火山や地震は強敵である。強敵を見て恐れずとは戰爭だけに必要な格言でもあるまい。昔の人はこれらの自然現象を可なり恐れたものである。火山の噴火鳴動を神業と考へたのは日本ばかりではないが、特に日本においてはそれが可なり徹底してゐる。まづ第一に、噴火口を神の住み給へる靈場と心得たことである。例へば阿蘇山の活動の中心たる中岳は南北に長い噴火口を有し、通常熱湯を湛へてゐるが、これが數箇に區分せられてゐるので北の池を阿蘇の開祖と稱へられてゐる建磐龍命の靈場とし、中の池、南の池を、それ/″\奧方の阿蘇津妃命、長子たる速瓶玉命の靈場と考へられてあつた。丁度イタリーの南方リパリ群島中の一火山島たるヴルカーノ島をローマの鍛冶の神たるヴルカーノの工場と考へたのと同樣である。更に日本では、火山の主が靈場を俗界に穢されることを厭はせ給ふがため、其處を潔める目的を以て時々爆發を起し、或は鳴動によつて神怒のほどを知らしめ給ふとしたものである。それ故にこれ等の異變がある度に、奉幣使を遣して祭祀を行ひ、或は神田を寄進し、或は位階勳等を進めて神慮を宥め奉るのが、朝廷の慣例であつた。例へば阿蘇の建磐龍命は正二位勳五等にのぼり、阿蘇津妃命は正四位下に進められたが如きである。
天台宗の寺院は、高地に多く設けてあるが、火山もまた彼等の選に漏れなかつた。隨つて珍しい火山現象の、これ等の僧侶によつて觀察せられた例も少くない。阿蘇の靈地からは火の玉が三つ飛び出たともいひ、また性空上人は霧島の頂上に參籠して神體を見屆けたといふ。それによれば周圍三丈、長さ十餘丈、角は枯木の如く、眼は日月の如き大蛇なりきと。鳥海又は阿蘇の噴火に大蛇が屡現れるのも、迷信から起つた幻影に外ならないのである。ハワイ島の火山キラウエアからは女神ペレーの涙や毛髮が採集せられ、鳥海山は石の矢尻を噴出したといはれてゐる。神話にある八股の大蛇の如きも亦噴火に關係あるものかも知れぬ。
火山に關する迷信がこのように國民の腦裡を支配してゐる間、學問が全く進歩しなかつたのは當然である。昔の雷公が今日我々の忠實な使役をなすのに、火山の神のみ頑固におはすべきはずがない。火山地方の地下熱の利用などもあることだから、使ひ樣によつては人生に利益を與へる時代もやがて到着するであらう。
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わが日本には火山は珍しくないから、他國に於ても一兩日の行程内に火山のない所はあるまいなどと思はれるかも知れないが、實際はさういふ風になつてゐない。例へば現在活動中の火山は南北アメリカ洲では西の方の太平洋沿岸だけに一列に竝んでをり、中部アメリカ地方では二條になつて右の南北線につながつてゐる。大體太平洋沿岸地方は火山の列を以て連絡を取つてゐるので、わが國の火山列も、千島、アレウト群島を經てアメリカの火山列につながつてゐるのである。その他歐洲にはイタリーに四箇、ギリシヤに一箇有名な活火山があり、その外にはイスランドに數箇あるきりで、北米の東部、或は歐洲の北部にゐる人には、火山現象を目撃することが容易でない。太平洋の中央部、特にハワイ島にはキラウエアといふ有名な活火山があるが、活火山に最も豐富な場所はジャワ島である。こゝには活火山だけの數が四十箇も數へられるといはれてゐる。わが國も活火山には可なり富んでゐるけれども、ジャワには及ぶべくもない。
試みに世界に於て名ある活火山を擧げてみるならば、南米エクワドル國に於るコトパクシ(高さ五千九百四十三米)は、圓錐形の偉大な山であるが、噴火の勢力も亦偉大で、鎔岩の破片を六里の遠距離に噴き飛ばしたといふ、この點に就ての記録保持者である。又その噴火の頻々な點に於ても有名である。
西インドの小アンチル群島中にあるマルチニック島の火山プレー(高さ[#「高さ」は底本では「高き」]千三百五十米)は、その西暦千九百二年五月八日の噴火に於て、赤熱した噴出物を以て山麓にある小都會サンピール市を襲ひ、二萬六千の人口中、地下室に監禁されてゐた一名の囚徒を除く外、擧つて死滅したことに於て有名である。ヴェスヴィオ噴火によるポムペイ全滅の慘事に勝るとも劣ることなきほどの出來事であつた。この時噴火口内に出現した高さ二百米の鎔岩塔も珍しいものであつたが、それは噴火の末期に於て次第に崩壞消失してしまつた。
