長い/\石段が、堂の眞下へ瀑布を懸けたやうに白く、こんもりとした繁みの間から透いて見えた。
『東光院て、あれだすやろな。』
お光は、初めて乘つた汽動車といふものゝ惡い臭ひに顏を顰めて、縞絹のハンケチで鼻を掩ふてゐたが、この時漸く斯う言つて、其の小じんまりとした、ツンと高い鼻を見せた。
小池は窓の外ばかり眺めて、インヂンから飛び散る石油の油煙にも氣がつかぬらしく、唯々乘り合ひの人々に顏を見られまいとしてゐた。
『こないに汚れまんがな。』
口元の稍大きい黒子をビク/\動かして、お光はハンケチで小池の夏インバネスの袖を拂つてやつた。
『耐らないな、歸りには汽車にしやうね。二時間や三時間待つたつて、こんな變なものに乘るよりやいゝや。』
小池は初めて氣がついたらしく、肩から膝の邊へかけて、黒い塵埃の附いてゐるのを、眞白なハンケチでバタ/\やつて、それから對ひ合つてゐるお光の手提袋の上までを拂つた。
『そやよつて、もつと待ちまへうと言ひましたのやがな。あんたが餘まり急きなはるよつて、罰が當りましたのや。』
底を籠にして、上の方は鹽瀬の鼠地に白く蔦模樣の刺繍をした手提げの千代田袋を取り上げて、お光は見るともなく見入りながら、潤ひを含んだ眼をして、濁り言のやうに言つた。
『知つてる人に見られると厭やだからね、この方角へさへ逃げて來れば、大抵大丈夫だからね。……逃げるは早いが勝だ。乘り物の贅澤なんぞ言つてゐられなかつたんだよ。』
斯う言つて小池は、力一杯に窓の硝子戸を押し上げた。
汽動車は氣味のわるい響きを立てつゝ、早稻はもう黄ばんでゐる田圃の中を、十丁程と思はるゝ彼方に長く横はつた優し氣な山の姿に並行して走つてゐた。
『これから先きへ汽動車はまゐりません。先きへお出での方はこの次ぎへ來る汽車にお乘り下さい。』と、車掌が節を附けて唄ふやうに言つたので、小池もお光も同時にハツと頭を上げて車室を見渡すと、自分たち二人の外には、大きな風呂敷包みを背負つた老婆が、腰を曲げてまご/\してゐるだけで、多くの人々は早や改札口をぞろ/\と出て行くのが見えてゐた。
『何處へ行きますのや、……一體。……』と、お光はあたふたと車室を出る小池の後から、小走りに續きながら聲をかけた。
『僕は東京の人だもの、こんな遠方の片田舍の道は知らないからね。……君が案内をするんだよ。』
屋臺店を稍大きくした程の停車場を通り拔けると、小池は始めて落ちついた心持ちになつたらしく、燐寸を擦つてゆツたりと紙卷煙草を吹かした。青い煙がゆら/\として、澄み切つた初秋の空氣の中に消えた。
『私かて、知りまへんがな、……こんなとこ。……』
琥珀に刺繍をした白い蝙蝠傘を、パツと蓮の花を開くやうに翳して、動もすれば後れやうとする足をお光はせか/\と内輪に引き摺つて行つた。
駄菓子を並べた茶店風の家や、荒物屋に少しばかりの呉服物を附け加へた家の並んでゐる片側町を通つて、漸と車の通ふほどの野道の、十字形になつたところへ來ると、二人は足を止めて、何う行かうかと顏を見合はした。小學校歸りの兒童が五人八人ぐらゐづつ一塊になつて來て、二人の姿をヂロヂロ見やつては、不思議さうな顏をして駈け去つた。
眞ツ直ぐに行かうとしても、一筋道が長々と北へ續いてゐるだけで、當てもなく歩くといふ氣にはなれなかつた。右の方を見ると、山の上に何かありさうだけれど、たゞ歩いてゐても汗を催ほしさうな日に、坂道を登るのはと、お光が先づ首を振りさうであつた。
『彼處へ行つて見よう。』と、小池は大仰に決斷した風に言つて、左の方へさツさと歩き出した。
行手には、こんもりとした森が見えて、銀杏らしい大樹が一際傑れて高かつた。赤く塗つた鳥居も見えてゐた。二人はそれを目當てに歩いた。お光は十間餘りも後れて、沈み勝にしてゐた。
田圃の中の稻の穗の柔かに實つたのを一莖拔き取つて、まだ青い籾を噛むと、白い汁が甘く舌の尖端に附いた。小池はさうやつて、三つ四つ五つの籾を噛み潰してから、稻の穗をくる/\と振りはしつゝ、路傍に佇んで、後れたお光の近づくのを待つた。
『あゝ、しんど。……此頃はちよツとも歩きまへんよつて、ちいと歩くと、直きに疲勞れますのや。』
蝙蝠傘を擔ぐやうにして、お光は肩で息をしてゐた。薄鼠の絽縮緬の羽織は、脱いで手に持つてゐた。
『御大家のお孃樣……だか、奧樣だか、……阿母さん……だか知らないが、お駕籠にでも召さないとお疲れになるんだね。』と、小池は冷かに笑つた。
『矢つ張り稻の穗を噛むのが癖だすな。……東京に居やはると、稻もおますまいがなア。……春は麥の穗を拔いて、秋は稻の穗や。決つてる。』
冷かな小池の言葉には答へないで、お光は沈んだ調子ながらに、昔しの思ひ出を懷かしみつゝ語つた。
別れた時は、お光が十三の春で、小池は二十二であつた。
今年三十三の小池が、指を屈めて數へてみると、お光は二十四になつてゐる。
麥畑の徑を小池が散歩してゐると、お光が後から隨いて來て、小池が麥の穗を拔いて拵へた笛を強請り取り、小ひさな口に含んで吹いてみても、小池が鳴らすやうには鳴らぬので、後から/\と、小池の拵へる麥笛を奪ひ取つたことや、秋の頃二人で田圃道を歩いて、小池が稻の穗の重さうに垂れて實つたのを拔き取り、籾を噛んでは白い汁を吐き出すのを眞似して、お光も稻の穗を拔き、百姓に見付けられて怒鳴られたことや、いろ/\と昔の記憶を小池も思ひ出して來た。
