日本は地震國であり、又地震學の開け始めた國である。これは誤りのない事實であるけれども、もし日本は世界中で地震學が最も進んだ國であるなどといふならば、それは聊かうぬぼれの感がある。實際地震學の或方面では、日本の研究が最も進んでゐる點もあるけれども、其他の方面に於ては必ずしもさうでない。其故著者等は地震學を以て世界に誇らうなどとは思つてゐないのみならず、此頃のように、わが國民が繰返し地震に征服せられてみると、寧ろ恥かしいような氣持ちもする。即ち大正十二年の關東大地震に於ては十萬の生命と五十五億圓の財産とを失ひ、二年後但馬の國のけちな地震の爲、四百の人命と三千萬圓の財産とを損し、又二年後の丹後地震によつて三千の死者と一億圓の財産損失とを生じた。そして此等の損失の殆んど全部は地震後の火災に由るものであつて、被害民の努力次第によつては大部分免れ得られるべき損失であつた。然るに事實はさうでなく、あのような悲慘な結果の續發となつたのであるが、これを遠く海外から眺めてみると、日本は恐ろしい地震國である。地震の度毎に大火災を起す國である。外國人は命懸けでないと旅行の出來ない國である。國民はあゝ度々地震火災に惱まされても少しも懲りないものゝようである。地震に因つて命を失ふことをなんとも思つてゐないのかも知れないなどといふ結論を下されないとも限あるまい[#「限あるまい」はママ]。實際これは歐米人の多數が日本の地震に對する觀念である。かく觀察されてみる時、著者の如き斯學の專攻者は非常な恥辱を感ぜざるを得ないのである。勿論この學問の研究が容易に進歩しないのも震災國たるの一因には相違ないが、然しながら地震に對して必要な初歩の知識がわが國民に缺けてゐることが、震災擴大の最大原因であらう。實に著者の如きは、地震學が今日以上に進歩しなくとも、震災の殆んど全部はこれを免れ得る手段があると考へてゐるものゝ一人である。
著者は少年諸君に向つて、地震學の進んだ知識を紹介しようとするものでない。又たとひ卑近な部分でも、震災防止の目的に直接關係のないものまで論じようとするのでもない。但し震災防止につき、少年諸君[#ルビの「どくしや」はママ]が現在の小國民としても、又他日國民人物の中堅としても自衞上、はた公益上必要缺くべからざる事項を叙述せんとするものである。
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わが國は地震學發祥の地といはれてゐる。これは文化の進んだ國としては地震に見舞はれる機會の多いからにもよるのであるが、なほ他の一因として明治維新後、わが國の文化開發事業の補助者として招聘した歐米人が、多くは其道に於て、優秀な人達であつたことも數へなければならぬ。事の發端は、明治十三年二月二十二日横濱並にその近郊に於て、煉瓦煙突並に土壁に小破損を生ぜしめた地震にある。この時大學其他の官衙にゐた内外達識の士が相會して、二週間目には日本地震學會を組織し、つゞいて毎月の會合に有益な研究の結果を發表したが、創立數箇月の後、當時東京帝國大學理學部に於ける機械工學及び物理學の教授であつたユーイング博士(現今エヂンバラ大學總長)は水平振子地震計の發明を公にし、ついで翌年には工學部大學校電氣學教授たりしグレー博士の考案を改良した上下動地震計を作り出した。これが即ち現今の地震計の基礎の形式であつて、當今行はれてゐるミルン地震計、大森地震計、ガリッチン地震計、パシュウィチ水平振子など、其構造の要點は皆ユーイング地震計である。實にこの地震計の發明は、それまで極めて幼稚であつた地震學が本當の學問に進歩した基であるので、單に此一點からみても、地震學は日本に於て開けたといつても差支へないくらゐである。それのみならず日本地震學會から出版せられた二十册の報告書は、當時世界に於て唯一の地震學雜誌であつたのみならず、收録せられた材料、ミルン教授等によつて物せられたる多くの論文、いづれも有益な資料であつて、今日でも地震學について何か研究でも試みんとするものゝ、必ず參考すべき古典書である。
それやこれやの關係で、日本は地震學開發の國といはれてゐるのであるが、然し其開發者の重な人々[#ルビの「じんこう」はママ]は外國人、特にイギリス人であつた。關谷教授、大森博士などの加はれたのはずつと後のことである。
明治二十四年十月二十八日の濃尾大地震は、地震學にとつて第二の時代を作つたものである。此頃に於て日本地震學界[#「學界」はママ]は解散の止むなきに至つたが、新たにわが政府事業として起された震災豫防調査會が之に代つた。此調査會の會員は全部日本人であつて、地震學、物理學、地質學、地理學、土木工學、建築學、機械工學等、地震學の理論並に應用に關した學問に於てわが國第一流の專門家を網羅したものであつた。隨つて地震動の性質、地震に損傷しない土木工事や、建築の仕方等についての研究が非常に進み、木造竝に西洋風の家屋につき耐震構造法など殆んど完全の域に進んだ。調査會が大正十三年廢止せられるに至るまでに發表した報告書は和文のもの百一號、歐文のもの二十六號、別に歐文紀要十一册、歐文觀測録六册は、今日世界が有する地震學參考書の中堅をなすものであつて、これ等の事業は、日本地震學會時代に於て專有してゐたわが國の名聲を辱かしめなかつたといへるであらう。
日本に於ける地震學のこれまでの發達は主に人命財産に關する方面の研究であつた。然るに最近二十年の間、歐米に於ける地震學は他の方面に發達した。それは遠方地震の觀測によつて、わが地球の内部の構造を推究する仕方である。少年讀者は、天文學、地理學、地質學、物理學等の應用によつて、わが地球の球體に近きこと、平均密度が五・五なること、表面に近き部分の構造、内部に蓄へられる高熱、地球が一箇の大きな磁石であることなどを學ばれたであらう。又此等の學問の力によつて、わが地球は鋼鐵よりも大きな剛性を有してゐることも分つて來た。即ち月や太陽の引力によつてわが地球が受けるひづみの分量は、地球全體が鋼鐵で出來てゐると假定した場合の三分の二しかないのである。言葉をかへていへば地球の平均のしぶとさは鋼鐵の一倍半である。かういふ風にしてわが地球の知識はだん/\進んで來たけれども、其内部の成立ちに立入つた知識は毛頭進んでゐないといつて宜しかつた。實際地質學で研究してゐる地層の深さは地表下二三里内に横たはつてゐるもの許りであつて、醫學上の皮膚科にも及ばないものである。但し茲に一つの研究の手懸りが出來たといふのは、地球の表面近くから放つた斥候が、地球内部にまで偵察に出掛けそれが再び地球の表面に現れて來て報告をなしつゝあることが氣附かれたことである。此斥候は何者であるかといふと、大地震のときに起る地震波である。實際地震は、地球の表面に近い所に發生するものであるが、ちようど風が水面に波を起すように、又發音體が空氣中に音波を起すように、地震は地震波を起すのである。さうして地震が大きければ大きい程地震波[#ルビの「ぢくんぱ」はママ]も大きいので、これが地球の表面を沿うて四方八方に擴がり、或は地球を一廻りも二廻りもすることもあるが、それと同時に地震波は地球内部の方向にも進行して反對の方面に現れ、場合によつては地球の表面で反射して再び他の方面に向うのもある。但し此斥候の報告書とも名づくべきものは、單に地震波の種々の形式のみであるから、これを書取り其上にそれを讀み取ることを必要とする。これは容易ならぬ爲事であるが、しかしながら單に困難であるだけであつて決して不可能ではない。
地震波の偵察した結果を書き取る器械、これを地震計と名づける。前にユーイング教授が地震計を發明したことを述べたが、これは實に容易ならざる發明であつたのである。讀者試みに地震計の原理を想像してみるがよい。地上の萬物は地震のとき皆搖れ出すのに、自分だけ空間の元の點から動かないといふような方法を工夫しなければなるまい。これは決してさう安々と考へ出せるはずのものではないのであるが、更に其精巧なものに至つては、人の身體には勿論、普通の地震計にも感じない程の地震波まで記録することが出來るのである。特に其中、ゆつくりとした震動、例へば一分間に一糎程を靜かに往復振動するような場合に於ても、これを實際のまゝに書取らしめることが長週期地震計と名づけるものゝ特色である。かういふ地震計で遠方の大地震を觀測すると、その記録した模樣が極めて規則正しいものとなつて現[#ルビの「あらは」は底本では「はらは」]れて來て、今日では模樣の一つ/\について其經路が既に明かにせられてゐる。これによつて地球の内部を通るときの地震波の速さは、地球を鋼鐵とした場合の幾倍にも當ることが分り、又地球の内部は鐵の心から成[#ルビの「か」はママ]り立つてをり、その大きさは半徑二千七百粁の球であることが推定せられて來た。
地震學の今日の進歩によつて、地球の内部状態が分りかけて來たことは右の通りであるが、實際地震學を除外しては、此地球内部状態の研究資料となるところのものが全く氣づかれてゐないのである。さればこそ歐米の地震學者の多くは此方面の研究に興味を持ち、また主力を傾けてゐるのである。實際地震の全く起ることなき國に於ては、生命財産に關係ある方面の研究は無意味であるけれども、適當な器械さへあれば、世界の遠隔した場所に起つた地震の餘波を觀測して、前記の如き研究が結構出來るのである。
