奇妙なことは、最初その女を見た時、ぼくは、ああこの女は身投げするに違いないと思い込んで了ったことなのだ、――と彼は語り出した。彼が二十一歳の時の話という。

 ――その女を見たのは、南紀白浜温泉の夜更けの海岸だった。その頃京都高等学校の生徒であったぼくは肺患の療養のためその温泉地に滞在していた。恐らく病気のためだったろうが、その頃は毎夜の様に不眠に苦しめられていて、その晩も、夜更けてから宿を抜け出ると、海岸の砂浜に打ち揚げられた漁船の艫に腰を掛けて、何となく海を見ていた。白良しらら浜という名があるほどで、その砂浜の砂の白さは実に美しい鮮やかさで、月の夜など、月光を浴びた砂浜は、まるで雪が降ったかの様で、不気味なほどの白さだが、その夜も確か、五月の満月に近い夜だった。砂浜は吐き出す莨の煙よりも白く、海は恐しいほど黒い色をしていた。人影は無かった。静寂しずけさの音が耳の奥で激しく鳴っている様だった。海では、五つ六つの漁船の灯がじっと位置を動かなかった。潮の香が強く、もう初夏であったから、風は冷いというより、熱にほてったぼくの皮膚に快かった。というのは初めの内のことで、夜露に当ったのか、次第に皮膚が冷たくなり、急に、ぞっと寒気がした。それで、もう帰えろうと思ったが、宿に帰えっても仲々寝つかれないことが分っているので、腰を上げる気はしなかった。といって、帰えらぬ訳には行かぬ。いつ迄も夜更けの浜でじっとしている気もなかったのだが、腰を上げるという簡単な動作の弾みがつかない、そんな状態だった。
 と、漁火いさりびの一つが、動き出した。静かに辷って行く灯を眼で追っていると、小さな浮島の陰に隠れてしまった。やがて、浮島の反対側の端から姿を現わすだろう、そうしたら、宿に帰えろう、とぼくは決めた。そして、漁火の速度で浮島の大きさを割る計算を始めた。割り出された時間が過ぎたが、漁火は姿を見せなかった。何故姿を現わさないのかと妙に不安になった。宿に帰えれなくなった、と思った。恐らく、漁火は、島の陰で止っていたのだろうが、そんなことに気が付く余裕が無かった。自分の計算が疑わしくなった、と同時にもう帰えれないと決めてしまったのだ。孤独というものが感覚的に来るのは、こう言う時だろう。恐らくぼくは随分情けない顔をしていた事と思う。その泣き面のまま、ふと首を傾むけると、その女の姿が眼にはいったのだ。
 黒っぽい着物を着て、半町ほど離れた波打際に、すくっと立っていた。
(――そう言って、彼はにやりと微笑した。彼が心を惹かれる女は例外無しに背が高くすらっとしている。黒っぽい着物が似合うのは、すらっとした女である。すくっと立っている、と言った以上、恐らく、背が高かったのであろう。この彼の好みを良く知っている筆者わたくしに照れたので、彼は思わず微笑したのだろうと思われる)

 その女は今にも波に吸い込まれそうに見えた。そう見えたのは、恐らくその女が自殺しかけていると直感した為だったろう。いや、そう見えたから、自殺すると考えたのかも知れない。とにかく、ぼくは夢中でその女の方へ走り出した。自殺を防ごうとする気持もあったが、同時に又、その時のぼくの平衡を失った孤独な気持が、何か人恋しさの心で、ぼくを走らせたのであろう。走り出して失敗しまった、と思った。病気の事が頭に浮んだのだ。勿論走ったり出来る身体ではなかった。少し坂を登っても、咳にむせび、息苦しくハアハアと呼吸しなければならなかった程だから。失敗った、と思ったが、一気に走ってしまった。女の傍まで来た時、急に激しい咳が起った。胸の中がガラガラ鳴った。ぼくは蹲った。生るいものがこみ上って来たかと思うと、ドロッと口の中に咳出された。吐くと、白い砂の上に鮮やかに赤かった。頭上で声がした。
「どうかさいまして?」
 ぼくは勿論返答出来なかった。ただじっと息をこらして、喀血の止まるのを待っていた。二三度吐いた。全く情無かった。喀血その事よりも、見知らぬ女の前でそんな醜態を演じてしまったことが情無かった。そのひとは暫く呆然としていたらしいが、やがて海水を手ですくって、ぼくの口にのませてくれた。食塩水が止血に効くことを知っていたのだろう。綺麗な手だった。しなやかで色が白かった。その手を握って海水を啜った。今にして思えばありがたい喀血だが、その時は、砂を掘ってもその中にはいってしまいたい位だった。海水をのむと安心したのか、心が静まって、胸のガラガラ鳴る音が止んだ。ぼくは漸く頭をあげてそのひとの顔をみた。そして突然、
「あなたは死ぬんじゃありませんか?」
 と言った。随分恥しいことを言ったものだ。ぼくは先ず、ありがとうとお礼を言う可きだった。それを、顔を見るなり、死ぬんじゃありませんか、とはひどく気障きざっぽい言い方だし、それに失礼過ぎる。だが、そんな事をぼくに言わせたのは、そのひとの美しさなのだ。
 一体、白浜は自殺者の多いところで、その土地で温泉小唄を募集した時、「南紀白浜自殺の本場、お湯の中でもコーリャ人が死ぬよ」という唄を応募した者があったほどだ。その数日前のことだが、ぼくのいる宿に泊った若い女の二人連れが心中した。廊下でちらと見たが、二人とも醜い女で、安っぽい銘仙の着物をきて黄色なメリンスの兵古帯をしめていた。夜遅くまで海に面した廊下で「大磯心中」の唄を合唱していたが、それがぼくの部屋まで聞えて来るので、それで無くとも眠れぬぼくは癇癪を立てて、喧ましい、と怒鳴った。それで静かになったと思ったら、翌朝白良浜に二人の身体が打揚げられていたのだ。見なかったが、宿の番頭が知らせてくれた。余り騒がれもしなかったし、新聞にも出なかった様だが、醜い女であったからかも知れない。心中するとは知らず、その前夜、邪険に怒鳴って済まないと思っていた。美しい女だったら、怒鳴らなかったろう。あるいは、ぼくも一緒に歌ったかも知れない。

