斯ういふことを呟くと、わたしは大演説がしたくなる。だが演説だとか議論だとかは、或る場合にのみ限られたる単なる生活上の方便であると思ふのだ。
それにしてもわたしは、ひとりで春先の酒に溺れてゐるといふわけではない。「陶然――」とか「胡蝶――」とか「夢想――」とかといふ、言葉でいふと見るからに泰平なる逸民の、あはれな夢とも見紛ふけれど、凡ゆる現実の、非常なる、不幸と、宿命の星に洗はれたるエレヂイの桟道を這つて、島の磯方に行き倒れた在りのまゝなる吾身の夢に髣髴とするのは、人もなく、運命もなく、意外にも、さながら春の酒に酩酊して、胡蝶の影がちらちらとする態の、わけもない孤独のうつゝに過ぎず、こんな寧ろ、云はゞ健全なる Kinic 的なる経験を積んでゐても、経験などといふものは途方もなくツマラナく、創作の要は、結局おのれの、「ピグメリアン」を育てるより他に希望はないとおもふのである。風来の犬儒派に、何うして「嚢中已有銭」などゝいふ大層な歌がうたへるものよ。陶然たるものを夢見ようと、夙に白面なる眼を挙げて灯台のあかりなどを見あげてゐる静かなる浅春の島の夜半に過ぎない。
底本:「牧野信一全集第六巻」筑摩書房
2003(平成15)年5月10日初版第1刷
底本の親本:「文藝通信 第三巻第四号(四月号)」文藝春秋社
1935(昭和10)年4月1日発行
初出:「文藝通信 第三巻第四号(四月号)」文藝春秋社
1935(昭和10)年4月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年9月30日作成
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