前に述べた通り地震學の研究は、便宜上これを二つの方面に分けることが出來る。即ち一つは人命財産に直接關係ある事項、他は地球の内部状態の推究に關係ある事項である。わが國に於ける地震學は無論第一の方面には著しい發達を遂げ、決して他に後れを取つたことがないのみならず、今後に於てもやはり其先頭に立つて進行することが出來るであらうと信じてゐる。然るに第二の方面に於ては、歐洲特にドイツ邊に優秀な學者が多く現れ、近年わが國は此點について彼に一歩を讓つてゐたかの感があつたが、大正十二年關東大地震以來、研究者次第に増加し優秀な若い學者も出來て來たので、最近二三年の間に於ては此方面にも手が次第に伸びて來て、今日では最早彼に後れてゐようとは思はれない。
地震學の應用によつて地球の内部状態が可なりに明かるくなつて來たことは前にも述べた通りであるが、本篇に於ては此方面に向つて、前記以上に深入りしようとは思はない。但し地震の起り樣、即ち地震はいかなる場所に於てどんな作用で起るかの大體の觀念を得るため、地球の表面に近き部分の構造を述べさして貰ひたい。
わが地球には水界と陸界との區別があり、陸界は東大陸、西大陸、濠洲等に分れてゐる。此陸界と水界中に於て特に深い海の部分とは、土地の構造、特に其地震學上から見た性質に於て可なりな相違がある。大陸は主として花崗岩質のもので出來てゐて、大體十里程度の深さを持つてゐるようである。それは下の鐵心に至るまでは玄武岩質のものもしくはそれに鐵分が加はつたもので出來てゐて、これは急速に働く力に對して極めてしぶとく抵抗する性質を備へてゐるけれども、緩く働く力に對しては容易に形を變へ、力の働くまゝになること、食用の飴を思ひ出させるようなものである。さうして深い海の底はこの質の層が直接其表面まで達してゐるか、或は表面近く進んで來てゐて、其上を陸界の性質のもので薄く被ふてゐるくらゐにすぎぬと、かう考へられてゐる。
地球はさういふ性質の薄皮を以て被はれてをり、深海床又は地下深い所は、緩く働く力に對してしぶとく抵抗しないので、地震を起さうといふ力は大陸又は其周圍に於ては次第に蓄積することを許されても、深い海底特に地球の内部に於ては、たとひかような力が働くことがあつても、風に柳の譬の通り、すぐにその力のなすまゝに形を調節して平均が成り立つため、地震力が蓄へられることを許されない。そこで大きな地震は、大陸又は其周圍に於て、十里以内の深さの所に起ることが通常であつて、深い海の中央部、又は數十里或は數百里の深さの地下では起らない。たとひそこに地震が起ることがあつても、それは大きくないものに限るのである。
アフリカ海岸と南米東岸との符号
大陸は現今のように五大洲に分れてゐるけれども、地球が融けてゐた状態から、固まり始めたときには、單に一つの塊であつたが、それが或作用のために數箇の地塊に分裂し、地球の自轉其他の作用で、次第に離れ離れになつて今日のようになつたものと信じられてゐる。讀者もし世界地圖を開かれたなら、アフリカの西沿岸の大きな凹みが、大西洋を隔てた對岸の南アメリカ、特にブラジルの沿岸のでつぱりに丁度割符を合せたようにつぎ合はされることを氣附かれるであらう。このような海岸線の組合せは地球上至る所に見出されるが、紅海の東海岸と西海岸との如きも著しい一組である。もし手近かな例が欲しければ、小規模ではあるけれども、浦賀海峽の左右兩岸を擧げることが出來る。これを熟視されると、兩對岸が相接觸してゐた模樣が想像せられるであらうが、さう接續してゐたと考へてのみ説明し得られる地理學上の事項が、又其中に含まれてゐるのである。
紅海兩海岸の符号
大陸は、譬へば飴の海に浮んでゐる船である。これが浮動を妨げゐるのは深海床から伸ばされた章魚の手である。そしてこの章魚は大陸の船縁を掴んでゐるのである。或極限まではかくして大陸の浮動を支へてゐるけれども、遂に支へ切れなくて或は手を離したり或は指を切つたりして平均が破れ、隨つて急激な移動も起るのである。此急激な移動、これが即ち大地震の原因である。もしかような大移動が海底で起れば津浪を起すことにもなる。
火山作用によつて地震を起すことは、別に説明を要するまでもないことである。又其作用によつても地震が起されることがないでもないが、いづれの場合に於ても、大地震とは縁遠いものゝみである。隨つて人命財産の損失から見るとき、これ等の問題は考へに入れなくとも差支へないであらう。
關東大地震の震原と地盤の移動
この際一言して置く必要のあることは地震の副原因といふことである。即ち地震が起るだけの準備が出來てゐる時、それを活動に轉ぜしめる機會を與へるところの誘因である。例へば鐵砲の彈丸を遠方へ飛ばす原因は火藥の爆發力であるが、これを實現せしめる副原因は引金を外す作用である。鐵砲に彈藥が裝填してあれば引金を外すことによつて彈丸が遠方に飛ぶが、もし彈藥が裝填してなく或は單に彈丸だけ詰めて火藥を加へなかつたなら、たとひ幾度引金を外しても彈丸は決して飛び出さない。地震の場合に於て此引金の働きに相當するものとして、氣壓、潮の干滿などいろ/\ある。例へば相模平野に起る地震に於ては、其地方の北西方に於て氣壓が高く、南東方に於てそれが低いと其地方の地震が誘發され易い。其故地震の豫知問題の研究に於て右のような副原因を研究することも大切であるが、然しながら事實上の問題として引金の空外しともいふべき場合が頗る多いことである。つまり百千の空外しに對して僅に一回の實彈が飛び出すくらゐの事であるから、かような副原因だけを研究してゐては、豫知問題の方へ一歩も進出することが出來ないような關係になるのである。
丹後地震に伴へる郷村断層
豫知問題の研究について最も大切な目標は、地震の主原因の調査である。彈藥が完全に裝填されてあるか、否かを調べることである。近時此方面の研究がわが日本に於て大いに進んで來た。著者は昭和二年九月チェッコスロバキア國の首府プラーグに於ける地震學科の國際會議に於て、此問題に關するわが國最近の研究結果につき報告するところがあつたが、列席の各員は著者が簡單に演述した大地震前徴につき更に詳細な説明を求められ、頗る滿足の態に見受けた。實際地震の豫知問題の解決は至難の業であるに相違ない。然しながら決して不可能のものとは思はない。著者の如きは、此問題は既にある程度までは机上に於て解決せられてゐると思つてゐる。殘るところは其考案の實施如何といふ點に歸着する。而も其實施は一時に數十萬圓、年々十萬圓の費用にて出來る程度である。
地震の豫知問題が假に都合よく解決されたとしても、震災防止については猶重大な問題が多分に殘るであらう。假に地震豫報が天氣豫報の程度に達しても、雨天に於ては雨着や傘を要するように、又暴風に對しては海上の警戒は勿論、農作物、家屋等に對しても臨機の處置が入用であらう。其上、氣象上の大きな異變については單に豫報ばかりで解決されないこと、昭和二年九月十三日、西九州に於ける風水害の慘状を見ても明らかであらう。著者の想像では、假に地震豫報が出來る日が來ても、それは地震の起りそうな或特別の地方を指摘し得るのみで、それが幾時間後か將た幾日後に實現するかを知るのは更に研究が進まねば解決出來ないことゝ考へる。要するに地震學進歩の現状に於ては、何時地震に襲はれても差支へないように平常の心懸けが必要である。建物や土木工事を耐震的にするといふようなことは、これ亦平日行ふべきことではあるが、しかしこれは其局に當るものゝ注意すべき事項であつて、小國民が與らずともよい事である。然しながら地震に出會つた其瞬間に於ては、大小國民殘らず自分[#ルビの「じしん」はママ]で適當な處置を取らなければならないから、此場合の心懸けは地震國の國民に取つて一人殘らず必要なことである。
わが國の如き地震國に於ては、地震に出會つたときの適當な心得が絶對に必要なるにも拘[#ルビの「かゝ」はママ]らず、從來かようなものが缺けてゐた。たとひ多少それに注意したものがあつても、地震の眞相を誤解してゐるため、適當なものになつてゐなかつた。著者はこれに氣附いたので、此數年間其編纂に腐心してゐたが、東京帝國大學地震學教室に於ける同人の助言によつて、大正十五年に至つて漸く之を公にする程度に達した。本篇は主にこの注意書に對する解釋を誌したものといつてよいと思ふ。もし此心得を體得せられたならば、個人としては震災から生ずる危難を免れ、社會上の一人としては地震後の火災を未然に防止し、從來われ/\が惱んだ震災の大部分が避けられることゝ思ふ。少くもそのような結果になるように期待してゐるものである。
つぎに著者が編纂した注意書を掲げることにする。
一、 最初の一瞬間に於て非常の地震なるか否かを判斷し、機宜に適する目論見を立てること、但しこれには多少の地震知識を要す。
二、 非常の地震たるを覺るものは自ら屋外に避難せんと力めるであらう。數秒間に廣場へ出られる見込みがあらば機敏に飛び出すがよい。但し火の元用心を忘れざること。
三、 二階建、三階建等の木造家屋では、階上の方却つて危險が少い、高層建物の上層に居合せた場合には屋外へ避難することを斷念しなければなるまい。
四、 屋内の一時避難所としては堅牢な家屋の傍がよい。教場内に於ては机の下が最も安全である。木造家屋内にては桁、梁の下を避けること、又洋風建物内にては、張壁、煖爐用煉瓦、煙突等の落ちて來さうな所を避け、止むを得ざれば出入口の枠構への直下に身を寄せること。
五、 屋外に於ては屋根瓦、壁の墜落[#ルビの「ついらい」はママ]、或は石垣、煉瓦塀、煙突等の倒潰し來る虞ある區域から遠ざかること。特に石燈籠[#ルビの「いしどうろう」は底本では「いしどうろ」]に近寄らざること。
六、 海岸に於ては津浪襲來の常習地を警戒し、山間に於ては崖崩れ、山津浪に關する注意を怠らざること。
