マニラをバギオに結ぶベンゲット道路のうち、タグパン・バギオ山頂間八十〔キロメートル〕の開鑿は、工事監督のケノン少佐が開通式と同時に将軍になったというくらいの難工事で、人夫たちはベンゲット山腹五千〔フィート〕の絶壁をジグザグに登りながら作業しなければならず、スコールが来ると忽ち山崩れや地滑りが起って、谷底の岩の上へ家守やもりのようにたたき潰された。風土病の危険はもちろんである。起工後足掛け三年目の明治三十五年の七月に、七十万ドルの予算をすっかり使い果してなお工事の見込みが立たぬいいわけめいて、
「山腹は頗る傾斜が急で、おまけに巨巌はわだかまり、大樹が茂って、時には数百〔メートル〕も下って工事の基礎地点を発見しなければならない。しかも、そうした場所にひとたび鶴嘴を入れれば、必ず上部に地滑りが起り、しだいに亀裂を生じて、ついにはこれが数千米にも及ぶ……。」
 云々という技師長の報告が米本国の議会へ送られた時には、土民の比律賓〔フィリッピン〕人をはじめ、米人・支那人・露西亜人・西斑牙〔スペイン〕人等人種を問わず狩りあつめられていた千二百名の人夫は、五米の工事に一人ずつの死人が出るありさまに驚いて、一人残らず逃げだしていた。
 工事監督が更迭して、百万ドルの予算が追加された。新任のケノン少佐は、さすがにこれらの人種の恃むに足らぬのを悟ったのか、マニラの日本領事館へ邦人労働者の供給を請うた。邦人移民排斥の法律を枉げてまでそうしたのは、カリフォルニヤを開拓した日本人の忍耐と努力を知っていたからであろうか。日本は清国との戦いにも勝っていた……。
 第一回の移民船香港丸が百二十五名の労働者を乗せてマニラに入港したのは、明治三十六年十月十六日であった。
 股引、腹掛、脚絆に草鞋ばき、ねじ鉢巻の者もいて、焼けだされたような薄汚い不気味な恰好で上陸した姿を見て、白人や比律賓人は何かぎょっとし、比人労働組合は同志を糾合して排斥運動をはじめ、英字新聞も書きたてた。
 それを知ってか知らずにか、百二十五名の移民はマニラで二日休養ののち、がたがたの軽便鉄道でタグパンまで行き、そこから徒歩でベンゲットの山道へ向った。牛車カルトンを雇って荷物を積みこみ、山を分けはじめるのだが、もとより旅館はなく、日が暮れるとごろりと野宿して避難民めいた。鍋釜が無いゆえ、飯は炊けず、持って来たパンは大方蟻に食い荒されて、おまけにひどい蚊だ。
 そんな苦労を二晩つづけて、やっと工事の現場へたどり着いてみると、断崖が鼻すれすれに迫り、下はもちろん谷底で、雲がかかり、時には岩を足場に作業して貰わねばならぬと言う。こんなところで働くのかと、船の中ではあらくれで通っていた連中でさえ、あっと息をのんだが、けれど、今更日本へ引きかえせない。旅費もなかった。石に噛りついてとはこの事だと、やがて彼等は綱でからだを縛って、絶壁を下りて行った。そして、中腹の岩に穴をうがち、爆薬を仕掛けるのだ。点火と同時に、綱をたぐって急いで〔よ〕じ登る。とたんに爆音が耳に割れて、岩石が飛び散り、もう和歌山県の村上音造はじめ五人が死んでいた。間もなくの山崩れには、十三人が一度に生き埋めになった。十一月には、コレラで八人とられた。
 死体の見つかったものは、穴を掘って埋めたが、時には手間をはぶいて四五人いっしょに一つの穴へ埋めるというありさまだった。坊主も宣教師も居らず、線香もなく、小石を立てて墓石代りの目じるしにし、黙祷するだけという簡単な葬式しか出来なかったのは、ひとつには毎日の葬式をいちいち念入りにやっていては、工事をするひまが無くなるからでもあった。
 そんな風にだんだんに人数が減って行き、心細い日日が続いたが、やがて、第二回、第三回……と引続いて移民船が来て、三十六年中には六百四十八名が、三十七年中にはほぼ千二百名がマニラへ上陸し、マニラ鉄道会社やマランガス、バタアン等の炭坑へ雇われる少数を除き、日給一ペソ二十五セントという宣伝に惹かれて殆んど全部ベンゲットへ送られて来た。内地では食事自弁で、五六十銭が勢一杯だった。一ペソは一円に当る。なお、ベンゲットでは、食事、宿舎、医薬はすべて官費だというのだ。
 けれど、来て見ると、宿舎というのは、竹の柱に草葺の屋根で、土間には一枚の敷物もなく、丸竹の棚を並べて、それが寝台だというのである。蒲団もなく、まるで豚小屋であった。
 食物もひどかった。虫の喰滓のような比島米で、おまけに鍋も釜もない故、石油缶で炊くのだが、底がこげついても、上の方は生米のまま、一日一人当り一封度〔ポンド〕四分ノ三という約束の量も疑わしい。副食物は牛肉又は豚肉半斤、魚肉半斤、玉葱又は其の他の野菜若干量という約束のところを、二三尾の小鰯に、十日に一度、茄子が添えられるだけであった。
 たちまち栄養不良に陥ったが、おまけに雨期になると、早朝から濡れ鼠のまま十時間働いてくたくたに疲れたからだで、着がえもせず死んだようになって丸竹の寝台に横わり、一晩中蚊に食われているという状態ゆえ、脚気で斃れる者が絶えなかった。三十七年の、七、八、九の三ヶ月間に、脚気のために死んだ者が九十三人であった。マラリヤ、コレラ、赤痢は勿論である。
 契約どおり病院はあった。が、医療設備など何ひとつなく、ただキナエンだけは豊富にあると見えて、赤痢にもキナエンを服まされた。なお、粥は米虫の死骸で小豆粥のように見えるというありさま故、入院患者は減り、病死者がふえる一方であった。
 すべては約束とちがっていたのだ。こんな筈ではなかったと、鶴田組の三百名は到頭人夫頭といっしょに山を下ったが、雇われるところといってはマラバト・ナバトの兵営建築工事か、キャビテ軍港の石炭揚げよりほかになく、日給はわずかに八十セントで、うち三十五セントの食費を差引かれるようではお話にならず、比律賓の空家にはいりこんで自炊しながらの煎餅売りも乞食めく。良い思案はないものかと評定していると、関西移民組合から派遣されて来たという佐渡島他吉が、
「言うちゃなんやけど、今日まで生命があったのは、こら神さんのお蔭や。こないだの山崩れでころッとてしもたもんやおもて、もういっぺんベンゲットへ帰ろやないか。ここで逃げ出してしもてやな、工事が失敗すかたんになって見イ、死んだ連中が浮かばれん。わいらは正真正銘の日本人やぜ。」
 と、大阪弁で言った。すると、
「そうとものしうららはアメリカ人や、ヘリピン人や、ドシャ人の出来なかった工事こうりを、立派じっぱにやって見せちゃるんじゃ。うららがマジダへ着いた時、がやがや排斥さらしよった奴らへ、おんしやら、この工事こうりが出来るかといっぺん言わな、日本人であらいでよ。」
 と、言う者が出て、そして、あとサノサ節で、
「一つには、光りかがやく日本国、日本の光りを増さんぞと、万里荒浪ね、いといなく、マニラ国へとおもむいた。」
 と、うたいだすと、もう誰もベンゲットへ帰ることに反対しなかった。
 そうして、元通り工事は続けられたが、斃れた者を犬死にしないために働くという鶴田組の気持はたちまち他の組にも響いて、何か殺気だった空気がしんと張られた。屍を埋めて日が暮れ、とぼとぼ小屋に戻って行く道は暗く、しぜん気持も滅入ったが、まず今日いちにちは命を拾ったという想いに夜が明けると、もう仇討に出る気持めいてつよく黙黙と、鶴嘴を肩にした。鉛のように、誰も笑わず、意地だけで或る者は生き、そして或る者は死んだ。
 三十七年の十月のある夜、暴風雨が来て、バギオとは西斑牙語で暴風のことだと想いだした途端に、小屋が吹き飛ばされ、道路は崩れて、橋も流された。それでも、腑抜けず、夜が明けると、死骸を埋めた足で直ぐ工事場へ濡れ鼠の姿を現わした。
 全長二十一〔マイル〕三十五のベンゲット道路が開通したのは、香港丸がマニラへ入港してから一年四ヶ月目の明治三十八年一月二十九日であった。千五百名の邦人労働者のうち六百名を超える犠牲者があったと、開通式の日に生き残った者は全部泣いたが、やがて、バギオにサンマー・キャピタル(夏の都)がつくられて、ベンゲット道路がダンスに通う米人たちのドライヴ・ウエーに利用されだしたのを見聴きすると、転げまわって口惜しがり、佐渡島他吉はマニラの入墨屋山本権四郎の所へ飛び込んだ。