 その心中した女たちに比べて、その夜の女の美しさ。死ぬんじゃありませんか、とぼくが言うと、彼女はすかさず、
「あなたこそ、死にそうですわよ」
 と言って、ニッと笑った。その微笑は、ぼくの心にまるで針の様につきささった。と言うのは……。
 いったい、ぼくの悪い癖なのだが、その頃のぼくには、相手が若い女性である時には、ぼくの如何なる行動からも「男性」としてのぼくを見られたくない、言いかえると、その女からは何も求めていない、その女を問題にしていない、即ち、その女を「女性」として見ていない、という風に見てほしいという本能がある。この本能はぼくがその女を問題にしている時でも、問題にしていない時でも、絶えず意識の中に網の様に張られているのだ。恐らく、自尊心と羞恥心から来るものと思う。この本能は愛の駆引きに非常に役立つものらしいけれど、それは結果としてである。さてその時もこの奇妙な本能が意識の先にあったのだ。ぼくはこんな風に思っていた。――このひとは、死ぬんじゃありませんか、というぼくの言葉を純粋に彼女の自殺を心配した上での真実の疑問だと思うだろうか。そう思うにしても彼女をそんな風に見たのは、若しそうで無いなら随分間の悪いことだが、とにかく、そう思うだろうか。それとも、もっと不純な質問と見るだろうか。――と。だから彼女が、あなたこそ死にそうですわよ、と言って微笑した時、今から思うと、恐らく、彼女は喀血したぼくの身体のことを言ったのであろうが、ぼくはそう思わず、彼女は、――あなたは私を自殺する女と早合点成すったらしいけど、私がそう見えるなら、夜更けの海岸で私と同じ様に海をみていらっしゃるあなただって、そう見える筈じゃない? 死ぬんじゃありませんか、とは仲々この夜更けの海岸に適わしい言葉だけど――と言っている様に思ったのだ。そう思い込むと、ぼくは急に顔が赤くなった。言葉に窮した。誇張して言うと、出番を間違えて舞台に登場した役者の様な間の悪さだった。だが今から考えると、ぼくはそんなに恥しい想いをする必要はなかったのだ。何故なら、ぼくが赧くなり不器用に黙りこんでいる間の悪さは、喀血したというその時の事情が救ってくれていた筈だから。彼女にとっては、ぼくが喀血したということが非常な驚きであって、その他のことは何一つ意に介する余裕はなかった筈だ。
 ぼくが尚もじっと蹲ったままでいると、彼女は、ぼくの宿を訊き、とにかく宿へ知らせて医者を呼びに行ってもらうか、迎えの者に来てもらうことにしようと言った。それには及ばぬ、大丈夫歩いて帰えれるからと言って立ち上ると、彼女はそれでは宿まで送って行こうといい、それで二人並んで歩き出した。一口に白浜と呼んでいるが、その土地は、白浜温泉と湯崎温泉の二つに分れていて、その砂浜を横切り、左へ折れれば湯崎温泉、右は白浜温泉であり、浜ぞいにバスの走る道が通じ、白浜湯崎間は八丁なのだ。ぼくの宿は湯崎にあったが、その女のも湯崎だった。浜を横切ってその道に出ると、温泉の湯気の香が強かった。それで始めて、彼女のからだから漂うている香料のことを考えた。道端の電柱の灯がその薫を照らしている様だった。鈍い光であったから、それは秋の花の匂いを想わせた。ぼくは木犀らしいと思ったが、後できいたら、ホワイトローズだった。それは愉しい一刻ひとときには違いなかった。夜更けの海辺の道を見知らぬ美しい女と肩を並べて歩くなどというひそかな喜びは、病気が約束した短い一生にとってはまことに貴ぶ可きものなのだ。この喜びに陶酔しなければならぬ、とその時ぼくも思った。併し、陶酔しなければならぬと思うことが、陶酔をさまたげることになるし、卒直に言えば、ぼくはそのひそかな喜びにいら立っていたのだ。ぼくらは始終黙々としていたが、情無いことには、ぼくは、黙っていることがやり切れなかったのだ。好奇心というものは多少とも人を苛立たせるものだが、ぼくはその時、彼女が何故こんな夜更けに海岸に出ていたのか、と訊ねたくてしかもそれをきく勇気はなかった。その勇気の出ないことが少し情無くもあったし、又そう思われることが恥しかったのだ。黙っていることが絶えず意識されて辛かった。その場合、ぼくの身体の状態から考えれば、黙っていることこそ自然であったに違いなかったのだが、ぼくは自分が絶対安静を必要とする病人であることを忘れていたのだ。恐らく彼女の方は、ぼくに喋らせまいとして、又、ぼくの神経を疲労せしめまいとして黙っていたのだったろうけれど。
 急に、彼女が、ハッとしてぼくの側を離れた。あし音がしたと思うと、もう次の瞬間には一人の逞しい男の身体が、ぼくらの眼の前に突っ立っていた。その巌丈な肩が動いたので、ぼくは思わず両手で胸の辺りを防いだ。と、ピシャリと音がして、彼女の身体がよろめいた。その男は彼女の手をとると、サッサと歩き出した。彼女は唇をかみしめてふっと空をみつめたまま、その男が引っ張るのに任せていた。ぼくは呆然として、二人の背後うしろ姿を見ていた。

