ある時は――
 苔のない心
 うれしい心
 くもつた心――悲しい心。

          *

「つまらないの?」と、光子は自分が余り熱心に舞台に気を取られてゐるので、此方に気の毒な気がしたのだらう、軽い笑顔を作つて、突然此方を振り向いて云つた。自分は居睡りの真似をしてゐた。若し光子がその時――もう一秒間その儘の笑顔を保つてゐたら、自分は屹度「つまらなかないよ。」と悦びさへ感じて、義理にも答へたであらうが、光子は眼ばたきひとつしないで、またぢつと舞台を瞶めてゐるので、
「あゝ、つまらない。」と答へた。彼の声が腹の底で低かつたので光子には聞えなかつたのかも知れない、光子は此方などには頓着なく(それも仕方がないとは思つたが、)一心に向方むかうを見て居るので、「チエツ」と自分は思つた。軽い失望と嫉妬と滑稽さとを感じた。
 つい以前、光子と二人で近所の活動写真を見に行つた時、その時の写真は召集令といふ出征軍人の家庭を写した悲劇だつた、初めに召集令の降るべき村落の景色が映つた、畑を耕す無心な農夫、さんさんと流るゝおだやかな川、「やがてこの静かな村にも召集令は降るのであります。」と弁士が轍の軋るやうな詠嘆的なイヽ声色で叫んだ時、見物人はひとりも拍手しなかつたが、自分は突然ホロリとした。芝居なんか大嫌ひだ、くだらない、と自分は常々光子の芝居好を苦々しく云つてゐたのだつたが「何だい、活動を見て泣いたくせに。」と、反つて侮辱されて仕舞つて、然し自分は自分のその心持を説明するのは他合もなかつたけれど、虚栄心の強いハネツ反りの光子では到底駄目だ、とあきらめてゐたので、――。
 黙つて芝居のお供はしたが、それに、「妾あの役者に恋したわ、だつて全く綺麗だわ。」などと云ふことに依つて此方の愛と嫉妬を脅迫するやうなことを直ぐ光子は云ふので、と自分は思つたので仕方がなく顔を上げて舞台を見た。
 舞台では×右衛門の三千歳と△左衛門の直次郎とが盛んにあだつぽいしぐさを演つてゐた。見物席は一塊の大きな呼吸器になつたかのやうに静まつてゐた。吐息の隙を狙つて「×○屋ツ。」と声が掛つた。若しかゝる素晴しい大声を往来で発したならば優雅な士女は気絶するであらうに、その時だけはその大きな声が極めて自然のものとして許される。
「いゝわね。△屋。」と光子が云つた。然しその時には自分も光子の存在を忘れて居た程、舞台に熱心になつてゐたのに気が附いた。自分は役者のしぐさを透して、それとは非常に掛け離れた荒唐無稽な幻に酔つてゐたのだつた。で一分間前の光子と自分との位置が転換された如く、光子には映つたかも知れない位だつた。
 光子は袂の下からそつと此方の手を握つた。自分はその手を指先でピンとはじいた。
「怒つてゐるの?」
「怒つてやしないよ。」
「面白い?」
「あゝ。」自分は光子の言葉に対して極めて消極的な調子で、「少し面白くなつて来た。」と云つた。
「そら御覧なさい。」光子は誇るやうに云つた。
「うるさいよツ。」自分は光子には眼もくれなかつた。
「いゝわよ。」とまた光子は手をもつて来た。
「うるさいツてえば。」
「なぜ。」
「……ツ。」
 光子はまるで芝居を見てゐなかつた。かうなると光子の方が相手に対して忠実なのかしら、と自分は思つた。光子と自分とどちらが馬鹿だか解らないやうな気がした、心では光子ばかりを相手にしながら態度だけ一心に舞台を眺めてゐる自分の腹には矢張り光子を遠回しに脅迫してゐる心のあるやうな気がした。自分は、自分が不愉快になつた。
 間もなく二人とも芝居が面白くなくなつて、途中で出た。と、自分は手持ぶさたな気がしてきて、出て仕舞つた事を後悔して居た。
「今夜妾の家に宿らないの?」と光子が歩きながら云つた。晩春の宵で、橋の瓦斯灯が滲んだ影の下で、光子の微笑が非常に美しく映つた。