七、 大地震に當り凡そ最初の一分間を凌ぎ得たら、最早危險を脱したものと見做し得られる。餘震恐れるに足らず、地割れに吸ひ込まれる事はわが國にては絶對になし。老若男女、總て力のあらん限り災害防止に力むべきである。火災の防止を眞先にし、人命救助をそのつぎとすること。これ即ち人命財産の損失を最小にする手段である。
八、 潰家からの發火は地震直後に起ることもあり、一二時間の後に起ることもある。油斷なきことを要する。
九、 大地震の場合には水道は斷水するものと覺悟し、機敏に貯水の用意をなすこと。又水を用ひざる消防法をも應用すべきこと。
十、 餘震は其最大なるものも最初の大地震の十分の一以下の勢力である。最初の大地震を凌ぎ得た木造家屋は、たとひ多少の破損をなしても、餘震に對しては安全であらう。但し地震でなくとも壞れそうな程度に損したものは例外である。
右の中、説明を略してもよいものがある。然しながら、一應[#ルビの「いさおう」はママ]はざつとした註釋を加はへることにする。以下項を追うて進んで行く。
地震に出會つた一瞬間、心の落着を失つて狼狽もすれば、徒らに逃げ惑ふ一方のみに走るものもある。平日の心得の足りない人にこれが多い。
著者の編んだ第一項は、最初の一瞬間に於て、それが非常の地震なるか否かを判斷せよといふのである。もし大した地震でないといふ見込がついたならば、心も自然に安らかなはずであるから過失の起りようもない。其上危險性を帶びた大地震に出會ふといふのは、人の一生の間に於て多くて一二回にしかないはずであるから、われ/\が出會ふ所の地震の殆んど全部は大したものでないといふことがいへる。但し其一生の間に一二回しか出會はないはずのものに、偶出會つた場合が最も大切であるから、さういふ性質の地震であるか否かを最初の一瞬間に於て判定することは、地震に出會つたときの心得として最も大切な一事件である。
地震は地表下に於て餘り深くない所で起るものである。但し深くないといつても、それは地球の大きさに比較していふことであつて、これを絶對にいふならば幾里・幾十粁といふ程度のものである。もし震原が直下でなかつたならば、震原に對して水平の方向にも距離が加はつて來るから、距離は益遠くなるわけである。
われ/\は地震を感じた場合、其振動の緩急によつて震原距離の概念を有つようになる。即ち振動緩なるときは震原が遠いことを想像するが、反對に振動が急なときは震原はわれわれに近いことゝ判斷する。又地震と同時に、或はこれを感ずる前に地鳴りを聞くこともある。これは地震がわれ/\に最も近く起つた場合である。
地震は其根源の場所に於ては緩急各種の地震波を發生するものであつて、これが相伴つて四方八方へ擴がつて行くのであるが、此際急な振動をなす波動は途すがら其勢力を最も速かに減殺されるから、振動の急なもの程其擴がる範圍が狹く、緩かなもの程それが廣い。此事をつぎのようにもいふ。即ち急な振動は、其勢力が中間の媒介物に吸收され易く、緩かなものはそれが吸收され惡い。これがわれ/\の感じた地震動の緩急によつて、地震が深くに起つたか或は近くに起つたかを判斷し得る理由であつて、又遠方の大地震の觀測に長週期地震計が入用なわけである。
地震が十分に近く起つた場合は、一秒間に數十回若しくばそれ以上の往復振動が現れて來るが、それは單に地鳴りとしてわれ/\の聽覺に感ずるのみであつて、一秒間に四五回の往復振動になつて漸く急激な地動としてわれ/\の身體にはつきりと感ずるようになる。然しながら震原距離が三十里以上にもなると、初動は可なり緩漫になつて一秒間一二回の往復振動になり、更に距離が遠くなると終には地震動の最初の部分は感じなくなつて、中頃の強い部分だけを感ずるようにもなる。
初期微動と主要動との區別
つぎに、最初の一瞬間の感覺によつて地震の大小強弱を判斷する事について述べて見たい。諺に大風は中頃が弱くて初めと終りとが強く、大雪は初めから中頃まで弱くて終りが強く、大地震は、初めと終りが弱くて中頃が強いといふことがある。これは面白い比較觀察だと思ふ。大風と大雪とはさて置いて、大地震についていはれた右の諺は一般の地震に通ずるものである。われ/\は最初の弱い部分を初期微動と名づけ、中頃の強い部分を主要動或は主要部、終りの弱い部分を終期部と名づけてゐる。終期部は地震動の餘波であつて餘り大切なものではないが、初期微動と主要部とは極めて大切なものである。兩者ともに震原から同時に出發し、同じ途を通つて來るのであるけれども、初期微動は速度大に、主要動はそれが小なるために斯く前後に到着することになるのである。恰も電光と雷鳴との關係のようなものである。
もつと具體的にいふならば、初期微動は空氣中に於ける音波のような波動であつて、振動の方向と進行の方向とが相一致するもの、即ち形式からいへば縱波である。主要動はそれと異なり横波である。震原の近い場合には縱波は凡そ毎秒五粁の速さで進行するのに、横波は毎秒三・二粁の速さで進行する。
初期微動が到着してから主要動が來るまでの時間を、初期微動繼續時間と名づける。讀者は初期微動時間だけを知つて震原距離を計算して出すことは、算術のたやすい問題たることを氣附かれたであらう。實際われ/\はこの計算[#ルビの「けいさん」は底本では「けいさい」]に一つの公式を用ひてゐる。即ち初期微動繼續時間の秒數に八といふ係數を掛けると、震原距離の凡その値が粁で出て來るのである。
地震計の觀測によるときは、初動の方向も觀測せられるので、隨つて震原の方向が推定せられ、又初期微動繼續時間によつて震原距離が計算せられるから、單に一箇所の觀測のみによつて震原の位置が推定せられるのであるが、しかしながら身體の感覺のみにてはかような結果を得ることは困難である。
東京邊で起る普通の小地震は、大抵四十粁位の深さをもつてゐるから、かような地震がわれ/\の直下に起つても、初期微動繼續時間は五・三秒程になる。東京市内に住むものは、七八秒から十秒位までの初期微動を有する地震を感ずることが最も多數である。然しながら大正十四年の但馬地震に於ける田結村の場合の如く、又一昨年の丹後地震に於ける郷村又は峰山の場合の如く、初期微動繼續時間僅に三秒程度なることもあるのである。但しこれは極めて稀有な場合であつたといつてよろしい。
初期微動は主要動に比較して大なる速さを持つてゐるが、然しながら振動の大いさは、反對に主要動の方が却つて大である。この大小の差違は地震の性質により、又關係地方の地形地質等によつても一樣ではないが、多數の場合を平均していふならば、主要動たる横波は、初期微動たる縱波に比較して凡そ十倍の大いさを持つてゐる。これが最初の部分に初期微動とて微の字が冠せられる所以である。さうして主要動が大地震の場合に於て、破壞作用をなす部分たることは説明せずとも既に了得せられたことであらう。
讀者は小地震の場合に於て、初期微動と主要動を明確に區別して感得せられたことがあるであらう。初期微動は通常びり/\といふ言葉で形容せられるように、稍急にしかも微小な振動であるが、それが數秒間或は十數秒間繼續すると、突然主要動たる大きな振動が來る。其振動ぶりは、最初の縱波に比べて稍緩漫な大搖れであるがため、われ/\はこれをゆさ/\といふ言葉で形容してゐる。然しながら大地震になると、初期微動でも決して微動でなく、多くの人にとつては幾分の脅威を感ずるような大いさの振動である。例へばわれ/\が大地震の場合に於て屡經驗する通り主要動の大いさを十糎と假定すれば、初期微動は一糎程度のものであるので、もしかういふ大いさの地動が、一秒間に二三回も繰返されるほどの急激なものであつたならば、木造家屋や土藏の土壁を落し、器物を棚の上から轉落せしめる位のことはあり得べきである。もし地震の初動がこの程度の強さを示したならば、これは非常の地震であると判斷して誤りはないであらう。
幸に最初の一瞬間に於て、非常の地震なるか否かの判斷がついたならば、其判斷の結果によつて臨機の處置をなすべきである。もしそれが非常の地震だと判斷されたならば、自分の居所の如何によつて處置方法が變られなければなるまい。それについては、以下の各項に於て細説するつもりである。然しながら、それがありふれた小地震だと判斷されたならば、泰然自若としてゐるのも一法であらうけれども、これは餘りに消極的の動作であつて、著者が地震國の小國民に向つて希望する所でない。著者は寧ろかような場合を利用して、地震に對する實驗的[#ルビの「じつけんてき」は底本では「じんけんてき」]の知識を得、修養を積まれるよう希望するものである。
前に述べた通り、初期微動の繼續時間は震原距離の計算に利用し得られる。この繼續時間の正確なる値は地震計の觀測によつて始めて分ることであるけれども、概略の値は暗算によつても出て來る。著者の如きはそれが常習となつてゐるので、夜間熟睡してゐるときでも地震により容易に覺醒し、夢うつゝの境涯にありながら右の時間の暗算等にとりかかる癖がある。これを器械的觀測の結果に比較すると一割以上の誤差を生じた例は極めて少い。著者は更に進んで地震動の性質を味はひ、それによつて震原の位置をも判斷することに利用してゐるけれども、これは一般の讀者に望み得べきことでない。とに角、初期微動繼續時間を始めとして、發震時其他に關する値を計測し、これを器械觀測の結果に比較する事は頗る興味多いことである。自分と觀測所との間隔が一二里以内であるならば、兩方の時刻竝に時間共に大體同じ値に出て來るべきはずである。
