立春の時に卵が立つという話は、近来にない愉快な話であった。
 二月六日の各新聞は、写真入りで大々的にこの新発見を報道している。もちろんこれはる意味では全紙面をいてもいいくらいの大事件なのである。
 昔から「コロンブスの卵」ということわざがあるくらいで、世界的の問題であったのが、この日に解決されたわけである。というよりも、立春の時刻に卵が立つというのがもし本統ならば、地球の廻転かいてんか何かに今まで知られなかった特異の現象が隠されているのか、あるいは何か卵のもつ生命に秘められた神秘的な力によるということになるであろう。それで人類文化史上の一懸案がこれで解決されたというよりも、現代科学に挑戦する一新奇現象が、突如として原子力時代の人類の眼の前に現出してきたことになる。
 ところで、事実そういう現象が実在することが立証されたのである。『朝日新聞』は、中央気象台の予報室で、新鋭な科学者たちが大勢集って、この実験をしている写真をのせている。七つの卵が滑らかな木の机の上にちゃんと立っている写真である。『毎日新聞』では、日比谷ひびやの或るビルで、タイピスト嬢が、タイプライター台の上に、十個の卵を立てている写真をのせている。札幌の新聞にも、裏返しにしたお盆の上に、五つの卵が立っている写真が出ていた。これではこの現象自身は、どうしても否定することは出来ない。
 もっともこの現象は、こういう写真を見せられなくても、簡単にうそだろうとは片付けられない問題である。というのは、上海シャンハイではこの話が今年の立春の二、三日前から、大問題になり、今年の立春の機を逸せずこの実験をしてみようと、われもわれもと卵を買い集めたために、一個五十げんの卵が一躍六百元にはね上ったそうである。それくらい世の中を騒がした問題であるから、まんざら根も葉もない話でないことは確かである。
『朝日新聞』の記事によると、この立春に卵が立つ話は、中国の現紐育ニューヨーク総領事張平群ちょうへいぐん氏が、支那の古書『天※[#「賢」の「貝」に代えて「且」、345-10]』と『秘密の万華鏡まんげきょう』という本から発見したものだそうである。そして、国民党宣伝部の氏が一九四五年即ち一昨年の立春に、重慶じゅうけいでUP特派員ランドル記者の面前で、二ダースの卵をわけなく立てて見せたのである。丁度硫黄島いおうじまあやうしと国内騒然たる時のこととて、日本では卵が立つか立たないかどころの騒ぎでなかったことはもちろんである。さすがにアメリカでも伯林ベルリン攻撃を眼前にして、この話はそうセンセーションをおこすまでにはいたらなかったらしい。
 ところが今年の立春には、丁度その魏氏が宣伝部の上海駐在員として在住、ランドル記者も上海にいるので、再びこの実験をやることになった。
ラジオ会社の実況放送、各新聞社の記者、カメラマンのいならぶ前で、三日の深夜に実験が行われた。実験は大成功、ランドル記者が昨夜UP支局の床に立てた卵は、四日の朝になっても倒れずに立っているし、またタイプライターの上にも立った。
四日の英字紙は第一面四段抜きで、この記事をのせ、「ランドル歴史的な実験に成功」と大見出しをかかげている。立春に卵が立つ科学的根拠はわからないが、ランドル記者は「これは魔術でもなく、また卵を強く振ってカラザを切り、黄味を沈下させて立てる方法でもない。ましてやコロンブス流でもない」といっている。みなさん、今年はもう駄目だが、来年の立春にお試しになってはいかが。
 こうはっきりと報道されていると、如何いかに不思議でも信用せざるを得ない。おまけに、この話はあらかじめ米国でも評判になり、紐育ニューヨークでも実験がなされた。ジャン夫人というのが、信頼のおける証人を前にして、三日の午前この実験に成功したのである。
「最初の二つの卵は倒れたが、三つ目はなめらかなマホガニーの卓の上に見事に立った。時刻は丁度立春のはじまる三日午前十時四十五分であった」そうである。
