今日けふ千日前せんにちまへくびなゝつかゝつたさうな。…
 昨日きのふとをかゝつた。‥‥
 明日あしたいくつかゝるやろ。‥‥
 こんなうはさが、市中しちういツぱいにひろがつて、町々まち/\えたやうにしづかだ。
 西町奉行にしまちぶぎやう荒尾但馬守あらをたじまのかみは、たか土塀どべいかこまれた奉行役宅ぶぎやうやくたくの一しつで、腕組うでぐみをしながら、にツとわらつた。
乃公おれうでい。』
 れはうでほそかつたが、このなかには南蠻鐵なんばんてつ筋金すぢがねはひつてゐるとおもふほどの自信じしんがある。ほそきにいてゐるてのひらが、ぽん/\とつた。
『おしでございますか。』
 がすりのあはせに、あかおび竪矢たてや背中せなかうた侍女じぢよが、つぎつかへて、キッパリとみゝこゝろよ江戸言葉えどことばつた。
玄竹げんちくはまだないか。』
 但馬守たじまのかみもキッパリとさわやかな調子てうしうた。
『まだおえになりません。』
 侍女じぢよつかえたまゝ、いろ淺黒あさぐろ瓜實顏うりざねがほもたげてこたへた。ほゝにもえりにも白粉氣おしろいけはなかつた。
『おそいなう。玄竹げんちくえたら、ぐこれへれてまゐれ。』
 滅多めつたわらつたこともない但馬守たじまのかみ今日けふこと機嫌きげんのわるい主人しゆじんが、にツこりとかほくづしたのを、侍女じぢよこつな不思議ふしぎさうに見上みあげて、『かしこまりました。』と、うや/\しく一れいしてらうとした。竪矢たてやあかいろが、ひろ疊廊下たゝみらうかから、黒棧腰高くろさんこしだか障子しやうじかげえようとしたとき
『あゝ、これ、て、て。』と、但馬守たじまのかみこゑをかけた。
御用ごようでございますか。』と、こつないてひざまづいた。但馬守たじまのかみはヂッとこつなかほ見詰みつめてゐたが、
其方そち江戸えどかへりたいか。』
 やさしい言葉ことばが、やがて一しやくもあらうかとおもはるゝほどにながおほきなたぶさせたあたまのてツぺんからた。
『はい。』
 こつな返辭へんじはきはめて簡單かんたんであつた。
かへりたいか。』
『はい。』
かへりたいだらう。なまぬるい、あをんぶくれのやうな人間にんげんどもが、年中ねんぢう指先ゆびさきでも、なかでも算盤そろばんはじいて、下卑げびたことばかりかんがへてゐるこの土地とちに、まことの人間にんげんらしい人間にんげんはとてもられないね。狡猾かうくわつ恥知はぢしらずで、齒切はぎれがわるくて何一なにひとのない人間にんげんばかりのんで土地とちだ。へば、あたまから青痰あをたんきかけられても、かねさへにぎらせたら、ほく/\よろこんでるといふ徹底てつていした守錢奴しゆせんどぶりだ。此方こつちから算盤そろばんはじいて、この土地とち人間にんげん根性こんじやうかぞへてやると泥棒どろぼう乞食こじきくはへて、それをふたつにつたやうなものだなう。』
 但馬守たじまのかみは、れいひたひすぢをピク/\とうごかしつゝつた。こつなはなんともこたへなかつたが、いやいやでたまらないこの土地とちなまぬるい、齒切はぎれのわるい人間にんげんをこツぴどくやつけてくれた殿樣とのさま小氣味こきみのよい言葉ことばが、氣持きもちよくみゝあなながんで、すうツとむねくのをおぼえた。
『あゝもういゝ、け/\。‥‥江戸えどはもう山王祭さんわうまつりだなう、またにぎやかなことだらう。』
 但馬守たじまのかみなつかしさうにつて、築山つきやま彼方かなたに、すこしばかりあらはれてゐるひがしそらながめた。こつな身體からだがぞく/\するほどあづまそらしたはしくおもつた。

 しばらくして、こつなふたゝ廣縁ひろえんあらはれたときは、竪矢たてや背後うしろに、醫師いし中田玄竹なかだげんちくともなうてゐた。
玄竹げんちくえたか。』
 さも/\ちかねたといふふうにして、但馬守たじまのかみ座蒲團ざぶとんうへからひざした。
えたから、此處ここりまする。』
 玄竹げんちく莞爾につこりともしないでつた。
『またはじめたな、玄竹げんちく洒落しやれふるいぞ。』と、但馬守たじまのかみ微笑ほゝゑんだ。
ふるいもあたらしいも、愚老ぐらう洒落しやれなんぞをまをすことはきらひでございます。江戸えどのよくやります、洒落しやれとかいふ言葉ことばあそびは、いやでございます。そうじて江戸えど人間にんげん調子てうしかるうて、言葉ことばしたにござります。下品げひん言葉ことばうへへ、無暗むやみに「お」のけまして、上品じやうひんせようとたくらんでります。味噌汁みそしるのことをおみおつけ、風呂ふろのことをおぶう、かうのもののことをおしんこ。‥‥』
『もういゝ、玄竹げんちく其方そち江戸攻撃えどこうげききた。なうこつな。』と、但馬守たじまのかみ玄竹げんちくのぶツきらぼうひたいことをふのが、きでたまらないのであつた。江戸えどからあたらしく町奉行まちぶぎやうとして來任らいにんしてから丁度ちやうど五ヶげつるもの、くもの、しやくさはることだらけのなかに、町醫まちい中田玄竹なかだげんちく水道すゐだうみづ産湯うぶゆ使つかはない人間にんげんとして、めづらしい上出來じやうできだとおもつて感心かんしんしてゐる。
玄竹げんちくさまは、わたくしがおのことをおしつて、なまるのをおわらひになりますが、御自分ごじぶんは、ちがへて、失禮しつれいをひつれい、質屋しちやをひちおつしやいます。ほゝゝゝゝゝ。』と、こつな殿樣とのさままへをもわすれて、心地こゝちよげにわらつた。
こつなどのは、質屋しちやのことを御存ごぞんじかな。』と、玄竹げんちく機智きちは、てき武器ぶきてきすやうに、こつな言葉ことばとらへて、こつなかほいろあかくさせた。
料理番れうりばんまをしつけて、玄竹げんちく馳走ちそうをしてらせい。もともに一こんまう。』と、但馬守たじまのかみは、こつならせた。
