道夫は友達の好き嫌ひといふことをしなかつたから、誰とでも快活に遊び交はることが出来た。従つて随分沢山な友達があつた。然し道夫がその大勢の友達の中で、真実自分の心の友である、と思つて居るのはたつた一人の沢田だつた。どういふものか道夫は沢田が好きだつた。沢田といふ友達を広い世間から見出した事は、それが偶然であればある程、道夫は自分を幸福だと思はずには居られなかつた。沢田を知らなかつた日を思ふと、現在に比べてそれがどの位淋しいものであつたかといふ事すら、ちよつと考へても直ぐ比較がとれた。兎に角道夫と沢田は黙つて居る儘で、「永久の味方」を得たと、互ひに思ふ事が出来た。
 A中学が中学野球界に覇を保つて居るのは、投手の沢田と捕手の道夫との力に在るのだつた。それは誰でもが認めて居た。然しその二人のうちどつちかゞ欠けたならば、沢田は道夫を相手として働く程の効果を現すことは出来なかつたし、道夫もそれと同じであると思つて居た。二人の意気がぴつたりと合つて居たからである。二人は二人の力を合せて完全な一つの力を作ることが出来たのである。――だからそれは野球の時ばかりではなく、沢田と道夫とは離るゝことの出来ない友達なのである。
 その沢田が突然学校を止めなければならない事情になつた。家が遠方へ越さなければならなかつたのである。学校ではどの位沢田ををしむだか解らなかつた。選手仲間は勿論、野球好きの生徒達は皆暗涙にむせむだ。誰も云ふべき言葉を知らなかつた。――道夫は捕手の任を辞すると云つた。道夫の申出は原因が解つて居ることなので、これにも誰一人異議を唱へる事が出来なかつた。
「沢田君が居なくなると僕は野球ばかりぢやない――動くのも嫌だ。それは我儘で云ふのではない。――僕は沢田の球でないと受けとれぬと同じやうに、沢田が居ないとその日の送りようがないのだ。」と道夫は涙を流して云つた。
 校舎の裏の椿の花は冷い冬の下に、――丁度沢田と道夫の涙のやうに、悲しげにぽつりぽつりと咲いて居た。風もないのに花は地面に落ちた。落ちる瞬間黄色い花粉が太陽の光にパツと散つたのを二人は見た。そんな細いものが見えた程二人の心は悲しみの底に沈んで、静まつてゐた。
「僕は君と別れると思ふと――嘘のやうに思はれてならないよ。今迄こんな事にならうなどとは考へもしなかつたからね。」
「二人が余り仲が好過ぎるために、二人がこんな意久地無しになつてしまふのだが――何だか僕は――君と離れて遠い土地で暮さなければならない僕のこれからの日は、真暗になつたやうな気がするんだ。」
「残される僕だつて同じ事だよ。」
 椿の葉蔭では目白が鳴いて居た。涙だけは二人ともこらえたが、二人の眼差は濡れた月のやうにうるむで居た。
「おや君達はこんな処に居たのかえ。随分探したぜ、もうすつかり用意が出来たのだ。さあ行かう。」
 岡田が二人を迎へに来たのであつた。
「あゝ失敬したね。」と沢田と道夫は同時に云つた。さうして強いて晴れやかな元気のいゝ微笑を示した。
 その日、沢田の為に送別茶話会を寄宿舎で開くことになつてゐた。
 沢田を送る一日を、最後の幸福の日として道夫は、出来るだけ元気をつけて送別にふさはしい空気の中に身を置かうと願つた。
 茶話会は夕方の五時頃に終つた。沢田を取巻いて五六人残つた友達が一処に学校の門を出た。残つた者は、口にこそ出さなかつたが、一様に未だ沢田と別れ兼ねて居るので、道夫が、
「今日は幸ひ土曜日だからこれから皆で僕の家へ行つてお別れに話さうか。」と提言した時に、待構えて居たかのやうに他の者は賛成した。夜は静かに訪づれた。道夫の室は明るい灯に輝いて居た。野球団の運命に就いて語つたり――話は自然に延て未来の日を夢見るやうな話をしたりした。――が親愛な勇士を送るといふ哀れがだれもの胸にもひそむで居たから、直ぐに其処は寂しい冬の夜に囚はれとなり勝ちであつた。
「もう今になつてそんなに考へたところで始まらない――何かして遊ばうや。」と道夫は自暴やけに似た口吻で口走つた。
 然しトランプのキングも王剣をふるはなかつた。歌留多の読手も声が続なかつた。その中沢田がふと道夫の机の上にある「少年」の新年号に眼を附けた。
「双六をしようか。」と云つた。
「それがいゝ/\。」と道夫が投げるやうに答えた。
 世界統一夢双六が一同の並むだ視線の前に朝日の如くにひろげられた。道夫の母が懸賞だと云つて種々なものを呉れたので、第一の上りの者がそれを取ることに定めた。