右の外、體驗した地震動の大いさを器械觀測の結果に比較するのも亦興味ある事柄である。然しながらこの結果に於ては器械で觀測せられたものと、自分の體驗したものとは著しき相違のあることが一般であつて、それが寧ろ至當である場合が多い。例へば東京市内でも下町と山の手とで震動の大いさに非常な相違がある。概して下町の方が大きく、山の手の二三倍若しくはそれ以上にもなることがある。又鎌倉の例を取ると由比ヶ濱の砂丘は、雪の下の岩盤に比較して四五倍の大いさに出て來ることもある。かような根本の相違がある上に、器械は大抵地面其物の震動を觀測する樣になつてゐるのに、體驗を以て測つてゐるのは家屋の振動であることが多い、もし其家屋が丈夫な木造平家であるならば、床上の振動は地面のものゝ三割増しなることが普通であるけれども、木造二階建の階上は三倍程度なることが通常である。この通りに器械觀測の結果と體驗の結果とは最初から一致し難いものであるけれども、それを比較してみることは無益の業ではない。上手にやると自分の家屋の耐震率とも名づくべきものゝ概念が得られるであらう。即ち二階建の二階座敷は階下座敷の五倍に搖れるようならば、不安定な構造と判斷しなければならないが、もし僅々二倍位にしか搖れないならば、寧ろ堅牢な建物と見做してよいであらう。
耐震的構造
地震に出會つてそれが非常の地震であることを意識したものは、餘程修養を積んだ人でない限り、たとひ耐震家屋内にゐても、又屋外避難の不利益な場合でも、しかせんと力めるであらう。この屋外へ避難することの不利益な場合は次項に説明することゝし、もし平家建の家屋内或は二階建、三階建等の階下に居合せた場合には屋外へ飛び出す方が最も安全であることがある。然しながらいづれの場合でもさうであるとは限らぬ。先づ屋外が狹くて、もし家屋が倒潰したならば却つて其ために壓伏されるような危險はなきか。これが第一に考慮すべき點である。
平家建の小屋組、即ち桁や梁と屋根との部分が普通に出來てゐれば容易に崩れるものではない。たとひ家屋が倒伏することがあつても、小屋組だけは元のまゝの形をして地上に直接の屋根を現すことは、大地震の場合普通に見る現象である。かような場合、下敷になつたものも、梁又は桁のような大きな横木で打たれない限り大抵安全である。
一方屋外に避難せんとする場合に於ては、まだ出きらない内に家屋倒潰し、而も入口の大きな横木に壓伏せられる危險が伴ふことがある。前に述べた通り、初期微動の繼續時間は概して七八秒はあるけれども、前記の但馬地震及び丹後地震に於ては、震原地の直上に於て三秒位しかなかつた。かゝる場合、家の倒伏前に屋外の安全な場所迄逃げ出すことは中々容易な業ではない。實際前記の大地震に於ては機敏な動作をなして却つて軒前で壓死したものが多く、逃げ後れながら小屋組の下に安全に敷かれたものは屋根を破つて助かつたといふ。かような場合を省みると、屋外へ避難して可なる場合は、僅に二三秒で軒下を離れることが出來るような位置にあるときに限るようである。もし偶然かような位置に居合せたならば、機敏に飛出すが最上策であること勿論である。
右のような條件が完全に備はつてゐなくとも、大抵の人は屋外に避難せんとあせるに違ひない。これは寧ろ動物の本能であらう。目の前を何か掠めて通るとき急に瞼を閉ぢるような行動と相似てゐる。
安政二年十月二日の江戸大地震に於て、小石川の水戸屋敷に於て壓死した藤田東湖先生の最後と、麹町神田橋内の姫路藩邸に於て壓死した石本李蹊翁の最後は全く同じ轍を踏まれたものであつた。此地震の初期微動繼續時間は七八秒程あつたように思はれる。各先生共に地震を感得せられるや否や、本能的に外に飛び出されたが、はつと氣が付いてみると老母が屋内に取り殘されてあつた。とつて返して助け出さうとする中、主要動のために家屋は崩壞し始めたので、東湖は突差に母堂を屋外へ抛り出した瞬間、家屋は全く先生を壓伏してしまつたが、李蹊は母堂と運命を共にしたのである。東湖先生の最後のありさまはよく人に知られてゐるが、石本李蹊翁のは知る人が少い。翁の令息に有名な石本新六男があり、新六男の四男に地震學で有名な巳四雄教授のあることは、李蹊翁も又以て瞑するに足るといはれてもよいであらう。
われ/\の崇敬する偉人でも、大地震となると我を忘れて飛び出されるのであるから、二階建、三階建等の階下や平家建の屋内にゐた人が逃げ出すのは、尤もな動作と考へなければなるまい。前記の但馬地震や丹後地震の如きは初期微動繼續時間の最も短かつた稀有の例であるので、寧ろ例外とみて然るべきものである。それ故に若し數秒間で廣場へ出[#ルビの「だ」はママ]られる見込みがあらば、最も機敏にさうする方が個人として最上[#ルビの「さいじよう」は底本では「さいしよう」]の策たるに相違ない。唯一つ茲に考慮すべきは火の用心に關する問題である。地震に伴ふ火災は地震直後に起るのが通常であるけれども、地震後一二時間の後に起ることもある。避難の際、僅に一擧手の動作によつて火が消されるようならば、さういふ處置は望ましきことであるが、もし其餘裕なくして飛出したならば、後になつてからでも火を消[#ルビの「けす」は底本では「け」]ことに注意すべきであつて、特に今迄ゐた家が潰れたときにさうである。これ著者がこの項の[#「この項の」はママ]本文に於て、『但し火の元用心を忘れざること』と附け加へた所以である。
二階建の潰れ方(豐岡)
わが國に於ける三階建は勿論、二階建も大抵各階の柱が床の部分に於て繼がれてある。即ち通し柱を用ひないで大神樂造りにしてある。かういふ構造に於ては、大きな地震動に對して眞先に傷むのは最下層である。更に震動が強いと階下の部分が潰れ、上層の多くは直立の位置の儘に取殘される。即ち二階建は平家造りのように三階建は二階建のようなものになる。大正十四年の但馬地震に於て、豐岡町の被害状況の概報に、停車場の前通り四五町の間は町家が將棊倒しに潰れたとあつたが、震災地を始めて見學した一學生は其實状[#ルビの「じつきよう」はママ]を見て、右の概報は誤りだと思つた。さうして著者に向つていふには、將棊倒しどころか各家屋直立してゐるではありませんかと。著者はこのとき彼に反問して、君はこの町家を平家建と思つてゐるかといつてみたが、該學生が潰れ方の眞相を了解したのは、其状況を暫時熟視した後のことであつた。
大地震の場合に於て、二階建或は三階建等の最下層が最も危險であることは、更に詳説を要しない程によく知られてゐる。それ故に二階或は三階に居合せた人が、階下を通ることの危險を侵してまで屋外に逃げ出さうとする不見識な行動は排斥すべきである。寧ろ更に上層に上るか、或は屋上の物干場に避難することを勸めるのであるが、實際かういふ賢明な處置を取られた例は屡耳にするところである。
三階建の潰れ方(城崎)
著者は明治二十七年六月二十日の東京地震を本郷湯島に於て、木造二階建の階上で經驗したことがある。此時帝國大學地震學教室に於ける地動は二寸七分の大いさに觀測せられたから、同じ臺地の湯島に於ても大差なかつたはずと思ふ。隨つて階上の動搖は六七寸にも達したであらう。當時著者は大學に於ける卒業試驗の準備中でつて[#「でつて」はママ]、机に向つて靜座してゐたが、地震の初期微動に於て既に土壁が龜裂しきれ/″\になつて落ちて來るので、自ら室の中央部まで動いたけれども、それ以上に歩行することは困難であつて、たとひ階下へ行かうなどといふ間違つた考へを起しても、それは實行不可能であつた。
大正十二年九月一日の關東大地震に於て、著者のよく知つてゐる某貴族は、夫妻揃つて潰家の下敷となられた。當時二人とも木造家屋の二階にをられたので、下敷になりながら小屋組の空所に挾まり、無難に救ひ出されたが、階下にゐた家扶は主人夫婦の身の上を案じながら辛うじて、梯子段を登りつめたとき家は潰れてしまつた。もしこの家扶が下座敷にゐたまゝであつたならば無論壓死したであらうが、主人思ひの徳行のために主人夫妻[#ルビの「ふうふ」はママ]と共に無難に救ひ出されたのであつた。
東京會館の破壞
近頃わが國にはアメリカ風の高層建築物が段々増加しつゝある。地震に對して其安全さを危ぶんでゐる識者も多い事であるが、これは其局に當るものゝ平日注意すべきことであつて、小國民の關與すべき事でもあるまい。然しながら其ような高い殿堂に近寄ることや堂上に昇ることは年齡に無關係なことであるから、わが讀者も偶かような場所に居合せたとき大地震に出會ふようなことがないとも限らぬ。かういふ種類の建物は設計施工によつて地震に傷められる模樣が變るけれども、多くの場合、地上階は比較的丈夫に出來てゐるため被害が少い、この點は木造の場合に比較して反對な結果を示すのである。もし階數が七つ八つ、高さが百尺程度のものならば、二階三階或は四階建に傷みが最も著しいようである。大正十一年四月二十六日の浦賀海峽地震に傷められた丸の内びるぢんぐ、大正十二年の關東大地震によつて腰を折られた東京會館などがその適例であらう。いまかような高層建物の上層に居合せた場合、もし地震に出會つて屋外に避難せんと試みたなら、それは恐らくは地震がすんでしまつた頃に到達せられる位のことであらう。それ故にかような場合に於ては、屋外へ出ることを斷念し屋内に於て比較的安全な場所を求めることが寧ろ得策であらう。
屋根を支へる家具
大地震に出會つて屋外への安全な避難が間に合はない場合は、家屋の潰れること、壁の墜落、煙突の崩壞などを覺悟し、又木造家屋ならば下敷になつた場合を考慮して、崩壞又は墜落物の打撃から免れ得るような場所に一時避難するがよい。普通の住宅ならば椅子、衣類で充滿した箪笥、火鉢、碁盤、將棊盤など、總て堅牢な家具ならば身を寄せるに適してゐる。これ等の適例は大地震の度毎にいくらも見出される。