 上海と、紐育と、それに東京と、世界中いたる処で成功している。立春の時刻はもちろん場所によってことなるので、グリニッチ標準時では二月三日午後三時四十五分である。それが紐育では三日午前十時四十五分、東京では五日午前零時五十一分にあたるそうである。ところがジャン夫人の実験がその紐育時刻に成功し、中央気象台では、四日の真夜中から始めて、「用意の卵で午前零時いよいよ実験開始……三十分に七つ、そして九つ、すねていた最後の一つもお時間の零時五十一分になるとピタリ静止した」そうである。こうなると、新聞の記事と写真とを信用する以上、立春の時刻に卵が立つということは、どうしても疑う余地がない。数千年の間、中国の古書に秘められていた偉大なる真理が、今日突如脚光を浴びて、科学の世界に躍り出て来たことになる。
 しかし、どう考えてみても、立春の時に卵が立つという現象の科学的説明は出来そうもない。立春というのは、支那伝来の二十四季節の一つである。一太陽年を太陽の黄経こうけいに従って二十四等分し、その各等分点を、立春、雨水、啓蟄けいちつ、春分、清明せいめい……という風に名づけたのである。もっと簡単にいえば、太陽の視黄経が三百十五度になった時が、立春であって、年によって少しずつ異るが、だいたい二月四日頃にあたる。地球が軌道上きどうじょうの或るその一点に来た時に卵が立つのだったら、卵が三百十五度という数値を知っていることになる。
 如何にも不思議であって、そういうことは到底あり得ないのである。ところがそれが実際に世界的に立証されたのであるから、話が厄介である。支那伝来風にいえば、立春は二十四季節の第一であり、一年の季節の最初の出発点であるから、何か特別の点であって、春さえ立つのだから卵ぐらい立ってもよかろうということになるかもしれない。しかしアメリカの卵はそんなことを知っているわけはなかろう。とにかくこれは大変な事件である。
 もちろん日本の科学者たちが、そんなことを承認するはずはない。東大のT博士は「理論的には何の根拠もない茶話だ。よく平面上に卵が立つことをきくが、それは全くの偶然だ」と一笑に附している。実際に実験をした気象台の技師たちも「重心さえうまくとれば、いつでも立つわけですよ」とあっさり片づけている。しかしその記事の最後に、「立春立卵説を軽くうち消したが、さて真相は……」と記者が書いているところをみると、記者の人にも何か承服しかねる気持が残ったのであろう。何といっても、五日の夜中の実験に立会って、零時五十一分に十個の卵がちゃんと立ったのをのあたり見ているのだから、それだけの説明では物足りなかったのも無理はない。
 もう少し親切な説明は、『毎日新聞』に出ていた気象台側の話である。「寒いと中味の密度が濃くなって重心が下るから立つので、何も立春のその時間だけ立つのではない」というのである。それもどうも少しおかしいので、紐育のジャン夫人の居間なんか、きっと夜会服一枚でいいくらいに暖くなっていただろうと考える方が妥当である。もう一つはどこかの大学の学部長か誰かの説明で、卵の内部が流動体であることが一つの理由であろうという意味のことが書いてあった。そして立春の時でなくてもいいはずだということがつけ加えられていた。ラジオの説明は、私はきかなかったが、何でも寒さのために内部がどうとかして安定になったためだというのであったそうである。
 それらの科学者たちの説明は、どれも一般の人たちを承服させていないように思われる。一番肝心なことは、立春の時にも立つが、その外の時にも卵は立つものだよと、はっきり言い切ってない点である。それに重心がどうとかするとか、流動性がどうとか、安定云々うんぬんとかいうのが、どれもはっきりしていないことである。例えば流動性があれば何故なぜ倒れないかをはっきり説明してない点が困るのである。
 一番厄介な点は、「みなさん、今年はもう駄目だが、来年の立春にお試しになってはいかが」という点である。しかしそういう言葉におじけてはいけないので、立春と関係があるか否かを決めるのが先決問題なのである。それで今日にでもすぐ試してみることが大切な点である。
 実はこの問題の解決は極めて簡単である。結論をいえば、卵というものは立つものなのである。朝めしの時にあの新聞を読んで、余り不思議だったので「おい、卵があるかい」ときいてみた。幸い一つだけあるという話で、早速それをもって来させて、食卓の上に立ててみた。巧く重心をとると立ちそうになるが、なかなか立たない。五分ばかりやってみたが、余り脚の強くない食卓の上では、どうも無理のようである。それに登校前の気ぜわしい時にやるべき実験ではなさそうなので、途中で放り出して、学校へ出かけてしまった。