そんなことは、お光が十歳で小池が十九の時から、お光が十三で小池が二十二になつた時まで、三年の間續いてゐた。
或る田舍町で藝妓屋をしてゐる家の小娘と、其の町へ來て新たに開業した醫者の息子とは、家が隣りであつたので、直ぐ親しくなつた。小學校の讀本の下讀みを小娘は醫者の息子に教はりに來た。
『あの小池ちうお醫者はんの息子が、都家のお光ちやんを可愛がるのは、他に目的があるんやろな。あんな尿臭い小めろ可愛がつてもあけへんがな。』
町のおカミさんたちは、二人の聞いてゐるところで、こんなことを言ひ/\した。
お光と小池との最初の縁は、斯ういふことから繋がれた。――
縁と言へば、それが縁であらうと、小池には頻りに十五年も前のことが考へられた。
小學校の兒童が五人、八人づつ一塊になつて歸つて來る。其の塊の中から可愛らしいお光を見出して家へ呼び込む。それが小池の毎日の仕事のやうになつてゐた。
先刻汽動車を下りてから間もなく、野道の十字點で見た小學兒童の群は何處へ行つたかと、小池は坐に背後を振り返らずにゐられなかつた。
あの兒童の群の中には、昔のお光に似たほどのものが一人も居なかつた。
斯う思つて小池は、ハツと夢から醒めたやうに、自分に引き添つて低首れつゝ弱い足を運んでゐるお光の姿を見た。
髮油の匂ひ、香水の匂ひ、強い酒のやうな年増の匂ひが、耐らなく鼻を衝いた。
其處に十五年の年月があつた。――
『まだなか/\暑いなア。氷が欲しくなつた。』
丹塗りの鳥居を潛つて、大銀杏の下に立つた時、小池は斯う言つて、お光の襟足を覗き込むやうにした。
『暑おまへうかいな、まだ舊の八月だすもん。……八月のいらむしと言ひますのやさかいな。』
太い/\銀杏の幹に靠れかゝつて、ホツと息を吐きつゝお光は言つた。さうして、
『愛宕さんにも大けな銀杏がおましたな、覺えてなはる。……蜂の[#「蜂の」は底本では「峰の」]巣を燒いてえらい騷動になりましたな。』と、また懷かし氣な眼をして、小池の顏に見入つた。
『覺えてるとも、怖かつたね、あの時は。……何うなるかと思つた。』
白粉に汚れた赤い襟の平常着の雛妓のやうな姿をしたお光を連れて、愛宕神社[#ルビの「あたごじんしや」はママ]へ行つた時、内部の空洞になつてゐる大銀杏に蜂が巣を作つてゐるのを見付けて、二人相談の上、藁に火を點けて蜂の巣を燒かうとすると、火は忽ち空洞の枯れ果てた部分に移つて、ゴウ/\と盛んに燃え出し、村人が大勢で、火消し道具を持つたり、纏を振り立てたりして駈け付けた時の恐怖しさが、ツイ近頃のことのやうに、小池の胸に湧いて來た。
『黒い煙の中を蜂が子を銜へて逃げて行つたね。』と、小池はこの名も知れぬ神の宮の大銀杏を、愛宕さんの大銀杏でゝもあるやうに、見上げつゝ言つた。
『愛宕さんの銀杏、これより大けおますな。……あないに燒かれても枯れまへなんだな。……今年も仰山實がなりました。……けどもな、あの穴へ手を入れると、あの時に燒けたのが消し炭になつてゐて、黒う手に附きまツせ。……あゝこの銀杏は雌やこと、實がなつてへん。』
お光も小池と同じやうに、名も知れぬ神の宮の大銀杏を見上げて言つた。鵯が二羽、銀杏の枝から杉の木に飛び移つて、汽笛のやうな啼き聲を立てた。
誰れから先きに動いたともなく、二人は銀杏の傍を離れて、盛り上げるやうに白砂を敷いた道を神殿の方に歩いた。
短い太皷型の石橋を渡ると、水屋があつて、新らしい手拭に『奉納』の二字を黒々と染ませて書いたのが、微風に搖いてゐた。
ところ/″\に幟や提燈を立てたらしい穴が、生々しく殘つてゐて、繩の切れ端のやうなものも、ちよい/\散らばつてゐるのは、祭があつてから間のないことを思はせた。
村の男や女が着飾つて、ぞろ/\この宮の境内に集まつて、佐倉宗五郎の覗きカラクリの前に立つたり、頭は犬で身體は蛇の觀せ物小屋に入らうか入るまいかと相談したり、食物や手遊品の店を見てはつたりした光景を、小池は頭の中で繪のやうに展げながら、空想は何時しか十五年前の現實に飛んで、愛宕さんの祭のことを追懷してゐた。
愛宕さんの祭には花踊があつた。ある年の祭に町の若い衆だけでは踊り子が足りなくて、他所者の小池までが徴發されて、薙刀振りの役を宛てられたことがあつた。
白衣に袴の股立を取つて、五色の襷を掛け、白鉢卷に身を固めて、薙刀を打ち振りつゝ、踊の露拂ひを勤めるのは、小池に取つて難かしい業でもなく、二三日の稽古で十分であつた。
都育ちの小池の姿が、四人一組の薙刀振りの中で、際立つて光つてゐた。手振り身振りの鮮やかさと、眼鼻立ちのキリヽとして調つたのとは、町中の人々を感心さして、一種の嫉みと惡しみとを起すものをすら生じた。
町の藝妓や娘たちからは、旅役者の市川鯉三郎が曾つて受けたほどの人氣が小池の一身に集まつた。
其の祭の日に、稚兒になつて出た町の小娘たちの中で、髮の結ひ振り、顏の作りから、着物の柄、身のはりの拵へまで、總てが都風で、支度に大金をかけた町長の娘にも光を失はしたお光の噂さは、覗きカラクリよりも、轆轤首の觀せ物よりも、高く町中に廣まつた。
薙刀を抱へた白衣姿の小池と、母親が丹精を凝した化粧の中に凉しい眼鼻を浮べて、紅い唇を蕾めたお光とが、連れ立つて歸つて行くのを、町の人は取り卷くやうにして眼を注いだ。