 そうして、背中いっぱいに龍をあばれさせた勢いで、金時氷や清涼飲料を売るモンゴ屋には似合わぬ凄みを、マニラじゅうに利かせ、米人を見ると、
「ベンゲット道路には六百人という人間の血が流れてるんやぞオ。うかうかダンスしに通りやがって見イ。自動車のタイヤがパンクするぞオ。帰りは、こんなお化けが出るさかい、眼ェまわすな。」
 と、あやしい手つきをしてお化けの恰好をして見せた途端に、いきなり相手の横面を撲り、「文句があるなら、いつでも来い。わいはベンゲットの他あやんや。」
 それで、いつか「ベンゲットのあやん」と綽名がつき、顔は売ったが、そのため敬遠されて商売のモンゴ屋ははやらなかった。国元への送金も思うようにならず、「お前がマニラにいてくれては……」困る旨の話も有力者の口から出たので、内地へ残して来た妻子が気になるとの口実で、足掛け六年ののち、大阪へ帰ると直ぐ俥夫となり、からだ一つを資本に年中白い背広の上着を羽織って俥をひき、「ベンゲットの他あやん」の綽名はここでも似合った。
 そうして、十年経ち、大正七年の春、娘の初枝はもう二十一歳、町内のマラソン競争で優勝した桶屋の職人を見込んで婿にしたが、玉造で桶屋を開業させたところ、隣家から火が出て、開業早々丸焼けになった。げっそりして、蒲団をかぶってごろごろしながら、
「冷やし飴でも売りに歩かな仕様しやない。えらい騒動や。」
 と、心細い声を出しているのを、他吉は叱りつけて、
「お前みたいな気では、飴がくさってしまう。それとも、よっ程冷やし飴が売りたけりゃ、マニラへ行ってモンゴ屋商売をせエ。マニラは年中夏やさかい、金時(氷)や冷やし飴売っても結構商売になる。人間はお前、若い時はどこいなと遠いとこい出なあかんぜ。お初はわいが預ってやるさかい。」
 そんな時、泣いて止める筈の女房が五年前に死んでいたのを倖い、無理矢理説き伏せて、マニラへ発たせた。
 他吉は娘の初枝とふたりで神戸まで見送りに行ったが、「わいもこの船でいっしょに……」行きたい気持を我慢するのに、余程苦労した。その代り、銅鑼〔どら〕が鳴るまで、ベンゲットの話をし、なお、
「アメリカ人の客には頭を下げんでもええぞ。毎度おおけにと頭が下りかけたら、いまのベンゲットの話を想い出すんやで。歯抜きの辰に二円返しといてや。」
 と、言った。
 初枝は新世界の寄席へ雇われて、お茶子をした。

 そこは貧乏たらしくごみごみとして、しかも不思議にうつりかわりの尠い、古手拭のように無気力な町であった。
 角の果物屋は何代も果物屋をしていて、看板の字は主人にも読めぬくらい古びていた。酒屋は何十年もそこを動かなかった。銭湯も代替りしなかった。薬局もかわらなかった。よぼよぼの爺さんが未だに何十年か前の薬剤師の免状を店に飾って頓服を盛っているのだった。もぐさが一番よく売れるという。八百屋の向いに八百屋があって、どちらも移転をしなかった。隣の町に公設市場が出来ても、同じことであった。一文菓子屋の息子はもう孫が出来て、店にぺたりと坐って一文菓子を売るしぐさも、何か名人芸めいて来た。散髪屋の娘はもう三十二才で、嫁に行かなかった。年中一つ覚えの「石童丸」の筑前琵琶を弾いていた。散髪に来る客の気を惹くためにそうしているらしく、それが一そう縁遠い娘めいた。相場師も夜逃げしなかった。落語家はなしかも家賃を五つためて、十年一つ路地に居着いていた。
 路地は情けないくらい多く、その町にざっと七八十もあろうか。いったいに貧乏人の町である。路地裏に住む家族の方が、表通りに住む家族の数よりも多いのだ。地蔵路地はLの字に抜けられる八十軒長屋である。なか七軒はさんで凵の字に通ずる五十軒長屋は榎路地である。入口と出口が六つもある長屋もある。狸裏たのきといい、一軒の平屋に四つの家族が同居しているのだ。
 銭湯日の丸湯と理髪店朝日軒の間のせまくるしい路地を突き当ったところの空地を凵の字に囲んで、七軒長屋があり、河童がたろ路地という。その空地は羅宇しかえ屋の屋台の置場であり、夜店だしの荷車も置かれ、なお、病人もいないのに置かれている人力車は、長屋人の佐渡島他吉の商売道具である。もちろんここは物干し場にもなる。けれど、風が西向けば、もう干せない。日の丸湯の煙突は年中つまっていて、たちまち洗濯物が黒くなってしまうのだ。
 羅宇しかえ屋の女房は名古屋生れの大声で、ある時、亭主を叱った声が表通まで聞え、通り掛った巡査があやしんで路地の中まで覗きに来たというくらい故、煙突の苦情は日の丸湯の番台へ筒ぬけだが、しかし、改まって煙突の掃除のことで、日の丸湯へ掛け合った者はひとりもない。日の丸湯の主人というのは、先代より引続いて、河童がたろ路地の家主であり、横車ごりがんも通した。河童路地はただ裏ともいい、家賃は只同然にやすかったが、それさえ誰もきちんと払えた例しはなかったのだ。
 つまりは、貧乏長屋であった。だから、たとえば蝙蝠傘の修繕屋のひとり息子は、小学校にいる頃から、新聞配達に雇われ、黄昏の町をちょこちょこ走った。
 明るいうちに配ってしまわぬと、帰りの寺町がひっそりと暗くて怖い。十歳の足で、高津神社の裏門の石段を、ある日、あわてて降り、黒焼屋の前まで来ると、
「次郎ぼん、次郎ぼん。」
 うしろから呼びとめられた。振り向くと、血止めの紙きれをじじむさく鼻の穴に詰め込んだ他吉が、空の俥をひきながらにこにこ笑っていた。
「他あやん、また喧嘩したんやなァ。」
 二軒並んだ黒焼屋の店先へ、器用に夕刊を投げこみながら、そう言うと、
「さいな。あんまり現糞げんくそのわるい事言やがったさかい……。」
 しかし、――他吉という男はど阿呆や、われが七年もいて一銭の金もよう溜めんといて、娘の婿を懲りもせんとマニラへ行かす阿呆があるかと言われて、随分腹が立ったからとは、さすがに子供相手に語りも出来ず、
「お初にわんといてや。」
「さあ。どないしよ?」
「子供だてら生意気な言い方しイないな。――どや、しかしもう、犬に吠えられたかて、怖いことあれへんか。」
「もう馴れた。」
「そか、そらええ。次郎ぼん、なんぼでもせえだい働きや。人間はお前苦労せな嘘やぜ。おっさんら見てみイ。ベンゲットで……。」
「他あやんもっとほかの話してんか。ペンケトの話ばっかしや。しめさんの話の方がぽどおもろいぜ。」
 〆さんとは河童路地にいる落語家はなしかの〆団治のことだ。
「そら、向うは商売人や。――どや、豆糞まめくそほど(少しの意)俥に乗せたろか。」
「なんじゃらと巧いこと言いよって……。心配せんかて良え。他あやん喧嘩したこと黙ってたるわいな。」
 そして、早く配ってしまわねば叱られるさかいと、駈けだして行くのを、他吉は随いて行って、
「ほな、おっさんに夕刊一枚おくれんか。」
「やったかて、読めるのんかいな。」
「殺生な。ほんまはな、夕刊でな、鼻の穴の紙を……。」
 詰めかえながら、河童路地へ戻って来ると、めずらしく郵便がはいっていた。
 切手を見て、マニラの婿から来た手紙だとはすぐ判ったが、勿論読めなかった。
「〆さん、〆さん。留守か、居るのんか。」
 隣の〆団治に声をかけた。すると羅宇しかえ屋の家の中から、声が来て、
「〆さんは寄席だっせ。」
「さよか。――ところで、おばはん、けったいな事訊きまっけど、おまはん字ィはどないだ?」
え薬でもくれるのんか。なんし、わての痔ィは物言うても痛む奴ちゃさかい。」
「あれくらい大きな声出したら、なるほど痛みもするわいな。」
 と、理髪店朝日軒で客がききつけて、大笑いだった。朝日軒の主人の敬吉は講義録など読み、枢密院の話などを客にして、かねがね学があると煙たがられていた。他吉ははいって行き手紙を見せると、敬吉はちらと眼を通して、