殿樣とのさま度々たび/\のおひとでございまして、おそりました。三日みつかあひだ城内じやうないりでございまして、やうや歸宅きたくいたしますと町方まちかた病家びやうかから、見舞みまひ催促さいそくるやうで、其處そこをどうにかけてまゐりました。』
『それは大儀たいぎだツた。どうだな能登守殿のとのかみどの御病氣ごびやうきは。』と、但馬守たじまのかみかたちたゞしてうた。
御城代樣ごじやうだいさま御容態ごようだいは、づおかはりがないといふところでございませうな。癆症らうしやうといふものはなほりにくいもので。』と、玄竹げんちくまゆひそめた。
前御城代ぜんごじやうだい山城守殿やましろのかみどの以來いらい大鹽おほしほたゝりで、當城たうじやうにはろくなことがないな。』
猫間川ねこまがはきし柳櫻やなぎさくらゑたくらゐでは、大鹽おほしほ亡魂ばうこんうかばれますまい。しかし殿樣とのさま御勤務役ごきんむやくになりましてから、市中しちう風儀ふうぎは、ちがへるほどあらたまりました。玄竹げんちくべんちやらが大嫌だいきらひでござりますで、正直しやうぢきなところ、殿樣とのさまほどのお奉行樣ぶぎやうさまむかしからございません。』とつて、玄竹げんちくてのあたまひとつ、つるりとでた。
められてもうれしくはないぞ。玄竹げんちく、それよりなに面白おもしろはなしでもせんか。』と、但馬守たじまのかみかほには、どうもらぬいろがあつた。
殿樣とのさまのおすやうなはなしたねすくなうござりましてな。またひと多田院ただのゐん參詣さんけいはなしでもいたしませうか。』
『うん、あのはなしか。あれは幾度いくどいても面白おもしろいな。』と、ひかけた但馬守たじまのかみは、不圖ふと玄竹げんちくたてあたまに、剃刀創かみそりきずが二ヶしよばかりあるのを發見はつけんして、『玄竹げんちく、だいぶあたまをやられたな。どうした。』と、くびばして、のぞくやうにした。
『いやア。』と、玄竹げんちくあたまおさへて、『御城内ごじやうないで、御近習ごきんじゆられました。御城内ごじやうないりますと、これがひとつの災難さいなんで‥‥。』と、醫者仲間いしやなかまでは嚴格げんかく偏屈へんくつとできこえた玄竹げんちくも、矢張やは醫者全體いしやぜんたい空氣くうきひたつて、すこしは輕佻けいてういろいてゐた。
能登守殿のとのかみどの近習きんじゆが、其方そちあたまるか。』と、但馬守たじまのかみ不審ふしんさうにしてうた。
左樣さやうでござります。愚老ぐらうあたま草紙さうしにして、御城代樣ごじやうだいさまのお月代さかやきをする稽古けいこをなさいますので、るたけあたまうごかしてくれといふことでござりまして。どうもあぶないので、おもふやうにうごかせませなんだが、それでもだいぶきずきましたやうで、かゞみませんが、浸染にじんでりますか。』と、玄竹げんちく無遠慮ぶゑんりよに、まるあたま但馬守たじまのかみまへしてせた。たゝみまいほどへだたつてはゐるが、但馬守たじまのかみするどは、玄竹げんちくあたま剃刀創かみそりきずをすつかりかぞへて、
きず大小だいせう三ヶしよだ。‥‥大名だいみやうといふものは、子供こどものやうなものだなう。月代さかやきらせるのにあたまうごかして仕樣しやうがないとはいてゐたが、醫者いしや坊主ばうずあたま草紙さうしにして、近習きんじゆ剃刀かみそり稽古けいこをするとは面白おもしろい。大名だいみやうあたまきずけては、生命いのちがないかもれないからな。』とひながら、但馬守たじまのかみは『生命いのちがない』の一くちにするとともに、すこかほいろへた。

 玄竹げんちく病家廻びやうかまはりのせはしい時間じかんいて、れるまで、但馬守たじまのかみ相手あひてをしてゐた。酒肴しゆかうて、さけ不調法ぶてうほふ玄竹げんちくも、無理むりから相手あひてをさせられたさかづきふたつばかりに、ほんのりとかほめてゐた。一がふほどをりやうとした但馬守たじまのかみは、めづらしく二三銚子てうしへたが、一かうふといふことをらなかつた。めばむほど顏色かほいろあをざめてくのが、燭臺しよくだいのさら/\するなかに、すごいやうなかんじを玄竹げんちくあたへた。
 玄竹げんちく今日けふ奉行役宅ぶぎやうやくたくが、いつもよりはさらしづかで、さびしいのにいた。るとともに、靜寂せいじやくくははつて川中かはなか古寺ふるでら書院しよゐんにでもるやうな心持こゝろもちになつた。いつもりの玄竹げんちくると、但馬守たじまのかみ大抵たいていむかひではなしをして障子しやうじには、おほきな、『××の金槌かなづち』と下世話げせわ惡評あくひやうされる武士髷ぶしまげと、かたあたまとがうつるだけで、給仕きふじはおりのこつな一人ひとり引受ひきうけてべんずるのであるが、それにしても、今宵こよひんだかさびぎて、百物語ひやくものがたりといふやうながしてならなかつた。
玄竹げんちく其方そちつたのは、いつが初對面しよたいめんだツたかなう。』と、但馬守たじまのかみからさかづき玄竹げんちくまへして、銚子てうしくちけながらつた。おりのこつなさへせきとほざけられて、なにかしらつたはなしのありさうなのを、玄竹げんちくがかりにおもひつゝ、かぬこし無理むりからけて、天王寺屋てんわうじや米屋よねや千種屋ちぐさや出入でいりの大町人おほちやうにんそろひもそろつて出來でき病人びやうにんのことを、さま/″\にかんがへてゐた。
御勤役ごきんやくもないころのことでござりました。岡部樣をかべさまの一けんから、しようもないことが、殿樣とのさまのおしまして。‥‥』と、玄竹げんちくまるあたまり/\つた。さうして物覺ものおぼえのよい但馬守たじまのかみがまだ半年はんとしにもならぬことを、むざ/\わすれてしまはうとはおもはれないので、なに理由わけがあつてこんなことをふのであらうと、玄竹げんちくこゝろうなづいた。
『あゝア、さうだつたなア。美濃守殿みののかみどののことから、其方そち潔白けつぱくいて、ひどく感心かんしんしたのだつたな。まつた其方そち卑劣ひれつな、強慾がうよくな、恥知はぢしらずの人間にんげんばかりおほ土地とちで、めづらしい潔白けつぱく高尚かうしやう人間にんげんだ。面前めんぜん人間にんげんめるのをこのまんが、今夜こんやゆるしてくれ。』と、但馬守たじまのかみはまたさかづきげた。