 翌朝、トロムボゲンをのむと、血痰は直ぐ止まった。二三日宿で臥床していると熱が下ったので、もうじっとして居られず、ぶらぶらと外を歩き出した。勿論彼女の姿を見つけたかったからなのだ。そして見つけた。湯崎の海岸通を朝の燦々たる日光を浴びて眩しそうに顔をしかめた彼女が、半町ほど向うから歩いて来るのを見た時、ぼくはドキッとした。顔がみるみる赧くなってしまった。丁度曲り角の手前だったので、まるで逃げる様に道を折れてしまった。坂道だったので、咳が出て困った。思いがけ無く会ったというよりも、むしろ会うことを期待していたので、そんなに周章あわてるに及ばなかった訳だが、期待していただけに、かえってその期待していたという気持を見すかされやしないかと怖れて逃げ出したのであろう。思いがけなく会ったのなら、もっと大胆になれただろうと思う。勿論それにしてもあの様な最初から最後まで奇妙だった出会いの後ではあるし、又眩しいほどの彼女の美しさであるから、一応は逃げたくもなるだろうけれど。坂を登りながらぼくは些かみじめな気持だった。後で後悔するだろうと思ったのだ。ふと振り向くと、彼女も又道を折れて坂を登って来るのだ。爽快な朝だった、とは今にして想うことであって、その瞬間、ぼくは身体のやり場に困るほどみじめな気持だった。彼女はぼくに気がついているに違いない。そうとすればコンコンと咳きながら顔赧くして逃出す様に坂を登っているぼくの姿は滑稽に見えるかも知れない。そうぼくは思ったのだ。ぼくは勇気を振い起して、大胆に彼女の方へ近寄り、言葉をかけなければならない、と自分に言いきかせた。その時、ふと言葉をかけないのは失礼だ、何故なら自分はあの晩の彼女の親切に礼を言わなければならない筈だ、という考えが頭に浮んだ。この考えがぼくに勇気を与えた。ぼくは振りかえった。と、彼女はもうぼくの直ぐ眼の前まで来ていて、ぼくが頭を下げると、彼女の方から、
「もうお身体は大丈夫ですか」と声をかけた。
「ええ、この間はどうも有難うございました」とぼくはほっとして言った。
 ぼくらは暫く物も言わず向きあったまま突っ立っていたが、やがて滑稽なことだが、どちらからともなく坂を下り始めた。登らずに引きかえして下り出したということが何か可笑しくて、微笑すると、彼女もクスッと声を立てた。
 坂を降りると、ぼくらは白浜の方へとゆっくり歩いて行った、彼女は、何か寂しい翳があるというよりも寧ろ冷い感じのする容貌をもっていた。鋭角的な輪廓、よく通った鼻筋、広い額、が、その冷たさに触れてかえって心が温まると思われる様な感じを起させるのだったが、唯一つ、少し上にむくれている上唇が、可憐に見えた。彼女は時々眉の付根を引き寄せる癖があるので、ぼくはそれを「眉をひそめる」という意味にとり、気になったが、それは彼女が近視であるためだった。その表情は彼女を非常に若々しく見せた。彼女はもう二十六歳だったが、ぼくには自分と五つも違う様には思えなかった。ぼくらは歩きながら殆んど病気の事ばかり話した。
「肺病のこと良く御存知ですね」と言うと彼女は、
「ええ、私の夫が医者でしたの。矢張り胸を患ってなくなりましたが」と言った。ぼくはこの機会だと思って、
「そうですか。なくなられたんですか。ぼくはあの方が旦那さんだと思っていました」とあの晩の男のことをほのめかしたが、彼女は赧くなった丈で返答はしなかった。
 白浜温泉口のバスの乗場まで来ると、ぼくらはその前の藤棚の下のベンチに腰を下ろしたが、そこは絶えず発着するバスの音が喧しくて、彼女からあの晩の男のことを訊きだそうとするぼくの目的には適わしくない場所だった。ぼくは喫茶店にでも誘いたかったのだが、言い出せなかった。疲れたとか、咽喉が乾いたとか思わせ振りなことを言うと、彼女は察して、お茶でものもう、と言った。近くの「銀砂」という小っぽけな珈琲店にはいった。ボックスでは、一人のまるで女の様な綺麗な肌をした色の白い、ぼくと同年輩位の美少年が、セルの着物の袖から白い手をぬッと伸ばして房々とした髪の毛をかきあげながら、その店の、雀斑そばかすのあるかなり可愛いい顔をしたワンピースのドレスの少女とひそやかに語らいながら二人切りの時間を楽しんでいる様だった。美少年は、ぼくらの姿を見ると、「トシちゃん、又来る」といって、右肩を下げ、棒切れの様な貧弱なステッキをひきずりながら出て行った。ソーダ水を註文すると彼女は喀血した人にはソーダ性のものは毒だ、紅茶にしなさい、と言った。ぼくはその親切がありがたかった。紅茶を選ぶと、その店の少女はレコードをかけ、首をかしげて聴き惚れていた。百合の花の匂いが漂うていた。ドアのカーテンの隙間から一筋の明るい太陽の光線がはいっていた。その隙間から海が見えた。そんな雰囲気の中でぼくは、彼女から、あの晩の男と彼女との関係を訊き出すことに成功したのだ。彼女の話はその雰囲気に適わしいものとは言えなかったが。

 彼女の語るところによると、轡川というその男は彼女――明日あす子という――の夫と同郷の者、当時大阪の私立大学の学生だったという。医科大学の助教授である彼女の夫が肺を患って寝こんでしまった時、他に男手のない二人暮しの家が物騒だというので、柔道部の選手をしていた轡川に言わば用心棒代りに寝泊りしてもらうことにした。明日子はその轡川に暴力で辱しめられた。柔道部の選手をしている位だから力は強かったとはいえ、防げば防げぬことも無かったが下の部屋で寝ている重病の夫を驚かして神経を興奮させることを怖れたので、声一つ立てられず、暴力に激しく抵抗することも出来ず、轡川に身を任せた。以後二人の関係は続けられた。夫は間も無く死んで、明日子は白浜の近くのT港にある実家に帰った。轡川はその後度々白浜温泉まで出掛け、彼女を呼び出した。轡川は彼女に結婚してくれと言うのだが、彼女はその意志は無い。轡川には愛情は感じ得ず、今度彼女が白浜へ来たのは、轡川と絶交する目的で来たのでその話がつけば直ぐ田辺に帰えるつもりである。この間の晩彼女が夜遅く海岸にいたのは、轡川と口論して何となく宿を抜け出していたのだった。轡川があの時彼女を撲ったのは、勿論その口論の続きの行動だが、彼は非常に嫉妬深く、あの時彼女と並んで歩いていたぼくを嫉妬した為だという。

