ちかごろ世間で日本歴史の科学的研究ということがしきりに叫ばれている。科学的研究というのが近代史学の学問的方法による研究という意義であるならば、これは史学の学徒の間においては一般に行われていることであるから、今さらこと新しくいうには及ばないはずである。しかるにそれがこと新しいことのように叫ばれるのは、日本の国家の成立の情勢とか、皇室の由来やその本質、ならびにそれと国民との関係とか、皇室の種々の事蹟とか、または日本の世界における地位とか、いうようなことがらについて、学問的の研究をもそれによって知られている明かな歴史的事実をも無視した、あるいはむしろ一般的な常識を無視した、ほしいままな主張をもっているもの、もしくは歴史を政略の具にしようとするものが、政治的権力者の地位を占めて、その権力をもてあそび、学徒や文筆にたずさわっているものの一部にも、それに迎合追従し、またはみだりに虚偽迷妄な説を造作してそれを支持するものがあり、それがために学問的の研究が政治的権力と乱暴な気ちがいじみた言論とによって、甚しく圧迫せられると共に、虚説妄説が声高く宣伝せられることによって、国民の多くが迷わされも惑わされもし、そうしてそれが起すべからざる戦争を起させ、またそれを長びかせた一つの力となったので、その戦争によって国家の危機が来たされた今日に至って、急にこれらのことがらについての正しい知識を国民に与える必要が感ぜられたからであろう。そうして上にいった権力者の権力がくずれ宣伝が声をひそめたことが、それを叫ぶによい機会となったのであろう。だから、その学問的研究というものは、日本歴史のすべての部面を対象としてのことではなく、ここに挙げたような特殊のことがらについての、少くともそれを主とし中心としての、ことであるらしく、従って時代からいうと、上代史にそのおもな問題があるとせられているようである。
 もっとも、こういうことがらについての学問的研究は、近年ほどに乱暴な態度や方法によってではなかったにせよ、その前から、知識の乏しい官憲や固陋ころうな思想をもっているものの言動やによって、或る程度の、場合によっては少からぬ、抑制をこうむってはいた。メイジ(明治)の或る時期には古典の批判がかなり活溌に行われ、皇室に関することについてもいろいろの新しい自由な研究が現われても来たが、その傍には、神道や国学やまたは儒教の思想をうけつぎ、それを固執するものがあって、こういう研究に反対し、時には官憲を動かしてそれを抑制しようとしたのである。それがために、学界においても、こういう問題については、自由な学問的研究の精神が弱められ、学徒をして、あるいは俗論を顧慮して不徹底な態度をとらしめ、あるいはそれに触れることを避けさせる傾向が生じ、そうしてその間には、学徒みずからのうちにもしらずしらず固陋な思想に蝕まれるものが生ずるようになり、全体として研究が進まなくなった。これがほぼメイジの末期からの状態であった。勿論、学界のすべてがこういう状態であったのではなく、特にタイショウ(大正)年間からは、シナ(支那)やチョウセン(朝鮮)の歴史の研究が進み、また考古学・民俗学・宗教学・神話学などの学問が次第に芽を出して来たので、それによって、側面から日本歴史のこの方面の研究を助けるようにもなったし、また第一次世界大戦の終ると共に、思想界の諸方面を動かして来た自由な、世界的な空気の影響をうけた気味があったかと思われるふしもあって、こういう問題もいろいろに取扱われて来た。いわゆる左翼思想の流行につれて、特殊の史観にもとづく歴史の解釈が試みられたことも、注意しなくてはならぬ。しかしこれは、上記の特殊の史観にもとづくものを除けば、純粋な学界のことであって、一般の世間にはさしたる交渉がなく、そうして世間の一部に固陋な思想の存在することも、また前と変らなかった。なおこのことに関聯して、学校における歴史教育が、上にいったようなことがらについては、曖昧あいまいな態度をとり、または真実でない知識を強いて注入していたことも、明かな事実である。世間に正しい知識が弘まらなかったのは、むりもないことである。学問的に研究しなければならぬ問題がそこにあるということすらも、一般には考えられなかった。
 ところが、上記の固陋の思想は、近年に至って政治界における軍国主義の跳梁ちょうりょうに伴い、それと結合することによって急に勢を得、思想界における反動的勢力の一翼としてその暴威を振うようになった。上に権力者の恣な主張といい、虚偽迷妄な説といい、気ちがいじみた言論といったのは、即ちそれである。その主張その言論は、神道や国学や儒教やの思想から継承せられたものが主になってい、それを粉飾するためにヨウロッパのいろいろの思想や用語の利用せられた場合もあるが、その利用のしかたは極めて恣なものであった。しかし、こういう状態が現出したのも、またさかのぼっていうとメイジ時代から固陋な思想の存在したのも、根本的には、日本人の文化の程度が低く教養が足らず、特に批判的な精神を欠いていて、事物の真実をきわめまたそれによって国民の思想と行動とをその上に立たせようとする学問の本質と価値とを理解するに至らないためであった。学徒が真理を愛し真理を求め真理のために虚偽と戦おうとする意気と情熱とを欠いていることも、またこれと深い関係がある。権力を恐れ俗論をはばかり、真理として信ずるところを信ずるままに主張することをしないのは、むかしからの日本の学者の通弊であり、そうしてそれは、みずから研究しみずから思索するのではなくして、他から学び知ることを主とする過去の学問の性質からも、また学問は身を立て名利を得るための方便と考えられていると共に、学者に独立の地位の与えられなかった社会的風習からも、来ているのであるが、近年に至って、知識人の間に小成に安んじ現在に満足する気風がひろまり、その点からもこういう態度がとられるようになったということも考えられる。そうしてそれは、一とおりヨウロッパの文化を学び得たがために、もはや彼れに及ばぬものがないように思い、その実、学問でも文芸でも一般の教養でも、はるかにヨウロッパに及ばぬ状態であるにかかわらず、メイジ年間における如くいわゆる先進文化国においつこうとするいきごみと努力とが弱められると共に、われの誇るべからざることを誇り、かれのあなどるべからざることを侮ったところにも、一つの理由があるのではないかと、解せられる。この一般知識人の気風が学徒にも及んで、彼らをして真理に対する熱愛を失わしめたのではあるまいか。