 この日曜日、幸いひまだったので、先日の卵をきいてみると、まだ大事にしまってあるという。今度は落著おちついて、畳の上にすわりこんで、毎日使っている花梨かりんの机の上に立ててみると、三、四分でちゃんと立たせることが出来た。紫檀したんまがいのなめらかな机であるから、少し無理かと思ったが、こんなに簡単に立つものなら、何も問題はないわけである。細君も別の机の上に立ててみると、これもわけなく立ってしまう。なあんだということになった。
 それにしても、考えてみれば余りにも変な話である。卵というものが何時いつでも必ず立つものならば、コロンブスにまで抗議をもって行かなければならない始末になる。それでやはりこの頃の寒さが何か作用をしているのかもしれないと思って、細君にその卵を固くゆでてみてくれと頼んだ。
 ゆでた卵が簡単に立ってくれれば、何も問題はない。大いに楽しみにして待っていたら、やがて持って来たのは、割れた卵である。「子供が湯から上げしなに落したもので」という。大いに腹を立てて、早速買いに行って来いと命令した。細君は大分不服だったらしいが、仕方なく出かけて行った。卵は案外容易に手に入ったらしく、二つ買って帰って来た。もっとも当人の話では、目星をつけた家を二軒も廻って、子供が病気だから是非分けてくれとうそをついて、やっと買って来たという。大切な実験を中絶させたのだから、それくらいのことは仕方がない。
 今度のは大小二つあって、大きい方はしりの形が少し悪いらしく、なかなか立たない。しかし小さい方はすぐ立たせることが出来た。そこでその方を早速ゆでてもらうことにして、その間に大きい方にとりかかった。なるべく垂直になるように立てて、右手の指で軽く頭をささえ、左手で卵を少しずつ廻転させながら、尻の坐りと机のわずかな傾斜とが巧く折れ合うところを探しているうちに、ちゃんと立ってくれた。十分くらいかかったようである。要するに少し根気よくやって、中心をとることさえ出来れば、大抵の卵は立派に立つものである。
 その間にゆで卵の方が出来上った。水に入れないでそのまま持って来させたので、熱いのを我慢しながら中心をとってみた。すると今度も前のように簡単に立てることが出来た。寒さのための安定云々うんぬんも、流動性の何とかも、問題は全部あっさり片付いたわけである。念のために殻をとり去って、縦に二つに切ってみた。黄味は真中まんなかにちゃんと安座していた。何の変りもない。黄味の直径三十三ミリ、白味の厚さが上部で六粍、底部で七粍、重心が下っているなどということもない。要するに、もっともらしい説明は何もらないので、卵の形は、あれは昔から立つような形なのである。この場合と限らず、実験をしないでもっともらしいことを言う学者の説明は、大抵は間違っているものと思っていいようである。
 物理学の方では、釣合つりあいの安定、不安定ということをいう。釣合の位置から少し動かした場合に、もとの位置に戻るような偶力が出て来る場合が、安定なのである。卵が立っているような場合は、よく不安定の釣合といわれる。しかし物理学の定義では、この場合も安定なのであって、ただ安定の範囲が非常に狭いのである。
 物が立つのは、重心から垂直に下した仮想線が、底の面積内を通る場合である。底は下の台に接しているので、台から上向きに物体をささえる力が、その物体に働いて、その力と物体に働く重力とが釣合っているのである。ところで日常生活で我々が常識的に使っている安定不安定という言葉には、安定の範囲という要素がはいっている。物体を少し傾けても、重心からおろした垂直線が、底面内を通る範囲内では、旧位置に戻るような方向に偶力が働き、物体はもとに戻る。すなわち安定である。ところがその垂直線が底面をはずれると、偶力は益々ますます傾くような方向に働き、物体は自分で倒れてしまう。重心からの垂直線が底面をはずれる時の傾きが大きい時を安定といい、少し傾いてもすぐはずれてしまう場合を不安定といっているが、これは素人風しろうとふうないい表わし方である。本統は安定の範囲が広い狭いという方が、よいのである。ピサの斜塔がよい例であって、土台が悪かったためにあのように傾斜した形で落著いたのであるが、あの程度の傾斜では、重心からの垂直線はまだ十分底面内を通っているので、あの形で安定な釣合を保っている。それで少しくらいの地震があっても、倒れることはない。ただあの塔が真直まっすぐに立っている場合よりも、安定の範囲が狭いだけである。