 彼女の話は、聴いていて余り気持の良いものではなかった。殊に美しい彼女が野蛮な轡川のために辱められたなどという話は、それが当人の口から直接語られるとすると随分あさましい気持がする。義憤を感じて熱が出るほどだった。だが、正直に言えば、その時ぼくはかなり朗かな気持だった。年少のぼくに彼女がそんな身の上話をきかせてくれた、と言うよりむしろ、ぼくが巧くそうさせたと言うことの満足と、そういう話をしたということがお互いの親密の度を増したという喜びのためなのだ。殊に轡川がぼくを嫉妬したということは、之まで何の関係も無かった二人が少くとも轡川の想像の中では、たとえ仮定的にしろある種の関係をもっていることになるので、無意識の裡にぼくらの親密の度を増して行くことに役立ったのだろう。ぼくは嫉妬されている者の快感に些か酔うていたので、明日子がたとえ辱しめられたという事実があるにしろ、何故その後もその様な男と関係を続けて来たのか、などという疑問を抱く余裕もなく、その珈琲店を出る時は、頬に微笑を浮べている位だった。丁度その店を出ようとすると、入れ違いに先程の美少年がはいって来た。彼はぼくの顔と明日子の顔を見比べて、ロイド眼鏡の奥でちらりと笑った。ぼくもにやっと笑った。そして表へ出ると、明日子は突然あっと声を立てた。藤棚の下で真蒼な顔をしてじっとこちらをにらみながら轡川が突っ立っているのだ。ぼくの眼が轡川の眼にぶつかった途端、ぼくは之は撲られるぞ、と思った。それ程のすさまじい表情を彼はしていたのだ。瞬間彼の頬の筋肉がゆるんだかと思うと、もう彼は笑顔を作りながらぼくらの方に近づいて来て、
「やあ、この間の晩の方ですね。お身体はどうですか」と媚びを含んだとさえ思われる程ひどく親しみのある調子で話しかけた。ぼくは周章てて、
「ああ有難う」と言ったが、無愛想な調子だった。そういう無愛想な調子が出たのは、恐らく彼女を辱めたという彼への反感からであっただろうが、しかし、もしその時彼が親しみのある態度でなく、反抗的な調子でやって来たのなら、ぼくはきっともっと愛想のよい寧ろ媚びた態度を見せたに違いない。ぼくが無愛想な態度を見せても、轡川はその為にますますぼくの機嫌をとっているかと思えるほど、いそいそと親しみのある調子でぼくにいろいろ話しかけて来た。ぼくら三人は湯崎の方へ話しながら歩いて行ったが、ぼくが、今いる宿の待遇が悪いので宿を変えようと思っているというと彼は是非自分等のいる宿に来い、隣の部屋が空いているからとすすめたので、ぼくは、幾分不可解な気持もしないではなかった。ぼくに嫉妬している彼が、ぼくを彼等の宿へ来させてわざと彼女の傍に近づけようとする筈はないと思ったからなのだ。ぼくはあるいは彼はぼくがそれに応ずるかどうかに依ってぼくの彼女への関心の如何を探ろうとして、ぼくを試しているのではないかと思ったので、自分は病人であるから迷惑をかけては、と断った。すると、今度は明日子も一緒になってしきりにすすめた。ぼくはもはや礼儀上断り切れない破目になって、というよりも、そういう破目になったという顔をして、それに応じた。すると轡川は今から直ぐ移ることにしよう、と言い出し、ぼくの宿に行くと、甲斐々々しくぼくの荷物を纒めて、彼の宿まで運んでくれた。彼が大きな図体に汗をビッショリかきながらまるで番頭の様に立働いている容子をみると、ぼくは、そんなにまでぼくが彼の宿に移ることをよろこんで、親切にしてくれるのに、ぼくを試しているなどと疑ったことが何か済まないことをしたように思った。それにしても、彼がそんなにぼくに親切にしてくれるのは何故であるかぼくには分らなかったが、ぼくは唯、彼がぼくの機嫌をとる態度をみて、嫉妬される者の優越感を味い、少し己惚れ気味に良い気持になっていた。
 宿に移り、彼らの隣の部屋に落ちつくと、明日子はぼくの持っていたレコードのアルバムを見て、聴かせてくれといい、フランクのピアノ五重奏とヴェトーヴェンの第八シンフォニイを掛けながら、三人で音楽の話などをした。轡川はぼくの多少ペダンチック臭のある話に喰いついて行こうとするらしく見えたが、教養が無いので喋ることが頓珍漢で、明日子は時々轡川を嘲笑しているかの様な眼付をぼくに見せた。それを見るとぼくは益※(二の字点、1-2-22)良い気になり、自分でも嫌気がさす位ペダンチックになるので、轡川は煙にまかれた形でみじめに見えた。
 夕飯の時、ぼくらは部屋を仕切っている襖をあけて、お互いの部屋から話しながら食事をしたが、その時、轡川は突然ぼくに、石油をのめと言い出した。何の事かと思っていると、彼は、石油が肺病に効くという話をいろいろな例をひっぱり出してくどくどと喋り出した。すると、明日子は石油が結核に効くなどとは医学的に説明されていない以上、迷信に過ぎないと轡川に反撥したので、ぼくは明日子が医者の妻であったことを思い出して、仲々面白いと見ていると、轡川は女中に婦人雑誌を持って来さし、「石油で結核を癒した実話」の載っている頁をぼくらに見せた。しかし、ぼくは石油はのむ気がしない、と言うと、轡川は残念そうに、じゃあなたもこの人と同じ意見ですね、のめばなおるのに、と明日子を指さした。そういう彼を見ていると、まるでぼくと明日子が協同して彼をみじめな立場に陥入れている様な気がし、明日子の明らかに彼を嫌っていると見える態度や、絶交の話のために彼女が白浜へ来ているといったことなどを思い合わせて、何か轡川が気の毒な気がしたけれど、結局轡川が明日子を辱しめたという事実から来るぼくの反感がそういう気持を殺してしまうので、ぼくが明らかに明日子に好意を示しているように彼にとられやしないかという心配も忘れてしまって、その日一日中明日子がぼくの前で轡川をやっつける御手伝いをしていた。