『東男に京女やなア。』なぞといふ囁きが、人々の群から漏れた。
まだ穢れを知らぬ清淨な少女を選り出して、稚兒に立てねばならなかつた。それをお光は十二やそこらで、早や月々の不淨を見るさうなと言ひ出したものがあつて、さう言へばさうらしいなア、なぞと合槌を打つものも現はれ、穢れた娘を神前に出した祟りは恐ろしい、若しや神樣の怒りに觸れるやうなことがあつたら、都家とは町内の交際を絶つといふことにまでなつたけれど、幸ひに秋から冬にかけて惡い病も流行らず、近在が皆豐作で町も潤ふたから、神樣の方はそれなりに濟んで、たゞお光の早熟といふことを町の人々は噂し合つた。
こんなことのあつた昔を思ひ出してから、小池は、自分に離れて獨り水屋で手を洗つてゐるお光に聲をかけて、
『愛宕さんの祭は何日だつたかね。』と問ふてみた。
『來月の六日だすがな。』と、お光も先刻から昔の祭の日の記憶を辿つて、さま/″\の追懷に耽つてゐたらしく思はれた。
『今年は花踊をするとか、せえへんとか言ふて、町内が揉めてゐますのや。……』
先刻から脱いでゐた絽縮緬の羽織をまた着て、紺地に茜色の大名縞のお召の單衣と、白の勝つた鹽瀬の丸帶と、友染の絽縮緬の長襦袢とに、配合の好い色彩を見せつゝ、其のスラリとした撫で肩の姿を、田子の浦へ羽衣を着て舞ひ下りた天人が四邊を明るくした如く、この名も知れぬ寂びしい神の森を輝かすやうに、孔雀の如き歩みを小池に近く運びながら、お光はまた斯う言つた。
『君はもうお稚兒に出られないだらうな。』と、小池は笑つた。
『十三の年から、もう一遍も出えしまへんがな。……あんたに別れてから一遍も出えしまへんのや。……十二の時、あんたと一所に祭に出ましたな、あれが出納めだしたんや。』
あの頃が懷かしくて耐らぬと言つた風に、お光は膚理の細い顏に筋肉を躍らせつゝ、小池に寄り添うた。
『穢れてる/\、ツてあの時皆んながさう言つたのは、矢ツ張り眞個だつたのかい。』
小池が突然棄鉢のやうな調子で斯う言ふと、お光は紅を刷いた如く、さつと顏を赧くした。
やがて二人は、並んで拜殿の前まで行つて、狐格子の間から内部を覗いた。
海老錠のおりた本殿の扉が向ふの方に見えて、薄暗い中から八寸ぐらゐの鏡が外面の光線を反射してゐた。扉の金具も黄色く光つて、其の前の八足には瓶子が二つ靜かに載つてゐた。
拜殿の欄間には、土佐風に畫いた三十六歌仙が行儀よく懸け聯ねられ、板敷の眞中には圓座が一つ、古びたまゝに損じては居なかつた。深閑として、生物といへば蟻一疋見出せないやうなところにも、何處となく祭の名殘を留めて、人の香が漂うてゐるやうであつた。
『愛宕さんの方がよろしいな。第一大けおますわ。』と、お光は横の方に簾のかゝつた局とでも呼びさうなところを見詰めてゐた。
『こんなもの、見てゐても仕樣がない。』と、小池は砂だらけの階段を下りて、廂の下に掲げてある繪馬の類を一つ/\見ながら、後の方へはらうとした。
『不信心な人。……此處まで來て拜みやはりやへんね。』
潤ひのある眼で小池の後姿を見詰めつゝ、お光は斯う言つて、帶の間から赤い裏のチラ/\と陽炎のやうに見える小ひさな紙入れを取り出し、白く光るのを一つ紙に包んで、賽錢箱に投げ込み、石入の指輪の輝く華奢な兩手を合はして暫く祈念した。
『何う言つて拜んだの、……神樣に何を頼んだんだい。……何か難かしいことを持ち込んだのかい。……何う言つて拜んだのか、モ一度大きな聲でやつて御覽。……』
微笑みつゝ小池は、側に寄つて來たお光に、遠くから見ればキツスでもしてゐるかと思はれるほど、顏を突き附けて言つた。
『さア、何う言ふて拜みましたやろ、當てゝ見なはれ。』
心持ち顏を赧くして、お光はニタ/\笑ひながら、小池のしたやうにして、繪馬の類を見てはつた。
諏訪法性の兜を被つた、信玄の猩々の如き頭へ斬り付けようとしてゐる謙信の眼は、皿のやうに眞ん圓く、振り上げた刀は馬よりも長くて、信玄の持つてゐる軍配は細く弱さうで、天下泰平と書いてある――のが、一番大きな繪馬で、其の他には、櫻の咲いた下で短册に字を書かうとしてゐる鎧武者の繪や、素裸の人間が井戸の水を浴びてゐる上へ、金の幣が雲に乘つて下りて來る繪や、また今樣の無恰好な軍帽を被つた兵隊が、軍旗を立てゝ煙の中を這ひ出してゐる繪や、本式に白馬を一頭だけ畫いたのや、さま/″\の繪馬の古いの新らしいのが、塵埃に汚れたり、雀の糞をかけられたりして並んでゐた。
それらの繪馬に混つて、女の長い黒髮の根元から切つたらしいのが、まだ油の艶も拔けずに、恭やしく白紙に卷かれて折敷に載せられ、折敷の端に『大願成就寅の歳の女』と書いて、髮と折敷との離れぬやうに赤い糸で確と結び付けてブラ下げてあるのを、お光は一心に見入つてゐた。
『寅の歳の女、……お前も寅の歳だつたぢやないか。』
小池も不圖其の女の黒髮を見付けて、こんなことを言つてみた。
『知りまへんがな。……そんなこと。』
怒つたやうに言つて、お光は厭やな/\顏をした。
『こんなことをして、これ何になるんだらう。』と、小池は細卷きの袋入りの蝙蝠傘の尖端で、其の女の黒髮を突ツついた。
『そんなこと、しなはんな。相變らずヤンチヤはんやなア。……さア行きまへう。』
最後の一瞥を女の黒髮に注いでお光は、さツさと社殿の後の方へ行つた。
