秀夫はその町の銀行に勤めていた。彼は周囲の朋友のように華かな世界がなかった。その晩も下宿で淋しい木屑を噛むような夕飯をすますと、机の上の雑誌を執って覗いていたが、なんだかじっとしていられないので、活動でも見て帰りに蕎麦でも喫おうと思って、そこの活動写真館へ来たが、写真は新派の車に乗っている令嬢を悪漢が来て掠奪すると云うような面白くないものであった。彼は物たりないのでふらふらと出て来たものの、他に往くところもないので橋の欄干へ凭れるともなしに凭れたところであった。
秀夫はふと己と机を並べている朋友がそこの活動写真で関係したと云う女のことを考えだした。それは己の下宿のすじむこうの雑貨店の二階から裁縫学校へ通っている小柄な色の白い女であった。朋友は活動を見ている女とどう云うようにして近づきになったのであろうと考えながらその眼を左のほうへやった。そこは活動写真館の前の河縁でその町の名物の一つになっている牡蠣船の明るい燈があり、二つになった艫の右側の室の障子が一枚開いて、壮いな婢の一人がこちらのほうへ横顔を見せて銚子を持っていたが、客はこっちを背にして障子のかげに体を置いているので、盃を持った右の手さきが見えているのみで姿は見えなかった。牡蠣船の前にはまた小さな使者屋橋と云う橋が薄らと見えていた。
岸の柳がビロードのような嫩葉を吐いたばかりの枝を一つ牡蠣船のほうに垂れていたが、その萌黄色の嫩葉に船の燈が映って情趣を添えていた。秀夫はその柳の枝をちらと見た後でまた眼を牡蠣船のほうへやった。壮いな婢が心もち赧らんだ顔をこっちに向けてにっと笑った。それは客と話をして笑ったものであろうが、己の眼とその目がぴったりあったように思って秀夫はきまりがわるいので、ちょと牛肉屋の二階のほうへ眼をやった。と、彼は五六日前に朋友の一人が牡蠣船に往って、そこの婢から筑前琵琶を聞かされたと云ったことを思いだして、俺もこれから往ってみようかと思った。しかし、彼は一人で料理屋へ往ったことがないので、眼に見えない幕があってそれが胸さきに垂れさがっているようで、おっくうですぐ往こうと云う気にはなれなかった。
秀夫はその牡蠣船では牡蠣料理以外に西洋料理も出来ると聞いていたので、西洋料理の一皿か二皿かを執ってビールを飲んでも好いと思った。西洋料理を喫ってビールを飲むことなら朋友と数回やっているので彼にも自信があった。それでポチを五十銭も置けば良いだろうと思った。彼は欄干を離れて下の方へ歩きかけた。牡蠣船のある方の岸は車の立場になっていて柳の下へは車を並べ、その傍には小さな車夫の溜を設けてあった。車夫小屋と並んで活動写真の客を当て込んで椎の実などを売っている露店などもあった。秀夫はその前を通って使者屋橋の袂にその入口を向けた牡蠣船の前へ往ったが、小さな階段によって船の中へおりて往くその入口を正面にすると、足が硬ばったようになって入れなかった。
秀夫は後戻りをして牡蠣船の前からまた新京橋のほうへ往って最初の場所に立って見た。な婢は琵琶を持っていた。そして、澄んだ鈴のような声で歌っているらしかったが、声が小さいので聞えなかった。それでは朋友の琵琶を聞かされたと云うのはあの女であったかと彼は思った。
そのうちに女はまたこっちを見た。紅い唇がありありと見えるようにおもわれた。今晩はしかたがないから明日の晩は夕飯を喫わずに往って見ようと思って彼は懐の勘定をした。懐には十円近い小遣があった。西洋料理を一皿二皿喫ってビールを一本飲むくらいなら三四円もあればよいだろう、と、彼は朋友と西洋料理に往った時の割前を考えだしていた。
翌日秀夫は銀行へ往って課長の眼の無い隙を見て、牡蠣船へ往ったと云う朋友にそれとなく牡蠣船の勘定などを聞いていたが、その夕方下宿へ帰って来ると、湯に入って夕飯は喫わずに日の暮れるのを待って出かけた。そして、新京橋の上へ来てみると牡蠣船は艫の左側の室の障子が開いて客らしい男の頭が二つばかり見えていた。
秀夫は今晩こそ往くと云う彼にとっては一つの決心をしているので、昨夜のように胸さきに垂れさがっている幕のような物の圧迫もなかった。彼はその足で牡蠣船の階段をおりて狭い電話室のくっついている入口へ往った。
「お客さんだよ」
左側の料理場らしい処から男の声がすると小柄な婢が出て来たが、あがる拍子にみると、左の眼がちょと潤んだようになっていた。秀夫は婢に跟いて狭い廊下をちょと往くと、行詰の左側に引立てになった襖の半開きになった室があった。婢は秀夫をその中へ案内した。秀夫は中へ入ってからその室がむこうから右側に見える昨夜の室だと云うことをすぐ悟った。
そこには足の低い食卓が置いてあった。秀夫は昨夜客のいた処はここであったなと思いながら艫を背にしてすわった。そのうちに女は引かえして往って火鉢を持って来た。
「なにあがります、牡蠣あがりまっか」
来る時に男の頭の見えていた隣の室では男と女の笑う声がしていた。秀夫はあのな婢は隣にでもいるだろうかと思いながら、
「西洋料理は出来ませんか」
彼はまごまごしていて田舎者と笑われないようにと、西洋料理へ往ったときに朋友の云った詞をそのまま用いて料理を二皿とビールを註文すると、婢が出て往ったので、昨夜な婢の坐っていたと思われる処を見て、ここの婢もやはり受持ちがあって、その客の帰らないうちは他の座敷へは往かないだろうか、旨くあの婢が来てくれると良いがなどと思っていると、跫音がして婢が入って来た。それは顔のしゃくんだ円髷の女で昨夜見た婢の一人であった。それはビールとコップを乗せた盆を持っていた。