ハワイのキラウエア火山(高さ千二百三十五米)は、ハワイ島の主峯マウナ・ロア火山の側面に寄生してゐるものであるが、通常の場合、その噴火口に鎔岩を充たし、しかもこの鎔岩が流動して種々の奇觀を呈するので、觀光客を絶えずひきつけてゐる。火山毛はその産物として最も有名である。山上に有名な火山觀測所がある。又觀光客のために開いた旅館もあり、ハワイ島の船着場ヒロからこゝまで四里の間、自動車にて面白い旅行も出來る。
マウナ・ロアは四千百九十四米の高さを有つてをり、わが國の富士山よりも四百米以上高いから、讀者はその山容として富士形の圓錐形を想像せられるであらうが、實は左にあらず、寧ろ正月の御備餅に近い形をしてゐる。或は饅頭形とでも名づくべきであらうか。山側の傾斜は僅に六度乃至八度に過ぎない。これはその山體を作つてゐる岩石(玄武岩)の性質に因るものであつて、その鎔けてゐる際は比較的に流動し易いからである。昭和二年、大噴火をなしたときも噴火口から流れ出る鎔岩が、恰も溪水の流れのように一瀉千里の勢を以て駈け下つたのである。尤も山麓に近づくに從ひ、温度も下り遂には暗黒な固體となつて速さも鈍つたけれども。
スマトラとジャワとの間、スンダ海峽にクラカトアといふ直徑二里程の小島があつた。これが西暦千八百八十三年に大爆裂をなして、島の大半を噴き飛ばし、跡には高さ僅に八百十六米の小火山島を殘したのみである。この時に起つた大氣の波動は世界を三週半する迄追跡し得られ、海水の動搖は津浪として全地球上殆んど到る處で觀測せられた。また大氣中に混入した灰塵は太陽を赤色に見せること數週間に及んだ。實に著者の如きも日本に於てこの現象を目撃した一人である。
ジャワ島のパパンダヤング火山は西暦千七百七十二年の噴火に於て、僅に一夜の間に二千七百米の高さから千五百米に減じ、噴き飛ばしたものによつて四十箇村を埋沒したといふ。恐らくはこれが有史以來の最も激烈な噴火であつたらう。
イタリーで最も著名な火山はヴェスヴィオ(高さ千二百二十三米)であるが、これが世界的にもまた著名であるのは、西暦紀元七十九年の大噴火に於て、ポムペイ市を降灰にて埋沒したこと、有名な大都市ナポリに接近してゐるため見學に便利なこと、凡そ三十年位にて活動の一循環をなし、噴火現象多種多樣にて研究材料豐富なること、登山鐵道、火山觀測所、旅館の設備完全せる等に因るものである。著者が七年前に見たときは、つぎの大噴火は、或は十年以内ならんかとの意見が多かつたが、この年の九月三十日に見たときは、大噴火の時機切迫してゐるように思はれた。或は數年内に大爆發をなすことがないとも限らぬ。
イタリーの地形は長靴のようだとよくいはれてゐることであるが、その爪先に石ころのようにシシリー島が横たはつてをり、爪先から砂を蹴飛ばしたようにリパリ火山群島がある。其中活火山はストロムボリ(高さ九百二十六米)とヴルカーノ(高さ四百九十九米)との二箇であるが、前者は有史以來未だ一日も活動を休止したことがないといふので有名であり、後者は前にも記した通り、火山なる外國語の起原となつたくらゐである。この外イタリーにはシシリー島にエトナ火山(高さ三千二百七十四米)があり、以上イタリーの四火山、いづれもわが日本郵船會社の航路に當つてゐるので、甲板上から望見するには頗る好都合である。もし往航ならば先づ左舷の彼方にエトナが高く屹立してゐるのを見るべく、六七合目以上は無疵の圓錐形をしてゐるので富士を思ひ出すくらゐであるが、それ以下には二百以上の寄生火山が簇立してゐるので鋸齒状の輪廊が[#「輪廊が」はママ]見られる。この山は平均十年毎に一回ぐらゐ爆發し、山側に生ずる裂け目の彼方此方を中心として鎔岩を流し、或は噴出物によつて小圓錐形の寄生火山を形作るなどする、つぎに郵船がメシナ海峽を通過すると、遙か左舷に鋸山式のヴルカーノが見える。更に進むと航海者には地中海の燈臺と呼ばれ、漁獵者には島の晴雨計と名づけられてゐるストロムボリが見える。この火山島は直徑僅に三粁の小圓錐であつて、その北側に人口二千五百の町があり、北西八合目に噴火口がある。火孔は三箇竝立して鎔岩を湛へ、數分間おきに之を噴き飛ばしてゐる。もしそこを通過するのが夜であるならば、吹き飛ばされた赤熱鎔岩が斜面を流れ下つて、或は途中で止まり、或は海中まで進入するのが見られるが、日中ならば斜面を流下する鎔岩が水蒸氣の尾を曳くので、これによつてそれと氣づかれるのみである。この火山の噴出時に於ける閃光は遠く百海里を照らすので、そこでストロムボリが地中海の燈臺と呼ばれる所以である。かくてこれ等の展望をほしいまゝにしたわが郵船はナポリ港に到着し、ヴェスヴィオを十分に見學し得る機會も捉へられるのである。