本書の著者韓非は、韓の公室の一族なり。其の人となり、吃にして辯説に拙なれども、文筆に長ず。李斯と與に荀卿の門に學ぶ。李斯其の才能の及ばざるを以て窃かに之を畏る。當時の氣運は、既に戰國一統の任務を、秦に與へたるの時にして、韓國は日に侵略せられ、其危きこと累卵の如き状態なり。然るに韓王(名は安)は法制を明かにして、臣下を御すること能はず、其の外交政略は、徒らに合縱連衡の説客に動かされて、一定の方針なし。韓非之を傍觀するに忍びず、數ば書を上りて之を諫めたれども、用ひられず。是に於て孤憤、五蠧、説難諸篇すべて五十餘篇を著はす。其文詞雄健峭直にして、頗る人情の機微を穿ち、時勢の肯綮に適す。秦王(始皇帝)偶※(二の字点、1-2-22)之を覽て、大に其才を賞嘆して曰く、寡人もし此人と與に遊ぶを得ば、死すとも恨みずと。是に於て兵を發して韓を攻む。韓王始めて非の言の虚ならざるを知り、之を秦に派遣して、交渉の人に當らしむ。秦王之を悦びたれども、外人なれば未だ十分に信用せず。然るに李斯以爲へらく、韓非もし重用せらるゝときは、自己の地位を奪ふに至るべしと。乃ち姚賈と與に韓非を讒して曰く、大王は韓非を悦ぶも、本と是れ外國の臣なり、豈に我秦の爲に利を計るものならんや、さりとて之を本國に追ひ歸へさば、我秦の状況を泄らすに至るべし、法律に照して之を誅すべしと。(姚賈と韓非との關係は戰國策秦策下を見よ)秦王之を聽きて獄に下し、其罪跡を審判せしむ。韓非自ら陳疏せんとするも、李斯は之を隔てて上聞に達せしめず、且つ毒藥を遣りて其自殺を諷す。秦王後に悔い赦命を下ししも、韓非すでに死したり。其年月詳かならずと雖も、大略秦王の十三年頃にして、西暦紀元前二百三十四年に當る。

 前述の如く、韓非は孤憤以下十餘萬言を著す、之を韓非子又韓子と稱す。漢書の藝文志に五十五篇となし、史記本傳の正義には、阮孝緒の七略を引いて、二十卷となす、今の通行本二十卷五十五篇と相合す。但し最初の初見秦、存韓及び卷末の忠孝、人主、飭令すべて五篇は、學者或は韓非の筆に非ずとなす。初見秦の文は戰國策秦策に載せたる張儀の建言と、大同小異なるも、文中には張儀以後の事實あれば、果して同人の筆なるや明かならず。故に或は曰く、是れ韓非が先づ秦王の歡心を得んが爲に上りたる者にして、存韓に於て、始めて其の眞意を發揮したるものなりと。之を要するに此二篇は趣旨に於て矛盾し、且つ篇末に「詔以韓客之所上書云云」の敍事ありて、李斯が之に對する駁論をも併載せし者なれば、後人の補綴に出でたること明かなり。又忠孝篇は老子一派の説を駁撃して、韓非子の持論と相合せず、人主篇は韓非子の諸篇を割裂補綴し、飭令篇は商子※(「革+斤」、第3水準1-93-77)令篇と同じ、故に全篇中信ずべき者は五十篇なり。本書は始めて宋の乾道元年に於て刻せられたる者を善本となす、元の何※[#「けものへん+卞」、U+72BF、10-3]本は、其二篇を佚し、明の趙用覽に至り、更に宋本を得て、缺を補ひ誤を正して舊本に復したり。註釋書は近人王先愼の韓非子集解出づるまでは、支那に於ても觀るべき者なし。然るに我邦に在りては荻生徂徠の讀韓非子、太田方の韓非子翼毳、蒲坂圓の増讀韓非子、韓非子纂聞等皆學者の參考に供するに足る。荻生氏の著は刻本多きを以て得易きも、太田蒲坂兩氏の著は、是まで稀覯の稱あり。近時富山房の漢文大系を編するや、服部博士之を校訂して、始めて世に流布するに至れり。其他藤澤南岳の韓非子全書、津田鳳卿の韓非子解詁、松平康國氏の韓非子國字解皆な善本にして、初學者の階梯と爲すに足る。