もう二月もすれば紅く染まりさうな楓の樹や、春になれば見事な花を持ちさうな椿の木や、そんなものが、河原のやうに小石を敷いた神苑ともいふべき場所に、行儀よく植ゑてあつた。
『前は鳥居や門や扉で、幾重にもなつてますのに、後は板一枚だすな。……私何處の宮はんへ參つても、さう思ひまんな。』
本殿の眞後へはつた時、斜に破風の方を仰ぎながら、お光はこんなことを言つた。
『さうだ、神樣に頼みたいことがあつたら、前から拜むより、後からさう言つた方がよく聞えるぜ、お賽錢も此處からの方が利くよ。』
腰板のところ/″\にある樂書を讀んでゐた小池は、斯う言つて笑つた。
太い杉の樹を伐り仆して、美しく皮を剥いたのがあつたので、二人は其の上に並んで腰をかけた。
『一生の中に、こんなところへ來ることがあるとは思はなかつたね。』
『私かて、さうやわ。……こんなとこ、用も何もあれへんよつて、……』
もと來た野道を停車場の方へ歩きながら、小池とお光とはこんなことを言ひ合つてゐた。
『何處へ行きますのや。こんなとこばつかり歩いてたて、仕樣があれへん。』
『君の行くとこへ、何處へでも隨いて行かアね。……何處へでも連れてつてお呉れ。』
『あんたの行きなはるところへなら、何處でも隨いて行きまんがな。私かて、……』
果てしもないことを、互ひに言ひ續けつゝ、二人の足は自然に停車場の方へ向つた。停車場では先刻のが引き返へして來たのか、汽動車はまた毒々しく黒い煙を揚げて、今にも動き出しさうであつた。
手織縞の單衣に綿繻珍の帶を締めて、馬鹿に根の高い丸髷に赤い手絡をかけた人が、友染モスリンの蹴出しの間から、太く黒い足を見せつゝ、後から二人を追ひ拔いて、停車場に駈け込んだ。
『私等もまたあれに乘りますのかいな。』
停車場に駈け込んだ人の後姿を笑ひながら見やつて、お光は斯う言つた。
『いや、あれは厭やだ。日が暮れるまで待つても汽車に乘らう。』と、小池は横の方の茶店へ入つて行つた。
店の間一杯に縫ひかけの五布蒲團を擴げて、一心に綿を入れてゐた茶店の若い女房は、二人の入つて來たのを見ると、雪のやうに膝の邊りへ附いた綿屑を拂ひ棄てながら、愛相の好い顏をして出迎へた。
『何うぞ此方へお上りやはつとくれやす。』と、土間の床几に腰をかけてゐる二人を強ひて、奧まつた一室に案内した。
『汽車にお乘りやすのやごわへんか。……この次ぎはキツチリ四時に出ますよつて、まだ一時間ござります。……こんな見るもんもない在所へお越しやしとくれやして、……ほんまに仕樣のないとこで、……』
囀るやうに言つて女房は、茶や菓子を運んで來た。狸が腹皷を打つてゐる其の腹のところに灰を入れた煙草盆代りの火鉢は、前から其處にあつた。
『火がござりましたか知らん。』と、女房は一寸狸の腹を撫でて言つた。
『君も家に居るとあんなことをしてるんだらう。』
帶の狹い女房の後姿を見送つて、小池はニヤ/\笑ひつゝ言つた。
『もう店はしてえしまへんがな。妓どもしも二人居るだけで、阿母アはんと四人だす。……お茶屋はんから口がかゝると妓どもを送るだけで、家へはお客を上げえしまへん。』
お光も笑つて、氣味の惡いほど、まじ/\と小池の顏に見入つてゐた。
『暑いなア。』と小池はインバネスを脱いだ序に、竪絽濃鼠の薄羽織をも脱ぎ棄てると、お光は立つてインバネスを柱の折釘にかけ、羽織は袖疊みにして床の間に載せた。
『女ばかり四人ぢやア物騷だね。……君のお聟さんは何うしたんだね。……』
『そんなもん、あれしまへん。……』
『初めツから。……』
顏を眞赤にしてお光は、態とらしく俯伏いてゐたが、其處へ女房が梨を五つばかり盆に載せ、ナイフを添へて持つて來たので、顏を上げてそれを受け取ると、器用な手付きで梨の皮を剥いて、露の滴りさうな眞白の實を花の形に切り、ナイフの尖端に刺して小池の前に差し出した。
『君の方ぢや、梨をさういふ風にして客に出すことが流行るのかね。』と、小池は其の梨の一片を摘んで言つた。
『別に流行つてもゐえしまへんけど、藝妓はんがこんなことをして出しやはると、お客さんが口で受けたりしてはりまんがな。』
一番小ひさな一片を自分の口へ入れ、ハンケチで手を拭きつゝ、お光は言つた。
『ほんとに、君はまだお聟さんを貰はなかつたのかい。……一人娘だから、何うせ貰はなけりやならないだらう。』
小池は斯う言つて、娘と呼ぶには不似合なお光の風情を見てゐた。
『そんなこと、何うでもよろしおますがな。……それより、あんたはん奧さんおまツしやろ、お子さんも。……』
俄に屹とした調子になつたお光の聲は、今までと違つた人の口から出たものゝやうであつた。
『そんなものありやしない。僕の家は男ばかり四人暮しだ。』
『嘘ばツかり、……知つてまツせ。』
小池もお光も、互ひに眞顏になつて、口先きだけで笑ひ合つてゐた。
『何うして君は、今日僕を見付けたんだね。……よく分つたもんだ。』
昨日の朝東京を立つて、晩は京都へ着き、祇園の宿に一泊して、今日の正午過ぎには、大阪の停車場の薄暗い待合室で、手荷物を一時預けにしやうとしてゐるところを、突然背後から、束髮の結ひ振りなり、着物の着こなしなり、一寸見ると東京の人かと思はれるほどの、スラリとした女に、上方言葉で聲をかけられたことが、もう遠い昔のことでゝもあるやうに、小池には思ひ浮べられた。
