをアドニス最後の血が流れると古ギリシア人は信じた、またアキスは女魅ガラテアに愛されたが、円眼鬼ポリフェムス嫉み甚だしく大岩で彼を圧殺し血迸り出るをガラテアがエトナ山下のアキス川に化したという。実はこの小河が岩下より出る故作り出した話だろ(スミス『希臘羅馬人伝神誌字彙』巻一)。アキスてふ草花また彼の血から生えた今欧州諸方に生ずる花藺の事だ(グベルナチス『植物譚原』一)。サラミスの長人アヤース、ギリシア軍のトロイ攻めに武勇抜群だったが敵味方ともオジッセウス戦功無双と讃めしを憾み自殺した、その血から紫の百合花葩にアイ、アイとその名の頭字を現わし兼ねて嗟息吐く声を表わした(スミス同前)。ドイツで薔薇をアドニス花と呼ぶは、アドニス殺された折りヴェヌス嘆き男の尸から血一滴下るごとに女神の眼から涙一点落ち血は薔薇涙はアドニス花となった故とか、一説に爾時女神急ぎ走りて刺で足を傷め元白かった薔薇花を血で汚して紅色にしたと、しかればスペンサーも「薔薇の花その古は白かりき、神の血に染み紅く咲くてふ」とやらかした、回教徒伝うらく回祖天に登る際額の汗堕ちて白薔薇、他の所より落した汗が黄薔薇となったと、また古ギリシア人伝えたはヘーラ睡れる間その夫ゼウス幼児ヘラクレス(ゼウス神、チーリンスの王アムフィトリオーンが軍に往った不在に乗じかの王に化けその後アルクメーネーに通じ生むところ、故にヘラクレス人間に住んだうち常にヘーラに苦しめらる)をしてヘーラの乳を吮い不死の神力を禀けしめた、ところが吮う力余り強かったので乳出過ぎて口外に落ち百合となったとも銀河となったともいう、その百合の花非常に白きを嫉んでヴェヌス女神海波の白沫より出現し極浄無垢の花の真中に驢の陽根そのままな雌蕊一本真木柱太しく生した、しかしその無類潔白な色を愛で貞女神ヘーラまたジュノンおよびスベスの手にこの花を持つ、それと同時に件の陰相に因んで好色女神ヴェヌスと婬鬼サチレスもこの花を持つ(グベルナチス、巻二)。ここに言える百合は谷間百合(きみかげそう)だともいう、耶蘇徒は聖母がキリストに吮わせた乳少々地に堕ちてこの草になったと伝う(ベンジャミン・テイロール『伝説学』第九章)。紀州田辺近き上芳養村の俗伝に弘法大師筆を馬蓼の葉で拭うた、自来この草の葉に黒斑失せずとて筆拭草と呼ぶ、『淵鑑類函』二四一に『湘州記』いわく〈舜蒼梧の西湖に巡狩す、二妃従わず、涙を以て竹を染む、竹ことごとく斑となりて死するなり〉、また『博物志』に〈洞庭の山帝の二女啼き、涕を以て竹に揮い竹ことごとく斑なり、今下雋に斑皮竹あり〉、わが邦の虎斑竹のごとく斑ある竹を堯の二女娥皇と女英が夫舜に死なれて啼いた涙の痕としたのだ、英国などの森や生垣の下に生える毒草アルム・マクラツムはわが邦の蒟蒻や菖蒲とともに天南星科の物だ、あちらで伝うるはキリスト刑せられた時この草磔柱の真下に生えおり数滴の血を受けたから今はその葉に褐色の斑あると(フレンド『花および花譚』巻一、頁一九一)。英国ダヴェントリー辺昔嗹人敗死の蹟に彼らの血から生えたという嗹人血なる草あり、某の日に限りこれを折ると血出ると信ぜらる、これは桔梗科のカムバヌラ・グロメラタ(ほたるぶくろの属)の事とも毛莨科のアネモネ・プルサチラ(おきなぐさの属)の事ともいう(同上、頁三一五。一九一〇年十二月十七日『ノーツ・エンド・キーリス』四八八頁)。アルメニアのアララット山の氷雪中に衆紅中の最紅花、茎のみありて葉なきが咲くトルコ人これを七兄弟の血と号づく(マルチネンゴ・ツェザレスコ『民謡研究論』五七頁)。わが邦の毒草「しびとばな」も花時葉なく墳墓辺に多くある故死人花というて人家に種うるを忌む(『和漢三才図会』九二)というが、この花の色がすこぶる血に似ているのでかく名づけたのかも知れぬ、『説文』に拠ると今から千八百余年前の支那人は茜草を人血の所化と信じた、ドイツ、ハノヴワルの民ヨハネ尊者誕生日(六月二十四日)の朝近所の砂丘に往き学名コックス・ポロニカとて血の滴り様に見ゆる小虫草の根に棲めるを集む、これかの尊者の非業の死を旌わすためにこの晨のみ現ずる物の由、ノルウェー国では弟切草の一種をバルズル神またヨハネ尊者の血で汚されたから今に根に赤点ありと言い伝え彼らの忌日に必ず現ずと信ず(フレンド、巻一、頁一一および一四七)。