宮城聡氏の「樫の芽生え」なる小説を読んで、私は痛感に堪えられなかつた。宮城氏には面識があるようにも思ふが、その宮城氏と、この作者とが同じ人なのか、名前の方の記憶がなかつたりして、甚だおぼろげな程度であつて、それ故、この感激は、全く単純に、「樫の芽生え」なる一作に依るのみの、たゞ、それだけのことであるのだ。加けに私は同氏の作品を読むのは、これがはぢめてゞある。一読者たる私に、この如き思ひを与へしめたこの一短篇小説は、やはり傑作といふ類ひの稀なるものに相違ないのだ。――いつも私は、素直なる作家の痛ましき生活記録的の作品に出遇ふと大概の場合に痛く胸を打たれ、その作者に敬意を払はずには居られないのが常々である。そして、その作品が、その作家の実生活であらうと充分に想像され、且つ、それからの感銘が痛くあればあるほど、明らさまに讚辞や感激の言葉を発しにくかつた。知友の場合に、その目前では尚更のこと、作者とは見ず知らずの例へばこの場合の如き単なる一読者であつた時でさへも、誰彼に向つてもおしやべりは差し控へずには居られない、考へて見れば、つまらぬ遠慮をせずには居られなかつた。それは全くつまらぬ慎しみとも云へぬほどのハニカミ見たいなもので平気になつて差支へない筈なのに、一体に、傑れた、一人称の実際の経験らしい小説に接すると、取材のあれこれの別なく、いつも何か云ひそびれるものを覚えて仕方がないのであつた。
 それはともかく、しかし私は、この小説を読んで、このまゝ黙つては居られないものに突きあげられた。これは三人称で書かれたものであり、このまゝそれが作家の経験であるか、ないか、そんなことは全く別問題だが、この作から享けたところの、痛ましき感銘は、稍ともすれば胸に畳み込んでしまひたい、吹聴などは為したくないものだつたが、左う思へば思ふにつけて、却つて黙つては居られなくなつた。蓋し傑れたる作に贈る賞賛に何のちゆうちよが要る筈もない。読みながら幾度も私は、もうイヤだと呟いて投げ出しては、また拾ひあげた。更に読んでゆかうとする自分に憎しみさへも覚えた。そして、とうとう読み終へて、稍しばらく眼眦をおさへたまゝだつた。

底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房
   2002(平成14)年7月20日初版第1刷
底本の親本:「三田文學 第九巻第九号(九月号)」三田文學会
   1934(昭和9)年9月1日発行
初出:「三田文學 第九巻第九号(九月号)」三田文學会
   1934(昭和9)年9月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年8月15日作成
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