 こう考えて来ると、日本歴史の学問的研究ということが急に叫ばれても、それがすぐに大なる効果を生ずるには限らない、ということが考えられる。こういう叫びには、一つは史学の学徒をしてその本来の使命に立ちかえって自由な研究を進めてゆかせるような気運を促すのと、一つは一般世間に対してこれまで注入せられていた虚偽迷妄な知識を正すのと、この二つの意味があろうと思われる。ところが第一については、外からの抑圧がなくなったことによって、おのずからその気運が開かれて来ることが考え得られるものの、長い間、世間に或る力をもっていて研究者みずからにおいてもその思想を幾らか曇らせていた固陋な考えかたの残滓ざんしがなおどこかにこびりついているために、それにわずらわされもしようし、あるいはまた人によっては、世間の空気の急激な変化に誘われて、いたずらに反抗的な態度に出で、または近年のとは違った方向においてではあるが、やはり真実をゆがめるような見かたをすることもあろうし、いずれにしてもおちついた学問的の研究の妨げられるおそれがないでもないから、このようにして呼びさまされた研究が真の研究の道を進み、そうしてそれによって何らかの成果に達するまでには少からぬ歳月がかかるからである。また第二については、学問的研究そのことがいま述べたような状態であるために、誤った知識を正そうとするその正しい知識が十分にでき上がっていないし、よしそれが或る程度にできているとするにしても、一般世間にはそれを理解しそれをうけ入れるだけの準備ができていず、そうしてまた一方では、権力の抑圧が解かれ恣な言論が声をひそめたにしても、その根柢となっていた固陋な思想なり考えかたなりは急になくなってはしまわないので、それが何らかの形において正しい知識の理解を拘束するであろうからである。

 然らばその固陋の思想とは何であるかというと、それを一々ここで数えたてることはできないし、またそうするにも及ぶまいが、その主なるものは上代史に関することであって、その根本のかんがえは、いわゆる記紀の神代や上代の部分を歴史的事実を記したものとして信奉するところにある。もっとも神代については、必ずしもモトオリ・ノリナガ(本居宣長)の如く『古事記』の記載をすべて文字のままに事実として信ずるには限らず、それに何らかの恣な解釈や牽強附会けんきょうふかいな説明やを加える場合もあるが、それにしてもこの根本の考に変りはない。そうしてこの考から、神代という時代が事実あったとし、アマテラス・オオミカミ(天照大神)を実在の人物とし、皇室の万世一系であることはこの大神の神勅によって決定せられたとし、天皇は今日でも神であられるとし、わが国には神ながらの道という神秘的な道が昔からあったとし、オオヤシマ(大八嶋)は最初から皇室の統治をうけた一国であったとし、日本は世界の祖国であり本国であり、従って世界は日本に従属すべきものであるとし、チョウセン半島はスサノオ(素盞嗚)のみことによって経営せられたものであるから本来日本の一部であるとするような、主張が生ずるのである。これらは概していうと神道者や国学者の思想をうけついだものであるが、近ごろのこういうことを主張するものは、国学者の考えたように、漢文で書かれシナ思想で潤色せられているという理由で『日本紀(書紀)』を排斥することはせず、却ってそれを尊重するので、それがために、シナの種々の書籍のいろいろな辞句をつなぎ合わせて作ったその記事なり詔勅として載せられている文章なりをそのままに信じ、またはジンム(神武)天皇の即位を今から二千六百余年の前とする『日本紀』によって初めて定められた紀年をも、たしかなものとして説いているが、これらはエド(江戸)時代からメイジ年間へかけての幾人もの学者によって、事実でもなく真の詔勅でもなく、またシナ思想によって机上で作られた年数であることが証明せられ、それが学界の定説となっているものである。ところが、そういう過去の学者の研究による学界の定説をさえ無視した主張のせられたところに、漢文を尊重しシナ思想を尊重する儒者の偏見のうけつがれたところがある。なおこういう主張と関聯したこととして、日本人においてはその生命財産もすべて天皇のものであって、それが建国以来の日本人の信念であるとか、シナもしくは世界の文化の淵源が日本にあるとか、日本人が世界の最も優れた民族であるとかいうような、国学者の思想の一すじのつながりがあると共に、近年のヨウロッパの一隅に起ったいわゆる全体主義(その実は権力服従主義)的な、または特殊の意義における民族主義的な思想から学ばれたようなことも主張せられ、それが古典の記載によって知られることの如く説かれてもいたらしい。
 しかしこういうようないろいろの主張には、第一に、記紀の記載を歴史的事実として信ずるといいながらそれにそむいていることがあるので、例えば、アマテラス・オオミカミが実在の人物であるというのは、それを日の神とし太陽神とし、タカマガハラ(高天原)という天上の世界にいることにしてある記紀の記載と矛盾するものであり、オオヤシマが最初から一つの国として皇室に統治せられていたことが事実であるとすれば、オオナムチ(大己貴)の命がアシハラノナカツクニ(葦原の中国)を皇孫に献上したというそれとは一致しない記紀の記載をも、ジンム天皇の東征ということをも、理解することができない。これは物語に語られていることをその全体にわたって考えず、一部分または一方面の記載を恣にとり出して、それだけを主張の根拠とするからのことであって、そこにこういう主張に学問的根拠のない理由がある。
