○月 ○日
 私はいつものように、まだ川の面や町全体に深い靄のかかっているうちに朝の散歩を急いだ。人に顔を見られることを、これほど嫌うようになったのも、精神的な病気が昂進しているためであろう。平静に思索することが可能なのは、このミルクの海を泳いでいるような、深い靄の中の散策をつづけている十数分数十分のうちに過ぎない。それとても、突然として白い幕の中から現われる思いがけない人の姿によって破られてしまうことが多い。
 自分が好きこのんで住んでいるとはいえ、あの、かつては座敷牢であったことに疑いのない、倉の二階にいる間は、(現在もう肉体の病苦からは逃れているものの)何故か、頭の中の歯車の一つがたえず不規則に動き廻り、私を狂わせずにはおかないと、猛威をふるう。
 今朝いつもよりは少し早く、微風にのって静かに流れて行く靄の潮流に流されながら、平静な楽しい散歩をつづけていた。と古い石橋を渡った散髪屋の角で、出合いがしらに誰かとぶ付かりそうになった。何時ものように、私は面をさげて対手に道をゆずった。すると向うもまた私の避けた方へ歩を移す。自分は立ち止った。すると先の男も立ち止る。その動作に何かしらわざとらしさを感じた。思わず見上げると、自分を見下してゐる相手の険しい目と視線が合った。自分は思わず、あッと低く叫んだ。

○月 ○日
 私が病魔に屈して幾度か死を選んだ時、病魔の陰から顔を出し、満足げに嘲笑った男、その男こそ私が数日前、靄の中の散策に町角で出逢った人物である。
 私は前にも記したように、朝の散歩の時間において、もっとも平静に思考しうる。言葉をかえて云えば、精神的にもっとも平静である。従ってあの時に逢った男、現実の人物か、または、私が白いスクリーンの上に見たかも知れない幻影であろうか、という自分自身の疑問に対しても判然たる解答を与えることが出来る。
 ――幻影ではない。確実に現在、地上に生をうけている人間である。しかしもし、あれが幻影でないとすれば、赤沢荘三郎がこの世に再現したことになる。――完全な液体となり、粉末と化して暗渠に流された人間が、二十年の歳月を経て、再び地上に現出する。――こうした超自然的なことを誰が信ずるであらう。事実、科学者として、そうしたことを信ずる最后の人間で私はあらねばならない。

○月 ○日
 完全犯罪という言葉がある。発覚されないように完全に遂行された犯罪という意味である。しかし自分ははたして完全犯罪が可能であるかどうかを疑う。殺人の場合を考えると、「殺害の時間」、「被害者のアゴニー」、「死体処理」の長いシーンの一場面、一場面が完全に犯人の脳裡に焼付けられる。これは永久に消滅することなく、犯人の希望せざる記憶として、彼の頭脳のどの部分かに密かに爬行し、絶対に消ゆることがない。そして、もっとも強靭な神経の所有者に対しても時を得ればその場面、場面が単独に、または、その一連の聯鎖をもって執拗に襲いかかって来、犯人の贖罪を強いる。こうした、われとわが手による審判に、そして、贖罪の強要に、ついに屈しなかった完全犯罪者が、はたして幾人あったであろうか。

○月 ○日
 四月というに朝のこの寒さはどうだ。家の中にいてさえ、完全な冬支度に火鉢がいる。それが太陽がずっと上り、痛弱の身を突き刺すような強い熱線が、かっと放射されると、もう立派に夏である。軒の洗濯物は白い煙を立てて、音のするような勢いで乾いていき、じっと坐って居ても汗ばんで来る。これがまた、正午を過ぎて、太陽が少し勢の弱まった斜めの光線を地上に投げかけると、突然、すーッと冷たい一陣の風が窓から流れ入る。するとまたしても、虚弱の身には急いで綿の入ったものを着なければならない。気候の変化や気温の上下は病弱の身に人一倍敏感である。しかし、これがこの辺りの特殊な気候の様相であるという。自分は日本でも一二の健康都市といわれるK市の山麓に静かに住みながら(知らぬながらにも)何を好んでこの気候不順なS町に移って来たのであろうか。それも病気保養のために! 自分は何とも答えられない。ただ運命の大きな手が私を引きよせたのだ、としか考えられない。