 卵を立てる場合は、この底面積、すなわち卵の殻と台の板との接触している面積が非常に狭い。卵の表面が完全な球面で、板が完全な平面ならば、接触は幾何学的には、ただ一点である。すなわち接触面積はほとんどゼロといっていい。しかし物理的に考えてみると、卵が立った場合、卵の目方は全部その一点にかかるので、圧力からいうと、大変な大きさになる。圧力というのは、目方をそれが働いている面積で割ったものであるから、卵の目方が五十グラムしかないとしても、面積が零に近かったら、圧力は無限大となる。物体にゆがみを生じさせるのは、力ではなくて圧力である。棒でてのひらを押してみても何でもないが、それと同じ力で針でつけば、つきささるわけである。それで球を平面の上にのせた場合には、平面の接点附近がその圧力のために少し歪み、球の接点附近もまた少し歪む。そして極めて小さい円形の面積で球の底と板とが接し、その面積で球の目方をささえるのである。
 球と平面との接触面積は、球の半径と目方と物質の弾性とによってきまる。球と平面とが同じ物質で、両方とも完全に幾何学的な形をしている場合には、その接触面積は、理論的に計算出来る。それにはヘルツの式というのがあって、すぐ計算が出来る。かしの卓の上に立てるとすると、樫のヤング率は1.3×1011くらいである。大体の見当をみるのであるから、卵殻の固さも樫と同程度と見ておく。卵の目方を五十瓦、底部を球とみなし、その半径を二センチ半として、接触面積を出してみる。簡単な計算ですぐ分ることであるが、円の直径は2.2×10-3糎と出る。すなわち直径百分の二ミリくらいの円形部分がひずんで、その面積で卵をささえていることになる。それで卵の重心から下した垂直線が、その面積内を通れば、卵は立つわけである。問題はそういうふうにうまく中心をとる技術だけにかかることになる。要するに根気よく、静かに少しずつ動かして、中心がとれた時にそっと手を放せばよいのであるが、一粍の百分の一とか二とかいう精密な調整は、とても人間の手では出来そうもない。
 それで次に考えてみるべきことは、卵の表面の性質である。卵の表面は、完全な球面または楕円だえん面でなく、表面がざらざらしていることは誰でも知っているとおりである。百分の一粍程度を論ずる場合には、もちろん、このざらざらが問題になる。表面に小凹凸しょうおうとつがあると、その凸部の三点あるいは四点で台に接し、それが丁度五徳ごとくの脚のような役目をして卵をささえるはずである。そうすると卵の「底面積」は、相隣る凸部の三点または四点の占める面積になる。理論的には三角形の頂点の三点でよいはずであるが、実際は四角形の四隅よすみの点、あるいはもう少し多い点になるであろう。いずれにしてもこの方は前述の百分の二粍などというあたいよりも、ずっと大きくなりそうである。
 教室の昼飯の時に、この話を持ち出してみたら、H君が一つ顕微鏡で見てみましょうということになった。H君は人工雪の名手である。顕微鏡の下で雪の結晶を細工するのになれているので、卵の凹凸くらいは物の数でない。さっそく台の上に墨を塗って、その上に卵を立て、卵のしりに黒いマークの点をつけた。そしてそのマークのところで殻を縦に切り、その切口を顕微鏡でのぞいてみた。
 まず驚いたことは、卵の表面の凹凸は、きわめて滑らかな波形をしている点であった。ざらざらの原因であるところの凹部と凸部との高さの差すなわち波の高さは、百分の三粍程度にすぎず、それに比して凸部間の距離、すなわち波長は、この卵では十分の八粍くらいもあった。これで問題は非常にはっきりしたのである。五徳の三本脚あるいは四本脚の間隔は、約十分の八粍であるから、半粍程度の精度で中心を巧くとれば、卵は立派に立つわけである。それくらいの精度でよければ、人間の手でも、落著いて少し根気よくやれば、調整が出来るはずである。百分の二粍ではちょっと困るが、この程度ならば大丈夫である。