 第二には、記紀の用語や文字の意義に背いていることがある。例えば、日本は世界を従属させるべきものであるという主張が『日本紀』の神武天皇紀の「掩八紘而為宇」を根拠とするようなのがその一つである。この句は「兼六合以開都」と対になっているので、「為宇」の「宇」は建築物としての家屋のこと、「為」は造作の義であり、この場合では宮殿を作るということである。(大和地方は服属したからさしあたって橿原に皇居を設けることにするが大和以外の地方はまだ平定しないから)日本の全土を統一してから後に、あらためて壮麗な都を開き、宮殿を作ろう、というのがこの二句にいいあらわされていることなのである。(これは『文選』に見えている王延寿の魯霊光殿賦のうちの辞句をとってそれを少しくいいかえたものであるが、このことについての詳しい考証は近く発刊せられるはずの『東洋史会紀要』第五冊にのせておいた。)このような出典などを詮索せずとも、この句を含む「令」というものの全体と神武紀の始終とをよく読んでみれば、「為宇」がこういう意義であることは、おのずからわかるはずである。「宇をつくる」とむべきこの「為宇」を、いつのころからか「宇となす」と訓み「宇」を譬喩ひゆの語として見るものがあったので、そこから八紘を一家とするというような解釈が加えられ、それによって上記の主張がせられたのであろう。こういう主張は、『古事記』の物語にもとづいたノリナガやアツタネ(篤胤)の思想にも一つの淵源があるが、近年の主張者はそれよりもむしろ『日本紀』のこの語を根拠としていたようである。そうしてこういうことのいわれたのは、誤った訓みかたから誘われたのではあるが、その訓みかたの正しいか否かを学問的方法によって吟味することなしに、特にこの句の用いてある文章の全体の意義を考えることなしに、この句だけをとり出してそれに恣な解釈をしたのであって、それはまた、古典を解釈するのではなくして、自己の主張のために古典を利用しようとする態度から出たことである。こういう態度から多くの虚妄な説が造作せられ宣伝せられたのが、近年の状態であった。
 これに似たことは、孝徳紀の詔勅に見える「惟神我子応治故寄」の「惟神」の語を「神ながら」と訓み、それによって「神ながらの道」というものが建国のはじめから我が国にあったというように説かれていることである。「惟神」は一つの語ではなく、「惟」は意義のない発語であり、「神」は「我が子しらさむとことよさしき」の語の主格となっているものであるのを、いつのころからか、こういう誤った訓みかたがせられている。もっとも「惟神」の二字は「神ながら」の語にあてられたのではないが「神ながら」という語は上代に用いられていて、天皇についていう場合には、それはこの政治的君主があきかみといわれていることを示すものであった。しかし「神ながらの道」ということは、どの古典にも見えていない。「神ながら」はもともと道とすべきことではないから、これは実は意義をなさぬ語である。かかる語がエド時代の末期から世に現われたので、それは多分アツタネによってはじめていい出されたものらしい。(このことについては『上代日本の社会及び思想』と『日本の神道に於ける支那思想の要素』とに詳しく考えておいた。)もともと上代人の思想になかったことであるから、その意義として説かれることは一定せず、アツタネ及びその後の神道者・国学者によって思い思いの解釈が恣に加えられて来たが、近年に至って、この語が著しく神秘化せられると共に、世界に類のない日本特有の道であり、日本人はその道を世界に実現させねばならぬ、というようにさえいわれていたらしい。神秘化せられたのは、意義のない語を深い意義のあるもののごとく宣伝しようとするために、その意義が明かに説き得られないからでもあったろう。そこにこういうことを主張した宣伝者の態度が見える。
 第三には、古典のどこにも見えず上代の思想としてあるべからざることをそうであるごとく主張することであって、国民の生命財産は本来天皇のものである、というようなのがそれである。エド時代の武士には生命は(俸禄との交換条件として)主君からの預りものであるということが教えられもしたが、上代にはそういう思想はなかった。天皇に仕えまつる武人は大君のために命を惜しまぬということは考えられていたが、それは武人の道徳的責任としてのことであって、近年の宣伝者がいうような思想を根拠としてのことではなかった。
 また第四には、学問的研究の結果として得られた明かな知識に背くものがあるので、その例は上に挙げておいた。スサノオの命がチョウセンに行ったというような話を事実とすることが、チョウセンの歴史の研究の結果から見ても許し難いものであり、シナの文化の淵源が日本にあるというような主張が、少しでもシナの文化とその歴史とを知っているものには笑うべきたわごとであることは、いうまでもあるまい。
 なお第五としては、常識に背いているということがだれにでも知られる、神代などの物語を上代の事実として信ずるということが、すでに常識に背くものであるが、何らかの主張を宣伝するために、それを利用することがらについては、例えばアマテラス・オオミカミを人であるとする如く、恣な解釈をそれに加えることによって或る程度に常識に背かないように説こうとするけれども、利用しないことがらについては、そういう解釈をしないから、それを事実とするのは常識を無視するものとしなければならぬ。君主の家の永久であるべきことが建国のはじめにおいて決定せられ、そうしてそれがそのとおりになった、というようなことが、歴史の常識をもっているものに承認せられないことは明かである。物語ではないが上代の多くの天皇が百歳以上の長寿であられたということを信ずるのも、同じことである。ジンム天皇の即位が二千六百余年前であることを事実とする以上、これもまた事実として考えられているとしなければならぬからである。天皇が現つ神であられるというのは上代人の思想としては事実であったけれども、今日でもそうであるというのは、やはりこの類のこととしなくてはなるまい。