○月 ○日
 私の住んでいるのは離れの二階である。――尠くとも貸借関係の初めには「離れの二階」ということで話が始まった。しかし、私はその離れの二階なるものを見て、余りにも奇異なその構造に唖然とした。離れとは云うものの実は土蔵である。※[#「木+福のつくり」、U+6945、224-15]幅の広い、昔風の堅固な土蔵であって、入口を入ると、使用されていない階下は窓が閉じられて薄暗く、鬼気さえ感じられる。床板は頑丈な木材を用い、巨木を思わせる柱の幾本かが、さながら城の内部を連想させるように突き立っている。右側に二階に通じる階段があって、これを登りきると、階段の部分の空間が、横手から軽い滑車の音と共に滑り出す床板によって遮断される。こうした方法によって(もし、そうした事を希望するならば)二階に在る人物を完全に隔離することが出来る。――いうまでもなくこうした目的のために、この土蔵がいつかの日に建造されたことは疑いはない。
 部屋かずは二つあって、階段を上ったところが四畳であり、その奥に十畳の間、それに二間の立派な本床が附いている。この十畳と四畳との部屋つづきの両側に一間幅の廊下があり、採光は普通の土蔵の、あの特殊な窓を少し大きくしたものが、両側に三個ずつ附いている。従って、陽の光はまず申分なく流れ込む。洗面所、手洗場は階段を上り切った真横の一間を区切り、古風な趣きをさえ呈するものである。
 私はこの二階に異常な興味を感じた。興味は執着に変じた。蔵の持主が自分の病身の独身者を理由として、契約に難色を見せると、私は早速と自分の身の廻りを委託するための老女を雇傭した。希望以上の借受料を支払うことを暗にほのめかした。そして遂にこの「離れの二階」を手に入れたのである。

○月 ○日
 靄が濃い。大川の面を軽く吹き渡ってきた一陣の風が小川にかかった新橋の辺りの白い気体をそっと払いのけると、稀薄になったその部分にすッと雲のかたまりのような、新しい靄がすーッと動いて来て、たちまちもとのように、辺り一面を白い海にしてしまう。
 私は大川の中洲を、この深い靄の中を散歩していた。自分はもう何もこの世に執着はない。生死を超越した悟り切った心境にある。赤沢荘三郎の亡霊が(そうしたものが実在すると、私の信念をまげて仮定しての話であるが)私の贖罪を要求し、私の地上からの消滅を希望するならば、私は嬉んで彼の望みに応じる用意がある。しかし、私はいま少しの時間がほしい。――私の研究は、もう程なく完成する。
 自分が赤沢荘三郎を殺害したことは、たといそれが幾多の人間を助けることを意味したとしても、自分の貸借対照表の借方の側には、その行為が、大きく「負債」として記されている。私は自分の命が終るまでに、これをバランスさせるだけの「資産」――世の人のためになる「資産」を作り、それを対照表の貸方の側に新しく記人し、貸借を平均させておかねばならない。それがために、いま少しの時間が必要なのだ。
 今ごろ人のいそうにない、この大川の中洲の向うから大股で歩いて来る人間がある。気づいて、はッとした瞬間彼はもう目の前にいた。私の前に立ちはだかるように立ち止って私の面を真正面から凝視している。赤沢荘三郎である。一瞬、冷いものが私の背筋を走った。しかし、つぎの瞬間には私は科学者としての氷のような冷静をとりもどしていた。私は静かに彼の面を見守りながら、現実的な種々の観察をつづけた。
 ……二分、三分、五分、――息づまるような重苦しい沈黙が二人を囲繞する不気味なほどに真白い靄の中を黒雲のように這廻った。……七分、八分、――赤沢は前のように一と言も発せず、くるりと踵を返すと、再び白いスクリーンの向うに消えてしまった。

