一郎は今迄しきりに読んでゐた書物から眼を放すと、書斎の窓を開いて庭を眺めた。――冬枯の庭は、どの木も寒さうに震へてゐるかのやうに見えた。南天の実の紅色だけが僅かな色彩で、冬の陽に映えてゐるばかりだつた。空はよく晴れてゐて、時たま何処かで百舌の声などがキーキーツと絹地でも引き裂くやうに鳴き渡ると、空の彼方までそれが長い糸のやうな余韻を残して消えて行つた。風もないのに木の葉がハラハラとこぼれて来た。ふと、その様を見ると、一郎は涙が胸まで込み上げて来るのを感じた。
 それは、つひ一日前の日の事だつた。昼休みの時間に機械体操につかまつて、もう少しで出来かゝつてゐる「中振り」を一所懸命に練習してゐるところへ組長が来て、
「君はこゝに居たのか、さつきから随分探したぜ。実はS――先生が君に用事があるから直ぐ来い、と伝へられたのだ。すぐに行つて呉れないか。」と云ふのであつた。
「僕に用事だつて? をかしいな! 何だらう。」先生の用事と云ふと、それに昼休みに呼ばれるといふのは、大概叱られることにきまつてゐる……と、一郎は思つたから、可成り厭な気持がして、服に着いた砂をはらひながら、もう一度「ほんとに僕なのか?」と聞き直した。――いろいろと何か叱られるやうな原因がありはしないかと考へて見たけれど、どうしても心当りはなかつたので、妙な気がした。
「さうだよ。」と組長は云つた。
 クラスの中で一番の悪戯者いたづらものだと睨まれてゐるのは一郎自身にもよく解つてゐるので、先生と口をきく時は叱られるときより他には決して無かつたので。――この日は全く自分にはどう考へて見ても叱られるやうな原因は思ひ出せなかつたが――それでも「先生」と聞くと不安でならなかつた。
 教員室へおそるおそる入つて行くと、S――先生だけが一郎の来るのを待つてゐたと見へて、ひとりポツネンと煙草を吸つて居た。一郎は先生の側に立つたが、先生はわざと知らぬ振りでもしてゐるやうに、此方を見もせずに煙草を吸つてゐる。で、直ぐに一郎は、先生が如何に気嫌を悪くしてゐるかを知つたが、それにしてもその罪が自分のどこにあるのか思ひも当らなかつた。
 稍暫くたつて――(その間一郎は、用事があるからと呼んで置きながら、来て見れば黙つてゐるとは……とばかげた気持がしてゐた時)――漸く先生は、屹と此方を睨めて、
「お前だらう、黒板にイタヅラ書きをしたのは――」と云つた。
「えツ……」一郎は、思ひも寄らぬ事だつたのでびつくりした。すると、弁解の余地がないので困つてゐるのだ。悪戯の図星を指されて――とでも思つたのだらう、先生はもうその罪が一郎であるといふことに見極めが付いたものゝやうに、勝手に、
「何故お前はあんな悪い事をしたのだ。」と云ふのであつた。一郎の弁解などは待たずに、かう高びしやに出られると、一郎はわけもなく口惜しくなつて、言葉を出すことさへ出来ず、黙つて下を向いたのは――涙が出さうになつたからなのであつた。――此方の言葉を聞きもせずに勝手な断定を下して、おまけに此方に答弁の間も与へずに、一概に、「さあ罪に服せ。」と云はん許りの先生の態度が、残念で堪らなかつたのだ。後になつて考へて見れば、自分がしたのでもないのに怖るゝ処のある筈はない、と思はれたのに、さうしてその時も自分の意志はその通りだつたのに――どうしても、どうしても口を開くことが、出来なかつた。この態度を見て、先生はいよいよその罪が一郎にあるものだ、と定めて、
「では、謝つたらよからう、何故黙つてゐるのだ、早く謝らないか。」と云ふのだつたが、とても謝る気などは勿論起らなかつた。――これは自分の弱い心で、自分が黙つてゐるばかりで余計に先生の感情を害してしまふのは、その罪とがにも増して悪いことだ、と思つたので、一郎はやうやく、