 ところが、この最後にいったことは、近年の恣な主張をするものの態度の二つの方面を示すものとして注意せらるべきである。それは、皇室もしくは国家の本質に関することがらは、第一に、いにしえも今も同じである、あるいは同じでなくてはならぬ、ということ、第二に、学問的研究はもとよりのこと思慮を絶し常識を超越した信念であり、もしくはそうでなくてはならぬ、ということである。しかし第一のは歴史を、第二のは人の知性を、無視したものである。第一については、国体は永久不変であるということがいわれるであろうが、その国体の意義なり精神なり由来なりをどう考えるかということ、またその国体の実際の政治に現われる現われかたは、時代によって変って来ている。国民の生活は絶えず変化し、知識の広狭も思想の浅深も、また意欲し志向するところも、常に変化して来た。ただそれらがいかに変化しても、その変化した状態に常に適応するもの適応し得るものが永久不変なのであって、国体はこの意義において不変であったのである。政治の実際にあらわれたところについて見ても、権臣政治・摂関政治・院宣政治・幕府政治と、その形態は昔から幾度も変って来たにかかわらず、国体は変らなかったが、それは実は政治の形態がどう変ってもその変った形態が成立し存在し得るような国体だからのことであり、一層適切にいうと、政治の形態が変り得たがために国体が変らずに来たのである。古典に現われているような上代人の思想や上代の政治の形態が国体と離るべからざるものであるとすれば、こういうことはなくなる。国民生活の歴史的発展はその思想や活動のしかたやを変えてゆくが、国民が国民として生きているかぎり、その生活には歴史的発展があるはずだからである。そうして国民生活のこの歴史的発展において、国体が変らずに続いて来たという事実と、それを永久に続けようという志向とが、常に強いはたらきをして来たのである。
 また第二については、こういう宣伝によって皇室を神秘化しようとするのであろうが、知性が発達し常識が高められ、何ごとについても学問的の研究が要求せられている現代においては、それは事実できないことであるのみならず、これまでとても皇室の地位や権威やについていろいろの説明なり解釈なりがせられて来たので、神代の物語とてもその一つのしかたに外ならぬのである。そうしてこういうことを主張するものが、これまで人がいわず過去にはなかった虚妄な説を新に造作してそれを宣伝したことは、この二つの主張をみずから否認したものといわねばならず、それによってその主張の無意味であることが明かにわかるのである。天皇が現つ神であられるというのは、政治的権力が宗教的のものである(「あきつ神と大八嶋国しろしめす」)という意義のことであり、部族の首長の地位において政治的権力と宗教的権威との分化しなかった未開時代の多くの民族に共通な思想のうけつがれたものとして解し得られるので、日本がまだ多くの小国に分裂していた時代においても、その小国の君主の地位はみなそうであったらしく、日本全土の君主となられた皇室のみに特有のことではなかった。文化が進んで人が人としてすべきことを自覚し、政治が政治として独立のはたらきをする時代になると、こういう思想はおのずからその力が弱められて来るので、日本でも、中世以後には公文の上にもそれはほとんど現われなくなった。今日において常識あるものがそういう思想をもっていないことは、明かな事実である。上代人の思想における現つ神の観念とても、天皇が宗教的に崇拝せられる神であられるというのではないが、現代人にとってはなおさらであって、天皇の性質とその真の尊厳とは、天皇を人として見ることによってのみ明かになることは、いうまでもない。上代には祭政一致であったから今日でもそうでなければならぬ、というような主張が、現代において承認せられるはずのないものであることも、またこれと関聯して考えられるであろう。上代は祭政一致であったというのは、後世になっていい出されたことであって、それは、あるいは古典の記載を誤解したところから、あるいはことばの意義を明かにしなかったところから、またあるいは儒教思想による恣な臆説から、出たことであるから、そういう考そのものが実は上代の事実にあてはまらぬものであるが、政治に神の意志がはたらくものとせられ、従って政治の一つのしごととして神の祭祀が行われた、という意義でそれをいうにしても、それは、上代の思想と風習とであって、現代の政治には何のかかわりもないことである。(祭政一致ということについては数年前の雑誌『史苑』にのせた「マツリといふ語と祭政の文字」で考えておいた。)

 以上は、神代の物語や上代の歴史やに関する固陋な、または放恣な、主張についていったのであるが、これと同じような主張は、例えば大化改新とか南北朝の争とか下っては明治維新とかいう後代の歴史上の問題に関しても、また行われていたが、今はそれらにはふれないことにする。ところが、日本歴史の非学問的な解釈は、このような固陋な思想や近年における権力者の政略から出てはなはだしき私意を含んでいるもののみではなく、学者によって唱えられたものもある。それは学問的方法の理解の足らぬために生じたものであるが、そのうちには、エド時代から後のいろいろの学者の間にそういう解釈が行われていたため、世間にはかなり広く信ぜられるようになったものもあり、そうしてそれが結果においては、やはり世をあやまり人をあやまらせている。
 その二つ三つを挙げてみると、神代の物語を歴史的事実が譬喩の形でいいあらわされたものとするのが、その一つであって、タカマガハラは、天上の世界ではなくして地上のどこかの土地が天上にある如く語られたものであり、日の神たるアマテラス・オオミカミは日そのものではなくして実在の人物であるが、あるいはその徳が日の如く広大であるために、あるいは日を祭る任務をもっているために、日の神と称せられたのであり、いわゆる天孫降臨は皇室の御祖先が海外からこの国土に渡来せられたこと、またはこれまでこの国土に住んでいた民族とは違う別の民族(天孫民族)が新しくこの国土に来て土着の民族(出雲民族)を征服したことを語ったものである、というような考えかたがそれである。非合理的な物語を一々合理的な事実として解釈しようとする態度に知識人の共感をひいた点があるが、神代の物語はその本質としてもともと非合理的なものであるから、それを一々合理的に解釈しようとするのは、物語の解釈の学問的な方法ではない。第一に、何故にそういう解釈をしなければならぬかの理由が説明せられず、第二に、一々の物語のそういう解釈は確実な根拠がない恣意のものであるために、人によって相互に一致しない思い思いの解釈が加え得られるからである。特に天孫降臨を天孫民族というものの渡来のこととするような考えかたは、民族の異同や移住の径路などを考える学問的研究の方法を無視するものである。この場合に民族という語がどういう意義に用いられているか知らぬが、一般に民族といえば、長い間共同の生活をして来て同じ歴史をもっているために、言語や生活の状態やを同じくする一つの集団をさすのであり、従ってこれらの点で他の民族とはちがった特色のあるものをいうのであるが、それには他の民族と人種を異にする場合もあり、同じ人種の分派である場合もある。だから、民族の異同を考えるには、これらのことがらについての事実を精細に研究するのが学問的の方法であるのに、物語の上記の解釈にはこういう研究がせられていないのである。またこういう解釈のしかたは神代の物語を日本の上代史と見るものであるが、実はそれによって上代の歴史は何ごともわからない。こういう方法によって物語をどう解釈するにしても、日本の国家の成立の情勢、即ちいわゆるオオヤシマの全体がどうして皇室の統治の下に帰したかということも、そうなる前の日本の状態も、全く知ることができないのである。だから神代の物語の学問的研究は、こういう解釈のしかたとは違った方法によらねばならぬ。それは即ち非合理的な物語をそのまま非合理的なものとして、それにいかなる意味があり、いかなる思想が表現せられているか、またいかにしてそれが形づくられたか、を考察することでなければならぬのである。
