昨年十一月に始めて出羽の踏査に着手したその続きを、この春の休暇中にやってみたいと思っている折から、山形県史蹟名勝天然記念物調査委員会の開会式が行われるので、やって来ぬかと理事官の有吉君から言って来られた。これ幸いとさきに御厄介になった庄内の阿部正己君に、同地方遺蹟踏査の御相談に及ぶと、このころはまだ雪が深くてとても駄目だとのお返事だ。冗談じゃない、こちらではもう桜が咲きかけているころだ。同じ本州のうちでも奥羽地方となるとそんなにまで様子が違うものか、これは一つ遺蹟踏査よりも雪の春景色を見たいものだ。それには庄内方面よりもいっそう雪の深かりそうな羽後の仙北地方がよかろう。かねて見たいと思っている後三年の役の遺蹟金沢柵址を、雪の中に見てまわるも面白かろう。ついでに久しくお目にかからぬ紫水生深沢多市君をもお訪ねしたい。同君は昨年丹後熊野郡長を辞してこの仙北の地に帰臥せられ、お好きの道とて郷里の故事を調査せられ、現に秋田県史蹟調査委員となって、最近には「雄勝城址考」の謄写版刷をも寄せられたほどの熱心なお方だ。雪で踏査が駄目ならば、お目にかかってお話を伺うだけでも有益であるに相違ない。同君は昨年帰郷後、祝融の災にかかられて、多年蒐集の史料までも少からず焼いてしまわれた。親しくそのお見舞も申したい。かたがた今回は羽後まで足を伸ばそうと、早速御都合を伺うとぜひ出て来いと言われる。その交渉に手間取って、やっと二十七日の東京上野駅発の夜の急行で出発した。
 東海道線とは違って奥羽線の二等室はゆっくりしている。寝室を取らずとも楽々と足を伸ばして、大宮駅のあたりから眠りにつき、白河・福島も夢の間に過ぎて、目が覚めたのはすでに奥州と羽州の境界たる板谷峠をも越えた後であった。窓外を見ればまだ夜が明けぬながら、なるほど雪が深いらしい。さすがに出羽だと思った。米沢・赤湯あたり、平地の開けた所見渡す限り広々と雪の原だ。それが不思議にも山形に近づくとほとんどなくなっている。山形で下車して有吉君に行程のことを電話し、次の列車に乗りかえて北に進む。天童・神町・楯岡以北、まただんだんと雪が多くなっている。平地では約二尺、線路の両側に掻き上げた所では、八尺くらいの高さの所がある。民家の屋の棟から掻き落した雪は家を取り囲んで堤防を作り、家の入口は低く穴室あなむろの中へ下りて行く形になっている所もある。これならばなるほどよく寒風を防いで、冬も比較的暖かく過ごせる訳だ。線路に沿うて墓地のある所があった。石碑はむろん深く雪の底に埋まっている。そこに新たに埋められた新墓が二基、雪を掘り上げた擂鉢の底のような所に、淋しく設けられているのはいっそう物哀れだ。雪国では葬式も容易でない。
 新庄以北、釜淵・及位のぞきあたり、山手にかかっては雪がますます深く、山の斜面には雪崩なだれの跡が所々に見える。駅の前は吹雪ふぶきけの葦簀よしずの垣根が作られている。同車の客の土木請負師らしい人は言う。「私はこの奥羽線架設の当時から、鉄道工事に関係していますが、この地方の雪と来てはとても他地方の人の想像にも及ばぬところです。何しろあの有様ですもの、冬の真っ盛りなど、どんな設備をしたとてとうていあの天然の威力には敵いません。それを知りもせずに代議士だの新聞記者だのという奴らは、実地を見に来るだけの親切もなく、やれ予防工事が不完全だの、雪は毎年降るに極った物だのと、鉄道の故障のあるたびごとにうるさく文句を言うのです。もし雪の多い所全部に鉄筋か煉瓦で、ナデ(雪崩すなわちナダレの略称)除け、スノーセットをトンネル風にでも作ったなら、あるいはどんな大雪でも堪えられましょうが、それではとても費用が続かず、またその必要のない年中の大部分が不快でたまりません」と。なるほどそれに違いない。人力はよくだんだんと天然に打ち勝って行くとはいえ、今のところではまだ、全然これを征服するとまでには行かないのだ。どうで昔はこんな交通機関などはなかったのだもの、たまに大雪で汽車が不通になったならば、大井川の河止めに遭ったくらいに覚悟して貰えばよいのかも知れぬ。しかし今のいわゆる目覚めた人間には、なかなかそれでは承知が出来ないのだ。とても相撲にならんと、頭から考えてもみなかった労働者らが、結束して資本主に喰ってかかる世の中だもの。