「それは私ぢやありません。」と云つた。すると先生は、今頃になつて弁解などを始めやがつた、と云はんばかりに却つて怒の色を強くして、
「何!」と、鋭く云つた。「それなら何故今迄黙つてゐたのだ。」
 また、一郎はこれに答へるのが厭になつて了つた。――到々先生は一郎を伴れて教室の黒板の前に来た。ところで、黒板を見ると、一郎はもう少しで笑ひ出してしまふところだつた。先生の似顔が大きく描いてあるので、然もそれが先生によく似てゐる。「これぢや先生が怒るのも無理はない。」と思つた。
「お前より他にこんな悪戯をする者はない。さあどうだ。……これでもか。」と云はんばかりに、先生は怖ろしい顔をして一郎を睨めた。先生が怒れば怒る程、その顔が黒板のポンチとよく似て来るので、一郎はどうしても顔を上げて先生に弁解することが出来なかつた。
「ヨシ、もう何も尋ねる必要はない、修身点は落第だからそのつもりで居ろ!」
 その声でハツとして一郎が顔を上げると、もう先生はツカツカと先方むかふへ行つてしまつた。一郎はぼんやりと先生の後姿を見送つてから、今度は沁々と黒板の先生の顔を見た。顔の側に「これはS――先生の肖像なり。」と書いてある字が、一郎の手蹟にそつくりだつた。自分が今、飽くまでも能弁に返答したならば、絵のうまいのは自分とその漫画を描いた当の者だけより他はないので、彼にその罪が戻つたに違ひない――と一郎は思つた。
 この前日のその事を考へると、一郎は今、明日の試験の下調の勉強がどうしても手につかなかつた。
 木の葉はハラハラと散つてゐた。――この時一郎は、ふと次のやうな言葉を胸で吐いた。
「自分は余りに小胆すぎるのだ、もつと大きなところへ心を向けたならば、こんなことは悲しむ程のことではないではないか。その罪から自分が容易に追はれたとて先生の感情だつてあれ以上に和ぐものではあるまい。却つてもう一人の者をせめる為に、再びあのやうな不愉快な時が繰り返されなければならないだらう。」
 かう思つて見ると、今迄悲しい心で眺めてゐた木の葉が、散つてゐるのも、何となく晴れやかで、却つて「冬の日の悦び」さへ感ぜられた。
 翌日学校へ行くと、一郎の行くのを待ち構へてゐた村田(実際に悪戯書をした一郎の親友)が駆け寄つて来て、
「君、昨日は済まなかつた。僕は組長からあの事を聞いて驚いて、直ぐに先生の所へ行つてすつかり詫びて来た。済まなかつたね。」と云つた。
「それよりも、あの絵はほんとに上手に描けてゐたよ、君の腕にはとてもかなはないと思つて、内心僕は羨んだぜ。先生のことなんか別として。」
「ハヽヽヽヽ。」
「ハツハツハ。」と二人が大きな声で笑ふと、凭りかゝつてゐた木が揺れてバラバラと葉が散つた。
「先生もすつかり機嫌が治つてしまつた。」と村田は云つた。
 どつちにしろその罪はどこかに残るものだ、と一郎が思つてゐたことが、先生の胸にも二人の胸からも綺麗に拭はれてしまつたことが快かつた。それとは別に、一郎は、村田が描いたS――先生の似顔絵のうまさが、いつまでたつても忘られなかつた。

底本:「牧野信一全集第一巻」筑摩書房
   2002(平成14)年8月20日初版第1刷
底本の親本:「少年 第二〇九号(新年号)」時事新報社
   1920(大正9)年12月8日発行
初出:「少年 第二〇九号(新年号)」時事新報社
   1920(大正9)年12月8日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年3月10日作成
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