 いま一つの例を挙げるならば、日本の国家は一家族のひろがったものである、皇室は宗家であって国民はその支族である、ということのいわれているのがそれである。これがもし、事実そうであるというのならば、それは事実としては決してあるべからざることである。一家族がひろがって一つの国民になったということがもしあるとすれば、それがためにどれだけの世代と年数とがかかるか、ということを考えてみただけでも、このことはわかろう。あるいはまた、事実そうであるのではなくして、そう考えることがむかしからの国民の信念であった、もしくは現代人の思想上の要請である、というのならば、それもまた全くの誤りである。こういう信念が上代にあったらしい形迹けいせきは古典のどこにも見えていないし、現代における国家は家族とは全く性質の違ったものであることが何人にも明かに知られているからである。『古事記』や『日本紀』に見えている諸家の系譜には朝廷の貴族や地方の豪族の祖先やが、神代の神や後の皇族であるように記されているが、よしそれが事実であるとするにせよ、この系譜は一般民衆とは関係のないことであるのみならず、貴族や豪族やの祖先についてのこういう系譜は事実を記したものでなく、彼らがそれぞれその家がらを尊くしようとするために作られたものであることは、神代の神の性質や皇族の名やまたはこういう系譜そのものやを、少しくきをつけて考えて見れば、すぐにわかることである。だからこういう考えかたで日本の国家の性質を説明しようとするのは、何の根拠もないことである。また上代とても国家の政治には権力がなくてはならなかったので、その権力が家族を統制するのとは全く性質のちがうものであったことは、歴史上の事実によって明かであるのみならず、神代のイズモ(出雲)平定とかジンム天皇の東征とかいう物語の上にさえもあらわれている。だから日本の国家が家族国家であるというような考は、その本質のちがっている二つの生活形態である家族の結合と政治的権力による国家の統治とを混同したものである、といわねばならぬ。この思想はエド時代までは全くなく、メイジ時代になってはじめて世間に宣伝せられたものであって、日本が新に世界の多くの国家の間に立ってその地位を守ってゆくには、内部における国民的結合を固くしなければならぬために、その思想的根拠として思いつかれたことであるらしく、何ら学問的の研究を経たものではない。
 なおこの思想と関聯して、『日本紀』にユウリャク(雄略)天皇の詔勅として記されているもののうちにある「義乃君臣、情兼父子」の語に日本の皇室と国民との関係の特色が示されているように説くことも行われているが、この詔勅というものは『隋書』高祖本紀に見えている高祖の遺詔を殆どそのままに写しとったものであり、そうしてその君臣というのは、君主とその君主から俸禄を与えられてそれに奉仕する官人との関係をいったのであり、民衆には全く関係のないことである。日本でも、君臣という語はそれと同じ意義に用いられていたので、臣は民のことではなく、ウマヤド(厩戸)皇子の作といわれているいわゆる十七条の憲法にも、臣と民とは明かに区別せられている。皇室と国民とを君臣という語でいいあらわすことは、エド時代の末期まではなく、メイジ時代になってから次第に世に行われるようになったが、これは語義が変じたものとして解し得られよう。武士の社会がくずれてその社会組織の骨ぐみになっていた君臣関係というものがなくなった時代に、そのもとの意義が忘れられて、こういう変化をきたしたのであろう。従って皇室を君としてそれに対していう場合の臣と民との区別はなくなり、帝国憲法にも臣民という一つの称呼が用いてある。今でも宮廷では、旧くからの風習により或る地位をもっているものが臣と称することがあるらしいが、一般の用例ではない。
 話はわきみちへ入ったが、もとへもどっていうと、上記の『日本紀』に見える君臣の語の意義は明かであり、『隋書』において臣の語が民の義に用いてないことはいうまでもないから、上に引いた辞句によって日本の上代の国家が家族的精神によって統治せられていたように説くのは用語の意義を考えず、近ごろになって用いはじめられた意義でそれを解するところから来たものであり、そこにこういう考の学問的でないところがある。古典の用語は古典時代の意義によって解するのが、学問的の方法だからである。もっともシナには、天子は民の父母というような語もあるので、それがこの場合に思いよせられているのかも知れぬが、これは天子に対して民を慈愛すべきことを教えたことばであり儒教思想から出た考であるので、いわゆる天子によって統治せられることになっているシナの政治形態の本質がここにあるというのではない。シナでも儒教思想に反対する学派ではこういうことを説いてはいない。もしこの語をそのように解し、そうしてそれによってシナの政治は家族的であるとするならば、家族的精神で国を治めることは日本の特色ではないことになるが、もともと日本の皇室の政治が家族的精神によって行われたというのは、日本の国家の特色をそれによって示そうとするのであるから、こういう考はそれと背反する。然るにこういうことがいわれるのは、日本とシナとを混同する考の上に立っているので、その考は『日本紀』をはじめとして日本の古典に漢文を用いるシナ思想によって書かれたものが多いところから、それと日本の現実の状態とを弁別することなしに、みだりに何ごとかを主張するためである。そうしてそこにも、こういう考が、古典の文字と思想との精細なる検討を基礎ともしなければならぬ学問的研究を無視したものであることが、示されている。