 その夜、寝床にはいって、電燈を消してから、ぼくは今夜もまた不眠に苦しめられるのかと閉じた眼の前に覆いかぶさって来る無気味な闇とたたかっていると、隣の部屋から、ひそひそと話声が聞えて来た。轡川のくどくどと何かかき口説く様な調子を帯びた声と、明日子のそれに答えるキンキンとした疳高い冷淡な調子の声をきいていると、いよいよ別れ話だなと思った。やがて轡川の声は涙を含んで来て、しまいには啜り泣きになった。ぼくは、明日子の様な美しい女であってみれば、轡川が別れ話に涙を流すのも無理もないと思って同情すら覚えたが、しかし、むしろ轡川に涙を流させた明日子に拍手を送りたい気持で一杯だった。
 やがて話声が聞えなくなった。ぼくは睡眠にはいる前の快よい瞼の疲労を愉しんでうとうととしていた。と、ぼくは突然、耳を塞ぎたくなる様な隣室の物音をきいて、まるで外科手術をうけているかの様に血の気を失ってしまった。それは彼らに就て想像もしなかったことだった。勿論若い男女がそうして二人で温泉宿で泊って居るとすれば極めて普通なことには違いないけれど、明日子と轡川の場合、ぼくには意外だった。明日子は轡川を嫌っている筈だし、別れ話をする為に来ているのでは無いか。ぼくは何故そういうことを明日子が轡川に許すのか、不思議でならなかった。ぼくは轡川が暴力で明日子を辱しめたという話を想い出して、隣室で行われていることから拷問に似たものを感じた。ぼくは自分も又拷問されているような苦しさすら覚えたのだ。ぼくはその瞬間ほど明日子、否女性というものを頼りなく又いとしく思ったことは無かった。その時のぼくの愛情は恐らく、馬鹿! とどなりつけるか、彼らを撲りとばすより外には表現のしようの無いものだった。しかし、如何なる愛情といえども、その様な彼女を傷つける様な表現の仕方を妥当とはしないから、その時ぼくが出来得ることは、その様な行為の醜さや重大性から眼をそむけて、ただ、彼等がとるに足らぬ日常茶飯事を行っているに過ぎないと思いこんでしまうことより外にはなかった。だがその様なことはその時のぼくには、困難なことだった。ぼくは息苦しくなり、痰が咽喉にひっかかって咳が出そうになった。だがもしぼくが咳をすれば、轡川はぼくが今みじめな気持のまま眼覚めていることを知って、何か勝ち誇った様な快感を覚えるかも知れないと思うと、あるいは轡川は、ぼくにそんな気持を起させるためにわざとぼくに宿を変わらせたのではなかろうか、とすら考えられて、必死になって咳を堪え、ぼくが眼覚めていることを知らすまいと努力した。だが、ぼくの様に肺を患っている男にとっては咳をこらえることは、窒息しそうになる位苦しいものだった。
 その夜が明けて朝食前。明日子が湯に行った隙に轡川はぼくの部屋に来て、未だ寝床の中にはいっているぼくの枕下に坐ると、にこにこしながら、
「あなたは非常に魅力のある風貌をもっている。明日子がそう言ってましたよ」といった。ぼくは表情に困った。というのは、明日子にそういわれていることが些か嬉しくもあり、又照れたのだが、轡川が明日子の事など言い出したのはどういうつもりだろうと、考えると、うっかりした表情も出来まいと思ったからなのだ。それでなるべくにがい顔をする様にしていると、彼は、
「いや、ぼくは昨日一日ですっかりあなたに惚れこんでしまいましたよ。尊敬といってもいい位です。一つぼくの友達になってくれませんか」と言った。ぼくは悪い気はしなかった。いったい年上の大学生に尊敬されるなどとはくすぐったい話だが、くだらぬことには一般に一高や三高などという所謂秀才の集るといわれている学校の生徒は、学校の名を鼻にかける傾向があるもので、その時も相手が私立大学の学生であってみれば、三高の生徒であるぼくが尊敬されるのも不思議ではないというつまらぬ虚栄心が働いていたのだろう、ぼくはすっかりやに下って了って、
「ぼくらは既に友達じゃありませんか」と言った。そしてぼくらは学生らしい所謂感激に満ちた、歯の浮く様な儀礼を暫くかわしていたが、轡川は突然、真剣な顔付きになったかと思うと、
「実は、明日子のことだけど、明日子はあなたにどんなこと話したんですか。ぼくのこと何か言ったでしょう。ぼくらは友達同志だから、卒直にありのままをきかせてくれませんか」と言うのだ。ぼくは失敗しまった、と思った。彼が友達になってくれとか、尊敬するとか言ったのはそれをきくためだったのだ、そう言えば、昨日彼がぼくに親切にしたり媚びる様な態度を見せたりしたのもこのことの予備行動ではなかろうか、そうぼくは思ったのだ。ぼくは無性に腹が立つので、まるで彼の顔にぶっつける様な調子で、
「あのひとはあなたを嫌いだって言ってましたよ。あなたはあのひとの身体を暴力で自由にしたのでしょう?」といって寝床の上に坐りこんだ。そういう言葉の効果は随分どぎついものなので、ぼくは彼の顔から眼をらさずには居られなかったが、顔を見なくても彼の狼狽する表情がはっきりと想像されてそれを愉しんでいた。すると彼のひどく急きこんだ調子の声が来た。
「それを信じて、信じてるんですね。あなたは……」
 信ずるのかと言われてみると、一途に信じこんでいたことが分る。だがそう言われても勿論信じている心は動かなかった。しかし彼は、やがて意外なことをいい出した。自分は明日子を辱めたのでは無い。むしろ誘惑されたのは自分の方だ。明日子は夫が病気で寝ている時も家に出入する夫の教え子の学生たちと遊びまわっていたのだ。自分はそれをにが々しく思っていた位だ。――そう彼は言った。そんな事があるものか、と思ったが、真正面から反対するのもいかにも芸の無いことなので、ぼくは、
「苦々しく思っているのに何故誘惑されたのです」と遠廻わしに反撥した。彼は黙りこんでしまった。何か言いそうなものだと待っていたが無駄だった。そうなると、ぼくが一言なかるべからず、と思ったのだが、さて何を言ったものかと考えながら、結局自分が今言った言葉にひきずられて、
「苦々しく思っていて誘惑されるということはあり得ることでしょうね。反感がかえって惹きつけさせてしまうという風に。また、浮気な女には誰も眼をつけるものだし……」と言った。それではまるで轡川の弁護をしている様なものであって、ぼくの意にそぐわないこと甚しかったが、そんなことを言い出したのは、そういう知ったか振りなことを言ってみたい虚栄心からだったのだろう。尊敬していると言われたことが未だ快く頭の中に残っていたのだ。
「そうです。そうです。巧いことを言った、あなたは」と轡川はひどく感心したという調子で言ったので、ぼくはすっかり良い気持になってしまった。それで自然ぼくの心は自分自身の言った言葉にごまかされてしまい、轡川の言葉を信ずる方向に傾いて来て、明日子を覆うていたベエールが次第にとれ始め、明日子は単に男を求める浮気女に過ぎないのではないかと思われて来た。ぼくは彼女が轡川に辱しめられた後も関係を続けて来たことを、明瞭には分らなかったが漠然と何か女というものの「弱さ」からではなかろうかと考え、自然、「拷問」という言葉を連想したのだったが、その瞬間、健康そのものの如き轡川の身体を見て、はっと何もかも分った様な気がし、もはやそういう言葉はぼくの心の中で単なる「享楽」という言葉に置き換えられてしまった。だが、それにしても明日子は何の為めにあんな風にぼくに話さねばならなかったのか、そんな疑問は矢張り残っていた。と、轡川は、明日子が様々な男と怪しい関係があった例をひどく興奮した調子で話した揚句、
「今にあなたも誘惑されますよ」と言った。なるほどとぼくは思った。明日子があんな風にぼくに言ったのは、ぼくの同情をひいてぼくを誘惑するためだったのか、そう思って、
「誘惑なんかされませんよ」と言うと、轡川は、
「そうですかね。いったいあなたは明日子をどうお考えですか」と問うて来た。ぼくは彼の顔にひどく満足そうな表情を見たと思った。すると、突然はっと、してやられたと言う考えが、頭にひらめいた。此の男はぼくを明日子から遠ざけようとして、明日子の事を悪く言ってるのだ、そう言えば昨日からの此の男の行動は総てその事から説明されるではないか、彼がぼくに示した度を過ぎた様な好意も、結局好意を売りつけて、その恩義を感じたぼくが明日子に近づくことを思い止まる様にさせる為のものではなかったか、そう思うと、ぼくはいい気になって轡川の策略にのって来たことが腹立たしくてならなかった。だが、もはやそうと気が付いた以上、轡川にうまく乗せられてやればいいと思ったので、
「ぼくはあのひとは嫌いです」と言った。そして、そう言う腹の底で、轡川にのせられたのは残念ではあるが、轡川の言葉は嘘言であり明日子は矢張り彼の言う様な女ではないと思えることが些か嬉しかった。
 丁度その時、明日子が湯から戻って来た。ぼくはばつが悪くて弱った。何より困ったのは、轡川の前で、嫌いですと言った以上、どうしても明日子に他所々々しくしなければならなかったことである。そういうぼくの態度を明日子はどう思ったのであろうか、あるいはそういう態度を見て、自分が嫌われていると思い、そのために一層ぼくに心を惹かれたのであろうか、ぼくが照れてしまうほどいそいそとぼくの機嫌をとり、ぼくに意味あり気な秋波を送っている様に見えた。それは轡川の眼に余るほどだとぼくは思ったが、しかし轡川は平然としていた。恐らくぼくがそういう明日子の態度に素気すげなく反撥していたからであろうとぼくは思った。素気なく反撥したのは、とにかく轡川の手前その必要があったからであるが、しかし、それは必要に迫られてというより、むしろその時のぼくの気持としては自然であった。何故ならそういう明日子の態度をみると、あるいは明日子は矢張り轡川の言った通り浮気な女でなかろうか、ぼくを誘惑しようとしているのではないかと思われ、いやな気がしたからである。しかし、このいやな気持は明日子を嫌悪するというよりも、その時明日子をそういう風に思わねばならぬことが又もやぼくが轡川の言を正しいとしなければならぬことになるので、そういうぼくの計算の間違いを認めることがいやだったのである。ぼくがその時彼女を嫌悪していたのだったら、恐らく、次に述べる様なことは起らなかっただろう。