先づ頂上から絶えず噴き出す蒸氣や火山灰によつて直ぐにそれがヴェスヴィオなることが氣づかれるが、それと同時に今一つ左方に竝立して見える尖つた山を見落してはならぬ。山名はソムマといはれてゐるが、これがソムマ即ち外輪山といふ外國語の起りである。地圖で見るソムマはヴェスヴィオを半ば抱擁した形をしてゐる。即ち不完全な外輪山であつて、もしそれが完全ならば中央にある圓錐状の火山を全部抱擁する形になるのである。ヴェスヴィオは西暦七十九年の大噴火前までは、このソムマの外側を引き伸したほどの一箇の偉大な圓錐状の火山であつたのが、あのをりの大噴火のために東南側の大半を吹き飛ばし、その中央に現在のヴェスヴィオを中央火口丘として殘したものと想像されてゐる。ポムペイの遺跡は山の中央から南東九粁の遠距離にあるが、これはその時降りつづいた降灰によつて全部埋沒せられ、その後幾百年の間その所在地が見失はれてゐたが、西暦千七百四十八年一農夫の偶然な發見により遂に今日のように殆んど全部發掘されることになつたのである。ポムペイの滅びた原因が降灰にあることは、空中から見た寫眞でもわかる通り、各家屋の屋根は全部拔けてゐて、四壁が完備してゐることによつてもわかるが、西暦千九百六年の大噴火のとき、僅に三十分間同方向に降り續いた火山灰が、山の北東にあるオッタヤーノの町に九十糎も積り、多くの屋根を打ち拔いて二百二十人の死人を生じたことによつても、うなづかれるであらう。かういふ風の家屋被害と、放射された噴出物によつて破壞せられたサンピール市街の零落とは著しい對象である[#「對象である」はママ]。もし昨日まで繁昌したサンピールの舊市街零落した跡を噴出物流動の方向から眺むれば、殘つた壁が枯木林のように見え、それに直角の方向から見ると壁の正面整列が見られたといふ。
ヴェスヴィオに登山した人は、通常火口内には暗黒に見える鎔岩の平地を見出すであらう。これは絶えず蒸氣、火山灰、鎔岩等を噴き出す中央の小丘から溢れ出たものであつて、かゝる平地を火口原と名づけ、外輪山に對する中央の火山を中央火口丘と名づける。わが富士山の如く外輪山を持たない火山は單式であるが、ヴェスヴィオの如く外輪山を有するものは複式である。
われ/\はこれまで海外の著名な火山を一巡して來た。これから國内にて有名な活火山を一巡して見たい。
有史以前には噴火した證跡を有しながら、有史以來一回も噴火したことのない火山の數はなか/\多い。箱根山の如きがその一例である。われ/\はこの種の火山を死火山或は舊火山と名づけて、有史以來噴火した歴史を有つてゐる活火山と區別してゐる。但しわれ/\の歴史は火山の壽命に比較すれば極めて短い時間であるから、現在死火山と思はれてゐるものも、數百年或は數千年の休息状態をつゞけた後、突然活動を開始するものがないとも限らぬ。これは文化が開けてから餘り多くの年數を經ない場所、例へば北海道などの死火山にはあり得べきことである。
歴史年代に噴火した實例を有つてゐながら、現在噴火を休止してゐるものと、活動中のものとあるが、前者を休火山と名づけて活火山と區別してゐる人もあるけれども、本篇に於ては全部これを活火山と名づけて必要のあつた場合に休活の區別をなすことにする。唯こゝに斷りを要することは噴火といふ言葉の使ひ方である。文字からいへば火を噴くとなるけれども、これは燃える火を指すのではない。勿論極めて稀な場合には噴出せられた瓦斯が燃えることがないでもないが、一般に火と思はれてゐるのは赤熱した鎔岩である。但しこれが赤熱してゐなくとも噴火たることに變りはない。例へば粉末となつた鎔岩、即ち火山灰のみを噴き出す時でもさうである。然しながら單に蒸氣、瓦斯又は硫氣を噴出するだけでは噴火とはいはないで、蒸氣孔又は硫氣孔の状態にありといつてゐる。箱根山は形からいへば複式火山、經歴からいへば死火山、外輪山は金時、明神、明星、鞍掛、三國の諸山、中央火口丘は冠岳、駒ヶ岳、二子山、神山等、さうして最後の活動場所が大涌谷であつて、こゝには今なほ蒸氣孔、硫氣孔が殘つてゐる。