「他あやん、えらいどんなこっちゃけど、こらわいには読めんわ。」
 と、びっくりした顔だった。
「えらいまた敬さんに似合わんこっちゃな。どれ、どれ、わいにかして見イ、読んだる。」
 客は椅子の上に仰向けになったまま、他吉の手からその手紙を受け取ったが、すぐ、
「わいにも読めんわ。えらい鈍なことで……。」
 と、減法背の高い高下駄をはいた見習い小僧にそれを渡して、「お前読んでみたりイ。」
「へえ。」
 そして、読みだした小僧の声は、筑前琵琶の音に消されたが、肝腎のところは他吉の胸に熱く落ちて来た。マニラへ行っていた婿が風土病の赤痢に罹って死んだと、部屋を貸している人からの報らせだ。瓦斯灯がはいって、あたりはにわかに青い光に沈んだ。理髪店の大鏡に情けない顔を蒼弱くうつして、しょんぼり表へ出ると、夜がするする落ちて来た。
 それから半時間も経ったろうか、他吉はどこで拾ったのか、客を乗せて夜の町を走っていた。通天閣のライオンハミガキの広告塔が青く、赤く、黄色く点滅するのがにじんで見えた。客は他吉の異様な気配をあやしんで、
「おやっさん、どないしてん? 泣いてるのんと違うか。」
「泣いてまんねん。」
「えッ。こらまたえらい罪な俥に乗ってしもたもんや。これから落語ききに行こちゅうのに……。一体どないした言うねん?」
「娘の婿めがマニラでころっと逝きよりましてな。」
「マニラ? なんとまた遠いとこで……。」
「マラソンの選手だしたが……。」
「なんとなア、可哀相に。そいでなにかいな、娘はんちゅうのは子たちが……?」
「まあ、おまっしゃろ。」
 すすりあげながら言うと、
「まあ、おまっしゃろや、あれへんぜ。男の子オか。」
「それがあんた、未だ生れてみんことにゃ……。」
 新世界の寄席の前で客を降ろすと、他吉はそのまま引きかえさず、隣の寄席で働いている娘の初枝を呼び出した。初枝は二十三歳、妊娠していると、一眼でわかった。
 他吉はあわてて眼をそらし、物を言わず歩きだすと、初枝は前掛けをくるりと腹の上へ捲きつけて、随いて来た。
 活動小屋の絵看板がごちゃごちゃと並んだ明るい通を抜けると、道はいきなりずり落ちたような暗さで、天王寺公園であった。
 樹の香が暗がりに光って、瓦斯灯の蒼白いあかりが芝生を濡らしていた。美術館の建物が小高い丘の上にくろぐろと聳え、それが異郷の風景めいて、他吉は婿の新太郎を想った。
 白いランニングシャツを着た男が、グランドのほの暗い電灯の光を浴びて、自転車の稽古をしている。それが木の葉の隙間から影絵のように蠢いて見えた。動物園から聴き馴れぬ鳴声がきこえて来た。丁稚らしい男がハーモニカを吹いている。「流れ流れてェ、落ち行く先はァ、北はシベリヤ、南はジャバよ……」というその曲が、もう五十近い他吉の耳にも、そこはかとなく物悲しく、賑かな場所で泣かすまいと、わざとそんな場所をえらんで連れて来て、手紙を見せる、その前から、もう他吉は涙が出て来た。
 ベンチに並んで、手紙を見せると、初枝は立ち上って瓦斯灯のあかりに照らして読んだ。途端に初枝は気が遠くなり、ふと気がついた時、もう他吉の俥の上で、にわかに下腹がさしこんで来た。
 産気づいたのだと、他吉にもわかり、初枝を寝かすなり、すぐ飛んで行って、産婆を自身乗せて来たので、月足らずだったが、子供は助かり、その代り初枝はとられた。
 二人の死亡届と出産届が重なったわけだと、朝日軒の敬吉は法律知識を振りまわして、ひとり喧しかったが、しかし、はたの者は皆ひっそりして、羅宇しかえ屋の女房でさえ、これを見ては、声をつつしんだ。
 長屋の寄り合いには無くてかなわぬ落語家はなしかの〆団治も、今夜は普通ただの晩やあらへんさかいと、滑稽ちょか口を封じられて、渋い顔をしていたが、けれど、さすがに黙って居るのは辛いと見えて、腑抜けている他吉の傍へ寄り、
「他あやん、そんな暖簾にもたれて麩噛んだみたいな顔せんと、もっと元気出しなはれ。おまはんまで寝こんでしもたら、どんならんぜェ。」
 そんな口を敲くと、他吉は、
「何ぬかす、あんぽんたん。わいが寝こんでしもて、孫がどうなるもんか。ベンゲットの他あやんは、敲き殺しても死なへんぞ。」
 と、〆団治の顔じゅう睨みまわしたが、けれど、直ぐしんみりして、
「言や言うもんの、〆さんよ、婿の奴と初枝はわいが殺したようなもんやなア。」
 だから、もう自分の命は孫の君枝に呉れてやるのだと、他吉は、界隈の金持で子供がないという笠原から、生れた子を養子にと請われたのも断り、君枝を里子に出した足で、一日三十里梶棒握って走った。里子の養育料は足もとを見られた月に三十円の大金だ。なお、婿が大阪に残して行った借金もまだ済んでいない。他吉の俥はどこの誰よりも速く、客がおどろいて、
「あ、おっさん、そないに走ってくれたら、眼ェがまう。もうちょっとそろそろ行って貰えんやろか。」
 と、頼んでも、いや、わたいはひとの二倍、三倍稼がねばならぬからだ故、ゆっくり走っては居れぬのだと、きかなんだ。
 朋輩との客の奪い合いにも勿論浅ましいくらい厚かましく出て、「ベンゲットの他あやん」の凄みを見せ、その癖生駒にがん掛けて酒を断ち、なお朋輩に二十銭、三十銭の小銭を貸すと、必ず利子を取った。次郎ぼんに貰った夕刊を一銭五厘で客に売りつけることもあり、五厘のことで吠えた。
 ある夏、角力の巡業があり、横綱はじめ力士一同人力車で挨拶まわりをしたが、横綱ひとり大き過ぎて合乗用の俥にも乗れず、といって俥なしの挨拶まわりも淋しいと考えた挙句、横綱の腰に太い紐をまわし、その紐を人力車二台でひいて、よいしょよいしょとひき廻して練り歩き、大阪じゅうを驚かせた。新聞に写真入りで犬も吠えたが、この俥をひいたのが他吉で、さすがに横綱だけあって祝儀の張り込み方がちがう、どやこれで蛸梅たこうめ正弁丹吾しょうべんたんごで一杯やろかと、相棒が誘ったのを他吉は行かず、
「それより、此間こないだ貸した銭返してくれ。利子は十八銭や。――なにッ? 十八銭が高い?」
 そんな時、他吉の眼はいつになくぎろりと光り、マニラ帰りらしい薄汚れた白い背広の上着も、脱がぬだけに一そう凄みがあった。
 ところが、それから半月ばかり経ったある夜のことだ。御霊の文楽座へ大夫を送って帰り途、平野町の夜店で孫の玩具を買うて、横堀伝いに、たぶん筋違橋すじかいばしか横堀川の上に斜めにかかった橋のたもとまで来ると、
「他吉!」
 と、いきなり呼ばれ、五六人の俥夫に取り囲まれた。咄嗟に「ベンゲットの他あやん」にかえって身構えたところを、ようもひとの縄張りを荒しやがったと、拳骨が来て、眼の前が血色に燃えた。
「何をッ!」
 と、振りあげた手に、振っていた玩具が自身の眼にはいらなかったら、他吉はその時足が折れるまで暴れまわったところだが、今ここで怪我をしては孫が……。他吉は気を失っただけで済んだ。やがて、ベンゲットの丸竹の寝台の上に寝ている夢で眼を覚すと、そこはもとの橋の上で、泡盛でも飲み過ぎたのかと、揺り起されていた。
 そうして五年が経ち、間もなく小学校ゆえ君枝を河童路地へ連れて戻ると、君枝は痩せて顔色がわるく、青洟で筒っぽうの袖をこちこちにして、陰気な娘だった。ふた親のないことがもう子供心にこたえるらしく、それ故の精のなさかと、見れば不憫で、鮭を焼いて食べさせたところ、
「これ何ちゅうお菜なら?」と里訛で訊くのだった。
「鮭いうととや。」
ととて何なら?」
 それでは、里では魚も食べさせて貰えなかったのかと、他吉はほろりとして、
「取るものだけはきちきち取りくさって、そんな目に会わしてやがったのか。」
 と、そこらあたり睨みまわす眼にも普段の光が無かった。