 後世の思想で上代の状態を推測し、それが建国の初めから定まっていたことのように考える場合は、このほかにもなおいろいろあるので、皇室の万世一系であるのは国民的信念であったというようなことのいわれているのも、その一つである。一般国民が何らの政治的地位をもっていず、その文化その思想が低級であった状態から考えると、上代の政治において国家の形態についての国民の意見というようなものがはたらいていたとは考えられず、国民がそういう意見をもっていたということすらうべなわれないことである。民衆が中央の貴族及び地方の豪族、即ちいわゆる伴造国造に分領せられ、すべての生活がそれによって規制せられていた上代において、このような特殊のことがらに関し、すべての国民に共通な意見などがあったはずはないからである。現代の国民一般の間に存在するこういう信念は、長い歴史によって養われ、従って後世になって次第に形づくられて来たものであるのみならず、それが強くも明かにもなったのは現代の学校教育によって教えこまれた結果である。エド時代までは知識人(少数の儒者を除く)においてそれが考えられていたけれども、一般の民衆はこういうことについて深い関心をもたなかった。
 あるいはまた神社についても同じようなことがある。これについては世間に二つの誤った見解が行われているので、その一つは神社は古人を祭ったものであるということ、一つは神社の本質は道徳的意義のものであって宗教的意義のではないということである。現実に生きていた人を神として祭るということは、上代にはなかったので、それは中世のころからはじまり、エド時代になってやや広く行われ、メイジ時代に至って一種の流行となったものであるが、それには儒教思想に由来するところが多く、仏者の習慣によって助けられた点もある。宮中に皇霊殿こうれいでんの設けられたのも明治四年のことである。それを上代からの風習のように思うのは、上代の宗教思想を学問的に研究しないからのことである。また神社の祭神が上代から宗教的崇拝の対象であったことは、明かな事実であるので、それは神社において何ごとが行われたかを古典によって考えるだけでも明かなことであるが、祭祀の儀礼に報本反始ほうほんはんしとか追孝とかいうような道徳的意義を附会した儒教思想に誘われて、日本の神社の崇敬をもそういう思想の表現のように説きなすものが、近代には生じたので、それには神を古人とするのと関聯して考えられた場合もある。なお近年になって神社の崇敬に国家的意義がある如く宣伝せられて来たが、民俗としての神社の崇敬には昔から、事実として、そういうことはなかった。イセ(伊勢)神宮のみは特殊な由来の語られている皇室の祭祀であり、天皇が国家の元首であられる点において、この神宮の祭祀に国家的意義が含まれてはいたが、もとは民衆の祭祀の対象ではなかったし、近代に至りその崇敬が民衆化せられるようになると、その民衆の崇敬には国家的意義は含まれていなかった。神の祭祀が政治の一つのしごととして行われたことは上代の風習であったが、それは朝廷のこと治者の地位に立ってのことであって、一般民衆の関することではなかった。それを国民全体のことででもあったように説くのは、近年にはじまったことを上代からのことのようにいいなすのである。神社についても神の崇敬祭祀についても、時代によって変化があり、権力者の態度行動と、学者の講説と、一般の民俗や民衆の心理とは同じでないのに、そういうことを細かに考えず、上代も今のようであったとし、民俗も学者の講説と同じであるように思うのが、世間には例の多いことである。そうしてそれもまた、歴史についての学問的研究による正しい知識が一般世間に与えられていないことを示すものである。
 なお一つ挙げて置くべきは、上代の政治は天皇の親政(すべての政治が天皇の意志から出、天皇が大小の政務をみずから執られるという意義でいう)であった、ということが一般に信ぜられていたらしいが、それは事実ではない、ということである。文献によって知ることのできない時代のことはわからぬが、皇室が皇室として統治者の地位につかれたはじめには、多分、親政のような状態であったろうとは推測せられる。いかなる場合にか有為の君主が出てその権力をうち立てられたのでなければ、皇室として存在せられるには至らなかったにちがいなく、そうしてそういう君主の事業は君主みずからから出たものであろうと考えられるからである。しかし文献によって知ることのできる時代になると、天皇がみずから政治の局に当られたことは殆どないといってよい。政治に関する歴史的事実のいくらかがほぼ知られるのは、早くとも四世紀の末もしくは五世紀ごろからのことであるが、六世紀の終に近いころにおいてはソガ(蘇我)氏が実権をもっていて、その権力の強くなった時には、日本で最初の女性の天皇が位にかれ、政治に参与せられたろうと推測せられるウマヤドの皇子は天皇とはなられなかった。ソガ氏が亡びた後にいわゆる大化の改新が行われたが、その主動者の一人であり政務を統率せられたナカノオオエ(中大兄)皇子も、長い間、天皇の位に即かれなかった。これには天皇みずから政治の局に当られることの不便な事情があったからのことであるらしく、政治の実務を執られなかったことの明かな女性の天皇が位にあってもそれで少しも支障がなかったのも、唐にならって定められた大化の後の官制において支那にはない太政大臣という官の設けられたのも、この故のことと解せられる。そうしてそれはソガ氏の権力を得たよりも前からの因襲であり、ソガ氏の前にはどの家かが実権をもっていたのであろう。どうして上代にそういう風習が生じたのかは問題であるが、事実そうであったと見なされる。テンム(天武)天皇の時は親政であったかと思われるが、ジトウ(持統)天皇の時はもはやそうではなくなり、それから後はおおむねフジワラ(藤原)氏などの権家けんかが実権をもつようになった。上代は天皇の親政であったというのは、エド時代の末にトクガワ(徳川)氏が実権をもっていることを非とするところからいい出されたことであって、歴史上の事実を明らめた上の考ではない。