日本の「みずき」「やまぼうし」などと同属の木血樹はポリドーロスが殺されて化するところ故に毎もその枝を折れば血を出すと古ギリシア、ローマ人が信じた、これはトロイ王プリアモス五十男五十女あった、第二妻ヘカベーだけにも十九男児を生ませた、ポリドーロスはその末男で父母の愛最厚くトロイ攻めらるるに及び王この児に大金を添えてツラシア王ポリムネストスに預けた、しかるにトロイ陥った時ポリムネストス金が欲しさに委託された児を殺したが、後児の母ポリムネストスの眼を潰しまたその児二人まで殺して復讐したのだ(グベルナチス、巻二、サイツファート『希羅考古辞典』英訳一九〇八年版、五〇一頁)。熊野諸処の俗伝に猟犬の耳赤きは貴し、その先祖犬山姥を殺し自分耳にその血を塗って後日の証としたのが今に遺ったと言う、米国住黒人の談に昔青橿鳥その長子を鷹に攫み去られ追踪すれど見当らず憊れて野に臥す。微かに声するを何事ぞと耳を欹てると蚋が草間を飛び廻って「かの青橿鳥は何を苦にするぞ」と問うに「彼の初生児を鷹に捉られた」と草が対う、蚋「汝は誰に聞いたか」、草「風に聞いたから本当に風聞ちゅう物だ」、蚋「その鷹はどこにいる」、草「シカモールの古木に巣くいいる」、蚋「なぜ青橿鳥は鷹に復讐せぬじゃろか」、草「彼奴も他諸鳥同様鷹を怖ろしいからだ」、これを聞きいた草間の虫ども、鷹に敵する鳥はない橿鳥とても児で足らぬ時は自分も鷹の餌となるを懼るるんだと言い囃す、青橿鳥これを聞いて無明の業火直上三千丈、たちまち飛んで古木のシカモール樹に至ると鷹すでに橿鳥の児を喫いおわり不在だったが、巣に鷹の児があったのをことごとく殺した、その時親鷹還り来るを見るより青橿鳥騎馬様にその背に乗り夥しく啄きまた掻き散らした、傷から出た血が乾いて今まで鷹羽に条や斑となって残ったとある(オエン『老兎巫蠱篇』一三六頁)。高木敏雄君の『日本伝説集』を見ると三人の児に留守させ寺詣りした母親を山姥が食い母親の仮してその家に入り末の子を食う、二児その山姥たるを知り外に出で桃の樹に上り天を仰いで呼ぶと天から鉄の鎖が下る、それに縋って登天す、これに倣うて山姥も天を仰いで呼ぶと腐った縄が下る、それに縋って上ると縄切れ山姥高い処から蕎麦畑に落ち石で頭を破って死んだ、その血に染まって蕎麦の茎が今のごとく赤くなったという天草の俚話がある。今一つ出雲に行わるる譚とて黍の色赤き訳を説きたるは、天保元年喜多村信節撰『嬉遊笑覧』九に載せた瓜姫の咄の異態と見える。「今江戸の小児多くはこの話を知らず、老父老嫗あり、老父は柴を苅りに山に行き老嫗は洗濯に川へ行きたりしに、瓜流れ来りければ嫗拾い取りて家に帰り、老父に喰わせんとて割りたれば内より小さき姫出でたり、美しき事限りなし、夫婦喜びて一間の内に置く、姫生い立ちて機を織る事を能くして常に一間の外に出でず、ある時庭の木に鳥の声して瓜姫の織りたる機の腰に天の探女が乗りたりけりと聞えければ、夫婦怪しと思いて一間の内に入りて見るに、天の探女姫を縄にて縛りたり、夫婦驚きてこれを援け天の探女を縛り、此女薄の葉にて鋸かんとて薄の葉にて鋸きて切り殺しぬ、薄の葉の本に赤く色附きたるはその血痕なりという物語田舎には今も語れり、信濃人の語るを聞きし事あり」と信節の説だ。出雲に行わるるところは大分これと異い爺と媼と姫を鎮守祠に詣らせんとて、駕籠買いに出た跡に天探女来り、姫を欺き裏の畑へ連れ行きその衣服を剥ぎ姫を柿の木に縛り、自ら姫の衣服を着て爺媼が買うて来た駕籠に乗り祠に詣らんとする時木に縛られた姫泣く、爺媼欺されたと感付き天探女の首を鎌で打ち落し裏の黍畑に棄てた、その血で黍の色赤くなったという。前の咄に薄の葉で鋸き殺すとあるに似た例、『西域記』十に竜猛菩薩薩羅国の引正王に敬われ長寿の薬を与えたので王数百歳経ても死なず、多くの子孫がお先へ失礼するを見て王妃がその穉子に説いて竜猛生きいる内は王死なず、汝王たるを望まば所用ありとて竜猛にその頭を求めよ慈悲深厚な菩薩故決して辞まぬだろと勧めた、穉子寺に詣り母の教えのごとく如来の前生身を授けて獣に飼い肌を割いて鴿を救うた事など例多く引いて、我求むるところありて人頭を用いたいが他人を殺すと罪重ければ死を何とも思わぬ菩薩の頭をくれぬかと要せられ、さすがの一切智人も婦女の黠計に先を制せられて遁れ得ず、いたずらに我が身終らば汝の父もまた喪わん事こそ気懸りなれといって、手許に兵刃がないからあり合せの乾いた茅葉で自ら頸を刎ねると利剣で断り割くごとく身首処を異にし、王聞きて哀感しまた死んだと出づ。