 やがて、入学式に連れて行くと、君枝は名前を呼ばれても返辞せず、他吉はかわって答えてやり、よその子は皆しっかりしているのに、この子はこの儘育ってどうなるかと、おろおろした。さすがにその日は他吉が附き添い故、誰にも虐められずに済んだが、翌日からもう君枝は泣いて帰った。けれど、他吉は俥をひいて出ていて居ず、留守中ひとりでも食べられるようにと、朝出しなに他吉が据えて置いた膳のふきんを取って、がらんとした家の中で一人しょんぼり食べ、水道端へ水をのみに行って、水道の口に舌をあてながらひょいと見ると、路地の表通で、中の中の小坊さん、なんぜ背が低い、親の逮夜にとと食うて、そんでエ背が低い。そして、ぐるぐる廻ってひょいとかがみ、うしろに居るのは誰。女の子が遊んでいた。君枝は寄って行き、
「わて他あやんとこの君ちゃんや。寄せてんか。」
 と、頼んで仲間に入れて貰ったが、子供たちの名に馴染みがなくて、うしろにいるのは誰とはよう当てず、
「あんた、しん気くさいお子オやなア。」
 もう遊んでくれなかった。
 そんな君枝が不憫だと、〆団治は落語を聴かせてやるのだった。ところが、君枝は笑わず、
「わいの落語おもろないのか。」
 と〆団治はがっかりして、「ええか。この落語はなしはな、無筆の片棒いうてな、わいや他あやんみたいな学のないもんが、広告のチラシもろて、誰も読めんもんやさかい、往生して、次へ次へ廻すいうおもろい話やぜ。さあ、笑いんかいな。」
「わてのお父ちゃんやお母ちゃん何処に居たはるねん。」
「こらもう、人情噺の方へ廻さして貰うわ。」
 日が暮れて、〆団治が寄席へ行ってしまうと、君枝はとぼとぼ源聖寺坂を降りて、他吉の客待ち場へ、しょんぼり現れ、家で待ってんかいなと他吉がなだめても、腋の下へ手を入れたまま、他吉をにらみつけ、いつまでも動かなかった。
「そんなとこい手ェ入れるもんやあれへん!」
 すると、手を出して、爪を噛むのだ。他吉はがっかりして子供のお前に言っても判るまいがと、はじめて小言をいい、
「お前はよそさんの子供ちごて、ふたおやがないのやさかい、余計……。」
 行儀よくし、ききわけの良い子にならねばならぬ、あとひとり客を乗せたら、すぐ帰る故、「先に帰って待って……」いようとは、しかし、君枝はせなんだ。他吉は半分泣いて、
「そんなら、お祖父やんのうしろへ随いて来るか。しんどてもかめへんか。」
 そして、客を拾って、他吉が走りだすと、君枝はよちよち随いて来た。他吉は振りかえり、しばしば提灯の火を見るのだと立ち停って、君枝の足を待ってやるのだった。客が同情して、この隅へ乗せてやれと言うのを、他吉は断り、いや、こうして随いて来さす方があのの身のためだ、子供の時苦労をさせて置けば、あとで役に立つこともあろうという理窟が、――けれど他吉は巧く言えなんだ。よしんば言えたにしても、半分は不憫さからこうしているのだ、いや、マニラで死んだこのの父親がいまこの娘と一しょに走っているのだという気持が、通じたかどうか、――客を送ったあとの俥へ君枝を乗せて帰る途、他吉はこんな意味のことを、くどくど君枝に語って聴かせたが、ふと振り向くと、君枝は俥の上で鼾を立てていた。
「船に積んだら、どこまで行きゃァる。木津や難波の橋の下ア……。」
 他吉は子守歌をうたい、そして、狭い路地をすれすれにひいてはいると、水道場に鈍い裸電灯がともっていて、水滴の音がぽとりぽとり、それがにわかに夜更めいて、間もなく夜店だしが帰って来る時分だろうか、ひとり者の〆団治がこそこそ夜食を食べているのが、障子にうつっていた。
 ところが、それから一年経ったある日。〆団治が君枝と次郎を千日前へ遊びに連れて行き、ふと電気写真館の陳列窓を覗いて、
「君ちゃん。見てみイ。お前のお父つぁんとおんの写真が出てるぜ。」
 と大声だした。君枝の父親が町内のマラソン競争に優勝した時の記念写真が、三枚五十銭の見本の札をつけて、陳列してあったのだ。出張撮影らしく、決勝点になっている寺の境内で、優勝旗を持って立っているのを、境内いっぱいにひきまわした幕のうしろから、君枝の母親が背伸びして覗いている顔が、偶然レンズにはいっている。未だ結婚前の写真らしく、そんなことから二人の仲がねんごろめいたのか、君枝の母親は桃割れを結って、口から下は写っていなかった。
「お母ちゃん居たはれへんわ。」
「居てる、居てる。これや、ここをよう見てみイ、ほら、この幕のうしろに、ちょびっと顔が……。」
「ああ、居たはる、居たはる。お父ちゃんもお母ちゃんもいる。」
 そして、きんきんした声で、「わて、もう親なし子やあれへんなア。」
 その日から、君枝はだんだん明るい子になり、間もなく行われた運動会の尋二女子の徒歩競争では、眼をむき、顎をあげて、ぱっと駈けだし、わてのお父ちゃんはマラソンの選手やった、曲り角の弾みでみるみる抜いて、一着になった。他吉は父兄席で見ていて、顔じゅう皺だらけの機嫌だった。けれど、ふと、
「あのはいつも人力車のうしろに随いて走ってるさかい、一等になるのん当りまえのこっちゃ。」
 という囁きが耳にはいると、他吉はもう遠い想いに胸があつく、鉛筆の賞品を貰ってにこにこしている君枝をくしゃくしゃに揉んで、骨の音がするくらい抱きしめてやりたいくらいの愛しさにしびれた。
 ところが、なんということか、君枝は間もなくきびしい他吉のいいつけで、日の丸湯の下足番に雇われた。学校から帰って宿題を済ませたあと、三助が湯殿を洗う時分まで、下足をとって、夕飯つきの月に一円三十銭。
 そんな金にも困る他吉の暮しだろうかと、ひとびとの口は非難めいたが、けれど、他吉は夜おそく身をこごめて日の丸湯の暖簾をくぐる時、自身で草履をしまい、君枝が渡す下足札は押しいただいて受け取って、君枝の顔をまともによう見ず、君枝はひとびとが言うほど自分が祖父から辛く扱われているとは、思えなんだ。
 下足番が辛いという気持は存外起らず、夜客の立てこむ時など、下足を間違えまいとして、泡を食うのもかえって張合いがあるように思い、おいでやすという声もはきはき出た。が、ただひとつ、昼間客のすくない時の退屈は、なんとも覚えのない悲しさで「走りごくで一等とったさかい、お祖父やんも安心してお前を働きに出せる。人間はらくしよ思たらあかん」という祖父の言葉も全部わすれた。そして、ガラス戸越しに表の人通りを見るともなく見て、呑気な欠伸をはきだしていると、いつかしくしく泣きながら居眠りし、そんな時いつも起してくれるのは、ガラス戸の隙間にシュッと投げ込まれる夕刊の音だった。
「次郎ぼん!」
 外は寒かったが、表へ出て見ると、風が走り、次郎の姿はもう町角から消えていて、犬の鳴声が夕闇のなかにきこえた。どこからか季節はずれの大正琴の音だ。

 十年が経った。
 君枝は二十歳、女の器量は子供の時には判らぬものだといわれるくらいの器量よしになっていた。
 マニラへ行く前から黒かったという他吉の孫娘と思えぬほど色も白く、あれで手に霜焼、〔あかぎれ〕さえ無ければ申し分ないのだがといわれ、なお愛嬌もよく、下足番をして貰うよりは、番台に坐ってほしいと、日の丸湯の亭主が言いだしたので、他吉はなにか狼狽して、折角だがと君枝に暇をとらせた。
 そうして、寺田町の電話機消毒商会へ雇われてみると、日の丸湯でもらっていた給料がどんなに尠かったかが、はじめて判った。あれほど銭勘定やかましかった他吉が、ついぞそのことに気がつかなかったのは、まるで嘘のようであったが、君枝もまた余程うかつで、ただ他吉のいいなりに、只同然の給料で十年黙黙と下足番をして来たのだ。つまりは、ベンゲットの工事は日給の一ペソ二十五セントだけを考えていては到底やりとげる事は出来なかったという他吉の口癖が、いつか君枝の皮膚にしみついていたのだろうか。ベンゲットで苦しんだ、どんな辛さにもへこたれなかったという想いだけが、他吉の胸にぶら下るただひとつの勲章で、だから、せえだい働けば良いのだ、人間は働くために生れて来たのだという日頃の他吉の言葉は、理窟ではなかっただけに、一そう君枝の腑に落ちていたのだった。
 ところが、電話機消毒商会では、見習期間の給料が手弁当の二十五円で、二月経つと三十円であった。なお、年二回の昇給のほかに賞与もあり、契約勧誘の成績によっては、特別手当も出るという。尋常を出ただけにしては、随分良い待遇だと君枝はびっくりしたが、その代り下足番の時とちがって、仕事は楽ではなかった。
