そのとき、たしか、永井龍男君と井伏鱒二君と堀辰雄君と小林秀雄君とに私は誘はれて、恰度うらうらとするこのごろのやうな長閑な日の夕暮時に銀座の方から、須田町の万惣にあつまつた。そこで私は、小野松二君にはぢめて会つた。小野君の名前は「1928」といふ雑誌で知つてゐた。小野君の編輯で、新しい雑誌が計画され、その題名についての相談だつた。私は丁度その月に、小田原からずつと離れた田舎を発つて、麹町に下宿を決めてゐて、久し振りの東京が陽気のせゐもあつたか見るもの聞くもの、会ふ人ごとが爽やかに感ぜられて、ネクタイばかりをとりかへては出歩いてゐた。あのころのことはいつも本誌と一処に、印象的にいろんなことが思ひ出される。
「……やはり、「作品」で好いぢやないか、それが好いと思ふがな……」
 永井君が左う云つたのを覚えてゐる。おそらく前々からの相談のつゞきであつたに相違ない。私は飛入りのやうな感じで、遠慮深くソーダ水を吸ひながら、好ささうな題だとおもつた。
 そんなやうなことから私は、雑誌が出はぢめると多少の同人めいた自惚れをもつたりして、何か書いたり、時には会合にも出たが、更に更に流転状態が荒々しくなり、誠意を示すまでには至らなかつた。でも何処に住んでも雑誌を手にする度に、いつも特異な斬新なものを、何か身をもつて感ずるといふ風な愉快を覚えさせられた。もう、それが五年にもなるかと知り、自分をおもふと呆気にとられるのであるが、この雑誌の成長と、あのころ知合つた人達の上を思ふと、大した時日だつたと考へられるのだ。
 この雑誌がいろいろな危期に相遇した当時のことも知つてゐるが、終始一貫たる質実なる清新味をもつて、凡てに打ち勝ち、着々とここまですすんで来てしまつた上は、もはや厳たるもので、これは偏へに、真摯至極なる小野松二氏の功蹟であり、且つは同氏の凜然たる風格の然らしめたものであると、畏敬してゐる次第である。

底本:「牧野信一全集第六巻」筑摩書房
   2003(平成15)年5月10日初版第1刷
底本の親本:「作品 第六巻第五号(五月号)」作品社
   1935(昭和10)年5月1日発行
初出:「作品 第六巻第五号(五月号)」作品社
   1935(昭和10)年5月1日発行
※題名の〔〕は、底本編集時に与えられたものです。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年9月30日作成
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