いわゆる茅の葉は多分梵名矩奢、支那で上茅と訳する草の葉だろう。本邦で茅を「ち」と訓じ「ち」の花の義で茅花を「つばな」と訓む、「ち」とは血の意で昔誰かが茅針で足を傷め血がその葉を染めて赤くしたと幼時和歌山で俚伝を聞いたが確と記えぬ。また『西域記』十二に古え瞿薩旦那国王数十万衆を整えて東国の師百万を拒ぎ敗軍し、王は虜られ将士鏖にさる、その地数十頃血に染みて赤黒く絶えて蘗草なしと見ゆ、南インド、マドラスの少し南マイラブルは今日英領だが徳川氏の初世はポルトガルに隷きサントメと呼んだ、したがってそこから渡した奥縞を桟留機とも呼んだ、キリストの大弟子中尊者トメ最も長旅し、メデア、ペルシア、大夏、インド、エチオピアまた南米までも教化したと言う、いわゆる南インドの尊者トメ派は唐代に支那に入った景教と同じくネストリウスの宗見を奉ずる故、同じキリスト教ながら新教旧教またギリシア教より見れば教外別伝の概あり、一六七六年マドリッド版ナヴァワッテの『支那歴史道徳論』八六頁に尊者トメ支那に往けり、後世これを崇めて達磨と称うとしばしば聞いたと筆せるはトメと達磨と音近く『続高僧伝』等皆達磨を南天竺から支那へ来たとしたかららしい、尊者トメ山とてその終焉の蹟現存す、けだし尊者マイラプル王の怒りに触れ刑されて死んだとも孔雀を狩る土人に誤殺されたとも伝う、十三世紀のマルコ・ポロ紀行にいわく尊者の墓へキリスト回々二教の徒夥しく詣り尊者殺された処の土色赤きを採り帰って諸種の病人に水服せしも効験灼然と、十六世紀にジョアン・デ・バルロス記すらく、尊者最期に踏んでいた石に鮮血迸り懸りたるが今にあり、少時前に落ちたとしか見えぬほど生々しいと、一八九〇年版クックの『淡水藻序説』第十二章に一〇六六年英国最後のサクソン王ハロルド、ノルマン人とヘスチングスに戦い殪れた、そこに雨後必ず赤くなる地あり、これ死人の怨恨により土が血の汗を出すのだというが、実は学名ポーフィリジゥム・クルエンツムてふ微細の藻が湿地に生じ、晴れた日は乾いて黒いが雨ふれば凝った血のように見えるのだと述べ居る、この藻は和歌山市の墓地などに多く、壁などに大小種の斑点を成して生えるとちょうど人が斬られて血が迸ったごとく見える、予年来奇異の血跡など称うる処を多く尋ね調べたがあるいは土あるいは岩石の色が赤いのもありまた種々の生物で血のように見えるのもある、詳しく論じても一汎読者には何の面白くもなきこと故、ただ一つ述べ置くは藻を青、緑、褐、紅と四色の類に分かつ、青緑褐の藻群には鹹水に生ずるものも淡水に産するものも多いが紅藻の一群およそ二百属のうち淡水に産するは甚だ少なく、属中の諸種ことごとく淡水にのみ生ずる紅藻ただ七属、そのうち四属は日本にもある、このほかに属中の多種は海にばかり生ずるが一種また二、三種は淡水に産する紅藻六属ある、ヒルデプランチア属の数種は本邦諸方の磯に産し鹹水下の岩面に薄く堅い皮となって固著しまるで紅い痣のようだ、しかるに十二年前予那智の一の滝下および三の滝上で浅い急流底の岩面が血を流したように赤きを見最初はその岩に鉄分ある故と思うたが念のため採り帰って精査するとヒルデプランチア・リヴラリスてふ紅藻だった、その後熊野十津川から日高奥の諸山地で血の附いたような岩が水辺にあるを見るごとに検査すると多くは同じ紅藻だった、この藻は欧州にはアルプス地方その他より古く知れ居るが米国には三十年ばかり前予留学した頃はただ一処しか産地がなかった、那智ごとき不便の地に久しく独居すると見聞が至って狭く山ごときものとなるがそれと同時に考察の力が鋭くなりしたがって従来他から聴いたり書で読んだりせなんだ問題を自ずから思い浮かぶ事が多い、紅藻属種の最も多くは海に限って産しヒルデプランチア属の他の諸種は皆海に生ずる、このリヴラリスの一種のみ深山高地の急流底に生ずるから推すとこの一属は太古高山に創生して追々海へ繁殖したものでなく、昔海だった処が漸々隆起して陸となり山となったに伴れて当時磯に生えおったこの藻も鹹水住居を淡水に振り替えて渓流で存命らえある一種となったか、ただしは初め海にのみ生じたものが漸々川へ滝を伝うて高山に登ったかでなければならぬ、然るところ昔海だった証左のまるでない高山にもこの藻がありかつ風で運ばれ行くべき性質のものでないからどうしても海から山へ登ったと判ずるのほかない、十一年前予紀州西牟婁郡朝来沼で丁斑魚にミクソネマ・テヌエてふ緑藻が託生せるを見出したが三、四年経てアイルランドで同じ藻が金魚に著きいるを見出した人があった(一九〇八年十一月の『ネーチュール』七九巻九九頁、予の「魚に著くる藻」を見よ)。生来この藻は流水や噴泉で不断盪わるる処に生えるがその胞子が偶然止水中に入って困しんだ余り一計を案じ魚に託生してその魚が游ぐとちょうど生活に必要ほどな振動を受け動水中にあると同然に活きいたのだ。それと等しくヒルデプランチアも元海に生えたが繁殖の余勢で淡鹹両水の雑った江に侵入しそれから高地の急流や滝が岩を打つ勢いちょうど海波が磯を打つに均しき処に登って生存し居るらしい、濠州辺で鮫が内地の淡水湖に進入したりインドや南米に川にばかり棲む鯨類があるような事だ、さてこのヒルデプランチアの胞子は多くの緑藻や褐色藻の胞子と異なり自ら游いで適当の地に達し得るものでないので、海から高地まで登るに胞子は急流で洗い落とされほとんど無用だ。その故か予は岩壁生のこの藻に胞子あるを見た事がなく、普通に藻の細胞体から芽を出し拡げて殖え行くのだ、大和北山の田戸附近ですこぶる高い滝の下方からこの藻が二丈ばかり登り懸けたのが極めて美観だったのを見た、また那智で一丈四方ほどの一枚巌全くこの藻を被りそれから対岸の石造水道を溯って花崗石作りの手水鉢の下から半面ほど登りあるを見た、これらはしかるべく観察を続けたらこの藻がどれほどの速力で高地へ登るという事も知れ、ひいてこの辺の山が出来た年数なども分り、学術上非常に有益な事と思うたが、その地に永く留まり得ないで研究を中止した、また件の手水鉢中の水が血を注いだように黝赤いので鏡検すると、従来予が聞いた事なき紅色の双鞭藻で多分新種であろう。双鞭藻は黄褐また緑を常色とする、ベーンの説に葉の色の緑なるは何故と問うと葉緑素を含んで居るからと言うて説明が済んだと思う人が多いが、葉緑素の字義が葉を緑に彩る物だから葉緑素を含んで葉が緑色に見えると言うは葉が緑だから緑に見えるというに当り適切な説明でない、葉中に日光を受けて炭酸から炭素を取る力ある物を含むその物の色が緑ゆえ葉が緑に見えると言うと初めて説明になるとあった。いわゆる開明した人々が何の訳も心得ずに奇異の現象を見ては電気の作用だ、不思議な病症を見ては神経の作用だと言い捨つるは実際説明でなく解らぬと自白するに同じ、諸国の俗伝にちょっと聞くと誠に詰まらぬ事多くあるを迷信だと一言して顧みぬ人が多いが、何の分別もなく他を迷信と蔑む自身も一種の迷信者たるを免れぬ。したがって古来の伝説や俗信には間違いながらもそれぞれ根拠あり、注意して調査すると感興あり利益ある種々の学術材料を見出し得るてふ事を摩訶薩王子虎に血を施した話の序に長々しく述べた訳じゃ。唐義浄訳『根本説一切有部毘奈耶破僧事』巻十五に昔波羅斯城の貧人山林に樵して一大虫に逢い大樹に上ると樹上に熊がいたので怕れて躊躇う。熊愍れみ来ってその人を引き上げ抱いて坐る、大虫熊に向いその人は恩知らずだ、後必ず汝を害せん擲げ落して我に食わせよ食い得ぬ内は去るまじと言う、熊我いかでか我を頼む者を殺すべきとて聴き入れず、熊かの人に向い我汝を抱きて疲れたり暫く睡む間番せよとて睡る、大虫樵人に向い汝いかにするも樹上に永く住り得じその熊を撞き落せ我うて去らんと言う、樵夫もっともと同じて恩を忘れ熊を落して大虫に啖わせたがそれから発狂した、熊は仏の前身、恩知らずの樵夫は提婆達多の前身だとあるが大虫は誰の前身とも説いていない。