くろものばかりのなかでは、鼠色ねずみいろしろえまするもので。‥‥』と、玄竹げんちく得意氣とくいげつた。
『しかし、美濃守殿みののかみどのも、不慮ふりよのことでなう。江戸表參覲えどおもてさんきんがけに、ものなか頓死とんしするといふのは椿事中ちんじちう椿事ちんじだ。』と、但馬守たじまのかみ言葉ことばは、といふことになると、語氣ごきつよ沈痛ちんつうひゞきをびた。
『あのとき愚老ぐらう不審ふしんおもひました。岸和田藩きしわだはんのお武士さむらひ夜分やぶん内々ない/\えまして、主人しゆじん美濃守みののかみ急病きふびやうなやんでゐるによつててくれとのおはなし。これからぐお見舞申みまひまをさうとまをしますと、いや明日あすでよい、當方たうはうからむかへをよこすと、辻褄つじつまはぬことをうて、さツさとかへつてかれるのでござります。あくやうや下刻げこくになつて、ちやんと共揃ともぞろひをした武士ぶしあらためて愚老ぐらうむかへにえましたが、美濃守樣みののかみさまはもうまへごろ御臨終ごりんじうでござりまして。‥‥』と、玄竹げんちく天下てんかの一大事だいじかたるやうに、こゑひそめてつた。
『この土地とちわづらひをしたのは、其方そち見立みたきがないと、江戸表えどおもてとほらないことは、かねがねいてゐた。特權とくけん利用りようして、はう不當ふたうそでしたるのだらうと、じつ當地たうち勤役きんやくはじめににらんでおいた。ところが美濃守殿みののかみどのの一けんで、はゞ五まん千石ぜんごくいへつかつぶれるかを、其方そちたなごころにぎつたも同樣どうやう、どんなひがかりでもけられるところだと、内々ない/\注意ちういしてゐると、潔白けつぱく其方そちは、ほんのわづかな藥禮やくれいけて、見立みたきをしたゝめたとき、じつ感心かんしんしたのだ。』と、但馬守たじまのかみいまもなほ感心かんしんをつゞけてゐるといふふうであつた。
醫道いだうおもてからまをしますれば、んだものをきてゐるとして、白々しら/″\しい見立みたきで、かみいつはるのは、おもつみあたりませうが、これもまア、五まん千石ぜんごくの一家中かちうたすけるとおもうていたしました。』と、玄竹げんちくはまた得意氣とくいげかほをした。
天下てんか役人やくにんが、みな其方そちのやうに潔白けつぱくだと、なにふことがないのだが。‥‥』と、但馬守たじまのかみは、感慨かんがいへぬといふ樣子やうすをした。
しようもないことが、おしたとはぞんじてりましたが、しかし殿樣とのさまにあのときのことをすツかり愚老ぐらうくちからまをげますのは、今日けふはじめでござります。』
其方そち面前めんぜんで、このことめるのは、今夜こんやはじめだ。其方そちとはなにかにつけて、ふなう。』
愚老ぐらう殿樣とのさま守口もりぐちで、與力衆よりきしう膽玉きもだまをおひしぎになつたことを、いまもつて小氣味こきみよくぞんじてります。』
 はなしがよくふので二人ふたりけるのをわすれてかたりつゞけた。

 西町奉行にしまちぶぎやう荒尾但馬守あらをたじまのかみが、江戸表えどおもてから着任ちやくにんするといふので、三十與力よりきは、非番ひばん同心どうしんれて、先例せんれいとほ守口もりぐちまで出迎でむかへた。師走しはす中頃なかごろで、淀川堤よどがはづつみには冬枯ふゆがれのくさひつじのやうでところ/″\にまるいたあとくろえてゐた。
 たはむれに枯草かれくさうつした子供等こどもらは、はるかにえる大勢おほぜい武士ぶし姿すがたおそれて、周章あわてながらさうと、青松葉あをまつばえだたゝくやら、えてゐるくさうへころがるやらして、しきりにさわいでゐた。あをみづうへには、三十石船さんじつこくぶねがゆつたりとうかんで、れた冬空ふゆぞらよわ日光につくわうを、ともからみよしへいツぱいにけてゐた。
 伏見ふしみから京街道きやうかいだう駕籠かごくだつて但馬守たじまのかみが、守口もりぐち駕籠かごをとゞめ、しづかに出迎でむかへの與力等よりきらまへあらはれたのをると眞岡木綿まをかもめん紋付もんつきに小倉こくらはかま穿いてゐた。何處どこ田舍武士ゐなかぶしかとつたやうな、粗末そまつ姿すがたて、羽二重はぶたへづくめの與力よりきどもは、あつとおどろいた。
 與力よりきなかでも、盜賊方たうぞくがた地方ぢかたとは、實入みいりがおほいといふことを、公然こうぜん祕密ひみつにしてゐるだけあつて、よそほひでもまた一際ひときは目立めだつて美々びゝしかつた。羽二重はぶたへ小袖羽織こそでばおり茶宇ちやうはかま、それはまだおどろくにりないとして、細身ほそみ大小だいせうは、こしらへだけに四百兩ひやくりやうからもかけたのをしてゐた。こじりめたあつ黄金きん燦然さんぜんとして、ふゆかゞやいた。それを但馬守たじまのかみられるのが心苦こゝろぐるしさに地方ぢかた與力よりき何某なにがしは、ねこ紙袋かんぶくろかぶせたごと後退あとずさりして、脇差わきざしの目貫めぬきのぼりうくだりう野金やきんは、扇子せんすかざしておほかくした。
遠方ゑんぱうまでわざ/\出迎でむかへをけて、大儀たいぎであつた。何分なにぶん新役しんやくのことだから、萬事ばんじよろしくたのむ。しかしかうして、奉行ぶぎやうとなつてれば、各々おの/\與力よりき同心どうしんは、のやうにおもふ。だから可愛かはいいが、いけないことがあるとしかりもすれば勘當かんだうもする。ことによつたらころすかもれない。各々おの/\つてゐるだらう、御城與力おしろよりき同心どうしんは、御城代ごじやうだい勤役中きんやくちうあづけおく、といふ上意じやういだが、町奉行まちぶぎやうへは與力よりき同心どうしん勤役中きんやくちうくだされおくといふ上意じやういになつてる。御城與力おしろよりきは、御城代ごじやうだいあづかものだが町奉行まちぶぎやう與力よりき同心どうしんもらつたのだ。まり各々おの/\今日けふから、この但馬たじまもらものだ。もらものだから、かさうところさうと但馬たじま勝手かつてだ。其處そこをよくわきまへて、たゞしくはたらいてもらひたい。つめあかほどでも、不正ふせいがあつたら、この但馬たじまけつしてだまつてゐない。』