教場内に於ては机の下が最も安全であるべきことは説明を要しないであらう。下敷になつた場合に於て、致命傷を與へるものは梁と桁とである。それさへ避けることが出來たなら大抵安全であるといつてよい。さうして學校の教場内に竝列した多數の机や或は銃器臺などは、其連合の力を以て、此桁や梁、又は小屋組全部を支へることは容易である。
田根小學校の教室倒潰
圖は明治四十二年八月十四日姉川大地震に於て倒潰の憂き目を見た、田根小學校の教場である。讀者は墜落した小屋組が、其連合の力を以ていかに完全に支へられたかを見られるであらう。この地震の時は、丁度夏季休暇中であつたため、一人の生徒もゐなかつたのであるが、假に授業中であつたとして、もしそれに善處せんとするならば、「机の下へしやがめ」の號令一下で十分であつたらう。さうして家の潰れ方が圖に示された通りであつたならば、生徒中に一人の負傷者も出來ず、「しやがんだまゝ外へ出よ」との第二號令で、全員秩序を亂さず、平日教場へ出入するのと餘り違はない態度で校庭へ現れ出ることが出來たであらう。
木造家屋に對しては、處置が比較的に容易であるが、重い洋風建築物であると、さう簡單にはゆかぬ。第一墜落物も張壁、煖爐用煙突など、いづれも重量の大なるものであるから、机や椅子では支へることが困難である。しかし室は比較的に廣く作られるのが通常であるから、右のようなものゝ落ちて來さうな場所から遠ざかることも出來るであらう。廣い室ならば、其中央部、もしくは煙突の立てる反對の側など、稍それに近い條件であらう。若し室内にて前記の如き條件の場所もなく、又は廊下に居合せて、兩側の張壁からの墜落物に挾み撃ちせられさうな場合に於ては、室の出入口の枠構へが、夕立に出會つたときの樹陰位の役を勤めるであらう。
地震の當初から屋外にゐた者も、周圍の状況によつては必ずしも安全であるとはいはれない。又容易に屋内から逃げ出すことが出來ても、立退き先の方が却つて屋内よりも危險であるかも知れない。石垣、煉瓦塀、煙突などの倒潰物は致命傷を與へる事もあるからである。又家屋に接近してゐては、屋根瓦、壁の崩壞物に打たれることもあるであらう。
石燈籠は餘り強大ならざる地震の場合にも倒れ易く、さうして近くにゐたものを壓死せしめがちである。特に兒童が顛倒した石燈籠のために生命[#ルビの「せつめい」はママ]を失つた例は頗る多い。これは兒童の心理作用に基づくものゝようであるから、特に父兄、教師の注意を要する事であらう。元來神社、寺院には石燈籠が多い。さうして其處は多く兒童の集る所である。そこで偶地震でも起ると兒童は逃げ惑ひ、そこらにある立木或は石燈籠にしがみつく。これは恐らくかういふ場合、保護者の膝にしがみつく習慣から斯く導かれるものであらう。それ故餘り大きくない地震、例へば漸く器物を顛倒し土壁を損し粗造な煉瓦煙突を損傷するに止まる程度に於ても、石燈籠の顛倒によつて兒童の壓死者を出すことが珍しくない。此事は教師父兄の注意を促すと共にわが小國民に、向つても直接に戒めて置きたいことである。
わが國の大地震は激震區域の廣いと狹いとによつて、これを非局部性のものと、局部性のものとに區別する事が出來る。非局部性の大地震は多く太平洋側の海底に起[#ルビの「し」はママ]り、地震の規模廣大なると陸地が震原から遠いために、はたまた海底地震の性質として震動は大搖れであるが、然しながら緩漫である。それと同時に津浪を伴ふことが其特色である。これに反して局部性の大地震は規模狹小であるが、多く陸地に起るがために震動の性質が急激である。近く其例をとるならば、大正十二年の關東大地震は非局部性であつて、大正十四年の但馬地震及び昭和二年の丹後地震は局部性であつた。
非局部性の大地震を起す事のある海洋底に接した海岸地方は、大搖れの地震に見舞はれた場合、津浪についての注意を要する。但し津浪を伴ふ程の地震は最大級のものであるから、倒潰家屋を生ずる區域[#ルビの「くえき」はママ]が數箇の國や縣に亙ることもあり、或は震原距離[#ルビの「りより」はママ]が陸地から餘り遠いために、單に廣區域に亙つて大搖れのみを感じ、地震の直接の損害を生じないこともある。前者の例は大正十二年の關東大地震、或は安政元年十一月四日及び同五日の東海道、南海道大地震等であつて、後者の例としては明治二十九年六月十五日の三陸大津浪を擧げることが出來る。
かくしてわが國の大平洋側の[#「大平洋側の」はママ]沿岸は非局部性の大地震を起す海洋底に接してゐるわけであるが、しかしながら其海岸線の全部が津浪の襲來に暴露されてゐるわけではない。それについては津浪襲來の常習地といふものがある。この常習地は右に記したような地震に見舞はれた場合、特別の警戒を要するけれども、其他の地方に於ては左程の注意を必要としないのである。
右の話を進めるについて必要なのは津浪の概念である。津浪に海嘯なる文字がよくあててあるがこれは適當でない。海嘯は潮汐の干滿の差の非常に大きな海に向つて、河口が三角なりに大きく開いてゐる所に起る現象である。支那淅江省の[#「淅江省の」はママ]錢塘江は海嘯について最も有名である。つまり河流と上汐とが河口で暫時戰つて、遂に上汐が勝を占め、海水の壁を築きながらそれが上流に向つて勢よく進行するのである。津浪とは津の浪、即ち港に現れる大津浪であつて、暴風など氣象上の變調から起ることもあるが、最も恐ろしいのは地震津浪である。元來浪といふから讀者は直に風で起される波を想像せられるかも知れないが、寧ろ潮の差引といふ方が實際に近い。われ/\が通常みるところの波は、其山と山との間隔、即ち波長が幾米、或は十幾米といふ程度にすぎないが、津浪の波長は幾粁、幾十粁、或は幾百粁といふ程度のものである。それ故に海上に浮んでゐる船舶には其存在又は進行が分りかねる場合が多い。但しそれが海岸に接近すると、比較的に急な潮の干滿となつて現れて來る。即ち普通の潮汐は一晝夜に二回の干滿をなすだけであつて、隨つて其週期は凡そ十二時間であるけれども、津浪のために生ずる干滿は幾分或は幾十分の週期を以て繰返されるのである。
かういふ長波長の津浪が海底の大地震によつていかにして起されるかといふに、それは多く海底の地形變動に基づくのである。われ/\は近く關東大地震に於て、相模灣の海底が廣さ十里四方の程度に於て、幾米の上下變動のあつたことを學んだ。さういふ海底の地形變動は直に海水面の變動を惹起すから、そこに長波長の津浪が出來るわけである。
熱海における津浪の高さ
三陸大津浪高さの分布(數字は高さを尺にて表したもの)
かういふ津浪は沖合に於ては概して數尺の高さしか持たないから、もしそれが其まゝの高さを以て海岸に押寄せたならば、大抵無難なるべきはずである。しかし、波は海深が次第に淺くなる所に進入すると、それにつれて高さを増し、又漏斗のように奧が次第に狹くなる所に進入しても波の高さが増してくる。かういふ關係が重なるような場所に於ては、津浪の高さが著しく増大するわけであるが、それのみならず、浪が淺い所に來れば遂に破浪するに至ること、丁度普通の小さな波について濱に於て經驗する通りであるから、此状態になつてからは、浪といふよりも寧ろ流れといふべきである。即ち海水が段々狹くなる港灣に流れ込むことになり、隨つて沖合では高さ僅に一二尺にすぎなかつた津浪も、港灣の奧に於ては數十尺の高さとなるのである。大正十二年の關東大地震に於て熱海港の兩翼、即ち北は衞戍病院分室のある邊、南は魚見崎に於ては波の高さ四五尺しかなかつたが、船着場では十五尺、港の奧では四十尺に達して多くの家屋を浚ひ人命を奪つた。但し港の奧ではかような大事變を起してゐるに拘らず數十町の沖合では全くそれに無關係であつて當時そこを航行中であつた石油發動機船が海岸に於けるかゝる慘事を想像し得なかつたのも無理のないことである。明治二十九年の三陸大津浪は、其原因數十里の沖合に於ける海底の地形變動にあつたのであるが、津浪の常習地たる漏斗状[#ルビの「じようごがた」はママ]の港灣の奧に於ては圖に示された通り、或は八十尺、或は七十五尺といふような高さの洪水となり、合計二萬七千人の人命を奪つたのに、港灣の兩翼端では僅に數尺にすぎない程のものであつたし、其夜沖合に漁獵に行つてゐた村人は、あんな悲慘事が自分の村で起つたことを夢想することも出來ず、翌朝、跡方もなく失はれた村へ歸つて茫然自失[#ルビの「ぼうせん」はママ]したといふ。
伊東の津浪
右の通り、津浪は事實上に於て港の波である。われ/\は學術的にもこの名前を用ひてゐる。實に津浪なる語は、最早國際語となつた觀がある。
以上の説明によつて、津浪襲來の常習地の概念が得られたことゝ思ふ。屡海底の大地震を起す場所に接し、そこに向つて大きく漏斗形に開いた地形の港灣がそれに當るわけであるが、これに次いで多少の注意を拂ふべきは、遠淺の海岸である。たとひ海岸線が直線に近くとも、遠淺だけの關係で、波の高さが數倍の程度に増すこともあるから、もし沖合に於ける高さが數尺のものであつたならば、前記の如き地形の沿岸に於て多少の被害を見ることもある。
津浪に傷められた二階建、三階建の木造家屋は、大地震に傷められた場合の如く、階下から順番に潰れて行く。又津浪に浚はれた場合に於て、其港灣の奧に接近した所では潮の差引が急であるから、游泳も思ふように行かないけれども、港灣の兩翼端近くにてはかような事がないから、平常通りに泳ぎ得られる。この前の關東大地震に際し、熱海で津浪に浚はれたものゝ中、伊豆山の方へ向つて泳いだものは助かつたといふ。
根府川の山津浪