 十二時少し前に後三年駅で下車すると、改札口に深沢君が待っておられる。当年の郡長様も郷里では鳥打帽にモンペという出で立ちだ。モンペとは袴とズボンとの合の子で、雪国にはなくてはならぬもの。地方によって多少作り方も違い、タチツケ、あるいは略してタッケ、猿袴、みなどともいい、庄内辺ではマタシャリとも言うそうな。昔は一般に猟師・山人などの着用したものだが、今でも雪国には広く行われている服装なのだ。
 深沢君に伴われて、駅前のある会社の事務所で少憩、金沢八幡社の祠官三浦憲郎君とともに、飯詰村中島の江畑新之助君の邸に案内せられて、この夜は同家で一同御厄介になる。駅から江畑君のお宅まで約二十五町、生れて始めて箱雪車はこぞりというもので送られた。否、乗ったことがないばかりでなく、見たこともまた始めてなのだ。雪の上ではとても人力車が利かぬので、俥屋さんも雪の間だけ雪車屋そりやさんに早代りする。人一人をやっと坐らせるくらいの大きさの箱をそりに取りつけ、上に母衣をかけたもので、厚い座敷団を敷き、毛布で達磨さんのようにくるまって、火鉢でも抱えていれば、まず寒さ知らずという結構な交通具だ。それを乳母車を押すように後から押して行く。綱をつけて前から引く。雪の多い、ことにそれが氷っているようなころには、きわめて軽快に動くそうなが、しかし今は雪消時期なので、そうでもないらしい。
 この冬はことに雪が多く、この仙北あたりでは、盛りには平地に八尺も積ったという。今でも三尺ばかりの厚さはある。その一面の雪野の中にも自然に通路が出来ている。表面は踏み固められておっても、下の方からだんだんと融けて来るので、慣れた足の俥屋さんでも折々足を深く踏み込む。小川や水溜りの所などには、ところどころ雪が陥没して、断崖が現われている。幅三、四尺の土橋の上に、二、三尺の厚さに積った雪が両側から崩れ落ちて、上面わずかに二尺足らずの梯形をなしている上を、俥屋さんは慣れた業とて巧みに引いて行く。もしその融けかけた雪が少しでも崩れたなら、たちまち箱雪車もろとも川の中へ墜落する訳で、時々ヒヤヒヤさせられる。翌二十九日、三浦祠官は朝早くから金沢へ先発せられ、自分は深沢君とともに、またも箱雪車に送られて、後三年の役の遺蹟たる金沢柵址踏査に出かけた。この間約一里。春霞が深くこめて数町先は見えず、眼界の及ぶところことごとく純白な雪の郊野で、シベリヤの氷原もかくやと思われるくらい、その中を薄ボンヤリと、右往左往に橇が通う。雪国の景色を初めて見る自分には、これも日本のうちかと、言い知れぬ異様の感に打たれたことであった。しかもこれが三月も末の二十九日で、自分の郷里の阿波などでは、疾くに普通の桜は散りかけて、八重桜満開の時期なのだから驚く。
 自分らの橇の通っている下はことごとく水田で、道路も用水路も構わず、好きな所を好きな方向に、勝手に道を作ってその上を進んで行くのだ。農夫は朝早くから橇で肥料を運搬して、各自自分の地面と思う所へそれを分配している。間違えて他人の地面に置いて行くことはなかろうかと、他目よそめには案じられるが、遠方の立木や山などの見通しで見当をつけて、自分の地面を間違えるようなことは決してないそうな。なんでもこの雪国では、雪の上の交通を利用して、その期間になるべく物を運んでおくのだという。材木を載せた橇、砂利を載せた橇など、いくつも縦列をなして通っている。土木工事の材料を、今のうちに軽々と運んでおくものらしい。雪の多い時には、一人で十数俵の米を運ぶのも容易だという。他所にあって考えた時には、雪に閉じ籠められた地方の人々は、定めてその期間禁足の憂き目を味わって、薄暗い家の中にのみ数月間を閉じ籠められているのかと気の毒にも思っていたが、その時がかえって交通に至便なのだとは、雪にもやはり利用の道があるものだ。

 自分の昨日下車した車駅を後三年駅という。近年の新設で、陸地測量部の地図には載っておらぬ。地図をたよりに金沢柵址踏査の旅程を予定した自分には、当初この駅の存在がわからず、したがって汽車の切符も次の飯詰駅まで買っておいたのであったが、昨日深沢君から「二八ヒゴ三ネンエキマツ」という電報が東京の宅に届いた。それを自分は二十八日午後三時ネン駅で待つとのことであろうと解して、ハテ珍らしい駅名だと、地図を探してみたがそれらしいものはない。ようやく旅行案内の時間表を繰ってみて、始めて後三年駅なるものの存在を知ったことであった。
 後三年駅とはよくも考えた名前だ。聞くところによれば、この駅の所在は金沢町・飯詰村・金沢西根村の三町村入会地で、どの町村名を取って駅に名付けるということも出来ず、磨った揉んだの揚句に、後三年の役の戦跡たる金沢柵址に通ずる最近の駅だというので、その役の名を駅に取ったのだという。ただ「役」と「駅」と、音通のところが紛らわしい。
 駅から役の最後の遺蹟たる金沢柵址まで約一里。その間に一群の丘陵が邪魔になって、遠望の利かぬのは駅名に対して残念だ。この丘陵は他の山からは全く離れて平地中に存在するもので、その南端のものを経塚山というそうな。その上部には鉢巻風に段地が山を一周している。段地の上は古墳だとの説があるそうだが、あるいは館として穿った塹濠の址かも知れぬ。なにぶん雪が深いのと、時間の余裕がなかったのとで、登攀調査することが出来なかった。いずれ他日を期したい。この辺の地大部は江畑氏の所有で、同氏は近くこれを提供して一大公園にしたいとの計画だと承った。