『そら分りまんがな、直きに。……カザがしますよつて、佳えカザや。……何んぼ隱れなはつても、あきまへんで。』
斯う言ひながら、また梨を剥き初めたお光の右の中指の先きが、白紙で結はへてあるのを、小池は初めて氣がついた風で見てゐた。
『あの時は、ほんとに喫驚したよ。東京の何家かの女將にしては野暮臭くもあるし、第一言葉が違ふし、それにフイと下駄を見ると、ヒドい奴を穿いてるんだもの。東京の人はあんな下駄は穿かないね。』
『惡口屋はんやこと、相變らず。……そらあきまへんとも、私なぞ。東京のお方はんは皆別嬪で、贅澤だすよつてな。』
『お前の家は昔から阿母さんが東京好きで、長火鉢まで東京風の縁の狹い奴を態々取り寄せて、褞袍か何か着込んで其の前へ新橋邊の女將さんみたいにして坐つてゐたが、娘も矢張東京風に作るんだね……近くに大阪があるのに、それを飛び越して、遠い東京の眞似をするのは隨分骨が折れるだらう。』
つく/″\と小池は、田舍の小ひさな町に住みながら東京風の生活に憧れて、無駄な物入りに苦んでゐるらしい母子の樣子を考へた。東京の人と言へば、直ぐ尊いものに見える田舍町の人の眼をも想ふた。
『だからね、あの下駄を改良して、其の頭髮を少し直せば、一寸誤魔化せるよ、……君は。……見る人が見れば直ぐ分るだらうが、僕なんぞにはね。』
『人のことを、そないに見るのは厭や。』と、お光は自身の身形を見はしてゐる小池の視線を眩しさうにして、身體を竦めた。
『あんたやちうことが、何で分つたと思てなはる。先刻大阪で。……あの荷物の名札を見ましたんやがな。……入つて來なはつた時から、さうやないかと思ひましたんやけど、大分變りなはつたよつてな。……若しやと思て、名札を見ましたのや。……名札が裏返へつてたのを、側へ寄つて知らん間にひつくり返へしてやつた。……』
皮を剥かれた梨は、前のやうに花の形に切られたまゝ置かれてあつた。お光の眼には懷かしさうな潤ひがまただん/\加はつて來た。
『油斷のならん女だね。……ほんとに君はまだお聟さんを貰はないのかね。』
『またや。』と、お光は笑ひ出した。
『切符を買うて參じまへうか。』
茶店の女房は、にこ/\として出て來た。
『こんなとこへ、もう一生來ることあれへん。折角來たんやよつて、まア東光院へでも寄つて行きまへう。』と、お光は、銀貨を取り出して、東光院へ行く停車場までの切符を女房に買はせた。稍暫らくしてから、
『まアそないに仰しやらんと、こんなとこへでも、これを御縁にまたお越しなはつとくれやす。』と、女房は口元に靨を拵らへて、青い切符と釣錢の銅貨とを持つて來た。
『四時だツたね、汽車は。』と、小池の懷中時計を見い/\歩く後から、お光が小股走りに停車場の方へ隨いて行くのを、女房は西日を受けつゝ店頭に立つて、眩しさうにぼんやりと見送つてゐた。
汽車の内は唯二人だけであつた。萌黄のやうな色合に唐草模樣を織り出したシートの状が、東京で乘る汽車のと同じであつたのは、小池に東京の家を思はせる種になつた。
若い妻や、幼い子供を連れて、箱根や日光へ行つた時の光景が描き出された。土産を樂みにしながら留守をしてゐるものゝことが、頻りに考へられた。二年も居る下女の顏までが眼の前に浮び出た。
今日行きますと、京都から葉書を出して置いた大阪の叔母のことも思はずにはゐられなかつた。煙草の好きな叔母が煙管を離さずに、雇人を指揮して忙がしい店を切盛してゐる状も見えるやうで、其の忙がしい中で、甥の好きな蒲鉾なぞを取り寄せてゐることも想像されないではなかつた。
斯う考へてゐると、横に寄り添つて腰をかけてゐるお光の身體が、蛇のやうにも思はれて來た。蛇の温か味が、お光の右の膝から自分の左の膝へ傳はつて來るといふ氣がした。
執念深く附き纏はる蛇から脱れて、大阪に待つてゐる叔母の前に坐りたいと思はれて來た。早く東京の家へ遁れ込んで、蛇から受けた毒氣を洗ひ落したいとまで思はれて來た。
『あゝ、此處が東光院へ行く道やないのかなア。』
窓の外を振り向いて、お光は獨言を言つた。驛名を書いた立札の雨風に晒されて黒く汚れたのが、雜草の生えた野天のプラツトフオームに立つてゐる眞似事のやうな停車場を、汽車は一聲の汽笛とゝもに過ぎ去つた。來る時に見た東光院の甍や白壁は、山の半腹に微笑むが如く、汽車の動くとゝもに動いてゐるやうであつた。
『さうだ。此處で下りるんだよ。……けども來る時に此處で停つたかね。』と、小池は考へ込む風をした。
次ぎの停車場までは稍遠かつた。其處に着くのを待ち兼ねて、小池はお光とゝもに、小砂利を敷き詰めた長いプラツトフオームへ下りると、ざく/\と小砂利を踏みつゝ車掌に近附いて、
『切符を賣つといて停車しないのは不都合ぢやないか。通過驛なら通過驛だと乘る時にさう言つて呉れないぢや困る。』と、二枚の切符を車掌の鼻先きへ突き出した。車掌はチラと切符の表を見たゞけで小腰を屈めつゝ、
『通過驛といふこともございませんが、あそこは停留場でございまして、知らせがないと停りませんので、……』と、氣の毒さうに言つた。
『さうならさうと、乘る時に言つて呉れゝばいゝぢやないか。』と小池も言葉を柔かにした。
『誠に濟まんことを致しました。何んなら次ぎの下りでお引ツ返へし下さりましたら。』と、車掌は無恰好に揉み手をした。