 ところで前にいった、球面と平面とが、弾性的歪みによって接触することは、この凸部と板との接触についてあてはまる。もっとも板の表面の凹凸を考えに入れれば、もう少しむずかしくなるが、そこまで立ち入らなくても話の筋は分る。すなわち卵の表面の凸部と板とが、直径百分の一乃至ないし二粍くらいの円で接し、そういう接点が、十分の八粍くらいの距離で、三点あるいは四点あって、卵をささえているのである。
 そうすると、卵がどれくらい傾いたら、重心線が底の三点の占める面積をはずれるのか、すなわち卵が倒れるかという計算が出来る。重心の高さを二糎半として、それが横に半粍ずれる時の傾きは、約一度である。それで一旦いったん立った卵は、一度くらい傾くまでは安定であって、それ以上傾くと倒れるはずである。事実机の上に卵を立てて、ごく静かに机をゆすぶってみると、卵は眼に見える程度に揺れることが認められるが、それでもなかなか倒れない。もっとも少しひどくゆすぶれば倒れることはもちろんである。眼に認められるくらい揺れるというのが、だいたい一度くらいであろう。これで卵の立つ力学はおしまいである。
 こういう風に説明してみると、卵は立つのが当り前ということになる。少くもコロンブス以前の時代から今日まで、世界中の人間が、間違って卵は立たないものと思っていただけのことである。前にこれは新聞全紙をつぶしてもいい大事件といったのは、このことである。世界中の人間が、何百年という長い間、すぐ眼の前にある現象を見逃していたということが分ったのは、それこそ大発見である。
 しかしそれにしても、余りにことがらが妙である。どうして世界中の人間がそういう誤解に陥っていたか、その点は大いに吟味してみる必要がある。問題は巧く中心をとればというが、角度にして一度以内というのは恐ろしく小さい角度であって、そういう範囲内で卵を垂直に立てることが非常に困難なのである。その程度の精度で卵の傾きを調整するには、十分の一粍くらいの微細調整が必要である。それを人間の手でやるには、よほど繊細な神経がることになる。実は学校へ卵をもって行って、皆の前で立てて、一つ試験をしてみようと思った時は、なかなか巧く行かなかった。夜落著いて机に向っていて、少し退屈した時などにやれば、わりに簡単に立つのである。
 卵を立てるには、静かなところで、振動などのない台を選び、ゆっくり落ち著いて、五分や十分くらいはもちろんかけるつもりで、静かに何遍も調整をくり返す必要がある。そういうことは、卵は立たないものという想定のもとではほとんど不可能であり、事実やってみた人もなかったのであろう。そういう意味では、立春に卵が立つという中国の古書の記事には、案外深い意味があることになる。私も新聞に出ていた写真を見なかったら、立てることは出来なかったであろう。何百年の間、世界中で卵が立たなかったのは、皆が立たないと思っていたからである。
 人間の眼に盲点があることは、誰でも知っている。しかし人類にも盲点があることは、余り人は知らないようである。卵が立たないと思うくらいの盲点は、大したことではない。しかしこれと同じようなことが、いろいろな方面にありそうである。そして人間の歴史が、そういう瑣細ささいな盲点のために著しく左右されるようなこともありそうである。
 立春の卵の話は、人類の盲点の存在を示す一例と考えると、なかなか味のある話である。これくらい巧い例というものは、そうざらにあるものではない。紐育・上海・東京間を二、三回通信する電報料くらいは使う値打ねうちのある話である。
(昭和二十二年四月一日)

底本:「中谷宇吉郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1988(昭和63)年9月16日第1刷発行
   2011(平成23)年1月6日第26刷発行
底本の親本:「立春の卵」書林新甲鳥
   1950(昭和25)年
初出:「世界」
   1947(昭和22)年4月1日
入力:門田裕志
校正:川山隆
2013年1月4日作成
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