 それは、自分自身でも驚いてしまったほど意外なことなのだが、その夕方、轡川が莨を買いに行くと言って部屋を出て行った時、廊下で明日子と肩を並べながら海をみていたぼくは、ふと、明日子の白い首筋を見ると、あっという間にその首筋に手をかけて顔を傾かせ、接唇してしまった。歯の音がカチカチと鳴った。それは瞬間の内に終った。二人は離れた。ぼくは自分の唇を手でぬぐった。ぼくは何故そういう事をしたのか明瞭に自分に説明することは出来ない。何故接唇したかなどとは要するにくだらない問いで、結局接唇したかったから接唇したのだろうと思う。強いて言うならば、その時ぼくには明日子が轡川の言う様に浮気な女であるかどうか、ということをその行為で試してみようという気持が心の奥底にあった。その試みという目的が、ぼくの行為の自己弁解にもなるので多少ともぼくのその乱暴な行為を実行する為の勇気を与えたと言えないことはない。だが、そんな試みなどと言うものは何にもならなかった。
 ぼくは只呆然としてしまった。滑稽なことには身体が痙攣している様にブルブル震えてならなかった。生れて始めての経験であるから、無理もないことだが幾分醜態だった。ぼくはシャックリの出た人が気まり悪がる様に、身体の震えていることを気まり悪がった。ぼくは明日子に魅力を感じて、そうして生れて始めての接唇をしたのだから陶酔の感覚があると思った筈だのに、むしろ不快な気持だった。震えているという醜態のためだった。しかし又、明日子がぼくにそのことを許したのである以上明日子を浮気な女と認めねばならぬと思った為でもあった。だが正直に言って、ぼくは無我夢中だったので、明日子が喜んでそれを許したのかどうかは分らなかったのだ。接唇後も彼女の顔を正視することも出来ず、彼女の言った言葉も聴えなかった位だが、とにかくその時ぼくはそう決めてしまったのだ。むしろ不快な位だったので、接唇の陶酔とはこんなものかと情なく思った。それで、そのことから多少とも喜びを感ずるには、ぼくは自分は非常に大胆なことをやってのけた、彼女は浮気な女であろうとなかろうと、とにかく接唇を許す位自分を愛している、という自尊心の満足を思い出す必要があった。そして、ぼくは轡川の顔をふっと思い浮べると、轡川はぼくを明日子から遠ざけようとして種々の策略を弄したけれど結局勝ったのはぼくではないか、と始めてほのぼのとした喜びを感ずることが出来た。

 ぼくらはお互いに顔をそむけたまま終始黙々としていたが、恐らく五分程経った頃だろう、轡川が部屋に戻って来た。そしてぼくの顔をみるなり、
「逃げようたって駄目ですよ」と言った。
 ぼくはハッとして、何を言い出すのかと固唾をのんだ。ぼくは何か彼に見すかされたと思ったのだ。彼は手にぶら下げている紙包をひらくと、小さな瓶をとり出して、
「さあ、之をのみなさい。石油です。随分探して買って来たんです」と言いながら懐から盞をとり出し、それにドロドロと瓶の液を注いだ。
「そんなもの飲んでは駄目ですよ」と明日子が言った。すると、轡川は、
「あなたは黙ってるんだ」と明日子に言い、そしてぼくの方を向くと、
「のみますね。怖くないでしょう?」と、盞をぼくの手に渡した。ぼくは一口にぐっとのんでしまった。生臭いにおいがプンとして、はき気を催しそうだった。ぼくがそれをのんだのは、「怖くないでしょう?」という轡川の言葉をきいたからだった。ぼくは最初彼が石油を取り出した時は、恐らく彼はその朝ぼくが彼女を嫌いだと言った言葉や、その後のぼくの彼女への態度から考えて、あるいはぼくが彼の肩をもって彼女の迷信だという説に反対して石油をのむかも知れないと思い、彼女の鼻を明かす積りで買って来たのだろうと思った。だとすれば、彼の思惑通りにしてやる必要がある筈だと思った。それは朝以来のぼくの態度の続きとして必要であるし、又、今先ぼくが明日子に接唇したということはとにかく彼には済まないと思える行為であったから、その償いとしても彼を喜ばす必要がある。そう思ったのだが、しかし、明日子にそんなものを飲むなといわれてみれば、とにかく今接唇したばかりの彼女の意に空しくそむくことも出来なかった。だが又、彼の意気込みの激しさはただならぬものがあったから、あるいは彼は部屋にはいって来た時ぼくらの容子を見て、何か疑わしく思ったのではなかろうかと思われて、それでは矢張りその疑いを晴らす為に飲む可きだとも思った。それにしても、夜更けの海辺で明日子を見て自殺者と思ったことが結局石油をのむ破目になったのかと思うと、情無かった。後で考えて後悔するだろうと思うと、躊躇された。しかし、「怖くないでしょう」といわれてみると、もう何も考えなかったのだ。怖くないことを示すという自尊心が、ぼくをして生臭い石油をまるで毒薬をのむ様な悲壮な表情で飲ませてしまったのだ。
 その夜ぼくは寝床にはいってから、隣の部屋がぼくを苦しめないことを喜んだが、その代り、激しい下痢と頭痛に苦しめられた。勿論石油をのんだ為であるが、轡川がぼくがそれをのんだ時に見せたさも嬉しそうな表情を思うと、一体之から先、石油をのむ様な場面まで演じてしまったぼくらの関係はどうなるのだろうと、その夜は結局一睡もせず、間抜けた顔をして、下腹を押えながら、夜を明かした。