下りを待つとなると、また一時間もかゝつた上に、それが汽動車でゝもあつたら厭やなことだと、小池は切符を車掌に渡し、プラツトフオームから、線路を越えて、直ぐ其處に見える街道の方へ歩いた。
『何處へ行きますのやなア。』と、お光は黒い油の染み込んだ枕木の上を氣味わるさうに踏みつゝ、後から聲をかけた。
『さア何處へ行くんだらうな。』と、小池はもう砂埃りの立つ街道へ出てゐた。
二人は暫らく無言のまゝ、當てもない街道を歩いた。
其處は一寸した町になつてゐて、荒物屋や呉服屋のやうなものも見えた。一膳飯屋と下駄屋とが並んでゐて、其の前には空の荷車や汚い人力車が曳き棄てゝあつた。赤い色で障子に大きく蝋燭の形を畫いた家が、其の先の方にあつた。
行き違ふのは多く車であつた。首に珠數を懸けた百姓らしい中年の男女が、合乘車の上に莞爾しつゝ、菊石の車夫に、重さうにして曳かれて來るのにも逢つた。夥しい庭石や石燈籠の類を積んだ大きな荷車を、逞ましい雄牛に曳かして來るのにも逢つた。牛の口からは、だら/\と涎が流れてゐた。
三丁ほど行くと、町は盡きた。水の汚い小川に架つた土橋の上に立つて、小池が來た方を振り返へると、お光の姿が見えなくなつてゐたので、後戻りして探さうとすると、お光は町はづれの小間物屋に荒物屋を兼ねたやうな店から、何か買物をした風であたふたと出て來て、潤ひのある眼の縁に皺を寄せつゝ、ニツと笑つた。
『何を買つて來たの。』と、小池はお光の手に氣をつけて、何を持つて來たかを見やうとした。
『何買うたかて、よろしいがな。』
お光の手には蝙蝠傘と手提げの千代田袋とがあるばかりで、買つたものは千代田袋の中にでも入つてゐるらしかつた。
『何んだらう、……何を買つて來たんだらう。隱すから餘計見たいやうな氣がするな。……ほんとに何を買つて來たの。』
千代田袋の中を透視でもしやうとする風にして、小池は言つた。
『別に隱してやしまへんけど、男が、そんなこと訊くもんやおまへん。』
たゞ笑つてゐるだけで、お光は千代田袋を輕く振つてゐた。
『さア行かう。』と、小池はお光の買つた物を知らうとするのを諦めて、さつさと歩き出した。灰のやうな土埃りが煙の如く足元から立つた。
『行かうて、何處へ行きますのや。』
今にも跛足を曳きさうな足取りをしながら、お光は言つた。
『何處へ行つていゝか、僕にだつて分りやしないぢやないか。』と言ひ棄てゝ、小池は小川に沿ふた道をズン/\歩いた。
『一寸待つとくなはれな……斯うしますよつて。』
哀れ氣な聲を出して、動もすれば後れて了ひさうなお光は、高く着物を端折り、絽縮緬の長襦袢の派手な友染模樣を鮮かに現はして、小池に負けぬやうに、土埃を蹴立てつゝ歩き出した。
沈み勝の、物悲しさうな、人懷かしさうな、痛々し氣な状をして、男のすること、言ふことには、何一つ背くまいとするらしいのが、小池にはいぢらしく、いとしく見えて來て、汽車の内で考へたやうな蛇に纏はられてゐるといふ氣は消え失せ、金絲雀でも掌の上に載せて來たといふ心になつた。
それで足の速度を緩めて、お光の歩き易いやうにしてやりながら、手でも引いてやりたいといふ氣がして來た。
おかる勘平の道行といつたやうな、芝居の所作事と、それに伴ふ輕く細く美しい音樂とが、頻りに思ひ出されて來た。
能く實つた四邊一面の稻田が菜の花の畑であつたならば、さうして、この路傍の柳に混つて櫻の花が眞盛りであつたならばと、小池は芝居の書き割りの鮮かな景色を考へ出してゐた。
鷺坂伴内のやうな追手が、だん/\近づいて來はせぬかといふことなぞも思はれて來た。
『おい人車に乘れば好かつたね。』と小池は、路傍の柔かい草の上を低い駒下駄に踏んで歩きつゝ土埃の立つことを防いでゐるお光の背後から聲をかけた。
『車、あれしまへなんだがな。たツた一つおましたけど、あんなん汚なうて乘れやへん。』
擔ぐやうにした蝙蝠傘に西日が當つて、お光の顏は赤く火照つて見えた。
『停車場には屹と人車があつたんだよ。表口から出なかつたもんだから、分らなかつたけどね。』
『人車があつても、乘つて行くとこが分れへんのに、仕樣がおまへんがな。』
『車夫に訊けば何處か行くとこがあつたらう。』
こんなことを言ひ/\、二人は東の方へ山の裾に向つて歩いた。野道に入つてからは、車に行き逢ふことはなくて、村役場の吏員らしい男や貧乏徳利を提げて酒を買ひに行くらしい女や、草刈童や、そんなものに時々逢つた。逢ふほどの男女は、皆胡散臭い眼をして二人を見た。
東の山續きの左の方の、山懷のやうになつたところに、先刻汽車から見えてゐた東光院らしいものが現はれて來た。
『あれが東光院だらう。折角行かうと思つたんだから、彼處へ行つて見やう。』
前途の希望に光が見えたといふ風で、小池は力附いて言つた。
『かうはつて行きますのやろ、……餘ツぽど遠さうだすな。』と、お光はぐんにやりした。
自然にまた小池の足が速くなつて、お光は半丁ほども後れた。小池は嫁菜の花が雜草の中に咲いてゐる路傍に立つて、素直に弱い足を運んで來るお光の追ひ付くのを待つてゐた。細卷きの蝙蝠傘の尖端で、白く孱弱い嫁菜の花をちよい/\突ついてゐた。
お光はと振り返へると、横の徑から鍬を擔いで來た百姓に小腰を屈めつゝ、物を訊いてゐたが、やがて嬉しさうな顏をして小走りに小池に追ひ付き、
『十八丁だすて、東光院まで。……この道を眞ツ直ぐに行きますと、駐在所があつて、其處から北へ曲るんやさうだす。』と元氣よく言つた。