日本に於ける活火山の兩大關、東の方を淺間山とすれば、西は阿蘇山である。中にも阿蘇はその外輪山の雄大なことに於て世界第一といはれてゐる。即ちその直徑は東西四里南北五里に及び、こゝに阿蘇一郡四萬の人が住まつてゐる。但し噴火はこの火口全體から起つたのではなく、周圍の土地の陷沒によつて斯く擴がつたものだといふ。この廣き外輪山の中に幾つかの中央火口丘があるが、それが所謂阿蘇の五岳である。これ等は重に東西線と南北線とに竝列してゐるが、中央の交叉點に當る場所に現在の活火口たる中岳(高さ千六百四十米)がある。この中岳の火口は前に記した通り、南北に連續した數箇の池から成立ち、重なものとして、北中南の三つを區別する。阿蘇はこの百年ぐらゐの間、平均十一年目に活動を繰返してゐるが、それはその三つの池のいづれかゞ活氣を呈するに因るものである。然しながら、稀には外の場所から噴き出すこともある。火口の池が休息の状態にある時は、大抵濁水を湛へてゐるが、これが硫黄を含むために乳白色ともなれば、熱湯となることもある。活動に先んじて池水涸渇するのが通常であるけれども、突然爆發して池水を氾濫せしめたこともある。このために阿蘇郡の南半たる南郷谷の水を集めて流れる白川が文字通り乳白色となり、魚介を死滅せしめることがある。北方阿蘇谷の水は黒川に集り、兩方相會する所で外輪山を破り外方に流れ出る。即ちこの外輪山の破れ目が火口瀬である。箱根山でこれに相當する場所は湯本の早川と須雲川の相會する所である。阿蘇の活動は右の外、一般に火山灰を飛ばし、これが酸性を帶びてゐるので、農作物を害し、これを食する牛馬をも傷めることがある。阿蘇の火山灰はこの地方で『よな』と稱へられてゐるが、被害は單に阿蘇のみに止まらずして、大分縣にまでも及ぶことがある。これは空氣の上層には通常西風があるので、下層の風向きの如何に拘らず、細かな火山灰は大抵大氣中の上層に入り、東方に運ばれるに因るからである。
阿蘇は日本の活火山中、最も登り易い山であらう。國有鐵道宮地線の坊中驛又は宮地驛から緩勾配の斜面を登ること一里半ぐらゐで山頂へ達することが出來る。頂上近くに茶店、宿屋數軒あり、冬季でも登攀不可能でない。但しある意味に於ける世界第一のこの火山に於て一の觀測所をも有しないことは、外國の學者に對しても恥かしく思つてゐたが、今は京都帝國大學の觀測所がこゝに設立されてゐる。
つぎは東の大關たる淺間山(高さ二千五百四十二米、單式火山)を覗いて見ることにする。この山も阿蘇同樣に噴火の記録も古く、回數も頗る多いが、阿蘇の噴火のだら/\として女性的なるに對し、これは男性的であるといつても然るべきである。休息の間隔は比較的に遠いが、一度活動を始めるとなか/\激しいことをやる。現に明治四十一年頃から始まつた活動に於ては鎔岩を西方數十町の距離にまで吹き飛ばし、小諸からの登山口、七合目にある火山觀測所にまで達したこともある。特に天明三年(西暦千七百八十三年)の噴火は激烈であつて、現在鬼押出しと名づけてゐる鎔岩流を出したのみならず、熱泥流を火口壁の最も低い場所から一時に多量に溢れさせ、北方上野の國吾妻川に沿うて百數十村を埋め、千二百人の死者を生ぜしめた。最初の活動に於ては火口内の鎔岩が、火口壁の縁まで進み、一時流出を氣遣れたけれども、つひにそのことなくして、鎔岩の水準が再び低下してしまつたのである。
このついでに記して置きたいのは、飛騨信濃の國境にある硫黄嶽、一名燒岳(高さ二千四百五十八米)である。この山は近時淺間山と交代に活動する傾きを有つてゐるが、降灰のために時々災害を桑園に及ぼし、養蠶上の損害を被らしめるので、土地の人に迷惑がられてゐる。
近頃の噴火で最もよく記憶せられてゐるのは櫻島(高さ一千六十米)であらう。その大正十二年の噴火に於ては、山の東側と西側とに東西に走る二條の裂目を生じ、各線上五六の點から鎔岩を流出した。この状態はエトナ式と稱すべきである。但し櫻島はかういふ大噴火を百年或は二三百年の間隔を以て繰返すので、隨つて鎔岩の流出量も多く、前回の場合は一・六立方粁と計算せられてゐるが、エトナは西暦千八百九年乃至千九百十一年の十回に於て合計〇・六一立方粁しか出してゐない。かくて櫻島は毎回多量の鎔岩を出すので島の大きさも次第に増して行くが、今回は東側に出た鎔岩が遂に瀬戸海峽を埋め、櫻島をして大隅の一半島たらしめるに至つた。かうして鎔岩に荒された損害も大きいが、それよりも火山灰のために荒廢した土地の損害、地盤沈下によつて失はれた附近の水田或は鹽田の損害はそれ以上であつて、鹿兒島縣下に於ける全被害千六百萬圓と計上せられた。
櫻島噴火は著しい前徴を備へてゐた。數日前から地震が頻々に起ることは慣例であるが、今回も一日半前から始まつた。又七八十年前から土地が次第に隆起しつゝあつたが、噴火後は元どほりに沈下したのである。その外温泉、冷泉がその温度を高め、或は湧出量を増し、或は新たに湧出し始めたようなこともあつた。