 深沢君によって御案内を受けた江畑新之助君は、秋田県多額納税者中にも屈指なお方の由で、その邸宅は先年火災に遭い、新たに建てられたものだという。広々とした庭園を控えた、至って宏大なものだ。同君はもともと庭園と読書とに趣味を有せられているそうで、邸内の林泉は川に跨って設計せられ、よほど趣向を凝らされたものらしい。しかし、なにぶん今もって深く雪に埋められ、庭木を保護する雪除けの筍が、雪中にいくつも突っ立っているほどの有様なので、地面の上の様子は少しもわからず、ただその大規模なところを拝見したに過ぎなかった。同君が駅前の丘陵一帯を公園とされようというのも、やはりこの趣味からであろう。同君の蔵書もかなり多いもので、今なお新刊書などを盛んに買い込まれ、行く行くは一の図書館として公開せられるおつもりらしい。本宅からは大分離れた一棟の土蔵をそれに当てておられるのは結構なことだ。蒐集家はすべからくこれだけの心懸けが必要である。多数に古器物や珍籍を集めていたがために、火事のさいに一度にそれを焼いてしまうというようなことは、確かに一の罪悪だ。しかして昨年この罪悪を犯して参考書に不自由な深沢君は、江畑氏のこの書庫について書籍の整理や、目録の調製かたがた、閲覧研究を重ねておられる。同君希望の書籍はなんでも江畑文庫に供えてくれられるとのことだ、深沢君もよい文庫を控えられたものである。
 案内をうけて、同じ邸内ながらも雪の山に登ったり、雪の谷に降りたりしつつ、やっと書庫にたどりつく。書庫はまだ新しい土蔵造で、一方にお座敷がついている。深沢君はここで書籍を整理したり、閲覧したりしておられるのだ。蔵書目録がまだ整頓しておらぬので、拝見するには不便であったが、所蔵の書籍の種類は各方面に渉って、この文庫の特徴というものがなさそうだ。江畑君も将来これをいかに発展せしむべきかに迷っておられる。そこで自分は、郷里の石原君の呉郷文庫が主として歴史と地理とに局限せられ、特に阿波に関する史料の蒐集に力を用いられつつあることをお話しして、どうで歴史好きの深沢君が関係しておられることだから、なるべくこの方面に発展せしめられ、特に出羽に関する史料ならば、この文庫へ来ればなんでもあるというくらいの抱負をもって蒐集に尽力せられたならおよろしかろうとお勧めしたことであった。江畑君もこれには賛成せられた。深沢君の同感は言うまでもないことと信ずる。
 蔵書の中から『真澄遊覧記』を借り出して、ところどころ拾い読みした。前号資料欄に納めておいたのは、その中の一節である。
 二十八日の夜は深沢君および三浦君とともにこの江畑君の御宅で御厄介になった。近所の石名館いしなだてから発掘したという石器、土器など取り寄せて見せてくださった。土器はもちろんアイヌ式のもので、石器は多くは奥羽地方の普通品だが、ただ一つ、糸ナデと称する麻の皮剥きに似た石器は珍らしかった。何分にも仙北地方だ。アイヌの遺蹟は多いらしい。

 江畑君方の一夜は、有益なる雑談に夜の更けるも知らずに過ごしたことであった。そのうち特に面白いと感じたのは、この地方で小作百姓をタヤというとのことである。タヤはもちろん田屋たやの義であろう。他の地方では一般に婦人の月経のことを「タヤ」といい、月経時のことを「タヤにいる」などという。タヤについては『民族と歴史』第四巻第四号に、橋川正君の「タヤ考」を紹介しておいたが、あれは主として本願寺のタヤについてであった。月経をタヤと呼ぶことは、もともとわが邦俗血穢を忌んで、経時の婦女の住宅内に同居し、特に神棚に近づくことを許さぬ習慣から、漁村では通例海岸に月小屋を設けて、経時の婦女はその期間をここに過ごすの例であったように、農村では有り合せの田屋に経時を送ったことから、得た名であるに相違ない。田屋とはその名のごとく田地の所在に設けられた小屋で、平素は居村の住宅に住んでいる農民も、農繁期には朝夕その耕地に通うの不便を避けて、便宜ここに寝泊りしたものであった。もちろん村落に近い田地にはこの必要もなかったであろうが、それでも刈り取った稲を納めたり、籾を落としたりするための小屋は必要であったはずで、それを経時の例の隔離舎に使用していたものであろう。
 ところで特にこの仙北地方に、他では半人はしたまたは間人まうとなどと呼ばれた小作百姓のことを、タヤと呼んだのは一考に値する。由来、奥羽地方はもと夷の地であって、特に出羽でも仙北三郡の地方は、比較的後まで夷俘や俘囚の残存した場所であったから、かの「大宝令」の規定に見ゆるがごとく、人居は常に城堡内に保護せられて、ただ農時にのみ出でて営田の所に住むという習慣が比較的後までも行われていたことと思われる。この営田の所の住居すなわち田屋である。後に夷に対する防備の必要がなくなった時においても、地主たる農民はなお引続いて、営田から離れたもとの村落に住居し、営田の地なる田屋には、土地を有せずして耕作にのみ使役せらるる、いわゆる農奴が住む習慣を生じたものではなかったろうか。農奴はすなわち後の小作百姓の類である。かくてここに小作百姓に対して、田屋の称呼も起り得る訳である。
 仙北でもまた庄内地方と同じく、皮革を扱う旧特殊民をラクといっていたそうな。これは本誌一月号「庄内雑事」中に書いておいた通り、牛馬医たる伯楽の略称であるに相違ない。去る一月二十八日、大和御所町における差別撤廃講演のさいに、同地大正村西松本の前川増吉君所蔵の部落関係書類を借覧した中に、牛の疾病治療法を図示した一巻の伯楽伝書があった。上方かみがたでもやはり牛馬医はこの人々によって行われて、ために伯楽の名があったのだ。この仙北地方にももと少数のラクがあって、皮細工に従事し、万歳などに出ておったが、今もその流れのものが遺っていて、太鼓、三味線などの皮を張ったりしているものがあるそうな。しかし今では多くは他の職業に転じ、住居も比較的自由で、通婚も時には行われ、そう差別待遇は受けておらぬという。そうなければならぬ。