          *

 ふと、光子を思ひ出したら、そんな光景が彼の眼の前に現れたが、もう別れてから五年も経つと左程悲しくもなく、その幻を追ひ度くもなかつた。どうしてゐるか、などと思ふ程ももう光子の影は彼の心に印してゐなかつた。事実彼は、今小説を書かうと思つてペンを持つた時、筆が運ばなかつたので窓から海を眺めてゐたら、ふと光子を思ひ出したのだつたが、窓を閉めて再び机に向つた時は、もう光子の事は考へてゐなかつた。
 彼はペンを執つて坐つた。彼は、ある恋愛事件を取扱つて、既にその構想は十分に練つた後で、ちよつとした長篇を書く心組なのである。
 彼達は創作を発表する為に、毎月自分達の手で同人雑誌を発行してゐた。発表に就いては各自の自由に任せて、出来上つた者だけが何時でも勝手に載せるといふことになつてゐたが、初めの中こそは殆ど理想通りに行つたけれど、間もなく編輯者は原稿の不足を見るやうになつて必然的に彼等が最も嫌つて居るところの「約束」を作らなければならなかつた。で、同人が寄り集るとその譴責やら弁解が盛んに交換されるやうになつた。「雑誌をやらなければ誰だつて書きはしないからな、どうしてもこの雑誌は吾々に取つてなくてならないものだ。」と或時同人の一人が云つた時「ウン、まつたくだ。」と彼は答へた、何故なら彼は「××さんは三十幾つかになつて始めて書いたのだ。吾々は決して無理に書く必要はない。書ける時期が来れば自然に書ける、その時こそほんとのものが出来るのだ。それよりもぢつと考へよう、勉強しよう、さうして時期を待たう。」と別の人が云つた時、自分には四十迄待つても決してそんなよい時期は来さうにもないと思はれたからである。
 然し彼は、意気込だけは素晴らしいものだつたが、いざペンを執つて見ると、どう手を着けて行つていゝか迷はずには居られなかつた。書き度いと思ふことはいくらでもあつた。彼にとつては、どれでもが同じやうに面白く同じやうに価値があつて、「書く」といふ一つの断定を降すことに骨が折れた。
 今更になつて来月に延ばさうといふことは許されないことだつた。同人と顔を並べて出したいといふ気にも追はれてゐた。「約束」に対して妙な矛盾を感じもしたけれども、それが為のそれだけの自由と希望とは嬉しいものに違ひなかつた。
 彼は堪らなく焦れ度くなつた。

 旅行だとか散歩だとかといふことを余り好まない彼も、この時だけはさういふことの嫌ひである心の投場のないのに弱らせられた。一二枚書き出した原稿を破いて仕舞はうか、と思つて更めて手に取つて見ると、破くにも当らない、と思はれるので、またもとの通りに置いたが、頭はいつの間にか全々空虚になつてゐて到底それを書き続ける程の勇気はなかつた。よくそんなくだらない事を書かうとなどした、と思はれたと同時に、その書き足しに順当する通りな筆は、もう考へられないやうな気がした。(彼は自分の旧作を後になつて見る毎にかういふ気がするのだつた。)
 彼はペンを置いてまた海の上を眺めた。――別に何も考へて居なかつた。

 此間中両親が彼によく結婚をすゝめたのだつたが、その原因が余りに単純なやうな気がして、悪いとは思ひながらも個人的な反感とちよつとした虚栄心で「まだ当分見合せて置きます。」と、キツパリ断つた自分なのに、
 と、彼はふと思ふと、こんな時には、といふ気もして、恋人でなくても結婚してしまつた方がはるかによかつた、と可成り強い後悔を感じた。惚れようと思へば後からでも強制的に惚れることは自分に取つては大した努力ぢやないのだから、などと彼はその後悔の念を裏附けるやうな心などを強ひて起して見ると、容易にその恍惚に入ることが出来た。――。
 彼はその儘行儀悪くふんぞり反つた。

 天井に蠅が一匹止つてゐた、凝と止つてゐた。
 蠅は時々両脚で両翅をしごいた。眼玉をクリクリと動かして片方の脚でそれを撫でた。海の上からは蒸汽船のガバガバといふ響きが聞えて、陽春のねつとりした外光が天井にまで映えてゐた。
 ――もうやるぞ、と彼が思ふと間もなく蠅は脚を動かした。その予感と蠅の運動とがピツタリと出遇つた時に、彼は微笑を洩したい程な満足を感じた。――ふと彼は、蠅はイヤだらうな、といふやうな気がした。

 彼は紙のまるめたのを蠅をねらつて投げ附けた。蠅はひとたまりもなく逃げ去つた。逃げなかつたら彼はもう一度やつたに違ひない、(子供のやうな軽い残虐と、命中を無意識に望むだらしかつた。)が、投げ附けた紙が畳に落ちて蠅の姿が見えなくなつた刹那には、「いつそ結婚の話を此方から持出して見ようかしら。」と、思つてゐた。――然し此間断然と云ひ切つた以上に「近頃の若い者は俺達の時分とは違つて仲々考へてゐる。」とまで父に反つて感心されて仕舞つた程だつたのだから、欲しいのなら恋人を探し出さなければならない、と思ふと、恋人から此方も恋人として許される程な感傷的な恋は出来さうもない、その位ならばいらない――では何故貴様は両親のすゝめる結婚を断つたりしたのか、などといふ事を考へてゐた。

 これだけ書くと、こゝに可成の時間があり、彼のイライラした気持が可成強いやうにも見ゆるが、実際はほんの三四分で、それに依つて彼の心が強く動揺した程のものではなかつた。それは、彼がその時突然素晴しく大きな声で「わしが国さあーで」と歌つても彼のその瞬間の挙動と心に少しも不自然ではなかつたし、余り大きな声で階下の者が吃驚するだらう、と気附いて、起上つて再びペンを取つた時には専念、書かうとする小説のことばかりを思つてゐた、のでも解る。
(九年五月)

底本:「牧野信一全集第一巻」筑摩書房
   2002(平成14)年8月20日初版第1刷
底本の親本:「十三人 第二巻第七号(七月号)」十三人社
   1920(大正9)年7月1日発行
初出:「十三人 第二巻第七号(七月号)」十三人社
   1920(大正9)年7月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年5月26日作成
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