霧島火山群は東西五里に亙り二つの活火口と多くの死火山とを有してゐる。その二つの活火口とは矛の峯(高さ千七百米)の西腹にある御鉢と、その一里ほど西にある新燃鉢とである。霧島火山はこの二つの活火口で交互に活動するのが習慣のように見えるが、最近までは御鉢が活動してゐた。但し享保元年(西暦千七百十六年)に於ける新燃鉢の噴火は、霧島噴火史上に於て最も激しく、隨つて最高の損害記録を與へたものであつた。
磐梯山(高さ千八百十九米)の明治二十一年六月十五日に於ける大爆發は、當時天下の耳目を聳動せしめたものであつたが、クラカトアには比較すべくもない。この時に磐梯山の大部分は蒸氣の膨脹力によつて吹き飛ばされ、堆積物が溪水を塞いで二三の湖水を作つたが、東側に流れ出した泥流のために土地のみならず、四百餘の村民をも埋めてしまつたのである。
肥前の温泉岳(高さ千三百六十米)は時々小規模の噴火をなし、少量の鎔岩をも流出[#ルビの「りゆうしゆつ」は底本では「ゆりうしゆつ」]することがあるが、寛政四年四月一日(西暦千七百九十二年五月二十一日)噴火の場所から一里程も離れてゐる眉山の崩壞を、右の磐梯山の爆發と同じ現象のように誤解してゐる人がある。この崩壞の結果、有明灣に大津浪を起し、沿岸地方に於て合計一萬五千人ほどの死者を生じた大事件[#ルビの「だんじけん」はママ]もあつたので、原因を輕々しく斷定することは愼まねばならぬ。磐梯山破裂の跡には大きな蒸氣孔を殘し、火山作用は今もなほ盛んであるが、眉山の場合には毫も右樣の痕跡を止めなかつたのである。
磐梯山に近く吾妻山又の名一切經山(高さ千九百四十九米)がある。この山が活火山であることは明治二十六年に至るまで知られなかつたが、この年突然噴火を始めたゝめ死火山でなかつたことが證據立てられた。この際調査に向つた農商務技師三浦宗次郎氏と同技手西山省吾氏が噴火の犧牲になつた。少年讀者は東京上野の博物館に收めてある血染めの帽子と上着とを忘れないようにされたいものである。
東北地方の活火山に鳥海山(高さ二千二百三十米)、岩手山(高さ二千四十一米)、岩木山(高さ千六百二十五米)等がある。いづれも富士形の單式火山であつて、歴史年代に於て餘り活溌でない噴火を數回乃至十數回繰返した。享和年間の鳥海噴火と享保年間の岩手噴火とに於ては、鎔岩を流出せしめたけれども、それも極めて少量であつて、山の中腹までも達しないくらゐであつた。
大島といふ名前の火山島か[#「火山島か」はママ]伊豆と渡島とにある。伊豆の大島の有する火山は三原山(高さ七百五十五米)と名づけられ、噴火の古い歴史を有してゐる。爆發の力頗る輕微であつて、活動中に於ても、中央火口丘へ近づくことが容易である。渡島の大島も歴史年代に數回の噴火を繰返したが、兩者共に火山毛を産することは注意すべきことである。但しいづれも暗黒針状のものである。
北海道には本島だけでも駒ヶ岳(高さ千百四十米)、十勝岳(高さ二千七十七米)、有珠山(高さ七百二十五米)、樽前山(高さ一千二十三米)の活火山があつて、いづれも特色ある噴火をなすのである。その中樽前は明治四十二年の噴火に於て、火口からプレー式の鎔岩丘を押し出し、それが今なほ存在して時々その彼方此方を吹き飛ばす程の小爆發をつゞけてゐる。また有珠山の明治四十三年の噴火は數日前から地震を先發せしめたので、時の室蘭警察署長飯田警視が爆發を未然に察し、機宜に適する保安上の手段を取つたことは特筆すべき事柄である。十勝岳も近頃まで死火山と考へられてゐた火山の一つであるが、大正十五年突然の噴火をなし、雪融[#ルビの「ゆきど」は底本では「きゆど」]けのため氾濫を起し、山麓の[#「山麓の」は底本では「山麗の」]村落生靈を流亡せしめたことは、人々の記憶になほ新たなものがあるであらう。
わが國の陸上の火山を巡見するに當つてどうしても省くことの出來ないのは、富士山(高さ三千七百七十八米)であらう。この山が琵琶湖と共に一夜にして出來たなどといふのは、科學を知らなかつた人のこじつけであらうが、富士が若い火山であることには間違ひはない。古くは貞觀年間[#ルビの「じようかんねんかん」はママ]、近くは寶永四年にも噴火して、火口の下手に堆積した噴出物で寶永山を形作つた。即ち成長期にあつた少女時代の富士も一人の子持ちになつたわけである。やがて多くの子供を持ち複式火山の形ともなり、遂には現在の箱根山の状態になる時も來るであらう。