 韓非子は支那哲學史上に於て法家に屬するの人なり。(法家の事に就ては本叢書管子の解題を見よ)其思想は實に史記の本傳に論ぜし如く「刑名法術の學を喜みて其の歸は黄老に本づく」の數言に出でず。今之を論ずるに先だちて、少しく當時の状況を述べんとす。 支那戰國時代は周室の法典制度全く崩壞し、門閥の積威も自ら衰へ、各國各人皆な實力を以て競爭するの状況なり。且つ又當時の列國は、外交問題常に重要なる位置を占め、如何なる國も皆之に苦慮焦心せざるはなし。是に於てか蘇秦張儀以來の合縱連衡は、各人により唱道せらる、之を遊説の士又は説客といふ。此等の説客は一定の君主なく、朝に楚に仕ふるも夕には趙に臣たり。其目的は唯自己の富貴權力にして、其の眼中國利なく民福なし。其の太甚しき者にありては、間牒となり、或は僞りて諸國の臣となる、張儀の楚に於けるが如きは、其の適例なり。然るに當時の人主は多く暗愚にして一定の識見なく、徒らに彼等の博辯宏辭に欺かれて、政策を變更し、遂に大事を誤るに至る。更に彜倫道徳の方面を見るに、臣にして君を簒ひ、子にして父を弑する者、日に益多く、如何なる諸侯の宮庭にも暗※(「鬥<((卯/亞の下半分)+斤)」、第3水準1-94-31)行はれざるなし。臣下は徒だ君主の意を迎へて、其の厚祿重賞を貪り、機會に乘じて其の國家を簒奪せんと欲す。田氏の齊に於ける、子之の燕に於ける、其適例にして、忠義の觀念は全く拂ひ去られ、唯だ利あれば從ひ、利なければ去るの風なり。又社會の師表となり、風紀を維持すべき儒者墨者の徒は、唯だ堯舜時代の古典を主張し、仁義を喋喋す、是れ恰も盜賊に對して正廉慈善を説かんと一般なり。其言う所美なるも、實効の擧らざるを如何せん。然るに君主多く之を知らずして、徒らに其言論を喜び、虚名を慕ひ、仁義忠孝を以て實際に有效なりとす、迂闊亦太甚しといふべし。韓非子は平生此等の事實を熟知したれば、自ら其胸中に、第一、説客辯士の有害無益なること、第二、學者の高務に馳せて、實論に暗きこと、第三、臣下の奸妄にして、厚祿大官を貪ることを信ず。然らば則ち之が矯正策は如何にすべき、唯だ法律を嚴守して、賞罰の大權を振ふに在るのみ、此運用法を刑名法術といふ。
 第一、刑名とは何ぞや。刑名は形名なり、今卑近なる一例を擧げんに、人あり、君主に建言して曰く、我言を聽かば、歳入一千萬圓を増加せんと。是れ即ち名なり、論なり。君主之に財政を擔當せしめんに、果して其の言の如く、實効を擧ぐるときは、之を刑名相當るといひ、然らざれば刑名[#「刑名」は底本では「刑多」]相當らずといふ、故に刑とは實行なり、事實なり。而るに相當らざるに二種あり、一は則ち一千萬圓に達せざること、他は則ち之を超過することの場合なり。此際前者の咎むべきは論なきも、後者は寧ろ其成績優良なれば、之を賞すること、常理なるべし。然るに刑名學より論ずる時は、後者と雖も、其相當らざるに於ては同一なれば、齊しく之を罰す。又茲に二人あり、一人は文部大臣にして、一人は陸軍大臣なり。然るに後者もし職務を怠りて、國家に危難を及ぼさんとする場合に、前者は之を傍觀するに忍びず、代りて其事務を補助する事あれば、後者の罰すべきは論なきも、前者は寧ろ臨機の處置を執りたる者となして、之を賞すること、常理なるべし。然るに刑名學より論ずるときは、前者と雖も之を罰す。何となれば臨機の處置即ち實と、文部大臣といふ名と相一致せざればなり。又茲に法律の正文あり、曰く「人を殺す者は死刑に處す」と、然るに同一の殺人刑と雖も、其原因動機に至りては種々あることなれば、司法官たるもの、宜しく之を調査審斷して、自ら輕重寛嚴の差等を設くること、常理なるべし。然るに刑名學よりいふとき、其の原因動機の何たるを問はず、盡く一律に之を判して死罪となす、即ち法律の正文なる名と、殺人といふ實との一致を主眼とすればなり、之を刑名參驗又は刑名參同(主道第三)といふ。