 世界統一に単独で旅立つた少年の名前を今こゝに仮名して勇少年とします。こゝ迄お読みになつた諸君は新年号の双六の画面をはつきりと思ひ出して下さい。でなければ本箱の中から出してもう一度よく見て下さい。それを見ながら、この先を読むで行けば一層興味が湧くだらうと、作者は思ひます。

 一つの賽ころに満身の運命を占つて――彼等は一所懸命に先を争ひ始めた。各々がたつた一人の主人公の勇少年になつた気持で進むだ。つまり皆の魂が動いてゐるとしか思へない画中の勇少年に乗移つてゐたのであつた。南極へ着いたものは自分がペンギン鳥と踊つてゐる心になり、シヤムに行けば象の鼻をねじり倒した画は自分の活動と思ひ、クルツプやモスコウ、イルクツク、ニユーヨークなどは、ほんとに腕に力が入つた。ドーバー海峡では体が宙を飛び、ウラル山やイタリーでは胸のすく程晴々しい喜びが雲のやうに湧いた。三振でふりだし戻りは、誰でも閉口した。が、それも勇少年と自分との区別がなかつたから、更にウラジオ行の日章旗を翳して、出発の新しい希望が湧いて又奮起するのであつた。
 おのづと画面は緊張して来た。各自の勇少年が各自強い信仰と希望とで全世界を踏破してゆかうとしてゐるのだから――若しこの様子をどこかで神様が見てゐたとしたら、神様は「随分大勢の勇少年が現れたものだ。」と驚いたに異ひなかつた。
 双六の上の希望は――いつか皆を広大なほんとの世界の上への理想に導いて行つたのである。寒い夜も忘られたやうに美しい争闘の中に更けていつた。
「ヤツ! 上り! 沢田君!」と道夫が大きな声で叫んだ。
「ヤツ、上りだ!」一同の口から同じやうに叫ばれた。で沢田を除いた他の者は突然夢から醒めたのだつた。

 こゝで作者はもう一度諸君に注意します。双六の上りの個所をよく瞶めて下さい。勇少年の輝いた胸と晴れやかな顔と、さうして少年の周囲まはりで声張上て万歳を唱えてゐる少年達の表情をよく見て下さい。

「万歳だ!」と道夫が云ふと他の者も、画の中の歓迎の少年達と同じ心になつて沢田の為に万歳! と云つた。
 沢田の夢は正夢だつた。沢田が勝つたことで他の者は――自分が今迄勝ちたいと思つてゐた希望を容易に棄てることが出来、偶然にも沢田が勝つてよかつたと思つた。別れてゆく沢田の未来にとつて何となく幸運のしるしのやうに思はれたからである。神様が沢田と共について行つて下さるやうな安心を、ふとその時道夫は得た。

          *

「世界は広いのだ。活動の舞台は大きいのだ。」
「暫くの別れは互の希望の門出で、幸福の緒口いとぐちなのだ。」
「僕はどこへ行つても君と共に野球をしてゐると同じ気持で暮すよ。真心と真心はどんな遠くからでも通ずるのだもの。」
「さうだボールを投げ合つたやうに、心と心とを投合つて暮してゆかう。」
「僕等は世界といふ大きなスタンドに立つて野球をしてゆかう。」
 これ等の言葉は、沢田が出発の朝停車場で道夫と堅い握手の許に取交した会話の一端である。

底本:「牧野信一全集第一巻」筑摩書房
   2002(平成14)年8月20日初版第1刷
底本の親本:「少年 第一九八号(銀世界号 二月号)」時事新報社
   1920(大正9)年1月8日発行
初出:「少年 第一九八号(銀世界号 二月号)」時事新報社
   1920(大正9)年1月8日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年3月10日作成
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