『中阿含経』十六に大猪五百猪に王たり嶮難道を行くうち虎に逢う、虎と闘わば必定殺されん闘わねば子分輩に笑われんいかにすべきと念うて、虎我と闘わんと欲せば闘えしからざれば我に道を借せと言うと虎どもは闘うべし道は借さぬと答う、猪余儀なく虎少く住まり待て我祖父の鎧を著来って戦うべしとて便所に至り宛転て糞を目まで塗り往きて虎に向うと、虎大いに閉口し我まさに雑小虫を食わざるは牙を惜しめばなり、いわんやこの臭き猪に近づくべけんやと念いて猪に道を借すべし闘うを欲せずと言う、猪往き過ぎ顧みて虎を嘲り、〈汝四足あり我もまた四足あり、汝来り共に闘え、何の意か怖れて走る〉と呼ばわると、虎答えて曰く〈汝毛竪ちて森々たり、諸畜中に下極まる、猪汝速やかに去るべし、糞臭堪うべからず〉、猪自ら誇りて曰う〈摩竭鴦二国、我汝と共に闘うと聞く、汝来りて我と共に戦え、何を以て怖れて走る〉、虎答う〈身毛を挙げて皆汚る、猪汝が臭我を薫ず、汝闘うて勝ちを求めんと欲せば、我今汝に勝ちを与えん〉、鷹は死しても穂を摘まずと本邦で言うごとくまた支那で虎豹を君子、豺狼を小人に比するごとくインドにも虎牙を惜しんで詰まらぬ物と争わぬと言う諺があったらしい。『四分律』九に善牙獅子、善搏虎と伴たり、一の野干ありて二獣の後を逐い残肉を食い生活せしが、何とか二獣を離間せんとて師子に告ぐらく、虎毎も我生処種姓形色力勢皆師子に勝る我日々好美食を得師子わが後を逐うて残肉を食うと言うと、それから虎にもかように告げて師子を讒す、後二獣一処に集まり眼を瞋らして相視る、師子まず手で虎を打ち汝は何事も我に勝れりと説けりやと問うと、虎さては野干が我らを闘わすつもりと了り、我かつてかかる言を説かず、我らを離間せる者を除くべしとて野干を打ち殺したと出づ、シェフネルの『西蔵説話』(一九〇六年版)には昔林中に牝獅と牝虎各子一疋伴れたるが棲んだ、ある日獅の不在にその子蕩うて虎に近づいたので虎一度はこれを殺そうと惟うたが、自分の子の好侶と思い翻してこれを乳育る、牝獅帰って子が失せたるに驚き、探り行きて牝虎が乳呑ませ居るところへ来ると、大いに愕き逃げ出すを牝獅が呼び止め何と爾今一処に棲んでが不在には我がの児を守り我不在にはわが児をに託する事としようでないかというと、虎も応諾して同棲し、獅児を善牙、虎の児を善搏と号づけ生長する内、母獣両ながら病んで臨終に両児を戒め、汝らは同じ乳を吸うて大きくなったから同胞に等し、世間は讒人で満ち居るから何分讒言に中てられぬよう注意せよと言って死んだ、善牙獅毎もを殺すと肉を啖い血を啜って直ちに巣へ帰ったが、善搏虎はを殺すに疲るる事夥しく血肉を啖いおわって巣へ帰るに長時間を費やした、因って残肉を蔵し置き一日それをって早く帰ると獅が今日汝何故早く帰るぞと問う、虎答うらくわれ貯え置いた肉を啖って事が済んだからだ、獅重ねて問う汝は残肉を貯うるか我は殺した物をその場で食い後へ貯うる事なしと、虎それは汝が強き故で我は弱いから残肉を貯えざるを得ぬと答えた、獅それは不便だ以後我と伴れて出懸くべしとて一緒に打ち立つ事とした、従来善牙獅の蹤を追い残肉を食い行く性悪の一老野干あり、今虎が獅と連れ行く事となって自分の得分が乏しくなったのを憾み離間策を案出し、耳を垂れて獅に近づきかの虎奴は毎度獅の残肉を食わさるるが嫌だから必ず獅を殺そうと言いおると告げると、獅野干にその両母の遺誡を語り已後かかる事を言うなと叱った、野干獅我が忠告を容れぬから碌な事が起るまいと呟く、どんな事が起るかと問うと虎が巣から出て伸し欠し四方を見廻し三たび吼えて汝の前に来り殺さんと欲する事疑いなしと言うた、次に野干虎を訪れ前同様獅を讒すると虎もまた両母の遺誡を引いて受け付けぬ、野干我が忠告を容れねば必ず兇事に遭わん獅栖より出て伸し欠し四方を見廻し三たび吼えて後汝の前に来り殺意を起すべしという、虎も獅も栖より起き出る時かようにするが癖だから今まで何とも気に懸けなんだが、野干の告げに心付いて注意しおると獅巣から出るとて右のごとく振舞う虎も起き出てかく動作した、各さては彼我を殺すつもりと気色立ったが獅心中に虎は我より弱きに我を殺さんと思い立つとは不思議だ、仔細ぞあらんと思い直し、虎が性質敏捷勢力最勝の我に敵せんとは不埒だと言うと、虎も獅子が性質敏捷勢力最勝の我に敵せんとは不埒だと言った、獅虎にかかる言を誰に聞いたかと詰ると野干が告げたと答う、虎これを獅に詰るとやはり野干が告げたと答う、獅さてはこの者が不和の本元だと合点してやにわに野干を打ち殺したとある。