 こういう二、三の例のように、必ずしも権力者の恣な主張や固陋な思想やから出たものとはいわれないけれども、歴史上のたしかな事実にもとづかない考がいろいろあり、そうしてそれらはみな学問的方法によって歴史を研究しないところから生じたものである。その学問的方法をここで説明がましくいうには及ばず、またそういうことをすべき場合でもないが、ただ次のことだけはいっておくべきであろう。
 それは、学問的に古典を取扱うには、古典の用語文字の意義をこまかに考え、その意義のままに、それを解釈すべきであって、その間に私意を交えてはならず、上代人の述作は上代人の思想によってそれを理解すべきであって、後世の思想でそれを見てはならぬこと、これが第一の用意であるということ、――こういう用意の下に古典に記されている神代の物語を見れば、それはどこまでも物語であって上代史ではないことがわかるということ、――物語はその作られた時代における作ったものの思想の表現であるところにその意味と価値とがあって、それは上代の或る時期における政治や文化やの状態、特に皇室及び国家に関する思想を知るための貴重なる史料であるということ、――ジンム天皇の東征ならびにそれより後のこととして記紀に記されている種々の物語も、また神代のと同じであるということ、――神代の物語が記紀の巻首にあり、外観上、歴史的事実の記録のごとく見える部分のあるいわゆる人代についての記載の前に置かれそれと連接しているために、神代を学問の上で先史時代と呼ばれている時代と同じもののように考える通俗の見解があるらしいが、それは全くのあやまりであって、神代は歴史時代の或る時期に思想の上で構成せられたものであり、現実に存在したものではないのに、先史時代はそれとは違って、現実にわれわれの祖先が閲歴して来た過去の時代であるということ、――物語は物語としての性質上、非合理的なことがらが多く語られているから、その一々を合理的なことがらとして解釈すべきではないということ、――真の上代史を知るにはこれらのことを明かに認識してそこから出発しなければならぬということ、などである。
 わたくしの考によれば、神代の物語の根幹となっているものとジンム天皇以後のこととして記されている物語の主要なものとは、六世紀の前半のころにヤマト(大和)の朝廷において作られたものであって、その時代の治者階級の思想がそれに表現せられているから、そこに上代思想史の史料としての大なる価値がある。神代の物語などが歴史的事実を記したものでないということから、それを無価値のものとしてしりぞけるのは、大なる誤である。普通に事実といわれるのは外部に生起した何らかの事件をいうのであるが、思想が実は歴史的存在であり大なる歴史的事実である。ところで歴史の研究には史料がなくてはならず、そうして厳密なる学問的方法によるその史料の批判の結果、確実なものと認められる歴史的事実の記載を基礎としなければならぬが、上代史のごとき史料とすべき文献の乏しい時代のことについては、よしその史料に確実なものとすべき歴史的事実の記載があっても、それだけでは歴史を知るに必要な多くの事実がわかりかねる。従って上代史の研究には文献だけでは知ることのできない学問上の知識、例えば日本及びその周囲の民族に関する考古学・民俗学・言語学などの研究の結果が重要なるやくわりをもっていること、またシナ及び半島の歴史の研究によって知られたことが大なるはたらきをするものであることに、特に注意しなければならぬ。日本の国家の形成せられた情勢やその時代やそのころの文化の状態やの或る程度に知られるのは、シナの史籍があり、それが史料として用い得られるからのことである。
 しかし史料は史料であって歴史ではない。史料はそれがいかに豊富である場合でも、われわれが知ろうとする歴史上の事実のすべてにわたる知識を供給するものではない。必ず足らぬところがあり必ず欠けているところがある。史料の多くは偶然後世に残ったものであって、残らないものの中に史料とすべき貴重なものがあったはずであるし、よし昔書かれたものが少しも亡くならずに今に残っているという、実際には決してあるべからざることを、あるように想像するにしても、その筆者の考は今日のわれわれの知識上の要求とは違っていたために、われわれの知ろうとすることがそれに記されているとは限らないからである。後世に残すために編纂せられたものにおいてはなおさらであって、編纂者によって棄て去られたことにわれわれの要求するものの多いのが実際の状態である。あるいはまた史料たる文献が人の記録したものである以上、そうして人の観察や思想やはその能力や性癖や地位や境遇やによっておのずから規制せられるものである以上、その記録には必ず偏するところがあり必ず僻するところがあり、またその多くは何らかの誤謬を含んでいるのが普通の状態である。なお記録者や編纂者が何らかの意図によって故意に事実を曲げまたは虚構の記事を作る場合も甚だ多い。そこで史料の批判が必要になるのである。批判というのは、その記載が歴史的事実であるかないかの弁別のみではなく、その文献が何時いついかにして何人によって書かれ、その述作の精神と動機と目的とがどこにあるかを明らかにすることであるので、それについては偏僻や誤謬や虚構やがやはり一つの歴史的事実であることが考えられるのである。
 また史料は一つ一つのことがらについての知識を供給するのみであって、歴史の推移発展の径路や情勢やを、即ち歴史そのものを、示すものではない。だからそれを知ろうとするには史料の外の何ものかがなくてはならぬが、それは即ち歴史家の識見と洞察力と構成の能力とであって、それによって歴史が初めて形づくられるのである。歴史を研究するということは、この意味で歴史を構成することである。のみならず、歴史の研究には、先ず一つ一つの事実を明かにし、さて後その明かにせられた多くの事実を全体の推移発展の系列として構成するという一面があると共に、その推移発展の情勢がおおよそに考えられていなくては一つ一つの事実が明かにせられないという他の一面がある。いかなる事実も単独なもの孤立したものではなく、長い歴史のうちの一つの過程だからである。この両面の間の交渉は歴史の研究においてすこぶる微妙なものであるので、そこに歴史家のはたらきがあり、その個性の現われるところもある。歴史はこのようにして個性のある歴史家によって始めて構成せられ形づくられるものであって、上代史とてもまた同様であり、『古事記』や『日本紀』はかかる歴史を構成するための資材を供給する史料の一部分をなすものである。記紀は歴史ではなくして史料である。史料だけでは歴史はわからず、記紀だけによって上代史を明かにすることはできぬ。