地震の場合に崖下の危險なことはいふまでもない。横須賀停車場の前に立つたものは、其處の崖下に石地藏の建てるを氣づくであらう。これは關東大地震の際、其處に生埋めにされた五十二名の不幸な人の冥福を祈るために建てられたものである。かような危險は直接の崖下許りでなく、崩壞せる土砂が流れ下る地域全部がさうなのである。崩壞した土砂の分量が大きくて、百米立方、即ち百萬立方米の程度にもなれば、斜面を沿うて流れ下るありさまは、溪水が奔流する以上の速さを以て馳せ下るのである。恰も陸上に於ける洪水の如き觀を呈するので山津浪と呼ばれるようになつたものであらう。
關東大地震の場合に於ては、各所に山津浪が起つたが、其中根府川の一村を浚つたものが最も有名であつた。この山津浪の源は根府川の溪流を西に溯ること六粁、海面からの高さ凡そ五百米の所にあつたが、實際は數箇所からの崩壞物が一緒に集合したものらしく、其分量は百五十米立方と推算せられた、これが勾配九分の一の斜面に沿ひ、五分時間位の間に一里半程の距離を馳せ下つたものらしい。さうして根府川の一村落は崖上の數戸を殘して、五百の村民と共に其下に埋沒されてしまつた。此際鐵道橋梁も下り汽車と共に浚はれてしまつたが、これは土砂に埋つたまゝ海底まで持つて行かれたものであることが解つた。其後山津浪が殘した土砂が溪流のために次第に浚はれて、再び以前の村落地を暴露したけれども、家屋は其處から現れて來なかつたので、山津浪が一村を埋沒したといふよりも、これを浚つて行つたといふ方が適當なことが後日に至つて氣附かれた。
山津浪はかの丹後地震の場合にも起つた。それは主に海岸の砂丘に起つたものであつて根府川の山津浪とは比較にならなかつたけれども、雪崩れ下つた距離が五六町に及び、山林、田園道路に可なりな損害[#ルビの「そんがん」はママ]を與へた。此地方の砂丘は地震ならずとも崩壞することがあるのだから、地震に際して注意すべきは當然であるけれども、平日に於ても氣をつけ、特に宅地として選定するときに考慮しなければならぬ弱點を持つてゐるのである。
昔の人は地震の搖り返し、或は搖り戻しを恐れたものである。此言葉は俗語であるため誤解を惹起し、今の人はこれを餘震に當て嵌めてゐるが、それは全く誤りである。昔の人の所謂搖り戻しは、われ/\が今日唱へてゐる地震動の主要部である。藤田東湖先生の最後を記すならば、彼は最初の地震によつて屋外へ飛出し、搖り戻しのために壓死したのである。われ/\は子供の時分には然か教へられた。最初の地震を感じたなら、搖り戻しの來ない中に戸外へ飛出せなどと戒められたものである。外國の大地震では搖り戻しといはずして、第二の地震と唱へた場合がある。つまり初期微動部、主要部を合併して一箇の地震と見ないで、これを一々別なものと見做したのである。かくして西暦紀元千七百五十五年のリスボン地震の記事がよく了解せられる。
搖り戻しと[#「 搖り戻しと」は底本では「搖り戻しと」]餘震との混同は單に言葉の上の誤りとして、其儘これを片附けるわけにはゆかぬ。わが國に於ては餘震を恐怖する念が特に強いが、それは右の言葉上の誤りによりても培養せられてゐるのである。
昔の人の言葉を借りていふならば、大地震に家の潰れるのは、皆搖り戻しに由るのである。もし此搖り戻しを餘震だと解したならば餘震は最も恐ろしいものでなければならぬ。そこに理論上又は經驗上全く恐れるに足りない餘震を、誤つて恐怖するようにもなつたのである。
餘震の勢力、或は地震動としての破壞力は、最初の本地震と比較して微小なものでなければならぬ。多くの實例に徴するも其最大なる場合でも十分の一以下である。この事は最後の項に於て再説することだから茲には説明を略するが、とに角餘震は恐れるに足りない。唯恐るべきは最初の大地震の主要動である。然しながら、どんな地震でも其最も恐るべき主要動は、最初の一分時間に於て收まつてしまふのである。此一分間といつたのは、最も長引く場合を顧慮[#ルビの「こうりよ」はママ]してのことであつて、大抵の場合に於ては二十秒間位で危險な震動は終りを告げるものである。即ち明治二十七年六月二十日の東京地震は最初から十五秒間で著しい震動は終りを告げ、大正十四年の但馬地震は二十秒間で全部殆んど收まり、昭和二年の丹後地震も大抵十數秒間で主要震動がすんでしまつた。但し大正十二年の關東大地震は主要震動が長く續き、最初から二三十秒間で收まつたとはいへない。此事は該地震を經驗した地方により、多少の相違があるべきであるが、比較的に長く續いたと思はれる東京にての觀測の結果を擧げるならば、震動の最も強かつたのは最初から[#「最初から」は底本では「最切から」]十六七秒目であつて、それから後三十秒間位は、震動が却つて大きくなつた位である。けれども往復震動は急に緩慢となつたゝめ、地動の強さは次第に衰へてしまつた。鎌倉や小田原邊でも、最も激しかつたのは最初の一分間以内であつたといへる。
右のような次第であるから、大地震に出會つたなら、最初の二三十秒間、場合によつては一分間位は、その位置環境によつては畏縮せざるを得ないこともあらう。勿論崩壞の虞れなき家屋の内にゐるとか、或は廣場など安全な場所に居合せたなら畏縮する程のこともないであらう。また餘震の恐れるに足らないこともほゞ前に述べた通りである。かくして最初の一分間を凌ぎ得たならば、最早不安に思ふべき何物も殘さないはずであるが、唯これに今一つ解説して置く必要のあるものは、地割れに對して誤れる恐怖心である。
大地震のときは大地が裂けてはつぼみ、開いては閉ぢるものだとは、昔から語り傳へられて最も恐怖されてゐる一つの假想現象である。もし此裂け目に挾まると、人畜牛馬、煎餅のように押し潰されるといはれ、避難の場所としては竹藪を選べとか、戸板を敷いてこれを防げなどと戒められてゐる。これはわが國にてはいかなる寒村僻地にも普及してゐる注意事項であるが、かような地割れの開閉に關する恐怖は世界の地震地方に共通なものだといつてよい、然るにわが國の地震史には右のような現象の起つたことの記事皆無であるのみならず、明治以後の大地震調査に於ても未だかつて氣附かれたことがない。尤も道路或は堤防が搖り下りに因つて地割れを起すこともあるが、それは單に開いたまゝであつて、開閉を繰返すものではない。又構造物が地震動に因つて裂け目を生じ、それが振動繼續中開閉を繰返すこともあるが、問題は大地に關係したものであつて、構造物に起る現象を指すのではない。とに角人畜が吸ひ込まれる程度に於て、大地が開閉するといふことは、わが國に於ては決して起り得ない現象と見てよい。
日本に於て決して起らない現象が、なぜに津々浦々まで語り傳へられ、恐怖せられてゐるのであらうか。著者は初め此話が南洋傳來のものではあるまいか、と疑つてみたこともあるが、近頃研究の結果、さうでないように思はれて來たのである。
世界の大地震記録を調べてみると、かういふ恐ろしい現象が三所に見出される。これを年代の順に記してみると、第一は西暦千六百九十二年六月七日西インド諸島の中、ジャマイカ島に起つた地震であつて、このとき首府ロアイヤル港に於ては大地に數百條の龜裂が出來、それがぱく/\開いたり閉ぢたりするので、偶これに陷つた人畜は忽ち見えなくなり、再びその姿を現すことは出來なかつた。後で掘り出してみると、いづれも板のように押し潰されてゐたといふ。此時市街地の大部は沈下して海となつたといふことも記してあるから、前記現象の起つた場所は新しい地盤たりしに相違なかるべく、埋立地であつたかも知れない。又此時の死人は首府總人口の三分の二を占めたことも記されてあるから、地震が餘程激烈であつたことも想像される。
西暦千七百五十五年十一月一日のリスボンの大地震は規模頗る廣大なものであつて、感震區域は長徑五百里に亙り、地動の餘波によつて、スコットランド、スカンヂナビヤ邊に於ける湖水の氾濫を惹起したものである。此時リスボンには津浪も襲來し、こゝだけの死人でも六萬人に上つた。震原は大西洋底にあつたものであらう。津浪は北アメリカの東海岸に於ても氣附かれた。
此地震の場合に於て、大地の開閉を起した所は、リスボンの對岸、アフリカのモロッコ國の首府モロッコから三里ほど離れた一部落であつて、そこにはベスンバ種族と呼ばれる土民が住まつてゐた。この時大地の開閉によつて土民は勿論、彼等の飼つてゐた畜類は牛馬、駱駝等に至るまで盡くそれに吸ひ込まれ、八千乃至一萬の人口を有してをつたこの部落は其ために跡方もなく失はれたといふ。此地震史上の大事件の舞臺が未開の土地であるだけに、記事に確信を置くわけにも行かないが、これを載せた書物は地震直後に出版された『千七百五十五年十一月一日のリスボン大地震』と題するもので、歐洲に於ける當時の知名の科學者十名の論文を集めたものである。
大地開閉の記事を載せた第三の地震は西暦千七百八十三年イタリー國カラブリヤに起つたものであつて、地震に因る死者四萬、それに續いて起つた疫病に因る死者二萬と數へられたものである。場所は長靴の形に譬へられたイタリーの足の中央部に當つてゐる。この時中央山脈の斜面に沿うて堆積してゐた土砂が全體として山骨を離れ、それが斜面を流れ下る際曲り目の所に於て、雪崩れの表面が或は開いたり、或は閉ぢたりしたものゝようであるが、此開き口に人畜が陷つて見えなくなつたことが記されてある。或は又開いたままに殘つた地割れもあつたが、後で檢査して見ると、其深さは計測することが出來ない程のものであつたといふ。關東大地震のとき起つた根府川の山津浪は、其雪崩れ下る際、右のような現象が或は小規模に起つたかも知れない。
世界大地震の記事に於て、人畜を吸ひ込むほどの地割れの開閉現象が起つたのは、著者の鋭意調べた結果、以上の三回のみである。此外に幅僅に一二寸程の地割れが開閉したことを記したものはないでもないが、それも餘計はない。一例を擧げるならば、西暦千八百三十五年の南米チリ地震である。此時卑濕の土地に一二寸の地割れがいくらも出來、それが開閉して土砂が吹出したといふ。