右の外、日本の近海に於ては、時々海底の噴火を認めることがある。伊豆南方の洋底は航海中の船舶が水柱を望見し、或は鳴動に伴つて黒煙のあがるのを見ることもあり、附近の海面に輕石の浮んでゐるのに出會ふこともある。大正十三年琉球諸島の中、西表島北方[#ルビの「いりむてとうほつぽう」はママ]に於ても同樣の現象を實見したことがあつた。
以上の通り、われ/\は内外の活火山をざつと巡見した。その互の位置を辿つてみると一つの線上に竝んでゐるようにも見え、或は雁の行列を見るようなふうに竝んでゐる場合も見受けられる。かういふ脈が所謂火山脈であつて、最も著名な火山脈が太平洋の周圍に横たはつてゐる次第である。かくして見る時、火山の火熱の原因、或は言葉を換へていへば、火山から流出する鎔岩の前身たる岩漿が地下に貯藏せられてゐる場所は、決して深いものではなく、地表下一二里或は深くて五六里以内の邊らしく想像せられる。再び火山脈を辿つてみると、それが地震の起る筋、即ち地震帶と一致し、或は相竝行してゐる場合が多く認められる。然しながら火山脈を伴つてゐない地震帶も多數あることを忘れてはならない。元來地震は地層の破れ目、即ち斷層線に沿うて起るものが多數であり、さうして地下の岩漿は右の裂け目に沿うて進出することは、最もあり得べきことであるから、右のように火山脈と地震帶の關係が生じたのであらう。
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噴火によつて噴き出されるものゝ本體は、第一に鎔岩であり、これが前身たる岩漿である。岩漿は非常な高い熱と壓力との下に極めて多量の水を含有することが出來るから、外界に現れて來た鎔岩は多量の蒸氣を吐くのである。この蒸氣の擴がる力が火山の爆發力となるのである。それが火口から盛り上つて出る形状は、西洋料理に使はれる菜の花に似てゐるから菜花状の雲と呼ばれる。これには鎔岩の粉末が加はつてゐるから多少暗黒色に見える。それが即ち煙と呼ばれる以所である[#「以所である」はママ]。かういふふうに噴出が烈しい時は電氣の火花が現れる。性空上人が霧島火山の神體と認めたものは以上の現象に相違なからう。
鎔岩は種々の形體となつて噴出せられる。先づ火山灰の外に、大小の破片が抛げ出される。もし鎔融状のまゝのものが地上に落ちる際、ある程度に冷却してゐたならば、空中旅行中回轉運動のために取つた形を維持し、そのまゝ、つむ形、鰹節形、皿形樣の火山彈となり、また内部から蒸氣を吐き出すためぱん形のものとなるのである。
鎔岩の大部分は火口底から次第に火口壁の上部まで盛り上つて遂に外側に溢れ出るに至ることがある。或は外壁の上部に生じた裂け目から出ることもあり、又側壁を融かしてそこから溢れ出ることもある。この流下の際なほ多量の蒸氣を吐き出しつゝあると、こーくすのような粗面の鎔岩となるが、もし蒸氣が大抵吐き出されてしまつた後ならば、表面が多少滑かに固まり、或は繩をなつたような形ともなり、又犀の皮を見るように大きな襞を作ることもある。ハワイ土人はこれをパホエホエ式と呼んゐでゐる。こーくす状の鎔岩は中央火口丘から噴出せられて、それ自身の形體を積み上げて行くことが多い。鎔岩に無數の泡末が含まれたものは輕石或はそれに類似のものとなるのであるが、その小片はらぴりと名づけられ、火山灰と共に遠方にまで運ばれる。
火山毛の成因は一應説明を要する。讀者は化學又は物理學の實驗に於て、硝子管を融かしながら急に引きちぎると、管の端が細い絲を引くことを實驗せられたことがあるであらう。ハワイの火山のように海底から盛り上つて出來たものは、鎔融状態に於て比較的に流動し易い性質を持つてゐることは、前にも述べた所であるが、かういふ硝子質の鎔岩に對してこれを跳ね飛ばすような力が加はると火山毛が出來るのである。歴史のどこかに毛を降らした記事があるが、その中の或場合は火山毛であつたらしく思はれる。寶暦九年七月二十八日弘前に於て西北方遽に曇り灰を降らしたが、その中には獸毛の如きものも含まれてゐたといふ。これは渡島大島の噴火に因つたものである。ピソライトといふ雀の卵のようなものが、火山灰の中に轉つてゐることがある。これは雨粒が火山灰の上に轉つて出來たものに過ぎないのである。火山はまた泥を噴出することがある。ヴェスヴィオの山麓にあつたシラキュラニウムの町は泥流のために埋められたが、この頃は開掘せられてある。天明の淺間噴火に於ける泥流の被害は前に述べた通りである。