 その翌朝、ぼくはこっそり医者に行った。轡川に知られるのが如何にも間抜けたことと思ったのだ。医者は下痢止めの薬をくれたが、ぼくが石油をのんだというと、彼は無茶なことをすると、驚いた顔をしたので、ぼくは、轡川の顔を情無く思い浮べながら、婦人雑誌の例をあげて弁護めいたことを言った。すると医者は、この頃婦人雑誌で石油が肺病に効くと騒いだり、又、石油を主剤にした肺病薬が発売されたりしたので、内務省衛生医局で実験をしてみたところ、結局石油に結核菌を殺す力は無く、むしろ人体に有害であると分り、その肺病薬は発売禁止になった、最近の新聞にその事が出ていたのを君は知らないのか、と言った。ぼくはふと、轡川がそれを知っていてわざとぼくに飲ませたのではないかと疑い、それならばその事を轡川に言ってやることは昨夜来の苦痛を補って余りあるほどの快感をもたらすだろう、又、知っていなかったとしても、とにかくそのことを言ってやる事は、昨夜明日子の意にそむいたことの償いにもなる訳だ。そう考えながら医院を出ると、下痢をしている身体にもかかわらず、妙に意気ごんで宿に帰って行った。
 宿に帰えってみると、意外にも明日子は之からT港へ帰えろうとしている所だといい、実はあなたが居ないので、挨拶せずに帰ってしまう様なことにならないかと心配して、船の時間を気にしながらあなたの帰えりを待っていたのだが、どこへ行っていたのか、と訊ねた。ぼくは、それでは到頭別れ話がついたのかと思い、ふと轡川の顔をみると、涙が眼に光っているのが明らかに見えたので、その様にしょげ切っている彼にはもはや石油の話を持ち出すのは残酷だと思い、それで散歩に行って来たのだと答え、そして轡川に、あなたも一緒に帰えるのかときくと、彼は殆んど泣き出しそうな顔をして、いやぼくは後から帰えるのだ、と言った。
 船の時間が迫っているというので、ぼくらは直ぐ宿を出て、バスに乗り東白浜にある綱不知の桟橋まで明日子を送って行った。バスが珈琲店「銀砂」の前を通ると、丁度この間の美少年が放心した様な顔に一筋何か悲しい影を泛べて、はいって行く所だった。未だ朝の内から「銀砂」に通って行くことが何か微笑ましく、思わず微笑すると、明日子も亦ぼくの顔を見て微笑した。二人だけにわかる徴笑であった。ぼくは急にはしゃぎ出した。ぼくは明日子と二人だけの話をしたくてならなかった。彼女に接唇をし、そしてそれが結局不本意にも彼女を浮気な女だと思いこんでしまうことになったまま空しく別れてしまうことは、いまの二人が交した微笑の趣きには適わしくないと思った。が結局轡川の前でそのことに触れる訳に行かないので、もはやぼくは気づまりな沈黙にたえかねて思わずはしゃぎ出すより外にしかたが無かったのだ。それとも一座の沈潜した空気を緩和するための道化振りだったのか。とにかくぼくは口をひらけば、洒落と冗談の連続だった。そういうぼくを明日子は何と見たのだろうか。恐らく二十一歳の青年の子供じみた陽気さと見たことだろう。陽気といえばある瞬間ひどく陽気だったが、それはいつ迄も続かなかった。

 やがて明日子は船にのり、船が動き出した。明日子は甲板で手を振った。轡川もぼくも手を振った。ぼくは腹が痛んで来たので手を振るのを止めた。手を振るのを止めるとかえって顔をじっと見つめる様になり、そのため、明日子は手を振っている轡川によりも振らないぼくのために手を振っているように見えた。ぼくの己惚れがそう思わせたのだろうか。ぼくはその瞬間彼女を浮気な女だと思いこむことを止そうと思った。が彼女を浮気な女でないと思える様な自分をうなずかせるに足る根拠の無いことが悲しかった。その時ぼくはひどくセンチメンタルだった。
 だが轡川は勿論もっとセンチメンタリズムを発揮した。彼はその夜、泥酔して哀れであった。ぼくにカフェーに行こうと誘ったので、ぼくは身体にさわるからと断り、この辺のカフェーは淫をひさぐ家であるから、あなたも後で後悔しない為には今夜は行かぬ方がいいだろうと言うと、彼は、そうだそうだといい出し、あなたは身体に気をつけて丈夫になってくれ、自分はもう駄目だ、とおいおい泣き出した。彼が大きな図体をしてガニ股でドスンドスンと部屋の中を歩きながら、ポロポロと赤い大きな鼻の脇に泪を伝わせて泣いている姿を見ると、ぼくは、この男は憎めぬ男だ、とふと思った。そして彼がぼくに石油をのめと言ったのは、本当に石油が肺病に効くと思いこんでいる彼が本当に親切心から言ってくれたのだろうと思った。そう思うと、彼がぼくに見せた親しみのある好意に満ちた態度も単に彼のお人善しの性質がそうさせたのではないかという気持になった。この男は決っして策略などを弄する様な男でないとぼくは考えた。恐らく今はこの場に明日子のいないことが、そう考える様になった原因の一つだったろう。とにかく、彼をそう思えることは、もはや二人だけその宿に残されている今となっては殊に嬉しいものだった。だが、彼をそんな風に思えば、自然、彼が明日子に就て言ったことを一層信じなければならないことになった。即ち、ぼくはその時迄彼の言葉を策略的なものと思ったが故になるだけそれを信じまいとして、しかもぼくが見た彼女の態度から考えて結局彼の言を信じなければならないのか、と不本意にも考えていたのだったが、彼を策略的な人間でないと思えば、もはやその時彼女を彼の言った通りの女と思うことは、その時のぼくの思考の方向から見て必然的なものとなってしまったのだ。それがぼくにはたまらなく悲しく思われた。