右のような小規模の地割れならば、大正十二年の關東大地震に於ても經驗せられた。場所は安房國北條町北條小學校の校庭であつた。此學校の敷地は、數年前に水田を埋立てゝ作られたものであつて、南北に長き水田の一區域の中に、半島の形をなして西から東へ突出してゐた。さうしてこの水田の東西南の三方は比較的に堅い地盤を以て圍まれてゐる。かういふ構造の地盤であるから、地震も比較的に烈しかつたであらう。誰しも想像し得られる通り、校舍は新築でありながら全部潰れてしまつた。わづかに身を持て免れた校長以下の職員は這ふようにして中庭にまで出ると、目前に非常な現象が起り始めた。それは校庭が南北に二條に龜裂して、其處から水柱を二三間の高さに噴出し始めたのであつた。あとで龜裂の長さを計つてみたら、延長二十二間程あつたから、此程噴出の景況は壯觀であつたに相違ない。あれよ/\とみてゐると水煙は急に衰へ裂け口も閉ぢて噴出一時に止まつてしまつたが、僅に五六秒位經過した後再び噴き出し始めた。かく噴いては止み噴いては止みすること五六回にして次第に衰へ遂に止んでしまつた。跡には所々に小さな土砂の圓錐を殘し、裂口は大抵塞がつて唯細い線を殘したのみである。著者は事件があつて二月の後に其場所を見學したが、土砂の圓錐の痕跡は其時までも見ることが出來た。さうしてこの現象の原因は、水田の泥の層が敷地と共に水桶内に於ける水の動搖と同じ性質の震動を起し、校舍の敷地に當る所が蒲鉾なりに持上つて地割れを生じ、それが凹んで下つたとき地割れが閉ぢるようになつたものと考へた。大地震のとき、泥土層や、卑濕の土地には長い裂け目に沿うて泥砂を噴出すことはありがちのことであるが、もし地震の當時に此現象を觀察することが出來たならば、北條小學校々庭に於て實見せられたようなものゝ多々あることであらう。實に北條小學校職員によつてなされた前記現象の觀察は、地震學上極めて貴いものであつた。
地割れ開閉の説明圖
前に記したジャマイカ地震並にリスボン地震に於ける地割れの開閉は、北條小學校に起つたような現象が極めて大規模に起つたものとすれば解釋がつくように思ふ。果して然らば、ロアイヤル港や、昔ベスンバ族のゐた部落は右の現象を起すに最も適當な場所であつて、此等の地方は他の大地震によつて再び同樣の現象を起すこともあるであらう。わが國に於て此現象を未だかつて大規模に起したことのないのは、單に此現象を起すに適當な構造の場所が存在しないのに因るものであらう。
右の樣な次第であるから、著者の結論としては、地割れに吸込まれるような現象は、わが國にては絶對に起らないといふことに歸着するのである。されば竹藪に逃げ込めとか、戸板を敷いて避難せよとかいふ注意は餘りに用心すぎるように思はれる。況んや竹藪自身が二十間も移動したことが明治二十四年濃尾大地震にも經驗され、又それを通して大きな地割れの出來た實例はいくらもある位であるから、左程に重きを置かなくとも差支へない注意であるように思ふ。
大地震に遭遇して最初の一分間を無事[#ルビの「ぶし」はママ]に凌ぎ得たとし、又餘震や地割れは恐れるに足らないものとの悟りがついたならば、其後災害防止について全力を盡すことが出來よう。此際或は倒壞家屋の下敷になつたものもあらうし、或は火災を起しかけてゐる場所も多いことであらうし、救難に出來るだけ多くの人手を要し、しかもそれには一刻の躊躇を許されないものがある。これ老幼男女の區別を問はず、一齊に災害防止に努力しなければならない所以である。
下敷になつた人を助け出すことは震災の防止上最も大切なことである。なんとなれば震災を被る對象物中、人命ほど貴重なものはないからである。もしそこに火災を起す虞れが絶對になかつたならば、この問題の解決に一點の疑問も起らないであらう。然しながら、もしそこに火災を起す虞れがあり、又實際に小火を起してゐたならば、問題は全然別物である。
大正十四年五月二十三日の但馬地震に於て、震原地に當れる田結村に於ては、全村八十三戸中八十二戸潰れ、六十五名の村民が潰家の下敷となつた。この村は半農半漁の小部落であるが、地震の當日は丁度蠶兒掃立の日に當り、暖室用の炭火を用ひてゐた家が多く、その中三十六戸からは煙を吐き出し、遂に三戸だけは燃え上るに至つた。一方では下敷の下から助けを乞ふてわめき、他方では消防の急を告ぐるさけび、これに和して絶え間なき餘震の鳴動と大地の動搖とは、幸に身を以て免れたものには手の下しようもなかつたであらう。然し村民の間にはかういふ非常時に對する訓練がよく行屆いてゐたと見え、老幼男女第一に火災防止に力め、時を移さず人命救助に從事したのであつた。幸に火も小火のまゝで消し止め、下敷になつた六十五名中、五十八名は無事に助け出されたが、殘りの七名は遺憾ながら崩壞物の第一撃によつて即死したのであつた。もし村民の訓練が不行屆きであり、或は火を消すことを第二にしたならば、恐らくは全村烏有に歸し、人命の損失は助けられた五十八名の中にも及んだであらう。即ち人命の損失は實際に幾倍し、財産の損失は幾十倍にも及んだであらう。實にその村民の行動は震災に對してわれ/\の理想とする所を實行したものといへる。聞けばこの村はかつて壯丁の多數が出漁中に火を失して全村灰燼に歸したことがあるさうで、これに鑑みて其後女子の消防隊をも編成し、かゝる寒村なるにがそりん・ぽんぷ一臺備へつけてあるのだといふ。平日かういふ訓練があればこそ、かゝる立派な行動に出でることも出來たのであらう。
また丹後大地震の時は、九歳になる茂籠傳一郎といふ山田小學校二年生は一家八人と共に下敷になり、家族は屋根を破つて逃げ出したに拘らず、傳一郎君は倒潰家屋内に踏み留まり、危險を冒して火を消し止めたといひ、十一歳になる糸井重幸といふ島津小學校四年生は、祖母妹と共に下敷になりながら、二人には退き口をあてがつて、自分だけは取つて返し、二箇所の火元を雪を以て消しにかゝつたが、祖母は家よりも身體が大事だといつて重幸少年を制したけれども、少年はこれをきかないで、幾度も雪を運んで來て、遂に消し止めたといふ。この爲に兩少年は各自の家屋のみならず、重幸少年の如きは隣接した小學校と二十戸の民家とを危急から救ひ得たのであつた。實にこれ等義勇の行動はそれが少年によつてなされたゞけに殊更たのもしく思はれるではないか。
日本に於ける大地震の統計によれば、餘り大きくない町村に於て、潰家十一軒毎に一名の死者を生ずる割合である。然るに、もしこれに火災が加はると、人命の損失は三倍乃至四倍になるのであるが、これは下敷になつた人の中、火災さへなければ無事に助け出さるべきものまで燒死の不幸を見るに至るものが多數に生ずるからである。地震の災害を最小限度に防止せんとするに當り主義として人命救護に最も重きを置くことは勿論であるが、唯此主義の實行手段として、火災の防止を眞先にすることが必要條件となるのである。もし此手段の實行上に伴ふ犧牲があるならば、それを考慮することも必要であるけれども、何等の犧牲がないのみならず、火災防止といふ最も有利な條件が伴ふのである。實際大地震の損害に於て、直接地震動より來るものは僅に其一小部分であつて、大部分は火災のために生ずる損失であるといへる。此關係は關東大地震、但馬地震、丹後地震に於て、此頃證據立てられた所であつて、別段な説明を要しない事實である。
地震に伴ふ火災は大抵地震の後に起るから、其等に對しては注意も行屆き、小火の中に消止める餘裕もあるけれども、潰家の下から徐々に燃え上がるものは、大事に至るまで氣附かれずに進行することがあり、終に大火災を惹起したことも少くない。
大正十四年五月二十三日の但馬地震に於て、豐岡町に於ては、地震直後、火は三箇所から燃え上つた。これは容易に消し止められたので、消防隊又は一般の町民の間には多少の緩みも生じたのであらう。市街の中心地に於ける潰家の下に、大火災となるべき火種が培養せられつゝあつたことを氣附かないでゐたのである。地震の起つたのは當日午前十一時十分頃であり、郵便局の隣りの潰家から發火したのは正午を過ぐる三十分位だつたといふから、地震後凡そ一時間半を經過してゐる。これが氣附かれたときは、一旦集合してゐた消防隊も解散した後であり、又氣附かれた後も倒潰家屋に途を塞がれて火元に近づくことが困難であつたなどの不利益が種々重なつて、遂に全町二千百戸の中、其三分の二を全燒せしめる程の大火災となつたのである。しかも其燒失區域は町の最も重要な部分を占めてゐたので、損失の實際の價値は更に重大なものであつたのである。
普通に出來てゐる水道鐵管は、地震によつて破損し易い。啻に大地震のみならず、一寸した強い地震にもさうである。特に地盤の弱い市街地に於てはそれが著明である。關東大地震後、この方面に於ける研究も大いに進み、或は鐵管の繼手の改良、或は地盤不良な場所を避けて敷設すること、止むを得なければ豫備の複線を設けることなど、幾分耐震的になつた所もあるけれども、それも地震の種類によるのであつて、われ/\が謂ふ所の大地震に對しては、先づ暫時無能力となるものと諦めねばなるまい。今日都市に於ける消防施設は水道を首位に置いてあつて、普通の火災に對してはそれで差支へないのであるが、大地震のような非常時に於ては、忽ち支障を來すこと、其例が餘りに多い。
非常時の消防施設については別に其局に當る人があるであらう。唯われ/\は現状に於て最善を盡す工夫をしなければならぬ。