 雪の深い所ではしばしば屋根の雪を除かぬと、その重みで粗末な家は潰れる虞れがある。しかしそれを掻き落すとそれが家の周囲に積み重なって、高さ軒を没するようにもなる。そうでなくてもこの冬のような大雪では、低い家では軒まで達することが珍らしくない。そこでかかる地方では雪が四壁に逼まるのを防ぐために、家の周囲に「雪がこい」ということをする。雪国の家は普通三方を壁で囲うて、出入口を一方に設け、他は小窓があるくらいに過ぎないから、通例壁に副うて木材を立て、それに葦簀よしずこもの類を縛りつけてそれで取り囲むのであるが、江畑君のお宅のような都会風の座敷廻りなどでは、前もって板で作ったしとみ風のものを設備して、それを外側に立ててあった。しかしいずれも壁が直接雪に冒されないための防禦なのだ。『和名抄』に、
縛壁 釈名云、縛壁ムシロ 縛著於壁也、漢語抄云、防壁(多都古毛)
とある。そしてそれを屏障具の中に列挙してあるのである。このことは『民族と歴史』第六巻第五号に、乞食を「お薦」ということを論じた文中に、簡単に及んでおいたことであったが、今この雪国で薦の類を家の周囲に副え立てて、壁を防ぐの設備をしているのを見て、縛壁は席をもって壁に著くる物だといい、防壁と書いてタツコモと訓ませた理由を、なるほどと覚えたことであった。もっともこれは雪国において、積雪の期間のみの設備であるが、昔の不完全な家屋では、普通の場合風雨の侵蝕に対しても、また同様に薦を立てて防壁の設備を施したものであったと考える。「縛壁」に対する『釈名』の解は、この用途におけるタツコモの有様をよく説明している。しかもそれを『和名抄』に屏障具の中に収め、とばり・屏風・すだれなどとともに列してあるのは、後にその品の用途を異にしても、なお旧時の称呼を保存したもので、前引『釈名』や『漢語抄』の解釈は、これを屏障具というよりは、むしろ墻壁具の部に収むべき用途に対する説明であると解せられるのである。

 二十九日江畑君のお宅から例の箱雪車の厄介になって、約一里の雪の郊野を金沢町に送られた。平地では滑走自由ですこぶる爽快だったが、それでもなお融けかけた雪の上のこととて、その下を小川が流れたり、水溜りに陥落したりした所もあって、折々ひやひやさせられた。それが一とたび村落の中に這入ってみると、雪道ゆきみち地道じみちとの過渡期なるこの季節のこととて、例の家根から掻き落した雪が、まだそのままに高く積もって峻しい山となっていたり、すでに一部分それが除かれて、深い谷となっていたりして、それを引き上げ引き下ろされるたびごとに、雪車の中の旅も容易でないと思った。
 清原武衡・家衡らが最期の籠城の地たる金沢柵址は、金沢本町の丘陵上にある。その麓を流るる川を厨川くりやがわといい、これを越えるとすぐに柵址への上り口となる。ただしこの厨川というのは、安倍貞任の最期を告げた奥州の厨川とは全然別の厨川だ。柵址には八幡神社が勧請せられて、その社務所が登り口にある。早朝江畑君邸から先発された三浦祠官を始めとして、前代議士の伊藤直純君、金沢町助役の伊藤直之助君、近所の菓子屋恵美須屋さんの御主人戎谷亀吉君などが、すでに社務所で待っておられる。伊藤直純君は熱心な金沢研究家で、金沢柵や後三年の役に関係した史料を集めて、『金沢史叢』という大部の叢書をまでも編輯しておられるお方だ。昨年深沢君のお宅が焼けたので、同君はその思い出として「火災に遭ひし記」というものを書かれ、それを謄写版刷として知己、友人に配られたところが、それを受け取って読まれたその日に偶然伊藤君のお宅もまた焼けた。そしてその感懐を記述された文が深沢君の記事の附録となって、その当時自分のもとに致されたので、伊藤君のお名前なり、その特志のお方であることなりは、すでに前から承知していたのであったが、ただそれだけのことであっただけでも今お目にかかってみれば、なんだか旧知の感がして懐かしかった。恵美須屋さんまた伊藤君と双璧ともいうべき熱心な金沢通で、ことに丹彩の技に長じて、神社の宝物その他を一々絵にあらわした帖を作られたり、伊藤君と謀って『後三年絵巻』の残欠を補うべく、研究考証の末に補遺十数巻を描いておられる。その熱心さ加減はとても常人の及ぶところではない。
 社務所から社殿のある柵址まで約六町、雪が深くてとても和服、駒下駄の行装では登られそうにもない。例のモンペを借りて袴とはきかえ、足袋の上に借り物のゴム靴を穿ち、すでに踏み固めてある雪の上を尋ね尋ねして登る。人通りのない所ではゴム靴のみでは不可とあって、さらに靴の上にカンジキを縛りつけて、下の方から融けかけた雪を踏みしめ踏みしめ、伊藤君先導のもとについて行く。折々その表面を踏みぬいて、カンジキ著けたまま太股の辺まで踏み込んでは、それを引き出すのが容易でなかった。
 丘陵の頂上は二段に削平されて、上段に八幡宮の社殿がある。額に正八幡宮とある。別に二の丸、西の丸などと、構造は普通の山館とは違ってすこぶる込み入っている。兵糧蔵の跡という所、例の炭化した籾が出る。焼き米と普通に呼ばれているが、あながち焼けた訳ではあるまい。昨夜拝見した江畑氏蔵品の中にも、それが塊をなして厨川に流れていたのがあって、珍しく思ったことであった。なんでも多量の兵糧がそのまま炭化して埋まっているものらしい。後三年の役に清原武衡、家衡らがこの柵に籠城して、頑強にそれを拠守したのには、さすがの八幡太郎も閉口して手のつけようがなかったのであった。かくてついに兵糧攻めの持久の策に出でたのは、もちろん武衡らの強勇によったとはいえ、実にこの柵の要害堅固のためであった。これにはさすがの武衡らも閉口して、城中食尽きついに陥落するに至ったとあるが、しかも今に至ってなおいわゆる焼米のかく少からず出るのは不審である。あるいはこの城が後に再び他の豪族の拠守するところとなっていたためかも知れぬ。金沢氏拠守のことはその伝えがあるが、その他にもなかったとは保し難い。したがって今の柵址は後三年の役当時のままではなくて、後に手の加えられたところが少くないのかも知れぬ。
 加藤君一々近傍の形勢を指示して、説明してくださる。南に碧水を湛えたのが蛭藻沼で、武衡が藻を頭から被って隠れていた所、その附近の丘が陣岡とて義家陣営の址、西に見える低い丘が陣館の丘で、本城出城のあった所、ここにある深い堀が、当時の塹濠の址だなどと、一々掌を指すがごときものだ。帰途の汽車の中で陸軍将校の一団と乗り合したが、その人達の談に、明後日とか金沢町附近で演習が行われるので、加藤直純氏から講話を承るはずになっているとある。加藤君は全く後三年の役と金沢柵とについては、なくてはならぬお方なのだ。元の道を下って社務所に休み、陳列の宝物類や、わざわざ取り寄せてくださった『後三年絵巻』の写しなどを拝見して、再び雪車に送られて、後三年駅に向った。