 第二、法術とは何ぞや。第一、法は法律にして、國民臣下に公平にし、之によつて賞罰を定む。君主の君主たると否とは、此大權を有ると、有せざるとに在り。君主は一人にして、臣下は多數なるも、なほ一は命じ、一は服する所以は何ぞや、他なし、賞を喜び罰を恐るればなり。君主にして之を失するときは、虎の爪牙を去るが如し、犬猫と擇ぶなけん。(二柄第五)故に商鞅之を以て秦國を治め、大に治績を擧ぐ。第二、術とは君主が臣下を御するの心得をいふ。前述の如く、臣下は常に君主に迎合して、以て其の位地を固くするを勗め、苟くも隙あれば、直に之に乘じ、始めは君主を悦ばしめて信任を博し、漸次に其大權を竊むに至る。故に君主たる者は常に警戒して臣下に臨み、あらゆる手段を應用して、其の正邪善惡を洞察せざるべからず。されば君主もし文學を好めば、臣下たとひ之を好まざるも、皆詩を賦し文を作る。君主もし撃劒を好めば、臣下たとひ之を嫌ふも、皆兵を談じ武を講ず、萬事皆然り。世の人君之を知らずして、眞に文學を嗜み撃劒を好むとなして、之を寵任し、遂に其の聰明を擁蔽せらるゝに至る。故に人君たる者は、其の好惡を臣下に示すべからず、其の胸中を臣下より見すかされず、闇々冥々の中に其身を沒し去り、唯だ臣下の行爲如何によりて、賞罰を下せば可なり。之を例するに、老猫の猾鼠を捕ふるが如し、先づ埋伏して見ざるまねし、聞かざるまねし、以て其の跳梁を俟ち、疾風の如く、一擧に之を咬殺するは老猫の伎倆に非ずや。韓非子の先輩たる申子は、すでに之を用ひたり。之を要するに法術の二者は、相須つて始めて内は君權を強くし、外は國威を張ることを得。
 其三、黄老との關係。前述の如く史記に刑名法術を以て黄老に本づくとなししは如何。黄老(即ち今日の老莊に同じ、秦漢時代にて黄老といふ)の説には、虚無因應を主とす。以爲へらく耳目の慾を黜け、學識知能を絶ち、靜かなること秋水の如く、明かなること明鏡の如き心もて世に處すれば、宇宙の眞理を達觀して、之と一致することを得べし。所謂容貌愚なるが如きを以て、聖人となすなり。韓非子は此の態度を君臣の間に應用したる者なり。なほ韓非が如何に老子を解釋したるかは、解老喩老の二篇を見よ。

 其一、荀子と韓非子。戰國時代に生れたる韓非子が、社會の暗黒方面のみを見て、君臣の關係も父子の關係も、歸する所は利害問題なり、俚諺の所謂「人を見たら泥棒と思へ」といふが如く、如何なる人も信用すべからずとなしたるは、已むを得ざることなるが、更に其の學統を尋ねて、荀子を師としたるを見る時は、決して其の偶然の結論に非ざるを知るべし。荀子は孟子の性善に對して性惡を主張し、之を矯むるが爲に、聖人出でて禮を定めたるを論ず。韓非子が人を專ら利己的と認めたるは、則ち性惡説より來り、其の法の尚とむべきを述べたるは、禮より來りたる者なり。又韓非子の説難は、文學上不朽の文章にして、其の人情を穿ちたる點に於ても極めて犀利なる者なるが、此粉本は、既に荀子非相第五に出づ。曰く「凡そ説の難きは至高を以て至卑に遇ひ、至治を以て至亂に接するなり」と。
 其二、始皇帝が韓非子を悦びし所以。秦國は商鞅以來、富國強兵を目的とし、國家至上主義を執り、法治主義を行ふ。由來秦國は春秋時代よりして、稍や列國と異なる色彩を有し、武力を以て著はる。故に往々目的の爲に手段を擇ばざるの國なり。されば左傳襄公十四年に、秦人が※(「さんずい+徑のつくり」、第3水準1-86-75)水の上流に毒を投じて、敵人を殺したるを記す。戰國に至りて孝公商鞅を用ひ、酷法を以て臣下に臨むこと、恰も「スパルタ」に於ける「ライカルカス」の如し。今商鞅の著書商子を讀むに、賞罰を正し、耕戰の士を賞して、商工を却け、文學を賤みたるは、全く韓非子の先驅たり。