水なしの消防は最も不利益であるから、水道の水が止まらない内、機敏に貯水の用意をすることが賢明な仕方である。たとひ四邊に火災の虞れがないように考へられた場合に於ても、遠方の火元から延燒して來ることがあるからである。著者は大正十二年の關東大地震の際、東京帝國大學内地震學教室にあつて、水無しに消防に從事した苦しい經驗を有してゐるが、水の用意があつての消防に比較して其難易を説くことは、蓋し愚の骨頂であらう。この經驗によつて、水なしの消防法をも心得て置くべきものといふことを覺つたが、實際には水を使用しては却つて能くない場合もあるので、著者の專門外ではあるけれども、聞き噛つたことを略述して見ることにする。
水を用ひては却つて能くない場合は後廻しにして、先づ水を用ひて差支へない場合、もしくは有利な場合に於て、水のあるなしによつて如何に之を處置するかを述べて見たい。
個人消防上の最大要件は時機を失ふことなく、最も敏速に處置することにある。これは火は小さい程、消し易いといふ原則に基づいてゐる。或は自力で十分なこともあり、或は他の助力を要することもあり、或は消防隊を必要とすることもあるであらう。
水は燃燒の元に注ぐこと、焔や煙に注いでも何等の效果がない。
障子のような建具に火が燃えついたならば、この建具を倒すこと、衣類に火が燃えついたときは、床又は地面に一轉がりすれば、焔だけは消える。
火が天井まで燃え上つたならば、屋根まで打拔いて火氣を拔くこと。これは焔が天井を這つて燃え擴がるのを防ぐに效力がある。この際若し竿雜巾(竿の先に濕雜巾を結付けたもの)の用意があると、最も好都合である。
隣家からの延燒を防ぐに、雨戸を締めることは幾分の效力がある。
煙に卷かれたら、地面に這ふこと、濕れ手拭にて鼻口を被ふこと。
焔の下をくゞるときは、手拭にて頭部を被ふこと。手拭が濕れてゐれば猶よく、座蒲團を水に浸したものは更によし。
火に接近するに疊の楯は有效である。
水を用ひては却つて能くない場合は、燃燒物が油、あるこーるの如きものゝ場合である。藥品の中には容器の顛倒によつて單獨に發火するものもあれば、接觸混合によつて發火するものもある。それにあるこーる、えーてる等の如く一時に燃え擴がるものが近くにあるとき、直に大事を惹起すに至ることが多い。或は飮食店に於ける揚物の油、或はせるろいど工場など、世の文化が進むに從ひ、化學藥品にして發火の原因となるものが、益殖えて來る。關東大地震のとき、東京に於ける大火災の火元は百五十箇所程に數へられてゐるが、其中化學藥品に由るものは四十四箇所であつて、三十一箇所は都合よく消し止められたけれども、十三箇所だけは大事を惹起すに至つた。
化學藥品油類の發火に對しては、燃燒[#ルビの「せんしよう」はママ]を妨げる藥品を以て、處理する方法もあるけれども、普通の場合には砂でよろしい。もし蒲團、茣蓙が手近にあつたならば、それを以て被ふことも一法である。
揚物の油が鍋の中にて發火した場合は、手近にあるうどん粉、菜葉などを鍋に投げ込むこと。
火に慣れないものは火を恐れるために、小火の中にこれを押へ付けることが出來ずして大事に至らしめることが多い。もし右のような火の性質を心得てゐると、心の落着も出來るため、危急の場合、機宜に適する處置も出來るようにもなるものである。左に記したものゝ中には實驗を行ひ得るものもあるから、教師父兄指導の下に、安全な場所を選びて、これを試みることは極めて有益なことである。
ついでに記して置くことは、火災の避け難き場合を顧慮しての心得である。
金庫の足の車止めを確かにして置くこと。地震のとき金庫が動き出し、扉がしまらなくなつた例が多い。
金庫、書庫、土藏には各の大きさに相應する器物(例へば土藏ならばばけつ)に水を入れ置くこと。これは内部の貴重品の蒸燒になるのを防ぐためである。
土藏内の品物は壁から一尺以上離し置くこと。
貴重品を一時井戸に沈めることあり。地中に埋める場合は砂の厚さ五分程にても有效である。
火災の避難に於ては旋風に襲はれさうな場處を避けること。
大火災のときは、地震とは無關係に、旋風が起り勝ちである。火先が凹の正面を以て前進するとき、其曲り角には塵旋風と名づくべきものが起る。又川筋に接した廣場は移動旋風によつて襲はれ易い。明暦大火の際、濱町河岸の本願寺境内に於て、又關東大地震東京大火災の際、本所被服廠跡に於て、旋風のために、死人の集團が出來たことはよく知られた悲慘事であつた。
昔の人の恐れてゐた大地震の搖り戻しは、最初の大地震の主要部の意味であつて、今日の所謂餘震を指すものでないことは前に辯じた通りである。然るに後世の人、これを餘震と混同し、隨つて餘震までも恐怖するに至つたのは災害防止上遺憾の次第であつた。
餘震を恐怖せるため、消防に十分の實力を發揮することが出來なかつたとは、屡專門の消防手から聞く述懷であるが、著者は此種の人士が餘震を誤解してゐるのを、最も遺憾に思ふものである。
統計によれば、餘震のときの震動の大いさは、最初の大地震のものに比較して、其三分の一といふ程のものが、最大の記録である。隨つて破壞力からいへば、餘震の最大なるものも最初の大地震の九分の一以下であるといふことになる。ざつと十分の一と見てよいであらう。其故に、單に統計の上から考へても、餘震は恐れる程のものでないことが了解せられるであらう。唯大地震直後はそれが頗る頻々に起り、しかも間々膽を冷す程のものも來るから、氣味惡くないとはいひ難いことであるけれども。
大地震後、餘震を餘りに恐怖するため、安全な家屋を見捨てゝ、幾日も/\野宿することは、震災地に於ける一般の状態である。もし其野宿が何かの練習として效能が認められてのことならば、それも結構であるけれども、病人までも其仲間に入れるか、又は病氣を惹き起してまでもこれを施行するに於ては、愚の骨頂といはなければならぬ。大地震によりて損傷した家屋の中には崩壞の縁に近寄り、きはどい所で喰止めたものもあらう。さういふものは、地震ならずとも、或は風、或は雨によつて崩壞することもあるであらう。又洋風建築物にては墜落しかけた材料も能く氣附かれる。さういふ建築物には近寄らぬをよしとしても、普通の木造家屋特に平屋建にあつては、屋根瓦や土壁を落し、或は少し許りの傾斜をなしても、餘震に對しては安全と見做して差支へないものと認める。實に木造家屋が單に屋根瓦と土壁とを取除かれただけならば、これあるときに比較して耐震價値を増したといへる。何となれば、これ等の材料は家屋各部の結束に無能力なるが上に、地震のとき、自分の惰性を以て家屋が地面と一緒に動くことに反對するからである。又家屋の少し許りの傾斜は、其耐震價値を傷つけてゐない場合が多い。一體家屋が新しい間は柱と横木との間を締めつけてゐる楔が能く利いてゐるけれども、それが段々古くなつて來ると、次第に緩みが出て來る。これは木材が乾燥するのと、表面から次第に腐蝕して來るとに由るのである。それで大地震に出會つて容易に幾らかの傾斜をなしても、それがために楔が始めて利き出して來ることになり、其位置に[#「ことになり、其位置に」は底本では「ことになり。其位置に」]於て構造物の一層傾かんとするのに頑強に抵抗するにあるのである。恰も相撲のとき、土俵の中央からずる/\と押された力士が、劍の峯に蹈み耐へる場合のようである。かうして[#「かうして」は底本では「かしうて」]最初の大地震に蹈み耐へる家屋が、其後、三分の一以下の地震力によつて押し切られることはないはずである。
著者は關東大地震の調査日記に於て、大地震後家族と共に自宅に安眠し、一回も野宿しなかつたことを記した。又但馬大地震の調査日記には、震原地の殆んど直上たる瀬戸の港西小學校に一泊したことを記した。此校舍は木造二階建であつたが、地震のために中央部が階下まで崩壞し、可憐な兒童を二名程壓殺したのであつた。然し家屋の兩翼は少しく傾きながら、潰れずに殘つてゐたので、これを檢査して見ると、餘震には安全であらうと想像されたから、山崎博士を初め一行四人は其家の樓上に一泊した。其夜大雨が降り出したので、これ迄野營を續けてゐた附近の被害民は、皆此の潰れ殘りの家に集まつて來て餘り大勢でありし爲、混雜はしたけれども、皆口々に、安らかな一夜を過ごしたことを談り合つてゐた。
昭和二年十月、プラーグに
於ける
地震學科の
國際會議へ
出席した
歸り
途、
大活動に
瀕せるヴエスヴイオを
訪ひナポリから
郵船筥崎丸に
便乘し、
十三日アデン
沖を
通過する
頃本稿を
記し、
同じく
二十九日安南沖を
過ぐる
頃、
稿終る。
著者 誌す
底本:「星と雲・火山と地震」日本児童文庫、復刻版、名著普及会
1982(昭和57)年6月20日発行
底本の親本:「星と雲・火山と地震」日本兒童文庫、アルス
1930(昭和5)年2月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「踏」と「蹈」、「附」と「付」、「ぢしん」と「じしん」、「地質學(ちしつがく)」と「地質學(じしつがく)」、「地鳴(ちな)り」と「地鳴(ぢな)り」の混在は、底本通りです。
※表題は底本では、「地震(ぢしん)の話(はなし)」となっています。
※挿絵は、恩地孝四郎(1891-1955)によるものです。
※本文の活字に合わせて、見出しの字下げを決めました。
※底本における、図の挿入による見出しの字下げの変更は、統一しました。
入力:しだひろし
校正:仙酔ゑびす
2012年4月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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