 つゝみ枯草かれくさうへつて、但馬守たじまのかみおほきなこゑ新任しんにん挨拶あいさつねて一ぢやう訓示くんじ演説えんぜつをした。演説えんぜつすこしもみゝいためないでくことの出來できものは、おほくの與力よりき同心どうしんちうほとんど一人ひとりもなかつた。
此地こつち與力よりき贅澤ぜいたくだと、かね/″\いてゐたが、しかしこれほどだとはおもはなかつた。おかげ但馬たじま歌舞伎役者かぶきやくしや座頭ざがしらにでもなつたやうながする。』と、ひどい厭味いやみつたときは、與力よりきどもが冷汗ひやあせ仕立したておろしの襦袢じゆばんどうらした。
 かうして、但馬守たじまのかみ敵地てきちにでもむやうにして、奉行役宅ぶぎうやくたくはひつたのであつた。
 天滿與力てんまよりきはそれからけふ木綿もめんものの衣類いるゐ仕立したてさせるやら、大小だいせうこしらへをへるやら、ごた/\と大騷おほさわぎをしたが、但馬守たじまのかみは、キラ/\とつね彼等かれらうへひかつて、彼等かれらまぶしさに尻込しりごみばかりしてゐた。
 但馬守たじまのかみ與力よりきどもをおどかしけていて、それから町家ちやうかうへくばつた。すると其處そこには、あらゆる腐敗ふはいが、鼻持はなもちもならぬまでにどろ/\と、膿汁うみしるのやうな臭氣しうきを八ぱうながしてゐた。なかで、内安堂寺町うちあんだうじまち町醫まちい中田玄竹なかだげんちくだけが、ひどくつて、但馬守たじまのかみこゝろ玄竹げんちくまるあたまなければ、けつしてうごくことがなくなつた。
 但馬守たじまのかみ玄竹げんちくあいしたのは、玄竹げんちく岡部美濃守をかべみののかみ頓死とんし披露ひろうするにもつと必要ひつえう診斷書しんだんしよを、なんもとむるところもなく、淡白たんぱくあたへたといふこゝろ潔白けつぱくつたのがだい一の原因げんいんである。それから、但馬守たじまのかみ着任ちやくにんしてもなく、るところで變死人へんしにんがあつたとき土地とち關係くわんけいで、但馬守たじまのかみ配下はいか與力よりきと、近衞關白家このゑくわんぱくけ役人やくにんともう一ヶしよ何處どこかの代官だいくわんなにかの組下くみしたと、かう三にんそろはなければ、檢死けんしおこなはれない事情じじやうがあつて、死體したい菰包こもづつみのまゝ十日とをかちかくもころがしてあつた。それでの一ちやうはう晝間ひるまめたといふほど、ひどい臭氣しうきが、ころくさつた人間にんげんこゝろのやうに、かぜかれてつた。
 やうや三組みくみ役人やくにんかほそろうて、いざ檢死けんしといふとき醫師いしとして中田玄竹なかだげんちく出張しゆつちやうすることになつた。流石さすが職掌柄しよくしやうがらとて玄竹げんちくすこしも死體したい臭氣しうきかんじないふうで、こもした腐肉ふにくこまかに檢案けんあんした。
『もういゝ加減かげんでよいではないか。』
 近衞家このゑけ京武士みやこぶしは、綺麗きれいあふぎで、のツぺりしたかほおほひつゝ、片手かたてなはまんで、三げんはなれたところから、鼻聲はなごゑした。
『もうよいわかつた。』と、但馬守たじまのかみ配下はいか與力よりきつた。
『ひどいうじだなア。』と、一ばんちかつた某家ぼうけ武士ぶしそばからでも、死體したいまではまだ一間半けんはんばかりの距離きよりがあつた。
『もつとちかうおりなさい。それで檢死けんし役目やくめみますか。』とひ/\、玄竹げんちくくさつた死體したいみぎひだりに、幾度いくたびもひつくりかへした。かはやぶれ、にくたゞれて、膿汁うみしるのやうなものが、どろ/\してゐた。内臟ないざうはまるで松魚かつを酒盜しほからごとく、まはされて、ぽかんといた脇腹わきばら創口きずぐちからながしてゐた。死體したい玄竹げんちくうごかさるゝたびに、臭氣しうきは一そうつよく、人々ひと/″\はなおそうた。
『やアたまらん。』と、京武士みやこぶしさらに一二けん後退あとずさりした。
『もツとそばつて、ほんたうに檢死けんしをなさらんと、玄竹げんちく檢案書けんあんしよしたゝめませんぞ。』と、玄竹げんちくおほきなこゑした。こゑとほくから、はなまみつゝ檢死けんし模樣もやうたがつてゐる群衆ぐんしうみゝまでひゞくほどたかかつた。
 三にん武士ぶしかたなしに、左右さいうかへりみつゝ、すこしづつ死體したいそば近寄ちかよつてた。玄竹げんちく町醫まちいであるけれども、つと京都きやうとはうまはして、嵯峨御所さがごしよ御抱おかゝへの資格しかくり、醫道修業いだうしゆげふめにつかはすといふ書付かきつけに、御所ごしよいんわつたのをつてゐるから、平生へいぜいは一ぽんきりしてゐないけれども、二本帶ほんさしてある資格しかくつてゐて、與力よりき京武士みやこぶしあとまはらなくてもいいだけの地位ちゐになつた。
『まるで、いまなかるやうにうへしたも、すつかりくさつてりますぞ。くさいもの身知みしらずとやら、この死骸しがいよりはいまなか全體ぜんたいはう臭氣しうきはひどい。この死骸しがいくさ加減かげんぐらゐはいまなかくさりかたにくらべるとんでもござらん。』
 玄竹げんちくてこすりのやうなことをつて、らにはげしく死體したいうごかした。三にん武士ぶしは、『ひやア。』とさけんで、またした。――
 このはなし但馬守たじまのかみが、與力よりきからいて、一そう玄竹げんちくきになつたのであつた。それからもうひとつ、玄竹げんちく但馬守たじまのかみよろこばせた逸話いつわがある。