 朝八時にいったん事務所へ顔を出して、その日の訪問表と消毒液をうけとる。それから電話機の掃除に廻るのだが、集金のほかに、電話のありそうな家をにらんではいって、月一円五十銭で、三回の掃除と消毒液の補充をすることになっている、なんでもないもののようだが、電話機ほど不潔になりやすいものはないと呑み込ませて、契約もとらねばならず、気苦労が大変だった。年頃ゆえの恥しさは勿論だ。
 おまけに、大阪の端から端まで、下駄というものはこんなにちびるものかと呆れるくらい、一日じゅうせかせかと歩きまわるので、からだがくたくたに疲れるのだ。
「ああ、辛度しんどオ」
 思わず溜息が出て、日傘をついて、ふと片影の道に佇む。しかし、そんな時、君枝をはげますのは、偶然町で出会う他吉の姿であった。
 他吉は相変らずの俥夫だった。一時は円タクに圧されてしまって、流しの俥夫も商売にならず、町医者に雇われたが、変な上着を脱ごうとしないのがけしからぬと、間もなく暇を出されて、百貨店の雑役夫をしたこともある。ところが、今日この頃は、ガソリンの統制で、人力車を利用する客もふえて来たのを倖い、再び俥をひいて出ていたのだ。もう腰の曲る歳で、坂道など登るのは辛かろうと止めても、
「阿呆いえ。坂道とありゃこそ、俥に乗ってくれる人もあんのや。」
 と、きかず、よちよち「人間はからだを責めて働かな嘘や」という想いを走らせている他吉の気持は、君枝にはうなずけたが、しかし、その姿を見れば、やはりちくちく胸が痛み、「うちに甲斐性がないさかい、お祖父ちゃんも働かんならんのや」と、この想いの方が強く来て、君枝はもう金のことにも無関心で居れず、慾が出た。けれど、
「あんたの器量なら、何もこんなことをせんでも、ほかにもっと金のとれる仕事がおまっしゃろ。」
 という誘いには、さすがに君枝は乗る気はせず、やはり消毒液の勧誘の成績をあげて特別手当をいくらかでも余計貰うよりほかはないと、白粉つけぬ顔に汗を流して、あと一里の道に日が暮れても、歩くのだった。近所の人がもちかける結婚の話など耳も傾けなかった。自分が嫁入ってしまえば、祖父はどうなるかと、眼を三角にした。
 ところが、一年ばかり経つと、商会がつぶれてしまった。君枝は致し方なく、新聞の三行広告を見て、タクシーの案内嬢に雇われた。難波駅の駐車場へ出張して、雨の日も傘さして、ここでも一日立ちづくめの仕事だった。
 間もなく、誰が考えついたのか、同一方面の客を割勘定で一ツ車に詰め込めば、客も順番をまつ時間がすくなく、賃金も安くつくという、いかにも大阪らしく実用的な合乗制が出来たので、君枝はその方の案内に、混雑時など、
「△△方面へお越しの方はございませんか。」とひっきりなしに叫び、声も疲れた。
 馴れぬ客はまごつき、運転手も余り歓迎せぬ制度ゆえ、案内係は余程の親切・丁寧・機敏が要る。しかし、君枝はそんなにまで勤めなくてもと監督が言うくらい、熱心で、愛嬌もあり、親切週間に市内版の新聞記者が写真をとりに来て、たちまち難波駅の人気者になった。小柄の一徳か、動作も敏捷で、声も必要以上にきんきんと高く、だから客たちは冗談を言いかける隙がなかった。
 君枝は自分でも、駅の構内から吐きだされて来る客を、一列に並ばせて、つぎつぎと捌いて行く気持は、何ともいえず快いと思った。けれど、千のつく数の客を捌き終って、交替時間が来て、日が暮れ、扉を閉めた途端にすっとすべりだして行く最後の車の爆音をききながら、ほっと息ついて靴下止めを緊めなおしていると、ふと、「お祖父やんは人力車ァで、孫は自動車の案内とは、こらまたえらい凝ったもんやなア」と口軽にいった〆団治の言葉が想いだされて、機械で走る自動車と違って、人力車はからだ全体でひかねばならぬと、祖父の苦労を想ってにわかに心が曇った。
 そんな君枝の心は、しかし他吉は与り知らず、七月九日の生国魂いくたま神社の夏祭には、お渡御わたりの人足に雇われて行くのである。重い鎧を着ると、三十銭上りの二円五十銭の日当だ。
「もうえ加減に、鎧みたいなもん着るのん止めときなはれ。うち拝むさかい、あんな暑くるしいもん着んといて。」
 君枝が半泣きで止めても、他吉は、
「阿呆らしい。去年着られたもんが、今年着られんことがあるかい。暑いいうたかて、大阪の夏はお前マニラの冬や。」
 と、その方に廻るのだ。
 丁度その日は公休日で、よりによってこんな日にぶらぶらしていることが、君枝はなにか済まぬ気がして、お渡御など見る気がせず、家を出た足でせかせかと下寺町の坂を降りると、自然千日前の電気写真館の方へ向いた。
 もとあった変装写真や歌舞伎役者の写真がすっかり姿を消して、出征の記念写真が目立って多くなっているなかに、どうした奇蹟か、二十年前のマラソン競争の記念写真が、三枚一円八十銭の見本だと、値だけ高くなって陳列されているのを、なつかしそうにまるで陳列ガラスを舐めんばかりにして、〔みつめ〕ていると、
「お君ちゃん、――と違いますか。」
 と、声をかけられた。振り向いて、暫らく瞶てから、
「あ。次郎ぼん。」
 十三年前東京へ奉公に行き、それから二年のちにたったひとりの肉親の父親が蝙蝠傘の骨を修繕している最中に卒中をおこして死んだ報らせで、河童路地へ帰って来た時、会うた切り、もう三十いくつかになっている筈だとすばやく勘定した拍子に、君枝はそんな歳の彼を次郎ぼんという称び方したことに想い当り、はっと赧くなっていると、次郎は、
「やっぱりお君ちゃんやった。いや、なに、此の写真を見たはるんでね、そうじゃないかと思ったんや。」
 と、大阪弁と東京弁をごっちゃに使って言い、そして、そんなになつかしい写真なら、なにもわざわざ見に来なくとも、譲って貰って自分のものにすればよいじゃないかと、写真館の主人に掛け合ってくれた。
 そんな次郎の親切が君枝は思いがけず嬉しくて、子供の頃親なし子だと虐められた時、かばって呉れたのは次郎ぼんひとりだったと、想いだしながら、やがて並んで歩いた。日覆のある千日前通を抜けて、電車通を御堂筋へ折れると、西日がきつかった。
 他吉の話が出た。いまだに俥をひいていると聴いて、次郎はちょっと驚いた顔だったが、すぐ微笑んで、
「それじゃ、何ですか、今でもやっぱり、人間は働かな嘘やと、言うてられるんですな。」
 と、君枝をかばう口調になり、「そう言えば、僕だって、他あやんのあの口癖は時どき想いだしましたよ。いや、げんに今だって……」からだ一つが資本の潜水夫もぐりが仕事で、二十三歳から此の道にはいり、この八年間にたいていの日本の海は潜って来、昨日から鶴富組の仕事で、大阪の安治川尻へ来ているのだと、次郎は語った。
「いや、こんどのはたいした仕事じゃないのだが、大阪が恋しくて、つい……。」
 文楽でも見ようということになり、佐野屋橋の文楽座の前まで来ると、夏の間は文楽は巡業に出ていて、古い映画を上映していた。
「なるほど、わざわざ大阪で見なくても、東京に居れば、見られた勘定やな。」
 次郎はちょっとがっかりしたが、ふと想い出して、「そや、あんたの喜ぶもん見せたげよ。」
 と、君枝を四ツ橋の電気科学館へ連れて行った。
 そこには日本に二つしかないカアル・ツァイスのプラネタリウム(天象儀)があり、この機械によると、北極から南極まで世界のあらゆる土地のあらゆる時間の空ばかりでなく、過去、現在、未来の空までを眺めることが出来るのだ、実は昨日偶然来てみて驚いたという次郎の説明をききながら、君枝はあとに随いて六階「星の劇場」へはいった。
 円形の場内の真中に歯医者の機械を大きくしたようなプラネタリウムが据えられ、それを囲んで椅子が並んでいる。腰を掛けると、椅子の背がバネ仕掛けでうしろへそるようになっていた。まるで散髪屋の椅子みたいやと君枝が言うと、次郎は天井を仰ぎやすいようにしてあるのだと言った。