 金沢柵址の八幡神社は、伝えて八幡太郎義家が、羽州鎮護のために石清水から分霊奉祀したものだという。慶長九年、佐竹義宣社殿改修の時の棟札に、出羽国六个郡之鎮守とある。しかし後世では金沢一郷のみがその氏子たるに過ぎなくなった。八幡宮はその宗社石清水に古く放生会が行われたほどで、ことさらに殺生を忌まれ、また触穢の禁忌のやかましい社なので、ここでは今なお領域内の殺生を厳禁し、また例祭月の正月と八月とには、朔日から十五日までは鳥獣の肉を喰うを禁じ、この間に氏子中に死者あるとも、村内に葬ることをせず、隣村の境に到って葬儀を行うということである。
 八幡宮の社殿に「お通夜つや」ということが行われる。男女相集ってかけ歌を催し、勝負を決する。その歌には一定の型があるが、文句は即席に作るのが多く、それをニガタ節という節調で歌う。文句に行きつまったもの、声の続かぬものは負となって退き、新手と入れかわる。たいてい十二時ころから始まって、夜を徹するという。かけ歌とは、相手の歌の文句なり内容なりにかけて、それに縁故ある歌を歌うの義であろう。昔の歌垣というのは、集まった人が並んで人垣を作り、互いに歌を詠み交わすための名であろうが、このかけ歌また一種の歌垣である。『摂津風土記』に見える歌垣山、『万葉集』や『常陸風土記』に見える筑波のカガイ、皆同じ種類のものであろう。自分の郷里においても、夏の夜若い男女がお寺の庭などに集まって、麦舂きの真似をしながら、相手の歌の文句にかけて即席新作の歌をうたい、勝負を争う催しがしばしば行われる。それをオスガタといっている。相手の姿を賞めたり、ひやかしたりする歌を多く初めに歌うからだという。「様のお姿これから見れば、丁度山田の猪脅ししおどし」という風のものだ。昔はこのようなことが各地に行われていたものであろう。そしてそれがこの金沢八幡社の恒例祭日にも行われているのだ。伊藤君記述の『八幡神社略記』に、「八幡宮の北方に当る村落を仙北の北浦と称し、此地方に於ける妙齢の女子、恒例祭に社参し、一夜の参籠を為すに非ざれば、嫁がざるもの多しと。之を御通夜と称し、今猶行はるといふ」とある。やはり筑波の歌かがいと同じく、もとは未婚の女子の夫定つまさだめの機会をなしたものであろう。