火山の噴出物は固體の他に多くの氣體がある。水蒸氣は勿論、炭酸瓦斯、水素、鹽素、硫黄からなる各種の瓦斯があり、或ものは燃えて青い光を出したともいはれてゐる。又これ等の瓦斯の或物は凝結して種々の鹽類となつて沈積してゐることがある。外國の或火山からはヘリウム瓦斯が採集されたといはれてゐる。日本に於てもこれが研究されたけれども未だその實在が認められないようである。もしこれが成功するならば、飛行船用などとして極めて有益であり、火山の利用がこの點に於ても實現することになるのであらう。
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ストロムボリのようにかつて活動を休止したことのない火山や磐梯山の如く極めて稀に、しかし突然な爆發をなす火山は特別として、一般の活火山は、間歇的に活動するのが原則である。即ち一時活動した後は、暫時休息して、或は硫氣孔の状態となり、或は噴氣孔となり、或はそのような噴氣も全くなくなることがある。その休息時間の長短、或は休眠から覺めたときの活動ぶりにも各火山にめい/\の特色があつて、一概にはいへないが、平均期間よりも長く休止した後の噴火は平均の場合よりも強く、反對に短く休息した後の場合は噴火が比較的に弱い。また平均よりも大きな噴火をなした後は休息期が長く、反對に小さな噴火をなした後は休息期が短い。
活火山が新たに活動を開始しようとする時、何等かの前兆を伴ふ場合がある。土地が噴火前に次第に隆起したことは、大正三年の櫻島噴火に於て始めて氣づかれた事實である。恐らくは大抵の場合に於てさうなのであらう。噴火後の實測によつて一般に土地が次第に下つて行くことは既に多くの場合に證據立てられたところである。讀者は餅を燒かれるとき、これに類似した現象を觀察されることがあるであらう。
噴火の間際になると、極めて狹い範圍のみに感ずる地震、即ち局部の微震が頻々に起ることが通常である。地表近くに進出して來た蒸氣が、地表を破らうとする働きのために起るものであらう。地震計を以て觀察すると、かういふ地下の働きの所在地が分るから、それからして岩漿の貯藏されてゐる場所の深さが想像せられる。又さういふ種類の地震と爆發に伴ふ地震との區別も、地震計の記録によつて明らかにされるから、地震計は噴火の診斷器となるわけである。
火山は地震の安全瓣だといふ諺がある。これには一面の眞理があるように思ふ。勿論事實として火山地方には決して大地震を起さない。たとひ多少強い地震を起すことがあつても、それは中流以下のものであつて、最大級の程度を遙かに下つたものである。前に噴火の前後に地盤の變動が徐々に起ることを述べた。最大級の地震ではかような地變が急激に起るのである。火山地方ではその程度の地變が緩漫に起るのであるから、それで火山が地震の安全瓣となるわけであらう。
噴火前には周圍の土地が餅の燒かれてふくらむような状態になることは、既に了解せられたであらう。かような状態にある土地に於て、從來の温泉は湧出量が増したり、隨つて温度も上ることあるは當然である。其他新たに温泉や冷泉が湧き始めることもあり、又炭酸瓦斯や其他の瓦斯を土地の裂け目から出して、鳥の地獄や蟲の地獄を作ることもある。
前に内外の火山を巡見した場合の記事を掲げて置いたが、諸君若し兩方を比較せられたならば、國内の火山作用は概して穩かであつて、海外の最も激烈なものに比較すれば遙かにそれ以下であることを了解せられるであらう。それで噴火の珍現象を收録するには、勢海外の火山に材料を仰がざるを得なくなる。勿論それには研究の行屆いてゐるのと、さうでないとの關係も加はつてゐる。
噴火の前景氣が愈進んで來ると、火口からの噴煙が突然勢を増して來る。もし櫻島のように四合目邊りから裂け目を作り始め、そこから鎔岩を流す慣例を持つてゐるものならば、其裂け目を完全にするために、先づ土砂を吹き飛ばす等の働きをする。愈噴火が始まると菜花状の噴煙に大小種々の鎔岩を交へて吹き飛ばし、それが場合によつては數十町にも達することがある。この際鎔岩は水蒸氣の尾を曳くことが目覺ましい。又菜花煙の彼方此方に電光の閃くのが見られる。この際の雷鳴は噴火の音に葬られてしまふが、これは單に噴煙上にて放電するのみで、地上に落雷した例がないといはれてゐる。或は右のような積極的動作の代りに、噴氣或は噴煙が突然やむような消極的の前徴を示すものもあり、又氣壓の變動特に低壓の際に起る癖のあるものもあるから、活動中或は活動に轉じそうな火山に登るものは、この種の火山特性に注意する必要がある。