 はる攝州せつしう多田院ただのゐん開帳かいちやうがあつて、玄竹げんちく病家びやうかすきうへ、一にち參詣さんけいきたいとおもつてゐた。ところが丁度ちやうど玄竹げんちくつてさいはひなことには、多田院別當ただのゐんべつたう英堂和尚えいだうをしやう病氣びやうきになつて、開帳中かいちやうちうのことだから、はや本復ほんぷくさせないとこまるといふので、玄竹げんちくのところへ見舞みまひもとむる別人べつじんた。前年ぜんねんの八ぐわつ英堂和尚えいだうをしやう南都なんと西大寺せいだいじから多田院ただのゐんへのかへりがけに、疝氣せんきなやんで、玄竹げんちく診察しんさつけたことがあるので、一きりではあるが、玄竹げんちく英堂和尚えいだうをしやう相識さうしきなかであつた。それで準備じゆんびをして、下男げなん藥箱くすりばこかつがせ、多田院ただのゐんからのむかへのしやきにてて、玄竹げんちくはぶら/\と北野きたのから能勢街道のせかいだう池田いけだはうあるいた。
 駕籠かごつてかうかとおもつたけれど、それも大層たいそうだし、長閑のどか春日和はるびよりを、麥畑むぎばたけうへ雲雀ひばりうたきつゝ、ひさりで旅人たびびとらしい脚絆きやはんあしはこぶのも面白おもしろからう、んの六ぐらゐの田舍路ゐなかみちを、長袖ながそであしにも肉刺まめ出來できることはあるまいとおもつて、玄竹げんちくほとんど二十ねんりで草鞋わらぢ穿いたのであつた。
 北野きたのはづれると、麥畑むぎばたけあをなかに、はな黄色きいろいのと、蓮華草れんげさうはなあかいのとが、野面のづら三色みいろけにしてうつくしさははれなかつた。始終しじう人間にんげんつくつた都會とくわいなかばかりを駕籠かご往來わうらいしてゐた玄竹げんちくが、かみつくつた田舍ゐなかこゝろゆくまでつたときは、ほんたうの人間にんげんといふものがこれであるかとかんがへた。駕籠かごなんぞに窮屈きうくつおもひをしてつてゐるよりは、かる塵埃ほこり野路のぢをば、薄墨うすずみかすんだ五月山さつきやまふもと目當めあてにあるいてゐたはうが、どんなにたのしみかれなかつた。
 ひだりはうには、六甲ろくかふ連山れんざんが、はるひかりにかゞやいて、ところ/″\あか禿げた姿すがたは、そんなにかすんでもゐなかつた。十三じふそ三國みくにかはふたして、服部はつとり天神てんじん參詣さんけいし、鳥居前とりゐまへ茶店ちやみせやすんだうへ、またぼつ/\とかけた。
 玄竹げんちく藥箱くすりばこなりおもいものであつた。これは玉造たまつくり稻荷いなり祭禮さいれい御輿みこしかついだまちわかしうがひどい怪我けがをしたとき玄竹げんちく療治れうぢをしてやつたおれいもらつたものであつた。療治れうぢ報酬はうしう藥箱くすりばこ進物しんもつといふのは、すこへんだが、本道ほんだうのほかに外療げれう巧者かうしや玄竹げんちくは、わかもの怪我けが十針とはりほどもつて、いとからんだ血腥ちなまぐさいものを、自分じぶんくちるといふやうな苦勞くらうまでして、やうやなほしてやつたれいが、たつた五りやうであつたのには、一すんりやう規定きていにして、あまりに輕少けいせうだと、流石さすが淡白たんぱく玄竹げんちくすこおこつて、の五りやうかへした。すると、先方せんぱうではおほい恐縮きようしゆくして、いろ/\相談さうだんすゑ名高なだか針醫はりいなくなつて、藥箱くすりばこ不用ふようになつてゐたのをり、それを療法れうはふれいとしておくつてたのが、この藥箱くすりばこで、見事みごと彫刻てうこくがしてあつて、銀金具ぎんかなぐあついのがつてあつた。
 五月山さつきやまが一ぽん々々/\かぞへられるやうになると、池田いけだまちながさかしたおろされた。此處ここからはもう多田院ただのゐんへ一開帳かいちやうにぎはひは、この小都會せうとくわいをもざわつかしてゐた。あさはんつてから、老人らうじんあしだから、池田いけだいたときは、もうつであつた。おくれた中食ちうじきをして、またぽつ/\と、うまかよひにくいみちを、かはつて山奧やまおくへとすゝんでつた。いままで前面ぜんめんてゐた五月山さつきやまうらを、これからは後方うしろりかへるやうになつた。うつくしいてて、たまのやうなこいしをおもしに、けものかはしろさらされたのがひたしてある山川やまがは沿うてくと、やまおくにまたやまがあつた。權山ごんざんといふたうげは、ひくいながらも、老人らうじんにはだいぶあへいでさねばならなかつた。たうげ頂上ちやうじやうからは、多田院ただのゐん開帳かいちやう太鼓たいこおときこえて、大幟おほのぼり松並木まつなみきおくに、しろうへはうだけせてゐた。たうげくだると『多田御社道ただおんしやみち』の石標せきへう麥畑むぎばたけあぜつて、其處そこまがれば、みちはまた山川やまがはうつくしいみづ石崖せきがいすそあらはれてゐた。かはいてみちはまたまがつた。ちひさな土橋どばしひとつ、小川をがは山川やまがはそゝぐところにかゝつてゐた。山川やまがはにははしがなくて、香魚あゆみさうなみづが、きやう鴨川かもがはのやうに、あれとおなじくらゐのはゞで、あさくちよろ/\とながれてゐた。正面しやうめんにはもう多田院ただのゐん馬場先ばばさきの松並木まつなみきえだかさねて、ずうつとおくふかくつゞいてゐるのがえた。松並木まつなみき入口いりくちのところに、かはにして、殺生せつしやう禁斷きんだんつてゐた。松並木まつなみきみち流石さすがひろくつて、まつなりにふといてゐた。
 參詣さんけい老若男女らうにやくなんによは、ぞろ/\と、るやうに松並木まつなみきみち往來わうらいして、ふくろはひつたあめや、かみこしらへたはたのやうなものが、子供こどもにも大人おとなにもあつた。太鼓たいこおとまじつて、ひゆう/\とふえらしいものも、だん/\間近まぢかきこえてた。
 松並木まつなみききると、いしだたみのだら/\ざかがあつて、へんから兩側りやうがは茶店ちやみせならんでゐた。『君勇きみゆう』とか『秀香ひでか』とか、みやこ歌妓うたひめめた茶色ちやいろみじか暖簾のれんが、のきわたされて、緋毛氈ひまうせん床几しようぎ背後うしろに、赤前垂あかまへだれをんなが、甲高かんだかこゑしぼつてゐた。