 仙北の名は今は平鹿郡と川辺郡との間にある一郡の称となっているが、もとは広く山の北の義で、羽前境の連山以北、御物川上流の平野を中心とした一帯の地の総称であった。今の雄勝・平鹿・仙北の三郡はすなわち、すべていわゆる仙北のうちなのだ。それを総称して時にあるいは仙北郡ともいった。今の仙北郡はほぼ『延喜式』に見ゆる山本郡の域に当り、いわゆる仙北の一部たるに過ぎぬ。そして今の山本郡の地は、『延喜式』時代にはなお夷地に没して、いまだ一郡をなするに至らず、阿倍比羅夫遠征のころの渟代ぬしろ郡のあった場所なのだ。しかるに徳川時代寛文四年郡名整理のさいに、大いにその実際を誤って、仙北をもって一郡の名と心得たがために、もとの山本郡にこの名を附け、もと郡名のなかった別の所に、新たに山本の旧郡名を当てたのである。
 仙北あるいは『吾妻鏡』に千福せんぷくともある。例の奥羽訛りによってセンポクとセンプクと、その区別がしにくかったので、鎌倉武士が土人の口にするところを聞いたままに、勝手な文字を書いたのだ。この地方は川の上流に位置し、南は山で限られていたために、日本文化の及ぶことは比較的遅かった。出羽方面の王化はまず海岸から入り込んだので、秋田・渟代ぬしろ(能代)の辺はすでに、斉明天皇朝に阿倍比羅夫の遠征によって郡が置かれ、当時津軽の辺にまで、内地化したる熟蝦夷にぎえみしがいたほどであった。しかるにこの山間の仙北地方は、なお久しく麁蝦夷あらえみしすなわち生蕃の住処として遺され、奥州の国府多賀城から、出羽の秋田城に通ずるにも、最上川に沿うていったん西に下り、飽海郡から西海岸を迂回したものであった。それではあまりに不便とあって、天平年間にこの方面の蝦夷を征して雄勝の道を通じ、最上郡からただちに御物川の上流に出ることとなった。それからだんだんと内地人を雄勝城にうつし、仙北平野の拓殖も進んで来る。蝦夷も次第に内地化して、いわゆる俘囚となって来たのではあったが、その後なお久しく民夷雑居の境であった。天平の開通を距る約百四十年後の元慶四年において、出羽の国司はこんなことを上言している。
 管諸郡の中、山北の雄勝・平鹿・山本の三郡は、遠く国府を去り、近く賊地に接す。昔時叛夷の種、民と雑居し、ややもすれば間隙に乗じて腹心の病を成す。頃年頻りに不登に遭ひ、憂ひ荒飢に在り。若し優恤せずんば、民夷和し難し、望み請ふ、調庸二年を復して、将に弊民を休めん。
 これに対して勅して一年の復を賜い、不動穀六千二百石を三郡の狄俘八百三人に給した。狄俘とは夷俘というと同じく、蝦夷の生蕃の謂である。わが国では同じアイヌ種の蝦夷人をでも、奥州を東とし、越後・出羽を北といったがために、シナの東夷・北狄の語を取って、越後・出羽方面の蝦夷をしばしば蝦狄あるいは狄俘といったのであった。元慶の当時なお仙北の地には、少からず生蕃がいたのだ。延喜前後から地方の政治はなはだしく紊乱した。奥州においては蝦夷の族勢力を恢復して、いったん設置した郡までが夷地に没入するの情勢となった。かくて奥州では俘囚の長安倍頼時が、今の陸中中部の六郡を押領して、国司の命を奉せず、ためにいわゆる前九年の役が起ったのであった。このさいこの仙北地方は、同じ俘囚長たる清原氏の占領するところとなっていたらしい。安倍氏を討じた陸奥守源頼義、その子義家は、上方かみがたにあっては驍勇をもって聞こえた武士の棟梁であったが、容易に安倍貞任を征服することが出来なかった。かくて前後十二年を費して、最後にこの仙北俘囚長たる清原氏の援助を乞い、ようやくこれを滅ぼすことが出来たのである。この時頼義が、いかに辞をひくうし礼を厚うして清原氏を誘ったかは、後に清原氏の方で頼義を見ること、家人けにんのごとく心得ていたのによっても解せられる。かくて清原光頼・武則の兄弟は、一族吉彦きひこ秀武らとともに一万余騎の兵を率いてこれに応じ、ついによく安倍氏を滅ぼすことが出来た。武則功をもって鎮守府将軍に任ぜられ、胆沢に移って威を奥州に振い、かねてこの仙北を領していたので、その勢力は遙かに安倍氏に増していたに相違ない。これとうてい後三年の役の起らざるを得ざるゆえんであった。武則は実に夷人にして、始めて鎮守府将軍に任ぜられたのだ。一族秀武の姓の吉彦はすなわち吉弥侯きみこで、これまた俘囚に普通に見る氏である。後三年の役の末金沢落城のさいに当って、義家は清原氏を罵って、武則賤しき夷の名をもって、忝くも鎮守府将軍に任ぜられたのは、これわが父の推挙によるものだと言っている。その夷人が奥羽両州に跋扈しては、いわゆる臥榻の傍に他人の鼾睡を容るるもので、義家たるものの忍ぶ能わざるところであったに相違ない。後三年の役直接の原因がなんであろうとも、その根本は華夷の衝突とうてい免れ難いところにあったのだ。しかもその義家も、自己の兵力のみをもってしてはとうてい清原氏に勝つことが出来なかった。彼は依然俘囚たる藤原清衡の援助を得て、ついによくこれを滅ぼしたのであったから、義家任満ちて都に帰った後においては、その功ついに清衡に帰して、清原氏に代って鎮守府将軍となり、清原氏についで奥羽二州に勢力を振うこととなったのである。後に文治五年の源頼朝の奥州征伐は、その名は藤原氏が弟義経を容隠したにあったとはいえ、その根本はやはり華夷の衝突免るべからざるものであったのだ。仙北俘囚の勢力の最後も、実にこの頼朝奥州征伐の時にあったといってよいのであろう。

