(封書――。宛名、神奈川県足柄上郡R――村字鬼塚タバン・アウエルバツハ気付、御常連殿)
 僕は東京の生活が物珍らしく、愉快で愉快でマメイドのことなんて思ひ出す余裕もなかつたよ。それで、君達が何んなに憤慨し、何んなに烈しく亢奮して夜毎に僕を罵倒してゐるであらうか! といふことは、時々僕のデイライト・スクリーンに、まざまざと写り出るのであるが、そんな光景もさつぱり怖ろしくないのだ。ミス・マメイド(居酒屋の娘)が二三日前に手紙を寄して、僕が其処を去つてから既に百日になる……といふやうなことを云つてゐたが、なるほど考へて見ると僕がほんの四五日のつもりで其処を出発したのは、たしか三日の[#「三日の」はママ]はじめだつたな、青野の裏庭の桃が蕾をもつてゐたことを覚えてゐる。そして僕の妻が、その桃の蕾を冬帽子のリボンにさしたゞらう。あの晩東京に着いて、何処に落着かうかと思ひながら銀座裏の酒場に立寄つて、君達にハガキを書いたりしてゐると、其処のとても綺麗な酌女が、その花を認めて、いろ/\な質問をするので、僕が今日までゐた村のこれこれの家の裏庭には、これ/\の桃林があつて、間もなく満開に至るであらう、さうすると村の人達は其処に集つてこれ/\の酒宴を開く――などといふことを説明すると、是非見物に行きたい、あなたはその頃に帰りますか? 無論帰るよ――それなら同行を希ひたい――よし! と約束したのであつたが――それから次々に、やあ、もう桃は済んでしまつたらう、今度は桜だ、桜だつてこれ/\の堤に、斯んな風な桜並木がある、その花盛りは桃と違つて、とても賑やかだから、その時に帰ると仕よう――おや、もう桜は散つてしまつたか、そんなら海棠の林がある、桜とはその風情を異にして海棠となると、これはまた一種頼もしい眺めである、桜のやうに忽ち咲いて忽ち散つてしまふといふのではなくして、相当の風や雨にも堪えて、散りゆくまでには仲々の手間がある、その海棠の古木が僕の知合のこれ/\の家には、昔から海棠屋敷といふ異名があるまでに、深々と生ひ繁り、花の季節となると雪洞を燭し、鶴を放つて、人々に披露をする、海棠の花なら散らぬまでに屹度帰れる自信がある、これに誘はう――が、それもやがて期を過し、では、青田の夜に飛び交うてゐる蛍の眺めを――とか、青葉の河原を――などゝ、云うに至つてしまつたが、今日ではもう僕の云ふことを信じなくなり、僕が次々と誘ひの言葉を発すると、彼の美女をはじめその他の友達連も、またあの大法螺先生のお国自慢がはじまつた、つまらぬ/\! と横を向いてしまふやうになり、僕もつまらぬので此頃では河岸を変へて日本橋辺の酒場やオデン屋に出没して、相変らず、「僕の村の――」やがて来るべき爽快な夏の話に花を咲かせてゐる。いや、これは、たしかに自信がある。夏までには必ず多くの土産物をたづさへて、諸君とマメイドに再び相見るであらうことを――。
 馬鹿な――何故、そんなに帰れぬのか、何がそんなに愉快なのかと問ふ勿れ。小説が未だに、一つも出来あがらぬのだよ。

(エハガキ――銀座を散歩した時に、中世紀の海賊船のエハガキを買つて来た。この受信人は舟の絵を集めてゐる。その一組に添へて、紙片に誌す。宛名――アタミ線、吉浜局区内コメカミ漁場納屋気付、須田七郎)
 豊漁の報に接して、近頃最上の愉快を覚えた。勇敢な君の姿を想像しながら遥かに満腔の祝盃を挙げた。そして皆目意識が朦朧としてしまひ、翌朝女房に訊ねたら、酒場で、一人の友達をつかまへ、その友達であり、同時に僕の好きな友達である作家のことを、近頃のその作家の作物が気に喰はん――などと云つて、大騒ぎを演じ、宿に帰ると女房を相手にまた喧嘩をし、茶器をこわしたり、唐紙を破いたりしたさうだつた。翌朝、大いに面目を潰した感で、四畳半の居間から何うしても廊下に出ることが出来ず、飯も食へなかつた。が、もともとが君の豊漁を悦ぶあまりの余勢なのである。それが飛んだかたちに走つてしまつたまでのことである。友達こそ妻こそ、そして宿屋の亭主こそ災難だつたが、何うして僕がそんなに亢奮したか? といふことをはじめに云つておけば好かつたのに、つひその余裕もなく一途の歓喜の邪道に走つてしまつたわけだつたのさ。
 そんなことは何うでも好い――プロウジツト、七郎丸!
 ダツデイ七郎丸と、ミセス・七郎丸と、そして納屋のおぢさん夫妻に呉々もよろしく。今は宿屋住ひだから、魚はもう送つて呉れないで好いよ。
 次の佳き便りを待つよ。