また同書に同じ話の異態なものを挙げて牝獅が牝牛を殺し栖へ牽り往くと牛の乳呑児が母の乳を慕い追い来る、牝獅これをも殺そうと念うたが我子の善い遊侶と思い直し乳養して両ながら育て上げ、死際に汝らは兄弟なり必ず讒誣に迷わされて不和を生ずるなと遺誡したが、前話同様野干の讒言を信用してどちらも反省せず相闘うて双ながら死んだとある、わが邦で従来野干を狐の事と心得た人が多いが、予が『東京人類学会雑誌』二九一号三二五頁に述べたごとく全く狐と別で英語でいわゆるジャッカルを指す、梵名スリガーラまたジャムブカ、アラブ名シャガール、ヘブライ名シュアルこれらより転訛して射干また野干と音訳されただろう、『松屋筆記』六三に「『曾我物語』など狐を野干とする事多し、されど狐より小さきものの由『法華経疏』に見ゆ、字も野※褒[#「豸+干」、57-4]と書くべきを省きて野干と書けるなり云々、『大和本草』国俗狐を射干とす、『本草』狐の別名この称なし、しかれば二物異なるなり」といい、『和漢三才図会』にも〈『和名抄』に狐は木豆弥射干なり、関中呼んで野干と為す語は訛なり、けだし野干は別獣なり〉と記す、※[#「豸+干」、57-7]の音岸また、『礼記』玉藻篇に君子裘青※[#「豸+干」、57-8]、註に胡地の野犬、疏に〈一解に狐犬に作る〉、狐に似た犬の意だろ、『爾雅』註に拠れば※[#「豸+干」、57-9]は虎属らしい、『本草綱目』に※[#「豸+干」、57-9]は胡地の野犬状狐に似て黒く身長七尺頭に一角あり老ゆれば鱗あり能く虎豹蛟竜銅鉄を食う猟人またこれを畏るとある、インドにドールとて群を成して虎を困しむる野犬あり縞狼の歯は甚だ硬いと聞く、それらをジャッカル稀に角ある事実と混じてかかる談が生じただろう。西北インドの俗信にジャッカル額に角あるはその力で隠形の術を行うこれを截り取りてその上の毛を剃って置くとまた生えると(一八八三年『パンジャブ・ノーツ・エンド・キーリス』三頁)。テンネントの『錫蘭博物誌略』三六頁以下に著者この角を獲て図を掲げいわく、土人言うジャッカルの王のみ後頭に一角あり長さ僅かに半インチ毛茸に被わる、これを持つ者百事望みのままに叶いこれを失いまた窃まるるも角自ずと還る、宝玉と一所に蔵むればどんな盗賊も掠め得ず、またこの角を持つ者公事に負けずとあって、毎度裁判に負け続けた原告がこの角を得て敵手に示すと、とても勝ち得ぬと臆して証言を改めたんで原告の勝となったと載す、とにかく周の頃すでに※[#「豸+干」、58-3]てふ野犬が支那にあったところへジャッカル稀に一角ある事などをインド等より伝え、名も似て居るのでジャッカルを射※[#「豸+干」、58-4]また野干と訳したらしい、『博物新篇』などには豪狗と訳しある、この野干は狼と狐の間にあるようなもので、性質すこぶる黠く常に群を成し小獣を榛中に取り囲み逃路に番兵を配りその王叫び指揮して一同榛に入り駆け出し伏兵に捕えしむ、また獲物ある時これを藪中に匿しさもなき体で藪外を巡り己より強きもの来らざるを確かめて後初めて食う、もし人来るを見れば椰子殻などを銜えて疾走し去る、人これを見て野干既に獲物を将ち去ったと惟い退いた後、ゆっくり隠し置いた物を取り出し食うなど狡智百出す、故に仏教またアラビア譚等多くその詐多きを述べ、『聖書』に狐の奸猾を言えるも実は野干だろうと言う、したがって支那日本に行わるる狐の譚中には野干の伝説を多分雑え入れた事と想う、『今昔物語』に仏経の野干を狐とした例芳賀博士の攷証本に明示されいる、その四四九頁に『経律異相』から引いて〈過去世、雪山下に近く師子王あり、五百師子の主と作りたり、後時老いて病痩眼闇、諸師子前にありて、空井中に堕つ。五百師子皆捨離し去る、爾時一野干あり、師子王を見てこの念を作して言う、我この林に住み安楽し肉に飽満するを得る所以は師子王に由る、今急処に堕ちたり、いかに報ずべき、時にこの井辺に渠水流あり、野干すなわち口脚を以て水を通ず、水入って井に満ち師子浮み出づ、仏いわく師子王は我身是なり、五百師子は諸比丘是なり、野干は阿難是なりと〉。