「――今月のプラネタリウムの話題は、星の旅世界一周でございます。」
 こんな意味の女声のアナウンスが終ると、美しい音楽がはじまり、場内はだんだんに黄昏の色に染って、西の空に一番星、二番星がぽつりと浮かび、やがて降るような星空が天井に映しだされた。もうあたりは傍に並んで腰かけている次郎の顔の形も見えぬくらい深い闇に沈み、夜の時間が暗がりを流れ、団体見学者の群のなかから、鼾の音がきこえた。
 しずかにプラネタリウムの機械の動く音がすると、星空が移り、もう大阪の空をはなれて、星の旅がはじまり、やがて南十字星が美しい光芒にきらめいて、現れた。流星がそれを横切る。雨のように流れるのだ。幻灯のようであった。説明者は南十字星へ矢印の光を向けて、
「――さて、皆さん、ここに南十字星が現れて、いよいよ南方の空、今は丁度マニラの真夜中です。しんと寝しずまったマニラの町を山を野を、あの美しい南十字星がしずかに見おろしているのです。」
「あ。」
 君枝は声をあげて、それでは祖父はあの星を見ながら働き、父はあの星を見ながら死んだのかと、頬にも涙が流れて、そんな自分の心を知ってプラネタリウムを見せてくれた次郎の気持が、暗がりの中でしびれるほど熱く来た。
 次郎と別れて、河童路地へ戻って来ると、祭の夜らしく、〆団治や相場師や羅宇しかえ屋の婆さん達が、床几を家の前の空地へ持ちだして、洋服の仕立職人が大和の在所から送ってくれたという西瓜を食べていた。
「今日はもうなんや、落語も漫才に圧されてしもて、わたいらはさっぱり駄目ですわ。一日に一つ小屋をもたしてくれたら、良えとせんならんぐらいやさかいな。」
 半袖を来た〆団治が言うと、相変らず落ちぶれている相場師が、団扇でそこらばたばた敲きながら、
「〆さん、おまはん一ぺんぐらい、寄席の切符くれても良えぜ。――なあ、おん、そやろ?」
「そうだすとも。大体〆さんは宣伝たら言うもんが下手くそや。みんなに切符くばって、あんたが出る時、パチパチ手ェ敲いて貰うようにせなあかん。そういう心掛けやさかい、あんたはいつまでも前座してんならんねやぜ。――なあ、君ちゃん、そやろ?」
 羅字しかえ屋の婆さんはもう歳で声が低かった。それに、丁度その時君枝は水道端の漆喰の上にぺたりと跣足になって、しきりに足を洗っていたところ故、水の音が邪魔になって、羅字しかえ屋の婆さんの声が聴きとれなかった。水道端の裸電灯の鈍いあかりが君枝の足を白く照らしていた。
 羅字しかえ屋の婆さんは、君枝が返辞せぬので、
「君ちゃん、あんたいつまで足あろてなはんネ。水は只やあらへんぜ。冷えたらどないすんねん。」
「そない言うたかて、ええ気持やもん。」
 と、君枝は両足をすり合わせながら、「明日はまた一日立ちづくめやさかい、マッサージして置かんと……。」
 しゃがみながら、ふと空を見ると、星空だった。君枝はきんきんと、
「〆さん、あんたアンドロメダ星座いうのん知ったはる?」
「なんや? アンロロ……? 舌噛ましイな。根っから聴いたことないな。」
「ほな、南十字星は……!」
「えらいまた、おまはんは学者やねんなア。」
「そら、もう……。」
 と、君枝は足を拭きながら、ぺろッと舌を出し、明日の夕方は、中之島公園で次郎に会うのだ。次郎は写真に凝っていて、今夜じゅうにあのマラソン競争の記念写真を引伸して持って来てやると約束したと、いそいそと下駄をはいているところへ、お渡御が済んだらしく、他吉がとぼとぼ帰ってきた。君枝はいきなり胸が痛く、埃まみれの他吉の足を洗ってやるのだった。
 他吉は余程疲れていたのか、〆団治が「南十字星てどの方角に出てる星やねん?」と呟いたのへ、
「あんぽんたん! 南十字星が内地で見えてたまるかい。言うちゃなんやけど、あの星を見た者は、広い大阪にこのわいのほかには沢山たんと居れへんねやぞ。」
 と、言ったあと、べつにベンゲットの話もせず、そのまま家の中にはいり、這うようにしてあがった畳の上へごろりと転ると、もう鼾だった。
 それ程疲れていても、しかし他吉は翌朝のラジオ体操も休まなかった。そして、いつものように俥をひいて出て、偶然通りかかった淀屋橋の上から、誰やら若い男とボートに乗っている君枝の姿を見つけた。
 客を乗せているのでなければ、そのまま川へ飛び込んでボートに獅噛みついてやりたい気持を我慢して、他吉は客を送った足で直ぐ河童路地へ戻り、やっぱり親のない娘は駄目だったかと、頭をかかえて腑抜けていると、一時間ばかり経って、君枝はそわそわと帰って来た。他吉は顔を見るなり、怒鳴りつけ、
「阿呆! いま何時や思てる? 若い女だてら夜遊びしくさって、わいはお前をそんな不仕鱈〔ふしだら〕な娘に育ててない筈や。じゃらじゃらと若い男と公園でボートに乗りくさって……。」
「お祖父ちゃん見てたの?」
 と、君枝は平気な顔で、「それやったら、声掛けてくれはったら良えのに。次郎さんかて喜びはったのに……。水臭いわ。」
 ボートに乗っていた相手は次郎で、この写真を引伸して呉れたのだと見せると、他吉の眼は瞬間〔ほそま〕ったが、すぐ眼をむいて、
「ボートがひっくり返ったら、どないするねん?」
「次郎さん潜水夫もぐりやさかい、ひっくり返ったら……。」
「いちいち年寄りの言うことに逆うもんやあれへん。次郎ぼんであろうが、太郎ぼんであろうが、若い娘が男とべらべら遊ぶもんと違う。こんどめから会うたらあきまへんぜ。ええか。わかったか。」
 君枝は首垂れて、蚊の音を聴いていたが、ふと顔をあげると、耳の附根まで赧くなり、
「次郎さんな、うちと夫婦になりたい言やはんねん。」
 次郎なら祖父の面倒も見てくれる、三人で住めば良いのだと、もじもじ言うと、
「阿呆!」
 蚊帳の中から他吉の声が来た。
 それから五日経った夜、他吉はなに思ったか、いきなり、
「お前ももう年頃や。悪い虫のつかんうちに、お祖父やんのこれと見込んだ男と結婚しなはれ。気に入るかどないか知らんけど、結婚いうもんは本人が決めるもんと違う。野合どれあいにならんように、ちゃんと親同士で話をして、順序踏んでするもんや。明日の朝が見合いいうことに話つけて来たさかい、今晩ははよ寝ときなはれ。」
 と、言い、無理矢理君枝を説き伏せた。
 翌日はまるでわざとのように雨であった。
「なんでまた、こんな日に見合せんならんねん。」
 と、君枝はしょんぼりして、この五日間祖父の云附いいつけを守って次郎に会わなかったことがにわかに後悔されたが、他吉は、
「見合いの場所は地下鉄のなかやさかい、濡れんでも良え。」
 と、上機嫌で、高下駄をはき、歩きにくそうであった。
 ところが難波駅の地下へ降りて行くと、さきに来て地下鉄の改札口で待っていたのは、思いがけぬ次郎で、傍には鶴富組の主人が親代りの意味で附き添っていた。君枝はぼうっとして、次郎が今日の見合いの相手だとは、暫らく信じられなかった。
 改札口での挨拶が済むと一しょに階段を降りて行き、次郎と鶴富組の主人は梅田行きの地下鉄に、君枝と他吉は反対の天王寺行きの地下鉄にそれぞれ乗り、簡単に見合いが終った。
「そんならそれと、はじめから言って呉れたら良えのに……」
 何も一杯くわさずともと、君枝はちょっとふくれたが、しかし、あとで、大笑いの酒という茶番めいたものもなく、若い次郎はともかく、他吉も鶴富組の主人も存外律義者めいた渋い表情であった。
 とりわけ他吉は精一杯にふるまい、もう君枝が鶴富組の主人に気に入らねばどうしようという心配も、はらはら顔に出ていた。他吉にしてみれば、君枝を何ひとつ難のない娘に育てたという気持は、ひょっとすれば大それた己惚れであるかも知れず、それに比べて、次郎は三日前鶴富組の主人が他吉に語ったところによると、人間はまず年相応には出来ているし、潜りの腕もちょっと真似手がなく、おまけに眼もおそろしく利いて、次郎が潜ってこれならばとがんをつけた引揚事業で、これまで失敗したのは一つもなかったということだ。君枝に過ぎた婿だと、ひとつにはそこを見込んで、他吉はさそくに話を纏めたのだった。