彼は國家の爲に、如何なる犧牲をも拂ひたるものにして、彼の前には條約もなく仁義もなし、故に魏の太子を欺むいて之を捕へたるが如きは、其の一例なり。如此き武斷的政策は、益※(二の字点、1-2-22)發達し、昭王に至りては或は楚の懷王を欺き、或は趙を脅かして、和氏の璧を奪はんとせしが如き事あり、其の六國を滅す手段も、多くは流言を放ちて其の君臣を間疎し、或は臣下を賣收し、或は暗殺を行はしむ、されば虎狼の秦とは實に當時の流行語なり。然るに韓非子の所論全く商鞅と一揆に出でて、秦の傳統的政策と一致するものあり、其の眼中には君主あるのみ、國家あるのみ、然かも其國家は偏武的にして、壓制的なり。秦始皇が海内一統の後、苛法を施き書を焚き儒を坑にせしは、李斯の言の聽く所なりと雖も、韓非豫め之が素地をなしたる者といふべし。
 其三、韓非と「マキアベリー。」韓非が國家至上主義を唱へ、且つ君主の心得即ち術を細説したるは、頗る「マキアベリー」に似たり。其の「プリンス」(近時興亡史論刊行會に於て本書を譯し君主經國策といふ)の第十五章より第十九章に至るまで數章は、要するに君主に僞善矯飾の必要なるを説きたる者にして、其の前提は人心を以て、專ら利己主義的なりとするに往り[#「往り」はママ]。韓非子が老子の説を應用して君主に勸むるに見るも見ざるが如く、知るも知らざるが如くして、只管に臣下の擧動を注意すべしといふは、是れ亦一種の矯飾にして、人を欺くの太甚しき者なり。なほ韓非子一派の政治學説と近時の「トライチケ」との對照に至りては、余既に之を丁酉倫理會雜誌に公表したれば、今之を省略す。
 其四[#「其四」は底本では「其三」]政法と道徳との區別。何れの國を問はず、政治法律と道徳とは古來皆混一せられたる者にて「プラトー」の「レパプリック」又は孔孟の學説皆然らざるはなし。然るに西洋に於て、此二者の間に截然たる區別を設けたるの端緒は、實に「マキアベリー」より始まる。韓非子も亦此點に於て、頗る見るべき者あり。彼は孝子必しも忠臣ならず、義士必しも愛國者ならざることを論じたり、儒教に於て、親の仇を不倶戴天となし、之を復するを人子の義務と認めたるも、韓非よりすれば、私※(「鬥<((卯/亞の下半分)+斤)」、第3水準1-94-31)の一種なるべし、固より韓非に此の實例あらざるも、五蠧顯學諸篇に於て「君の直臣は父の暴子なり、父の孝子は君の背臣なり」といひ、又私※(「鬥<((卯/亞の下半分)+斤)」、第3水準1-94-31)を禁じ儒侠を却けたるを見るときは、少なくとも儒教は所謂「忠臣は孝子の門より出づ」といふ如き思想と、相反する者なきに非ず。是く道徳と政法との間に差違を設けたるは、實に一種の卓見なりといふべし。又韓非子が五蠧篇に於て人の道徳的觀念が、經濟上の變遷により、自ら相異ある者なるを論じ、「マルサス」の人口論に似たる口調もて人口の増加を述べ、人生は畢竟競爭なりと斷じ、古今を一括して「上古は道徳に競ひ、中世は智謀にきそひ、當今は氣力に爭ふ」となしたるは、既に國際聯盟などの空想に過ぎざるを知るに足るべし。若し韓非子をして今日に生まれしめば「當今は資本に爭ふ」と云はんとす。何となれば、武力的帝國主義は既に過ぎ去りたるも、資本的帝國主義は宇内の大勢を左右して、正義公道の行はれざること、なほ二千年前の外交と異なるなければなり。
小柳司氣太識

底本:「韓非子」漢文叢書、有朋堂書店
   1921(大正10)年8月7日発行
入力:齊藤正高
校正:草野耀司
2013年4月9日作成
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