ここに野干が師子に恩を受けたとせるには訳ある事でこの物毎に師子や虎を追蹤りその残食を享けるのだ、バルフォールの『印度事彙』に夜分コレバルー咆うる所必ず虎あり、コレバルーとは野干年老い痩せ衰えてその群より擯出され自ら餌を捉うる能わず、虎に随うて群を放れて牛などを探索して報せ虎これを殺し食うを俟ってその残を食うものをいう。ただし野干咆ゆるより虎の居処知れ討ち取らるる例多しとウットが書いた。かく不埒千万な野干も七日不食十善を念じ兜率天に生まれたと『未曾有経』に出づ。ラッツェルの『人類史』にアフリカのチップー人は野干に則って外人の所有物を自分らの共有財産と做し掠め取るとある。
仏教国に虎を入れた滑稽談も数ある、その内一つを出そう。クラウストンの『俗話小説の移化』一に引いたカシュミル国の譚に織工ファッツ一日杼を一たび投げて蚊七疋殺し武芸無双と誇って、杼と手荷物と餅一つ裹んだ手巾を持って武者修行に出で、ある都に到ると大悪象が日々一人ずつ食う、勇士出征するも皆生き還るを得ぬ、ファッツ聴きて我一たび杼を投げて七つの蚊を平らげた腕前で、この象一疋殪すは児戯に等しと合点し、単身往きてかの象を誅せんと国王に申し出た、王これは狂人だろうと思うて制すれど聞き入れぬから、しからば勝手にせよと勅命あり、象出で来るに及びかの小男槍か弓矢を帯びよと人々の勧めを却け、年来試し置いた杼の腕前を静かに見よと広言吐いて立ち向う、都下の人民皆城壁に登りてこれを見る、いよいよ悪象ファッツに走り懸ると彼奴今吐いた広言を忘れ精神散乱して杼も餅も落し命辛々逃げ走る、その餅原来尋常の餅でなく、ファッツの妻が夫の介性なさに飽き果て情願道中でコロリと参って再び生きて還らぬようと、餅に大毒を入れそれと勘付かれぬよう夥しく香料と砂糖を和して渡したやつだが、今象がファッツを追うて走る途上、餅の香りが余り高いのでちょっと嘗め試みると至って甘いから何の考えもなく一嚥みにやらかしながらファッツに追い付いた、ファッツ今は詮術尽き焼糞になって取って還し一生懸命象に武者ぶり懸るとたん、ちょうど毒が廻って大象が倒れた、定めて小男は圧し潰されただろうと思うて一同城壁を下りて往き見ると、ファッツ平気で象の尸に騎っており、落著払ってちょっと突いたらこの通り象は躯が大きいが造作もなく殺さるるものをと言う、国王叡感斜めならず、即時彼を元帥と為された、時に暴虎ありて国中を悩ますので王元帥に命じ討ち平らげしむ、ファッツ虎を見て魂身に添わず、樹上に逃げ上るとこの虎極めて気長くその下で七日まで待ち通した、八日目に草臥て虎も昼寝するを見澄まし、ファッツ徐々下りる音に眼を寤して飛び懸る、この時晩しかの時早くファッツが戦慄て落した懐剣が虎の口に入って虎を殺した、怪我の高名と心付かぬ王は武勇なる者まさに絶美の女に配すべしとて、艶色桃花のごとき妙齢の姫君を由緒不知のかの小男の妻に賜ったという。蕭斉訳『百喩経』に同じ話の異態を載す、昔一婦淫乱で夫を嫌い方便して殺さんとする際、君命に依って夫隣邦に使いす、妻五百の歓喜丸に毒を入れ夫に与え道中で食えという、夫旅立ちていまだ食わず夜に入り露宿すとて、猛獣を畏れ丸を樹下に置き自ら樹上に宿す、その夜五百賊王の馬五百疋と種々の宝を盗んで樹下に来り、飢えを救わんとて各一丸ずつ食い中毒して皆死す、翌朝使人樹より下り賊の兵器もて群賊の尸に傷つけ、五百馬と宝を収め隣国王に面し、われ君のために群賊を鏖にし盗まれた品ことごとく返上すと啓す、王人をして検せしむると群賊皆傷つき死せり、王大いに感じ使人に封邑を賜い重用す、王の旧臣皆この男を妬み遠方から素性の知れぬ者が来て、旧功の士の上に出るは怪しからぬと呟く、かの男聞きてしからば汝らわれと武芸を較べ見よというに一人も進み出る者なし、その時曠野に悪しき獅あり、人を殺して道行く事絶えたり、旧臣議してかの者重用さるるは武勇無双と聞ゆるからだ、宜しくこの獅を平らげて力のほどを見せらるべしという、王すなわち刀仗をかの男に賜い獅を討たしむ、やむをえず行き向うと獅吼えて飛び懸る、男惧れて樹に上るとて落した刀が下で開いた獅の口に入って獅たちまち往生した、王これは全く怪我の高名と知らず寵遇前に倍して厚く、国人皆敬伏して重んじたという。