○月 ○日
 赤沢荘三郎が奇蹟によって未だこの世に生をうけているとすれば、彼は五十余歳である。また、もし、彼の亡霊が出現するとすれば、それは彼の被殺害当時の三十七八の若さでなければならない。しかし、昨日の朝、大川の洲で靄のスクリーンを通じて自分が、仔細に観察した彼は、年よりは老けて見えると感じられるが三十二三である。彼の荒々しい呼吸と興奮に躍動する彼の顔面の筋肉は白く垂れ下った部厚いスクリーンを通じてさえ、はっきりと感じられた。彼は疑いもなく自分たちと同じ人間である。赤沢荘三郎以外の人物である。とすれば、あの荘三郎との外観的な驚くほどの類似を如何に説明するか。答は簡単である。荘三郎の血をうけたものに違いあるまい。
 話が血縁に関係すると、自分はいつも遣瀬ないまでの憂鬱感に襲われ、暗澹とした闇の中に突き落されて、しばしは我にかえることもない。――私はK市で生れてK市で育った。学業の数年間を除いて四十年余、自分はこの街を離れたことはない。母は私を生むと直ぐに病死した。父は新しい配偶者を求めることなく、私は乳母の手によって養育された。父は私が最高学府の教育を終ると、少くない資産を残して没した。――こういえば話は平凡である。しかし私は幼い時から深い疑惑を、密かに自分の小さな胸に抱いていた。父は私の母に関しては何事も語ろうとせず、幼時、折にふれて、母のことに一と言でもふれると、父の顔色はさッと変って、そそくさと座を立つか、突然に面白いことを云い始めて、大きな声で笑い、私の関心を他に向けることに力めた。こうしたことが二三度あって、私は幼いながらにも母のことは、決して口にしてはならないのだと会得した。父は私が大きくなっても母に関することは一言も語ろうとせず、また私も敢て聞こうともしなかった。私がこの問題を父の前に提出しなかったのは、それが父にはタブーであることを熟知しているからに外ならなかった。いや、それよりも実のところ私の心の底にあった真実の理由はそれほど単純な明確なものではなかった。私は母に関する事実を父の口から聞くことを極度に恐れていたのだ。父は幼い時から、かほどまでに自分を愛してくれた。その父親が、お前はK市で生れた。母はお前を生むとすぐに病死した、という。聞かせてよければ、愛し子が心のうちでは夢にまで恋いこがれているであろう母親のことである。毎朝毎晩でも語りつづけてくれたことであろう。聞かせたくない事実が秘められていればこそ語ることを避けるのであろう。それを何を好きこのんで秘密の箱を抉じ開けようとするのか。中から飛び出してくるかも知れない悪魔が自分を不幸のどん底につき落すかも知れないではないか、私はこう恐れていた。
 ……父親はこの問題に関しては遂に一と言も口にせず幽冥境を異にした。

○月 ○日
 子供に秘められた血族関係の問題は世に多い。しかしいかほど堅固な「箱」に封じこまれていても、この種の「秘密」は必ずその「箱」のどこかに漏口リークを見出して、何時かは子供の前に多かれ少なかれ流れ出る。私の場合、この「箱」は非常に堅牢なものであり、その上私自身それに近づくことをさえ回避していたのである。そうした自分に対してもリークから漏れ出した事実の一節一節は目をおおうている自分の前に静かに流れて来て、いつまでも静止している。自分は箱をそっと開いて、細目をあけた。そして、いつか、じっとその流出物を凝視していた。
 私が希望せざるに知らされた事実は、私はK市の生れでないこと、他国で生まれ揺籃のままK市に移されたこと、「ソーベ」と呼ぶ十一違いの異母兄があること、彼の母は早逝したこと、私の母は後添であること、彼女の名は「キセ」といい、兄を座敷牢に閉じ込めたほどに虐待したこと、それがため彼は十四の時に家を出て消息不明なること、最後に、私の母は私の出生直後に病死したのではなく、六七年もの長い病気の後に没したらしいこと、――である。
 これだけが「箱」から漏れて来た全部であり、私が杞憂する悪魔はまだ飛び出さない。彼は疑いもなく箱の底に薄気味悪い微笑を面に浮べながら、じっと翼をたたんで蹲っているのであろう。しかし、これだけの流出物からも自分は、はっきりとこの悪魔の体臭を感じることが出来る。――私の母は私の生後四五年もの長い病気を経て他界したという。……いま、またしても、私は自分の頭の中の機械に変調を感じる。健康な人間の心臓のように、時間的に規則正しく廻転していた歯車と歯車が、ギギーと嫌な音を立てて瞬間的に活動を停止する。その度に自分は、烈しい憤りの場合に生じる、あの忘我の興奮に似たものを感じ、現世とも天国とも地獄とも判断のつかない、ただ混沌たる世界に突き落される。それは長い時間ではない。しかし、その間の言動に関しては、後刻いささかの記憶ももたない。この発作が本格的な形式を採るとき、私は狂人と呼ばれなければならない。私の母はこの種の病気を経験したのではあるまいか。そうとすれば、自分の体内には母と同じ血液が流れている筈である。こうした恐怖すべき事実を自分から秘すために、父はあの心労、労苦を敢てしたのではあるまいか。――もう悪魔が箱の中から飛び出したも同じである。しかし、私は驚かない。総ての覚悟はできている。