 後三年駅午後五時の上り汽車に乗って、山形に着いたのが九時四十五分。あの広い二等車中には、二、三人の乗合しかない。よい気持に眠ってしまって駅に来たのも知らず、汽車は仕合せに山形止りであったので良かったものの、それでも危なく車庫内に運び込まれるところであった。駅まで迎えに来てくださった有吉君・阿部(正己)君などと同車で、山形ホテルに送られて、ここで一夜の御厄介になる。阿部君は史蹟名勝天然紀念物調査委員として、明日の発会式のために前もって来ておられるのだ。幸い同宿で、旧臘伺い漏らした土地のお話を、ゆっくり承る機会を得たのは嬉しい。
 ホテルはもと秋元家の泰安寺の址で、その庭園は今もなお当時の林泉のままだという。秋元家は譜代の大名として、たびたび転封の経験を有し、この山形では明和四年に武州川越から移ってより、弘化二年上州館林に転じて、水野越前守と入れ交るまで、わずか八十年にも足らぬほどの就封に過ぎなかったが、その間にも菩提寺として、ここに泰安寺を造営したのであった。この寺は俗に秋元家の巾着寺といわれて、転封ごとに腰巾着のごとく持って廻ったものだという。
 これは阿部君から承ったところだが、以下同君談話の中から面白いものを二、三書きとめておく。

 飽海郡松嶺町の南に大沼という村がある。ここに古来獅子という踊があって、農家の子弟がこれを行う。獅子の面を被って踊るので、ササラ方があり、歌うたいがあり、棒方二人、五尺ばかりの物を持つ。この踊はひとり自村の氏神祭のみならず、他村の氏神祭にも招かれて出かけて行くのだという。けだし田楽の遺物で、三月号に紹介した宇和島の鹿の子踊りや、豊橋の鬼祭のような類で、昔は各地に行われたものが、名を忘れて後もなおかく諸所に遺っているものと思われる。
 松嶺の本町・新町には神楽がある。初め天狗の面を被ったものが出て、手に三叉鉾を持ち、足に高足駄をはいて、笛に合して種々所作事をする。次に神楽がある。大きな獅子を二人であやつり、一人はその頭を持ち、一人はその尻尾を持つといえば、これは普通の獅子舞らしい。
 サイドウという道祖神の祭は、毎年正月十五日に、深い積雪の上で行われる。町が二つに分れて、血気の若者が足袋跣足鉢巻の出でたちで、双方大太鼓をいくつも担ぎ出して橇に載せ、削り懸けのばちを腰にさして、中央の大橋で出合って互いに通過を争うのであるそうな。その争いは至って元気のよいもので、ためにしばしば怪我人が出来ることすらある、道祖神のためには別に社殿があるのではなく、正月五日ころから各町ごとに小屋を作って、子供らそこに集まって太鼓を叩いてこれを祭る。その最後の日に疫送りとて、町はずれに送り出す。前の争いはその時の衝突だという。
 右は阿部君のお話の大要だが、聞き違い書き違いがあるかも知れぬ。精しいことは同君の御執筆を煩わす約束である。

 今日いよいよ議事堂で山形県史蹟名勝天然紀念物の調査会が開かれた。内務省から理学博士三好学君が見えられて、種々調査上の注意のお話がある。自分もお相伴して、山形県下の史蹟調査について、一席の講話を試みたことであった。歴史の研究は記録と実地との両方から進まねばならぬこと、記録的資料の少い古代の事情は、ことに実地の踏査に重きを置かねばならぬこと、別して奥羽地方はその資料に乏しいので、遺蹟の調査によってこれを補わねばならぬこと等を説いて、山形県地方開発の沿革に及んだ。太古の住民なる蝦夷族の研究、その遺蹟として石器時代の調査の必要なこと、出羽における王化の布及の越後・陸奥両方より来たこと、夷俘・俘囚のこと、館址および古墳の調査のこと、華夷勢力消長のこと、蝦夷族の末路のこと等の概略を述べて、この講話を終った。
 講演後、渡辺徳太郎君の訪問をうけ、同君に誘われて千歳亭で昼餐の饗応に預った。同君は多年山形商業学校校長を勤められ、県立図書館長を兼ねて、先年満鮮旅行のさいに同行されたお方だ。令兄渡辺正三郎君編輯の『山形県経済史料』二冊を贈られたのは嬉しかった。わが社会史研究にも有益な材料が少くない。
 午後調査委員の顔合せ会があって、自分も陪席し、史蹟調査の方針について意見を述べたことであった。

 午後、山形城址の案内を受けて一覧した。維新前はわずかに水野氏五万石の居城たるに過ぎなかったが、何しろもと最上氏五十七万石の城郭とて、規模すこぶる広大で、なかなか五万石や十万石の大名の持ち切れるものではない。元和八年最上氏改易後は、ほとんど定ったる城主もないと言ってよいほどで、鳥居氏以下わずか百四十五年間に十一家の領主を改め、その間時に幕府の直轄地ともなったこともある。かくて明和四年に秋元家が、六万石でここに移封したさいには、城郭の荒廃すこぶるはなはだしくなっていた様子であるが、秋元氏これを修築し、外濠内に三千石の田地を開いてこれを込高としておったとのことである。しかるに弘化二年、水野家五万石で浜松からここに転封したさいには、この城内三千石の地も高に数えられて、事実上城郭は二の丸以内に限局せられた。その中央にさらに濠を繞らして本丸が設けられていたが、今は兵営となったのでこの濠は埋められ、跡形もなくなった。将校集会所で、最上時代以後秋元家修築前の状を現わした数軸の地図を拝見した。最上家の時代には、二の丸内はもとより、その以外いわゆる三千石の地にも諸士の邸宅が割り宛てられていた盛んな状が知られる。それが些細なことから幕府の忌諱に触れて、一朝主家の改易となっては、たちまち分散消滅してしまったのだ。