『おけやす、おはひりやす、やすんでおいでやす。』
御門内ごもんないはおこしものりません。おこしものをおあづかりいたします。』
 おちよぼぐちにお鐵漿かねくろをんなは、玄竹げんちく脇差わきざしをて、かうひながら、あかたすきがけのまゝで、しろした。『えらい權式けんしきぢやなア。』とおもひながら、玄竹げんちく腰差こしざしをあづけようとすると、多田院ただのゐんからむかへのをとこつて、『よろしい/\。』とつた。
『あゝ、御寺内ごじないのおきやくさんだつかいな。孫右衞門まごゑもんさん、御苦勞ごくらうはん。』と、茶店ちやみせをんな愛嬌あいけういた。
 ひがしもんからはひつて、露店ろてん參詣人さんけいにんとの雜沓ざつたふするなかを、あふひもんまく威勢ゐせいせた八足門はつそくもんまへまでくと、むかうから群衆ぐんしうけて、たか武士ぶしがやつてた。ものつたことはないが、かほだけはおぼえてゐる天滿與力てんまよりき何某なにがしであることを玄竹げんちくつてゐた。この天滿與力てんまよりき町人ちやうにんからそでしたるのにめうてゐるかたちだけの偉丈夫ゐぢやうふであつた。新任しんにん奉行ぶぎやうひかるので、膝元ひざもとでは綿服めんぷくしかられない不平ふへいまぎらしに、こんなところへ、黒羽二重くろはぶたへ茶宇ちやうはかまといふりゆうとした姿すがた在所ざいしよのものをおどかしにたのだとおもはれたが、多田院ただのゐん日光につくわう徳川家とくがはけ靈廟れいべうで、源氏げんじ祖先そせんまつつてあるから、わづか五百石ひやくこく御朱印地ごしゆいんちでも、大名だいみやうまさ威勢ゐせいがあるから天滿與力てんまよりきはゞかなかつた。
 黄金作こがねづくりの大小だいせう門前もんぜん茶店ちやみせげられて、丸腰まるごしになつたのを不平ふへいおもふうで、ひと退けながらやつて天滿與力てんまよりきは、玄竹げんちく脇差わきざしをしてゐるのをて、しからんといふふうで、一そうひどくひと退けながらみなみもんはうつた。
馬鹿ばかツ。』と、玄竹げんちく與力よりき後姿うしろすがたりかへつて獨言ひとりごとをした。
 鷹尾山たかをさん法華三昧寺ほつけさんまいじ多田院ただのゐんつても、本殿ほんでん拜殿はいでんとは神社風じんじやふうで、兩部りやうぶになつてゐた。玄竹げんちく本殿ほんでんのぼつて、開帳中かいちやうちう滿仲公みつなかこう馬上姿ばじやうすがた武裝ぶさうした木像もくざうはいし、これから別當所べつたうしよつて、英堂和尚えいだうをしやう老體らうたい診察しんさつした。病氣びやうき矢張やは疝癪せんしやくおもつたのであつた。早速さつそくくすり調合てうがふし、土地とち醫者いしや方劑はうざいさづけたが、玄竹げんちくは、塔頭たつちううめばうといふのへ案内あんないされて、精進料理しやうじんれうり饗應きやうおうけ、下男げだんとともに一ぱくして、翌朝よくてうかへることになつた。五百石ひやくこくでも別當べつたうはこの土地とち領主りやうしゆで、御前ごぜんばれてゐた。した代官だいくわんがあつて、領所りやうしよ三ヶそん政治せいぢつてゐた。
 天滿與力てんまよりき何某なにがしが、門前もんぜん旅籠屋はたごやとまり、大醉たいすゐして亂暴らんばうし、拔刀ばつたう戸障子としやうじやぶつたが、多田院ただのゐん寺武士てらざむらひ劍術けんじゆつらないので、おさへにくことも出來できなかつたといふはなしを、玄竹げんちく翌朝よくてういて齒痒はがゆおもつた。
 翌日よくじつ別當べつたう好意かういで、玄竹げんちく藥箱くすりばこあふひもんいた兩掛りやうがけにをさめ、『多田院御用ただのゐんごよう』のふだを、兩掛りやうがけけのまへはうふたててもらつた。さうして下男げなんには、菱形ひしがたの四かくへ『』の合印あひじるしのいた法被はつぴせてくれた。兩掛りやうがけの一ぱうには藥箱くすりばこをさめ、の一ぱうには土産物みやげものはひつてゐた。すこおもいけれど、かうしてあるけば途中とちう威張ゐばれて安全あんぜんだといふので、下男げなんいさつてあるした。るほどあふひもんと『多田院御用ただのゐんごよう』の木札きふだは、人々ひと/″\皆々みな/\みちゆづらせた。大名だいみやう行列ぎやうれつても、五々々/\とほれるといふほどの權威けんゐのあるものに、玄竹げんちく藥箱くすりばこ出世しゆつせした。
 岡町をかまち中食ちうじきをして、三國みくにから十三じふそわたしにしかゝつたときは、もうなゝごろであつた。渡船とせんつてゐるので、玄竹げんちくみち片脇かたわきつて、つてゐた。このぎにはふねくだらう、どうせいつぱいにはかへれまいから、ゆつくりしてかうと、下男げだんにさうつて、煙草たばこをくゆらしてゐると、いつぱいひとせて、もうきしから二けんほどもかゝつた渡船とせんをば、『こらて、て。』と、めながら、けてたのは、昨日きのふ多田院ただのゐん天滿與力てんまよりきの、かたちだけは偉丈夫然ゐじやうふぜんとした何某なにがしであつた。
 武士ぶしめられたので、船頭せんどう不承々々ふしよう/″\ふねもどした。こぼれるほどにつたきやく行商ぎやうしやう町人ちやうにんがへりの百姓ひやくしやう乳呑兒ちのみごかゝへた町家ちやうか女房にようばうをさなおとうといた町娘まちむすめなぞで、一かゝつたふねが、おほきな武士ぶしめに後戻あともどりさせられたのを、不平ふへいおも顏色かほいろは、ふねいつぱいにあふれてゐた。
 天滿與力てんまよりきは、渡船とせんもどしてみたけれど、ほとんど片足かたあし餘地よちもないので、腹立はらだたし舌打したうちして、みぎはつてゐたが、やがてたかく、とらえるやうにこゑげると、
あがれ、あがれ。百姓ひやくしやう町人ちやうにん同船どうせんならん。』と、居丈高ゐだけだかになつた。