小川に沿ふた眞ツ直ぐな道は、なか/\長かつた。川はだん/\狹く汚なくなつて、藻も生えぬ泥溝のやうになつた頃、生活の裕かならしい農村の入口に差しかゝつて、其の突き當りに駐在所もありさうであつた。
何か知ら惡事でも働いてゐるやうな氣がして、小池は赤い軒燈の硝子の西日に眩しく輝いてゐる巡査駐在所の前を通るのに氣が咎めた。
黒い苔の生えた石地藏に並んで、『左とうくわうゐん』と刻つてある字の纔に讀まるゝ立石の前を、北へ曲つて行くと、二戸前三戸前の白い土藏や太い材木を使つた納屋を有つた豪農らしい構への家が二三軒もあつた。道に沿ふて高い石垣を築き、其の上へ城のやうに白壁の塀をらした家もあつた。邸風の忍返しが棘々と長屋門の横に突き出てゐた。
『この村は金持の村だね。』
斯う言つて小池は、自分の住む東京の郊外の村の、痩せて荒れて艷氣のないのとは違つて、この村のふツくりと暖かさうで、野にも家にも活々とした光の充ちてゐるのを思つた。さうして自分の家のことが、また少しづつ考へ出されて來た。
『良いやうでも百姓はあきまへん。家でも田地を少し有つてますが、税が高うて引合はんよつて、賣つて了はうか言ふてますのやがな。』と、お光の物の言ひ振りが今までとは變つて、如何にも世帶染みた、商賣の懸合でもするやうな風であつたので、小池はこの時初めて女將としてのお光を見たと思つた。
この村を通り過ぎると、次の村まではまた暫くの間人家が無かつた。次の村の入口には、壞れた硝子戸を白紙で繕つた床屋があつた。其の村は前の村よりも貧しさうであつた。
東光院の長い石段の登り口は、其の村の中程にあつた。日は漸く西の山に沈んで、雲が眞赤に染まつてゐた。
『あゝア、漸う來ましたな。……まア綺麗やこと。』と、お光は石段を背にして立ちつくしつゝ、西の空を眺めた。
音に聞いてゐた東光院の境内は、遠路を歩いて疲れた上に、また長い石段を登つてまで見に行くほどの場所でもなかつた。本堂の外に三つばかり小ひさな堂やお宮のやうなものがあるのを、二人は大儀さうにしながら一々見てはつた。お光は本堂で一寸頭を下げて拜んだゝけで、他の堂は小池のするやうにして素通りした。
庫裡の方では、何か事があるらしく、納所坊主や寺男なぞが忙しさうにして働いてゐるのを、横目に見つゝ、二人は石段の下り口に立つた。
眞赤であつた西の空は、だん/\と桃色に薄れて、それがまた鶸色に變つて行くまで、二人は眺め入つてゐた。遙か向ふに薄墨色をしてゐる山の端から、夕靄が立ち初めて、近くの森や野までが、追々薄絹に包まれて行くやうになつた。轟と響く遠音とゝもに、汽車が北から南へ走るのが、薄絹を透いて手遊品の如く見えた。其の煙突からは煙とゝもに赤く火を噴き出した。暗は早やぢり/\と石段を登つて來さうであつた。
『家では何處へいたのや知らんと思てよるやろ。』
二人並んで石段を半分ほど下りかけた時、お光は心細氣な顏をして斯う言つた。
『家が戀しくなつたんだな。……これから直ぐ歸へれば、夜半までには着くよ。……阿母さんの顏も見られるし。お聟さんの顏もね。……』と、小池はまた立ち止つて、海のやうに擴がつた夕暗の中をぼんやり見詰めた。
『またあんなこと言やはる。……お聟さんなんぞ、あれしまへんちうてるのに。……あんたこそ、奧さんが戀しおますのやろ。先刻にから里心ばツかり起して、考へてやはるのやもんな。……』
斯う言ひ/\、お光は獨りで石段を下りて行つた。
『ほんとにお聟さんはないの。……ほんとのことを言つて御覽。』と、小池も後から隨いて石段を下りた。
『まだあんなこと言ふてはる。……ほんまにあれしまへんがな。』と、お光は聲に力を籠めて言つたが、
『そら、あつたこともあるか知りまへんが、今はあれしまへん。嘘と思ふんなら、家へ來て見なはれな、阿母はんと、妓ども二人と四人家内だすがな。』と、これだけは囁くやうに低く言つた。
『宛で女護の島だね。僕も是非一度行きたいな。』と、小池はもうお光の言葉を疑ふことは出來なかつた。
『一遍來とくれやす。屹とだツせ。……明日……明後日……そら阿母はんが喜びはりまツせ。時々なア、あんたの噂さをして、何うしてはるやろな、お父つアんのお墓もあるのやよつて、一遍來なはるとえゝないふて、失禮やがわしは自分の子のやうに思はれるいふてはりますのや。』
少しばかり家のことを思ひ出しかけてゐたお光は、もう何もかも忘れた風で、ひたと小池に寄り添ひつゝ石段を下りた。
石段を下り切つた直ぐ前に、眞ツ黒な古ぼけた家が、暗の中から影の如く見えてゐた。内部のラムプの光で黄色く浮き出した腰高の障子には、『御支度所大和屋』といふ文字が茫として讀まれた。
小池が其の障子を開けて入ると、お光も默つて後から入つた。割合ひに廣い土間には、駒下駄が二三足揃へてあつて、物の臭ひがプンと鼻を衝いた。奧の方からは三味線の音が響いて來た。
『えらう遲い御參詣だすな。さアお上りやす。』と、隅の方の暗いところから、五十恰好の肥つた女將らしい女が、ヨチ/\しながら出て來て、嗄れた聲で言つた。
『お出でやす。えらい遲うおますなア。』と、奧からも女が出て來て、二人を導いた。思ひの外に懷の深い家で、長い廊下を過ぎて通されたのは、三味線の音のする直ぐ隣りの八疊であつた。
