されどかくいふは故意ならぬ、即ち知らず識らずして陥れる偏頗に対するものにして、多少これを恕せむとするもまた已むを得ざるに出づといへども、もし為にする所ありて、故らに偏私の言をなすものあらば、われらは断じて之を詰責せざるを得ず。殊に公平を第一義とする史学に喙を容るるものに在りては、この点において最も厳格ならむことを要す。今の仏教史を口にするもの、よく此の如きなきを必し得るか。われらはいま一々世上の史論を捉へ来りて之を議するの遑なしといへども、概していはば、今の仏教史家と称するものが、故意の偏私をその間に挟まんとする傾向あるは、ここに断言を憚らざる所なりとす。いはゆる「誤魔化し」の手段は今の史家においてわれらが往々認むるところなり。
思ふに我が邦の歴史が一に国学者もしくは儒者の手に収められたりし時代にありては、その仏教に関するものは概ね圏外に抛擲せらるるに非ざれば、すなはち過度もしくは見当違ひの非難を受くるに過ぎざりしが、近時新史学の研究せらるるに及びて、次第にその偏見なりしを発見し、史上の事実も漸くその真相を看破せられて、久しく奈落の底に堕落せられたりし仏教もまた地平線上に現出するに至りたれば、その状恰かも仏教累世の仇敵たる史学が一朝その方向を転じて我が味方となりたるが如く感ぜられ、仏教家なるもの頗る得意の色を現はし、あるいは更にこの機に乗じて仏教を九天の上に昇らしめんと勉むるに至りぬ。国体も仏教の擁護によりて鞏固なりき、忠孝の思想は仏教の涵養によりて堅実となれり、仏教は文学を生み、美術を生み、その他の学術の進歩に与かりて甚だ力ありきとは、今の仏教史家の口癖なるが如し。げに仏教が我が国文明の一要素となり、またその影響が社会の全般に行きわたれるは何人も争ふべきに非ずといへども、仏教とて必ずしもかくの如く善き側をのみ有するには非ず、その政治上・社会上に及ぼせる弊害また決して浅少といふべからざるものあり。いはゆる仏教史家は、何すれぞこれを顧みずして彼のみを誇称し、あるいは時に彼を以てこれを蔽塞せんと勉むるが如き女々しき挙動をかなす。人ややもすればすなはち護法と称するも、此の如き苟且の手段に依るに非ざれば以て仏教を保護する能はずとせば、保護したりとて何の効かあらむ。もし仏教の価値にして永世滅せず、機に応じてますます顕揚せらるべきものなりとせば、区々たる曲庇遂に何するものぞ。かつて一たび史家の為に地獄に落とされし仏教の新たに娑婆に還りたるを思へば、卿らが軽挙して天上界に浮かばせんと勉むるものも、遂には再び下界に沈み来るべし。われら頃日二、三の仏教史論を読み、その公平の見を欠くを歎じ、一言以て仏教史家といふものに贈る。
底本:「津田左右吉歴史論集」岩波文庫、岩波書店
2006(平成18)年8月17日第1刷発行
底本の親本:「密厳教報 一六六」
1896(明治29)年8月
初出:「密厳教報 一六六」
1896(明治29)年8月
※初出時の署名は、小竹主です。
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:坂本真一
校正:小林繁雄
2011年12月22日作成
2012年4月7日修正
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