 さうはれると、よわものどもはつよものめい服從ふくじうするよりほかはなかつた。腹立はらだたしかほをしたものや、ベソをいたものや、こはさうにおど/\したものなぞが、前後ぜんごしてぞろ/\とふねからをかあがつた。はゝかれた嬰兒あかごこゑは、ことあはれなひゞき川風かはかぜつたへた。
 からになつた渡船とせんへ、天滿與力てんまよりきかたをいからしてつた。六甲山ろくかふざんしづまうとする西日にしびが、きら/\とれの兩刀りやうたう目貫めぬきひからしてゐた。
 船頭せんどう憎々にく/\しさうに、武士ぶし後姿うしろすがた見詰みつめながら、ふねした。
 ふねがまた一間半けんはんばかりきしはなれたとき玄竹げんちく下男げなんうながして兩掛りやうがけをかつがせ、大急おほいそぎできしけて、
て、て。ふねて。』と、たかさけんだ。
 すみ黒々くろ/″\かれた『多田院御用ただのゐんごよう』の木札きふだててられると、船頭せんどうはまたふねかへさないわけにかなかつた。天滿與力てんまよりきつらふくらしつゝ、矢張やはり『多田院御用ただのゐんごよう』の五文字いつもじふくれたつらられて、うんともすつともはずに、雪駄穿せつたばきのあしふねからきしまたがないではゐられなかつた。‥‥さうしてあふひもんいた兩掛りやうがけに目禮もくれいして、片脇かたわきつてゐなければならなかつた。
 玄竹げんちく意氣揚々いきやう/\と、ふねなかへ『多田院御用ただのゐんごよう』の兩掛りようがけをゑて、下男げなん二人ふたりそれを守護しゆごする位置ゐちひざまづいた。船頭せんどうさおりなほしてふねさうとするのを、玄竹げんちくは、『あゝ、こら、て/\。』とめて、
同船どうせんゆるす、みんなれ。』と、天滿與力てんまよりきふねからきおろされた百姓ひやくしやう町人ちやうにんむれむかつてこゑをかけた。いづれもうれしさうにして、ふね近付ちかづいてるのを、退けるやうにして、天滿與力てんまよりききにふねへ、雪駄せつたあしまたんだ。途端とたん玄竹げんちくはいつにないらいのやうに高聲たかごゑで、※(「口+它」、第3水準1-14-88)した[#ルビの「した」はママ]した。
武士ぶし同船どうせんならん。』
 天滿與力てんまよりきは、ふとぼうなにかでむねでもかれたやうに、よろ/\としながら、無念氣むねんげ玄竹げんちく坊主頭ばうずあたまにらけたが、『多田院御用ただのゐんごよう』の五文字いつもじは、惡魔除あくまよけの御符ごふうごとく、れをけてうごかさなかつた。玄竹げんちくたかこゑおどろいて、百姓ひやくしやう町人ちやうにんれまでが、後退あとずさりするのを、玄竹げんちくやさしくやつて、
百姓ひやくしやうれ、町人ちやうにんれ、同船どうせんゆるす。』と、手招てまねきした。天滿與力てんまよりきがすご/\とふねからるのに、ざまアろとはぬばかりの樣子やうすれちがつて、百姓ひやくしやう町人ちやうにんはどや/\とふねつてた。
 鈴生すゞなりにひとせたふねが、對岸たいがんくまで、口惜くやしさうにしてつた天滿與力てんまよりきの、おほきなあかかほが、西日にしびうつつて一そうあか彼方かなたきしえてゐた。――
 この與力よりきもなく、但馬守たじまのかみから閉門へいもんめいぜられた擧句あげくに、切腹せつぷくしてしまつた。とが箇條かでううちには、多田院御用ただのゐんごよう立札たてふだ無禮ぶれいがあつたといふくだりもあつた。

 但馬守たじまのかみ新任しんにんはじめから、このくさつたおほきな都會とくわい大清潔法だいせいけつはふ執行しつかうするつもりでゐた。れはかね/″\書物しよもつんで、磔刑はりつけ獄門ごくもん打首うちくび、それらの死刑しけいけつして、刑罰けいばつでないといふことをかんがへてゐた。れは刑罰けいばつといふものが本人ほんにん悔悟くわいご基礎きそとしなければならぬとかんがへるはう一人ひとりであつた。ころされてしまへば、いることもあらためることも出來できない。したがつて、死刑しけいけいでないといふふうかんがへた。
 ところがれは、町奉行まちぶぎやうといふおも役目やくめうけたまはつて、おほくの人々ひと/″\生殺與奪せいさつよだつけんを、ほそたなそこにぎるやうになるとたちまち一てんして、れの思想しさうは、死刑しけいをば十ぶん利用りようしなければならぬといふ議論ぎろんてさせ、着々ちやく/\それを實行じつかうしようとした。
 死刑しけい理想りさうとしてはいすべきものだけれど、それが保存ほぞんされてある以上いじやうるたけおほ利用りようしなければならぬ。まがつた社會しやくわい正當防衞せいたうばうゑいくさつたなか大清潔法だいせいけつはふ、それらを完全くわんぜんちか執行しつかうするには、死刑しけいおほ利用りようするよりほかにないとかんがへた。
 往來わうらい煙草たばこつたもの、なかひと退けてすゝまうとしたもの、そんなのまでをとらへて、打首うちくびにするならば、火事くわじ半分はんぶんげんずるし、なか風儀ふうぎたちまあらたまるであらうとおもつた。
 しかし、但馬守たじまのかみ流石さすがに、そんな些事さじたいして、一々死刑しけいもちゐることは出來できなかつたが、掏摸すりなぞは從來じうらい犯以上ぱんいじやうでなければ死刑しけいにしなかつたのを、れは二はんあるひことによると初犯しよはんからてて、くび梟木けうぼくにかけた。十りやう以上いじやう盜賊たうぞくでなくても、くびつながらなかつた。死刑しけい連日れんじつおこなはれた。れが月番つきばんときは、江戸えどなら淺右衞門あさゑもんともいふべき首斬くびきやくやいばに、らぬとてはなかつた。
今日けふ千日前せんにちまへくびなゝつかゝつた。』
昨日きのふとをかゝつた。』
明日あしたいくつかゝるやろ。‥‥』
 こんな言葉ことばが、相逢あひあ人々ひと/″\挨拶あいさつのやうに、また天氣てんきうらなふやうに、子供こどもくちにまでのぼるとともに、市中しちうたちましづまりかへつて、ひつそりとなつた。