 その翌朝、宿の女中がぼくの部屋へ果物籠を持って来た。それはT港に帰えった明日子から贈られたものであることが、籠の中にはいっている白い角封の中の手紙でわかった。

 その節はいろいろと御心配をお掛けしまして、御厚意のほど深く感謝して居ります。
 あのようなこと成された時、一時はたいへんお恨み申しましたが、今はもうそのような気持も致しませず、何かなつかしい気持さえいたします。お笑い下さいますな。
 もう再びお眼に掛かることもあるまいと思いますれば、淋しい気持がいたします。でも、お会いしない方がいいのではないかとも思っています。では、お身体を呉々もお大切に。余り御無理を成されぬ様に。
明日子
追伸
 轡川はもう大阪へ帰えりましたでしょうか。自暴自棄にならないように、もし未だ居りましたら、よくおきかせ下さいませ。

 その様な手紙だった。ぼくは眼の前がパッと明るくなった様な気がした。朝の光りに冴え返った空の色を見て、そこにぼくの心の色あいを見る想いがした。明日子の文面には、彼女がぼくを誘惑しようとした浮気な女でないことが、明瞭にあらわれているではないか。ぼくは、しかも彼女から愛されているのである。ぼくは、彼女が多少ともぼくに心を惹かれたということが、彼との絶交を決定的にする一つの動機を作ったのではないかと己惚れて考えた。
 ぼくも亦、彼女の様に、「あのこと」をなつかしもうと、ぼくはひそかに唇をとがらして見た。そして、自然にその唇から口笛が流れた。口笛が呼んだという恰好で、轡川がぼくの部屋にはいって来た。ぼくは手紙を素早く隠したが、果物籠の処置に困った。それで止むを得ず、和歌山の知り合いから送って来たといい、彼に果物をすすめた。
 彼は前夜の泥酔をひどく恥しがり、照れた表情で蜜柑の皮をむいた。ぼくはもはや明日子を彼の言う様な女でないと信じた以上、再び当然の成行として、彼を嘘言を弄した男であると思わねばならなかったのだが、彼のそんな顔を見ていると、どうしてもその様に思うことは出来なかった。彼が、その果物を明日子の贈物とも知らずに、うまそうにたべながら、あなたはいい人ですね、と言うのをきくと、ぼくもまた、負けずに、彼をいい人間だと思おうとした。そして、ふと、ぼくが彼を善良な人間だと思う以上、明日子もまた彼の中に何か良いところを見ているのではないかと思われ、彼女が嫌いだといいながらも今まで彼と関係を続けて来たのも、あるいはその辺のところから来るのではなかろうかと思った。すると、明日子が手紙の中で彼のことに触れていることを想い合わせて、別れるといったものの、あるいは之からも案外腐れ縁のまま二人の関係は続いて行くのではなかろうかと、ふと、ぼくを苦しめたあの夜のことを想い、瞬間さっと心が影ったけれど、しかしそれならば、それでいいではないか、ぼくにそれを干渉する何の権利もない筈だと、無理にその心の翳を払いのけようとした。と、ふと、轡川の大きな赤い鼻の上に蠅が一匹停っているのが眼についた。彼は鈍感なのか、三宝柑をたべるのに夢中になっているのか、それに気が付かない様だった。ぼくは、急に、アハハハハと笑い出した。咳が出て困った。コンコンと咳きながら、ぼくの頭は、はたして明日子に就ては、轡川の言ったことが真実か、明日子の言ったことが正しいのか、と又もや考え出していた。だが、それは、二十一歳の当時のぼくには解き難い謎だった。

(彼の話はここで終った。筆者わたくしは、彼の残した最後の謎に就て、次の様に考えた。それは――恐らく轡川と明日子の最初の交りは、明日子が暴力で辱しめられたのでも無ければ、轡川が明日子に誘惑されたのでも無いだろう。しかしまた、そういう交りは、女の方から見れば、多少とも男が暴力をふるったと見えぬことも無いだろうし、一方、男の方から見れば、女が多少とも挑撥した(たとえ女自身無意識的なものであるにしても)と見えぬこともないだろう。だからただ彼等は各※(二の字点、1-2-22)その様な主観を誇張して述べたに過ぎないのではなかろうか。明日子が辱しめられたといったのは、彼女にしてみれば、その様に思いこまねば、到底やり切れなかった為であろう。また、彼女が意識的に彼を誘惑したので無いとすれば、そう思いこむことは、そんなに自らをいつわることにならなかった筈と思われる。轡川が自ら誘惑されたと言ったのは、辱しめたのではないかとつっこまれた以上、反射的にいやそうではないと言わざるを得なかったからではないかと思われるし、又、明日子がそんなに美しい女であってみれば、彼の様に嫉妬深い男は、自然浮気されやしないかという心配を常に持っているわけで、そういう心配が浮気されたのではないかという疑念に変り、そして遂にその疑念が嵩じて被害妄想になり、常に彼女が誰かを誘惑している様に思いこんでしまったのではないかと思われる。彼はその自分の被害妄想をありのままに述べたのだろう。また、彼女が彼を嫌っているとすれば、彼女はこの話の主人公に心を惹かれたことを見ても分る様に、轡川を逃れるためにも、轡川以外の男に心を惹かれる様なことがあったに違いないと想像されるから、自然彼の被害妄想もうなずけないこともない。
 しかし、轡川を嫌っているという明日子が何故この話の主人公を苦しめた様な夜のことを行ったのであろうか。恐らく、彼女の未亡人としての生理がそうさせたのであろう。そして、その様なことは往々精神上の恋愛なくしても喜びをもってすら行われることもあり得るのではなかろうか。
 以上のことが、この話の主人公に分らなかったのは、恐らく彼が事件の渦中にあり、しかも明日子を愛していたというその時の彼のフェミニズムの為ではなかったろうか。
 ――そう筆者わたくしが彼に言うと、彼はすかさず、次の様に答えた。
「勿論間違いだとは言わぬ、しかし、その時のぼくにその様なことを見抜く力があったとすれば、恐らく、君のその様な解決の素材になったこのぼくの話は、最初からもっと違ったものであったろう」

底本:「織田作之助全集 1」講談社
   1970(昭和45)年2月24日第1刷
初出:「海風 第三号」
   1938(昭和13)年2月
入力:いとうたかし
校正:小林繁雄
2011年7月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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