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 すゝきの穂が白んで、山道で行きちがふ子供達から青い蜜柑の香気がかがれる。――夕暮にちかい時分に岡の裏側にある競馬場へ行つて見ると、「シーズン」が近づいたといふので日毎に練習馬の数が増えてゐる。
 僕は、馬や競馬に特別の興味を持つたことはないが、散歩に出かけるとそこの岡の上の木さくによりかゝつて、下に、盆地になつて見降される競馬場を中々面白く見物するやうになつてゐる。晴れの日の事は好くは知らないが、かうした静かな夕暮時に競馬の練習を見物してゐるのも、また一興といふほどの心地なのだつた。――さうしてゐるうちに、おゝ、彼女あれは! といふ風に遠眼でも、幾頭かの馬の名前なども覚えてしまつた。
 ドリアン――。
 これは知友が飼育してゐる馬の名前であるから普段からどこでゝも一目で解つてゐて、何となく好意を寄せてゐた。今年は、こゝのレースにはださないといふうはさを聞いたが、いつ来ても僕はさつさうとして練習に余念のないドリアンの姿を見うけてゐた。
「やあ、今日も来てゐるな。」
 と僕はドリアンを見だす毎につぶやくのであつた。その日も僕は主にドリアンの様子ばかりを眺めてゐたが、ふと乗手に気づいて見るとどうもいつもの騎手とは違ふらしい。ドリアンなら僕はいつも傍へ寄つて何かしら愛撫のしるしを施したいほどの親しみを持つてゐるのだが、今度の、その世話係りの若者とはいまだ口を利いたこともない仲なので、堪へて傍見してゐたが、もしや今日のは飼育主のYではなからうか。それならばうれしいが――といふほどの熱心さで、乗手の顔を確めようとした。で僕は肩にかけてゐる望遠鏡を取りだして、見定めようと試みたのだが、切りに駆け回つてゐる最中で騎手の顔はたてがみにかくれて、その上ハンチングを眼深かにかむつてゐるのでたれとも判別し難いのであつた。それにしてもYではないらしい。大変に小柄な騎手で、柿色のシヤツを腕まくりしてピツタリと馬の首根に吸ひついてゐる様子を見ると、少年らしく思はれた。

「厭になつてしまつたのよ、あたし! すつかり気持が滅茶苦茶になつて!」
「ドリアンこそ可愛想に、そんな自暴くその乗手に出遇つて!」
「可愛想だなんて――」
「で、あれだけ駆け回つたら気分が晴れたとでもいふの?」
「えゝ、いくらか――でも、まだ足りないのよ。」
「そいつは弱つたね、もう忽ち暗くなつてしまうぜ。」
「ドリアンなら、あんた平気で乗れるでせう?」
「平気でもないが――」
「あたしが手綱を持つから大丈夫よ。何方も軽いから二人乗つたつて平気よ。これから、あたしの家へ一緒に行つて下さらない。」
「二人で乗るのは乱暴だ。ドリアンが脚でも傷めたら……」
「いゝのよ。これ、もう、あたしのにしてしまつたんだから。悦んでゐるわよ。とてもあたしが可愛がるんですもの――」
 さつき僕が、少年らしいと思つた騎手はYの妹のフユ子だつた。何で彼女が、そんなに無しや苦しやしたのか僕は聞きもしなかつたが、彼女は何か酷く不平を抱いてゐるらしかつた。服は、土にまみれてゐるし、顔は陽にやけてゐるし、そして一体に挙動が乱暴な性質の娘だつたから、こんな様子を見ると、そばで見てもまるで男のやうである。
「行つても好いよ。だけど二人で乗るのはよさう。何方かゞ歩くとしよう。」
「恥しいの?」
「いや――。ドリアンが――」
「兄さんがね、どうしても、もうあたしを東京へ帰さないのよ。それがしやくなのよ。」
しやくだつて仕方がないさ。東京で、あいつはダンス・ホールなんかへ出没してゐるなんてYがこの間も僕にこぼしてゐたツけ!」
「チエツ!」
「結婚の話で、また何か争ひでも起したのぢやないのかえ?」
「争ひ――といふほどでもないけれど、あの兄貴の愚図が……」
「馬鹿な!――」
「いゝえほんたうなのよ。――今日は、ドリアンのことで少しばかり……」
「感情の衝突?」
「感情――ぢやないけれど――」
 遂々とう/\乗らないで、二人はそんなことを話しながら田畝道を歩いて行つた。ガウンを着せられたドリアンが、木馬のやうな姿で二人の間を歩いてゐた。

 ドリアンの世話係りが用達に出かけて戻らないのだつたが、フユ子の話によるとYは何故だかドリアンを嫌つて見向きもしないのである。
「ぢや、あたしにくれる?」
 とフユ子がいつたら彼はフユ子の言葉を馬鹿にして、
「あゝ、やるとも――。乗つて行つて、転げ落ちでもしたら、そのお転婆が治るかも知れない。ドリアンがいふことを聞いたら、何でもお前のいふことを聞いてやる。」といつたさうなのである。
「兄さんが知らないときに、あたしがいつもこれを乗りまはしてゐるのを気づかないでさ。――それは、ともかく、あんた、証人になつて頂戴ね、どんなにドリアンがあたしに慣れきつてゐるかといふことの――」
「そしてフユさんはYにどんな要求をださうと思つてゐるの?」
「…………」
「帰つてからいふわ――。あなたと兄さんがきつとしかめツ面をして、きつとあたしの顔を見るでせうから――」
 もう向方に我家の灯が見えるから、ドリアンに乗つて一あし先へ行つてくれ! とフユ子がすゝめるので仕方がなく僕が乗つて行くと、遥後の方でフユ子は「止れ」とか「進め」とかといふ意味らしい合図のむちを馬に響かせると、どんなに僕がそれに逆らはせようと謀つてもドリアンはあたかも彼女の手足の如く自由に止り、そして動いた。
 僕は、とてもテレ臭くてならなかつたから手綱を持つたまゝ星の多い空ばかりを仰いでゐた。

底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房
   2002(平成14)年5月20日初版第1刷
底本の親本:「東京朝日新聞 第一五五八八号」
   1929(昭和4)年9月28日
初出:「東京朝日新聞 第一五五八八号」
   1929(昭和4)年9月28日
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年8月1日作成
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