 但馬守たじまのかみ莞爾くわんじわらつて、ひやく宗教しうけうせん道徳だうとくも、ひとつの死刑しけいといふものにはかなはない、これほど效果かうくわおほいものはもとむることが出來できないとおもつた。
 配下はいか與力よりき同心どうしんふるへあがるし、人民じんみん往來わうらいあるくにもひさくなつて、足音あしおとさへてぬやうにした。
 芝居しばゐ土間どま煙草たばこつて、他人たにんたもとがしたものも、打首うちくびになるといふうはさつたはつたときは、皆々みな/\あをくなつた。それはもとよりうはさだけにとゞまつたが、それ以來いらい當分たうぶん芝居しばゐながら煙草たばこふものがほとんどなくなつた。
 うはさだけでも、死刑しけいといふものには、覿面てきめん效力かうりよくがあるとおもつて、但馬守たじまのかみ微笑びせうした。

 りの玄竹げんちく相手あひてに、けるのをわすれてゐた但馬守たじまのかみは、いくんでもはぬさけに、便所べんじよへばかりつてゐたが、座敷ざしきもどたびに、かほいろあをみがしてくるのを、玄竹げんちくがかりなふうてゐた。はもう下刻げこくであつた。
玄竹げんちく多田院ただのゐん參詣さんけいはなし面白おもしろいなう。もう一やつてかさんか。』と、但馬守たじまのかみさかづきをあげた。
何遍なんべんいたしましても、おなじことでござります。』と、玄竹げんちくはこの潔癖けつぺき殿樣とのさま相手あひてをしてゐるのが、すこ迷惑めいわくになつてた。しかし、いまからもう病家びやうかまはりでもあるまいし、自宅じたく方々はう/″\から、のつくやうにむかへの使つかひたことを想像さうざうして、こしをもぢ/\さしてゐた。
玄竹げんちく今夜こんやつて其方そち相談さうだんしたいことがある。怜悧りこう其方そち智慧ちゑりたいのぢや。…まあ一さんかたむけよ。さかづきらせよう。』とつて、但馬守たじまのかみつてゐたさかづきした。
がたうはござりますが、不調法ぶてうほふでござりますし、それに空腹くうふくもよほしましたで。‥‥』と、玄竹げんちくはペコ/\になつたはら十徳じつとくうへからおさへた。
『はゝゝゝゝ。はらいたか。すつかりわすれてゐた。いまはんらせるが、まあそれまでに、このさかづきだけひとけてくれ。』と、但馬守たじまのかみひて玄竹げんちくさかづきあたへた。
愚老ぐらうにおはなしとは、どういふでござりますか。』と、玄竹げんちくさかづきかたはらいて、但馬守たじまのかみ氣色けしきうかゞつた。
玄竹げんちく返盃へんぱいせい。』と、但馬守たじまのかみほそべた。
おそります。』と、玄竹げんちくさかづき盃洗はいせんみづあらひ、懷紙くわいしして、丁寧ていねいいたうへ但馬守たじまのかみさゝげた。それをけて、波々なみ/\がせたのを、ぐつとした但馬守たじまのかみは、
玄竹げんちくさけからいとかんずるやうになつては、人間にんげん駄目だめだなう。いくんでも可味うまくはないぞ。』
御酒ごしゆからいものでござります。からいものをからいとおぼしますのは、結構けつこうで、‥‥失禮しつれいながらもう御納盃ごなふはいになりましては。‥‥』
其方そちさかづきかはしたから、もうめてもいゝ。』
 但馬守たじまのかみ悵然ちやうぜんとして天井てんじやうあふいだ。
愚老ぐらうへおはなしとは。』と、玄竹げんちくはまた催促さいそくするやうにつた。
『ほかでもない、其方そち智慧ちゑりたいのぢや。‥‥』
『おろかものの愚老ぐらうろく智慧ちゑはせませんが、どういふでござりませうか。』と、玄竹げんちくはまた但馬守たじまのかみ氣色けしきうかゞつた。
玄竹げんちく、‥‥三日みつか道中だうちう江戸えどかへ工夫くふうはないか。』
 但馬守たじまのかみは、決心けつしんしたといふふうで、キッパリとつた。
『はア。』と、玄竹げんちく溜息ためいきいた。
工夫くふうはないか。』と、但馬守たじまのかみ無理むりからわらひをふくみながらつた。
韋駄天ゐだてんちからでもりませいでは。‥‥どんなお早駕籠はやでも四日よつかはかゝりませうで。‥‥』と、玄竹げんちくはもうおもてをあげることが出來できなかつた。但馬守たじまのかみきつかたちたゞして、
今日けふ江戸表御老中えどおもてごらうぢうから、御奉書おほうしよ到着たうちやくいたした。一にち支度したく三日みつか道中だうちうで、出府しゆつぷいたせとの御沙汰ごさたぢや。』と、おごそかにつた。
おそりましてござります。』と、玄竹げんちくたゝみ平伏ひれふした。老眼らうがんからは、ハラ/\となみだがこぼれた。
玄竹げんちくいまのは別盃べつぱいぢやぞ、但馬守たじまのかみ生命いのち今夜限こんやかぎりぢや。死骸しがい手當てあては其方そちたのむ。』
かしこまりましてござりまする。』
 玄竹げんちくなみだれたかほをあげて、但馬守たじまのかみた。奉行ぶぎやう醫者いしやとは、しばらくとを見合みあはせてゐた。
玄竹げんちく。‥‥だいぶころしたからなう。‥‥』
 但馬守たじまのかみしづつたかほには、すご微笑びせうがあつた。

昔、大阪の町奉行に荒尾但馬守といふ人があつたさうです。それとほゞ時代を同じうして、安田玄筑といふ醫者もあつたさうです。しかし、本篇の奉行荒尾但馬守と、醫師中田玄竹とは、それらの人々と全く無關係であります。

底本:「現代日本文學全集 23 岩野泡鳴 上司小劍 小川未明集」改造社
   1930(昭和5)年4月13日初版第1刷発行
初出:「ユウモレスク」中央堂
   1924(大正13)年8月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「下男(げなん)」と「下男(げだん)」の混在は底本通りにしました。
入力:いとうたかし
校正:小林繁雄
2012年8月17日作成
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