噴火が突然に起ると、それが極めて激烈な空氣波動を伴ふことがある。火口近くにゐてこの波動に直面したものは、空氣の大きな槌を以て擲られたことになるので、巨大な樹木が見事に折れ、或は根こぎにされて遠方へ運ばれる。勿論家屋などは一溜りもない。
噴煙に加はつて出て來る火山灰やラピリは、噴火の經過に伴つて、其形状に於ても内容に於ても色々に變化する。千九百六年のヴェスヴィオ噴火については、初日から八日目に至るまでに噴出した火山灰を日々の順序に竝べ、これを硝子管につめて發賣してゐる。正否のほどは保證し難いが、それはとに角こんな些細な事物まで科學的に整理せられてゐることは歎賞に價するであらう。
火口の上皮が一兩日の間に取り除かれると、噴火現象は更に高調して來て、遂に鎔岩を流出せしめる程度に達する。但しこの鎔岩の流出するか否かはその火山の特性にも依るのであつて、鎔岩流出が必ず起るものとも限らない。
融けた鎔岩の温度は攝氏千度内外で、千二百度にも達する場合もあるが、其流動性は、この温度に因つて定まること勿論であつて、同一[#ルビの「どういち」はママ]温度でも成分によつて著しい相違がある。前にも述べた通り、深海底から拔け出た火山の産する鎔岩は流動性に富んでゐるが、大陸又はその近くにある火山から産するものは、流動性に乏しく、噴出物堆積して圓錐形の高山を作るのが通常である。又鎔岩が次第に冷却して來るとどんな成分のものも流動し難くなり、其後は固形の岩塊が先頭の岩塊を踏み越えて前進するのみである。
噴煙が間歇的に起ると、時々見事な煙輪が出來る。丁度石油發動機の煙突上に見るように。
閃弧といふものがある。圖は千九百六年のヴェスヴィオ噴火に於て、ペアレット氏の撮影に係るものである。この現象を少年讀者に向つて説明することは頗る難事であるが、唯噴火の際、發せられた數回の連續的爆發が寫眞に撮れたものと承知して貰ひたい。この珍現象を目撃することさへ容易に捉へ難い機會であるのに、しかもこれを寫眞にとつて一般の人にもその概觀を傳へたペアレット氏の功績は偉とすべきでゐる[#「すべきでゐる」はママ]。
ペアレット氏はストロムボリにて火の玉を見たと稱してゐる。その大いさは直徑一米程であつて青く光つたものであつたといふ。これに似た觀察は阿蘇山の嘉元三年三月三十日(西暦千三百五年五月二日)の午後四時頃、地中から太陽の如き火玉が三つ出て空に上り、東北の方へ飛び去つたといふことがある。現象が極めて稀であるので、正體がよく突き留められてゐないが、電氣作用に基づくものだらうといはれてゐる。ヴェスヴィオの千九百六年の大噴火に於て、非常に強い電氣を帶びた噴煙を認めたこともあり、その靡いた煙に近づいた時、服裝につけてゐた金屬の各尖端から電光を發したことも經驗せられてゐる。
噴火作用中で最も恐れられてゐるのは、赤熱した火山灰が火口から市街地に向つて發射されることである。この事は西暦千九百二年五月八日マルチニック島プレー山の噴火に就て記した通りであるが、サンピール市二萬六千の人口中、生存者は地下室に監禁されてゐた一名の囚徒のみであるので、右の現象の實際の目撃者は一人も生存し得なかつたわけである。然しこの噴火に就いて最も權威ある調査を遂げたラクロア教授は、同年十二月十六日以來數回に亙り同現象を目撃した。同教授の計算によると、火口から打出されてから山麓或は海面に到達して靜止するまでの平均の速さは、毎秒二十米以上であつて、最大毎秒百五十米にも及び、其巨大な抛射物から放たれる菜花状の雲は、高さ四五千米にも達したといふ。さうしてこれが通過した跡には啻に火山灰やラピリのみならず、大きな石塊も混入してゐた。かゝる恐ろしい現象はこれ迄右のプレー噴火に經驗せられたのみであつて、其他の火山に於ては未だかつて經驗されたことがない。
かういふ大規模の噴火も最高調に達するのは數日或は一週間内にあるので、その後は噴火勢力とみに減退して行くのが通常である。
底本:「星と雲・火山と地震」日本児童文庫、復刻版、名著普及会
1982(昭和57)年6月20日発行
底本の親本:「星と雲・火山と地震」日本兒童文庫、アルス
1930(昭和5)年2月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「あそざん」と「あそさん」、「ちようかいさん」と「ちようかいざん」、「台」と「臺」、「岳」と「嶽」の混用は底本のとおりです。
入力:しだひろし
校正:仙酔ゑびす
2012年2月15日作成
2012年5月6日修正
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