秀夫はその婢にビールの酌をしてもらいながら、琵琶を弾いていたな婢のことを聞こうと思ったが、それは極まりがわるくて聞けなかった。
「すぐお料理が出来ますさかい、……あんた、これから、ちょいちょいお出やす、なお朋友伴れなはってな」
どこの国の詞とも判らない、この町のこうした婢の用いる詞を使いながら、初心な客をてれささないようにと話しをしむけた。秀夫はそれがために気がのびのびして来たので、
「昨夜、ここで琵琶を弾いていた、な姉さんがありましたね」
と、云うと婢はにやりとしたが、すぐ考えなおしたように云った。
「今、来ていやはりましたやろ、あの人だす、上手でおますやろ」
「そうですか、あの姐さんですか」
秀夫は合点が往かなかった。今の婢もそう顔だちの悪い女ではなかったが、あんな沢のない乾からびたような女ではなかった。
「お待ちどおさま」
はじめの婢が二皿の料理を持って来た。
「この方が、あんたが琵琶を弾いてなはったところを、見なはりやしたと云いはるよ」
円髷の婢はにっと笑った。
「まだ好い女と云うてくれなはって」
「そうだす、な姐さん云いなはりやったわ、おごりなさい」
秀夫もしかたなしに笑ってその女の潤みのある眼をちらと見て、どうもおかしい、すこし間を置いて見るとあんなにちがって見えるものかと思ったが、それにしても輪廓の好いみずみずした顔に見えたのは不思議だと思った。
秀夫は欺かれたような気がして興味もなくなったので、料理を喫ってしまって帰って来たが、どうしても不思議でたまらなかった。で、翌晩、飯の済んだ後で、また琵琶を弾いていたな女のことを思いだして、新京橋の上へ往った。
牡蠣船は艫の右の障子が開いてな婢が何時かの処に坐って琵琶を弾いていた。秀夫は欄干に添うて立ってじっとそのほうへ眼をやった。と、な女はこっちを見て紅い唇を見せてにっと笑った。彼はそのまま牡蠣船へ往った。
円髷の婢と小女が彼の来るのを待っていたように出て来た。秀夫はその円髷の後から跟いて往くと、艫のむこうからは左になった室へとおされた。彼は琵琶の音はしないかと思って耳を立てたが琵琶は聞えなかった。彼は婢に西洋料理とビールを註文して、婢が出て往くと起って往って境の襖の間を軋まして、その隙から覗いてみた。そこには乾からびた眼に潤みのある婢が銚子を持っていた。
「何を覗いていやはります」
「琵琶が鳴っているように思ったから」
秀夫はそう云い云い食卓の前へ坐った。
「な姐さんを覗いていやはりましたか、さっきまで弾いていやはりましたが、やめました」
「今、むこうから見ると弾いていたようですが」
「それはさっきだすやろ」
「おかしいな」
秀夫は時間の距たりが不思議であったが、それは婢の思いちがいであろうと思った。そしてな女がいなければ別に飲み喫いはしたくないので一時間ばかりで出て来たが、な女のことが気になるので新京橋の上へ往くとまた揮り返って見た。艫の右の室にはな女が姿を見せていたが琵琶は持っていなかった。彼は釘づけにされたように立ってその女の方を見つめた。
秀夫はふとまだ他にちがった婢がいて、己等のようなふりの客の処へは出ずに、金を多く使う客の処へ出ているかも判らないと思いだした。で、も一度月給を貰った時に往ってみようと思った。そう思いながら彼は淋しそうに歩きだして新京橋を上へと渡った。
その翌日は夕方から暴風雨になって一頻り荒れたが十時過ぎになってぱったり止んだ。秀夫は寝床の中へ入っていたが、天気が静まるとぶらりと戸外へ出て、往くともなしに新京橋の方へ往った。一度絶えていた人通りがまたはじまって、ぼつぼつ人が往来していた。
秀夫は橋の上へ往くと牡蠣船の方を見た。牡蠣船は障子を締め切って壮い酔どれの大きな声がしていた。
「今晩は」
壮い女の声が傍でした。秀夫は何人か他の人に云っているだろうと思ったが、それでも顔を向けた。と、牡蠣船のな女が立っていた。それはたしかに見覚のある蝋細工のようなな顔をした女であった。
秀夫は黙ったままでその顔を見つめた。と女はにっと笑った。
「琵琶を弾く姐さんを、今晩はもう見に来てくれませんでしたね」
秀夫はきまりがわるかった。
「私は帰る処ですが、おかまいなければ、これから私の家へ遊びに往きませんか、何人も他におりません、独身者ですから」
「かまいませんか」
「かまいませんとも、往きましょう」
な女の家へ往って、その女と一晩中歓楽に浸っていた秀夫は、不思議な人の声に眼を覚した。己は濡れた枯蘆の中の小さな祠の傍へ寝ていたが、枯蘆のさきには一艘の小舟が着いていて、白髪の老人が水棹を張ってにゅっと立っていた。
「おい、おい、壮佼、起きろ、起きろ」
秀夫はびっくりして起きた。
「ここはどこですか」
「弁天島だよ、弁天島のな後家神に、いたぶられたろう、ぐずぐずしよると生命がないぜ」
底本:「日本怪談大全 第一巻 女怪の館」国書刊行会
1995(平成7)年7月10日初版第1刷発行
底本の親本:「日本怪談全集 第二巻」改造社
1934(昭和9)年
入力:川山隆
校正:門田裕志
2012年3月8日作成
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