 そうして次郎と君枝は結婚して市岡の新開地で新世帯をはじめたが、案の定次郎は婚礼の翌々日から、もう水の中に潜るというくらいの働き者だった。他吉はわいの見込みに狂いはなかったと喜び、隠居してこの家に住めという次郎の薦めを断って、「阿呆ぬかせ。なんの因果で河童路地を夜逃げせんならん?」と、相変らず河童路地に居据って、雨の日も梶棒ははなさなかった。
 半年経つと、安治川での仕事が一段落ついたので、鶴富組の主人は新しく△△沖の沈没船引揚事業に眼をつけた。そして、新婚早々大阪を離れるのはいやだろうがと、次郎に現場への出張をたのむと、君枝との結婚の際親代りになって貰った手前もあって、当然よろこんで行くべきところを、次郎は渋った。
「あそこはたしか三十三〔ひろ〕はありましたね。今までなら、身寄りの者はなし、喜んで潜ったんですが、どうも女房を貰うと三十三尋ときくと、ちょっと……。」
「そりゃ、なるほど危険なことは危険だが、それだけにまた、これまでどの解体業者もこいつには手を出せなかったんだが、しかし、君、説教するようだけど、もう今じゃ、引揚事業って奴はただの金儲けじゃないんだから。女房も可愛いだろうが、そこをひとつ……。」
「女房だけじゃ良いんですが、祖父さんのことを考えると、うっかり……。そりゃ、祖父さんは僕が死んでも立派にやって行ってくれるでしょうけど、しかし、祖父さんはこれまでに一度婿を死なしていますから……。」
 と、次郎はこれを半分自分への口実にしていた。実は次郎は近頃潜水夫の仕事が、怖いというより、むしろ嫌になって来ていたのだった。人間はからだを責めて働かな嘘やという他吉の訓えを忘れたわけではないが、いまだに隠居しようとせず、よちよち俥をひいて走っている他吉を見ると、それもなにか意固地な病癖みたいに思えて、自分はやはりなにか外の呑気な商売をと考えていたのだった。
 他吉はこの話をききつけると、血相かえて飛んで来て、
潜水夫もぐりが嫌になったとは、何ちゅう情ない奴ちゃ。鶴富組の御主人も言うたはったが、今に日本がアメリカやイギリスとってみイ。敵の沈没船を引揚げるのに、お前らのからだはなんぼあっても足らへんねやぞ。三十尋たらの海が怖うてどないする? ベンゲットでわいが毎日どんな危い目に会うてたか、いっぺんよう考えてみイ。お前のお父つぁん生きてたら、蝙蝠傘で頭はり飛ばされるとこやぜ。」
 と、呶鳴りつけ、「わいらの事は心配するな。そういう心配したらどんならんと思えばこそ、わいはお前らの厄介にならんと、……」
 今なお俥をひいているこのわいを見ろと、他吉はくどくど言ったが、次郎は父親似の頑固者だった。
 口で言うても分らぬ奴だと、しかし、他吉はさすがに孫娘の婿に手を掛けるようなことはせず、その代り君枝を河童路地へ連れ戻した。君枝は存外悲しい顔もせず、この半年の間に他吉がためていた汚れ物を洗濯したり、羅宇しかえ屋の婆さんに手伝ってもらって蒲団の綿を打ちなおしたりした。ひとり者の〆団治の家の掃除もしてやり、そんな時君枝は鼻歌をうたい、水道端では、
「うち出戻りやねん。」
 と、自分から言いだして、けろりとした顔をしていたので、ひとびとは驚いたが、しかし、そうして路地へ戻して置けば、次郎はもうあとの心配もなく、かつ奮発してまた潜りだすだろうという他吉の単純な考えを、君枝もまた持たぬわけではなかったのだ。もちろん、次郎が潜り出せば、他吉の気も折れて、もと通り一しょに暮せるとの呑気な気持であった。
 ところが、次郎はそんな思惑に反して、一向に潜りだす気配は見せず、職を探してぶらぶら歩き、時には君枝に去られたことで気を腐らして、飲み歩いた。そうして、ある夜、余程うっかりしていたのか、トラックにはね飛ばされ、命は助かったが、退院までには三月は掛るだろうという大怪我だった。
「あんぽんたん奴! ああいう根性やさかい、ぼやぼやして怪我もするねや。」
 と、他吉は報らせを聴いて言ったが、しかしもう怒った顔も見せられず、毎日病院を見舞った。
 君枝はもちろん三等病室で寝泊りし、眠れぬ夜は六日も続いたが、二十日ばかり経つといくらか手がはなせるようになった。その代り、病院の払いに追われだした。貯金帳はすっかりおろし、保険会社からも借りた。売るものも売ったが、それでも足らず、頼りにする鶴富組の主人は△△沖の方へ出張していた。次郎をひいたトラックの運転手はよりによって夫の死後女手ひとつで子供を養っている四十女で、そうときけば見舞金も受け取れず、
貴女おうちが悪いのんとちがいま。うちの人がなんし水の中ばっかしで暮してはって、陸の上を歩くのが下手糞だしたさかい。」
 と、笑って突きかえした。
 恐縮して帰って行くその女運転手の後姿を見ながら、君枝はふと、自分も看病の合間に運送屋の手伝いをしてみようかと思った。河童路地の近くに便利屋というちっぽけな運送配達屋がある。引越し道具のほか、家具屋、表具屋、仏壇屋などから持ちこまれる品物の配達をしているのだが、近頃は手不足で折角の注文を断ることが多いときいていたので、君枝は早速掛け合ってみた。
「へえ? あんたみたいな別嬪さんが……?」
 と、便利屋の主人は驚いたが、配達の手伝いなら、時間に縛られることもないし、足には自信があると、案外本気らしかったので、
「そんなら自転車に乗ってくれまっか。」
 手当はもとよりたいしたことは無く、背を焼かれるような病院の払いには焼石に水だったが、けれど全くはいらぬよりはましだと、君枝は早速自転車の稽古をはじめた。
 ところが、ハンドルを持ったとたんに、もう君枝は尻餅をついて、便利屋の前はたちまち人だかりがした。君枝は鼻の上に汗をためて、しきりに下唇を突きだして跨り、跨り、漸くのことで動きだすと、
退いとくれやっしゃ。衝突しまっせ。あぶのおまっせ。」
 と、金切声で叫び、そして転んで、あはははと笑っていた。亭主が怪我で入院しているというのに、この明るさはどこから来ているのかと、便利屋の主人はあきれた。
 翌日から君枝は、病院へ便利屋の電話が掛ると、いそいそと出掛け、リヤカーをつけて配達に廻った。ある日、仏壇を積んで、南河内の萩原天神まで行った。堺の三国を過ぎると、二里の登り道で、朝九時に大阪を出たのに、昼の一時を過ぎても、まだ中百舌鳥村であった。木蔭で弁当をひらいていると、雨がぱらぱらと来て、急に土砂降りになった。合羽を仏壇にかぶせ、自身は濡れ鼠になりながらペタルを踏み、やっと目的地に着いて、仏壇を届けて帰る道もなお降っていたが、それでもへこたれようとしなかったのは、子供の頃からさまざまな苦労に堪えて来た故であろうか。大阪に帰ると、日が暮れた。男なら一服吸うてというところを、その足で直ぐ病院へ戻り、夜、次郎の寝台の傍で産衣を縫うた。七ヶ月さきに生れるとの産婆の言であった。
 次郎は見て眼が熱くなり、
「ああ、魔がさしてた。潜水夫やめよう思たんは、あれは気の迷いや。怪我した足が泣いとる。元のからだになったら、はよ潜れ言うて、泣いとる。」
 と、言い、そしてしみじみと、「苦労させるなア。」
 と手を合わさんばかりにした。君枝は、
「阿呆らしい。水臭いこと言いなはんな。」
 と、いつもの口調でいい、そしてこくりこくり居眠りをした。
 他吉はそんな風に君枝が働きだしたのを見て、貧乏人の子はやっぱり違うと喜び、
「せエだい働きや。」
 と、言い言いし、さもありなんという顔でなにやらうなずいていた。ところが、それから半月ばかり経ったある日、ふと君枝がおしめを縫うているのを見て、にわかにほろりとした。
 そして、腹巻の中から郵便局の通帳を出して来て、言うのには、