○月 ○日
 紗の幕をそっと下したような薄い靄を通して、もう樹々の梢のあたりまで登った太陽が笠をかむって真っ白に見える。さながら春の宵に見るたえ入るような悩ましい十五夜の月である――人はこう見るかも知れない。しかし、あの不気味にまで灰色に白い太陽の色はどうだ。死体の処置をすませて、静かに煙草の輪を吹いた自分と、あの時のシーンとが何故か思い出される。
 薄い靄は自分が小川の上流を散策しているうちにすっかり消えてしまった。もう太陽は高いであろうに何時の間に曇ったのか、田畠も農家もどんよりとして薄い鉛色の気体に包まれている。と、傍らにうず高く積み上げられた堆肥の向うから飛び出すような勢いで私の前に黒い影が突進した。――彼である。彼は何時ものように私の前に両足をふんばって突っ立ったまま、私の面を凝視した。複雑な表情である。私もじっと彼を見つめたが、それは彼が赤沢荘三郎の子息に相違ないという自分の推断を確実にするためだった。三分……四分……。私は口を開いた。
「赤沢荘三郎さんの御子息ですね」
「そうです」
 彼は重々しく答えた。
「私はあなたとお話したい。御都合がよろしければ、明朝私の住家においで願いたい」
「承知しました。私はあなたからの何らかの発言を希望していました。そして、今日その目的を達しました」
 彼は言葉のまだ終らないうちに、踵を返すと小川の上流に急ぎ足で歩いて行った。

「清々しい新緑といいますが、さーッと来て、すーッと晴れ上った後の緑ほど美しいものはありませんね」と語られた言葉を思い出した。いまも初夏の雨らしく、さーッと来た。私は疲れた頭を執筆中の論文から離して、はるか彼方の小山の麓に近い緑の樹々のあたりを遠望している。清新な清々しい新緑を翫味すべき希望を抱いて窓辺に立っているのである。しかし、この辺りの天候はあくまでも常軌を逸している。さーッと音がしているかと思えばこれがいつの間にかざーッという響に変っている。そうかと思えば、こんどは、ごーッと地響きを伴ったものにまで変化して、灰色の空からは一本一本がはっきりと目に見える太い、太い無数の雨の棒になり、真白い幕になって地上を突き刺して廻る。これがいつまでもつづく。雨宿りをしている人々もこれではさぞ困るであろうと思いながらいつしか新緑を忘れる。しぶきを避けて窓をしめ、論文の最後の章を書きつづける。雨のことも、雨宿りの人達のことも、頭から消え、いつしか身体全体が原稿用紙の中にとけ込んでいる。と、ふと気づくと雨は小降りになっているが、まだ止まない。この間数十分、いや一時間も越すであろう。――ここは目を保養することすら不可能な、病者には不適当な土地らしい。