 歴史の学問的研究の方法についてこのように考えて来ると、ここにぜひともいい添えておかねばならぬことがある。この論稿のはじめに科学的研究という語を史学の学問的方法による研究という意義に解するといったが、特に科学という語の用いられていることについては、別に注意すべき点があるからである。
 科学という語が用いられると、何となく自然科学が思い出される傾向があるが、もし歴史の研究の方法もしくは態度が自然科学のそれと同じであるように考えられるならば、それは大なる誤である。勿論、自然科学に対して文化科学とか精神科学とかいうような語が作られているのでも知られる如く、科学が自然科学のみをさすものでないことは、普通に知られているであろうが、同じく科学と呼ばれるために、研究の対象は違っていてもその方法は同じであるように、ともすれば思われがちなのが一般のありさまではなかろうか。対象が違えばそれを取扱う方法もそれにつれて違わねばならず、史学の対象は自然界の事物とは違って情意あり思慮ある人の生活であるところにその特殊性がある。かつて歴史科学という語が一時或る方面で流行したことがあるが、この語を用いた人々の歴史の取扱いかたは、よしそれが自然科学者の自然界の取扱いかたと同じではなかったにせよ、史学の研究法としては適切でないところが多かったようである。それを今ここでならべあげるつもりはないが、例えば上代史を考えるについても、記紀の記載をそのままに、あるいはそれに恣な解釈を加えて、上代の普通にいう、歴史的事実を記録したものと見なし、それによって何らかの見解を立てることが行われていたようである。が、もしそうならば、これは記紀の記載を史料と見てその史料の批判をすることを忘れたものである。こういう態度は、実は、史学の研究の方法の明かにせられなかった時代の過去の学者、もしくはかの固陋な主張をもっていたものの態度と同じであり、畢竟ひっきょうそれをうけついだものに外ならぬ。違うところはただ、別に社会組織経済機構の歴史的変遷についての一種の思想的規準をもっていて、それにあてはめて上代史を解釈しようとした点にあるのみである。そうしてその点に、考えかたとしては、自然科学のそれから導かれたところのある側面もあるように見うけられた。
 そこで、歴史の科学的研究という語を用いるならばその研究について、次のことを注意しておきたいと思う。歴史は国民の生活の過程であり、国民の生活は過去に作り出して来た、あるいは過去によって与えられた状態のうちにありながら、現在の生活の要求によってそれを変化させ、未来に向って新しい状態を作り出してゆくものであり、そこに国民の意欲と志向とがはたらくのであるから、歴史の研究は過去の生活の展開の必然的な径路を明かにするのみならず、その径路そのものにおいて、この自由な志向と、どうしてそれが生じたかの由来と、どうそれがはたらいて来たかの情勢とを、究めることが必要であるということ(ここに昔からむつかしい問題とせられた自由と必然との交渉がある)、――一国民の生活には歴史の養って来たその国民の特殊性のあること、――この特殊性とても歴史的に絶えず変化して来たものでありまた変化してゆくべきものであって、そこに生活の意義があるが、特殊性がありまたそれの生ずるのを否認すべきではないということ、――歴史の研究の任務は生活の進展の一般的な、人類に普遍な、法則を見出そうとするところにあるのではなくして、国民の具体的な生活のすがたとその進展の情勢とを具体的なままに把握し、歴史としてそれを構成するところにあるということ、従ってその研究の道程においても、何らかの一般的な法則や公式やを仮定してそれを或る国民の生活にあてはめるというような方法をとるべきでないということ(古典の記載を無批判に承認しながら、それにこういう公式を結びつけるのは、二重の錯誤を犯すものである)、――生活の進展に人類一般の普遍的な径路があることを必ずしも、否認しようとするのではなく、またそういうことを研究するいろいろの学問、例えば人類一般を通じての考古学なり経済学なり民俗学なり宗教学なり神話学なりの成立を疑うのでもなく、却ってこれまで研究せられたこれらの学問の業績が、例えば日本のにおけるが如く、或る特殊の国民の生活の状態を考えるに当って大なるはたらきをすることを主張しようとするのではあるが、それらの業績は現在においてはなお不完全なものであり偏するところの多いものであるから、それを用いるには用いる方法があるべきことを知らねばならぬということ、――人の生活には多方面がありそれらが互にはたらきあって一つの生活をなすものであるから、そのうちの一、二をとって基礎的のものとし他はそれから派生したものと考えるのは僻見であるということ、――過去の史学者の深く注意しなかった社会史・経済史の研究が行われるようになったのは、もとより喜ぶべきことであり、それによって人の生活に一層深き理解が与えられ歴史に新面目が開かれることを承認すべきではあるが、それだけで歴史の全体もしくは真相が明かになるのではないということ、――歴史の科学的研究という語には誤解が伴いやすいから、これだけのこともいっておくのである。もしこの語を用いることによって史学の本質に背き歴史研究の学問的方法に背くような考えかたが流行するようにでもなるならば、過去の学者によって日本人の生活とその歴史とに誤った解釈が加えられたのと、解釈そのものは違いながら、同じような結果とならぬにも限るまい。のみならず、学者の態度によっては、その世間一般に及ぼす影響において、かの固陋な放恣な主張の宣伝せられたのと、似たようなことが起らぬとはいいかねるかも知れぬ。

底本:「津田左右吉歴史論集」岩波文庫、岩波書店
   2006(平成18)年8月17日第1刷
底本の親本:「世界 三」
   1946(昭和21)年3月
初出:「世界 三」
   1946(昭和21)年3月
入力:坂本真一
校正:門田裕志
2012年5月22日作成
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