「今までこれを何べん出そ、出そ思たか判らへんけど、いや待て、今出してしもたら、二人の気がゆるんだらいかん、死金になってしまう――こない思て君枝の苦労を見て見ぬ振りして来たんやが、ほんまにわいはど阿呆やった。君枝が子オ産むいうのん、さっぱり知らんかったんや。そうと知ったら、君枝を自転車に乗せるんやなかった。――ここに八百円あるねん。この金はここぞという時の用意に、いや、君枝の将来を見届けた暁に、死んだ婿の墓へ詣りがてら一ぺんマニラへ行って来たろ思て、その旅費に残して置いたんやが、今が出し時や。この金で病院の払いをして、残った分を君枝のお産と次郎ぼんの養生の費用いりようにしてくれ。」
「いや、そんなことして貰たら、困る。それはお祖父やんの葬式金に残しといて。」
 と、次郎が手を振ると、他吉は、
「げん糞の悪いことを言うな。」
 と、眼をむいたが、けれど、すぐしんみりして、「この金の中には、君枝が下足番をして貰た金もはいっているんや。遠慮しイな。」
 他吉はついぞ見せたことの無い涙を、洟といっしょにこすった。
 次郎はやがて退院した。そして、君枝のお産が済む頃には、すっかり元のからだになっていた。生れた子は男の子で、勉吉と名をつけると、
「なんや、ベンゲットのベン吉か。」
 と、他吉は上機嫌だった。
 鶴富組の△△沖沈没船引揚げ作業はまだ了っていなかった。次郎が現場へ電報うつと、スグコイマツテイルとの返事だったので、喜んで行こうとすると、君枝は、
うちも一しょに行くわ。ポンプ押しに。」
 と、言った。普通、潜水夫が潜っている間、上から空気を送るのは、たいてい肉親の者だった。次郎は若い君枝にはこれまでそれを言い出せなかったのだ。
「ほな、行ってくれるか。」
 次郎が大袈裟に君枝の手を握ると、君枝は照れて、
「なんやこう、あんたに離れるのがいやで言うたみたいやけど、うちいままで毎日お祖父ちゃんの俥のタイヤに空気入れてたさかい、ポンプ押すのん上手やし。」
 と、言った。
 鶴富組の主人は腕利きの潜水夫が無くて困っていたところだった。次郎は、
「人間はたまに怪我もして見んならんもんですよ。」
 と、笑って、三十三尋の深海へ潜った。空気を送っているのが赤ん坊を背負った君枝だと思えば、次郎はもうどんな危険もいとわぬ気がして、そして、マニラで死んだという君枝の父親の気持が、ふっと波のように潜水服に当って来るようだった。こうして潜っている間にも、祖父さんはよちよち俥を走らせているのだと、静脈の痛痛しく盛り上った手足が泛び、次郎は、自分ももし、マニラへ行けといわれたら、もう断り切れぬだろうと思った。
 沈没船の引揚げ作業が済んで、大阪へ帰って来ると、間もなくその年も慌しく押し詰り、大東亜戦争がはじまった。
 そして、皇軍が比律賓のリンガエン湾附近に上陸したと、新聞は読めなかったが、ラジオのニュースは他吉の耳にもはいった。
「ああ、今まで生きてた甲斐があったわい。孫も立派にやってる。想い残すことはない。わいの死骸は婿といっしょの墓にはいるねや。」
 と、他吉は大声で叫びながら、府庁へ駈けつけ、実は自分は「ベンゲットの他あやん」という者で、ベンゲット道路の道案内をする者は自分以外にはない。リンガエン湾附近に上陸した皇軍は恐らくベンゲット道路を通ってマニラへ向うと思うが、自分はあのジグザグ道のどこに凸凹があり、どこの曲り角が向うの崖から丸見えかを知っているのだ、どうぞ比律賓へやらしてくれと、頼みこんだ。
 けれど、係員は来年は七十歳だという歳をきいては、手続きも出来ず、相手にしなかった。すると、他吉はいきなり凄んで、
「お前らでは話が判らん。話の判るのを出せ。」
 と「ベンゲットの他あやん」の姿勢になったが、途端にくらくらと目まいがして、ああ、こないしてる間にもベンゲット道路の上をタンクが通る、婿の新太郎の墓が、船に積んだら、どこまで行きゃァる、歯抜きの辰に二円かえしといてくれ、マニラはわいの町や、一つには、光り輝く日本国、マニラ国へとおもむいた、――他吉はあっと声も立てずに卒倒した。
 医者はもう助からぬと言ったが、次郎と君枝の輸血が効いたのか、他吉はじりじりと生き延びた。そんなねばり強さはどこから来たのだろうか。
 執拗にって二月目のある日、〆団治が見舞いに来た。ところが、ついぞ着ぬ洋服を着たのは良いとして、〆団治はまだまだ冬だというのに、異様な半ズボンでぶるぶる震えていた。
「〆さん、頭のゼンマイ狂たんと違うか。」
 君枝はさすがに看病疲れもなく、こんな訊き方をすると、〆団治は、
「さにあらず。実はやな、わいも△△興業の落語の慰問隊たらに加わって、南方へ行くことになってん。南は暑いときいたさかい、今からこの服装なりや。」
 と、言い、「わいの落語も南なら受けるやろ。」
「お前みたいな老いぼれのあんぽんたんでも、南方へ行けるのんか。」
 他吉はきいて口惜しがり、「どうせマニラへ行くんやろ。」
「一足さきに、えらい済まんなア。」
「何がさきや。わいは飛行機で行くさかい、お前より早よ着くわい。」
 と、他吉は皺がれた声で言い、「それはそうと、マニラへたらな、歯抜きの辰いう歯医者を探して、昔わいが借りた二円かえしといてんか。この歯を抜いてもろた時の借金や。」
 他吉は口をあけて、奥歯を見せたが、なにか息切れして、苦しそうであった。二十何年か前、婿の新太郎がマニラから寄越した手紙で、歯抜きの辰はとっくに死んでいると承知している筈だのに、今はこの耄碌の仕方かと、〆団治もほろりとした。
 三日のち、四ツ橋電気科学館の星の劇場でプラネタリウムの「南の空」の実演が済み、場内がぱっと明るくなって、ひとびとが退場してしまったあと、未だ隅の席にぐんなりした姿勢で残っている薄汚れた白い上衣の男があった。
 よくある例で、星空を見ながら夜と勘違いして居眠っているのかと、係員が寄って行って、揺り動かしたが、動かず、死んでいた。「四ツ橋のプラネタリウムへ行けば、南十字星が見られる」という〆団治の話を聴いて、いつの間に君枝や次郎の眼をぬすんで寝床を這いだして来ていたのか、それは他吉だった。
 上衣のポケットに新太郎が寄越した色あせた手紙がはいっていたので、身元はすぐ判った。
 死骸はもとの寝床に戻った。壁の額に入れられたマラソン競争の記念写真の中から、半分顔を出して、初枝がそれを覗いていた。
 羅宇しかえ屋の婆さんがくやみに来て、他吉の胸の上で御詠歌のりんを鳴らし、
「他あやん、良えとこイ行きなはれや。」
 と、言うと、君枝は寝床の裾につけていた顔をあげて、
「おばちゃん、お祖父ちゃんは、もうちゃんと良えとこイ行ったはる。南十字星見ながら、行きたい行きたい言うたはったマニラへ到頭行かはったんや。〆さんより早よマニラへ着きはった……。」
 と言った。りんの音が揺れた。
 次郎はふと君枝の横顔を見て、ああ、他あやんに似ているとどきんとした咄嗟に、今度は自分たちがマニラへ行く順番だという想いが、だしぬけに胸を流れた。他あやんはついぞこれまで、言葉に出しては、アメリカの船を引揚げにマニラへ行けとは言わなかったけれど、そんな風に死んだのを見れば、もう理窟なしにそうしろと命じられたのも同じだ、いや、君枝を娶った時からもうこのことは決っていたのだという想いが、何か生理的に来て、次郎は額の写真を暫らく見上げていた。

附記  この作品は、溝口健二氏演出映画の原作として書いたものを、短篇小説として書き改めたものであります。

底本:「俗臭 織田作之助[初出]作品集」インパクト出版会
   2011(平成23)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝 第十巻年十一号」改造社
   1942(昭和17)年11月
初出:「文藝 第十巻年十一号」改造社
   1942(昭和17)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:小林繁雄
2013年5月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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