○月 ○日
 今日は端句である。紺碧の空をあちらこちらに真鯉緋鯉が大空をわがもの顔に遊 ママする。はるか向うの青葉の美しい辺りに、真鯉二匹を誇らしく高く掲げた藁屋根の家が見える。二人の男子ありという意味であろうか。自分は兄弟愛を知らない。十六の時に私の母の虐待に堪えかねて家出したという十一違いの兄は今どこにいるのであろうか。
 赤沢荘三郎の子息が私を訪れて来たのは九時過ぎであった。彼は老女に導かれて重い足取りで階段を上って来た。私は十畳の間に床を背に端座していた。十畳と四畳の部屋を仕切る襖は開け放たれ、両側の三個の窓も、窓の大きさ一ぱいに初夏の清々しい朝風を静かに部屋の中に送りこんでいる。階段を登り切った赤沢の子息は私を一瞥したまま、突然に襲われたらしい何か異常な感動を押しかくしでもするような様子を彼の動作に明らかに示しながらじっとそこに立ち竦んでしまった。彼は私の存在をも忘れて、くるったように彼の眼のみに全神経を集中させて、部屋の内部を端から端まで突き刺すような鋭い、そして注意深い視線で掃き廻した。
「赤沢さん。どうぞ」
 彼は私の声に初めて自分に返ったように、私の前に座をしめた。しかし彼の関心はなおもこの部屋にあるらしい。彼は口を開くと、
「失礼ですが、あなたはこの二階を特異なものとお考えになりませんか」
「建築様式の意味ですか」
「そうです。この建物は家というよりも、日本古来の倉の形式を象ってゐますが、民家の倉といえば、外観にしろ、内部の構造にしろ、その様式にはある定った約束があると思います。こんな倉は、このC地方に一つ、いや日本全国を探しても、他にないのではありますまいか」
 こういって、彼は私の言葉を待たずに、なおも続けた。
「私の父は倉の二階に住んだことがあると私に話しました。私が聞かされたその倉の特殊性は、私がいまここで見る通りなのです」
「そうすれば総てを綜合して、赤沢荘三郎氏が、かつてはこの二階にお住みになったことがあるということになりますね」
 私は冷然と徴笑さえ面に浮べて、彼を見た。
「そうです。しかし、これは別の問題です。これについては、またお願いに上ることがあると思います。」
「承知しました。では今日の御用件を承りましょう」
 赤沢の息子はしばし彼の膝の上に視線を落していたが、きッと面を上げると、私を睨みつけるように、
「私は父の怨を晴したいのです」
「どういう意味か私には分りません」
「十五年前に、あなたは私の父を地上から抹殺しました」
「殺害したと仰有るんですか? 警察も当時はそうした意見でした。しかし証拠は発見されなかった筈です」
「そうです。証拠があれば、あなたは十五年前に絞首台に上っています」
 彼は口を閉じると、思いがけなくも怱々と立ち上った。そして、
「私は機会を待ちます。今までも待っていました」
 といい捨てると大股に座敷を歩いて、階段の下に消えて行った。

○月 ○日
 赤沢荘三郎の子息は今日も姿を見せなかった。あれからもう五日になる。彼の出現を待ちうけるようになったいまの自分の心境を私は自分でも不可解に思う。

○月 ○日
 昼すぎである。彼が見えたという老女の言葉に私は階段のところまで彼を迎えた。彼は無遠慮に私の目に突っ立ったまま、
「今日はお部屋の中を詳しく拝見させて頂くつもりで参りました。私は父がこの二階に住んでいたということを確実にしたいのです。御研究のお邪魔はいたしません」
「よろしい。どうか御勝手に行動下さい」
 私はこういって、論文の最後の数枚の執筆をつづけた。赤沢は四畳の部屋の隅の二本の柱の前に正座すると、そこに残された種々の瑕を仔細に点検しはじめた。彼はこうした行動を静かに繰返しながら、私がとにもかくにも論文の原稿に「完」と記した頃には私の机の傍の床柱の前に静かに坐して同じ動作をいささかの疲労も見せずに続けていた。黄色い太陽の斜線がもう時間も大分過ぎたことを語っている。
「ありました」
 彼は突然に誰にいうともなくこういった。そして私の方を振りむくと、改めて、
「ありました。確実な証拠がありました。これで父が話していた倉が、ここに違いないことが分りました。この床柱の横に釘のようなもので『キセソーベ』と書かれているのが判然と分ります。ソーベは父の子供の時分の呼び名で、キセという女は父を虐待して、この座敷牢に幽閉した後添の名前なんです。その後添も間もなく気が狂いこの部屋で死んだそうです」
 私は百千の雷が一時に頭の上に落ちかかって来たような衝撃を感じた。頭の中の歯車が一つも残らずギギーと不気味な音を立て出した。
「赤沢さん。急に気分が悪くなりましたので失礼します。二三日のうちに是非お越し下さい。お話したいことがあります」
 私はかろうじてこういったまま、そこに倒れた。

○月 ○日
 朝から昼まで、そして、昼から晩まで私は床柱の前に坐って、かすかに浮び上っている「キセソーベ」の文字を凝視しつづけている。私のうけた衝撃は余りにも大きい。私にはもう何を考える力も、何を語る気魄もない。
 私は今夜自殺する。その前に、この手記に「ある完全犯罪人の手記」と題づけ、ガラス瓶に封じこんで大川に投じる。私はこの総ての事実を闇に葬るべきか否かを運命の神の裁断にまかせたいのである。

底本:「酒井嘉七探偵小説選 〔論創ミステリ叢書34〕」論創社
   2008(平成20)年4月30日初版第1刷発行
初出:「黄色の部屋 第四巻三号」
   1952(昭和27)年12月10日発行
入力:酒井 喬
校正:北村タマ子
2013年5月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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