シェフネルの『西蔵説話』に大古湖畔にヴィルヴァ樹の林あり、中に六つの兎が住んだ、ところが一本の木が湖水に陥って大きな音を発すと兎ども大いに懼れて逃げ走る、野干これに逢うて訳を聞くと大きな音がしたという、野干大いに懼れて逃げ走る、猴これに逢うて大音したと聞きまた逃げ出す、が猴に逢い野猪がに逢い、次は水牛、次は犀、次は象、それから熊縞狼豹と、いずれも出逢い次第に大音したと聞いて逃げ走る、虎が豹から訳を聞いて逃げ走る途中、獅が虎から伝え聞いて山麓まで逃げ去った、そこに王冠のごとき鬣を戴いた獅王あり、逃げ来った獅どもに向い汝ら爪も牙も強きに何とてかく見苦しく敗亡するぞと問うと、獅ども大音がしたと聞いた故と答う、獅王その音はどこでしたと問う、獅ども「一向存じません」、獅王「白痴奴確かにどこで大音がしたと知らずに逃げる奴があるものか、そんな事を全体誰に聞いたか」、獅ども「虎の野郎が申しました」、獅王虎に追い付いて尋ねると豹に聞いたという、豹に尋ねると縞狼それから熊それから象犀と本元を尋ね究めて終に兎に尋ねると、我ら実際大音を発する怪物を見た処へ案内しようと言うた、そこへ往って見ると何の事はない樹が水に落ちたのと判ったんでこんな事に愕くなかれと叱って諸獣一同安静た、爾時神偈を説いて曰く、諸の人いたずらに他言を信ずるなかれ、須く躬ら事物の実際を観よ、ヴィルヴァ樹一たび落ちて林中獣類空しと。これは妄に虚説を信ずる者を誡めた譬喩だが、この話の体はいわゆる逓累話というもので、グリンム、クラウストンその他の俚話を蒐めた著書に多く見える、「クラウストン」より一例を引くと、マダガスカルの譚にイボチチなるもの樹に昇ると風が樹を吹き折り、イボチチ堕ちて脚を傷つけ、樹は人の脚を傷つけるから真に強いというと、樹いわく風がわれを折るから風の方が強いと、風いわく山はわれを遮るから強い、山いわくわれを穿つ鼠がわれより強い、鼠より猫、猫より縄、縄より鉄、鉄より火、火より水、水より舟、舟より岩、岩より人間、人間より術士、術士より毒起請、毒起請より上帝と次第に強きを譲る、イボチチここにおいて上帝より強い者なしと悟ると言う。またインドパンジャブ州の俚談に雄雀年老いたるが若き雌雀を娶り、在来の雌雀老いて痛き目を見るを悲しんで烏の下におり雨降るに気付かず、烏の中に色々に染めた布片あり、雨に溶けて老雀に滴り燦爛たる五采孔雀のごとしと来た、悦んで巣へ帰ると新妻羨んで何処でかく美装したかと問う、老妻染物屋の壺に浸って来たと対う、新妻これを信じ染物屋へ飛び往き沸き返る壺に入って死ぬほど湯傷する、雄雀尋ね往って新妻を救い銜えて巣へ還るさ老妻見て哄笑し、夫雀怒って婆様黙れと言うと新妻夫の嘴を外れ川に落ちて死んだ。夫雀哀しんで自ら羽を抜き丸裸になってピパル樹に栖り哭く、ピパル樹訳を聞いて貰い泣きし葉をことごとく落す、水牛来て訳を聞いて角両つ堕し川へ水飲みに往くと、川水牛角なきを異しみ訳を聞いて貰い泣きしてその水鹹くなる、杜鵑来り訳を聞き悲しみの余り眼を盲し商店に止まって哭き、店主貰い泣きして失心す、ところへ王の婢来り鬱金を求めると胡椒、蒜を求めると葱、豆を求めると麦をくれるので訳を尋ね、哀しみ狂して王宮へ帰り詈り行く、后怪しんで訳を聞き息切れるまで踊り廻る、王子これを哀しみ鼓を打ち王その訳を聞いて琴を弾いたという。日本にもこのような逓累譚があった証拠は、近松門左の『嫗山姥』二に荻野屋の八重桐一つ廓の紵巻太夫と情夫を争う叙事に「大事の此方の太夫様に負を付けては叶うまい加勢に遣れと言うほどに……彼処では叩き合い此処では打ち合い踊り合い……打ちめぐ打ち破る踏み砕く、めりめりひやりと鳴る音にそりゃ地震よ雷よ、世直し桑原桑原と、我先にと逃げ様に水桶盥僵掛り、座敷も庭も水だらけになるほどに、南無三津浪が打って来るは、のう悲しやと喚くやら秘蔵の子猫を馬ほどに鼠が咥えて駈け出すやら屋根では鼬が躍るやら神武以来の悋気争い」とある、これはその頃行われた逓累譚に意外の事どもを聯ねつづけた姿に擬したのだろ、かつて予が『太陽』に載せた猫一疋より大富となった次第また『宇治拾遺』の藁一筋虻一疋から大家の主人に出世した物語なども逓累譚を基として組み上げた物だ。