『かしわに致しまへうか。……御酒は。』と、煙草盆を運んで來た女が問ふたので、鷄肉とサイダーとを命じて、小池は疲れ切つた風でインバネスのまゝゴロリと横になつた。お光は立つて、小池の背後から皺くちやになつたインバネスを脱がし、自分の單へ羽織と一所に黒塗りの衣桁へ掛けた。
隣り座敷では三味線の音がいよ/\劇しくなつて、濁聲で唄ふ男の聲も聞えた。唄ひ終ると、男も女も哄と一時に笑ひ囃すのが、何かの崩れ落ちるやうな勢ひであつた。
『こんなとこで散財してはる。』とお光は低く笑つた。
間もなく普通の話し聲になつたと思ふと、三味線の音も止んで、隣り座敷の客はドヤ/\と座を立つたらしかつた。廊下を歩く足音がバタ/\と聞え、やがて、杯盤を取り片付け、箒で掃いてゐる氣色がした。
『此方へお出でなはツとくれやす。』と女は、難かしい字の書いてある唐紙を開けて、二人を次ぎの十疊へ誘ふた。この家の一番奧の上等座敷らしく、眞中に紫檀の食卓を据ゑ、其の上へ茶道具と菓子とを載せてある物靜かさは、今まで村の若い衆が底拔け騷ぎをしてゐた室とも思はれなかつた。
座敷の三方は硝子障子で、廊下がグルリとはり縁のやうになつてゐた。障子の外へ出て見ると、中二階風に高く作られて、直ぐ下が稻田であると分つた。星明りにも見晴らしの佳いことが知られた。これで川があつたらばと小池は思つた。
三味線を彈いてゐた女であらう、二十歳ぐらゐの首筋に白粉の殘つたのが、皿に入れた鷄肉や葱や鋤燒鍋なぞを、長方形の脇取盆に載せて持つて來た。薄赤い肉を美しく並べた皿の眞中には、まだ殼の出來ぬ眞ん圓く赤い卵が寶玉のやうに光つてゐた。
『えらい遲い御參詣だしたな。』と、女は鍋を焜爐にかけて、手際よく始めた。
『姐さん此家は景色が佳いね。』と、小池はお光の注いだサイダーを冷たさうにして飮んだ。
『へえ、お蔭さんで、月見の晩やなぞは、大阪から態々來て呉れはるお客さんもござります。』
女はサイダーの瓶を取り上げて、『御免やす』と、お光に注いだが、鍋のグツ/\と上つたのを見ると、
『奧さん、何うぞお願ひ致します。』と、後をお光に任して座敷を退り出た。
『奧さんや言やはる。』
お光は女の足音の廊下に遠くなつた頃、低い聲で斯う言つて、首を縮めた。
足音がまた廊下に響いて、女が飯櫃を持つて來た頃は、小池もお光も、貪り喰つた肉と野菜とに空腹を滿して、ぐんにやりとしてゐた。
『もう歩くのは厭やだね。……此家で泊つて行かうか。』
小池は欠伸交りに早口で言つて、お光の顏を見た。
『これから大阪までいても、何處ぞへ泊らんなりまへんよつてな。……大阪から家へは寂しいよつて、私もうよう去にまへんがな。』
お光も態とらしい欠伸をして、同じやうに早口で言つた。
能く鳴らぬ手を小池が五つばかり續けて、ペチヤ/\とやると、遠くで返辭が聞えて、白粉の殘つた女が出て來た。
『この家に泊れるかね。疲れちまつて、暗いところを歩くのも厭だから、今夜泊つて、明日の一番で歸へらうと思ふんだが、何うだらうね。』と、小池は言ひにくさうにして言つた。
『さうだツか、お泊りやすか。……其の方が緩くりしてよろしおますな。……なア奧さん。』
女はお光を見て、微笑を漏らしつゝ、立つて行つたが、やがて荒い格子縞の浴衣を二組持つて來て、
『裾湯になつてますが、お泊りやすのなら、お風呂お召しやへえな。』と跪づいた。
赤い裏の紙入れを取り出して、お光は、女と家とへそれ/″\心付けをやりなぞした。
二人とも浴衣に着更へ、前後して煙り臭い風呂へ入つた。小池は浴衣の上から帶の代りに、お光の伊達卷きをグル/\卷いてゐた。
『明日、君の家へ行かうか。』
手枕をして横に足を伸ばしつゝ、紙卷煙草を吹かしてゐた小池は、自分の頭の直ぐ前で、お光が臺ラムプの光に懷中鏡を透かして、湯あがりの薄化粧を始めたのを見やりながら言つた。
『何んぼ何んでも、不意に二人でいんだら、家で喫驚しますがな。』と、お光は自家へ小池を伴なつて歸るのを澁る樣子であつた。
『今晩、東光院さんで淨瑠璃がござりまんがな、何んなら聽きにお出でやしたら。……其の間にお床延べときます。……素人はんだすけど、上手やちう評判だツせ。……先刻に此室でお酒あがつてはつたお方も皆行かはりましたんだす。』
また女が出て來て、斯う言つて勸めたけれど、二人とも此の室を動きたくはなかつた。女が去つてから、小池は莞爾々々として、
『十五年も前の古い馴染だから、ツイ引ツ張られて、君と一所にこんなとこへ來たんだね。……初めて會つたんだと、僕は君なんぞ見向きもしないんだけど。』と、不躾に言ひ放つた。
『私かてさうや。……幼馴染やなかつたら、あんたみたいな男、始めて見たて、眼に止まれへん。』
可愛らしく薄化粧を終つたお光は、ツンとして、斯う言つた。
東光院で撞いたのであらう。初夜の鐘の音が、ゴーンと響いて來た。
底本:「明治文學全集 72 水野葉舟 中村星湖 三島霜川 上司小劍集」筑摩書房
1969(昭和44)年5月25日第1刷発行
初出:「文章世界」
1914(大正3)年1月
入力:いとうたかし
校正:小林繁雄
2012年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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