(エハガキ――万国大汽船集一組に添へて。宛名、神奈川県小田原町新玉町二丁目牧野英雄――尋常二年生、長男)
 ヤクソクノ汽船ガ見ツカラヌノデ、フネノダケオクル。センセイノオシヘヲヨクマモリ、オトモダチト、ワルフザケヤケンカヲセズニ、ゲンキヨクアソベ。コンドノ土ヨウ日ニ小サイオヂサント、コチラヘオイデ。

(封書――宛名、麹町区丸ビル七階N……法律事務所内弁護士法学士Y・T……宛)
 前略、亡父の「署名」に関する御問合せの御手紙拝見いたしました。書類は全部散乱いたしたる後にて「署名」が何うしても見つかりませんでしたので、つひ御返事を申しおくれましたが、今日不図思ひ出したら、一昨年の秋頃、友人の某作家(頭の病気を患つて近くの温泉に保養に来てゐた。)に進呈した古本「ハムレツト」の扉に“189……?”だつたか“19??”…… “Christmas―― H, makino”と誌してあつたことを思ひ出しました。それで、よろしかつたら借りて来て御参考に呈しても関ひません。電話かハガキで御返事下さい。

(封書――宛名 神奈川県足柄上郡関本村、瀬川岩太郎)
 御無沙汰いたしました。お変りはありませんか。小生元気です。先日こちらの友達に御村の景色の話をいたしましたところ、この初夏の間に是非とも訪れたいと云ひますので、近々三四の友を誘つて御邪魔にあがりたいと思つて居りますが、差支へありませんか、お尋ねに及びました。もう蛍の期節は済んだでございませうか。御出京の節は前もつてお知らせ下さるやうお願ひいたします。こちらの酒場を御案内いたしたく存じて居ります。近頃都の数々のバーやタバンの発達は名状しがたき全勢振りにて、吾等にはそゞろ寒心の感さへ覚ゆるほどでございます。
 長老をはじめ、青年団員諸兄へよろしくお伝へ下さい。
匆々
牧野生
   瀬川村長 机下

(エハガキ――新東京風景に添へて。宛名――R・区六八番、ボストン、U・S・A。ミセス・F・K――。)
(和訳して――上京後の第二信)
 余の親愛なるミセス・Fよ。
 余等の東京は斯んなに素晴しい装ひを凝して今や初夏の輝やかしい陽の下に生気溢れてゐる。これらの写真を見て君の思ひ出を呼び起すやうな風景は何処にも見あたらぬであらう。余等は、これらの近代風景を世界に誇り、市民は一勢に立ちあがつて第一文明の建設に余念なき有様である。東京市は何処の隅々までも元気に充ち溢れてゐる。先日の極東オリムピツクも大体吾軍の勝利であつた。
 余は余の芸術の発展を希ふべく再び都に現れて、最早三ヶ月も経つたが、これらの新東京の空気を一杯に呑み込んで、ひたすら心躍るのみにて、未だ一つの短篇をも纏め得る余裕もなく、一途に生活の面白さに酔うてゐるかの如き状態である。だが生活期の後の芸術を信じて呉れるであらう。――それはさうと、君がこちらにゐる頃は簡単なるダンス・ホールなども見あたらなくて、屡々君と憂鬱を感じたことがあつたが、近頃は彼方此方の角々にも多くのホールが出来て、難なく、このまゝ出入することが自由だ。余は君と別れてからあの如く殆ど田舎に閉ぢこもりダンスの代りに夕暮時になると甚だ愚かな飲酒癖に慣れて家庭の者共に夥しい迷惑をかけ続けたが、此頃はそんな爺臭い騒ぎは打ち忘れて、宿で夕飯を済すと、稍ともすれば妻の手を引いて彼処に赴き、夕暮時の寂しさを綺麗に拭ひ去り、再び帰つて遅くまでも読書をするといふほどの長閑なアカデミアンになることも出来た。だが何んなに数々のダンス・ホールが現れても、嘗て君と舞ふた経験をもたなかつたら、あの如く羞みやの余が、この如く自由に彼処に出入することなどは出来なかつたらう! などと思ひ、いろ/\と君に感謝の念を抱いた。手紙は、田舎宛で呉れれば好い。こちらからの何か用事に関する通信は今後妻だけが書くことにしたから、ブロウクンの個所は小さな彼女のために同情をもつて判読してやつてくれよ。

底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
   2002(平成14)年6月20日初版第1刷
底本の親本:「近代生活 第二巻第七号(七月号)」近代生活社
   1930(昭和5)年7月1日発行
初出:「近代生活 第二巻第七号(七月号)」近代生活社
   1930(昭和5)年7月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年8月1日作成
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