 夜四山楼の晩餐に、庄内のおばこ節というものを聞かして貰うの光栄を得た。おばこ踊とは娘ッ子の手踊の義であるそうな。説明に曰く、「おばこ」とは若き女を指したることにて、弟をおじといい、妹をおばと呼ぶより出でたることなるべしだと。「おばこ」の「こ」はけだし東北地方の方言で、よく名詞の尻につける「コ」であろう。東京あたりでもすみのことを隅ッコといい、うんコ・しッコなどと語尾のコを附ける場合が少くないが、東北地方にはことにそれが多い。牛のことをベコというので、それにコをつけてベココといい、牛の子のことをベココのコッコという類だ。
 おばこ節の歌詞は田舎情緒の方言丸出しの無邪気なものだ。その少許を左に書き留めておく。
おばこ来るかやと田圃たんぼんづれまで出て見たば、コバエテ/\、おばこ来もせでのない煙草たんばこ売りなの(なのはなどの意)ふれて来る。コバエテ/\
おばこ居たかやと裏の小ん窓からのぞいて見たば(見たばは見たればの意)、コバエテ/\、おばこ居もせでのない婆様ばあさまなの(など)糸車、コバエテ/\。
おばこ此のぢよめえね(このごろ見えぬの意)風でも引いたかやと案じられ、コバエテ/\、風も引かねど親んちやんびしぐで(東北方面には濁音が多い)籠の鳥、コバエテ/\。
おばこ心持ちや池の端の蓮の葉のんまり水、コバエテ/\、少しさは[#ルビの「さは」は底本では「さほ」]るでど(でどはというとの意)ころ/\ころんでそま(そまはすぐの義)落ちる、コバエテ/\、
おばこ昼寝したば(したれば)若いかりゆめ(猟師)が来て小槍つん出したね、コバエテ/\、かりゆめ何をる、かりゆめは熊を突くしよべゑ(商売)だもの、コバエテ/\。
酒田山王山でえびンコとかんじかコ(かんじかコはかじか=鰍のこと)と相撲すも取つたば(取ったれば)コバエテ/\、蝦コなして(何故に)又こしがた、かんじかコと相撲すも取つて投んげられて、それでこしや曲がた。コバエテ/\。
鰻嫁取る、八ツ目のなかあど(仲人)でどじよ(鰌)の子嫁貰ろた、コバエテ/\、嫁もしようと(姑)に似て腰もんと弱ぐで、ぐにやらしやんにやらと、コバエテ/\。
 まずこんなようなものだ。合の手のコバエテとは「来れは良い」の義で、酒田地方の方言だという。同じ庄内でも鶴岡ではこれをコバイチャというそうな。

 晩餐の席上で、同席の諸君からいろいろ有益なお話を承った中に、一つ羽黒の裸祭のことをここに書き留めておく。一月三十一日のころ年越の晩に行われるので、村民真冬の雪の深い中を、二組に分れて、丸裸でおしあって、恙虫を送るのだという。藁で大きな恙虫の形を作り、それを切り取って振り蒔く。それを血気の若者が争って取り合う。ある一定の地域より外へ持ち出せば、もはやその所得が認められたので争わない。それを持って帰って家の入口に置く。その残りを一定の地で焼く。その早く焼き終った方が勝ちとなるのだという。そのおしあい祭の両方の長たるものをヒジリというのが面白い。ヒジリは「聖」で、普通には念仏行者の称であるが、ここではその聖が首領となって、恙虫送りの行事をするのだ。そのヒジリなるものは百日間家を出て、羽黒山に参籠して潔斎するのだという。この祭の時は大そうな人出なので、積雪を穿って室を作り、そこで茶店を開いて参詣者に茶菓、酒食を供するという。
 かくのごとき風習は奥羽地方各地にあると見えて、陸中江刺郡黒石の蘇民祭もこれに似たものだとのことであった。『民族と歴史』第五巻第四号に、羽後平鹿郡の細谷則理君が報告せられた「羽後のおしあひ祭」と題する記事もこれに似ている。
 なお右の羽黒の行事は、加藤将義君と高橋栄君とに詳細の報道を御依頼しておいたから、いずれ本誌において御紹介し得るの機会があろう。

 この夜終列車の急行で帰京。出羽滞在丸三日に過ぎなかったが、あまり同地方を知らぬ自分にとっては、珍らしいことの多かったのが嬉しい。帰ってみると東京の桜はすでに咲いている。

底本:「喜田貞吉著作集 第一二巻 斉東史話・紀行文」平凡社
   1980(昭和55)年8月25日初版第1刷発行
初出:「社会史研究 第九巻第六号」
   1923(大正12)年6月
※「荘内」と「庄内」の混在は、底本通りです。
※「加藤(直純)」は「伊藤(直純)」の誤りと思われますが、底本のままとしました。
※底本の編注は入力しませんでした。
入力:しだひろし
校正:岩澤秀紀
2012年5月7日作成
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